二十一、分かってるんだよ、浮瀬くん


 この一週間、どうしてもやもやしていたのかようやく分かった。彼が勝手に色んな事を言って周囲を固めたからだけではない。私は、人気者になっていく浮瀬くんが嫌だったのだ。今までずっと二人きりだったから、彼が他の誰かに言い寄られている所なんて見た事もなかったし、あっても私にはそれを教えなかった。


 いつだって一番は自分だと、二人だけの世界にいてくれたから。だから私も、心配したり、嫌な気持ちになる事が無かったのだ。


 だって隣に、世界一愛してくれる人が自分だけを見てくれていたから。


 でも今は違う。私はあの頃の私じゃないし、二人だけの世界に閉じ籠るような選択はしない。それでも一緒にいたいからと彼は言うが、周りが私たちの長く歪な関係性を知っているわけでもないから、もしかしたらを狙って彼に声をかけているのも知っている。


 そこに、私だけを見てよと駄々をこねられたら良かった。嫉妬心むき出しで、この人は私のものですなんて言えれば良かった。でも、今の私にはまだ言い切る自信がない。


 だから、ずっと、少しだけ嫌だったのだ。


「他の人と、話して楽しそうにしてる所見るの、私も嬉しいよ。だってずっと二人きりだったから。でも、その、あー、うん」


「何だよ」


「他のクラスの女の子とかと、楽しそうに話してるのは……ちょっと、嫌かもしれない」


 こんな事言う資格私にはないけど。言い終えた後風が吹いた。わずかに残っていた料理の熱を奪っていく。面倒な女だな私。自分に呆れてしまった。


 こんなにも大事にされている事が分かってるのに。伝えずとも迎えに来てくれて、ご飯だって買ってきてくれて。冗談混じり笑っているけれど、いつだって一番に考えてくれる事を、ずっと昔から知っているくせに。


 何だか自分が情けなくなり目頭が熱くなった。鼻を一度啜りフォークに手を伸ばす。けれどそれは私の手に渡る事無く、ランチボックスの蓋は閉められた。


「浮瀬くん?」


 顔を上げた瞬間だった。彼の腕が伸び私の唇は彼の肩口に当たった。抱きしめられている事に気づいたのは、背中に回る腕が壊れ物を扱うみたいに優しく包んでいるくせに、指先に込められた力がここからいなくならないでと言っているみたいに強く、震えていたからだ。


「それ嫉妬?」


「……浮瀬くん」


「うん、ごめん」


 そっか。そっか。確かめるように何度も噛み締めて、私の左肩に顔を埋めた彼の柔らかな髪が頬に当たって少しくすぐったい。それでも温かな熱に、懐かしさと愛しさが込み上げたのは言うまでもないだろう。


 彼の肩の先から見えた世界は輝いていて、星の光が一つ二つほど輝いていた。昔はイルミネーションより星の光で埋め尽くされていたのに。私たちが変わるように、世界は変わっていく。


 この人だけを置いて。


「これからも変わらずにいていい?」


「……いいよ。もう諦めてるから」


「他の女の子は当たり障りない会話しかしてないけど、千歳が今日みたいにいなくなって仙堂とお昼食べちゃうならやめる」


「美味しかったよカレーパン」


「限定のやつ貰ったの?あれ、この前のお礼でゲット出来たら僕にくれるって言ってたのに」


 でも、千歳が食べたならいいか。そこで許してしまうあたり、相変わらずだと思う。


「今までの君と違うのは、生まれ変わる度に分かってるつもりだった」


 浮瀬くんの手が私の頭を撫でる。髪に指を絡め、ゆっくりと梳いていくそれが昔から変わらず心地よかった。


「でも分かり切ってなかった。だって今の君は何だって出来る。誰だって選べる。僕じゃなくてもいいんだ」


 彼のカーディガンを掴んでいた手に力がこもってしまった。


「何なら僕は死ねないから、普通に死ねる人と幸せになる方がいいまである」


「それは……!」


「でも」


 頭を撫でていた手が止まり、離れかけていた身体は再び密着する。


「僕が、千歳がいい」


 彼の心臓の音が少しだけ速くなったのに気づいた。私と同じように生きて、動いているというのに、どうして同じ時間で止まってはくれないのだろう。


「姿形が変わっても見る度に君だって分かる。理由は分からないけど、君と一緒にいたいって思う。もしかしたらそれは、最期まで添い遂げられなかったから今度こそ叶えたいって思う故なのかもしれないけど」


 どうして、先に死ぬのだろう。


「僕は千歳の自立してる所好きだよ。これまでしたくても出来なかったから、生き生きしてるの見てて楽しい。ちょっと抜けてる所も好きだよ。後、僕に言いくるめられて悔しそうにしてるのを見る度、生き続けて語彙を増やしてよかったと思ってる」


「最低だよ」


「いくらでも言えよ。それでも僕は君を、きっと死ぬまで離してやれそうにない」


 緩められた腕の力に、ゆっくりと彼の肩に手を置いて身体を離す。腕はまだ背に回っている。浮瀬くんの顔は街灯に照らされ半分ほど影が差し掛かっていたが、これまで見てきた表情の中で一番、情けない顔で笑っていた。


 眉を下げ、どこか泣き出すのを堪えている。


 何度も見た、最期のさよならの顔だった。


「だから、千歳が僕がいいって心から言えるのをずっと待ってる」


「……その顔止めて」


「どんな顔してる?」


「さよならの、時の顔してる」


 声が震えた。涙が出そうになった。分かっている。今はさよならの瞬間じゃない。私はまだ、彼を置いては行かない。今の浮瀬くんがこんな顔をしているのは、言葉の重みを噛み締めて、これまでを思いながら口にしたからだ。理解出来ているのに、そんな顔をするなんて思わなかった。またさせてしまうなんて思わなかった。


 目尻を、親指が拭うように撫でた。泣いてないって分かってるくせにと言えばきっと、泣きそうだったからと言うのだろう。何と言うかなど、もう分かってる。


「さよならしないよ」


 再び抱きしめられた時、私の腕はようやく彼の背中に回った。縋るようにカーディガンを握り締め、延びる事も気にせず力を入れた。怖くなった私をなだめるように、彼は優しく背中を撫でる。


「今度こそ一緒に死にたいんだ僕は」


 置いていく事も、いかれる事もしたくない。叶うなら君が死ぬ前に死にたいと口にした彼に、私を置いていくのかと返せば、一回くらいは経験してよと笑われた。


「沢山同じ時間を過ごして、一緒に歳を取って、幸せに、平凡に死にたいんだよ君と」


 堪えていた涙が零れ出した。そんなの、私だってずっと思ってたよ。いつも出会ってから数年も経たずに死んできた。生まれ変われば変わるほど、過ごす時間は減っていく。ただ同じ空間で他愛もない話をしながら背を預け笑い合う未来だけが欲しかった。


 本当は二人だけの世界も、嫌じゃなかったのだ。彼がいるなら、それだけで世界が色鮮やかになるから。


 畳の上で本を読んでいる私の膝に頭を乗せて昼寝をしたり、庭先で猫と遊んでいる姿を後ろから優しく見守っていたり、時折街に出て買い物をしたり、同じ布団でただくっついて眠る夜が、ずっと、ずっと続いていくならそれ以外何もいらなかった。


 そうやって歳を取って、一緒に死にたかった。


 鼻を啜った。浮瀬くんは私が泣いている事に気づいたのか、より一層抱きしめる力を強めた。目を閉じ深呼吸を繰り返しても、涙は彼の肩を濡らしていく。


 瞼の裏にはいつだって、噎せ返るような金木犀の匂いに包まれた部屋の中、私の手を握り涙を堪えながら笑う彼の姿が見える。最初のさよならが、何度だって瞼の裏で上映会を始める。こんな気持ちになるのも秋のせいだ。ゆっくりと見えなくなった顔に、後悔と愛しさだけが残り続けた。


 ただ一緒に死にたいと願った。


「いつでもいいよ、僕はまだ待てるから」


 もう一度、鼻を啜った。返事なんて、出来そうもない。


「僕がいいって心から言える日が来たら、今度こそ一緒に死ぬための方法を見つけるために生きよう」


 まるでプロポーズだ。少しだけ面白くなって笑みを零せば、口の端から漏れた小さな笑い声に気づいた彼が私の身体を離す。そして私の前髪を整えたのち、少しだけ横にずらして額に唇を落とした。



 アルコールの微かな匂いが鼻に届いた。酔っ払いだと笑ってやった。



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