五十九、死んでください、浮瀬くん


 良く晴れた、秋晴れの日だった。


 記憶の中変わらず香り続けた匂いが鼻から喉を通り噎せ返った。午後三時過ぎ、神社の階段に腰を下ろしたまま待ち人を待っていた。道の先の商店街には人が溢れているのに神社に人はいなかった。その方が都合がいいなと思いながらも、金木犀の匂いを肌で感じる。


 金木犀の香りがずっと好きだった。


 鼻の奥まで届くその匂いはどこか爽やかで、石鹸と言っても遜色ないような、言葉では言い表せない秋の香り。生垣は街を彩り橙の小さな花がこれでもかというくらい密集して香りを充満させ、酔いそうなほどの香りに、日本人は桜と同じで季節を感じる。


 そして私たちは思い出を彷彿させる。匂いは思い出を呼び起こす起爆剤だと思う。ある種の爆弾だ。忘れても季節が巡り鼻をくすぐらせればたちまち記憶は呼び起こされ、雪崩のように感情が押し寄せる。私たちはこの季節に爆弾を抱えたまま生きていく。


「お待たせ」


 再会した日と同じ服装で現れた浮瀬くんに私は軽く手を上げた。彼は私の前までやってきてはい、と本を渡す。


「何これ」


 本のタイトルを見ると私が読みたいと言っていた海外の小説だった。


「あれ?日本語版出たの?」


「僕が訳した」


「え?」


「僕の最後の仕事。ずっと翻訳家として生計を立ててたんだよ」


 名前は時代によって変えていたけどねと言うが、この小説の訳には浮瀬八千代と書かれている。


「最後だから。最後くらい何か遺そうと思って。初めて自分の名前使ったよ」


 どこか楽しげに話す浮瀬くんに、私は始まりを思い出す。英語で書かれた本が読めず諦めていた私に彼は毎週忙しいのにも関わらず英文を訳してきてくれた。紙に書かれた丁寧な字に、私はいつも嬉しくなった。


 それが、今に繋がっている。


「やりたかった事出来てたんだ」


「君のおかげだよ」


「そう?」


「うん、だってあの時読めないって言ってくれなければ、僕は君にアプローチすら出来なかったし会う理由だって見つけられなかった。毎週喜んで感想を伝えてくれる姿を見て、本当はずっと翻訳家の仕事がしたかったんだって気づいたんだよ」


 だから、君のおかげ。階段を上り境内に入る浮瀬くんの後に続く。


「大事にしてね、浮瀬八千代としての、最初で最後の仕事だから」


「うん大事にする」


 本を抱きしめ大きく深呼吸をした。境内で二人きり、向かい合い視線が合う。



 それが、合図だった。


「あのね」


 息を吸い込んだ瞬間、彼が私の口に手を当てた。


「ちょっと待って。先に言わせて」


 言葉が遮られ思わずムッとするが、終わりが少しでも伸びた事に安堵した自分がいたのも事実だった。


「悪くない人生だった」


「……何それ」


 人が泣くのを我慢し覚悟を決めて言霊を吐こうとしているのに、そんな事を言わないで欲しかった。


「あの日、千代が死んで本当に一人になった。何年経っても忘れられなくて、自分が老けない理由もどうでもよくなるくらい」


「どうでもよくないでしょ」


「でも二番目の君が現れて分かった。ああ、僕は君と幸せになるまで何度でも繰り返すんだって」


 それが、私の呪いによるものだったなんて思いもしなかった。私だって同じ事を思っていたのだ。何度も繰り返す間に、もしかしたら最後は幸せに終われるんじゃないかって。


「終わるか分からなくて、期間が空けば空くほど辛かったよ。でも、いつだって君が現れるから」


 長い長い孤独を味わわせた。これはきっと、私が生涯をかけたとしても償い切れないほどの苦しみだ。もっとも、浮瀬くんはそんな事も止めていないんだろうけど。


「あー。でも千歳に最初無視された時は傷ついたなあ」


「それは……」


「分かってるよ。また置いてくって思ったんだろ。正直僕も嬉しさと同時に、また置いて行かれるって思った」


 だからこそ、今が悲しくも幸せなんだって。


「愛する人に見送られるなんて、幸せでしょ」


 秋の風が吹く。また、金木犀が香る。全てを受け入れて目を伏せながらも口角を上げたその表情はどこか晴れやかで。



 とても美しかった。



「千歳」


「なに?」


「初めて会った日から百五十年も経って、忘れられると思ったけど僕はずっと君が好きだ。この先も君の幸せを願ってる。願わくば、そうだな。君が僕の事を思い出す暇さえないくらい幸せでいて欲しい」


「それは無理だよ」


 酷い言葉だ。けれど、それは無理な願いである。


「どうして?」


「だって一度も忘れないから、思い出すなんてしない。一日の中で、どこで何をしていても必ず、私は貴方の事を考える」


「ははっ」


 噴き出した彼の頬が僅かに赤みを帯びていた。ああ、もっと普段から素直に伝えていればよかったな。そしたらこの表情を何度だって見れたはずなのに。


「僕、愛されてるなあ」


「……そうだよ」


 本を鞄に入れ地面に置き彼の両手を握った。額をどちらからかともなくくっつける。


「言うね」


「ああ」


「約束」


 これは呪いではなく約束だと、果南が教えてくれたから。私は今から紡ぐ言葉を呪いではなく約束だと思い続ける。流れ出しそうになる涙を堪えるため何度も、何度も深呼吸をした。


 そして額を離し目を合わせた。


「きっと何度生まれ変わっても、名前が変わっても、私は貴方だけを好きになって貴方だけを愛してる」


 いつもは零れていた咳もこの瞬間ばかりは鳴りを潜めた。言葉が、脳内を反響する。不思議な感覚は、いつかの私が呪いをかけてしまった時に味わった感覚とよく似ていた。


「忘れてしまっても、姿かたちが変わっても、私たちは何度だって出会う。何度だって幸せを二人で探してく。何度だって結ばれて幸せに歳を重ねて死ぬ」


 真っ直ぐ見据えた瞳を逸らす事はなかった。だってこれが最後だから。少しばかりの、お別れだから。


「素敵でしょ?」


「ああ、本当に……」


 素敵な約束だ。


 浮瀬くんが泣きそうな顔で笑うから私もきつく彼の手を握り締めた。


「何度だってここで巡り合い、何度だって愛し合い、幸福に叶えたい願いを全て叶えた上で老いて死ぬ。浮瀬八千代と小田千歳は、死んでもこの約束を違える事はない」


「永遠に」


 彼がまた、こつんと私の額に自分の額を合わせた。私は息を吐く。この期に及んでまだ、言いたくない気持ちが次に出る言葉を遮っていた。喉奥で何かがつっかえて、声の代わりに嗚咽が零れ出しそうになる。


「千歳」


 大丈夫だよ。離れた額、貴方がどうしようもないほど愛おしい色を込めた瞳で私を見つめるから、私は覚悟を決めた。


 言わなくちゃ。愛しているから。これから先も、例え今、離れ離れになったとしても。幸せな約束を叶えるために、終わらせなくちゃ。


 大丈夫これは少しばかりのさようならだ。


 だって次に会う時は、平凡で幸せな日常を生きる、私たちがいるから。


 息を大きく吸い込んだ。


 大好きだ。どうしようもないほど、この人が好きだ。狂おしいほど愛している。


 だから、今。



 手を離せ。


「ねぇ、浮瀬八千代くん」



 目尻から零れ落ちた涙に、私は渾身の思いを込めてさよならを口にした。




「死んでください」



 彼が目を閉じた瞬間、握られていた手から温もりが無くなった。




 そして、浮瀬くんの身体は、長い時間に耐えられず灰になって消えた。




 たった一人、残された私はただ前だけを見つめた。地面にぽつり、局地的な雨が降り風で落ちた橙色の花を濡らした。

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