五十八、終わらせましょう、浮瀬くん
私の一言に、浮瀬くんは驚きつつも何となく納得した表情で眉を下げた。入って。促され中に入り、彼の後を追って二階の仕事部屋に向かう。ソファーに座ってと言われ腰をかければ彼はデスクの前の椅子に座った。
「走って来たの?」
「走って、来た」
まだ息は上がったままだが深呼吸を繰り返し浮瀬くんを見る。彼は呆れ笑いをしていたが、何となく来ると思ったと言う。
「最近会ってなかったから?」
「いや、違う」
開いていたパソコンを閉じた浮瀬くんは目を伏せた。
「僕が知ってる小田千歳は、行動力の塊だから」
他でもない、今の君が。付け足された言葉に、私は何となく、浮瀬くんが私の言いたい事に気づいているのだと思った。それは間違いでもなくて、彼は私から紡がれる言葉を目を閉じたまま手の平を握り締め待っている。まるで、祈るかのように。
「……言いたい事分かってる?」
「分かってるというよりか、多分、今の君ならそう言うんだろうなって」
「今の私ならってどういう事?」
「これまでの君だったら停滞を望んでたと思う」
でも、今は違う。今の私は留まる事を望まない。これまでずっと、叶わなかった、変えられなかった運命に指をくわえて黙るしか出来なかった自分がいた。そういう物だと思っていたし、これは何をどうしたって変えられない人生であると心の中、勝手に決めつけていた。
けれど、小田千歳は、それを望まないのだ。
「……さっき人に言われて気づいたんだけど」
「うん」
「私は千代の時、貴方を呪うために言葉を口にしたんじゃなくて約束したかっただけだった」
貴方が死なないように、生きていけるように、有り得ない可能性に希望を託すしか出来なかった。私の言葉に彼は頷くだけで口を挟むわけでもない。
「それが呪いになってしまった事、長い時間貴方を一人にさせてしまった事は謝っても取り返しがつかない」
「まぁ君以外にやられてたらどうなってたか分からないけどね」
「もうどう謝罪すればいいのか分からないくらい」
「いいよ謝らなくて。やっと答えが分かってスッキリしたし、それに君の愛で生かされてたんだなーって思うと良くない?」
「プラス思考が過ぎる……」
それでも、私に罪悪感を抱かせないよう冗談半分で言っている事も分かっていた。そして、彼が本当に謝罪の言葉すら何もいらないと思っている事も。
「あのね、浮瀬くん」
いつかの私が言ったように口を開く。浮瀬くんは目を瞑ったままだが少しだけ身体が跳ねた。彼の背後にある窓から風が吹き、レースのカーテンがたなびく。壁中に貼られた私との写真が、僅かに揺れ動いた。
「終わりにしよう」
口にしてみれば酷く簡単、単純で捻りのない一言。この一言が私たちにとってどれほどの重みを持っているのか、それは二人にしか分からない。浮瀬くんはゆっくり瞼を開けた。私たちの視線が交わった時、彼は、だと思ったと微笑んだ。
「そう言うと思ってた」
「そっか」
「だって君は小田千歳だから。今までの君とは違う、自由で行動力があって誰よりも未来を考える君だから、そう言うだろうなって思ってたよ」
「別に今すぐじゃなくてもいいけど、それでも」
「ううん、今すぐにでも終わりにしよう」
僕もずっと考えてたと話す浮瀬くんに、私もそうだと思ったと返す。彼が私の事を理解しているのと同じくらい、私は彼を理解している。だから、この言葉を言った瞬間、期間は伸びない事が決定されると分かっていた。伸びてもほんの少しの時間。
私が死なない時間。
「千歳がいつ、呪いで死ぬのか分からない今、君自身の呪いを解いて僕らの呪いを約束に変えるのは早ければ早いほどいいと思ってた」
「……だろうね」
「君は今を生きているから。これで千歳が死んでもう二度と取り返しのつかない事になるくらいなら今すぐ言って欲しいけど」
「けど?」
「あとちょっとだけ待って欲しい」
二週間。彼の言葉に私の頬が引き攣ったのが分かった。それはちょっと過ぎると思ったが、きっともう猶予は無いのだろう。
「後二週間もすれば金木犀が咲いて、始まりの季節になるからね」
二週間後の日付を確認すると、ちょうど一年前に彼と再会した日だった。あれから、もう一年も経つのか。彼の名前を呼び、もう二度と会う気はないと思いながらも再会できた喜びに胸が苦しくなったあの日から、浮瀬くんは私の日常に溶け込んでしまった。
「だから、二週間後、あの神社で全部終わらせよう千歳」
目頭が熱くなったのを必死に堪えるべく唇を噛み締めた。浮瀬くんは、身辺整理だと言いながら立ち上がり荷物を片していく。その肩は震えていた。これまでなるべく冷静にいようとしていた私はもうどうしようもなくなって大きな背中に抱き着いた。
何も言わず頭を背に押し付けお腹に回した両手を浮瀬くんは優しく触れた。温かな手が、より悲しみを助長させたのに、見ない振りをした。
たった二週間で浮瀬くんはありとあらゆる身辺整理を済ませてしまった。いつの間にか学校を退学し、周囲には海外に戻ると嘘をついていた。家の中は空っぽになったが歴史ある洋館の買い手は見つかったそうだ。彼にお願いされ身辺整理を手伝ったが、物を捨てる度に苦しくなったが、浮瀬くんの表情がどこか晴れやかだったから寂しさの色を滲ませないよう取り繕った。
結局ほとんどの物は捨てられて、私が預かったのは千代の頃から生まれ変わる度に撮った三枚の写真と今の私たちの写真、そして花の形をしたランプだった。お気に入りなら持っててよと彼が半ば強引に押し付けたから私はそれを抱きしめながら点かなくなっても持ち続ける事を心に決めた。
私が老いて死んで、預けられた写真が誰かの目に入ったら一体どうなるのだろうかと思ったが、今はそんな事考えないようにした。その時が来たら考えればいい。きっとどうにでもなるはずだ。願えばきっと、この口は叶えてくれるはずだから。
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