四十九、変わらないと、浮瀬くん
伸びをし世界を反対に見たその時、視界の端に先程の司書の女性が映った。こちらを見てクスリと笑う仕草が、千代についてきてくれた使用人の笑い方を彷彿とさせた。
「課題は進みましたか?」
声をかけてきた彼女に慌てて姿勢を正す。頬を掻きながら、難しいですと笑うと彼女は私の隣に立った。
「もしよろしければ、お手伝いしましょうか?」
「え?」
「よく学生さんたちが課題で借りたはいい物の読めずに聞いてくるんです。見ている内に読めるようになりまして」
付け焼き刃なんですけど。笑う彼女に私は手を合わせた。いるかどうかも分からぬ神よ、ありがとうございます。今ここに救いの手を差し伸べてくれて。両手を振りながらお願いしますと頭を下げる。彼女は隣に座り、どこを読んでいるか聞いてきた。
「ここなんですけど」
私が指を差した先、彼女はスラスラと読み進めていく。驚きに口が開いてしまうが、聞き逃さないように急いでメモを取った。千代乃から前の先祖の名を全て読み上げてくれたのを書き記した頃、閉館のアナウンスが鳴り響いた。
あ、と声を上げたのはどちらだったか。私たちは顔を合わせ笑いあった。
「すみません、こんな時間まで」
「いえいえ、参考になりましたか?」
「とっても!本当に助かりました!」
人名でびっしり埋め尽くされたノートを見た彼女は口元に手を添えクスクスと笑いながら、お役に立てたなら何よりですと言った。綺麗な言葉遣いの人だ。巻物を戻しながら立ち上がる。私の手元に抱えられていた資料を取った彼女は、後は大丈夫ですと言った。
「家系図は重要資料で、仕舞う所が違うので」
「じゃあ本だけでも戻しますよ」
「いいえ、高校生は帰る時間ですよ。大丈夫」
時刻は午後七時。今から帰ったら早くても八時頃だろう。電車のタイミングがずれればもっと遅くなるかもしれない。
「その制服、横浜にある進学校のですよね」
「知ってるんですか?」
「知り合いが通っていて」
静かになった図書館の廊下を二人で歩く。鞄を持ち直し自分より少しだけ背の高い女性を見た。
「お家が遠いなら尚更早く帰らないと」
「何かすみません」
「楽しかったですよ、こういう機会ってあまりないので」
頼られるのは嬉しいですよね。穏やかな表情を浮かべる彼女に、そうですねと返す。
「知らない事を知れるのも楽しいですし」
「はい。本はいいですよね、沢山の知識を得られるから」
「自分の知らない世界を知れるから?」
「行った事のない国でも、行った気になれる。読んでいる瞬間だけはその中に存在出来る気がするんです」
「ふふ……」
「何かおかしかったですか!?」
夜になるとより荘厳な雰囲気をまとう図書館に似合わぬ声が響き渡る。女性は私の発言をずっと笑っていた。
「人って変わると思いますか?」
「えぇ、何ですか突然」
足音が妙に響いた。本棚の隙間を縫い一歩先を歩く彼女が問いかける。
「どんな人も変わるんですよ、容姿も性格も、環境や心持ちでいくらでも変わります。これまでは積極的だったのに、何かをきっかけに消極的になる事だってある」
「つまり?」
「つまり、変わらない物は世界のどこにもないって事です」
「どこにも……」
何だか心臓がそわそわした。やがて出入口が見え、彼女が最初座っていた司書カウンターが顔を出す。同僚であろう人たちがこちらを見たのち、彼女から資料を受け取った。私は促されるまま外に出る。
階段から上から見えた広い街路に、街灯が等間隔で並び幻想的な光を灯している。振り返り彼女にお礼を言おうとした、その時だった。
「でも根底にあるものは変わらない」
「え……」
「自分のルーツを調べて、色んな事を知っていっても、時間が経ち世界が変わっても、根底にあるものは変わらないんですよ」
「根底に……」
「また、来てください。資料を揃えてお待ちしております」
彼女の長い黒髪が風になびいた。品のある長いプリーツのスカートは波打つ。先程見せていた笑みとは違い、どこかいたずらな表情を浮かべている彼女に、いつかの記憶の中で同じ表情を浮かべていた人間がいたのを思い出し投影してしまった。
「お名前、聞いてもいいですか?」
「
もちろん、聞き覚えなんてない。彼女とは初対面である。
「小田、千歳です」
「千歳さん。良い名前ですね」
「ありがとうございます」
お気を付けて。手を振る彼女に背を向け歩き始めた。
根底にあるものは変わらない。帰りの電車で外を眺めながら、彼女の言葉を反復する。変わらないものを、沢山見てきた。変わった所を、沢山知った。街も人も姿も何もかも、最後の記憶から随分移り変わって、ふとした瞬間前世の記憶が蘇る度に切なくなった。
変わっていて当たり前なのに、もうどこにもいないのに、まだそこにあってくれたならと思った。生きているはずなのに世界に置いて行かれた気分にさせられた。何十回何百回、思い知る度彼の姿を探そうとして躊躇った。
変わらないものはない。浮瀬くんは随分変わった。沢山絶望して待ち侘びて生きたくもないのに生きなければならない日々がどれほど辛いのか、私には痛みの一片すら分かち合えない。
ただ同じように変わっていく世界を見る度、どう思ったのだろう。変わっていく私を見る度、どんな気持ちで探したのだろう。毎日のごとくあの場所に通っていたのか。ずっと、忘れずにいてくれたのか。
変わらないものはきっと、浮瀬くんが教えてくれた。百五十年も冷めやらぬ恋をして、百五十年も生きて変わらぬ想いを抱いていた。そんな彼が否定的になるのも、変わらないものがないという事なのだろうか。
鼻の奥がまたツンとして空いた席に腰かけ鞄を抱え頭を擦り付ける。
無性に、彼の声が聴きたくなった。
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