四十六、変わらないと、浮瀬くん
遠い日の晩春だった。新緑が芽吹き夏の始まりを告げようとしていた空に雲が形作っている。開け放たれた障子の先、縁側に腰かけ庭先を見る。整えられた庭先、松の木の上に鳥が止まった。鳴き声をあげ仲間を呼ぶ様は人間と同じだと思う。
「お嬢様」
背後からかけられた声に顔だけ向ける。久世家から共に来た使用人の美代がお盆に載せた湯呑を置く。二つ分の湯呑を見て僅かに口角が上がった。
「いい暮らしになりましたね」
彼女の言葉に頷く。これまでだったら使用人と隣に腰かけお茶を飲み談笑するなんて出来なかった。それもこれも、彼のおかげである。彼が美代を使用人としてではなく、一人間として扱ってくれるため私たちは自由に笑い合える。
「明日は写真を撮りに行かれるようなので、私は一日中お掃除をしたいと思います」
「私もやるわ」
「いいえ、お嬢様にやらせるより一人でやった方が速いので」
「……言うようになったわね」
この家に来てから美代に教わり家事を始めた。料理くらいしかした事のない私に、美代は根気よく付き合ってくれているがこれまでいかに自分が甘やかされて育ってきたのかを実感させられた。一生懸命頑張ってはいるものの何時になったら彼女のようにこなせるだろうか。最も、こなせるようになったら彼女の仕事が無くなるのでそれは止めてくれと言われているが。
ただ一緒にいるだけでいい。彼が望んだのはそれだけ。でもそれだけでは手持ち無沙汰だった。遠い国からたった一通の手紙で帰ってきてこの家に連れてきてくれたのだ。私はそれに返せるものを持ち合わせていない。だから彼が帰ってきた時、安心する場所を作るため日々努力しようとしているが、果たして実を結んでいるのか定かではない。
やった事のない雑草抜き、雑巾がけ、庭先の掃除。どれも新鮮で楽しくて堪らないと言えば美代は笑いながら、いつか嫌になる日が来ますよと言う。そんな日が待ち遠しいですねと続けた彼女に、きっと来るわと笑った。
一度は諦めた幸せだ。多くの物を犠牲にして得た今だ。これから先何十年も愛しい日々が続いてくれなければ割に合わない。
「式は秋でしたね」
「ええ」
「お二人で決めたと聞きましたが、何故秋なのですか?」
「……初めて会った時も、手紙を送った日も、大事なタイミングがいつも秋だったか
ら」
初めて会った日を思い出す。返す言葉を持ち合わせず、涙を流すしかなかった私を助けた今よりも控えめな彼の姿を。慌てながらハンカチを取り出し泣き止むまで待ってくれた優しさを。思えばあの瞬間から私は彼に恋をしていたのだろう。
「いいですね、季節で紐づけるのは」
「金木犀が咲く度、初めて会った日を思い出せるでしょ?」
「あの日、お嬢様を自由に帰らせた私の判断は間違っていませんでしたね」
「ふふ……確かに、美代が許可してくれなかったら会えなかった」
あの日、私の我儘を許してくれた彼女のおかげで今がある。そう考えると私たちが一番に感謝しなければならないのは彼女なのかもしれない。
不意に咳が出た。隣にいた彼女は驚きつつも私の手から湯呑を奪いお盆の上に戻す。
「大丈夫ですか?」
「ええ」
「もうすぐ初夏になりますからね。季節の変わり目は体調を崩しやすいので」
「そうね。温かくして寝ないと」
「そうですよ、暑いからといって薄着をしては駄目です」
「してないわ」
「同じお布団で寝られているのなら尚更」
「美代!」
顔に熱が集中するのが分かる。両頬を押さえながら彼女を睨みつければ、美代はにやにやと笑っていた。
「安心してください、いつでもお布団は干せますから」
「ちが、違います!そ、そんな事はしてません!」
「お嬢様ではなくご婦人と呼ぶべきですね」
「だから違います!」
彼と同じ部屋で眠るようになってからようやく最近慣れ始めた。といっても同じ布団で眠るだけでそれ以上も何もない。結婚するまでは手を出さないと妙に真剣な顔で正座した彼と向き合った夜を憶えている。以来彼は本当にそれを守っているし、ただ抱きしめられて眠るだけである。最初こそ緊張して眠れなかったが今では人の温もりに微睡を憶えるようになった。
「ただいまー」
玄関の方から声が聞こえる。思わず立ち上がった私は庭から周り声の方へ駆けた。いつもより少し早い帰りに嬉しい気持ちが歩幅に出る。主人を待つ犬の気持ちが少しだけ分かる気がした。
想定していた方向からでない方向に私が現れたのに驚いたのだろう。彼は目を見開いたのち嬉しそうに破顔した。つられた私も同じように口角が上がる。
「おかえりなさい」
確かに、幸福があったのだ。
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