五十七、私が始めたの、浮瀬くん


 金木犀の匂いが嫌いになりそうだ。嗅ぐ度に噎せ返ってしまうから。けれど橙色の小さな花は彼と私を何度も繋げてくれた季節を教えてくれるから、嫌いにはなれなかった。


 止まらぬ咳に自分がもう長くないと悟る。けれど彼は私の手を握りながら未来の話をした。


「千代、大丈夫。もう少ししたら良くなるから」


 酷く、情けない顔だった。


「君の好きな金木犀が散ったら冬が来るよ。そしたら英国から新しい本が届くはずだ。家で二人で読もう」


 僕が隣で訳し続けてあげるから。


「それに明日は結婚式だよ。ウエディングドレス着てみるんだろう?僕も楽しみだ。タキシードは、そんなに似合わなさそうだけど」


 そうかな、貴方なら似合うよ。


「ねぇ、千代」


 何ですかと返す声も掠れる。


「君が死んだら僕も死ぬよ」


「……嫌です」


 それだけは嫌だ。道連れなんて望んではいない。


「だよね、明日病める時も健やかなるときも一緒だって誓うんだ。ちょっとフライングするけど、いつまでもそう思ってる」


「死なないでください」


「……それを言いたいのは僕だよ」


 彼が私の手を自分の頬に添えた。今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ている。そんな顔をさせたいわけじゃないのに、私にはもう時間がない。


「私、でも、もう分かるんです」


「……千代」


「死なないで浮瀬八千代さん」


 初めて彼の下の名前を呼んだ。浮瀬くんは目を見開く。私が死んだらこの人は本当に後を追ってしまうだろうから。だから、少しでも生きていてほしくて。私がいなくなった後の世界でも幸せでいて欲しくて。


 どうにかして、愛する人を生かすべく私は最期にこう言い放った。




「何度生まれ変わっても貴方に会いに行くから、ずっと生きて待っていて」






「私が、始めたんだ」


 新横浜の駅で待っていた浮瀬くんに抱き着いた。両親は驚いていたが、私の様子を見て浮瀬くんと少し話してから、先に帰ってるねと気を利かせて帰ってくれた。今にも零れ出しそうな涙を堪え身体が震える。背に手を回し必死にしがみついたのを、浮瀬くんはただ何も言わず包み込んだ。


 それから自宅に着くまで、私は一言も彼と話さなかった。





 何事もなかったかのように浮瀬くんとの日々は続いた。新学期に入ってから浮瀬くんは学校に来なくなった。


 しばらく仕事が忙しいから休むね。迎えに行けなくてごめん。


 そんなメッセージが届いた時、ちゃんと仕事してるのか。能天気に思いながらも大丈夫だよと返す。浮瀬くんのいない日々はどこか灰色だった。


 全ての始まりは私だった。あの日、浮瀬くんとの会話で全てを思い出した私は呆然とした。何度も見る夢はそれを教えようとしてきたのだろう。思い出してからは一度も見なくなった。


 浮瀬くんは何も言わなかった。罪悪感を抱く必要はない。君の妹だってそうだったと言われてしまえばそれまでだった。私は罪悪感を越した先で、ただ、呆然とするしかなかった。心臓は痛いくらい苦しくて、辛くて悲しくて今にも泣いて理不尽だと叫びたいのに、それすら呪いになってしまいそうで怖かった。


 これから話す言葉の全てが、誰かを呪ってしまうかもしれないと思えば思うほど何も話せなくなった。


「ちーとーせー」


 頬をつねられて私はようやく正気を取り戻す。果南が心配した顔でこちらを見ていた。


「最近ぼーっとし過ぎだよ」


「そう?」


「それに全然話さなくなったし、浮瀬くんも来ないし」


 また何かあった?彼女の言葉に、何でもないよと笑い返した。何でもない。そう言うしかなかった。けれど果南は納得しない。


「はい、嘘」


「本当だって」


「……伊達に三年間一緒にいるわけじゃないよ?」


 射貫くような視線に思わず怯んでしまう。果南は場所を変えようと言い席を立った。私は彼女の後をついていくしかなかった。


 人気のないベンチに腰を掛ける。いつか、仙堂と話した場所だ。果南は座ったのち、じゃあ私からと言う。


「え、何が?」


「隠し事。私から先に言う」


「果南に隠し事?」


「一つ!」


 珍しく彼女が声を張り上げる。驚きつつも彼女を見つめた。


「私実は仙堂がずっと好きなんだけど、仙堂が好きなのは莉愛」


「え!?」


 衝撃の事実に先程の果南よりも大きな声が出てしまう。そんなの知らなかったと言えば、果南は隠さなきゃと思ってたからと笑った。いつからなのか聞けば二年生になった頃くらいから意識し始めたらしい。だが、その頃から仙堂は莉愛が好きだった。


 けれど莉愛には他校に恋人がいる。


「叶わぬ恋は仕舞っておこうと思って」


 クラスが離れてちょっと吹っ切れたと眉を下げる彼女に何も言う事が出来なかった。


「二つ目」


「まだあるんだ」


「ちょっと前に、千歳と浮瀬くんの会話を聞いちゃった」


「え……?」


 果南はごめんねと言い、私を見る。


「浮瀬くんはさ、いつから生きてるの?」


 頭を鈍器で殴られた気分だった。ここですぐに、そんな訳ないよとか笑って誤魔化す事が出来れば良かったのだが、私は固まったまま何も言い返せなかった。その様子を見た果南がやっぱりと言った。反応は、肯定を示してしまった。


「有り得ないと思ったの。だって有り得ないでしょ?でも二人の会話が嘘には思えなくて、千歳が悩んでいるのはそれが原因?」


 優しく微笑まれて、もう隠せないと悟った私は唇を噛み締めながら頷く。そこからぽつりぽつりと口を開く。果南は有り得ない話を信じてくれた。午後の授業開始のチャイムが鳴っても、私は話続けた。


 言葉は何度も詰まり、誰にも相談出来なかった苦しさがようやく解放されていく。


 苦しかった。


「それで、千歳はどうしたいの?」


 聞き終えた果南は優しく私に問いかける。


「終わらせなくちゃって思うの」


「うん」


「私が呪ったから、解くのも私じゃなくちゃいけない」


「そうだね」


「でもさ」


 でもさ。堪えていた涙が零れ出した。


「私たち、もう二度と幸せになれないよ」


 今世で呪いを解けば、きっと浮瀬くんの肉体は百年以上の時間に耐えられなくて滅ぶだろう。いや、今世でなくとも。もうすでに、浮瀬くんの肉体は時間を許容できない。どのタイミングで解いても、彼は死ぬ。


 私たちはもう二度と、出会う事が出来ない。生まれ変わっても、そもそも生まれ変わる事すら出来ないかもしれない。


「心から願えば、叶うんじゃないの?」


「え?」


 果南の言葉に下に向けていた顔を上げた。


「自分と彼を呪ったなら、解くのも千歳でしょ。なら、今度はもっと幸せな形で呪えるかもしれない」


「でも、呪いには変わらないじゃん」


「馬鹿。それは呪いじゃないよ」


 どういう事?問いかける私に果南は呆れた様子で溜息を吐く。そして、私を指差した。



「約束だよ」



 何となく、腑に落ちたのは多分、千代であった時の私が最期に紡いだのは、呪おうとしてではなく約束したかっただけなのだと気づいたからだ。それは結果的に呪いと転じたが、決して悪い意味合いではなく、希望を繋げるために吐いた言葉だった。


 呪いと約束は、よく考えたら同じような意味を持っていると思った。ただそこに抱くイメージが負か正かだけで。


 ずっと、幸せになれないと思っていた。もう二度と、同じ時間を歩む事は出来ない。もう二度と、会えなくなる。もう二度と、結ばれる事は叶わない。そればかりが先行して未来に目を向ける事さえ出来なかった。



 私が呪ったなら、解くのも私だ。私が呪われたなら、解くのも私だ。



 もっといい条件で、もっと心から想い続け、もっと幸せになれるための呪いを私の唇は吐けるはずだとどうして気づかなかったのだろう。どうして、今ばかりに目を向けていたのだろう。



 あの人は長い時間を、一人で待ち続けていてくれたのに。



 気づいた時には立ち上がり、果南にありがとうだけ行って急いで教室に戻り授業中なのもお構いなしに鞄を取って、帰りますとだけ言い走り始めた。九月の風はもう少しで金木犀の匂いを運んでくる。どうして忘れていたのだろう。本当は、ずっと好きな花だったのに。



 ずっと、貴方という幸せを運んできてくれていたというのに。



 走り続けて辿り着いた先は浮瀬くんの家だった。玄関のチャイムを連打し、上がった息に噎せ返りながらも彼を待つ。ドタドタと足音が聞こえ玄関の扉が開かれた時、驚いた顔の浮瀬くんがそこにいた。





「話が、あります」

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