十五、分かってるんだよ、浮瀬くん
久方振りの労働は、自分が思っていたよりもずっと楽しくてそれを求めていたと実感した。
暗くなった窓の外に輝く夜景は見る人を虜にさせる魔法でもかけられているみたいだった。この前気づいた窓ガラスの汚れはいつの間にか消えていて、自分がいない間に清掃でも入ったのだろう事に気が付く。おかげで店内に夜景は反射していた。
「小田さん、次よろしく!」
「はい!」
渡された料理を両手に乗せテーブルに向かう。お待たせしました、丁寧な笑みを浮かべ皿をテーブルの上に置く事ですら、最初は緊張して零したらどうしようとかそんな事ばかり考えていたというのに、今ではすっかり様になってしまい、どうすればより速く置けるのかとかそんな事ばかり考えている。
久しぶりのアルバイト先は忙しいの次元を超えるほどに忙しかった。目が回るとはまさにこの事である。それもそのはず、人手が足りなかったのだ。先日起きた事件から狙われていた先輩はまだ仕事に復帰していない。怖くてアルバイトもろくに出来ないそうだ。シフトに沢山入っていた人だったから、抜けた穴は大きすぎた。
短い休憩を取る時間すらないほどだった。いつもなら合間にお菓子などを口にして終わるまで空腹をしのいでいたが今日はそうもいかない。席は全て埋まっている。外には食事が出来ない代わりにケーキだけでもテイクアウトしていこうと思った人たちが数名並んでいる。
注文取り、配膳、加えてテイクアウトの接客。気づいた時に気づいた人が動く状態だった。
「やばい、今日はやばい」
厨房に入り次の料理を待っている間思わず零した本音に厨房の人たちはげっそりした顔で首を縦に動かした。ああ、多分私も今同じような顔をしているのだろう。
「ちょうど過ごしやすい季節になったから」
メインディッシュが私の前にあるカウンターに置かれた。料理長はお願いと言ってすぐにその場を去っていく。皿を持ち料理長がげんなりした顔で言った言葉に、確かにと納得しながら席に向かった。
十月の夜はちょうどいい気温だった。暑くもなく寒すぎず、カーディガンで過ごせる夜に横浜の夜は活気づく。いや、一年を通して活気づいている。しかしこのくらいの季節になるとみなとみらい周辺を散歩しながら夜の街を楽しむ人たちが増えるのだ。それに十月になると赤レンガ倉庫では様々なフェアが開催される。
ビールやお酒などのフェス、ハロウィンとかの季節イベント、一番は食事系のフェスだろう。軽くつまんで飲むようなフェスが開催される度に街はいつもよりずっと人で溢れ返る。
今日は何かあっただろうか。考えながら丁寧に笑い料理をテーブルの上に置く。女性がテーブルの上に置いていたパンフレットをしまった。ちらりと見えたそれは本場ビールと書いてあり、そこで私は合点が行く。
なるほどビールフェスティバルか。毎年このくらいの季節に開催されるイベントだ。本場ドイツのビールや各国の珍しいビールとおつまみを揃えたフェスらしいが、未成年なので中がどうなっているかは分からない。ただちらりと見えた大きなソーセージが、空っぽになりかけている私の胃を刺激しようとした。
すぐに目を逸らしごゆっくりと声をかけるが、恐らくこの人たちは食事が終わったらフェスに向かうのだろう。おつまみだけではお腹いっぱいにならないから先に食べておこうという魂胆のようだ。周囲を見渡すと同じようにパンフレットを持っている人がちらほらいて、なるほどそのせいかと妙に納得した。
ふと、時計の針が午後七時を回っている事に気づく。後ろからかけられた声に振り向く。レジのすぐ近くにいた店長が、私を見て時間だよと言った。けれど私はこの忙しさの中自分だけ帰る事に申し訳が立たなくなり、まだいますと返す。店長は困った顔をするが、すぐに私が厨房に呼ばれてしまう。
「でも危ないから」
「そんな事言っても忙しすぎて無理ですよ。それに私が帰ったらホールは二人だけですよ?いけます?」
「いけないけどさー!」
「私だって働いて稼ぎたいですよー!」
やけくそになりながら皿を手に取る店長と私に、厨房にいた料理長は早くしろと怒鳴った。すみませんと謝るがそれすらもやけくそだ。
「今日ビールフェスやってるみたいだし」
「らしいですね」
「酔っ払いが街に溢れ返るからより危ないでしょ」
「でも、手を止められませんよ!」
「そうだけどー!」
再び配膳し終えると今度は入口のベルが鳴った。ああ、新規のお客様だ。行きます。何か言いかけた店長の前を急いで横切り扉の方へ向かう。棚の隅から見えた人影に、私は笑みを浮かべて声をかけた。
「いらっしゃいま……せ?」
が、そこにいたのはよく知る人物だった。
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