五十二、私はね、浮瀬くん


「やぁ」


 片手を上げぎこちない挨拶をした浮瀬くんがマンション前の花壇の柵に預けていた背を戻した。私も軽く手を上げる。何と言えばいいのか、むず痒い気分だ。浮瀬くんは行こうと言って歩き出す。私はその後を追った。


「出店行こ。お腹空いた」


「ご飯食べてないの」


「朝しか食べてない」


「ちゃんと食べなよ」


「仕事してて食べなかった」


 いつもなら繋いでくる手も今日はポケットの中に入れたままだ。私も私で、肩にかけた鞄を握り締めている。何とも言えない距離感に、平然とした顔で他愛もない会話を続けた。そういえば仕事、何してるんだっけと思ったが、浮瀬くんが沈黙を嫌がるかのように話し続けたので聞くタイミングを逃した。


「去年は二人と見に行ったの?」


「高校生になってからは、毎回莉愛と果南と行ってる」


「仲良いね」


「まぁ、クラス離れたけど」


「阿坂さん文句言ってたけど何だかんだでこっちのクラスにも友達いるから楽しそうだよ」


「コミュ力高いからね」


「確かに。仙堂とは相変わらずだけど」


 まだ喧嘩しているのか。呆れ笑いを浮かべると浮瀬くんはこちらに目を向けた。しかし、視線はすぐ前へと戻る。


「……私が家にいなかったらどうするつもりだったの?」


「帰るまで待ってた」


「普通に困る」


「いい加減限界だったから、今日ちゃんと話そうと思って」


「……そう」


 目を伏せ人で賑わう横浜の街に耳を傾ける。浮瀬くんは、勘違いしないでねと言った。


「何が」


「嫌いになったとかそういうのじゃないから」


「へぇー」


「適当な返事だな」


 むしろ言われて困るのは僕の方かと、一人納得したように頷いた浮瀬くんに少しばかりの笑いが込み上げる。不思議だな、二ヶ月もすれ違っていたのに、彼は変わらないし私も相変わらずだ。


「まぁとりあえず何か食べよ」



 建ち並んだ出店に思わず感嘆の声が上がる。去年より数が増えた出店は夏祭りの定番屋台に横浜らしいお洒落な屋台が混じっている。何を食べようか、目移りして周りをきょろきょろ見てしまう。お腹はそこまで空いていなかったのに見たら空腹になる気がするから屋台には謎の魅力がある。


 目移りする私を見た浮瀬くんは笑い、人ごみに入る前に私の手を引いた。


「行こう」


 笑った彼を見て、ようやく今日まともに浮瀬くんの顔を見た事に気づいた。


 そこからは気まずさなど忘れ、ただ目の前の食べ物に夢中になった。焼きそばの両隣をお洒落なクレープとスムージーが挟んでいたのを見た時には二人で笑った。両手いっぱいの食料を買い込んだ私たちは近くのテラス席に腰かけた。時刻は六時半、花火が上がるにはまだ時間がある。


 机の上に並べられた食料のほとんどが茶色で思わず噴き出してしまう。たこ焼き、お好み焼き、焼きそば、全部ソースだ。極め付きはペットボトルの烏龍茶。小さいりんご飴とフルーツ入りの炭酸ジュース、袋入りの綿あめとクレープは私の物。机を半分に切って領地を奪い合っているのかと言えるほど色が違っていた。


「ソースしか勝たない」


「そんなに好きだった?」


「好きだね、ここ数十年はずっとこんな感じ」


 でも胃もたれするから烏龍茶と言ってるあたり、お爺ちゃんが見え隠れしていた。


「甘い物しかないじゃん」


「うん、だってそっちの食べ物奪うもん」


「言うと思った」


 割り箸を渡してきた浮瀬くんは呆れた顔で笑う。彼ならこの量を一人で食べ切れるかもしれないが私は違う。どれも少しずつ味わいたいのだ。焼きそばに手を伸ばし麺を啜る。濃いソースの味が口中に広がり、安っぽい味がここでしか味わえない色を出していて美味しかった。


「屋台特有の味」


「分かる。美味しいんだけどクオリティが少し低い所がいいんだよね」


 お好み焼きを口にしながら浮瀬くんが応える。口周りにソースが付くのも気にせず食べ進めるその姿に、本当にお腹が空いていたのだと思った。


「そんなに集中してたの?」


「まぁ、のめり込むと見えなくなるから」


「集中力高いもんね」


「千歳と一緒にいない分の時間をずっと仕事に当てたから、余計な事考えなくて済んだ」


「そういえば仕事って何してるの?」


 不意に先程の疑問をぶつけてみる。彼の家に行って仕事場も見たが、何をしているのかは一度も聞かなかったのだ。何をしていても彼は変わらず彼だし、浮瀬くんも自ら自分の仕事を語りはしなかった。高校生の私に合わせていただけなのかもしれないが。


「何だと思う?」


「分からないから聞いてるんだけど」


「千歳なら分かると思うよ」


 一体なんだ。綿あめに手を伸ばしながら考えるも思いつかなかった。浮瀬くんは自分から言う気はないらしい。隠しているわけでもないけど。彼はたこ焼きを頬張る。熱かったのかすぐに烏龍茶を流し込んでいた。


「とりあえず今の仕事が終わったら教えてあげる」


「勿体ぶるな……」


「まぁ、ちょっとだけ」


 こういう時は彼が何も言わない事を分かっているので、言及はしなかった。表に出る仕事以外何をやっていると言われても納得出来そうだ。どんな答えが返ってきても、へぇという自信しかない。


 クレープを頬張り彼のソースたちをつまみ、夜は少しずつ更けていく。他愛もない、平和な時間がこれほどまで愛おしく感じられるのは、きっと離れていた時間のせいだろう。




 結局浮瀬くんは全てを食べきり私が食べ切れなかったりんご飴さえも食べた。よく食べる事だ。その細身に吸収されたカロリーはどこに行くのか教えて欲しい。私が同じ事をした瞬間太るのは明白だ。


 食事を終えたからなのか、ご機嫌な浮瀬くんは人の波から離れ私の手を引き歩いている。見慣れた道に出た時、彼がどこに向かっているのか分かってしまい足を止めた。


「どうかした?」


「花火見るんじゃないの」


「見るけど」


「絶対見えないと思うんだけど」


 彼が今向かっているのは元町厳島神社だ。私たちの出会いの場所であり何度も巡る場所。けれどそこは周りに建物があるせいで花火など見えないはず。しかし、浮瀬くんは得意げに笑った。


「それが見えるんだなあ」


「嘘だ」


「本当本当。君がいない間の花火はいつもそこで見てたから」


 まぁ信じなさい。大股で歩き始めた浮瀬くんに訝しい視線を送っても気づきはしなかった。神社の前に着き、一応会釈をする。神様がいるかは分からないが、閉まっているのに入る不躾な人間ですみませんという意味合いを込めてである。浮瀬くんは階段の最上段に座り隣を叩いた。左隣に腰かけた時、空が良く見える事に気づいた。


 あと十分弱で花火が上がる。六月の風に身体を預け耳を澄ませると虫の鳴き声が聞こえた。蝉はまだ早いから他の何かだろう。


 離さない時間が続き、静寂を破ったのは浮瀬くんの方だった。


「ごめん」


「え……」


「まず最初に嘘ついた」


「死ぬ方法を知りたくないって事?」


「違う。今度こそ一緒に死ぬための方法を見つけるために生きようって言ったの。あれ嘘」


「は?」


 どういう事と聞く前に浮瀬くんが口を開く。


「君が、一人でも方法を探してやるって言うと思わなかった。正直舐めてた。そんなに行動力があるなんて、僕はずっと知らなかったから」


「これまでは出来なかっただけだよ」


「うん、だから余計に。こんなにも早く動くとは思わなくて。僕としては長引かせて見つからないねなんて言っていたかったんだけど」


「ちょっと待って」


 その言い方だとまるで。浮瀬くんがこちらを見る。そして寂しげに笑った。


「知ってる」


 息が、止まった。何で、震える声が、伸ばした手が彼の身体に触れる事も出来ずに止まった。


「僕は死ねない」


 向き合ったその時、花火の音が耳をつんざく。光がパラパラと六月の夜に咲き誇り散る。彼の顔が照らされ目が痛くなるほどの色彩が一瞬で消えた。


「千歳は言ったね、長い時間は調べるためにあるんじゃないかって。事実だ。僕はもうずっと前、千代が死んでからすぐに自殺を図った。成功したはずだったよ、でも首を吊ったまま起きた。それも、何十回。馬車に轢かれても、首を切っても、目を覚ましたらいつも通り」


 悪い夢だと思った。また花火が上がる。世界が青く光り輝いた。


「死ねない事に気づいてから二十年、容姿すら変わらない僕は気味悪がられて叔父の協力の元隠れるように生活を始めた時だった」


 ひゅーっと気の抜けた音がまた遠くから聞こえる。


「千代の、妹に会うまでは」


 ひと際大きな花火が咲いた。私は驚きが隠せず何度も瞬きを繰り返す。妹は私が家を出た後すぐに京都へ嫁いだ。それから死ぬまで一度も会っていない。最後は玄関前、幸せになれず、死んじゃえと言われた。まさかその通りになるとは思わなかったが。


「僕を見て酷く驚いた様子だったよ。縁を切ったからか、君の死を知らされていなかったらしくて、千代が死んだ事を話した時に泣き崩れた」


「そんな……」


「自分のせいだって」


「違う、それは」


「いや、事実だったんだ」


 小さな花火が連続して咲き乱れる。浮瀬くんは両手を握り合わせた。


藤原友子ふじわらともこ


「……家系図にいた人!」


「久世千代乃の大叔母に当たる人だ。三十代で亡くなって、結婚もしなかったらしい」


「その人がどうしたの?」


「その人は家族から忌み嫌われてほとんどいない扱いだったみたい。家の離れでずっと孤立した生涯を過ごしたって」


「何でそんな事」


「彼女の持つ力が原因だった」


「力?」


 僕もにわかには信じがたいけど、君の妹は確かに信じていた。浮瀬くんの言葉にごくりとつばを飲み込む。


「藤原友子の言葉は人を呪った」


「……は?」


「彼女の一言で人が怪我をし、狂い、死んだ。もしかしたらただの偶然だったのかもしれない。でも彼女が言葉を発せば発するほど、言霊となり多くの人を殺したんだ。彼女の兄妹や親、顔も知らぬ人間も名前さえ分かれば殺せたらしい」


 実際千代の妹から教えてもらったと言う浮瀬くんに言葉が出て来なかった。そんなのまるで。


「呪いだよ千歳」


 大輪の花が、咲いた。


「君が死んだのも、僕が死ねないのも、全部呪いなんだ」



 言葉で人を傷つけた事がある。誰かの救いになった事もある。浮瀬くんを何度傷つけたか分からず、何回愛を囁けたのか片手で数えるほどしか出来なかったと思う。生まれ変わる度に苦しかったが、どこか前向きに考えていた自分もいて、もしかしたら今世こそ彼と死寝るために生まれ変わったのかもしれないと思った。


 彼が死ねないのも私が繰り返すのを待っているからで、いつか必ず、きっと。このどうしようもない運命が崩れ去る日が来ると思っていたのだ。馬鹿みたいに、心のどこかで信じ続けていた。


 それが、あの一言から始まっていたなんて思いもしなかった。


「呪いは呪いでしか掻き消せないんだって。君の妹は泣きながら僕に謝ったよ。お姉様を殺したのは自分だって、幸せになるなって思ってしまったから」


「……あの子は、その後どうしたの?」


「死んだ。僕らの呪いを何とかする前に、自殺したよ」


 そんな終わり方ってないだろう。大事な妹が、自分を呪い殺した罪悪感から命を絶つなんて、そんな終わり方望んだわけじゃない。


「千代の時にもあったんじゃない?自分が強く願った誰かを傷つけた事」


 息を飲んだ。口を押さえ震える手を必死に握り締める。ある。私は自分の結婚相手に、死んでしまえと言った。京都行きの馬車の中、本気でそう願い口にしたのだ。それが言霊となり呪いと化し相手を殺したのだとしたら。


 私は人殺しだ。


「僕が知る限りこんな事が出来るのは藤原の血を継いでいる人間だけだ。でも藤原家はもう潰えた。血縁者はどこかにいるかもしれないけど、いないと考えた方がいいだろうね。血はどんどん薄れるわけだし、同じ事が出来る人間が再び現れるのは望みが薄い」


「じゃあ、」


 私の頬に手を伸ばした浮瀬くんは、だから言いたくなかったんだと呟く。かさついた親指が目尻を撫でた時、初めて自分が泣いている事に気づく。唇を噛み締めた浮瀬くんは小さく息を吐き私を見た。


 酷く、傷ついた顔で。



「運命は変えられない」

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