五十四、私が始めたの、浮瀬くん


「浮瀬くん、あのね」


 何を言ったのか、私は開かれた障子の前で足を止めた。また、同じ夢を見ている。久世千代の最期だ。一体何だってこんな夢を見せるのだ。噎せ返るような金木犀の匂いが充満している。だから秋は嫌いだ。始まりも終わりも、いつだって同じ季節だから。


 千代は何かを言った。私には聴こえない。分かるのは浮瀬くんの肩が跳ね上がり、震えて言葉一つを噛み締めている事、ただそれだけ。最後の言葉なんて残さなかったら、こんな顔をさせる事もなかったのではないかと思うくらいだ。でももし今の私が同じ立場に立ったなら、同じように言葉を残してしまうのだろう。


 何度かのやり取りの後、ごとりと鈍い音が立った。千代の手が、浮瀬くんの手から滑り落ち畳へ落ちた音だった。浮瀬くんは見た事もないくらい泣いて千代の身体を抱きしめた。


 死んだと分かるには、充分過ぎる瞬間だった。



「最悪」


 また同じ夢を見た。頭を押さえながら起き上がった先、見慣れた自分の部屋が目に入って安心感を憶える。これで畳の部屋だったなら、私はおかしくなっていたかもしれない。和の要素が一ミリもない部屋は恐らくあの部屋を彷彿させてしまうから、無意識に除去してきたのだと思う。


『おはよう』


 画面には浮瀬くんからのメッセージが浮かび上がっていた。それに返事をしベッドから出る。一つ伸びをして部屋を後にし両親に挨拶をしてから顔を洗う。母から学期最後だから楽しんでおいでと声をかけられた時、今日が夏休み前の最終授業日だと気づいた。


 支度をして家を出た。茹だるような暑さに目が眩むほどの太陽、入道雲が真っ青な空に浮いていた。


 マンション前、いつもの場所で待っている浮瀬くんに駆け寄り、おはようと言う。彼は微笑み返事をする。そのまま並んで登校。何の変哲もない、高校生の日常だった。


 開港祭の後から私たちは今まで離れていたのが嘘だったかのように元に戻った。周囲は驚きつつも、こっちに慣れてしまったから戻ってくれて良かったと言った。特に同じクラスだった果南は安心したのか、何度も良かったねと繰り返した。


 ただ私たちの間に流れる空気が今までとは違う事に気づいたのか、何かあったら言ってねと言われた時はさすがに驚いた。


 彼女は聡い所があるから、私たちの間に何があったのかは分からなくとも、何となく、違いに気づいたのだろう。私は浮瀬くんを拒まなくなったが、浮瀬くんは今までよりも控えめになった。


 多分、いつまた呪いが私を苦しめるか怖くて堪らないからだと思う。私も私で、まだ死ぬ気はないからこれまで通りの体裁を保ちながらも、心のどこかで少しばかりの線引きをしていた。


 幸せになったら死ぬ。この先私たちはずっと、隣にいてもこれ以上の幸福を望む事は出来ないのだろう。それこそ昔の彼が言った、結婚して家族になって子供が出来て歳を老いてのような事は絶対に叶わない。それが現実である。


 けれど手を離す事も出来ず、他の誰かを選ぶ事も出来ず、曖昧な関係のまま隣にいる事を選んでいる。いつか決断をしなければならない日が来るのだろうか。そんな日が来なければいいと願いながら今を生きている。




「夏休みだけど気を抜かない事!受験生はしっかり勉強しなさい!」


 担任の言葉にクラスメイトが項垂れる。帰りのホームルームで頬杖をつきながら窓の外を見ていた。ふと背中を叩かれ後ろを向く。先日の席替えで果南と前後の席になれたため、このように話す事が日常と化していた。


「夏休みの予定は?」


「えー明日から京都に行くよ」


「いいなー旅行」


「家族旅行だけどね。お土産待っててね」


「うん、帰ってきたら会おう」


「勉強会する?」


「するする」


 私と果南は同じ国立大学志望だ。学部は違えど目標は同じ、三年生になってから二人でよく勉強をするようになった。教育学部を目指している果南の教え方は上手で、こんな先生が自分の担任であれば嬉しいと思うほどだ。


 私は当たり障りなく文学部を志望している。どうせ私が行く場所に浮瀬くんも行く事は既に宣言されているため、同じ学部で受験戦争をしたくないから違う学部に行けと言った。彼は英文学部に行くつもりらしいが、まぁ勉強なんてしなくても受かるだろう。


 仙堂は都内の経済学部がある大学、莉愛は変わらず美容師志望だ。仙堂は経済学部って何か格好良くね?という理由から自分が行けるレベルの大学を選ぶようだ。相変わらず軽い。


 あと半年で違う道に進む。当たり前なのに何だか寂しく感じた。果南とも同じ大学に行ければいいけれど、同じ学部でまた新しい友人が出来るだろう。少しずつ、疎遠になっていくかもしれない。


 大人になるというのはこういう事なのだろう。少しずつ、環境が変わり離れていく友人がいて、新しい出会いがあって、それの繰り返し。変わらないものなど何もないし、少しの寂しさもきっと時間と共に消えていく。大人と子供の間に揺れ動く感情も、いつか決着がついてしまうだろう。私はまだ、『コドナ』なのである。


 彼はもう大人なのだろうか。行きと変わらず隣を歩く横顔を盗み見た。長い時間を生きていても見た目は変わらない。しかし私と同じ寂しさを抱いてはいないだろう。


 何せ経験した別れの数が桁違いだ。


「二泊三日だっけ?」


「そう、お土産いる?」


「いや、大丈夫。京都のお土産って抹茶味のお菓子がほとんどでしょ」


「それは京都に対する冒涜じゃない?」


 でもそんなもんじゃん。鼻で笑う浮瀬くんにあながち間違いでもないと思ってしまった。勿論それ以外も沢山あるが、結局私たち旅行客が買うお土産なんてほとんど抹茶味の何かだろう。


「大阪は行かない?」


「ソース買ってこいって?」


「ソース味のお土産なら食べる」


 相変わらずである。京都駅に売ってたらねと返しわざとらしく溜息を吐く。


「いいね、家族旅行」


「まぁ両親が仲良くしてるのを後ろから見るだけの旅行だけどね」


 家族旅行は大体、仲の良い両親がいちゃつくのを後ろから眺めるだけの時間だったりする。仲良しはいいが、私は基本混ざらず一人で探索する事が多い。ただ家族で旅行に行くと自分では払えないレベルの食事が出来る。


「それでも今までは出来なかったじゃん」


 確かに、これまでの前世で両親と旅行なんて行けた例がない。それだけでもいい事だと言う浮瀬くんに私は頷く。そう考えれば悪い物でもない。


「何かいいホテル泊まるんだって」


「へぇ、老舗?」


「らしいけど教えてもらってない」


「いいね、楽しんでおいで」

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