四十八、変わらないと、浮瀬くん


 電車に揺られ数十分で都心に出られる場所に住んでいるのは幸運だったと思う。日本の主要都市に集まる叡智を見るのに学校帰りで辿り着けるのは楽だ。もし遠方に住んでいたら酷く面倒に感じていただろう。


 都立図書館の前で腕を組む。少しばかり息を吐きイヤホンを外した。スマートフォンの電源を切ったのは集中したいから。それ以外の理由などないと、再び心に言い聞かせる。一歩踏み出した足が少しばかり震えたのは、真実に辿り着けるかもしれない期待感と不安だ。もしこれで何も掴めなかったらどうしようと怖くなる。


 それでも、ここまで来た理由はちゃんとある。


 図書館内に入り自分の名前を伝える。あらかじめ予約していた資料を受け取るためだった。司書の女性は名前を聞き少しお待ちくださいと言いどこかに消えた。


 おびただしいほど本の棚が自分を囲んでいた。通路は確保されているはずなのに、等間隔に配備されていると分かっているが何だか圧を感じた。


 普段通っている図書館よりずっと古びた紙とインクの匂いがする。詰まった歴史が荘厳な雰囲気を醸し出していた。まるで世界の歴史を全てここに集約させたかのような、そんな気持ちにさせられた。


 近くの棚にあった背表紙の剥がれかけている本を手に取ろうとした時、司書の女性が資料を抱えて戻って来た。数冊の古びた本と時代遅れの巻物。


「どうぞ」


 突き当たりの席が空いてますと言われ、資料を受け取り頭を下げる。


「学校の課題ですか?」


「え?」


「家系図を予約する学生さんがたまに、自分の先祖を調べる課題で使うと言われるので」


「ああー、そうですね、はい」


「頑張ってください」


「ありがとうございます」


 多分、今の笑みは酷くぎこちなかっただろう。首がオイルのさしていないロボットのようにギチギチと音が鳴った気がしたがすぐに前を向く。学校の課題ではないし、自分の家系図でもない。いや、あながち間違いではないのか。過去の、私の家系図だが。


 突き当たりに差し掛かり人のいない空間に広い机といくつかの椅子が置かれていた。周りに誰もいない事を確認してから資料を置く。椅子に座り荷物を置いて、巻物に手を伸ばした。


 そう、これは久世千代の母、久世千代乃くぜちよのの家系図だ。


 彼女は藤原という家に生まれついた三女で、かの有名な藤原道長の遠縁にあたったらしい。京都で裕福な生活を送っていた彼女がお見合いで父に出会い久世千代乃となるのだが、先日横浜の図書館で見ていたのは久世家の家系図のみだった。つまり、久世千代乃の実家である藤原家の家系図はそこに含まれない。


 私が彼女の血筋を調べようとしたのは訳がある。久世家の家系図は想像のつくものだった。地主でずっとそこに住んでいた人たち。久世千代の父の祖父の代から記されていたそれに特別引っかかる事は無かった。よくあるお金持ちの家同士の結婚を重ねてきた末の結果である。


 ちなみに、久世家の家系図は千代の弟が結婚し、その子供の名前が書かれていた所で終わっている。これは書かなくなったのか、はたまた滅んだのかは分からない。


 だが、藤原家は長い歴史を持っている。開いた長い長い巻物がその証拠だ。和紙に滲んだ墨、ミミズによく似た文字は解読不可能なんじゃないかと思うくらいだ。


 気を取り直し久世千代乃の名前を探す。十分ほど難解な文字を追っていた所、それっぽい字が出てきたので別の本を開く。


 一緒に頼んだ本は古文を読み解くと書かれている。こうなるのを見越して目ぼしい名前を見つけたらミミズ文字解読用の本を頼んでおいたのだ。辞書に近いであろうそれを開き、千の字を探す。筆の流れは確かに、私が見つけた千の字と合致している。他に同じような文字はない。これが千代乃だと考えてよいだろう。


 私が彼女の両親の名前や兄弟の名前を知っていたのならもっと楽に探せたのだろうが、千代乃は自分の家族の話を話題にする事はなかった。名前で呼ぶシーンも、見かけた例がない。


 私は彼女の両親、つまり千代の祖父母の名前を知らないのだ。お爺様お婆様としか呼んだ事がない。彼女も両親の事を、お父様、お母様呼びだったので知らぬのも無理はない。


 千代乃の上に伸びた二人の男女が恐らく彼女の両親であろう。名前は、目を凝らし何とか解読を挑むも困難を極めた。


 こんな時に浮瀬くんがいてくれたら。唇を開きかけた時、我に返った私は口を閉じる。今何を考えていた。彼がここにいた所で手伝ってはくれないだろう。だって、あの人よく分からないけど調べるのに否定的だし。


 何だって否定的なのだ。思い返すとイライラしてきた。彼にとっての悲願でもあるはずなのに、それを手伝わない手なんてないと思っていたのに、何も言わず、理由さえ教えないくせに良い顔をしないなんて。せめて理由を言ってから嫌な顔をしてくれ。


 三月の終わり、喧嘩した日に彼が浮かべた表情を思い出しまたむしゃくしゃした。だって変わらないと、いつまでも悲劇を繰り返すなんてごめんだ。だからこそ、今世は彼に会いたくなかったから、あの神社に行かなかったのに。


「あー」


 誰もいないのを良い事に図書館で間延びした声を上げる。私の声は恐らく、周囲の本に吸収されていって他の誰にも届いていない。


「むかつく」


 一瞬でも彼がいればと思ってしまった私も、否定的な彼も、たった一文読むのに酷い時間がかかるのも、全部に腹が立つ。久世千代の知識があるはずなのに、この家系図は千代の持つ知識を越えた所にある。


 ミミズみたいな文字は沢山見てきたが、それを平然と凌駕するミミズ文字なのだ。名家の決められた人間が代々書いている家系図。それがここまで難解だとは。


「疲れたー」


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