三十二、好きなんだよ、浮瀬くん
二回目の邂逅は偶然のような奇跡だった。
女学校の校門、学友にお辞儀をし迎えに来た使用人の元に駆け寄ろうとした、その時だった。視線の先、一人の男性が驚いた表情でこちらを見ていた。
「あ」
小さく漏れた声はきっと、彼に聞こえた。男性は慌てた様子で頭を下げる。つられた私も頭を下げる。使用人が私たちを交互に見て怪訝な表情を浮かべたが、私はお父様には言わないでと言った。
「お嬢様、まさか」
「違います、以前道に迷った所を助けていただいたの」
決して恋仲ではありません。それだけははっきりと伝えた。ここで変な勘違いをさせてお父様の耳に入った日には、外出はおろか女学校にだって通えなくなってしまうかもしれない。けれど、使用人は優しく笑った。若い女性であまり歳が変わらなかった。
「かしこまりました。旦那様は本日遠方に行かれているので、帰りは遅いです」
「そんな、遅くなりません!」
「奥様は本日ご学友と華道をしたのち、お茶会をされると仰っていましたので六時頃に帰られます」
「だから、そんなんじゃないですって!」
「お早いお帰りをお待ちしております」
それだけ言って私の前から消えた彼女は、彼に小さく会釈をした。彼はそれに頭を下げる。そしてすぐにその場から離れてしまった。残されたのは私と反対側の道にいる男性。
馬車が目の前を通り驚いたのも束の間、過ぎ去った後すぐに男性は走って来た。
「久世、さん」
「浮瀬さん」
「お久しぶりです」
彼、浮瀬八千代は目の前でへらっと笑った。気の抜けた、柔らかな笑顔だった。それに酷く安心した自分がいて、口元を隠し小さく笑う。彼は首を傾げたが、何でもありませんと返した。
「ここに通ってたんですね」
「はい。浮瀬さんはお帰りになられる途中でしたか?」
「は、はい。僕も帰宅途中で」
「偶然ですね」
冬に差し掛かった季節は色を変えていた。街路に植わった銀杏が、はらりはらりと地面に落ちていく。真新しい石畳を鮮やかな黄色が彩っていく。
「叔父の仕事の見学をさせてもらった帰りで」
「叔父様は何をされてらっしゃるのですか?」
「通訳です。港に来る外国の方とやりとりするために必要な職で」
「まぁ、通訳の方!」
だから彼は英語が喋れたのだと感心する。この先は通訳になるのかという問いに、彼は頷く。けれど他にもやりたい事があると言った。
「そうなんですね」
「でも僕は養子なので。叔父の願いを叶えるために通訳者として一人前になるのが目標です」
「養子……」
「あ、すみません、何かこんな事」
「いえ、私が聞いてよかったものかと思ったので」
「全然、大した事じゃないんですよ」
歩きましょうか。彼に促されて足を動かし始める。彼の足が自分の家の方向に進んだ時、送ってくれるのだと気づいた。前回会った時彼は私を家の前まで送り届けてくれた。そこで自宅の位置を憶えたのだろう。
彼の両親は早いうちに亡くなり、一人になった彼を引き取ったのが叔父だったらしい。叔父と言っているが、本当に叔父と甥の関係ではなく遠い親戚らしい。子供のいない叔父夫婦の元に引き取られた彼は、通訳者としていち早く仕事をしていた叔父の後を継ぐために日々研鑽を続けているのだとか。立派な事である。
「立派ですね」
「いえいえ、そんな」
「私には到底出来そうにもありません」
それは女だからなのか、英語を使った職業だからなのか。下を向いた私に彼の足が止まったのが見えた。
「久世さんは、好きな物とかありますか?」
「え、好きな物?何でしょう……」
「何でもいいです、思いつくだけあげてみてください」
こちらを見降ろすその目はとても優しくて、深く、慈しむような表情だった。何だか恥ずかしくなりそっぽを向いて指を立てる。
「甘い物が好きです」
「西洋の物も好きですか?」
「はい、和菓子も洋菓子も。あ、後はお花も好きです。ただ派手な物はあまり」
「僕は百合が苦手です」
「私もです!匂いが、得意でなくて」
「同じですね」
指を二本立てた。まだあるだろうか。一つ一つ、思い出しながら言葉を紡ぐ様子を、彼はただ見守っていた。不意に風が吹き身震いがした。しかしすぐさま彼が羽織っていた外套が風を防ぐ。
「えっと、お、お話が好きです。本をよく読みます」
「僕もです。最近は英文の物を読みますね」
「羨ましい……私は読めないので」
ずるい。小さく漏れたのは他ならぬ本音だった。慌てて口を押さえても時既に遅し。ゆっくり見上げた先、彼は大きく目を見開いて瞬きを繰り返していた。そして、そうかと何度も言い一人で納得していた。
「あの、」
「あ、す、すみません!確かに、その通りだと思って。英文の本が入ってきても需要が少ないから流通しないし、何より折角の内容が言語により伝わらないのは意味がないですよね」
「そ、そうですね」
「そっか、そっか」
彼は少し考えた後、沢山の物語があるんですと笑った。
「向こうの女性にはシェイクスピアが人気です」
「しぇいく、すぴあ?」
「作家の名前です。ロミオとジュリエットとか、マクベスにリア王。悲劇、恋愛を題材にした戯曲を書いた作家で、そう遠くないうちに東京で公演をしたいという声を聴きました」
「どんな物語何ですか?その、ロミオとジュリエット」
「一夜で恋に落ちた若き二人が絶対に結ばれぬ家柄で、駆け落ちをしようとするもすれ違い最後にはお互い亡くなるお話です」
「……悲しいですね」
「身分違いの恋はどこの国でも需要がありますからね」
確かに、曽根崎心中も今に至るまで何度も公演された作品である。
「もし、よろしければなんですけど」
「はい」
彼は一冊の本を取り出した。本というより、紙の束を挟んだ厚手の紙と言った方が正しいだろう。開くと丁寧な字が紙一面に敷き詰められていた。これは。聞いた私に彼は照れながら笑う。
「趣味で、海外の作品を翻訳してるんです。それはロミオとジュリエット。途中なんですけどね」
「……凄いですね!」
通訳者として腕を磨く傍ら物語すらも訳しているのか。私にはその世界のいろはなど分からぬが、通訳と翻訳は別物だろう。まして物語など、絶妙な言い回しを訳すのだから難しいに決まっている。それを、この人は趣味でやっているのか。
才のある人だと思った。
「良かったらそれ差し上げます」
「こんな貴重な物貰えませんよ」
「いいんです。素人の訳なので、価値なんて全然ありませんよ」
「でも……」
「ただ、途中なので申し訳ないです」
これほどの文量があっても、まだ物語は途中なのか。呆気に取られた私は手に置かれたそれを抱きしめる。この気持ちは何だろうか。高揚感とはまた違う。
新しい、幸せの色に思えた。
「……あの、もし、もしよければなんですけど」
「はい、何ですか?」
「続き、書けたらでいいので、また会ってくれませんか?」
風が吹き彼の髪が揺れた。精一杯の一言だった。これまでの人生でこんなにも勇気を出した事など無いのではないかというくらい、きれきれになりながら紡いだ言葉だった。
それは、確かに彼に届いた。
一瞬にして彼の顔が真っ赤になったのを見て、驚き慌てたのは私の方だった。大丈夫ですか、気分が悪いのですか、体調を心配する私に、大丈夫ですと繰り返しながら彼は顔を隠した。少しの沈黙の後、まだ顔の赤い彼は嬉しそうに笑った。
瞬間、どうしようもないくらい心臓を締め付けられたのは言うまでもないだろう。
「ぜひ、会いに行きます」
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