三十七、約束したのです、浮瀬くん


 浮瀬八千代との逢瀬はいつの間にか私の日常と化した。週に一回、学校終わりに彼が反対側の道に立っていて数十分間だけ話をする。十枚ほど翻訳した文章を貰い、ここが良かった、とても好きだなど感想を言う私を、彼は嬉しそうに笑って聞いていた。


 そんな日々が続き半年ほど経った頃、私に終わりが告げられた。


「今何と仰いましたか?」


「京都にいる知人の息子との婚約が決まった」


 父の書斎で告げられた言葉は、彼との幸せな数十分が終わりだという事を教えられた。相手は父の知り合いの息子、京都の華族だった。歳は三つ離れており京都にある華族会館をしきっている家柄でもある。相手には申し分ない男性だった。


 写真で見た男性は精悍な顔つきだが冷たさを秘めていた。濃い眉毛が跳ね上がり口は一文字に閉じられている。父と似た匂いがした。


「婚姻は来月だ」


「来月!?いくら何でもそれは……」


「私の命令に逆らうのか」


「が、学校もまだ通っております!」


「学校か……」


 父は口ひげを整えこちらを見る。冷たい視線が突き刺さり思わず息を飲む。


「私はお前に、男との逢瀬をさせるために学校へ通わせたわけではない」


「え……」


「女に教育は不要だ。しかし、これからの日本では上流階級の男を立てるための教養がある女が必要だと考えたのち入れたまでだ。それがどこの馬の骨かも分からぬ男と逢引するためだと言うのなら、貴様に教養は必要ない」


 手の中に収められたお見合い写真がごとりと音を立て床に落ちた。


「あ、あの人は違います。私が読みたくても読めなかった本を翻訳してくださるだけで」


「私がいつお前に英語を学べと言った?」


「それは……」


 言葉が喉から出る前に威圧で音を消される。つま先から脳天まで氷になった気分だ。


「私はお前が、私たちと同じような知識を得るのを許可した事はない」


 それが、最後だった。


 出ていけと言われ後退りしながら書斎を後にした。何も考えられず、言葉さえ失いただ長い廊下を歩いた。自室に辿り着いた時、机の上に散らばった紙を見て涙が溢れて止まらなくなった。


 彼の、優しい笑顔が見れなくなるのが怖かった。




「もう会えません」


 次の逢瀬で私は唇を噛み締めた。彼はどうして、自分が何かしてしまったのかと慌てた。


「……結婚、するんです」


 両手で包んだ風呂敷を抱きしめた。彼の息を飲む音が聞こえた。


「京都の、父の知人の、華族の方だそうです。来月、結婚してここを離れなければならなくなりました」


「そんな……」


「もう、会えないんです」


 張り裂けそうな胸が今にも零れ落ちそうな涙が、この人を好きだと痛いくらい言っていた。けれど言葉を伝えるのは出来ない。私にはその権利がない。この時代で、あの家で、私は父の決定に頷くだけの駒なのだ。


 私たちには自由がない。


「お返しします。きっと、持っていたら捨てられてしまうから。こんなにも素晴らしい物を価値の分からぬ人間に捨てられたくはないのです」


 唯一の思い出と言っていいそれを包んだ風呂敷を呆然としたままの彼に突きつけた。


「お会い出来て、とても幸せでした。短い時間でしたが共に過ごせた事、生涯忘れる事はありません」


 このままでは泣いてしまいそうだから。下を向いて唇を噛み締め平気な振りをした。


 本当は顔を見た瞬間に全てを投げ出してしまいそうだから。心中なんて出来やしない。才もなく生活力さえない私を、この人に預けたくはない。この人の、重荷になりたくない。


 想いは全て、この胸に仕舞い込むべきだ。握り拳を作り、さよならを告げようとした時頭上から降って来た彼の言葉に堪えていた涙が地面を濡らした。


「逃げましょう、一緒に遠くまで」


 顔を上げれば彼は真っ直ぐと私を見据えていた。


「実は来月から数ヶ月ほど英国に行くのです。そこで通訳者として力をつけてこいと叔父から言われました。もし気に入ればそちらに滞在する事も出来るそうです」


 彼の手が、私に差し伸べられた。


「共に、来てはくれませんか?」


 差し伸べられた手を取る事が出来たらどれほど良かったのだろう。無意識に伸びた手が止まった。


 私が行けば、妹が犠牲になる。十歳の子供だ。父なら彼女を平然とお見合い相手に与えるだろう。私のように少しの自由すら知らぬ子供だ。自分の幸せと妹の幸せを天秤にかけた時、私の心は決まってしまった。


 犠牲になるのは自分だけでいいと思った。


「行け、ません」


 伸ばされた手が固まった。


「私が行けば次は妹が犠牲になります。まだ何も知らぬあの子から、少しの自由も奪うような結末はしたくありません」


 本当は今すぐにでもこの手を取りたい。


「ごめんなさい」


 差し伸べられた手がゆっくりと落ちていった。顔すら見れず、ただ視線の先、彼の手が強く握り拳を作ったのだけが見えた。


「一目惚れでした」


 いつも優しい穏やかな声は、今日だけ震えていた。


「初めてでした。他のどんな人とも違う、令嬢なのにあどけない所や自分の話を聞いて純粋に笑う姿、いつも貴方が感想を教えてくれる度たかが数十分が意味のある物になりました。別れる度早く来週にならないかと思い、まだ行ってほしくないとその手を掴み損ねた」


 顔を上げた先、彼は泣きそうな顔で笑っていた。


「僕はきっと、この先どこに行っても、貴方が誰と結ばれようと、いつまでも貴方だけを想います」


 さよなら。背を向け去っていく彼の姿を吹雪いた桜の花びらが見えなくさせた。強い風に目を閉じ再び開いたその時、彼の姿はどこにもなかった。


 私の初恋は、ここで終わりを告げた。

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