二十二、憶えていますよ、浮瀬くん


始まりは灰色の日々を鮮やかに染めた。


親に敷かれたレールの上を歩いてきた。それを当たり前だと信じて疑わなかったし、女というのはそういう生き物だと、時代が決めつけてきたからだ。


女学校帰り、迎えを断り一人で歩き始めた。後ろからお嬢様と慌てる使用人の声がするが構わず歩き始めた。これもいつもの事で、しばらくすると彼らも諦める。


というのも、自宅はここからそう遠くない場所にあるため、歩いて帰れる距離だからだ。私が散歩をしながら帰るのが好きなのを知っている彼らは、最初こそ止めるものの結局最後には自由にさせてくれる。


徒歩二十分。それが、私に与えられた唯一の自由時間だったからだ。


一八七九年。開港から二十年ほどの月日が経った。十五年前、私が産まれた時からこの街はどんどん姿を変えていく。新しい洋式の建物が建ち並び、子供の頃よりもずっと外国人が増えた。レストランという食事処も出来、週末は家族で食事するのもしばしばあった。


ナイフとフォークは、幸いにも子供の頃から扱ってきたから慣れたものだが、未だ慣れず苦戦している人々が多いのを知っている。


何一つ不自由のない暮らしだった。欲しい物は手に入り、教育も受けられて、何より大事にされている。多くの人々は私の場所を取って代わりたいくらいだろうが、果たして本当に自由は存在するのだろうかと思う。


私に与えられた一人で外出できる自由時間は、時折使用人が折れてくれるこの二十分だけだというのに。



季節は秋。金木犀の匂いが街を支配していた。街路の生垣に咲いた橙の小さな花が、馬車が通る度散っていく。甘い石鹸のような匂いが好きだ。大きな花一輪より、小さな花が集まって香る様が個人的には好きだ。


海の向こうから入って来た薔薇という花が先日自宅の廊下に飾られていた。血よりも赤い深い色が魅力なのだと使用人が教えてくれたが、私にはその色が美しいとは思えなかった。


自宅である屋敷に飾られる沢山の花たちは、どれも華やかで大きく、香りも強い。胡蝶蘭が廊下に隙間なく飾られた時は、さすがの私も引いたものだ。


白と紫の花が美しいのも分かっていた。着物の柄に使われるほど古来から愛されてきたという事も知っている。けれど何故だろうか。私には魅力的に感じなかったのだ。


着物より西洋風の服の方が好きだと言えば父は怒るだろう。久世家の女は着物を着るべきだと。でも私は裾がひらひらしたどれすという物を着てみたかった。


釦がついたしゃつという物も着てみたい。叶うならそれを着て誰かと出かけてみたい。妹や弟、家族ではなく。


まだ会った事のない誰かに。


そう思った時、足は不思議と家路から離れた。


これは久世千代が初めて行う反抗だ。反抗といっても大したものではない。ただいつもより遠回りして帰るだけ。行った事のない街の先へ足を踏み入れるだけ。それだけの小さな反抗はいつもなら起こさなかっただろう。


ただ今日は金木犀が綺麗だったから、この生垣が途切れる場所まで歩いてみたいと思った。街路に植えられているのなら、道をそれる事無く帰れるはずだから。


ちょっとだけ。これも今日は父が母と末の弟を連れて東京に行っていると知っているからだ。屋敷には使用人と妹しかいない。ならば少しばかりの自由は許されるだろう。


妹も私が寄り道したと聞いて告げ口するような子でもない。反対に、お姉様、楽しかったですか?今度私も連れて行ってくださいと言うだろう。


妹のために何か発見をして帰りたい。下駄を鳴らしながら街並みを横目に見る。呉服屋だった建物の一階が西洋風のお店に変わっていた。


目を凝らすとあるふぁべっとが見える。授業で少しだけ学んだそれを指でなぞるように読み進めていく。看板には雑貨屋という意味を持つ英単語が書かれていた。


中の様子をガラス越しに覗き込む。見た事のない物ばかりが置かれていて、私の心は少年のように輝いた。あれは何だろうか。長いテープのような物。その隣に置かれているのは恐らくカメラだ。以前家族写真を撮ってもらった時に見た。


強い光を放つそれを、私は少し苦手だった。写真を撮る時は笑わないように。写真家の方が言ったのを、私と妹は陰でどうして笑っちゃ駄目なのだろう。そう話していた。


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