二十六、憶えていますよ、浮瀬くん
「今世で初めて見た」
「そうなの?もっと思い出してくれていいよ?」
「……憶えてはいるけど、見たのは初めてだった」
足元を見ていなかったから枯葉を踏んだ。一切の水分を失った葉は靴の下でばらばらになった。
「忘れられない瞬間だ」
枯葉をまた踏みたくなくて視線を下げた時、いつもより少し低い浮瀬くんの声が聞こえ顔を上げる。視線が合うと彼はいつものへらへらした笑みを浮かべた。
「でしょ?」
得意げに変わった表情に、私は彼が一瞬まとっていた空気を忘れた。
「来週から冬休みだー!」
帰りのホームルームを待つ小休憩で、莉愛が嬉しそうに手を叩いた。
「って言っても二週間とかだけどね」
しかも最後にはテスト。果南の冷静な返事に莉愛は顔をしかめた。まさか忘れていたわけではあるまい。
「テストなんてやらなくていいよ」
「それ皆思ってる」
全くその通りだ。嫌だと駄々をこね始めた莉愛に、果南がどうしようもないのと母親みたいに叱っていた。どちらも到底同い年だとは思えなかった。
「でも来年受験だし」
「進路決めてねぇー」
誰かが言った言葉に対し真っ先に顔をしかめたのは自分だった。眉間に皺が寄ったのが見なくとも分かった。莉愛はもう決まってるもんと楽しげだった。
「早いね」
「ヘアメイクさんになりたいからね」
「そういえば莉愛の叔母さんもヘアメイクさんだったっけ」
「うん、憧れー」
美容に人一倍関心がある莉愛らしい選択だった。思えば彼女はずっとそればかり言っていた。先を見据えているのは良い事である。
「だから勉強はたいして必要ないのだ!」
「それは語弊がある」
果南のツッコミに首を縦に動かした。
「私はそんなにちゃんと決まってないからなあ」
「果南は何でも出来そうだからね」
「とりあえずいい大学に入るだね」
「リアルだ」
果南は基本何でも出来る人だから、何をしていてもああ、彼女ならやっていそうだと思わせた。
「千歳は?」
「私は……何だろう、とりあえず果南と同じかな」
「まあほとんどの人がそうだろうね」
この高校の大学進学率は三分の二以上を占めている。時折莉愛のように元々やりたい事があって専門的な道を目指す生徒もいるが、大体は大学生活を謳歌する。再来年の今頃には皆レポートや課題に追われているだろう。
「ああー、テスト嫌だなあー」
「嫌だなあ」
「テスト?千歳それなりに頭いいから別に大丈夫だよ」
「言葉に棘があるな」
帰り道、行きと変わらず浮瀬くんは隣にいた。来週にはクリスマスがやってきてすぐに冬休みに入る。横浜の街はまだ明るいというのに多くの建物や街路樹が煌々と輝いていた。
ここで流石だと思うのは色の統一感がある事だ。色とりどりに変わるわけではなく、黄色がかった白のイルミネーションで固めている所もあれば、青一色で統一されている場所だってある。また、時間経過によりグラデーションのように色を変えるイルミネーションもあった。
電気代、いくらかかるんだろう。何て浪漫の欠片もない脳は現実的な問題を考えてしまう。明るいうちから照らしても意味がないのではと思ったが、点いていないと電飾がぐるぐる巻きにされた黒い線が目立ち、何とも情けない姿になるので点いていた方が良いのかとも考える。何にせよ、この街で生きるという事は煌びやかに変わる季節を目の当たりにする事だ。それは、はるか昔から変わる事はない。
建物の下を歩くと天井には電飾が波のように垂れさがっている。白から青に変わりゆくさまは、横浜の海をイメージしているのかもしれない。実際海の色はどぶみたいなものだが。
「苦手な教科あるんだ」
「……英語」
「あはは」
笑い出した浮瀬くんを一瞥するも、彼が吐く声は止まる事を知らない。良い、言いたい事は分かっている。これでも沢山勉強してきたつもりだ。それでも努力の分成績が良いとは言えないし、精々頑張っても中の下くらいだ。
どうしたって苦手意識が抜けないと、問題用紙を見る度に過去なんて憶えていなければなんて苦い顔をする日々だった。
「変わらないねぇ」
腹を抱え笑う彼に、失礼という言葉は存在しないのかと思うも、言ったら笑われる事なんて百も承知だった。
「どうしたって苦手な物は苦手だよ」
「でも今はそれなりに出来るんでしょ?」
「私の出来るは中の下だし、浮瀬くんの出来るの足元にも及ばない」
隣にいる彼はあの時代船に乗り異国の地まで行って帰って来た後、通訳として働いていたような男である。つまり、彼の一番の得意科目は英語でありこれに関しては他に一歩も譲らない。
初めて会った日も流暢な英語を披露し、それから何度だって彼が英語を話している瞬間を目にした。彼に倣い必死に勉強しても、到底追いつく事は出来ず、英文の本は結局、いつの世も原文で読めなかった。
今世も変わらずに。
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