二十九、憶えていますよ、浮瀬くん
坂道を登った先、見えた洋館に持っていたホットチョコレートを握り締めた。木造建築二階建て、花の咲かぬ植木に囲まれたその建物に見覚えがあったのは、何度も足を運んだ事を今まで忘れていたからだ。とんがり帽子を被ったみたいに特徴的な屋根が一つ、その下にある窓はレースのカーテンで中が見えない。
建物の前、短い階段を上り玄関前で鍵を取り出した浮瀬くんの背を少し離れた所から眺めていた。古びた扉に鍵を回す。開け放れた扉の先、真っ直ぐな廊下が見えた。どうぞ、中に入るのを促した彼の手に背を向ける。眼下の庭園は見る影も失った。
「どうかした?」
「……何でもない」
当たり前だけど時間が経ってしまった事に、鼻の奥がツンとした。寒さのせいだと言いたかったが、そうでない事など自分が一番理解している。振り返り中に入れば右手側に階段が伸び、黒い鉄で出来た手摺は流動線を描き美しい模様を形作っている。伸びた廊下の壁にいくつかの風景写真が飾られていた。靴を脱ぎ端に寄せる。差し出されたスリッパに履き一階を歩き始めた。
調度品を置く棚の上、無造作に投げられた鍵。突き当たりの扉を開くと冬の日差しがステントグラスから差し込み部屋を明るくしていた。シャンデリアに扉が閉まったままの薪ストーブ、古びたフローリングに白いふわふわのラグ、その上には建物の雰囲気とは正反対の大きなクッションが置かれていた。ローテーブルに薄型のテレビ、リビングには二つの椅子と小さな机。
過去と今が混ざり合った世界だった。
「一階も貰ったんだよ」
「写真館だった」
「ちゃんと憶えてるね」
私の手からホットチョコレートを奪いローテーブルに置いた浮瀬くんはコートをハンガーラックにかけた。そのまま私の首からマフラーを奪い勝手に置いて行く。コートを脱げばいつの間にか奪われラックにかけられた。暖かな室内はストーブのおかげではなく、天井の片隅に備え付けられたエアコンのおかげだろう。
「この前貰ったクッキー食べてよ、僕食べないから」
「甘い物は好きじゃないままだね」
「味覚はそう簡単に変わらないよ」
キッチンに消えてしまった浮瀬くんの背を見送ってから辺りを見渡す。随分と様変わりしたここは、思い出の場所でもあった。廊下に出て勝手知ったる顔で階段を上がる。突き当たり、外から見えていたとんがり帽子の部屋を開けた。
窓に隣接された机と一つの椅子、壁を埋め尽くしそうな勢いで積まれた本に小さなソファー。テーブルの上に置かれた花の形のランプ、空いた壁に飾られている古びた写真のいくつかに、どうしようもない気持ちにさせられたのは言うまでもないだろう。変わったのは机の上に置かれた紙やペンの中にパソコンが置かれた事くらいだろうか。
この隣の部屋はベッドがあって、その隣は何も置かれていない部屋がある。全部、知っている。
この建物はその昔写真館だった。浮瀬くんの叔父が支援をしていて、何かの記念がある度にこの場所に足を運んだ。当時高い技術を誇ったここは多くの人が訪れる写真館でもあった。何も置かれていない部屋には暗幕が垂れていて、そこで写真撮影を行うのだ。前世まで写真館は代々受け継がれていた。
写真館の主である家族と仲が良かった浮瀬くんはやがて歳を取らぬ事を怪しまれるようになった。そこで彼を助けたのがこの家族。二階の空いている部屋を彼に与え仕事を裏で手伝うようにさせたのだ。これは、前世までの情報である。
といっても、私は私と一緒にいる時の浮瀬くんしか知らない。私と再会してから彼がこの場所に帰る事はほとんどなかったし、大体近くの手狭な家を借りて早々に二人で暮らすという手段を取るのが浮瀬八千代という男である。
八十年前までは許された所業だったが、これは単純にそれを出来るだけの彼の経済力と私の家族との関係性で成り立っていた。詰まる所、私の家族との関係性は最初と今以外まともなものではなかったのである。よく言えば自由、悪く言えば放任。おかげさまで浮瀬くんは私を早々に自分の手元に置けたのだ。これだけ言うとまるで彼が凄い悪い人間に思えてくるが、当時の私もそんな家にいるより彼と一緒にいる事を望んだから、まあお互い様だろう。
女性の人権などあったものではない時代だ。家にいてろくな目に遭わぬなら、彼の元で好きに生きたかったのだ。浮瀬くんは私に自由を与えてくれたし、愛情も、幸福も、短い時間の中で共有出来た。自ら望んで彼の手を取った結末を後悔はしていない。
ただ、あの頃が今みたいに平等だとうたう世界であったなら、私は彼の手を取って嫌な事から逃げるのではなく、彼の隣に立つために努力してからその手を取っただろう。
今更どうでもいい話だが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます