七、強引です、浮瀬くん


 幸いにも彼は私の嫌がるような事は言わなかった。婚約者だったという事実と、幼馴染という嘘、そして両親も知っているという嘘は大丈夫なものかと心配になったが、耳に届く事は少ないだろう。何故なら両親は仕事で忙しく、私の友人たちとは会った事もない。


 結局何だかんだで浮瀬くんは私の嫌がる事は絶対しないのだと、分かっていたからこそ心が締め付けられた。


 チャイムが鳴り一限目が始まる。気持ちを切り替えていつも通りを演じようとした。


 が、隣の浮瀬くんのせいでいつも通りは難しかった。


 一限目の英語では教師の書いた文章のミスを見つけ、正しい文章を黒板に書き直し称賛を受けていた。教師は悔しそうだった。


 二限目の数学の教師は性格が悪い事で有名で、まだ習っていない問題を出して私たちを困らせた。しかし彼がいともたやすく解いてしまい教師は開いた口が塞がっていなかった。私に、ここ習ったの?と聞いてきたので首を横に振れば、ちょっと早いみたいですよと笑っていた。


 三限目では国語では眠りこけ、四限目の歴史ではこの教科書史実と違うなと首を傾げていた。


 お昼休みには私から一切目を離さずコンビニのパンを食べ続けていた。とてもじゃないが食事できる気になれず、手元のお弁当のおかずはいくつか彼に奪われた。その空気に友人たちは入る事すら出来なかった。


 五、六限目の体育は男女共同陸上競技だった。タイムを測ると言われやる気のなかった私たちはとりあえず走り切り芝生の上で座り込む。ジャージを伸ばしその中に両足を入れて起き上がり拳のようにふらふらとしながら男子の短距離走を見ていた。


 すると仙堂の隣に浮瀬くんが並ぶ。


 あの人クラウチングスタートって知ってるのかと一瞬不安になったが、こちらを見て嬉しそうに手を振る姿はまるで飼い主を見つけた犬のようだった。呆れながら手を振り返すと仙堂がクラウチングスタートのやり方を教えていた。おじいちゃんである。


 しかしそのおじいちゃんは笛の音が鳴った瞬間、とんでもないスピードで飛び出し一瞬で走り終えてしまった。足の速い仙堂もこれには驚いたようで、何故か肩を組んでいた。


「いやーすげぇな浮瀬!」


「それはどうも」


 あの体育で仲良くなったらしい二人は何故かホームルーム前の教室に肩を組んで現れた。


「男子って馬鹿」


「それは本当にそう」


 莉愛の発言に納得して頷く。男子が馬鹿と言うより、仙堂が馬鹿である。


「速かった?」


 席に着いた浮瀬くんは私に話しかける。少し自慢げな声音が、まるで子供のようだった。


「速かった。そんなに速かった?」


 一体いつからそんなスピードで走るようになったのだ。少なくとも私の記憶には彼の足が速かった記憶はない。ダッシュしていた所を見る機会がほとんどなかったからなのかもしれないが。


「戦時下を走り回ってたらいつの間にか」


「……ちょっと」


「あ、そっか。ランニングだよ日々の努力?」


 またしても失言をした浮瀬くんに低い声でツッコむと彼はランニングだよーと間延びした声で誤魔化していた。この人、隠す気はあるのか。


 戦時下。私が最後に死んだのは第二次世界大戦が始まる少し前だった。その前にも戦争はあったけれど、私の生活には何一つ暗い影を落とさなかったのだ。そこから千歳としてこの世に生を受けるまで転生する事はなかった。だから、戦争は知らずどんな酷い世界だったのか、体感する術はない。


 当たり前だが、この人はそれを乗り越えてきているのだと思うと何も言えなくなった。


 ホームルームが終わり早足で教室を出る。今日はアルバイトもなかったが、とりあえず浮瀬くんから離れたくて足を動かした。が、そんな事はお見通しだと言わんばかりに彼は私の後ろで笑いながらついてきた。校舎を出て人通りが少なくなった所で、私はようやく口を開く。


「ストーカーやめてください」


「違うよ」


「じゃあついてこないで」


「ええ、今更?」


「……本当に、何してるの」


「何って、千歳がまだ高校生だったから同じように高校生になってみようかなと思って」


 いいもんだねと笑う浮瀬くんは私の隣でポケットに手を突っ込む。


「学生生活。あの頃は共学じゃなかったし学校に通ってる人間なんて良家の人間しかいなかったから、あんなにも軽く付き合えるのはいいね」


 良い時代だとしみじみ言う浮瀬くんに、じじいかとツッコむと言い返せないと返って来る。


「千歳の傍に居れれば後はどうでも良かったんだけど、結構楽しんでた僕」


「……それは何よりで」


「何より千歳にいい友達がいて安心した」


「保護者か」


 で、と浮瀬くんは私と向き合う。


「まだその態度?」


「悪い?」


「何でそんなに拒否するの?久々で困惑するのは分かるけどさ」


「分かってんじゃん」


「それでも僕の事なんてお見通しでしょ」


 僕がお見通しのようにと足を止める浮瀬くんに、私は溜息を吐いた。


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