三、お久しぶりです、浮瀬くん


 アルバイトをしている店のガラス窓から横浜の夜が見えた。もう動く事のない帆船日本丸がライトアップされ、その奥には色を変える観覧車。時計は八時五十分を差している。


「掃除終わった?」


「はい」


 レジで金銭管理をしていた店長はこちらも見ず声をかけてくる。お札が凄い速度で数えられていく姿は始めこそ驚いたものの慣れてしまった。


「次に夜運営しない日っていつでしたっけ?」


「来月末かな。何で?」


「ガラス、汚れてるので」


 みなとみらいを一望できるカフェレストランで働き始めて一年以上が経った。昼間は紅茶専門店としてカフェを、夜はレストランとして比較的安価なディナーコースを提供しているこの店にアルバイトとして受かったのはラッキーだったと思う。何せお洒落だからだ。


 私が採用された理由について、多くの学生は昼間のカフェの時間だけ入りたいと言うけれど、小田さんは夜も入りたいと言ったからと話していた。


 確かに、お昼時のこの店の雰囲気は大好きだ。いくつかのテラス席に上質な絨毯の上に置かれるいくつかのテーブル、壁には絵画が飾られていて棚にはいくつもの紅茶。ショーケースにはまるで宝石箱のようにケーキが収められている。アフタヌーンティーは最高で、土日など観光客が多い日を除けば平日は上質で、優雅な時間が楽しめる。


 制服が可愛いのも特徴だ。黒いベストにカメオがついたループタイ、袖を留めるカフスは金色でシャツは春夏が白、秋冬が黒のストライプになる。つい先日から黒のストライプシャツに衣替えしたばかりだ。腰に短い黒のエプロンをつけ、スラックスかタイトスカートに薄手のタイツを自由に選べる。まるで貴族の城にいる給仕係みたいで、何だか楽しいのだ。


 そして何より、私はこの景色が好きだった。


 店の半分の壁はガラス窓でみなとみらいの景色を一望できた。昼時よりも夜の方がより、ライトアップされて美しく見えるのだ。環境汚染で汚された海の色が暗くなると見えなくなるから、という思考もあるかもしれないが。


「昔はこんなに汚くなかったんだけどな……」


「ガラス窓が?」


「え?あ、違います!ガラスは、あれですよ。多分私たちがテラスと行き来する時の指紋が……」


「確かに。カバーでもつけるか……?」


「でもそれじゃあ景色がって言われますよ」


「フィルムとかあるよね?指紋付きにくくさせる」


「あーありますね」


「次に掃除する日までに探しとこうかな」


 箒を片しテラス席へと出る。開いた窓から肌寒い秋の風が吹き抜けた。一緒に、金木犀の香りも連れて。


「金木犀の香り凄いわね」


「……私嫌いなんですよね」


「金木犀?珍しい」


「どうしても、好きになれなくて」


 テラス席の椅子をテーブルの上にひっくり返して置き、外用の箒で軽く地面を掃く。後ろ手で窓を閉めた時、誰かの視線を感じた。振り返ってもそこには誰もいない。


「どうかした?」


「……いえ、何でもないです」


「疲れてるんじゃないー?」


「かもしれないですね」


「終わったから早く帰りましょ」


 店を閉めて更衣室に向かう。制服に着替えてから桜木町の駅へ向かった。店長と別れを告げ、私は電車に乗らず歩いて家路につく。遠くに見える高層マンションのうちの一つが私の家だからだ。


 一等地にあるマンションなんてセレブだねと言われるかもしれないが、そこまでではない。そもそも、なぜあんな所に住んでるかと言われると母の家族が地主だったそうだ。だからその地に建てたマンションの一室に強制的に住んでいるだけで、私自身は週三、四でアルバイトをしてるからそこら辺の高校生と何ら変わらないのである。


「にしても、酷い縁だ」


 地主。私は高いマンションじゃなくて戸建てが良かった。何なら平屋がいい。高い所が嫌いなわけではないけれど、自宅のベランダから見る景色は光り輝いてはいるもののどこか味気なかった。もっと、地面に近ければ花の色の移り変わりにも気づけたのに。そこまで考えて私は立ち止まる。


「あーやっぱり疲れてる」


 秋になると私はおかしくなる。その理由を、誰にも言えずにいる。きっとこの先も誰の耳にすら入れないまま、私は季節と向き合う事になるだろう。


「早く帰ろう」


 足早に帰路に付こうとした、その時だった。


 後ろから、同じスピードで足音が聞こえたのは。


 瞬時に振り向くも、そこには誰もいない。気のせいかと思い再び歩き出すと、足音はやはり同じように続く。怖くなって視界に入ったカーブミラーを盗み見れば、見知らぬ男性が一定距離を空けて後ろからついてきていた。


 ……ストーカー!?


 まさか。考える前に歩く速度が上がった。本当にやめてくれ、先日同じバイト先の先輩が似たような被害に遭ったと聞いている。だから夜は気を付けるのだと言われたばかりなのに。そもそも、まだ九時なのに。ここは横浜で、人も多く明るいから、こんな事起きるとは思わなかったのだ。


 どうしようと、考えている間に家のすぐ近くまで来ていた。けれどここで自宅に入れば家がばれてしまう。家がばれる事を避けたかった私は何を思ったのか、自宅の前を通り過ぎた。人通りはまだ多く、今すぐにでも距離を詰められる事はないだろう。


 とりあえず撒かなければ。なんて、した事もないのにそんな発想を思いついた私は早足で中華街の方面まで歩き出した。夜でも人がいる場所で適当に行方を眩ませて、電車に乗ったように見せかけようと思ったのだ。


 横浜中華街の門が見えた瞬間私は走り始めた。後ろから聞こえていた足音は少しずつ、遠ざかっていくように感じた。長い直線の合間にある路地を何回も曲がり、鉢合わせないように様子を伺った。


 十分ほど経っただろうか。周囲に人気が無くなり始めた事に気づき辺りを見渡した。先程まで私を尾行していた男性らしき人は見えなくなっていた。


 安堵した私は先程通って来た入口まで向かう。しかし、そこには男性が立っていた。


「……おるんかいー」


 呆れ交じりの関西弁が唇から零れた時、相手がこちらを見た。そこからは速かった。私は慌てて踵を返しどこに行くかも決めず走り始めた。時折振り向いても男性は追いかけてきており、それが私の恐怖をさらに加速させた。


 こんな事になるなら、父に電話でもして迎えに来てもらえばよかった。今からでも遅くないと、頭では分かっているのに行動に移す事が出来なかった。恐怖のまま走り続け、気づけば元町仲通りまで来ていた。


 本当に、何も考えず本能のまま走っていた私は、本能に従ってある場所にまで来ていた。仲通りの商店街の角を曲がり赤い鳥居をくぐって石段の先にある社殿まで逃げ込もうとした。けれど、それは私が石段を登ろうとした瞬間に叶わなくなってしまった。


 突然左腕が引っ張られ、身体が後ろに傾きそうになるのを堪えた。


「離して!!」


「君、あの店のアルバイトの子だろ?」


「だったら何ですか!?」


「あの子に会いたいんだよ、ほら、髪の長い二十歳くらいの子」


 瞬間、彼が先輩アルバイトの女性を尾けていた人物だと気づく。まさか、こいつ彼女に会うために関係ない私をつけ回していたというのか。


「近づいちゃ駄目って警察に言われたんだ。君から言ってくれないかな、よりを戻そうって」


「関係ないのに、巻き込まないでください!」


 もしかすると、これは先輩の元彼か。以前横暴で酷い目に遭わせてきた恋人と別れたという話を聞いたが、こいつがその元彼なのか。いや、推測している場合じゃない。だって私には関係ない。


 力いっぱい腕を振りほどこうとしても、成人男性の力には適わない。頼むよとたわごとのように繰り返しているくせに、腕の力は強いし今にも私を殴りそうな雰囲気だった。


 やめて、離してと抗議しても男性は離れてくれない。そして、空いている手を振り上げてきた。鼻奥に、金木犀の香りが届いた。




 だから嫌なんだって。秋も、金木犀の香りも、何もかもが嫌だ。気づかないうちにこの場所へ向かってしまう足も、いつまでも過去に縛り付けられている私も。




 そして、貴方の名前を呼んでしまう事も。




「助けて!浮瀬くん!!」



「助けるよ、何十回でも何百回でも。君が生きている限り」



 一瞬だった。気づかぬ間に私の身体は後ろから包み込まれ、捕まれていた腕が知らぬ間に解かれる。まるで金木犀の甘い香りのように、酔いそうなほど優しい声が頭上から降ってきた時、私は込み上げてくる涙を噛み締めるように運命を呪った。


「何だお前!」


「僕?この子の旦那さん」


「はぁ!?」


 私の腹に左腕を回したその人の顔は見えない。けれど目の前の男性が酷く怯えている所を見るに、声だけが優しいのだろう。酷く怖い顔をしているに違いない。


「君はさ、いつの時代も男に絡まれて追われてるよね。おかげで僕の腕は強くなるばかりだ」


 ぎゅっと、身体を抱きしめられて何も返せなかったのは、私が運命に負けてしまったからだ。


「警察呼んだよ、もう来るんじゃない?」


 だから、早く帰ったら?と、頭上から降る声に焦り始めた男性は、憶えておけと捨て台詞を吐いて逃げてしまった。あまりに呆気ない終わりに、拍子抜けしてしまった私は足の力が抜けその場に崩れ落ちそうになった所を支えられる。


 石段にゆっくりと腰を下ろされ、一段下にしゃがみ込んだその人の顔が街灯に照らされてしまった瞬間、涙が、目尻から落ちる寸前まで来ている事に気づいてしまった。


「警察呼んだの、嘘なんだけどね」


 大きな手の平が頬を撫でた瞬間、堪えていた涙が彼の指を伝った。怖かったねぇなんて優しく頬を撫でながら微笑む姿は変わらない。指通りが良い髪に高い鼻、少し垂れ気味の大きな瞳に薄い唇は弧を描いている。右の目尻に一本の笑い皺があって、微笑む度に深く刻まれていた。


 変わったのは服装くらいなもので、グレーのカーディガンがなで肩のせいで落ちそうである。白いシャツはアイロンを面倒くさがったのだろう、少しよれていて黒いゆったりしたパンツに茶色の革靴は紐が解けそうだった。


「久しぶり、ざっと、八十年ぶりくらい?」


 会いたかったと、言葉が続けられる度心臓が握り締められるように痛く、呼吸が浅くなっていく。それでも彼はこの世の全てを受け入れた愛しい物へ向ける笑顔で笑うから、私はもう何も返せなくなった。


「今は何て名前?千代ちよ

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る