二十四、憶えていますよ、浮瀬くん



「す、すみません」


「え……、え、何でですか」


「あ、助けるのが遅くなってしまったので」


「そんな……ありがとうございます」


彼が帽子のつばを持ち自分の顔を隠している姿は、先程まで聞こえていた声の主だとは思えなかった。私より少し年上なのだろうか。


けれど慌てる様に、安心した私の瞳から涙が零れ落ちた。彼はまた大きく目を見開いて慌て始める。そして懐からハンカチを取り出して私に差し出した。真っ白な生地に小さな花が刺繍されたハンカチだった。


「使ってください!」


「でも……」


「いいです、いいです、安物なので!」


彼はハンカチの端を掴み私の前に差し出すが押し付けはしなかった。おずおずと手を伸ばしハンカチを受け取ると彼の手は一瞬で引っ込められた。


ハンカチを握り締め流れる涙を拭うが、止まる事無くポロポロと落ち、袴に染みを作っていった。彼の慌てた声が聞こえる。それでも私の涙が止まる事はなかった。


「あー、あの、怖かった、ですよね」


「はい……」


「でももう行ったので。大丈夫です、もう関わらないようにって言ったので」


「本当……ですか……」


「はい!だから本当に大丈夫です。あ、腕とか怪我してないですか?」


握られていた私の左腕を見つめる彼に鼻を啜りながら着物を少しだけ捲る。特に痕も残っていなかった。


「良かったです……いや、良くないのか」


「怖かったんです……」


「ですよね、うん、当たり前ですよ」


「異性に腕を掴まれた事、なくて……」


「ご家族とかは……?」


「乱暴な事をする人はいなかったので」


震える身体を抱きしめてもう一度鼻を啜る。いかに自分が狭い箱の中で大事に生きてきたのか思い知らされた。まるで鉢の中にいる金魚のようだ。


満足な食事、暮らしを与えられ外の世界など何も知らない。恐ろしい事から守られ続けてきた。外の世界にあんなにも恐ろしい人がいるなんて、ずっと知らないままだった。


泣く私に彼は慌てふためいていたが、少し黙った後、あの、と声をかけてきた。


「触れてもいいですか」


「え……」


「あ、違います違います!決して乱暴しようとかそういう意味じゃなくて!」


彼は両手を大きく振って否定をしていた。


「ただ、震えているので……」


肩が大きく跳ねた。それを見た彼がまた、謝罪の言葉を口にする。私は謝らないで、そう伝えるが、説得力は無さそうだった。


もう一度彼を見る。善意で言っているのが何となく分かった。まだ少し怖いけれど、小さく頷いた。彼はゆっくり、私の肩に触れた。


まるで壊れ物を扱うような手つきだった。その手はゆっくり私の背中を上下に撫でる。大きな手のひらから伝わる熱が心地よく、少しずつ私の心が安心していくのが分かった。


「子供の頃、怖い夢を見た僕に母が眠るまで背中を撫でてくれたんです」


彼は優しい笑みを浮かべながら私の背を撫でる。止まらなかった涙が、いつの間にか引っ込み始めた。


「怖い時には誰かと寄り添いなさい。誰かが怖がっていたら、隣でその背を撫でてあげなさい。母の教えです」


今まで触れられたどんな人よりも優しく触れてきた彼に、私の震えが止まった。まるで魔法のようだった。大丈夫です。何度も繰り返される言葉が、恐怖に包まれていた心を優しく解いていく。


不思議な人だった。


「あの……もう大丈夫です」


どのくらいそうしていただろうか。安心からいつの間にか、恥ずかしさに変わって来た私の心は頬に熱を集めていく。小さく呟いた言葉に気づいた彼が慌てて私の背から手を離した。


背中が、これまでの人生の中で一番冷たくなった気がした。


「す、すみません!」


「いえ、私の方こそお見苦しい所をすみません」


彼はまた顔を赤くして首を横に振る。その姿が何だかおかしくて。私の口から笑みが零れた。彼は笑う私をぼーっと眺めていた。視線にいたたまれなくなった私が声をかけると、跳ね上がってすみませんと言う。


「謝らないでください」


「いえ、本当にすみません」


「ああ……」


すみません。真っ赤な顔を隠しながら謝罪の言葉を繰り返す彼に、私はどうしたものかとハンカチを握り締めた。少し考えた後、息を吐いて彼に向かい合う。瞳がまた合った。


「ありがとうございます」


「あ……」


「何を言っているのかも分からず、怖くて逃げだしたのです。貴方が助けてくださらなければ、私は今頃どうなっていたのか分かりません」


「そんな……僕は別に話しただけで……」


「それに、とても怖かったのですが貴方のおかげで震えが止まりました。だから、」


ありがとうございます。感謝を込めて微笑んだ。彼は私を見ていた。否、固まっていた。あの、声をかけても動かない。目の前で手を振っても反応なしだ。私は何か失礼をしただろうか。


不安になり始めたその時、後ろからにゃあと鳴き声が聞こえた。


「にゃあ?」


振り返った先にいたのは黒い猫だった。黒い猫は不吉の象徴だと言われているが、私はそうは思えなかった。毛並みは整っており、瞳は菜の花のように鮮やかだ。


猫は石段を降りこちらに近づいてくる。そして、私たちの間に止まり足で耳を掻き始めた。


「可愛い」


屋敷の庭先で時折猫を見かけるが、こんなにも近くで見る事はなかった。もしかすると触れるかもしれない。手を伸ばし猫の前に差し出す。猫は指先の匂いを嗅いだのち、私の手のひらに頭を摺り寄せた。


ふわふわの感触が手のひらから伝わり思わず顔がにやける。頭から背まで撫でてやると猫はもう一度やれ、そう言ってそうな顔でこちらを見た。


「猫です!」


感動のあまり彼に話しかけた。固まっていた彼は、ようやく動き始めた。私を見て言葉にならない唸りを何度か繰り返した後、猫に手を伸ばす。すると猫は私の手から離れていった。


「ここに住んでるんですこの子」


「よく会われるんですか?」


「はい。自宅がこの付近で」


猫は嬉しそうに彼に撫でられている。揺れ動く尻尾が石段を叩いていた。猫を撫でる彼の横顔がとても優しくて、私の目は釘付けになった。


「あの……」


「はい」


彼の顔がこちらを向く。柔らかな笑みが崩れ頬が赤くなった。この人は赤面症なのだろうか、表情がコロコロ変わる面白い人だと思った。



素敵な人だと思った。



「お名前を、お聞きしてもよろしいでしょうか?」


「え」


「あ、気が進まなければよいのです!ただ、ハンカチを」


洗って返したくて。涙でよれたハンカチを彼に見せた。彼は、気にしなくていいのにと言ったが、それでは私の気が済まない。首を横に振れば彼は困ったように笑い、頬を掻いた。



「浮瀬、浮瀬八千代です」



「浮瀬さん……」


「ご迷惑でなければ、僕もお名前を教えていただきたいです」


猫を撫でていた手が止まった。私と向き合った浮瀬さんは、真剣な表情でこちらを見据えている。その瞳に見られるのが、何故だか嫌に感じなかった。



「久世、久世千代と申します」



それが、全ての始まりだった。



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