三十八、約束したのです、浮瀬くん
「行かないでお姉様」
涙ながらに抱き着いてきた妹の背を撫でた。どうかこの子だけでも幸せに生きられますようにと願い涙を拭う。
見送りに妹以外家族の姿はなかった。それもそうだろう。彼との逢瀬がばれた後、両親は私に失望し幼い弟に近づけさせないと決めたらしい。さっさと結婚し務めを果たせと言わんばかりの対応に、悲しみを通り越して笑ってしまった。
「貴方は幸せになるのよ」
「私が、私がお姉様と王子様の仲を奪ったの!」
私と彼の逢瀬がばれたのは使用人からの告げ口でもなく、この小さな妹が口を滑らせてしまったからだ。父の前で糾弾された妹は泣きながら彼と会っている事を言ったらしい。その事をずっと謝られているが私は気にしていなかった。だってもし自分が同じ立場ならきっと言っていたはずだから。
「違うわ、私が王子様を選ばなかったの」
いつか、彼に妹も楽しめるような物語はあるだろうかと言った事がある。まだ夢見がちで恋愛模様が好きだけれど過激な物は見せたくない。私の意向を汲み取った彼は人魚姫を贈ってくれた。妹はそれをとても気に入り、物語をくれた彼を王子様と呼ぶようになった。
「私が、泡になる結末を望んだの」
あの物語は王子を愛した人魚姫が元に戻るために彼を殺せと言われるも出来ず、そのまま泡になって消えてしまう。愛は永遠に語り継がれる結末だ。でも、私の物語は違う。泡になるとは妹の前でこの先にある希望のない物語を聴かせたくはないから。
もしかしたらこの先、他の男性の隣で笑って幸せになる未来が存在するかもしれない。でも、その度に彼を思い出すだろう。きっと私は今妹に別れを告げればもう二度と会えなくなる。そしてまた、女とはと言われ一個人として扱われもしないまま旦那様のお飾りになるだろう。彼らが望んだように。
浮瀬八千代だけが、私を一個人として見ていた。女というただの道具としてではなく、彼だけが久世千代の本質を見ていた。本当は英語を学びたくて、広い世界を知りたくて、男性と同じように働いたり権利を貰ったり。ただそれだけの事が強欲だと言われた。けれど彼だけはそれを良しとした。話す度、あの人はいつも私の発言を真摯に受け止め同じ目線で話し続けた。
浮瀬八千代は私を一個人として尊重しながらも愛してくれていたのだ。
妹の手を離す。精一杯の笑顔を作り、またねと叶いもしない願いを口にした。馬車に乗り込み泣きながら追う妹を横目に、乗り合わせた使用人が優しく笑う。何度も私を助けてくれた、彼との逢瀬も秘密にしてくれた使用人だ。
「もう誰もいませんよ」
「貴方がいます」
「私はいいのです。お嬢様、本当は言いたい事があるのではありませんか?」
眉を下げて笑みを浮かべる彼女に、私は安堵し涙が溢れ出した。恥ずかしげもなく嗚咽を車内に響かせ何度も声を上げた。彼女は、そんな私を優しく抱きしめた。
「浮瀬さんと共にいたかった!」
「はい、そうですね」
「結婚なんてしたくない、あの人以外と結ばれたくはありません!」
「お嬢様……」
そして、私は酷い願いを口にした。
「彼の方が死んでしまえば、この婚姻は消え去るのに!」
そんな願いが届いたのか、私が京都に着く前に婚約者は死んだ。前日の夜酒に溺れ意識を手放し死んだそうだ。息子が酒に溺れて死ぬという失態を犯したのを恥じた相手方の父親は、私と結婚しようとした事で息子が死んだのだと酷い言いがかりをつけた。よって、私は京都に着く前に横浜に戻された。
私が殺した、不幸を呼ぶ女だ。そんな訳がないのに社交界で私の噂は広まり誰一人否定する事無く私は孤立した。縁談は無くなり屋敷の隅に追いやられ、いない者のように扱われるようになった。結婚は無くなったが、代わりに与えられたのは孤独だった。
華族の家はやがて没落し、親戚筋が経営していた旅館を継ぐ事で命を繋いだ。表向きは老舗高級旅館の主だが、中身は没落した華族の逃げた先である。無くなった息子の従弟である二十歳の男性は、妹を婚約者に選んだ。妹はこれを酷く嫌がり癇癪を起したため、結婚するのは彼女が十五を越してからという条件が付いた。
そして、現実に耐えられなくなった妹はお姉様のせいだと言うようになり、あれだけ仲が良かった私たちの心は離れ離れになった。
五年経ち二十歳になった。結婚適齢期と言われる年からもうすぐで外れる私は、誰に選ばれるわけでもなく、ただ無気力に日々を過ごしていた。離れの縁側で金木犀が咲いているのを呆然と見ていたが立ち上がり近づく事すらしない。何を考えるわけでもなく、このまま死んでしまいたいと思っていた。
早く、父が私を殺してはくれないだろうかとさえ思った。彼は恐らく、まだ私が使える駒だと思い置いているのだろうが、私としては使い物にならない駒だから早く殺して欲しいの一択だった。
呆然と雲一つない青空を眺めていた時、風が吹き金木犀の匂いが鼻を掠める。そう言えば五年と少し前、あの人に会ったのもこんな日だったと思い出したのは、単なる偶然だったのかもしれない。さよならを告げてから一度も思い出す事さえ出来なかった彼の姿を、何故だか今日だけは鮮明に描ける気がした。
日本人にしては背が高い所、下がった目尻、なで肩、綺麗な髪、穏やかな口調、優しい声。温かな手、輝く瞳、赤くなる耳。指折り数えながら思い出に浸る。結局ロミオとジュリエットは最後まで読めなかった。他の物語もそうだ、全部途中で止まっている。それでも知れた事が嬉しかった。思い出す事が出来て良かった。
「お嬢様、失礼します」
ふと、使用人が部屋に入って来た。そちらも向かず空だけを仰ぐ。後ろで物音がして視線を向けた。どうやら新しく入って来た使用人らしい。棚にぶつかり中の物を出してしまったようだ。
「も、申し訳ございません!すぐに」
「自分で直しておくからいいわ」
「ですが、」
「いいの。もう下がって」
食い下がる使用人を制し部屋から出ていくように告げる。謝りながら出ていった使用人を横目に、畳に散らばった棚の中を見つめる。特に怒る気もなかった。拾い集め棚の中に戻していった時、机の下に滑り込んだ物が見え手を伸ばす。布地が指先を掠め引っ張り出し固まってしまった。
手に掴んでいたのは初めて会った時に借りたハンカチだった。返さなくてもいいと言われ、汚れたままの物を渡すわけにもいかず洗ったのだが新しい物を渡した方がいいと思い新品のハンカチを買い彼に渡したのだ。あれは捨ててくださいと言われていたが、何となく捨てるには惜しくて棚の奥に仕舞った。
それが、今この手のひらの中にある。
温もりなどとうにない。あの日掴めなかった手は戻る事など無い。ただ何故だろうか。私はどうしようもなく悲しくて、あれ以来一度も流す事のなかった涙が頬を伝った。ハンカチに染みを作り畳は水分を吸っていく。
私はまだ、浮瀬八千代の事が好きだった。
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