二十五、憶えていますよ、浮瀬くん
季節は冬へと移り変わった。街路に等間隔で植えられた銀杏はすでに枯れ落ち、足で踏み抜くと割れる。鼻先を冷たい風が掠めマフラーに顔を埋めた。ブレザーのポケットに両手を仕舞い寒さに耐える。それでもコート着ずタイツを履かないのは、女子高生の小さな意地である。
「寒いね」
呑気な声が右隣から聞こえ一度だけ首を縦に動かす。返事をするのもはばかれる寒さだった。ダークベージュのダッフルコートを着て前を開けている浮瀬くんは、コート着なよと言ってくる。私は一言、嫌だと返した。どこに張っているのか分からない、小さな意地。
「風邪引くくらいなら着た方がいいよ、あ、僕の着る?」
「着ない」
「ええーいいじゃん」
「嫌だ絶対大きいもん」
何が悲しくて彼の大きいコートを着なければならないのだ。私は足を速める。少しでも身体を動かせば熱が生まれ、寒さが和らぐと思ったからだ。浮瀬くんの長い脚は速度になんなく追い付く。
浮瀬くんが転校してきてから一ヶ月以上が経過した。隣を歩かれるのが当たり前になり、私たちの関係を知らぬものは校内で存在しないのではないかと言うほど、どこに行く時も一緒だった。
置いて行ってもその長い脚で追い付いてしまうし、立ち止まったら気づいて私を待つ。まるで忠犬のようになった浮瀬くんは、当初よりも私との関係性を大々的に自慢したりする事はなくなった。それも、あの夜のおかげである。
私はというと、彼がいる日常が当たり前になりつつある事に驚きを憶えながらもどこか安堵していた。それもそのはずだ。これまでどれだけの時間を一緒に歩いていたか分からない。今世だけ見れば彼との時間はまだ短い物であるけれど、累計時間は家族なんか目に見えないくらいの時を過ごしている。
つまり、浮瀬くんが隣に居る日常が、今までの人生で当たり前だったから、それがようやく戻って来たかという気持ちにさせられているのだ。これは何とも厄介である。何故なら私はまだ、彼の事が今でも好きなのか分からずにいる。浮瀬くんの気持ちは恋から愛へ、そして執着へと変わり果てたのは何となく分かってはいるものの、それに返す言葉を持ち合わせていないのが今の、小田千歳の見解だ。
そもそも恋とは一体何なのか。今日見た夢を思い出し首を傾げる。それに気づいた浮瀬くんは、どうしたの?と問うた。
「朝見た夢を思い出して」
「どんな夢?クリスマス一緒に過ごして晴れてカップルになる夢?」
「……夢じゃなくて記憶か」
彼の願望を華麗に無視するのも慣れたもので。浮瀬くんとしても、言って乗ってくれるならラッキーくらいの気持ちで発言しているので、私が返そうが無視を決めようがあまり気にしない。
「記憶?」
そうだ、あれは夢じゃない。私の記憶だ。今世では初めて見たかもしれない、始まりの日の思い出。あの神社で今とは違う、真面目な好青年の浮瀬八千代にあった日の事だ。
「初めて会った日の記憶を夢で見た」
「ああ、懐かしいね」
浮瀬くんがチェック柄のマフラーの口元を指で下げ、目を伏せながら口角を緩ませる。横目で見た彼の伏せられた睫毛が流動線を描いていて綺麗だと思ってしまった。
「どっかの誰かさんがまだ真面目で照れ屋で好青年だった頃の話」
「それを言ったらどっかの誰かも丁寧で穏やかで綺麗なお嬢様だった」
それもそうだろうとは返さなかった。思い出している彼の顔がとても優しかったから、出かけた言葉は喉奥に戻り霧散した。
「懐かしいな、あの時追い払った外国人元気にしてるかな」
「もう死んでるよ」
「じゃあ子孫がどっかにいるかな、どうする?まだ横浜にいたら」
「どうだろうね、戦争があったから自国に戻ったんじゃない?」
「確かに。まあ子孫がいるとは断定できないよね」
だって言葉が通じない若い女性に迫るようなクズだぜ?両手をひらひらさせ、終わってるよと言葉を続けた浮瀬くんに思わず苦笑する。確かに今考えれば私も同じ事を言うだろうが彼は随分口が悪くなったようだ。達者になったのは口だけではないだろうが。
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