四十三、変わらないと、浮瀬くん
季節はいつの間にか色を変え薄桃色が咲き誇る世界となった。三月某日、横浜市図書館にて一人分厚い本を前に項垂れていた。頭を抱えノートに書いた文字を整理していく。矢印を伸ばしたそれを指で辿るも答えは出てきそうで出て来ない。
不意に小さな咳が漏れた。口を押さえ何度か吐き出したのち溜息が漏れる。昨年末から絶妙な調子の悪さが続いていた。熱が出るわけでもどこか痛むわけでもないが、ただ時折咳き込んでしまう時がある。元より気管支が弱いからなのか、どこかのタイミングで風邪にもならぬ何かをこじらせたのか、原因は定かでない。
しかし、問題は無いのでそのままにしている。うるさい浮瀬くんに病院へ連れて行かれたが何も問題は無かった。心因性か本当に弱ってしまったのか。ストレスから出る咳なら私は昨年末から何をそんなにストレスを感じているのだろうか。原因は分からぬままだ。
彼が咳を嫌うのは久世千代が季節の変わり目に風邪をこじらせ肺炎で死んだからである。小さな咳から始まり晩年は言葉を紡ぐのさえ難しいほど、家の中は咳の音が響いていた。おかげさまで最近の浮瀬くんはただでさえ鬱陶しかったのに度を増している。
それに心配し過ぎだと思いながらもどこか嬉しいのは、きっと私の心が少しずつ変わっているからだろう。何だかんだ、私はいつの時代でも、どんな立場でも、彼に惹かれていくのだ。
週末、図書館に通い出してから今日で三回目。欲しかった情報はまだ見つからない。今年で受験生になるというのに、勉強すらせず他の事ばかり調べているのは、今を生きる人間としてどうなのだろうと思いながらも本を棚に戻し荷物をまとめ外に出た。
春の風が髪を攫う。スマートフォンに届いたメッセージを片手間に返しながら駅へ向かう。
歩いて十分ほど経ち視界の先に駅が見えた。改札前の柱に背を預け駅前の桜の木を見上げている彼の姿を見て、思わず眉が下がってしまったのを感じた。
いつか見た春の日に、彼の姿が溶け込んだ気がしたのだ。
「浮瀬くん」
名前を呼べば顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべる浮瀬くんの表情につられて笑ってしまう。彼の笑みはつられやすい。
「お迎えに参りました」
「頼んでないけどね」
「これはお迎えって名目のデートだから」
改札を通り階段を上る。ホームドアの前、また風が吹き桜の花びらが青空に舞った。
「今日は風が強いね」
「花粉も飛びまくり」
「千歳花粉症なの?」
「違うけどいつか発症しそうで怖いかな」
「花粉は蓄積らしいしね」
他愛もない会話をしながら、秒速四センチメートルで落ちていく花びらを目で追った。春は好きだ。日本という国では新学期、始まりの季節でもある。心新たに一歩踏み出す時期だ。いつかの再会も、同じ春の日だった。当時は四季の移ろいに目を向ける余裕すらなかったが、ようやく腰を落ち着けた時、庭先に植えられた桜の木から花びらが舞い上がり、青空に溶けていく様を見たのをよく憶えている。
それ以来、私は春という季節が好きなのである。
「初めて君の事を攫った日もこんな天気だったなあ」
同じように空を見ていた浮瀬くんが思い出したかのように言葉を漏らす。どうやら同じ事を考えていたらしい。
「手紙を貰ってすぐさま帰国、って言っても昔だったから届いたのは年末だし到着したのは春だったんだけどね」
「そう考えると飛行機は凄い」
「本当にね。当時にあったらもっと早く帰国してた」
懐かしいな。地面に落ちた花びらを見ながら浮瀬くんは思い出を語る。
「諦めて向こうで生きて死のうと思ってたんだよ。一人前になって今後、帰るか留まるかの選択をしようとした頃に届いた手紙だよ?運命感じたね」
「そう」
「封筒の中に金木犀の花が入ってた」
「え、嘘」
「本当。気づいてなかった?」
首を横に振る。送った手紙には数枚の便箋しか入れなかったはずだ。知らぬ間に紛れ込んだのだろうか。
「乾燥したそれを見て、向こうで金木犀なんて見なかったから忘れてたのに、匂いを思い出して君に会いたいと思った。今度こそ躊躇う前に手を引っ張ってやろうと心に決めた」
「引っ張り続ける結末になったけど」
「後悔はないよ、申し訳なさはあるけど。駆け落ちも同然で君と家族を引き離した」
「確かに悲しかったけど、あの場にいても幸せはなかったから結局良かったんだと思う」
「短い時間だったけどね」
駆け落ち同然で使用人と三人、家を出てから数ヶ月後、久世千代は死んだ。
「そう考えると、僕らって意外と同じ時間を共有出来てないよね。その次は三年、その次は二年、これだけ長生きしてこれだけ生まれ変わってるのに」
まるで呪いみたいだ。浮瀬くんの言葉に、ふと、久世千代だった頃の記憶が蘇った。
「だから長生きしてもらわないといけないんだよ」
「極力頑張る」
「咳は収まった?」
「それ昨日も聞いてきたじゃん。だいぶ良くはなったよ」
「さすがに同じ死に方されたらたまんないって」
電車が着き乗り込む。席はどこも開いておらず、角に背を預けた私の前に浮瀬くんが立った。
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