五十五、私が始めたの、浮瀬くん
そんな、浮瀬くんの顔が浮かんだ。
旅館の前、玄関口で固まってしまった理由を知るのは私しかいないだろう。千歳、何してるのと先に行った母の声が聞こえるが私の足は動かなかった。名だたる旅館が建ち並ぶこの街で、何だってここを選んだのか、ここに来る事になったのか、名前を聞いた瞬間足を止めてしまったのは荘厳さからではない。
ここは、千代の妹が嫁いだ先だった。
「おこしやす」
着物を着た女性が何人も出てきて荷物を奪っていく。丁寧なお辞儀に、頬が引き攣りそうになったのは言うまでもない。二百年の歴史を誇る老舗旅館。板張りの廊下に絵が書かれた襖、日本庭園はリフォームがなされていようと当時の色を残していて不快になった。
千代があんな風に死んだからなのか、私は昔ながらの日本家屋があまり好きではない。特に畳と布団なんて置かれていたらアウトだ。幸いにも通された部屋は和室こそあったものの、和モダンの雰囲気でベッドがあった。
広い部屋のため寝室が二つあり、より現代的な方を選び私はこっちと言った。両親は折角だから庭園が見える方にしなと言ったが胸元でバツを作り、貴方たちはそっちと指差す。
「温泉があるんだって、千歳行く?」
「今はいいかな。二人で行ってきなよ」
「あらー、じゃあお言葉に甘えて」
行きましょう。母に引っ張られた父は満更でもない様子で部屋を出ていく。混浴でも何でもないから二人で行く意味は?と聞きたかったがツッコまないのが我が家のスタイルである。
「……ここか」
旅館の名前は明治時代に聞いた時のままだ。ベッドに腰かけたまま浮瀬くんにメッセージを送ろうとしたが止めた。言った所で特に何かが変わるわけでもないと思ったからだ。ただ変わってしまっても、彼女が見ていた世界を見たいと思ったのは、まだ仲が良かった頃の妹の顔が脳内に残っているからだ。
自分のせいで嫁ぐ事になった彼女が、どんな気持ちで遠く離れた土地で過ごしていたのか。欠片くらいは知れるだろうか。私は立ち上がり財布とスマートフォン、部屋の鍵だけを持って部屋を後にした。
長い廊下を歩き旅館内を散歩する。竹林が顔を出し陽の光を遮った場所に老舗らしく史料館が用意されていた。人の気配はなく冷房がよく聞いていて涼しい。快適さに釣られた私は中に入る。
「涼しいー」
京都の夏は暑い。盆地のため夏は暑く冬は寒いのがこの土地の特徴だ。横浜と違う気候に妹はどう慣れたのだろうか。きっと最初は大変だったのだろうな。目を瞑れば彼女の姿が何度も再生された。あれから百五十年の月日が経っていると言うのに、私に呪いをかけたのは彼女なのに、憎む気になれないのは大切だったからだ。
つい最近見たミミズ文字が書かれた紙がガラスケースの中に飾られている。出たなミミズ文字。思わず睨みつけてしまうが、正式な文書は明治時代の文章であったためまだ読めた。ミミズ文字はどうやら手紙だったらしい。
「一九○○年……」
壁に沿うよう飾られていたケースの区切りに一九○○年と札が立てられていた。何となく、そこに近づくのが怖くて足が止まりそうになる。少し息を吐き一歩踏み出しケースを覗いた。そして、そこにあった写真に涙が出そうになった。
白黒写真の中に写っていたのは中年の男性と妹だった。最後に見た時期からあまり時間は経っていないのだろう。牡丹が刺繍された着物を着て座る彼女の顔に笑顔はない。この当時の写真は笑顔を写すための物ではないから当たり前なのだけれど、酷くげっそりした顔だったから記憶の中の彼女の顔とは別人のように思えた。
きっと、私が憎くて仕方のなかった頃だ。
隣には旅館の前で撮った従業員たちとの集合写真だが、女将のはずなのに彼女は一番端の後ろにいた。馴染めなかったのだろう。きっと、これまでの生活とは違ったから。働く事なんてなかった私たちだ。仕事を憶えるだけでも一苦労なのに、従業員たちと距離を縮める事なんて出来なかったに違いない。だって、私たちの周りには家族と使用人だけだったから。
どの写真の中でも妹は同じ顔だった。決して幸せとは思えない表情で写り込む姿に、罪悪感が込み上げるのはどうしようもなかった。ごめんねなんて言えるわけでもない。選んだのは私、呪ったのは彼女だ。きっと浮瀬くんに恋をした時点でどう足掻いてもこうなる事は分かり切っていた。
あの頃の私たちは、ただの道具に過ぎなかったから。
消耗されるだけの日々だったのだろうか。少しでも幸せはあったのだろうか。もしあの頃の自分に力があったなら一緒に連れて行けたのに。時代が私たちを殺した。
苦しかった。
「あ、」
背後から聞こえた声に思わず肩が跳ねた。驚いて後ろを向けば着物を着た女性の従業員が立っている。
「すみません、掃除に来たのですが人がいらっしゃるとは思わなくて」
「え、すみません、今出ますね」
「いえいえ!大丈夫です!あまりここに人がいる事ってないので」
驚いてしまいすみませんという彼女は標準語だった。
「関西圏の方じゃないんですね」
「はい、お恥ずかしながら京都弁を勉強中で」
「京都弁じゃなきゃいけないんですか?」
「この旅館では代々京都弁を使うように言われております」
ああ、こんな事も辛かったのだろうな。雰囲気を保つためには仕方なかったのだろうが、言葉を変えて染まれなんて、しんどかったに違いない。
「お姉さんはこの旅館について詳しいですか?」
「あまり……ですが働くにあたり歴史は学んでおります」
どこかおどおどした様子なのは、彼女がまだ努めて日が浅い事を現していた。でも個人的にはベテランの従業員に聞くよりも、歳が近そうな彼女に聞く方が気が軽かった。
「この女性のお墓ってどこか分かります?」
私は写真の中の妹を指差した。彼女は驚いたが、旅館の主人と女将さんは皆、ここから数分ほど離れた寺のお墓に眠っていると言った。
「毎年閑散期に従業員全員でお墓参りに行く風習がありまして」
「何で?」
「先祖に感謝をという風習ですね」
「ああー」
面倒だなと思ってしまうのは現代っ子だからなのだろうか。だが、彼女にお墓の場所を聞いた。
「そちらの女性のお話も学びました。横浜から嫁いできて右も左も分からぬ中奔走したようですが、最後は亡くなられてしまったと」
「そう、ですか」
「ですが彼女のおかげで旅館が栄えたのも事実でして。当時は美人の女将がいるとお客様が殺到したようです」
「確かに、綺麗ですもんね」
「ええ、本当に」
どんな気持ちだっただろうかと、寄り添う事も思う事も多分許されないのだろう。
ありがとうございました。と彼女に頭を下げ史料館を後にする。両親にコンビニに行ってくるとメッセージを入れた後、旅館から外に出た。
目に入った花屋で仏花を買い溶けそうになりながら歩いて数分の寺を目指した。ここまで来て墓参りの一つもしないような薄情者にはなれなかったからだ。寺に入り女性から聞いた言葉だけを頼りに墓石を探す。夏の昼間に墓参りなんてするもの好きは一人もおらず、他の墓石よりも一回り大きなそれに気づく事が出来た。
久世ではない苗字が彫られていた。当たり前なのだが、それだけでも悲しくなった。墓参りの作法など知らぬので花だけ置いて手を合わせる。妹には届かないだろう。でも、姉として言いたい事があった。
「貴方のせいじゃないよ」
結果的に私たちを呪ったとしても、意図して起こしたわけではないのだから私は彼女を責められなかった。もし責めたら、あの頃の自分の立ち回りについて何度でも怒鳴らなくてはならないからだ。
最初から海の向こうに、彼と共に行っていたら少しは変わっていたのかもしれない。でも、それが出来なかったのは妹がとか理由をつけていただけで私が怖かったからだ。
遠い異国の地が怖かった。父にどんな事を言われるのか、帰っては来れないだろうと思ってしまったのも、全部怖かった。結果的に私は縁を切られたのであの時手を取っていても変わらなかっただろう。
過去は変わらない。呪いも解けない。ずっと、百五十年前から停滞している。
「貴方に言うのは最低だと思うんだけど、私幸せになりたいんだよね」
浮瀬くんと。咳が零れた。墓石にかけないよう横を向く。
「ねぇ、どうすればいいかな。私、絶望したのにまだ諦めきれないの」
馬鹿みたいでしょ。独り言は止まらない。
「もうどうしようもないって、誰も悪くないって分かってるのに私はまだもしもを信じてる。あの人の隣で生きる日常が一日でも続けばって思ってる。貴方を酷い目に遭わせてなんて身勝手な姉だとも思ってる」
けれど、今は変わらない。
「ねぇ、教えて。幸せになれず死んじゃえって言ったなら、どうして私だけを呪わなかったの?どうして浮瀬くんを生かし続けたの?だって私だけが生まれ変わって、どこにもいない浮瀬くんを探して他の誰かと幸せになろうとする度死ぬ方が都合いいじゃん」
一つだけ、疑問が残っていた。妹は私に幸せになれず死んでほしいと願った。けれど、彼女は私が生まれ変わるのと、浮瀬くんが死ねないようにとは願ったのだろうか。そこまでの詳細を考えられるほどではなかったはずだ。記憶の中の妹は十五歳で、お転婆で夢見がちな子供だったから、冷静に相手を呪う事なんて多分出来ない。
自分が呪いの力を持っていると分かった上で放ったなら話は別だが。
「私は何度も生まれ変わって、何をすればいいんだろうね」
墓石の前でしゃがみ込み頬杖をつく。太陽は燦燦と降り注いでいる。
「なんて、返事なんてないの分かってるけどさ」
ごめんねと口を開きかけて止めたのはこめかみに伝った汗が風に攫われたからだ。先程まで風など吹いていなかったのに、突如として吹いた風に目を細める。妹の姿も声も、聞こえるわけがない。
「美代も、貴方にも会いたいな。会えなくても、貴方がどこかで生きていて、何も思い出さず幸せに生きてるならそれで姉は充分なの」
「千歳ー?」
自分を呼ぶ声に顔を上げた。墓地の入口付近で母が手を振っている。私はそちらに戻ろうと思ったが何故か母が走って来た。
「何してるの」
「コンビニ行くって言ってたから一人じゃ危ないでしょ」
「私高校生、今昼。全然危なくない」
「お母さん温泉入って来たのに汗かいちゃった」
笑いながら額を拭う母に、何でここが分かったの?と問う。すると母は来る予定だったのよと言ってきた。
「千歳、いつ知ってたの?」
「何が?何の話?」
母は能天気な顔で笑いながら、私の心に鈍器を落とした。
「このお墓に入ってる紫藤千春さん、お母さんの先祖さんの姉なのよ」
「
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