四十、約束したのです、浮瀬くん


 泣きながら二つ返事ではいと答えた私を彼は子供みたいに喜んで抱きしめた。こんな積極的な人だったか。驚いて固まるも私の様子に気づいた彼は、ごめん、向こうのノリが出た。と頬を掻く。確かに異国の方々はスキンシップとやらが激しいと聞いていたがこういう事かと一人納得する。けれど毎回やられたら心臓が持たないと思った。


「ならば敢当だ」


 今の今まで黙っていた父が突然声を発した。俗物を見るかのような目でこちらを見ている父は、今すぐ出ていけと言った。


「使えない貴様に用はない」


 後ろにいた母は何か言いたげだったが押し黙り背を向けた父に付いていく。


「所詮ろくな生活は歩めん」


 荷物をまとめろ。それだけ言って去ろうとした父に彼は何かを言おうとした。けれど私が一歩先に出て口を開く。


「今までお世話になりました」


 足を止めた父はこちらを向こうともしない。


「後悔は五年前にしました」


 結局自分が行こうが行くまいが、妹の結婚は決められてしまった。私は代わりになる事さえ出来なかった。


「この先にはありません」


 母は唇を噛み締め妹はどうしてと呟く。


「どうして、お姉様が幸せになるのですか!私は、私は自由にさせてはもらえず!」


「発言は許していないぞ」


「お姉様、ずるいです」


 父に止められても妹は尚、言葉を続けた。


「お姉様なんて、死んでしまえばいいのに!」


 それはいつかの私が会った事もない人に放った言葉だった。母はすぐさま彼女を叱ったが、父が妹の頬を叩いた。そして彼女を置いて先に家に戻ってしまう。一人残された妹は頬を押さえながら私を睨みつけた。憎しみの込められた目は、私のこれからを呪いそうなほどの力が込められていた。



「幸せになんてなれず、死んじゃえ」



 言葉が、私の胸を深く突き刺した。去り行く妹の背を追う事さえ出来ないまま立ち尽くす。涙すら出ずただ、私は誰からも祝福されない事を思い知らされた。きっと誰と結ばれても同じ結末だっただろう。それでも、愛した人と結ばれるという結末を、家族が喜んでくれるわけもなかった。


 拳を握り締め息を吐く。大丈夫。平気な振りをしろ。けれど震えは確かに、彼に伝わった。私の握った拳を優しく解き手を重ねる。そして、大丈夫と言った。


「大丈夫」


 もう一度、確かめるように紡がれた言葉に唇を噛み締めて彼の肩に頭を寄せた。


「荷物、僕も手伝うから」


「持っていくものなどほとんどありません。いくつかの着物くらい。嫁入り道具の一つも持っていけはしません」


「いらないよ、君だけでいい」


「私、最近家事を学び始めたのです。ですがまだ上手く出来るとは言い難いです」


「僕も出来るし大丈夫。少しずつ二人で憶えていこうよ」


「……本当に、何もないのです」


 重ねた手を握り締める。誰からも祝福されない、いらなくなった人間だ。けれど彼はそれでもいいよと言う。


「家はもう借りたんだ。古いけど、裏庭から見える金木犀が綺麗で。叔父が紹介してくれて、あの神社近くの、日本家屋」


「素敵ですね」


「この屋敷みたいに、大きくて綺麗でもないけれど」


「大丈夫です。私、このお屋敷でもほとんど部屋から出ませんでしたし」


「それは大丈夫じゃないよ。君はこれから僕と一緒にどこまでも行くんだ」


 一人くらいお手伝いさんを雇おう。彼の明るい声に少しだけ気分が明るくなる。


「式も挙げよう。向こうにいる時より少し給料は下がるけど沢山溜めてあるから。通訳として一人前になったし、君一人養うなんて朝飯前だから安心してね」


「私は、これから何が出来ますか?」


 彼が身体を離す。向き合い肩に手を置かれた時、その耳がいつかのように赤くなっている事に気づき変わらぬ彼が少しだけ顔を出した。


「傍にいて」


「はい」


「これから先の長い人生をずっと隣で笑っていて欲しい。叶うなら君と、子供に囲まれて有り触れた幸せを共に過ごしたいんだ」


「気が早いですよ」


「でも素敵じゃない?」


「ええ、本当に」


 まだ見えない未来に頬を緩ませた。そして彼の手を取り自分の部屋に行こうと走り出す。もう怒られても構わないと思ったからだ。どうせここに来るのはこれが最後。ならば最後くらい馬鹿みたいに走って消えてやろうと思った。


 足音に精一杯の嫌味を込めた私なりのさよならだった。


 少ない荷物を手に庭先に出て屋敷を後にしようとしたその時、後ろからお嬢様と呼ばれた。振り向くと大きな風呂敷を担いだ使用人が息を切らしている。彼との逢瀬を見守り、私を京都に届けるため馬車に乗り、手紙を送ってくれた使用人の美代だ。


「私を置いて行くつもりですか?」


「美代、貴方……」


「お嬢様のお世話係は子供の頃から私ですよ。私の主はお嬢様で旦那様に仕えた気はありません」


「ですが、この先は」


「いいと思うよ僕は」


 彼は私の荷物を奪い笑う。やって来た馬車に手を差し出した。


「一人くらいお手伝いさんを雇おうって言ってたし、部屋はある。お給金は、今より少ないと思うんだけど構わないかな」


「ええ勿論」


「ちょっと美代!」


「お嬢様がご結婚されると決まった時、私は共に行くと決められておりました。ですから今回も付いていくのです」


 早く乗ってください。私たちを促した彼女に彼は噴き出した。向かい合うように座った私の隣に美代が座る。これからよろしくと言った彼と美代は握手をし、私は頭を抱えながら浮瀬さんと言った。すると彼はすぐに浮瀬になるんだからと言ったが、呼び方を変える事も出来ず、結局結婚するまでは浮瀬くんと呼ぶ事に落ち着いた。

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