四、お久しぶりです、浮瀬くん
前世の記憶がある。その前も、その前も、ある時代から、前の人生の記憶がある。始まったのは一八〇〇年代の終わり、横浜が開港して十年ほど経った頃からだ。
当時の私、
そこで助けてくれたのが当時三歳年上で英語を学んでいた目の前の男、
「千代?」
一気に現実に戻された私は固まってしまう。まずい、どうしよう。会うつもりなんてなかった。叶うなら、今度こそ会いたくなかった。彼が待っていたとしても、私はどうしたって会いたくなかったのだ。
「千代ー?」
もう一度呼ばれた時、私は立ち上がった。
「千代じゃないです」
「うん、だろうね。今は何て名前?」
「助けてくださりありがとうございました。では」
鞄を抱えて足早にその場に去ろうとする私の半歩後ろを彼は歩き始める。
「なるほど、今回はそう来たか」
頼むからこのまま見ない振りをして帰って欲しい。知らぬ振りをしてほしい。そしたら私も、明日から何事もなくただの高校生として生きていけるから。
「さすがに今回は長すぎて、もう会えないかと思ったよ」
彼の言葉を無視して歩き始める。商店街を抜け海沿いの大通りに出た時、ようやく息が出来た気がした。
「ああ、でも戦時下に産まれてこなくて良かった。あの神社も空襲で焼けちゃって新しく作り直されたくらいだし」
知ってますとは言えず家路に向かう。しかし、彼はめげない。
「今高校生なんだ。確かに、初めて会った時もそのくらいだったね」
駄目だ、この男話が終わらない。
「あの……」
「ん?何?」
「ついてこないでください」
立ち止まって彼に向き合うと、頭一つ分大きいその背が私の視線に合わせるように屈められる。おかしいな、私も女子の中では大きいはずなのに。これまでの前世の中で、一番背が高いはずなのに。
「さっきのやつに捕まるかもよ」
「それは……、でももう家に着くし」
「心配だし送らせてよ。ていうか何で今更敬語?今何時代?」
「知らない人なので」
「……へぇー」
ずっとにこにこしていた彼の表情が曇り、そしてあくどい笑みを浮かべ始めた。
「酷いなあ。八十年も待ったんだぜ?それでこの仕打ちは嘘でも傷つくよ」
「……ストーカー止めてもらっていいですか」
「でも出会っちゃったんだから、もうどうしようもないって。早く素直に認めなよ」
認めたくない。認めてしまえば、今世こそと願った十七年間が無駄になってしまう。
「千代」
「千代じゃ、ないです」
「じゃあ何?君の事だからまた、千がつく名前でしょ?千代に
よく憶えている事で、と心の中で悪態をつく。呆れ溜息を零し彼に背を向けて再び歩き始める。
「千代ー」
「……」
「千桜ー」
「……」
「千香。……僕そんなメンタル強靭なわけでもないよ?」
鞄を握り締める手に力がこもった。駄目だ。足を止め心の内を曝け出したくなる衝動を堪え、それでも心には抗えず、絞り出した小さな声は確かに彼の耳に届いた。
「千歳」
「千歳……、そっか千歳。うん、千歳。いい名前だ」
千歳、千歳と噛み締めるように私の名前を呼ぶ彼の表情なんて、振り向かなくとも分かっていた。目の前にマンションが見えて私は走り始める。彼はまた、私の名前を呼んだ。
「もう二度と会う事はないです」
終わりにしようと、心に嘘をついてエントランスに入る。彼が何かを言いかける前に鍵を回しマンション内に入った。中に入れなかった彼はただ、透明な自動ドアの向こう側で立ち尽くし私を見ていた。
苦しくて悲しくて、悔しくて切なくて、全部の感情が入り混じり嗚咽が漏れそうだった。ガラス越しに見た彼の瞳が大きく開かれた時、自分がどれほど酷い顔をしているのかようやく理解出来た。
傷ついた顔をしたいのは彼の方なのに私は無情にもその踵を返した。
そして、二度と振り向かず歩き出した。
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