第12話 宮殿の悲しきドラゴン
むかしむかし。
漆黒に覆われた島に、おそろしいドラゴンがいました。
ドラゴンは年に1度、近隣の王国にやってきては破壊の限りを尽くしました。
100年前、彼をこらしめた勇者はもうこの世にいません。
ある国のお姫様は従者たちの目を盗み城を離れ、ドラゴンの棲む島へ向かいました。
暗く深い森の奥、朽壊した宮殿にドラゴンが眠っています。
「なぜ破壊を繰り返すのですか」
お姫様は問いただしました。
「私はかつて涙一粒すら流さぬ傲慢な王だった。度重なる戦で自らの国を滅ぼし、神によってこの姿に変えられた。ドラゴンはひとたび焔を吹くと、善悪の区別がつかなくなる。なぜ神はこの私をドラゴンに変えたのだろうと長き月日をかけ考えた。私は怖れとしてここに存在し、悪として生きねばならないのだと悟った。いつか私を倒す心正しき勇者が現れるのを待っている」
ドラゴンは静かにそう答えたのです。
「あなたの力が強大すぎて、灰と化した町にはこの10年間子供は生まれていません」
「ならば、あと20年破壊を止めよう。そして私を殺す勇者が出てくるのを待とう」
ドラゴンが大人しくなり数年の月日が流れました。
ドラゴンは焔を吹くことをやめたため、内側から身を焦がされる苦痛に耐えていました。
お姫様はそこを離れませんでした。海水を毎日汲み、ドラゴンの身体を冷やすためです。
なぜドラゴンはそこまで自らの死を願うのだろう。お姫様は思いました。
焔を吹くことを止め、自らの苦痛を受け入れる。ドラゴンはもう、かつての怪物ではない。そう、お姫様は思いました。
「私は王子であるお前の兄弟らを焼き殺した。なのになぜ私を救おうとするのだ。私に与えるべきは罰だと思わないのか」
献身的なお姫様に、ある日、ドラゴンは問いただしました。
「あなたは自分で罰を与えています。あなたに必要なのは救いです」
お姫様は言いました。
破壊と殺戮はいけないことです。
しかし、お姫様は、悪として生き、いつか勇者に殺される事を願うドラゴンの生涯を憐れんだのです。
ドラゴンはお姫様の優しさに触れ、一粒の涙を流しました。
その瞬間、雲の切れ間に一条の光が差し込みました。
朽壊した宮殿はかつての姿に変わり、森には永遠に枯れる事のない植物がうまれました。
そしてドラゴンは王様の姿へと戻り、こう言ったのです。
「かつての傲慢は捨て、この国を貧しき人のために解放しよう」
こうして世界はかつての平和を取り戻し、幸福に包まれました。
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吉岡莉那は、子供の頃「宮殿の悲しきドラゴン」というこの童話が好きだった。
最近になって、ふと、この童話を思い出しインターネットで検索してみたところ、以下の酷評を見つけた。
「ドラゴンがかつて焔を吹いていたのは、己の弱さに負けていたからであり、後半、焔を吹くのを耐えるのは、自分をいつか勇者に殺してもらいラクになりたい一心からである。そう、焔を吹くのも、また吹くのを止めるのも、自分の利己的欲求からであり、真の自己犠牲とは言えない。
また、お姫様の献身も、ドラゴンを憐れんだから、という美麗な後付がなされているが、実のところ、ドラゴンが王国を襲わないかの監視であり、海水で身体を冷やす行為で、ドラゴンの破壊行為を抑止しているのだ。この童話は欺瞞に満ちている。計算に裏打ちされた行動を、綺麗事で包み隠し、綺麗事で解決させている。実に、偽善的な童話と言えよう」
「偽善って何?」
莉那はこの酷評を見て思った。
行動にはそれなりの利害関係や思惑が含まれてるものではないか。しかし、それがこの世界の全てだとは思いたくない。
例えばボランティアに勤しみながら、企業名が大きく書かれたパーカーを着る団体がいても、大口の募金を公言する有名人がいたとしても、血の繋がらない養子を10人以上も迎え入れるハリウッドスターたちがいたとしても、それを一言で「偽善」と片付けるのはなんと浅はかなのだろう。
世間的に見れば美談とされるものの中には100%利己的な動機のものもあるだろう。しかし、そればかりではないと莉那は思う。
企業名の書かれたパーカーを着込んだボランティア団体の汗の雫を、大口の募金をした有名人が、感謝の手紙に涙したところを、人種の異なる子供たちと賑やかなパーティーを過ごし幸福感に包まれた彼らの生活を、「偽善」と切り捨てた人たちはこの目で見たのだろうか。
表面上で「善」「悪」を判断し、安易に「偽善」と称する人たちの方が心の貧しい「偽善者」なのではないかとさえ思う。
「結果として大勢の幸せに繋がるなら、それは善行じゃないのかな」
莉那は酷評のページを閉じて、そう呟いた。
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12月17日、水曜日。
3日連続の期末テスト最終日。
莉那は、バスタオル1枚で浴室の鏡を覗き込んだ。朝の6時に起きて、シャワーを浴びるのは高校にあがってからの日課だった。
(1日の始まりはシャワーを必ず浴びて、新しい気持ちで1日を生きよう)
そういう思いがあった。
中学2年の時に心臓の病を患い、大出術をした。結果、手術は成功し、後遺症もなく同年代たちと変わらぬ生活を送れるまでになったが、命への感謝の気持ちはますます深まった。
(今日も動いてくれてありがとう)
湯気で曇った鏡面をバスタオルで拭く。鏡を前に身体が顕になる。
そこに映し出される左右反転した、左乳房の下方に残る数cmほどの傷を撫でながら莉那は誰にともなく呟いた。
母は娘の身体に残るこの傷を憂いていた。「健康な身体に産んで上げられなくてごめんなさい」そう何度も泣きながら謝った。「いつかその傷をお母さんが治してあげるからね」そう言って母は整形外科の情報を集めたりしていた。
「いいんだよ、お母さん。私はこの傷を消したくない。この傷を見るたびに私の心臓は動いてくれてるんだって思えるから」
母は泣きながら頷いた。無口な父は黙り込んだままだった。嫁入り前の娘の身体に残る傷を父は父なりに気にしていたのだろう。
「お父さんも気にしないで。私は今こうして生きてる。そしてこれからも…。親孝行できる日まで元気でいてね」
父は泣いていた。声を出さずに泣いていた。翌日から母によって、食卓の醤油は減塩のものに替えられ、父の晩酌の頻度は毎日から週に1度のみに減らされた。
莉那はそんなバカ正直な父母がとても大好きだった。自分の手術費の捻出のため借金をしても、それを表に出さず、毎日働いてくれる両親に感謝していた。
鏡の向こう、胸に残る傷を細い指先でなぞる。傷はおろか、裸を誰かに見せた事などなかった。
(いつか私もすべてを見せるヒトに出会うのかなぁ)
もし、そんな人が現れたらこの傷を見て何て言うんだろう。莉那は思った。
「それもお前の一部じゃないか」
誰かの声が聞こえた。誰だろう。その人物は傷跡に口づけをしながら、そう言っている…誰だろう。
(なに考えてんだろう、私)
恥ずかしさのあまり頭に浮かんだ妄想を打ち消し、ドライヤーを手にとった。
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緊急速報!!!!!!!!!!!!!
「K県小喜田内市で、小学校5年生男子が発砲事件。死傷者なし」
莉那が制服に着替え、食卓に着くと、朝のニュース番組でそんなテロップが流れていた。
小喜田内市…莉那の棲む殷画がある市だ。
画面に釘付けになり「え」という莉那をよそに、関西訛りの司会者は、深刻さが微塵も感じられない軽快な口ぶりで、番組を進行している。
「これはもう日本に脅威が迫ってるってことですよ!!!日本はもう終わりなのか」
顔は深刻そうな表情だが、どこか嬉しそうに、他人事のように事件を糾弾する司会者。コメンテーターは神妙な面持ちで頷く。
このニュースは、朝ごはんの準備のためフライパンを振っている母の耳には届いていないらしいが、出勤前の父は、莉那同様に固まっていた。
莉那は、テレビの音量を大きくした。
「この銃ですが、今回、発砲してしまった小学5年生児童の話によると、郵便ポストに入っていたと。オモチャだと思って公園で友達と撃ってみたら本物の銃だったと。そういう事らしいですが、警察の発表によると既製品を模した密造銃らしいですね」
「はい。県警の発表によるとどうやら3Dプリンターを利用して作られたものだという事です」
入社数年目の女子アナウンサーがボードのシールをめくり、今回の事件で発砲された密造銃のモデルとされるハンドガンの正式名称が現れた。
「SIGザウアーP228…ですか。私こういうの詳しくないので、名前だけ見ると、なんじゃい!ってなってしまいますがね。ええっと、今回、発砲されたこの銃はどのようなものなのでしょうか?北川さん」
司会者が、ゲストコメンテーターとして呼ばれた、銃器に詳しいとされる北川という男に質問をする。北川は真っ黒なサングラスを光らせながら口を開いた。
「今回、発砲されたのは、SIGザウアーP228という型で、9mmパラベラム弾を使用するので威力も絶大。FBIやCIA、軍の航空機搭乗員の護身用としても採用されている、非常にメジャーな銃です」
「なるほど。メジャー…有名な銃だと、密造しやすいものなんでしょうかね?」
司会者は大きな目を上げ下げしながら、事の重大さを世間に伝えようとしているようだが、口ぶりは相変わらず軽快だった。
「その通りです。そういったモデルの設計図はネットで簡単に入手できますし、バレルやバネなどの金属部品、弾丸だけどこかで調達さえすれば、あとの銃身などの部位は3Dプリンターを使って特殊プラスチックで製造できてしまいます。それこそ、どこかのマンションの一室で人知れず、簡単に作れてしまうレベルです」
北川はテレビ慣れしていないのか、聊か言葉を詰まらせながらも的確に答えた。
「しかし、こういったものが簡単に手に入ってしまう時代…これ、どうですか。岸本さん」
質問を受け、ゲストとして呼ばれた初老の元刑事が咳払いをし、コメントした。
「昔は、銃を一丁、見つければ警察は大手柄でしたよ。組長ひとり捕まえるのに等しい功績と認められましたから。でもそれは日本の銃規制が確立されていた時代の話です。今や、こうして銃が簡単に製造できる。オモチャのように。銃が身近な存在になってきてしまっているという事ですね…。今からでも対策を練らねばなりません」
「もう遅いですよ。対策なんて今からしてももう遅い。それに…」
北川が初老の元刑事のコメントに横槍を入れた。
「他にもまだ、どこかに密造銃はあるはずです。さらに言えば…すでに出回った銃の回収は不可能でしょう」
「え?ちょっと待ってくださいよ!まだ銃があると?まだ、出回ってると言うんですか!北川さん」
「当然でしょう。犯人の狙いが何かは分かりませんが、この一丁だけじゃないと思いますよ」
北川は興奮したように答えた。
「それはまずいですよ。事件を掘り下げるたび、疑問しか浮かんできませんね。いまだ犯人逮捕に至っていないわけですが犯人の狙いは何でしょう?そもそも、なぜ小学5年生のポストにこのような密造銃を投函したんでしょうかね?」
司会者が核心を突く。それは莉那が、国民中が知りたい事だった。
「犯人が、興味本位で小学生に発砲させたかったというだけの…単純な愉快犯ならまだいいんですがね…あ、いや、失礼。よくはないですが…。問題は、計画的犯行だった場合ですよ」
初老の元刑事は言った。
「と、いいますと?」
司会者は考えの足らない表情を作り、国民の声を代弁した。
「ですからね、犯人がハナっから、近所の小学生に発砲させるのが目的なら、ある意味、度が過ぎたイタズラという線で捜査が進むでしょうけど、問題は…」
「問題は?」
司会者は鼻の下を伸ばし、問い直した。
「問題は、この犯人に悪意がある場合です。まだ未確認情報ですが、この小学生は学校で酷いイジメを受けていたという情報もありますよね。インターネットの掲示板に学校名とイジメっこの名前を書き込んで、殺したいと書いていたとか…。まぁ、それはいいですけどね。つまり犯人は、この小学生に復讐の道具を、意図的に与えた。そういう考え方をすれば、この犯人の動機は、もっと根が深いものとなりますよ」
「はぁ」
「今やインターネットで誰が憎い、誰をやっつけたい、誰を殺したい、なんて名指しで書くなんて当たり前の時代でしょう。そういった情報を元に、犯人が密造銃を配って回ったら、今以上に悲惨な状況が待ってます。刺殺や絞殺と違い、銃なら離れた場所から痕跡を残さず殺す事もできますし」
「でも、岸本さん。そんな事して復讐の手助けをして、犯人はどうしたいんでしょうか?」
「社会に不満がある、もしくは社会に抑圧された人間だったら、秩序を破壊してみたい。そう思っても不思議ではありません。昨日まで隣近所だった人同士が、銃を簡単に手に入れ、憎しみを剥きだしにする…当然、銃を受け取った人のほとんどが警察に届け出るでしょうけどね。日本人はそういった国民性ですから。でも、いつどこで銃が出回ってるか、猜疑心から国民はおかしな方向にいってしまうかもしれない。犯人の狙いはそこです」
「違いますよ。刑事さん」
北川が言った。「いえ、元刑事ですよ」と言い返す岸本に対し、北川はこう言葉を続けた。
「犯人はやるからにはリスクを承知してます。猜疑心をかきたてるため…なんてそんな抽象的な狙いではなく、銃による具体的な殺人、社会の混乱を狙ってるように思えます。アメリカの憲法では、市民に武装蜂起する権利が与えられています。つまり自由を脅かす存在は市民が排除できる権利が保障された上での、自由がそこにあるんです。日本はどうですか?国家の言いなりになり、意味も分からず搾取されるだけの毎日。そこに疑問を持たない国民性。銃による蜂起とまでは言わずとも、デモ行進すら他国に比べあまり起きません。この犯人は…日本人全体の決起を願い、そのキッカケをつくろうとしたのではないでしょうかね?」
「密造銃によって日本人全体の意識を改革させようと犯人は思ってるわけですか。そんな短絡的な。話になりませんわ」
画面の端から、沈黙を保っていたファッションコメンテーターの怒号が聞こえてきた。
「革命とはそんなものです。日本国民はより広い選択肢を得る。司法制度や日本の警察がそれについてこられるか。または混沌の後に、新しい秩序が生まれるのか」
北川はさきほどよりも饒舌になっていた。今回の事件についての持論をどうにか公共の場で展開したいらしい。
「う~ん、たしかに密造銃が大量に出回れば、この日本でも一般市民による銃の所持が合法になるかもしれませんね。いや。というより、法で認められずとも、一般市民が護身のために、密造銃を求めるようになるかもしれません。そしたら日本が銃社会になってしまいますね。この日本が、ですよ?アメリカ合衆国そのものになってしまう…考えれば考えるほど、アカン!」
混乱したふりを装いながらも、司会者は視聴者を挑発するような発言を嬉々として叫んだ。
「今回、小学生のポストに銃が届いたのはいつ頃なんでしょうかね?」
北川は司会者に尋ねた。司会者は「確認します」と言い、番組ディレクターと目配せするような動きをしている。
「先週の水曜日…つまり、一週間前だそうです。小学生はその日から5日間自宅で密造銃を保管し、昨日、公園で発砲したようですね」
「ほら、見ろ」
北川が甲高い声を上げた。コメンテーターたちがざわつきを見せる。
「一週間前に密造銃が、ばら撒かれたとして…この一週間で何人が警察に届出をしましたか?そんな届出があったなら、今回の事件以前に、大々的に報道されてるでしょう」
岸本が薄くなった頭頂部を撫でながら頭を抱えていた。他のコメンテーターも怯えた表情をしている。
「密造銃を受け取った連中は…こっそり持ってるんですよ。今も。それでいて、今回の報道で銃の有効性は証明されてしまった…事件はまだ始まったばかりです」
北川は紅潮した顔で言った。
「もしくはウラで流通し、しかるべき場所に密造銃が集められている可能性も大いにありますね」
元刑事、岸本が北川の言葉をネガティブに補足した。
コメンテーターたちが一斉にざわめく。演技ではない。家族を持つ彼らに怯えの色が宿り始めた。「それってテロリストに渡ってるって意味ですか」「今回のようにまた、善悪の区別がつかない子供たちの手に渡ったならどうしたらいいのか」などコメンテーターは、思い思いの言葉を口にした。
司会者が「ちょっと待ってください」と彼らの言葉を遮った。
「小喜田内市…これ、この前の殷画高等学校の生徒による殺害事件および、大量毒殺未遂事件の起きた市ですよね。これについて、みなさんどう思われます?」
司会者が言っているのは、不破勇太の事件のことだった。莉那のうなじが粟立つ。不破勇太に陵辱されかけ、殺されかけた恐怖が蘇る。
「もう、食べなさい」
父がテレビを消す。いつの間にか着席していた母も言葉を失っていた。ニュースに夢中になるあまり、朝餉(あさげ)は冷たくなりつつあった。
今日は期末テスト最終日。テストが終わった放課後に、莉那は、有働らクラスメイトたちととカラオケに行く約束をしていた。しかし、こんなニュースを観たあとで楽しい気持ちではしゃげるのかと考えると憂鬱になった。
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「有働くん、あの事件以来すっかりヒーローだね」
期末テストも、もうあと1教科で終了。
その合間の5分休憩に、犬飼真知子が話しかけてきた。
有働の席を取り囲むようにして、教室に押し寄せた女子10数名。バッジからすると2年生、3年生がほとんどのようだ。
彼女たちは、不破勇太の饅頭を受け取り食べたことで、知らずして自分たちの生命に危機が及んでいたという事実よりも、それを水面下で阻止したヒーローがいた、という事に色めき立っていた。
1年E組にいる、有働努という存在。
校内の暴力を正し、不破勇太の計画を阻止しただけでなく、同級生をかばい刺された生徒会長。おまけに顔も良い。嘘か真実かは分からないが、有働に熱をあげる3年生女子の中には、本気で留年を考える者もいるという。
「なにを話してるか気にならないの」
真知子は言った。
「さぁ」
莉那はにべもなく答えた。
「なんか顔が不機嫌そうだよ?」
真知子は教科書を逆さに眺める莉那に言った。
「有働くんのこと、どう思ってるの?」
真知子は問いただす。莉那は無言になっていた。
実際、ほんの少し前まで、莉那は有働に対する感情について、自分自身でも把握できていなかった。
(中学時代に、自分をからかう男子を窘めてくれた優しい有働くん。しばらくして再会したら、ものだるそうにしていてバスの中お年寄りに舌打ちをするようになってた残念な有働くん。さらに少し後になると、いじめられっ子の内木くんを助けていた意外な有働くんになっていて、最終的には風紀を正す生徒会長になっていて、さらに全校生徒の命まで救い…そして、そして、自分を救うために校舎をよじ登り、ナイフで刺されて…)
これまでに見てきた有働の表情や仕草が、一斉に浮かび上がった。
(有働くん…本当のあなたは誰なの)
莉那は、答えのない疑問をひたすら宙に向かい問いただすだけだった。
「偽善者だろ」
誰かが言っていたのを聞いた事がある。でも、ただの偽善だけであそこまでの事ができるだろうか。きっかけがあったのだとしても、途中から違う動機が混じり、行動を継続するパターンだってある。莉那はそう思った。
きっかけについて以前、真知子がこう言っていた。
「有働くんが表立ってイイ奴になったのってさ、莉那が、有働くんって最低なの~って発言したすぐ後だよね。仮にあの発言をどこかで聞いてたとか、誰かに又聞きしたとかだったら、辻褄があうんだけどね」
真知子は人間観察が趣味で、見える範囲の交友関係や人物の把握には目を見張るものがあった。
「あとさぁ、かなり前だけど、内木くんにさ、有働くんと莉那の関係について訊かれた事あったっけ。あ、これ誰にも言わないでって内木くんに言われてたんだ。ごめん。聞かなかったことにして」
聞かなかったことにして。そう言われても耳に入った情報を頭から追い出すことはできなかった。
(有働くん、なぜ?なぜ?なぜ?)
そう思えば、思うほど、莉那の心は有働でいっぱいになっていた。意識するわけでもないのに、視線は常に有働を追いかけていた。たまに目が合うと有働は微笑みかけてくれた。
(生徒会長になったあと「学園祭の会計、有働がやれよ」と戸倉くんに肩を押され、しぶしぶ引き受ける有働くん。学園祭の打ち合わせで連絡先を交換しながら「吉岡は、どんな和菓子を出店するんだ?」と聞いてくる有働くん。3年生の怖そうな先輩たちと談笑する有働くん。校内で色んな生徒に話しかけられ真剣に耳を傾ける有働くん…)
莉那にある確信がうまれた。
(あきらかに、以前の有働くんとは違う)
でも…。莉那は思った。
(動機が別にあったとしても、今の有働くんの笑顔はつくりものに見えない。色んな人に頼られ、色んな人に感謝され、有働くんは以前よりも幸せそうに見える)
莉那はさらに思った。
(ほんとうに、きっかけは私なのかな)
そう思うと胸が熱くなった。そうだとしたら、嬉しい反面、恥ずかしい気もする。やはり真知子が言ったことは聞かなかったことにしておこう。そうでなければ目も合わせられないくらい恥ずかしい気持ちでいっぱいになってしまうから。
莉那が自分の気持ちも分からないまま悶々としていた矢先、不破勇太の一件があった。
生まれて初めての恐怖。助けてくれたのは有働だった。そして、有働は刺された。死んでしまうかと思った。
(死なないで、有働くん)
失いそうになって初めて気づく大切な存在がある。
莉那は時間がある限り、病室で有働につきっきりになっていた。有働の父母は二人の関係性を詮索しなかったが、警察に話を聞いたり、莉那の両親と顔を合わせるうちに、自分たちの息子が命を賭けて守ろうとした少女が莉那である事に気づいたのだろう。
二人だけの時間をたくさんくれた。有働が目を覚ました時も手を握り、一番近くにいられた。
(有働くんが、こうして元気に学校に来てくれるだけでいい)
「ねぇ、3年生のセンパイに有働くん取られちゃうよ?」
微笑がこぼれる。もう真知子の言葉は莉那の耳に届かなくなっていた。
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期末テストが終わった放課後。
午後16時。
殷画のカラオケルームで、内木の調子はずれなアニメソングが室内に響き渡っていた。
戸倉は選曲に没頭し、真知子は内木の調子外れの歌に合わせてタンバリンを叩いている。
「テストどうだった?」
騒音の中、莉那は有働に耳打ちするようにして、聞いた。
「全然ダメだった。これはまずい。次からせめて学年20位以内…いや10位以内に入らないと」
おそらく徹夜でテスト勉強をしていたのだろう。有働は疲れたような目で答えた。
「10位以内…。なんで?」
「示しがつかないから」
有働はそう言った。
「私でよかったら…協力するね」
莉那はいつも全科目5位以内に入っていた。勉強を教えるのは真知子で実践済み。有働は成績が悪いとは言え、接した感じ真知子より呑み込みが悪いようには思えなかった。
「俺は今までマトモに勉強なんてしてこなかった。人の倍、やらないと10位どころか永遠に授業に追いつけない。分からない箇所があったら協力してもらうかもしれない。その時はよろしく」
有働がこの日はじめて笑うのを見て、莉那も笑った。
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「んじゃ、俺たちちょっと用事があるから先帰るわ」
戸倉がそう言ったのは午後18時頃だった。戸倉に続いて、内木、真知子らもカラオケルームを出ようとした。
「ちょっと待って私も」
そういう莉那を押しやり、真知子は微笑んだ。
「まだ残り時間30分あるでしょ。もったいないからあと30分、二人で歌っていきなよ」
言われるがまま莉那は有働の隣に座った。
2人きりの室内。意識せざるを得ない、緊張感。有働は無表情だった。
「何か歌う?」
沈黙。
「実はすぐそこのフレンチレストラン…戸倉の兄貴の名前で予約してあるんだ。行こうぜ」
有働は言った。
莉那は、言われてから自分が空腹である事に気づいた。
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そのレストランは殷画でも懐に余裕がある大人たちが行くようなレストランだった。
豪華な調度品。シャンデリア。メニュー票はフランス語で書かれている。英語ならともかく、読めるはずが無い…。莉那はメニュー票のアルファベットの羅列を意味もなく眺めていた。
「高そうなレストラン…こんなところ入って大丈夫かな。私そんなお金もってきてないよ?」
「もう金は先に払ってある。メニューも、もう決めてもらってある」
有働はぼんやりとした瞳で莉那を見つめ、そう言った。
見た事もないような料理が次々に運ばれてくる。「お酒なんてダメだよ」という莉那をよそに有働はワインをたらふく飲んだ。
「ねぇ、さっきお金はもう払ってるって言ってたけど…私たち高校生じゃ払えないような額でしょ?」
「不破勇太のオヤジから1000万、俺の口座に振り込まれた。慰謝料その他もろもろで1000万。吉岡のところにも、そのうち振り込まれると思う。なんて言ったって俺らは犯罪被害者だからな」
有働は嗤った。莉那は言葉が出てこなかった。
「まぁ、せっかくだし…俺はいずれこの1000万を、何かしら有意義に使いたいと思ってる。ここでの食事もその1つさ。ワインどう?」
莉那はグラスに注がれた深紅の液体を見つめていた。舌先で舐めてみる。苦かった。
「無理して飲まなくていいよ。俺は父のワインを隠れて飲んでたから、もう慣れっこなんだよ」
有働の焦点は定まってなかった。
「大丈夫?」
「大丈夫。俺はすごく楽しいよ。吉岡、お前とこうして一緒にいられて」
(え?なにを言ってるの?どういう意味?)
頬が熱くなる莉那をよそに有働の顔は真っ赤だった。しかし、それは酔ってるからなのだろうと見て分かった。
(そういうの酔ってない時に言ってよ)
莉那は言葉を呑み込んだ。
「俺は酔ってないぞ」
心を見透かしたかのように有働は言った。視線はまっすぐ莉那を見つめていた。
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レストランを出たのは20時ごろ。莉那は、父母に少し遅くなると連絡は入れたが、21時までには帰宅しなければならなかった。有働もおそらくそれくらいまでに帰らなければならないだろう。
よろめく有働を支えながら歩く。
(男の人ってこんなに身体が重いのか)
真知子が寄りかかってくる時よりも明らかに体重差があった。
有働がよろめく。殷画の繁華街の路地裏で、3人組の悪そうな男たちとぶつかった。
「おいおい、ぶつかっておいて謝りもしないのか」
金髪の男が言った。
「刺されたくなきゃ、隣の女だけ置いて消えな」
バンダナをした男が言った。
残る一人、レゲェ頭の男はニヤニヤしながら莉那の腰周りを舐め回すように見ている。
「さっさと、こいつ刺して、女をさらっちゃおうよ」
レゲェ頭は自らの股間をさすりながらそう言った。
辺りには誰もいなかった。莉那は背筋が寒くなるのを感じた。
「もう刺されるのはごめんだ。正当防衛だ。悪く思うなよ!クズども」
有働が金髪の男の顔面を思い切り殴った。グシャという音とともに男の顔が崩れる。すかさずナイフを振り回すバンダナの男が有働に蹴飛ばされる。レゲェ頭は有働に殴りかかったが、避けられ、返り討ちにされた。
その後も、有働の暴力は止まらなかった。
コンクリートに血反吐や吐瀉を撒き散らす3人を、何度も何度も蹴り上げ、血飛沫を撒き散らす。
「やめてくれぇ」
情けない声が3人の誰のものか分からなかったが、有働は彼らを蹴り続けた。
「薄汚れた目で吉岡を見やがって!このクズが!クズ!クズめ!クズ!」
レゲェの男にはひときわ凄惨な暴力が加えられている。砕け散った白い歯がアスファルトに散らばっていた。
やがて雲行きが怪しくなり、土砂降りの雨が地面を叩きつけた。
莉那は雨に濡れながら、有働の暴行をじっと眺めているだけだった。言葉が出てこなかった。止めようとも思った。が、止めようと前に出る事ができなかった。なぜだろう。
「俺が怖いか」
血まみれの有働は背を向けたまま言った。雨がすべてを洗い流すまで、振り向かないつもりなのだろうか。有働は、しばらく直立したままだった。
莉那は有働の問いに答えられなかった。「怖いか」と聞かれれば「怖かった」それが本音だった。
でも…有働の暴力を見ていて、何か言い現せない感情を揺さぶられたような気がした。しかし、それが何なのか…答えは出てこなかった。
「救急車、呼ばなきゃ」
莉那はようやく常識的な言葉を紡いだ。
(なぜ有働くんを止められなかったんだろう…私のバカ)
泣きたくなった。
(目の前の3人にもしもの事があったら…。有働くんが捕まっちゃう)
そう思った。
「気絶してるだけだ。それに救急車や警察を呼ばれて困るのは、俺もこいつらもお互い様だ。見たところ、こいつらも酔ってるし俺の顔なんて覚えてないだろう」
「でも…」
「行こう」
血に塗れた有働の顔は影が差してよく見えなかった。泣いているのか、笑っているのか、肩が上下に揺れるのが見えた。
(有働くん…あなたは)
◆
むかしむかし。
漆黒に覆われた島に、おそろしい竜がいました。
その竜は年に1度、近隣の王国にやってきては町を破壊の限りを尽くしました。
◆
莉那の脳裏に、あの童話が蘇った。
(有働くんは…ドラゴンなんだ。暴れまわり自分自身を傷つけるドラゴンなんだ)
傘も差さず、雨に濡れたままの二人は、繁華街で大人たちとぶつかる。莉那と有働は手を繋いだまま、逃亡者のように走った。
「怖くなんかないよ」
莉那は有働の手を強く握り、そう呟いた。
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路地裏。
有働と莉那が現場を去ってから、約2時間が経過していた。
血まみれのリョーイチは目を覚まし、同じく血まみれのカツヤとタケヒコを揺り起こした。
「あの野郎…」
リョーイチは金髪にべっとりついた血を拭い、忌々しそうに言った。
「くそ、前歯が折れてやがる。おい、リョーイチ、お前たしか空手の達人でゴッドハンドってあだ名だったろ。やられっ放しじゃねぇか」
カツヤは、そう恨み言を発しながら、バンダナのズレを直し視界を確保すると、地面に落ちたナイフを拾い、ジーンズの後ろポケットに仕舞った。
「バカ野郎。お前だってナイフ持っていながら返り討ちにされやがって」
「うるせぇ!あ!!!!おいおい、クロムハーツのネックレスのダイヤが欠けちまってる…おいおい、これ60万もしたんだぞ!」
カツヤはネックレスを握り締め、怒鳴り散らした。通行人は誰もいなかった。
「リョーちゃんも、カっちゃんも落ち着いてよぉ…あ、俺のロレックスも割れちゃってる…くそ、あの野郎」
タケヒコはそう言いながら、自らのレゲェ頭から滴る血を手で拭い、小さな悲鳴をあげた。
「ゴッドハンドってのはな…こっちの意味でだよ」
リョーイチが嗤いながら言った。その右手には黒い革の長財布があった。
「財布…さっきのヤツの財布か。スったのか?」
カツヤが財布を物欲しそうに見る。
「小喜田内市殷画34-1…。有働努、高校1年生だってよ。近くじゃねぇか!しかも…なんだこのATMの明細書!990万もあるぞ」
リョーイチが学生証を見ながら、奇声をあげた。
「どれ、見せろよ。おお!殷画高校の生徒か。タケヒコの後輩じゃん」
「後輩じゃないよ。俺2ヶ月で退学したもん。つーか、今から殺しにいこうよ、リョーちゃん、カっちゃん」
タケヒコがだだをこねるように言った。
「お前は学習能力がねぇな。だからチューソツなんだよ。俺らは素手…いやナイフ持ってたって、アイツには敵わねぇーよ」
リョーイチは財布の中の万札数枚を数えながら、タケヒコを窘める。
「じゃあどうすんの。やられっ放しかよ、そんなのイヤだよ」
「ジュンジのヤツに、銃を借りようと思う」
リョーイチは万札をポケットに入れると財布を手ではたきながら嗤った。
「マジ?つか、あの話マジだったの?ジュンジのポストに銃が入ってたって話」
カツヤはリョーイチが独り占めした万札を目で追いつつも、驚いたように訊ねた。
「ああ。間違いない。現物も見せてもらった。ニュースで小学生のガキが発砲したのと同じやつだった」
話を促そうとするカツヤとタケヒコを手で制し、リョーイチはスマホを操作する。数十秒間の会話。
「ああ。なんかさ、ジュンジ、今週末まで女と旅行いってるらしい。週明けなら銃を貸してくれるってよ」
リョーイチは財布をカツヤにパスした。カツヤは空になった財布の中身にムっとしながらも、有働の住所が書かれた学生証を取り出し、ヒラヒラさせている。
「なぁ、俺にも撃たせてよぉ、リョーちゃん」
「おいおい。財布の中に写真が入ってやがった…なんだこりゃ、オヤジとオフクロと3人家族か…」
カツヤの言葉に2人の視線が集中する。
「んじゃあよ、俺がアイツに銀行の暗証番号聞いたら、すぐ撃ち殺すからよ。お前らにも銃を貸してやっからアイツのオフクロとオヤジを撃ってみろや。な?」
「優しいな…リョーちゃん」
「その代わり、さっさと殺せよ。銃声聞きつけてからマッポが来るまで数分しか猶予はねぇからな。チンタラしてたら置いてくかんな」
「うん。ちゃんと早めに殺るからさ。早く撃ち殺したいなぁ」
「脳みそぶちまけるとこ、見てみたいなぁ。ひゃひゃひゃ」
カツヤがバンダナをほどきながら言った。もう、破損したネックレスの事は気にならないらしい。
「惨殺だ、惨殺。密造銃だからアシもつかない。金も手に入るし、銃も撃てる。いい事尽くしだな」
リョーイチの言葉に皆、企みに満ちた笑みを浮かべ、頷いた。
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