第38話 絶体絶命!捕らえられた有働

 中華人民共和国・遼寧省瀋陽――。


 この地には、中国・東北部とロシア及び北朝鮮との国境を防衛を目的とした、四個集団軍、遼寧省軍区一旅団、二個武装警察師団を管轄する、兵士四十万の中華人民共和国最強の暴力装置――、人民解放軍・瀋陽軍区・司令部がある。


 8月5日(水)

 10時00分――。


 司令部ビル最上階・司令員室――。

 瀋陽軍区・司令員――、馬国立上将の耳に、部下より口頭で、以下の報告が届いた。


「北京軍区司令員の除暁明上将が、昨夜、北京の在中米大使館の裏口より出入りしているのが目撃されました」


 目撃したのは、酒に酔った瀋陽軍区の若い兵士だという。彼は大使館付近のクラブに通い詰めていたらしく、ハシゴしようとタクシーを待つ間、除の姿を目撃したというのだ。


「ここ最近の除暁明は酒浸りで物憂げであり、彼の妻子は出ていったもよう」


 横から割り込んだ別の部下が、姿勢を正したまま情報を付け加えた。


「除暁明の妻子は渡米したようで、中国、国内にはもういません」


「米国とウラで繋がり、我が国の軍事情報を流しているのではないでしょうか」


「除暁明を危険視した方がよろしいのではないでしょうか」


「彼が何を企てているのか分かりません」


「除暁明は反逆者の可能性があります」


 馬国立は、司令員室を出た。


 各部署でも、すでにその話題で持ちきりで、浮き足だっている。この様子では、周遠源国家主席や党幹部、人民解放軍の他軍区・司令員の耳にも噂が届いているだろう。このところの米・中における関係悪化が原因で、党も軍部も「米国」「裏切り者」というキーワードに対し敏感になっていた。


「ふん。除暁明か…」


 馬国立は、顎に手をやる仕草で除について思い起こしてみた。


 馬国立は、除暁明と初対面した五年前、彼が北京軍区の司令員――ライバルとして自らの立場を脅かす存在になりえるか気になり、その出自や過去を部下に調査させたことがあった。


 除暁明は労働者階級の中流家庭に生まれ、三流大学を卒業後に二十三歳で人民解放軍に入隊。北京軍区・軍区副参謀長、副司令員と順調に出世し、現在の地位を得た。また二十三歳以前の写真は、一切残されておらず、彼の両親や親戚に当たる人物もすでに他界していることが判明。ならば除暁明は、資産やコネもない天涯孤独の身でありながら、どこからか金を工面して、北京軍区司令員までの出世を遂げたということとなる。


「過去の痕跡がない天涯孤独…なにかのお膳立てのようだ。もしや除暁明の正体は、戸籍を買い取って、別人に成りすました誰かか?」


 そんな邪推をしながら、我ながら飛躍していると馬国立は笑った。


 いや、出世の為に戸籍を買い取るならもう少し出世に有利な家の出に成り済ますはずだろう。ならば除は、金を集める才能に秀でた、ただの労働階級者の息子に過ぎないな、という結論に至った。そういった苦労人による異例の出世譚は、党、軍部において少なからず存在する。ライバルとしてはやっかいだが、馬国立は家柄や知的キャリアにおいて除暁明よりも頭一つ抜きん出てることを再確認できたので、そう目くじらを立てるほどのことはないと思った。


 それに――。


「妻子が渡米?そんなもので反逆者呼ばわりされたら私自身…いや全軍区の司令員、命がいくらあっても足りないぞ」


 馬国立は小さく呟いた。


 そう――。彼自身、内縁の妻と、その彼女が産んだ娘を、米国へ移住させていたのだ。


 馬国立は紛れもなく愛国者であり、中央軍事委員会主席――、周遠源に忠誠を誓った身である。もちろん反逆の意思など微塵もない。


 しかし、息子が独り立ちし、妻が亡き今、まだ籍も入れていない内縁の妻と幼い娘が心のよりどころになっていたのも事実である。


 瀋陽軍区司令員と言う立場上、内縁の妻の存在や二人以上の子供の存在は、隠し通さねばならない。


 黄麗燕という名の売れない歌手だった彼女と、その間に産まれた娘に、米国行きのパスポートを用意したのは昨年の暮れだった。会えなくなりもうじき八ヶ月が経つが、最後の逢瀬で馬国立が彼女に宿した二人目の子供も、順調にお腹で育っていると聞いている。


「私はこの国も、党も、周遠源さまも…そして麗燕とその子供たちも守るのだ。命を懸けてな」


 馬国立の気持ちに、嘘偽りは一切なかった。


 移住した麗燕に便宜を図るため、馬自身、除暁明のように在中米大使館にコソコソ足を運んだこともあった。だが、それくらい他の七大軍区司令員たちもやっていることだ。


 米合衆国が中華人民共和国中央政府へ、中国人たちが保有する米国内資産を意図的に開示でもしない限り、それが露見することはないし、また妻子や愛人を資産と一緒に米合衆国へ移動する行為自体は、社会的、経済的に不安定な自国から愛すべき者たちを守るための行為であり、国家への反逆を意味するものではない。


「除暁明も、そういったことをしてるだけだろう。幹部の裏事情も知らない下っ端が騒ぎ立てているだけだ。周さまの耳に入ったならば多少、尋問をされるかもしれないが、それは除暁明の詰めが甘かったせいであり、彼に反逆の意思がないと分かればお咎めなしで済むだろう」


 馬国立は、噂を気にもかけなかった。


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 毛沢東による「革命戦争」によって生まれた共産国家、中華人民共和国では七大軍区――瀋陽軍区、北京軍区、済南軍区、南京軍区、広州軍区、成都軍区、蘭州軍区――が強い権力を保持している。


 政権は軍の支持を得られなければ力を発揮できない。


 北京・中央政府としては、広大な中国を軍事で統制するにあたり、決して一枚岩とはいえない七大軍区の掌握が、最重要課題となっていた。


 そして今年の春――。


「ぼくが一番になるんだもん!ジャマなやつらはどんどん粛清!偉そうな党幹部や軍人たちをどんどん逮捕しちゃうからね!」


 あらゆる策略を駆使し、総書記、国家主席、中央軍事委員会主席と三つの肩書きを手に入れた周遠源は、その宣言後、人民解放軍幹部と共産党幹部らの汚職へメスを入れた。


 軍部による中国経済の膨張と共に資産へと変わった広大な土地の売買、共産党幹部によるシャドーバンキングへの不正蓄財など反腐敗闘争による汚職摘発は、実に七千五百件にも昇る。


「邪魔者はだいぶ消えた…でも、粛清はまだまだ続けるよ」


 周遠源の野望は達成されつつあった。


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 8月6日(木)

 13時00分――。


 共産党本部ビル・執務室の扉前で直立する軍服姿の瀋陽軍区・司令員――馬国立上将は、デスクを挟み、本革の椅子に背をもたれた周遠源国家主席と向き合う形で、直立していた。


 室内は金箔で塗り固められ、周遠源の背後にかけられた巨大な虎の水墨画は、扉に立つものを威嚇するように吼えている。


「さっき米合衆国から戻ってきたばかりで、クタクタだよ…それで、今回の粛清リストはどうなってるの?」


 周遠源が書類に署名する手を止めて、緑の軍服姿の馬国立を睨んだ。


「すべて軍区指導者…成都軍区から四名、瀋陽軍区から二名、北京軍区から三名、蘭州軍区、済南軍区、南京軍区からそれぞれ一名、広州軍区から三名を摘発しました」


 馬国立は天井を見つめたまま答えた。瀋陽軍区ナンバーワンの地位にある馬は中央軍事委員会主席、周遠源の部下にあたり、張り詰めた緊張感でその背筋はピンと伸びている。


「瀋陽軍区から二名…君の監督不行届きだね。不正蓄財は合計いくら?」


「ドルにして百兆…。汚職による大物逮捕に溜飲がさがったのでしょう…国民による支持率も急上昇です」


 周遠源の意地の悪い揶揄に鼻梁を震わせながらも、軍帽をピっと深く被りなおし、細面で端正な顔立ちの馬国立は答えた。


「海空軍幹部や各軍区司令員の反応は?」


「どの司令員も、こぞって軍機関紙、解放軍報などに周さまの国防政策を支持すると署名入りの発言録を発表しております…皆、粛清を怖れての事かと」


「瀋陽軍区・司令員の馬ちゃん…君は別として、他六名の司令員たちはまだちょっと信頼しきれないところがあったからさ…この日を待っていたよ。実質、七大軍区の掌握ができたってことだよね」


 周遠源は純金のボールペンを書類の上でトントンと叩き、鋭い刃物で切り裂いたようなその双眸を光らせた。


「仰るとおりです」


 満足そうに鼻を鳴らす周遠源に、馬国立は短く刈り上げた頭を下げた。


「ねぇ…馬ちゃん…ぼくは何に見える?」


「偉大なる指導者…毛沢東さまの再来です」


 馬国立は抑揚ある声で、高らかに言った。


「ぼくがなりたいのは、もっとすごいものだよ」


「なんでしょうか」


「始皇帝よりももっとすごいもの…」


 周遠源はオールバックの黒髪を左右の手で撫でつけ、薄い眉毛を上げ下げしながら天井を睨み、肉厚な唇を歪めると、ペロっと舌を出した。


「…世界皇帝だよ」


 小声で…だが自信たっぷりに「ふふん」と笑いながら、自らの野望を宣言した。


「中華人民共和国が世界を征服するのではなく、世界そのものを中華人民共和国にするんだ」


「周さま…」


 馬国立は高ぶる感情で言葉を詰まらせた。周遠源の「野望」は、中華人民共和国最強の軍隊である瀋陽軍区・司令員――、馬国立上将を世界最強の将軍へと押し上げることになるからだ。


「でも、米国からの不死研究(プロジェクト・イブ)に対する糾弾…はっきり言って目障りなんだよね」


 周遠源は苛立ったように膝でデスクを蹴りあげ、純金ボールペンを書類の上に放り投げた。


「同意見です」


 馬国立も頭を下げ、同意する。


「十三億の国民があれ見てさ、中央政府に牙を剥き始めたらめんどくさいじゃん?…まぁ暴動が起きたら、六四天安門事件のときみたいにぶっ殺せばいいだけだけど」


 周遠源は両手を頭の後ろで組み、椅子に深く腰を沈めると、自らの背後にある防弾強化ガラスに目をやり、泣き出しそうな曇天を仰いだ。


「報道規制を敷いております。またインターネット上の梅島問題に関する発言においても…五毛党が二十四時間体制で監視しております」


 五毛党――。


 ネット上で中国共産党政権を批判、揶揄する書きこみを削除し、党に有利な書きこみをその倍書き込む、世論誘導を目的とした中国共産党配下のいわゆる「ネット・コメンテーター」である。党から一件につき五毛の報酬が支払われるのが「五毛党」と呼ばれる所以である。


 また政府による「禁止ワード」なるものが多数存在し、ネットで「六四天安門事件」「戦車男」「ジャスミン革命」という文字を検索すれば接続不可能となり、ニュースでうっかりキャスターがそのキーワードを口にしてしまったものなら、メディアを随時監視している共産党によりテレビ画面を真っ黒にされる。中国共産党の国内メディアへの情報統制は常に厳戒態勢なのだ。


「それでいい。反政府主義者も次々に逮捕しちゃってね」


 周遠源は菩薩のような微笑で言った。


「はっ」


「君はよく尽くしてくれるから大好きだよ」


「ありがたきお言葉」


 馬国立は深く頭を下げ、周遠源もウンウンとにこやかに頷いた。


「あと…ひとつ聞きたい事があるんだけど」


 周の言葉に馬国立が頭を上げた。


「北京軍区・司令員の除暁明ちゃんがさぁ、深夜にコソコソ米大使館から出てきたのが確認されたようだけど、君はどう思う?」


 周遠源は純金ボールペンで、右の鼻の穴の奥をほじほじと掻き始めた。


「彼の意図するところは分かりません」


 馬国立は上辺だけの感想を述べた。除暁明の事情は、察しがついているものの「彼は反逆者ではないと思います」と庇う必要もないからだ。


「本人に直接、聞いた方が良さそうだよね…」


 周遠源は純金ボールペンの先端に突き刺さったハナクソの塊を子供のように、じっと見つめていた。


「実は別室に彼を呼んであるんだよ…馬ちゃんも一緒に来てよ」


 周遠源はパクっとボールペンの先端のハナクソを食べると、重い腰をあげて本革の椅子から立ち上がった。


 身長百八十センチ――、体重百キロ――。

 背は馬国立と同じだが、若い頃に日本の柔道で黒帯を取得していたという周遠源の体つきは、軍人とはまた別の――、陰惨な暴力性が秘められていた。


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 同日18時00分――。


 共産党本部ビル・特別室に周遠源と馬国立は移動した。


 そこは、執務室の豪華絢爛な様相とは打って変わり、灰色のコンクリートで塗り固められた狭い取調室を思わせる部屋だった。


 ほこり被った電気傘から黄色い電灯が、据え置かれた木製のテーブルと椅子に座らされた人物――除暁明を煌々と照らしている。


「昨夜、米大使館になど行ってません。人違いか私を陥れようとする誰かの嘘でしょう」


 軍服姿の除暁明は冷房の利きすぎた部屋で額に汗を浮かべ、中央国家安全委員会の役員――厳偉貴に弁論していた。


「やぁ、ごくろうさん」


 室内に周遠源と馬国立がやってきたのを確認するなり、除暁明と厳偉貴、両者が起立し敬礼する。


「除ちゃん、久しぶりだね…私のほうからも質問があるのだが、いいかな」


 厳偉貴と席を代わった周遠源が薄く笑みを浮かべ、手振りで除暁明に座るよう指示した。


「なんでしょうか」


「もうすでに、そこにいる厳ちゃんに質問されたと思うけど…私の方でも直接確認したいんだ。君の妻子が渡米したという噂を聞いたのだが、本当かい」


 周遠源の質問は率直だった。


「子供が…病を患っているんです。難しい手術が必要であちらの病院を紹介されました。紹介してくれた医師の名も明かせます」


「ほう」


 厳偉貴の方を振り返る周遠源。厳は「もうその話のウラはとれています」とばかりに頷いた。


「まぁ、ぼく自身、娘に米国留学させたことがあるし、家族が渡米する行為自体は罪ではないよ。…悔しいけどあっちの方が、学問や医療が発展しているしね…逆に、必要なときだけ米国を利用してやるってくらいの気持ちはどこかにあった方がいいかもしれない」


 満足げに笑みを浮かべた周遠源が椅子に腰掛けた尻を浮かせプス、と放屁した。背後の厳偉貴が顔色一つ変えずその異臭を吸い込む。


 少し離れたドア付近で直立していた馬国立は、数秒間息を止めていたが、窓ひとつないこの部屋ではもはや無意味であることに気づき、ゆっくりと呼吸を再開した。周遠源の直腸から排出されたどぶ川のようなメタンガスが酸素に混じり肺を満たしていく。多少クラクラしたが、周遠源に気づかれぬよう無表情のままでいた。


「私は国家に忠誠を誓った身です。なにもやましいことなどございません。昨日、米大使館から出てきた人物というのも私ではありません」


「うん、うん。まぁ、君が米大使館から出てきたのを見たっていう情報源は酒に酔ってた兵士だし、信憑性もそこまでないからね…」


 周遠源は、座りながら向き合った除暁明の左肩を、右手で優しく揉み解すようにして笑顔を浮かべた。


「…ところで、お腹すいてるかい?」


「え?」


「君の…ぼくへの忠誠心を見せてほしいんだ…。おい、君たち。あれを持ってきなさい」


 周遠源は菩薩のような薄い笑みのまま厳偉貴を振り返る。


 厳偉貴は一礼した後、レストランで使われているサービスワゴンをガラガラと持ち運びいれた。


「こっ、これは…」


 ワゴンの上段には炊飯器が置かれており、下段には尿瓶のようなものが収納されている。


 周遠源は笑みを浮かべたまま自慢げにサービスワゴンを指差した。


 厳偉貴が一礼したあと炊飯器を開けた。異臭と共に黄色い炊き込みご飯が現れ、除暁明は驚愕の笑みを浮かべる。


「ぼくのおしっこで炊いたご飯だよ」


 周遠源は、自らの小便で炊いたご飯を皿に装う厳偉貴を満足そうに眺めながらウンウンと頷いた。


 馬国立は、その様子を見て「まさかアレをするのか…!除暁明は、周さまにそこまで疑われてるのか」と驚愕したが、努めて表情には出さなかった。


「除ちゃん…君の好物はカレーライスだったよね」


「え…」


 除暁明はそれ以上の言葉を紡げないでいた。


「安心して。ちゃんと上にかけるものも用意してあげるよ」


 周遠源は高級スーツのズボンとブリーフをおもむろに脱ぎ始め、椅子の上に几帳面に畳むと、厳偉貴より受け取った皿を地面に置き、その上に跨った。


 三つか四つの吹き出物をこさえた巨大な尻。その割れ目からは剛毛が飛び出している。


「せぇ~の…ふんっ」


 ビリリリリリ…、ブリリリ…。


 周遠源は菩薩のような笑みを浮かべたまま腰を屈め、皿の小便ご飯の上に下痢糞を排泄しはじめた。


「これ、むずかしいんだよなぁ」


 そう呟きながら、菊の花弁をひくつかせ、上手に、かつ丁寧に、皿からゲル状の褐色カレーがこぼれないように、腰を上下左右にずらし微調整する周遠源。


 彼なりにカレーライスの盛り付け美学があるのだろうか、ライスとルーがそれぞれ、一対三の比率になるようにブビ、プピ、と下痢糞の量を上手にコントロールしていた。


 排泄物の異臭と地獄絵図を前に、馬国立は胃液が逆流するのを必死で堪えた。これが噂に聞く「反共産主義者への地獄の取調べ」――下痢ライスなのかと涙を浮かべ成り行きを見守った。


 そして、馬国立は、今からこれを食べさせられるであろう、除暁明の顔を盗み見た。頭髪の後退した額からは玉のような脂汗が滲み出て、牛乳瓶の底のような黒縁眼鏡の奥で縮こまっていた両眼はカっと見開かれている。


 緑色の軍服の襟元は汗でぐっしょり濡れていて、デスクの下で足が震えているのが分かった。


「ふひ~…やった。やったぁ…でぇ~きぃ~た」


 周遠源は厳偉貴から手渡されたトイレットペーパーを受け取るとクイックイッと尻を拭き、下痢ライスの皿をデスクの除暁明の前に差し出して、仁王立ちした。


「とれたてだよ」


 除暁明は、小刻みに震えながら右手で口元を覆う。


 冷房の利きすぎた部屋の中にいながら、除の眼鏡は汗と体温で白く曇っている。そんな除を見て周遠源はウンウンと頷きながら銀スプーンを下痢ライスの皿の右側に置いた。


「ノドも乾くだろう」と周遠源は尿瓶にジョバジョバと尿を排出し、ドンと下痢ライスの左側に置く。


 異臭――、沈黙。


 部屋の中にいる計、四名の男たちを無言の空気が包み込む。


 まったく下痢ライスに手をつけようとしない除暁明に対し、周遠源は微笑んだまま眉間に皺を寄せた。薄い眉毛に鋭い眼光が際立って光る。


「反逆の意思がないなら食べられるよね?ぼくは中央軍事委員会主席…人民解放軍の頂点に立つ男だよ?…本来なら、皆がこぞって食べたがる崇高なぼくのウンチをこうやって出してあげているんだ…」


 周遠源は除暁明の左肩に手を置いて言った。


「…食べれないなんてことはないよね?」


 除暁明は、立ち込める小便ライスの湯気と下痢糞の異臭に顔を歪めた。


「二度は聞かないよ」


 ぼそっと周遠源が言う。


 馬国立と厳偉貴が成り行きを見守る中、震えながら除暁明は口を開いた。


「い…」


 額に滲んだ汗の粒がデスクに滴り落ちる。


「いただき…ます…」


 消え入りそうな声。


 除暁明は自らの潔白を証明すべく、ブルブルと小刻みに揺れる右手で、銀のスプーンをとった。


 スプーンの先端が、皿の端でカチャカチャと音を立てて震える。除暁明は目を閉じ震えが止まるように指先に神経を集中しはじめた。


 室内の壁掛け時計の秒針が、さく、さくと時を刻む。


 ツンとする異臭が部屋中に充満する中、ようやく除暁明はスプーンの先端で下痢ライスを抉り取り口に運んだ。


「んぐ…ぶ…」


 眉間に皺を寄せ、味が分からないようにすぐに飲み込む。


 要領を得た除暁明は、低い呻り声をあげながら胸を上下させ、吐き出すのを必死で堪え「んぶっ」と喘ぎつつも、次から次へとそれを口に運んだ。


 途中「ぶっ、ぐんむむむむ…」と口元を押さえる除に、周遠源は泡立つ尿の入った尿瓶を進める。彼なりの優しさなのだ。除は「すいません」と言いながら下痢ライスを、泡立つ黄色い小便で流し込んだ。


「おお!美味しそうに食べるね!」


 周遠源はパチパチと拍手しながら、涙目の除暁明を満足そうに眺めている。


「うぶっ…んぶっ…ぷ…」


 除暁明は右手で口元を押さえ、目を真っ赤にしながら皿に残る最後の下痢ライスを口にか媚び終えた。


「お…」


 除が何かを言いかけた。


「お…、ぶっぷっ…おぶっ…、ぷ…お…」


 ぜぇぜぇと喘ぎながら、皿を震える手で持ち上げ「お…お…お…」と言葉を紡ぎ出そうとしていた。


「お…、かわ、り…い…い…、いただけ、ま…すか?」


 それを聞いた馬は傍観者であるにも関わらず、背筋が凍りつくのを感じた。除暁明は空になった皿を差し出し、ぐったりした表情のまま、確かに「おかわり」と言ったのだ。


「え…?あ、ああ」


 数秒の沈黙のあと、下半身裸のまま、周遠源は微笑んでウンウンと頷いた。


「今ここで出してあげる。おい、おしっこライスもってきなさい」


 厳偉貴が言われたとおり、手際よく準備した。


「ふんっ」


 周遠源は再び皿の上に腰を屈め、下痢糞をひり出そうとしたが、除暁明は小刻みに震えながら立ち上がり「ちょっと待ってください」とそれを制止した。


「ちょ…直接…いただいて、も…」


 除暁明は言葉をいったん切り、食道から逆流する周遠源の排泄物を必死でせき止める。


「直接…い、いい、いただいて、も…よ…、よろしい、でしょうか?」


 怪訝な顔の周遠源に対し、媚びるような青ざめた笑顔で除暁明は懇願した。


「いいよぉ~?人間便器だねぇ~」


 快諾を得た除暁明は、軍帽を脱ぎデスクに置くと、よろよろと仰向けになり、皿のあった場所に自分の顔がくるようにした。


「じゃあ跨るよぉ…」


 周遠源は、この世の慈愛をすべて体現したかのような菩薩スマイルを浮かべ、彼の顔の上に跨りビリビリビリブリブバリと下痢糞を放出をはじめた。


「ふんっ、ふんっ、ふんっ!!!」


 先程よりも濃厚な異臭が、特別室内に立ち込めてゆく。


 馬国立は息を止めながら二人の成り行きを見守った。


「うぶっ…ぶっ…おごっ、おごごっ…おぐぉっ」


 除暁明は口を大きく開け、珈琲色の排便を受け止めた。常人には耐えがたき地獄の時間。


 周遠源の方は、もう皿に上品に盛り付ける必要はなくなったとばかりに、苦悶の表情を浮かべた除暁明の顔中を汚しながら、さらに、さらに排泄を続けていった。


「ふぅ…ぜんぶ出たぁ…スッキリ」


 激臭。


 ブビ、と最後の下痢糞を排泄し終えた周遠源が立ち上がり、除暁明は両手で口元を押さえ、上下に身体を仰け反らせる。


「んぐぼっ…お…、お…美味しゅ…う…ござい、まま…ます」


 顔も軍服も糞まみれになった除暁明は、眼鏡の奥で涙を溜めつつも、濁った声でどもりながら食後の感想を述べた。


「だろ?」


 周遠源がトイレットペーパーに手を伸ばそうとした、その時だった。


「お…おお、お…おか、わり、いただけ…ます、か?ぶっ、うっぷ」


 沈黙。


「え…?」


 周遠源の間の抜けた声。


(除暁明よ、そこまで…そこまで…君は…)


 馬国立は、いつの間にか自分の頬を濡らす涙に気づいた。隣に立つ厳偉貴も同様に声を押し殺して嗚咽していた。


 馬は過去にも、父が他界したとき、母の認知症が発覚したとき、妻が他界したときに「男のくせに」と自嘲しながら声を上げて泣いた経験があったが、今回は悲しみや絶望の涙とは違う種類の涙が、自らの頬を濡らしている事に気づいた。


「貪欲な…私を、おお、おゆ、お許しください…周さま…しかし、まだまだ、まだまだ食べたい、のののです…おか…おか…おかわり、いい…いただけます、か?」


 鼻が曲がりそうなこの空間で、顔中を褐色の下痢便で汚された除暁明の懇願に「ええ~…もう全部出たよぉ~…」と答える周遠源。


「そこを…ななな、なんとか…お願い…しま…す…周さまの…ありがたいものを…いた、いただきたく、思い…ま、まま…す…ぶっぷ、ぶうっぷ…」


 小刻みに震える両手を合わせ、声を震わせながら乞い続ける除暁明。


(除暁明…君ってやつは…!!!)


 激臭の立ち込める部屋で、馬国立は、とうとう慟哭してしまった。


(周遠源さまに心から忠誠を誓った私ですら、三度もおかわりできるだろうか)


 馬は、周遠源に「どうしてもこの思いを伝えたい」と一歩前に出た。


「周さま…!!!私ごときのおこがましい進言をお許しください!!!彼は…除暁明上将は決して裏切り者などではありません…!!!彼は立派な軍人…周さまに忠誠を誓った…本物の愛国者です!!!」


 泣きながら馬国立は叫んだ。隣にいる厳偉貴もそれに頷いた。


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 数時間後――。


 中華人民共和国北部――。

 河北省の河北平原の北を囲むようにそびえる燕山山脈某所。


 山林を駆け回り、03式自動歩槍で銃撃戦を繰り広げる――「不死研究(プロジェクト・イブ)」による黒い戦闘服の不死兵たちが映し出される。


 パララ、パララと銃声がこだまする管制塔モニター前。それらを見た周遠源が「うんうん、順調だね。彼らが黒孩子なのがもったいないくらいだよ」と頷く。


 周遠源の背後には、瀋陽軍区・司令員の馬国立と、北京軍区・司令員である除暁明以外にも、他軍区の司令員がずらりと並んでいる。


 皆、緑の軍帽と軍服を着用しているが、除暁明のみ先の「下痢ライス」で軍服を汚された為に紺のスーツ姿だった。


「あ!そうだ、そうだ!司令員のみんなに伝えることがあるんだった!」


 突如、周遠源が何かを思い出したかのように大声を張り上げた。一同が周の背後で、ピシっと姿勢を正す。


「あのさ。最近、そこにいる北京軍区・司令員の除ちゃんの変な噂が出回ってるようだけど…」


 周遠源は太陽のような微笑を湛えながら、椅子をクルリと回転させ、除暁明を振り返った。他軍区の司令員たちの視線が一斉に除暁明に向けられる。


「除ちゃんは裏切り者なんかじゃない。だから今まで通り仲良くしてあげてよ!」


 背後のモニターでは相変わらずパララ、パララと銃声が鳴り止まない。


「除ちゃんの忠誠心信は伝わってきたよ。ぼくのウンチが出なくなるまで求めてくれるんだもの」


 周遠源はまばたき一つせず、除暁明を見つめて言った。


「めっそうもございません。尊敬する周さまのものを頂戴し、いっそう軍務に励めます」


 除暁明は頭を深く下げながら言った。そして除が口を開いた途端、下痢糞の異臭が室内に漂い、顔を歪める者が何名かいた。


「うんうん」


 周遠源は満足そうに頷くと、再びモニターに向き直り、兵士たちにカメラをズームさせるよう監視員に指示をする。


 他の軍区・司令員たちが小声で「おいおい、あの下痢ライスを完食したのかよ」「それだけで信じていいものだろうか?」「し!周さまがシロといえばシロなんだ。二度とこの話はするな」などと、ひそひそ話をはじめたが、除暁明は腕組みをしながら気にも止めていないようだった。


(貴様らに、除暁明の数分の一ほどの忠誠心があるのか。貴様らは下痢ライスを何杯食えるんだ)


 馬国立は「下痢ライス」の一件で、除暁明という男の誠実さに打ちのめされた手前、他軍区の司令員たちの陰口が許せず、薄く睨んだ。


「ほらぁ、みんな見てごらん。頭や心臓を撃たれてもすぐ生き返るよ!不死身だよ、不死身!不死身!不死身!うはははは!」


 歌い出しそうな周遠源。


 周の言うようにモニターのいくつかが斃れた兵士たちの無残な姿を映し出していたが、それらは数十秒身体を痙攣させたのち立ち上がり、山林に消えていった。


 七大軍区の司令員たちによる拍手喝采。口々に「これで我が国の未来は安泰です」と言った。


「黒孩子たちに副作用は見られないようだし、そろそろ七大軍区でも各自、実験してもらおうと思うんだけど、どうかな?」


 周遠源は再びクルリと椅子を回転させ、司令員たちに向き合う形となった。


「それでしたら、うちに志願兵が数十名おります!ぜひご利用ください!周さま」


 済南軍区・司令員――「朱小東」が、日焼けした赤黒い顔をテカらせながら手を挙げる。太い眉毛に濃い顔立ちの朱は、セラミック製の前歯を光らせ「周さま!ぜひとも!」と、さらにゴリ押しした。


「でしたら、私めのところにも」


 そう続いたのは、南京軍区・司令員――「林兵」だった。面長な背の高い男で、糸のような細い目の奥に狡猾な光を宿している。


「お前ら、我先にと声を荒げるな。周さまが困惑なさるだろ」


 窘めるように言ったのは広州軍区・司令員――「胡志峰」全司令員の中で最年長の胡は、老眼鏡の奥で瞳が白く濁りかけた老人そのもではあるが、激動の時代を生き抜いた海千山千の野生を秘めている。


「いっそのこと、全軍区同時に実験を始め、不死兵同士で演習させたらいかがでしょうか。結果は見えてますがね…ははは」


 不死兵同士で殺し合わせればいい、と提案したのは成都軍区・司令員――「白巴甲」という最年少の男。俳優を思わせる風貌は、馬国立にも劣らない色男ではあるが言動にどこか軽さがあった。


「それはいい~。私のところには、他軍区と違い腕のいい兵士が揃っていますからねぇ~」


 蘭州軍区・司令員――「何龍」は口元を押さえながら高い声で笑った。ひょうたんのような輪郭に醜い歯並び。背も一番低い何龍は、どこかのオカマを思わせる女々しさがある。


 馬国立は、欲深い他軍区の司令員たちを睨んだ。


 除暁明は、周遠源の言葉を待つかのように直立したままである。


(除…君はあれだけ忠誠心がある男だ。自らの欲望よりも国家の利益を考え、何も言わず、ただ、ただ、周さまの意向に従うつもりなのだろう)


 馬国立は、除暁明という司令員を、一人の人間として、男として尊い存在だと感じはじめていた。


「こらこら、こらぁ~…一斉に欲を出したらダメだよっ。こういうのは連帯感が大事なんだからさぁっ!七大軍区で仲良くやっていかないと三国志時代に逆戻りだよ!いいね」


 周遠源による窘め。


 馬国立と除暁明以外の司令員はそれぞれ、しゅんと肩を落とした。


 その時だった。


「まぁまぁ、いいではないですか…真の軍人であれば、誰もが武功を欲しがるものです」


 金属音の混じり合ったような地を這うような低い声が背後から聞こえ、馬国立をはじめ、七大軍区・司令員たちは一斉に背後を振り返った。


 二十メートルほど先――、広大なこの管制室の扉前で、肩幅の広い大柄な男の影。


 気配のないまま、いつの間に、いつからそこにいたのだろう、と軍人である司令員たちは怖気を振るう。


「劉ちゃん!来てたの!」周遠源が子供のような声を出す。


 声の主は、劉水――通称チェルシースマイルと呼ばれる男だった。


 長髪を後ろに流したオールバックに、上等なスーツに包まれた筋肉質な巨躯。眉目秀麗ではあるものの左唇の端から頬にかけて一直線に刃物傷が走っている。


 上海市の大物実業家・劉水――チェルシースマイルは、世界有数の大富豪ゴッドスピード家と血縁関係にあるアメリカ人の妻を持ち、巨大欧米企業の筆頭株主であるほか、国内金融、証券、不動産、鉱山などの企業を自らの傘下に入れ、その総資産は数千億元。また、武装した私兵を持ち、中国共産党や人民解放軍に不利益になる人物を秘密裏に処刑するなど、黒社会の支配者としての顔も持ち合わせた恐るべき男である。


 無論、莫大な蓄財と裏家業は国家に黙認され、今や彼を追及できる者は国内に誰ひとりいない。


「これはこれは、七大軍区司令員の皆様、お久しぶりです」


 チェルシースマイルはコツコツと歩み寄りながら、両手を後ろに組んだ形で軽くお辞儀をした。


「いつも、劉ちゃんにばかり研究を任せてごめんよ。ぼくも忙しい身でね」


「いいんですよ。遠源ぼっちゃんが、どんどん出世していく姿は嬉しい限りですから」


 チェルシースマイルが、馬国立の隣に立った。馬よりも十五センチほど背が高いので、百九十五センチはあるだろう。


 濃厚なムスクの香水が馬国立の鼻腔を刺激する。


 隣に立っていた除暁明は、なぜかチェルシースマイルの方から顔を背け、小刻みに震え出した。


(たしかに獰猛な男ではあるが、北京軍区・司令員の君が震えるほどの事はなかろう)


 馬国立は、除暁明を見て不思議に感じた。


「皆も知ってるとは思うけど、劉ちゃんは毛沢東さまのため文化大革命を戦った元・紅衛兵で、ぼくの尊敬する人ナンバーワンなんだ!ここだけの話、死んだうちのオヤジよりも遥かに尊敬してるよ!戸籍をいじって書類の上では若返ってるけど、実際は七十代半ばなんだよね~。それにしても若く見えるなぁ~劉ちゃん」


 周遠源の「紅衛兵」という言葉に、除暁明がビクンと反応したように感じたが、馬国立は別段、気にも留めず、彼らのやり取りを見守る。


「そう言っていただけて光栄です。私を担当する美容整形医師に伝えておきます」


 チェルシースマイルはにこやかに答えるが、言い終え笑顔をやめると、一瞬で顔中の皺がひっこんだ。これが整形なのかと馬国立は納得する。


「ははは…ところで、劉ちゃんが日本に送り込んだ不死の黒孩子(ヘイハイズ)…二百人は、あっちで平穏にやってるかい」


 周遠源は椅子をクルクルと回転させながら、鼻をほじり訊ねた。


「その節は、私の独断による事後報告で申し訳ありません…彼らは、留学生や観光客を装い、日本各地に散らばっております」


 チェルシースマイルは後ろに手を組んだまま答える。


「そっか。今、日本にいる不死の黒孩子たちは、いわば保険みたいなものだから、その時が来るまでヘタな動きをさせないようにね」


 周遠源がピンと鼻くそを飛ばす。


 南京軍区・司令員の林兵の軍服の胸元にくっついたが、彼は敢えてそれを避けなかった。


「遠源ぼっちゃま。正規の七大軍区・人民解放軍兵士を不死身に転化させ、日本への宣戦布告…その日がもうじき、やってきますね」


 チェルシースマイルは巨躯を屈め、座ったままの周遠源の耳元に口を近づけ、訊ねる。周遠源は「う~ん、そうだね」と言いながら数秒間、右手を顎に充て考え込む仕草をした。


「…三年後くらいにね」


「それでは遅すぎませんか」


 凛冽たる荒野を思わせるような、冷たい声。チェルシースマイルは周遠源をじっと睨むようにして答えを待った。


「もぉ~、劉ちゃんはせっかちすぎだよ!日本人に恨みがあるのは分かるけどね!政治には、いろいろ国家間の駆け引きとか戦略とかあるのっ!」


 周遠源は、夏休みの宿題の進度を咎められた子供のようにそっぽを向く。チェルシースマイルは、左頬の刃物傷をひくつかせながら不満そうに天井を仰いだ。


「周さま…そのお話、まさか」


 広州軍区・司令員の胡志峰が震えながら話に割り込んできた。全司令員の中で長老格にあたる胡は、わなわなと震え「まさか…もう…その時が」と痴呆老人のように何度も何度も呟く。


「そう。日本人絶滅計画だよ」


「ついに…ついに、夢の実現ですね。七十年かけて…あの憎き日本鬼子どもを…駆逐する日が来るなんて…おおっ、おおっ、おお~っ…」


 ぽつりと答えた周遠源を見つめ、老兵――、胡志峰が感激のあまり嗚咽をはじめた。


「そうだよ…胡ちゃん…事実上、日本と言う国家を絶滅させてやるんだ…」


 周遠源は、隣の部下にごそごそと何かを指示する。


 山林を駆け巡る不死兵たちを映し出していたモニターが、瞬時に衛星モニターへと切り替わり、それぞれ分割されていた個々の画面が、全体で一つのものを映し出した。


 地球――、太平洋――、極東――、そして日本列島。


 真っ青な海に囲まれた孤島――日本列島がズームされ、画面いっぱいに広がった。北海道から東北――、関東――、中部――、近畿――、中国地方――、四国――、九州――、沖縄――。山脈の起伏や葉脈状の河川、自然を切り崩し創られた街並など、全体を舐め回すように映し出されてゆく。


 沖縄までを捉えたのち、一瞬、尖閣諸島をズームし、カメラは関東――、東京――、千代田区にある国会議事堂と皇居を映し出した。


「チベットやウイグルのように、日本を駆逐してやるんだ」


 周遠源は菩薩のような笑みを浮かべ、その黒い瞳には燃え上がる日本列島のイメージ画像が映し出される。赤く、紅く、まるで中華人民共和国の旗のような朱色に燃え上がる炎、焔…。


 一九四九年――、中国共産党はチベット地域の合併政権に着手、大規模な虐殺が行われ、一九七六年までの間で死傷者はおよそ百二十万人。また、北西部に位置するウイグル自治区への進駐では、軍事力にものをいわせ、資源搾取、文化の破壊、核実験目的による広大な土地の強奪が行われ、一九五五年から一九七二年までに虐殺されたウイグル人は三十六万にも昇った。


 中華人民共和国による、チベットやウイグルへの「民族浄化政策」は完璧だった。現地民族の男を虐殺、または強制的に中国全土に散らばらせ、大陸の自国民(漢民族)との同化を促し、男がいなくなった土地を強奪、自国民(漢民族)を入植させ、残された現地女を陵辱し、泣き叫ぶ彼女らに混血児を産ませる。なお、現地民族同士の子供を強制中絶させることで、遺伝子レベルで国境線を曖昧にし、実質支配が完了。


 周遠源は、モニターに映し出された日本列島に手を伸ばした。


「犯す、犯す、犯す!!!!犯してやる!!!!うっ、うっ、イグ、イギそうだぁ…!はぁっ、はぁっ、」


 馬国立の目に、周遠源の「それ」が猛々しく映る。周は紅く燃え上がる日本国旗を想起し、激しく勃起していた。テントを張った先端が先走り汁で濡れている。女体にも似た日本列島を馬乗りになって陵辱する夢想に酔い痴れているのだ。極太毒キノコは「日本鬼子よ、見ていろ」と言わんばかりに怒張し、スラックスが裂けてしまいそうだった。


「はぁっ、はぁっ…日本など、たかが一億の国民!自衛隊は憲法九条がある限り、我々、中華人民共和国とは交戦できない…アメリカ合衆国だって、今や腰抜けだ…ははは、ははははは!!!!」


 国連憲章・第五十一条、及び、日本国憲法・第九条における「武力の行使」の新三要件、自衛隊法・第七十六条による防衛出動において、日本の自衛隊は「日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合において防戦を認められているものの、それは「必要最小限の実力行使にとどまること」とされ、さらに自衛隊法第六章における「戦場でしてもよいこと」――いわゆる「ポジティブリスト」に縛られた日本の「兵士」たちが、ただでさえ及び腰の米合衆国軍隊の出動を要請するまでの間、どれだけ中華人民共和国からの脅威に対応できるか怪しいものがある。自らの手足を縛り続ける日本の「軍隊」ほど、侵略国家にとって好都合なものはない。


「ぼくは欲しい物をすべて手に入れるんだ…ははははは!!!!ははははははは!!!!!」


 周遠源は、肉厚な唇の端から透明なヨダレを垂らしながら膝を叩いた。瞳の奥ではグルグルと狂気が渦を巻き、衛星モニターは日本列島のみならず全世界を映し出す。


「ふははは!ふはははは!あっという間に侵略してやるぞぉぉぉ!中華人民共和国――、日本省の誕生だぁぁぁぁぁ!!!!!!うっ、うっ、ううっ!!!イグゥゥ!!!!うっ、うっ、うっ!!!!!」


 馬国立は、忙しなく喘ぐ周遠源が、身体を仰け反らせビクンビクンとスラックスの中で射精するのを見抜いた。


「いっじゃったよぉう!!!!!ががががががが」


 白目を剥きながら昇天し、勃起した先端が萎みスラックスの股間部分がじんわりと濡れた周遠源に対し、他軍区の司令員たちが「大丈夫ですか、周さま」と声をかける中、馬国立はこう考えた――。


(彼が――、周遠源さまこそが、我らが中華人民共和国による世界統一を実現する最強の指導者なのだ―-!私は一生、彼についていこう!愛すべき息子のために。そして米国で暮らす麗燕のために!!!)


 そうだ、私の可愛い麗燕のために、明日いくらか追加で送金をしてやろう。もうすでに全財産を彼女の米国内の口座に移してはいるが「また送金してくれたの?あたしのこと、いつも心配してくれてるのね。愛してるわ」と笑う麗燕の声が聞きたい――。


 馬国立は、そう考えた。そして今夜、久しぶりに彼女に国際電話をしようと思った。


 やがて、管制室内は周遠源の精液の臭いで充満していった。


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 同日21時00分――。


 受話器を握り締めたまま、馬国立はまどろみを始めた。連日の激務で睡眠不足だったからだ。米国内にある麗燕の住む町までの時差を考えると、彼女は今ごろまだ眠りの中かもしれない。いや、朝食の時間だろうか。


 まだ幼い娘が部屋中を走り回る中、妊娠中の身体に負担がかからないよう、麗燕は、米国人のメイドを雇ったと聞いている。


(彼女はよく働いてくれるの。朝食のミートパイは最高――)


 先週、嬉しそうに言っていた。


 あとニ、三コールしても繋がらないなら、またかけなおそうかと馬国立は思い始めた。麗燕の米国銀行口座宛に送金は済んだ。彼女の声を聞いて癒されたい。ただそう思っただけで、急な用事などなかったからだ。


 馬国立と、黄麗燕の出会いは、今から四年ほど前の秋――。


 末期がんを患った妻の見舞いを終え、ふと立ち寄った天壇公園の多目的広場で、ギター片手に路上ライブをしていた麗燕の歌声に、馬国立が足を止めたことから始まった。客は数人いるが、中年ばかりで若者はいない。


 見た目、二十歳そこそこの麗燕が歌っていたのは、二十年前の流行歌だった。


 馬国立が妻と出会った当時に、よく二人で聴いていたありふれたラブソング。どんな困難が待ち受けようと、二人の愛は変わらない。永遠の愛は、限りある命を背負った人と人が信じあうことで生まれる。だから今夜も朝が来るのを静かに待とう――。そのような内容の歌だった。


「余命一ヶ月とないでしょう」


 医師の言葉が蘇る。日に日にやせ細り、細い管を身体中に繋がれ、会話もままならなくなってしまった妻を思い出し、馬国立は目頭を覆った。


 永遠の愛は、限りある命を背負った人と人が信じあうことで生まれる――。


 若い頃、結婚前の妻と、この歌詞について話し合ったのを憶えている。お互いに年を重ねながらも、一秒でも一緒にいられたらいいね。そう誓い合ったものだった。


 だが、別離の時は当人同士の都合と関係なく、唐突に訪れる。馬国立は、瀋陽軍区・司令員としての日々の軍務に忙殺され、妻の体調不良にも気づいてやれなかった自分自身を恨んだ。


「もう、あれが最後の曲だよ。いつまで突っ立てるんだい」


 嗚咽を堪える馬国立に、麗燕は話しかけてきた。


 小柄な身体に不釣合いな大きなフォークギターをハードケースに仕舞い込む彼女に、馬国立は「ああ、そうだったのか」とだけ答えた。先ほどまでいた数人の観客たちは散っていて、馬国立と麗燕だけが向き合うように立っていた。


「男の癖に泣いちゃってさ。思い出でも蘇ったのかい」


 パーマがかった茶色いロングヘアに、薄化粧の平坦な顔だが、愛らしい笑顔で麗燕は語りかけてきた。


「病気の妻と、出会った当時によく聴いてた曲なんだ」


 馬国立は顔を、ごしごしと揉み解すようにして答える。


 麗燕は「そうなんだ…悪い事を訊いちゃったね」と言い「これ、去年亡くなったあたしの母さんが好きだった曲なんだよ」と言葉を続けた。


「どうりで。君のような若い子がこんな曲を知ってるなんて、不思議に感じたんだ」


 それに対する答えはなかった。


 そして、やがて涙顔を、行き交う人々に見せたくないあまり、目をぎゅっと閉じていた馬国立の耳に、再びその歌が聞こえてきた。


 麗燕は仕舞いかけたギターを再び取り出し、馬国立のためだけにアンコールしてくれたのだ。サビの高音は苦しそうにかすれているし、とびきり上手ではないものの、心に染み渡ってゆく不思議な歌声だった。


 それから毎日、妻の見舞いを終えてから彼女の歌を聴きに行くのが、日課となっていた。


 だが、一ヶ月と待たずに、妻は死んだ。


 投薬治療生活で、骨すら残さず妻はこの世を去った。葬儀を済ませ、しばらく塞ぎ込んだ。寝ても覚めても、妻との在りし日を思い出しては泣いた。戻らない過去は、追えば追うほど近づき、遠ざかる。あれやこれやと思い出を振り返るうちに、皮肉にも、妻が入院していた時よりも、妻を失ったあとの時間の方が、彼女を近くに感じられた。


 半年ほどが経過した。


 共産党幹部とふと立ち寄った二軒目の場末のクラブで、麗燕と再会した。


「いきなり来なくなっちゃうんだもん。心配したよ」


 ギターを爪弾きながら歌っていた素朴な彼女とはだいぶ雰囲気が変わっていて、馬国立は動揺した。


 きっちり化粧をして甘い香りを漂わせた彼女は、夜の住人そのものだった。


「でも…来なくなった理由はなんとなく分かるよ」


 麗燕は、病気の妻の話を覚えていたのだ。


「そこまで愛された奥さんが羨ましい。あたしなんて男に騙されて借金しかない」


 麗燕はここ半年、好きな音楽さえできないほど、朝と夜馬車馬のように働いているという。


 やがて一緒に飲んでいた共産党幹部の男が「では、馬くん。お先に失礼するよ」と言って隣で酌をしていた若い女と店を出て行った。


 何の不思議はない。この店は酒と女を提供する店だ。特別料金さえ支払えば褥(しとね)を共にすることもできる。女の方も女でパトロンとなる男を探す為にこういった店で働くこともあるという。


「言っておくけど、あたしはそういうのはやってないよ。だから朝も働いてるんだ。大金ふっかけてきた金持ちもいたけど、断ったよ」


 麗燕は、けらけらと笑った。


「私が死んだら、あなたを支えてくれる女性を探してください。あなたは、自分が思っている以上に脆い人なんですからね」


 入院前に妻はそう言った。


「父さんに新しい出会いがあればいいと思う。人生は長いからね。母さんもきっとそれを望んでいる」


 成人したばかりの息子の言葉。


 なぜ、このタイミングでそんな話を思い出すんだ、と馬国立は自分を責めたが、グラスを片手に遠くを見つめる馬を、麗燕は目を丸くしてじっと見つめていた。


 出世競争にばかり時間を費やし、女性の誘い方など、とうの昔に忘れてしまっていた。だが、ふいにこんな言葉が出た。


「もし、よかったら…あの曲を、歌ってもらえないか」


 馬国立が、思い出に浸っていると、数コールのちに麗燕との電話が繋がった。


「おはよう。あたしも、ちょうど電話しようと思ってたところだよ」


 麗燕の陶鈴を鳴らすような声の後ろで、まだ幼い娘の声が重なる。「パパに代わって、パパに代わって」という娘の声を聞くうちに、頬を濡らす温かいものがあった。


「お仕事がんばってる?中国(そっち)は大変そうだね」


 麗燕は、ここ最近冷え込んだ、米・中関係のことを言っている。一触即発とも言われる両国間の状況下、馬国立と麗燕は、それぞれの国に離れて住んでいる。いつも強気な麗燕が不安を隠せないのは無理もなかった。


「大丈夫だよ…私も…そっちへ行きたい」


 ふいに本音が漏れたあと、馬国立は自分がどういう意味でこの言葉を紡いだのか自問自答した。


 麗燕の顔を見に行きたい。

 米国に移住して、正式に入籍して麗燕と一緒に生きていきたい。


 後者はない。自分は中華人民共和国に忠誠を誓った身である。米国人になることはできない。だが、年をだいぶとって人民解放軍を引退したら、それもアリだろうか、などと考えた。いや、それはない。終生、自分は中国の軍人であり、祖国に骨を埋めると若き日から決めていたのだから――。


「早く引退して、こっちに来てくれる?もし、このまま米国と中国が戦争になんてなったら、もう会えなくなる…そんなのイヤだから…」


 麗燕が、いつもの強気な様子とは違う甘えるような口調で言ってきた。


 馬国立は、それにはすぐに答えられなかった。


「戦争になんてならないから、安心してくれ…そうだ。受話器越しに…あの曲を、歌ってもらえないか」


 とだけ言葉を紡ぎ出した。


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 8月7日(金)

 8時00分――。


 司令部ビル最上階・司令員室――。


「もうすぐ戦争だよ!!!!馬ちゃん!!!!!米合衆国大統領オブライアンが、とうとうやりやがった!国際緊急経済権限法を我が中華人民共和国に適用し、事実上の宣戦布告を開始しやがったんだ!!!!瀋陽軍区が保持する核兵器の準備もしておいて!!!!」


 馬国立はデスクに座ったまま、受話器越しに周遠源の怒号を聞かされた。周は、いつもの温和な口調とは打って変わって乱暴に米国を批判していた。


「まさか…」


 馬も、その事実を確認し言葉を失った。


 米合衆国による国際緊急経済権限法―。


 米合衆国の「安全保障」や「外交政策」「経済」に対する、異例かつ、重大な脅威に対し、非常事態宣言後、米合衆国で司法権の対象となる資産を没収し、外国為替取引、通貨及び有価証券の輸出入の規制、禁止などを行使できる法律―、いわゆる「経済制裁」と呼ばれるものであり、議会を必要とせず大統領令一つで適用可能な強権である。


「周さま…私は…その…」


 馬国立は、何か言葉を出そうとするがもう手遅れであることを理解していた。一度動き出した振り子は止まることはない――。米合衆国は「不死研究(プロジェクト・イブ)」を本気で潰しにかかっているのだ。


「外交担当国務委員の張平穏もお手上げだと言っている…もう話し合いで解決できる状況ではなくなった…ぼくも甘く見てたよ…オブライアンを。もう少し上手にとぼければ良かった…くそっ」


 弱気にも思える周の本音。声が微かに震え、荒い息を吐き始めている。


 その時だった。


 トントンとドアをノックする音。部下が一礼し、分厚い報告書を無言で馬国立のデスクに置き、また一礼して去って行った。


 報告書の内容――。


 それは、米合衆国が原子力空母、原子力潜水艦を東南アジア経由で派遣したというものだった。沖縄の米軍基地や、在韓米軍もざわつき始め、韓国政府に対し、米国より直接の圧力があったという事実も書かれていた。米・中、双方に対し八方美人でなければならないペク・ウニョン大統領が、どこまで米合衆国を相手にシラを切り通せるかは甚だ疑問である。


「…国内外で、不死研究(プロジェクト・イブ)への反対運動は増していくだろうね…もうネット規制どころじゃ収まらないよ…くそっ!くそっ!!くそったれが!!!」


 パァン!パァン!パァン!


 受話器越しに、発砲音が聞こえた。


 周遠源は癇癪をおこし、共産党本部ビル・執務室のデスクから取り出したハンドガンを弄んでいるのだろう。馬国立は受話器越しに執務室内の壁にめりこんだ数発の弾丸を想像して唾を飲み込む。


「経済的に孤立した我が国に対し…大損した連中、快く思ってない連中も少なくない。国民が北京政府に牙を剥くのも時間の問題だよ…その時が来たら出動してね。馬ちゃん」


 周遠源はそう言うと、電話を切った。


 その時が来たら――、暴動を起こす自国民を皆殺しにせよという意味だった。なんら不思議なことではない。この国の銃口は、国家分裂の危機に際し、何度も自国民に向けられてきた。


「国家の…周さまのためなら…やむをえない…」


 馬国立はぽつりと呟く。


 その時、地震がやってきて、デスクの下で馬国立の足許が小刻みに揺れた。反射的に司令員室内の本棚やトロフィー、亡き妻との写真が飾られたフォトスタンドに目をやるが、それらは微動だにしなかった。


 震えていたのは、馬自身だった。


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 天安門――。


 中華人民共和国・北京市東城区に位置する城門。


 元々は紫禁城の正門であったが、楼上で毛沢東が中華人民共和国の建国宣言を行った地でもあり、毛沢東の肖像画が国章として描かれるなど、中華人民共和国の最たる象徴ともいえる。


 人民大会堂は、以下で構成される――。


 総面積、約十八万平方メートルからなる収容人数一万人の「大会議場」――。

 全国人民代表大会が行われる「万人大礼堂」――。

 広大な「中央大庁」――。

 北側に位置する「大宴会庁」や「人大常務委員会弁公楼」――。

 各省、市、自治区の名を冠した「小会議室」――。


 そして、長安街通りを隔てた場所にある最大五十万人を収容できる「天安門広場」――。


 8月8日(土)

 12時00分――。


 曇天は低い呻り声と共に北京を濡らし始めていた。


 狂騒と共にうねりをあげた黒い群集――「天安門広場」では、およそ一万規模の民衆が集結し、人民大会堂に向けて拳を振り上げていた。


「周遠源!!!!!!やつは英雄の皮を被った悪鬼だ!!!!!!」


「周遠源の暴挙で我々、中国は世界から経済的孤立させられる!!!!」


「周遠源を捕らえよ!!!!!!そして断罪せよ!!!!!!」


「これは中国共産党と人民解放軍の犯した大罪である!!!!」


「十三億の国民よ、決起し、今こそ革命を!!!!!!」


 ポロシャツやTシャツ姿の若者から、ワイシャツの袖を捲り上げた会社員たちが怒号を飛ばす。彼らの掲げるプラカードには「一党独裁に反対」「世界平和」「周遠源の独裁を許すな」という文字が躍っていた。


「中国共産党を倒し、民主化を!!!!」


「狂気の研究は一党独裁体制による暴走だ!!!!!!」


「狂気の研究を中止せよ!!!!そして真の平和を!!!!」


「諸悪の根源、周遠源!!!!!!やつを引きずり出せ!!!!!!」


「話し合いに応じないならば、門を突破するぞ!!!!」


 怒号、罵倒、讒謗の雨あられ。


 ぽつぽつと乾いたアスファルトを湿らしていた雨粒は、いつしか勢いを増し始めた。民衆の叫ぶ声は豪雨によってかき消されつつあったものの、彼らは二倍、三倍の声を張り上げ中央政府に、罵声を浴びせ続ける。


「バカどもが騒いでる…学もない、暴れれば問題が解決すると思ってる愚民どもが!!!!くそ!!!くそ!!!くそ!!!」


 周遠源は、この度の米合衆国による「国際緊急経済権限法」への対応を追われ、人民大会堂内の大会議場で緊急に開かれた「臨時中央委員会全体会議」の議長席から、天安門広場全体を見渡せる防犯カメラの映像を凝視していた。


 総書記の周遠源、七名の政治局常務委員、二十五名の政治局員ほか二百五名からなる中央委員から末端の党員数百名、そして七大軍区・司令員が顔をそろえる会議場で、沈黙の時間が流れていた。現在、民衆の暴動を懸念し、会議が一時的に中断され、出席者が北京市全域に繋がる「天安門地下道」から避難すべきか否かを検討しているところである。


「天安門に集まった人民は一万…このままでは…」


 政治局常務委員――薄仁川が、泣き出しそうな顔で呟く。


「今から、ここ大会議場のなかに戒厳部隊の指揮部を置くよ…門を突破した市民は殺しちゃっていい」


 総書記、国家主席であり、中央軍事委員会主席でもある人民解放軍トップ――、周遠源は七大軍区・司令員たちに向け菩薩のような笑みを浮かべ、右手で自らの首をかき切る仕草をした。


「…え?」


 政治局員――呉瓜弓が間の抜けた反応をする中、党員たちがざわつき始める。


「瀋陽軍区・司令員の馬ちゃん、準備はいいね」


 馬国立は名指しされ、軍帽をきゅっと整えたのちに直立したまま「はっ」と敬礼した。実はデモが起こり始めた数時間前、馬は周遠源に暴動鎮圧の打診をされ、部下たちに出動を要請済みであった。


「六四天安門事件を…再現するおつもりですか…?」


 別の政治局員――彭山成が震えながら、周遠源を見つめた。


 六四天安門事件――。


 一九八九年六月四日。同年四月の、政治改革に積極的だった元・総書記(のちに失脚、政治局委員の地位にとどまる)胡耀邦の死後、天安門広場に民主化を求め、集結していた五十万人の一般市民――デモ隊に対し、成都軍区、蘭州軍区以外の人民解放軍・五軍区が、北京郊外の東西南北すべての方向から出動。天安門広場に集結したデモ隊の「鎮圧」を目的とし、プラカードを掲げる会社員、テントで仮眠を取っていた学生などを、無差別発砲、装甲車で轢き殺すなどして武力弾圧した事件である。


 六四天安門事件は一部の学生らによる「暴乱」であり軍の出動は正しかった、と主張する中国政府が発表した公式死者数は三一九人――。しかし、それはあくまで中国政府が控えめに発表した人数であり、実際の死者は数千人とも数万人ともいわれている。


 近年「天安門事件の研究会」に参加した改革派知識人や人権派弁護士らが、相次いで連行、拘束されるなど、中国共産党で、この事件は「タブー」となっていた。


「今こそタブーを破るときだよ…多少の国民の犠牲は構わない…中央政府に逆らったらどうなるか分からせてあげないとね。一億死んでもまだ十二億いるから」


 周遠源は分厚い唇を歪ませ、菩薩の笑みを見せた。


 馬国立は怖気を振るい、かつて国家の父、毛沢東が、ソ連で開かれた社会主義陣営の各国首脳会議に参加した際に呟いた暴論を思い出す。


「われわれは西側諸国と話し合いすることは何もない。武力をもって彼らを打ち破ればよいのだ。核戦争になっても別に構わない。世界に二十七億人(当時)がいる。半分が死んでも後の半分が残る。中国の人口は六億(当時)だが半分が消えてもなお三億がいる。われわれは一体何を恐れるのだろうか」


 周遠源の顔に国家の父、毛沢東が重なる。赤い血は国旗をさらに赤く染め抜く。馬国立は「これは国家の任務だ」と思い直すが、数千、数万の叫び声を想像し寒心に耐えかね、視線を落とす。


「どんどん、反逆者は殺しちゃって。馬ちゃん」


 馬国立は、視線を落としたまま「周さまの仰せの通りに」と蚊の鳴くような声で返答した。


「しかし…」


 馬国立をけしかける周遠源に政治局員――袁浩宇が、物言いたそうにあたふたした。


「政府が愚民たちの暴力に屈したら、それこそこの国は終わりだよ?なんのために軍が銃を持ってるか分かる?」


 周遠源は袁浩宇を睨む。


「それは…」


「…反逆者を殺し治安を守るためだよ。それは従順な国民を動乱、混乱の脅威から守る行為でもある。人民解放軍の暴力装置としての恐ろしさを、外にいる愚民どもに教えてやらないとね」


 周遠源は握りこぶしを、演台に思い切り叩きつけ笑った。瞳は狂気で渦巻き。血の色に染まっている。


 その時だった。


「周さま。僭越ながら提案がございます」


 北京軍区・司令員――除暁明が立ち上がり、右手を上げた。先日の「下痢ライス」で汚された軍服はすっかり新品同様になっており、周も除を見つめて、菩薩のように微笑んだ。


「なんだい?」


「瀋陽軍区だけでなく、我が北京軍区…そして七大軍区すべてから、装甲兵員輸送車を出動させてはいかがでしょうか」


 除暁明は軍帽をぴっと直し、周遠源へと進言した。周との距離は数メートルほどでお互いの声は明瞭に聞き取れる。


「きさま何を言っている!こんな時に武功の話か!」


 政治局常務委員――姜浩然が唾を飛ばす。


「一枚岩ではないと言われていた七大軍区の統制。周遠源さまの本気を見せてやるのです」


 除暁明は意にも介さず、周遠源を見つめたまま進言を続けた。


「どういうことだい」


「…人民解放軍の七大軍区すべてが周さまに従うという現実を、国民と国際社会にアピールするいい機会です。米国と決別した今こそ、中央軍事委員会主席たる周さまの権力を世界に誇示する絶好のチャンスかと。ご英断ください」


 除暁明の言葉に、他軍区の司令員たちが「私もそう思います」「お役に立ててください」「必要とあらば、すぐに出動させます」と賛成の表明を始めた。


「それでもいい?馬ちゃん」


 周遠源が同意を求めてきた。馬国立は内心、ほっとした。これから何千、何万という市民の命を自分ひとりの指示で脅かすのは正直、気が引けた。国家の為とはいえ、周遠源の命令とはいえ、やはり、どこかに躊躇いがあったのだ。


「皆様のお力も…お借りしたく思います」


 他軍区の司令員たちが、一斉に立ち上がり快諾。


「いいね!七大軍区から兵士たちを集結させちゃおう!!!六四天安門事件よりも派手にぶっ殺しちゃおうっか!!!!」


 周遠源は立ち上がった。


 狂気を宿した瞳の奥で焔を揺らめかせ、スラックスの股間部分は不自然に盛り上がり、先端が濡れていた。一同はその一部分に目をやったが、誰もがそれを見て見ぬふりをした。


 そんな中、七大軍区・司令員たちは「殺戮の準備」をすべく、慌しく散っていった。


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 8月11日(火)

 00時00分――。


 沛然と降りしきる雨の中、爆発的に増大した六十万のデモ隊は、人民大会堂へ向けて怒号を飛ばし続けている。


 雷鳴。


 灰色の分厚い雲が白く光った。地面を揺さぶる轟音にかき消されないよう、怒りの声はさらに増すばかりであった。


 小会議室――。


「やぁ、司令員のみんな…こんな深夜遅くにごめん」


 周遠源の手招きで瀋陽軍区、済南軍区、南京軍区、広州軍区、成都軍区、蘭州軍区の六大軍区の司令員たちが一同に敬礼をした。


「除暁明上将の姿がないようですが」


 南京軍区・司令員――林兵が、糸のように細い目を吊り上げ、除暁明がここにいない疑問を口にした。


 馬国立も、除の姿を探していたが、林の方が先に質問したため何も言わずにいた。


「うんうん。その件についてだけどね…」


 周遠源は目を伏せながら、六人の司令員に腰を降ろすよう手でジェスチャーをし、各々がそれに従う。


 窓の外では暴雨に混じり、この小会議室までデモ隊の声が微かに聞こえてきた。


「…ぼくの下痢ライス三杯を完食…怪しいと思ったんだ…何かを隠そうとする人間ほど、頑張っちゃうものだよね…。房ちゃん、彼を連れてきて」


(除暁明が怪しい?どういうことだろうか)


 馬国立の思いをよそに、中央国家安全委員会に属する房秦徳が一礼した後、部屋を出て行く。


「失礼致します。天安門広場にいるデモ隊の一人を連れてまいりました」


 房秦徳は扉を開け、顔の判別もつかないほど凄惨な拷問を受けたと思しき男を、車椅子に乗せて連れてきた。血の饐えた臭いに司令員たちは顔をしかめるが、反共産主義者への拷問はそれほど珍しいものではなく、誰もが事情説明を待った。


「君の雇い主はだれ?」


「除暁明で…で、で、で、です…しゅ、しゅいません…」


 周遠源の質問に、男は答えた。前歯が折れ口の中が腫れあがってるせいか呂律が回っていない。


 馬国立は「除暁明が…まさか」と、両手で口を押さえたい衝動を封じ、しゃんと背筋を伸ばし成り行きを見守る。


「そっか。なんで密告(チンコロ)する気になったんだい」


「この男は金が目当てです」


 房秦徳が、なかなか言い出さない男の代弁をした。


「図々しいやつだね。除暁明と中央政府、両方から金を取ろうとするなんて最悪だよ。どこかの陸軍病院に連れていって、生きたまま臓器を取り出してやって」


 周遠源は歌うように言った。


 冗談で言っているわけではない。いわゆる「臓器狩り」と呼ばれるこの行為は、軍事行動の一環として政府公認で横行している。中国共産党に逆らう罪人は、陸軍病院などで、生きたまま臓器を抜かれ、富裕層へと闇で売買されるのだ。中国で行われた移植手術のうち、殆どの臓器の出どころが判明していないのは、そういった理由からである。


「しゅ、しゅいません!!しょれだけはご勘弁をっ!ご勘弁をぉぉっ!!!」


 車椅子を房秦徳に引かれ、ぎゃあぎゃあ喚く男の声は廊下中に響き渡っていたが、やがてそれも聞こえなくなった。


「さっきの彼は、天安門広場で騒いでるデモ隊の一人…反共産主義者…除暁明に雇われたクライシスアクターらしい」


 周遠源は六人の司令員を見つめ、言った。


「どういうことでしょうか」


 馬国立は、わなわなと震える声で訪ねる。


「最初期に出現した天安門のデモ隊のメンバーの顔の画像を解析したところ、政府がマークしていた反共産主義者が多数…。周さまは、これを仕組まれたデモであると疑われたのです」


 房秦徳が、小会議室に戻ってくるなり説明をした。周遠源はその言葉にウンウンと頷く。


「仕組まれたデモ?」


「考えれば分かるでしょ?我が国に、国際緊急経済権限法が適用され、国民の怒りは在中米大使館に向かうのが当然なのに、一日も経たずして天安門広場に一万人のデモ隊…考えてみれば、おかしいよね…?白ちゃん?」


 成都軍区・司令員――白巴甲の拍子抜けしたような疑問に、周遠源自らが答え、白は萎縮して肩をすぼめる。


「たしかに…事前に何かを知っていなければ、あの単位の人数がすぐに集まることはないで…除暁明め…」


 長老――広州軍区・司令員――胡志峰が自らを戒めるように呟く。


「皮肉なことだけど…情報統制された我が国では、人民に思想というものがないからね。天安門に集まった一万人のニセデモ隊に、やがて怒りの行き場を探し求める一般人たちが合流していき、数十万単位の本物のデモに発展してしまったというわけだよ…大掛かりなでっちあげも、一般人民が混ざり合えば真実となる…まんまとやられた」


 周遠源は、忌々しそうに握りこぶしをつくった。


「なぜそのようなことを…?除暁明の狙いは…?」


 済南軍区・司令員――朱小東が赤黒い顔に汗を浮かべながら声を張り上げる。


「まさか」


 声を出したのは、馬国立だった。


(そうか…そういうことか…除暁明のやつめ)


 馬国立は歯軋りをした。


 除暁明を信じた自分の愚かさ、裏切り者を見抜けなかった自分の浅はかさを呪いながら、馬は除への憎悪をむくむくと滾らせた。


「そう…。天安門広場の六十万人のデモ隊を背景に、北京軍区を出動させ、武力行使で人民大会堂を占拠する…。北京軍区による、ぼくの政権の転覆を目的としたクーデターをやる気なんだよ、彼は」


 周遠源は溜息交じりに答え合わせをする。


「なるほど。瀋陽軍区だけに任せず、北京軍区にも出動要請を乞うた理由はそこにありましたか。他軍区も出動させよというのはカムフラージュで、クーデターなど夢にも思わない我々の隙を衝き、人民大会堂を武力制圧する画策していたのでしょう…侮れん男だ」


 朱小東は膝を打った。


「まったく誰がこんな絵図を描いたのかは分からないけど、ぼくに歯向かい、振り子のように大衆を動かした罪は重い。除暁明と共犯者については調査中だよ」


「在中米大使館内の協力者(スパイ)を通し、手に入れた情報はこちらになります」


 房秦徳は書類を各人に配り始めた。


 在中米大使館内には、何人か中国共産党のスパイがいる。この国で暮らす以上、遠く離れた祖国(アメリカ)よりも中国共産党(このくに)にすり寄り、美味しい思いをしたいと願うのは、欲深き人間として当然の摂理ではないか。


 スパイ経由の情報。内容は、顔写真入りの「要注意人物」リストといったものだった。


「数週間内の入国記録のリストを照会、住所も特定済みです」


「テレンス米大使…CIA諜報員のセバスチャン・リー…彼らに話を持ちかけ、除暁明と結託しているのは…二人の日本人…一人はアニメ会社代表取締役――遠柴博識、もう一人は…有働努…高校二年生だって…?驚きだよね…」


 周遠源は、眉間に皺を寄せ困ったような表情で書類を凝視する。


「…彼らはいったい何なんだい。我々と関係のない日本人がなぜ除暁明と繋がってるんだね…しかも日本政府の人間ではなく、ただの金持ちとガキだよ?意味が分からないよ…」


「申し訳ありません。そこまでは、まだ分かりません」


 房秦徳は頭を下げるが、周遠源は納得いかないといった表情で唸りはじめる。


「彼らのことを引き続き調べ、拘束して…ぼくをここまで虚仮にして、タダじゃおかないよ」


「日本在住の同朋にも協力を要請し、早急に彼らの目的をお調べします」


「楽しみだね」


 周遠源は書類をデスクに放り投げ、嗜虐的な笑みを浮かべた。


 除暁明にどんな制裁を加えてやろうか――日本からの来客たちにどんな拷問をしてやろうか――。


 計画が暴かれた今――、生殺与奪は我にあり、と絶対者としての喜色満面の笑みを、ただ、ただ浮かべていた。


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 8月13日(木)

 13時00分――。


 北京郊外の東から――、西から――、南から――、北から――、人民解放軍・七大軍区すべてからなる戒厳部隊が、天安門広場の「粛清」を目的として出動。


 天安門広場の周辺には、夥しい数の装甲兵員輸送車が集結。


 完全武装した兵士の姿に、六十万を越すデモ隊は怒号を飛ばしながらも、誰もが六四天安門事件を想起し息を呑んだ。


 小会議室――。


 そこには、瀋陽軍区・司令員の馬国立と周遠源しかいなかった。


 他軍区・五名の司令員たちは「反逆者」である北京軍区・司令員の除暁明に計画を察知されぬよう、大会議場のなかにある戒厳部隊の指揮部で各自、任務に励むふりをしている。


 周と馬が、除暁明を捕らえる打ち合わせをしているところに、中央国家安全委員会の房秦徳がノックし入ってきた。


「周さま、すでに北京軍区の装甲兵員輸送車は天安門広場の東側に配置されています。一部情報によれば北京軍区からの千人の兵士は、すでにクーデター計画を除暁明から知らされ、従う意思で出動しているもよう。本当にこれでよかったのですか」


「兵士などしょせん烏合の衆だよ。明日の深夜に指揮部会議で除暁明を捕らえれば、中央軍事委員会主席たるぼくに指揮権が移り、クーデターなどおこらない。十三億の国民は、除暁明拘束のニュースとともに、仕組まれたデモ隊の真相を知り…怒りは除暁明と米合衆国へ向かう。党の信頼回復と、対外戦略への定石がここで適う」


 周遠源は笑った。


 周の表情を見て、馬国立は背筋の凍る思いをしたが、それは除暁明本人が選んだ道である。裏切り者への粛清には大いに賛成だった。


「ところで、遠柴博識と有働努なる日本人の行方は?」


「彼らはどこの宿泊施設にもおらず…おそらく米大使館内で保護されているのかもしれません」


「日本に帰らず何がしたいんだろうねぇ」


 周遠源はポマードで固めたオールバックを撫で付けながら、愉快そうに分厚い唇を歪め、遠柴博識と有働努を探し出すべく、これより大会議場に集結する北京軍区の兵士たちの顔を照会させるよう房に指示した。


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 8月14日(金)

 23時00分――。


 人民大会堂内・大会議場・指揮部会議――。


 これより天安門広場の六十数万人のデモ隊を鎮圧すべく、中央政府より戒厳部隊として呼び出された人民解放軍・七大軍区、七千人の兵士たちが一堂に集結する。


 党幹部と七大軍区・司令員たちは前列に着席し、兵士たちの到着を待つのみとなっていた。


 馬国立は除暁明の横顔を盗み見る。


 どのタイミングで除が、武力蜂起(クーデター)の合図を千人の兵士たちに出すのか見当もつかないが、彼の策謀を知る周遠源と他の六大軍区・司令員たちはこの場で除暁明と北京軍区・千人の兵士たちを拘束する算段をつけてある。


「入場!!!!!」


 中国人民解放軍進行曲と共に、人民解放軍・七大軍区の兵士たちが、軍靴の小気味良い音を鳴らしながら一糸乱れぬ列をなし、大会議場へと行進してきた。


 緑の戦闘服に身を包み、QGF-零二ヘルメットを装着。九五式自動歩槍を斜めに構え、瀋陽軍区、北京軍区、済南軍区、南京軍区、広州軍区、成都軍区、蘭州軍区の兵士たちが、岩の間を迷いなく突き進む川のように、座席通路へと流れ込み、各々の席の前で直立してゆく。


 演台の国家主席――周遠源、そして政治局常務委員、政治局員ら党幹部は、席を立ち目を細め、彼らの行進をウンウンと頷きながら眺める。


 およそ表情というものがない完璧な兵士たちが、全て己の席の前に納まると、舞台に掲げられた紅い国旗が風圧で微かにはためく。民衆殺戮の前夜に相応しい、静かな時間が流れていた。


 七大軍区の司令員たちが起立し手を挙げると、兵士たちは背筋を伸ばし敬礼をした。再び舞台ではためく国旗。


「やぁ、七千人の兵士の諸君、ご苦労!!!では、着席してくれたまえ」


 周遠源が手を挙げながら促すと、兵士たちはそれに倣う。


「ちょっとね、今日は皆に見せたいものがあるんだ…おい!用意してくれ」


 演台の周遠源の背後で、いそいそと五名ほどの党員がプロジェクター・スクリーンを用意しはじめた。その大きさは横・十八メートル、縦・八メートルほどあり、劇場スクリーンに相当する。


 やがて設置を終えた党員たちが、舞台裏へ消えていった。


「ちょっと刺激の強い写真だから気をつけてね~、みんな」


 菩薩のような笑みを浮かべた周遠源が、自らがスクリーンの邪魔にならぬよう舞台の下手(しもて)でしゃがみこみ、右手を上げると、大会議場中の電気が消えた。


 暗闇。


「これから皆に見てもらうのは、文化大革命の記録写真だよ」


 しゃがみこんだ周遠源は、スーツに取り付けられたピンマイクをオンにして、皆に語りかけた。


 映写機が、眩い光と共にスクリーンに「古写真」を浮かび上がらせる。


 映し出されたもの。それは屈辱的な文字が書かれた木の看板を首からぶら下げた資本家、反共産主義者たち。隣で笑う紅衛兵。そして惨殺体。首を斬られた者、手足を引き千切られた者、一斉射撃で斃れた死体の山々…。


 大会議場のあちらこちらで、多少ざわめきが起こったが済南軍区・司令員の朱小東が「お静かに!」と一括し、静けさが戻った。


 数秒単位で切り替わる、過去の残像たち。

 死の歴史の記録。

 大会議場に冷えた空気が流れる。


「今から約五十年前、毛沢東さまが資本主義を倒し社会主義文化を創生しようと、共産主義に反する党幹部や知識人、旧地主たちを、紅衛兵を使って排除したのが…いわゆる文化大革命…これは皆、知ってるよね?」


 周遠源はしゃがんだまま笑みを絶やさず、舞台の下手(しもて)から場内の数千人を見つめた。


 党幹部、党員、馬国立をはじめとする軍区司令員、人民解放軍兵士らは無表情のまま、意図的にスクリーンを直視し続けている。


「五十年前、北京市内で、とある資本家一族が、紅衛兵によって粛清された。これがその時の写真だよ」


 これまでの公式記録写真は、数秒単位で次のものへ切り替わっていたが、ここからはゆっくりと時間をかけるようにして、一枚につき三十秒ほどしてから切り替わるようになった。


 映し出された「とある資本家一族」の惨殺体――。


 古い写真のため、不鮮明さはあれど、老若男女がめった撃ちにされたり、頭部を砕かれていたり、刃物で身体中を斬りつけられたりして絶命している写真だった。部屋の中で逃げ回っているところを背後から撃たれたのか、前のめりに斃れている者や、犯されながら絞殺された若い女、小さな子供が割れた窓越しに道路に投げ出されている構図などの写真もあり、無抵抗の彼らに対する紅衛兵の一方的な暴虐さを如実に物語っていた。


「グロいねぇ…。はい次、これが彼らの生きてるときの写真」


 周遠源は眉を顰めながらも薄ら笑いを浮かべ、しゃがみこんだまま、大会議場の中央で映写機を回す党員に、右手を上げ指示する。


 映し出された三十名ほどの集合写真――。


 漢民族は血の結束を何よりも大事にする。老若男女が映し出されているが、曽祖父らしき人物を中心に、立場の強い順番で正しく構図に納まっていた。


「彼らは王一家。みんな幸せそうな顔して写ってるね~。彼らは資産をたっぷり貯めこんで共産主義に批判的だったから、皆殺しにされたわけだけど…」


 周遠源は唐突に舞台の下手(しもて)から立ち上がり、ツカツカと演台の前に立ちはだかった。彼のずんぐりとした巨大な影がスクリーンに落としこまれ、周遠源から後光が射したように見えた。


「…実はこの中に映り込んでる、当時四才だったこのオチビちゃんが、戸籍を買って別人を装い、クーデターを計画して大会議場(ここ)にいるんだよね~…司令員として…ふふふふ…」


 笑顔。

 周の言葉に、ぴんと張り詰めた空気が堂内に漂う。


 再び周遠源は舞台の下手(しもて)へと姿を消し、一族写真の「一部分」がズームされる。不鮮明ながらも、若い母親に抱きかかえられた「王一族」の幼子の顔がスクリーンいっぱいに映し出された。


 正面を向いた幼子の額、両目と鼻と口、頬、耳に点と点がポツと浮かび上がり、線でそれらが繋がる。


 そして幼子の写真のサイズがスクリーン左半分にまで縮小し、右半分に、北京軍区・司令員――、除暁明の証明写真が追加された。


 党員の誰かが「まさか…除暁明上将…なんてことだ」と声を漏らす。


 除暁明の額、両目と鼻と口、頬、耳に点と点がポツと浮かび上がり、線でそれらが繋がった。


 顔認識アルゴリズム――。


 複数枚の画像から、顔画像から目立った特徴を抽出することで識別する、画像管理ソフトウェアによる三次元顔認識システムである。


 数秒後、点と点、線と線が赤く点滅し、幼子と除暁明が、同一人物であることを示し出した。


 誰もがこの結果に納得しただろう。


 ソフトウェアが結論を導き出さずとも、二枚の写真を見比べれば、成長、加齢による変化はあれど、両者の顔の特徴やパーツは一致し、同一人物であることは一目瞭然である。


 スクリーンに現れた自分の写真を直視しながら、除暁明はカッと目を見開き固まっていた。


(裏切り者の除暁明め――。これで貴様のクーデター計画は終わりだ)


 大会議場前列に着席する馬国立は、数席あけた向こうの左隣に座る除暁明を苦々しく睨んだ。


「北京軍区・司令員の除暁明を捕らえて!!!!!!」


 周遠源が舞台の下手(しもて)で立ち上がり、叫ぶ。


 大会議場が、パッと明るくなった。


 一斉に、瀋陽軍区――、済南軍区――、南京軍区――、広州軍区――、成都軍区――、蘭州軍区――の人民解放軍・六大軍区兵士からなる六千人が、ザザッと軍靴を鳴らし立ち上がり、除暁明および着席したままの北京軍区の千人に、九五式自動歩槍を向ける。


 突然の展開に、党幹部がざわついた。


「どういうことですか!周さま」


 ぎょっとした除暁明は、座ったまま両手を上げ叫んだ。


 周遠源は微笑むだけでそれに答えず、除の方を指差し「あはははは…あはははは」と高らかに笑った。


 周遠源はペタペタと舞台を歩くと、演台のマイクを握る。スクリーンには除暁明の二枚の写真が映し出されたままだが、大会議場の明るさのせいで、それらは不鮮明になっていた。


「残念だったね。除暁明こと…王永朋くん。国内の戸籍屋を洗い出すのに随分、苦労したよ。本物の除暁明は、君が王永朋という名を捨てる半年前に心を患い首吊り自殺している…家族や親戚はおろか友人さえ少ない天涯孤独な男だったようだね。当時、貧乏人同士で除暁明と部屋をシェアしていた男は、彼の死を隠蔽し、闇ルートでその戸籍を競売にかけた」


 馬国立はじめ他軍区・司令員も、周遠源という男の抜かりなさに、声を出して唸った。国内に数万はいるとされる戸籍ブローカーのすべてを把握していなければこの数日でここまでのウラをとるのは難しい。しかも数十年前に譲渡された戸籍となればさらに探索は難しくなる。周遠源はこの広大な中国国内の闇社会までも隙間なく把握しているのだ。


「信じてください!私は除暁明以外の何者でもありません!!!!これは何かの間違いだ!!!!」


「ふふふ。まだシラをきるのか…ついでに君の嘘をもう一つ暴こうか?君の子供は病気ではない。診断書を書いたとされる医師を尋問し、ウラもとってある…妻子を渡米させたのは、米合衆国と君が描いたクーデター失敗の時のための保険だろう。ふふふ」


 周遠源は演台のマイクに分厚い唇を近づけ、愉快そうに言う。


「そ、それは…」


 王永朋こと、除暁明は言葉を失った。


「王一族の生き残りである君は、ある人物への復讐のため、天安門広場のデモを嗾(けしか)けた。外にいたクライシスアクターを何人か拘束、尋問し、ウラはとってある」


「何のことですか」


 除暁明は前列の席から直立し、目尻を下げて周遠源に異議申し立てをする。


「とぼけてもムダだよ。それと…遠隔操作型爆弾を使い、大会議場(ここ)でクーデターを起こす計画を立てていたようだけど…くまなく探査して、人民大会堂内のあらゆる場所に仕掛けた五十個の爆弾はすべて撤去済みだよ。これね」


 複数の党員たちが舞台の上手(かみて)から現れ、サービスワゴンを運んできた。


 そこには、銀色のガムテープで、スマートホンを括りつけた一束七本のダイナマイトが、どっさりと積まれていた。どの液晶画面も暗くなっていて遠隔操作型の爆弾として無効化されているのが分かる。数は周遠源のいうように、およそ五十束ほどあるだろう。


 除暁明は頃合を見計らって、人民大会堂中に仕掛けられた爆弾の存在を明らかにし、状況によっては遠隔操作で数個を爆破させ、大会議場の党幹部、党員、軍区司令員、六大軍区の兵士六千人の動きを封じ、自らが引き連れた北京軍区千人の兵士によって、周遠源ら重要人物を拘束し「不死研究(プロジェクト・イブ)の粛清・軍事クーデター」を遂行するつもりだったのだ。


 もしもこの計画が成功していれば、表向きは「除暁明率いる北京軍区による、天安門広場に集まった六十数万のデモ隊をはじめとする全人民の総意を一身に受けた正義のクーデター」と喧伝され、周遠源が失墜後の新政権も彼らを裁くことはできず、反逆者ではなく国民の英雄としての地位を得ることができたであろう。また「不死研究(プロジェクト・イブ)」に反対していた米国の後ろ盾も得て、研究を頓挫させた彼らの正当性は二重、三重に担保されたはずだ。


 だが、それは失敗に終った。


「しかし、まぁ…よくこれだけの数を仕掛けたね。党内から末端の清掃業者に至るまで協力者がいることは間違いない。いずれ調べ上げてやるさ」


「そんなもの知りません!」


 計画を明らかにされた除暁明は唾を飛ばし、席で直立したまま前のめりになった。


 その動きに合わせ、六大軍区の兵士たちが銃口を彼に向けなおす。除暁明の部下に当たる北京軍区の千人の兵士たちは、両手を上げたまま何もできなかった。


(裏切り者のうえに、往生際の悪い男め――!!!)


 馬国立は、他の軍区・司令員同様に着席したまま裏切り者――、除暁明を睨んだ。除は冷や汗をかいて手を小刻みに震わせていた。


「ならば彼の前でも同じことを言えるかな?ふふふ」


 周遠源はペロッと舌を出す。


「…今日はスペシャルゲストを連れてきたよ…これまでにも面識は何回もあるとは思うけど、家族の仇として再会するのは初めてじゃないかな?」


 周は、舞台の上手(かみて)に手を伸ばした。五十の爆弾をのせたサービスワゴンが、舞台の下手(しもて)へと消える。


「どうも」


 巨躯を揺らし、舞台に現れたのは――。


 劉水――、またの名をチェルシースマイル。裏社会の人物らしからぬ紳士然とした振る舞いで、チェルシースマイルは皆に軽く挨拶をした。


「やぁ劉ちゃん!!!彼が、あの王一族の息子だってビックリだろ?」


 周遠源は、直立したままの除暁明を指差し、はしゃぐ。


「私が王一家を皆殺しにした際、クローゼットに小さな気配を感じましたが、まさかあの時の子供が、ここまで憎しみを糧にして育つとは…。生かしておいて正解でした」


「もう~悪趣味だなぁ、劉ちゃん…うふふふ」


「除暁明…いや、王永朋くん。君もあの場で見ていたとは思うが、君のお父上には、借りがある…この私の左頬の傷は、君のお父上がつけてくれたものだよ。わざわざ整形外科でこの傷跡を消さないのも、あの日の屈辱と己の未熟さを忘れないためだ」


 チェルシースマイルは、スクリーンに映し出された除暁明こと、王永朋の二枚の写真を眺めながら、左唇から頬にかけて走る刃物傷を歪め薄く笑った。


「劉ちゃんが、不死研究(プロジェクト・イブ)の責任者だっていうのを踏まえて、この除暁明はクーデターを画策した…五十年ごしの復讐計画だよね~ふふふ…決して裏切り者は許さないけど、凄まじい執念って、大好きだよ」


 周遠源は毛づくろいする猫のように目を細め、歌いだしそうになっていた。


「私が憎いか。さぞかし無念だろう。クーデターというものは、成功より失敗する確立の方が大きい。歴史がそれを証明している。憎しみに我を失い、こんなことを計画した君は浅はかだ…ご両親はあの世で、さぞかし悲しんでいるだろう」


 チェルシースマイルの問いかけに、除暁明は答えなかった。


 馬国立は、不死兵士の演習場・管制塔にて、チェルシースマイルを前に小刻みに震えていた、いつぞやの除暁明の姿を思い出す。あれは恐怖を意味していたのだ。


「あらあら、分かりやすい男だね。顔に憎悪が浮かんでるよ、除ちゃん」


 除暁明は、俯き玉のような汗を額に浮かべつつ歯を食いしばり、何かと葛藤しているようだった。その様子を舞台から見下ろし、周遠源が嘲笑う。


「どうする?その拳銃で、たったひとりヤケクソを起こすかい?そうしたら六千人から一斉に弾丸を浴びせられるよ?皆の銃口が君に向けられているのをお忘れなく」


 周は除暁明の腰に据えられた拳銃を指差して、哄笑し続けた。


 だが馬国立は、除暁明が震えながらも一瞬だけ笑ったのを見逃さなかった。すぐに笑顔を引っ込めたが、その理由は分からない。


 その時だった。


 馬国立の制服の胸ポケットに、振動あり。

 携帯電話だ。


 本来、大会議場において出席者は携帯電話の電源を切らねばならないが、六十数万のデモ隊が天安門広場を占拠するという――、事態が事態であり、この場の全員が外部との連絡手段として電話や無線の類を使えるようにしていた。


 耳を澄ませばあちらこちらで、携帯の着信音や振動音が聞こえる。特に各軍区司令員が座るこの列や、党幹部の席から聞こえてきた。


 天安門広場で何かあったのだろうか――。


 だが、状況が状況なため、誰もそれに出なかった。


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「それと…人民解放軍に変装してるつもりだろうけど…バレバレだよ」


 周遠源が、パンパンと手を叩いた。


 馬国立は、銃を構えたままの瀋陽軍区・兵士たちに頷く。


 兵士十名が、銃を構えたまま、一斉に手をあげている北京軍区の兵士らの前へと歩み出て、その最前列に座る二名の兵士を銃口で小突いた。


「日本から来た二人組って君らだね」


 周遠源が多少、訛りのある英語で訊ねる。


 それに対する答えはない。


 小突かれた二名の兵士は、ヘルメットを目深(まぶか)に被っているものの、中年男性と若い男であることは一目瞭然だった。


「こっちへおいで」


 両手を上げた二名は、瀋陽軍区兵士たちに促されるまま、周遠源、チェルシースマイルらの立つ舞台へと連行された。


 周遠源の背後で、スクリーンに「遠柴博識」と「有働努」なる二名の日本人のパスポート写真が映し出される。


「周さまに顔を見せろ!」


 巻き舌な中国語でまくし立てる兵士らは、遠柴と有働に銃口を向けたままヘルメットを乱暴に脱がせ、舞台の床に放り投げた。


「遠柴博識に…有働努…。ふんふん、写真と同じ顔だね。特に日本の高校生…有働努くん。君の事はそうとう調べさせてもらったよ」


 顕になった日本人二名の顔。

 パスポートの写真と寸分違わない。


「黙れ、眉なしブタ野郎」


 有働努が、覚えたての舌足らずな北京語で怒号を飛ばす。


 最前列の馬国立は、舞台にて周遠源の左隣に直立する「日本からの招かれざる客たち」を睨んだ。


 有働努なる日本の高校生は、少女のような顔をしていた。両手を上げながらも讒謗の言葉と共に憎しみを容赦なく周遠源へとぶつけてくるその様(さま)は、党内でも噂されている「少年愛好家」としての周遠源国家主席の性欲を過剰に刺激し「これから有働少年をどのように嬲り者にしようか」と計画(プラン)を幾つも妄想させているのだろう、周の股間を盛り上がらせていた。


 そして、その左隣の遠柴博識は、観念したように両手を上げたまま目を瞑っている。暴力に慣れている男の所作だ。彼はこれから自分たちに向けられるであろう無数の仕打ちを想起し、少しでも痛みを軽減すべく肉体から意識を切り離す作業に入っているように見えた。命の保障はない。いかに速やかに苦痛から解放されるか。もし仮に一瞬の隙が生まれ彼の足許にナイフが転がり落ちていたならば、反撃に使うより自らの頚動脈に突き立てることで、その問題を解決するに違いない。つまり彼は、この絶望的状況において、自分の命を諦めているように見えた。


 周遠源は、人民解放軍・兵士の戦闘服に身を包んだ二人の日本人をにこやかな表情で眺めて、満足そうに頷いた。


「有働努くん…君は知る人ぞ知る有名な高校生みたいだね。まず、昨年十一月二十三日、殷画高等学校の学園祭で五百名を毒殺しようと計画していた同級生を止めた。またその一ヵ月後の十二月三十一日にスーサイド5Angelsの中野ムーンパークカウントダウンコンサートにて篭城し、二千名を焼き殺そうとした半グレたちをユニークな方法で撃退したとか。日本のマスコミは未成年者の情報を完全にシャットアウトするから、ほぼ噂の域を脱さないレベルではあるけど…君のことを書いた書き込みや記事がチラホラ、ネットに残っているね…これが本当なら君はすごいよ」


 周遠源は勃起した股間を隠すそぶりも見せず、大会議場内で声を張った。


「そこにいるクソ野郎に用事があるんだ!!!」


 有働は今度は英語で怒鳴り、周遠源の右隣に立ったチェルシースマイルを睨む。


「だってさ。劉ちゃん」


 周遠源は菩薩スマイルを浮かべたまま、有働努の背後にまわり、両手で彼の肩を揉み解すようにして言った。できれば、このまま有働の着込んだ緑色の戦闘服を脱がせて陵辱したいのだろうが、周遠源は荒い息を有働に吹きかけるだけでそれ以上のことは何もしなかった。


「私の部下が、アダムの起爆装置をタイミングを間違えて押したせいで、予想外の場所で爆発が起きた。その時に臨海学校に参加していた高校生が何名か巻き込まれて死んだ…その学校が有働くん、君の通う殷画高校だった。君は彼らの復讐にやってきたんだね」


 チェルシースマイルは流暢な日本語を使い、自分よりも二十数センチほど背の低い少年、有働を見下ろすようにして訊ねる。


「くたばれ」


 有働からの答え。今度は彼の母国語である日本語だった。


 チェルシースマイルは、左頬の刃物傷を醜く歪めながら笑う。そしてスーツの襟の下にモゾモゾと右手を入れた。


「くたばるのは君らのほうだ、小日本人」


 シュリン…と冷たい金属音と共に、大振りな青龍刀が現れる。


 純金でできた柄や鍔には、大小の宝石が散りばめられており、鈍く光る刀身は幾多の人間を斬り裂いてきたのか何度も何度も研ぎ澄まされた形跡が認められた。


「斬り刻んでやろうか」


 チェルシースマイルは日本語で言いながら、兵士たちに銃口を向けられたまま直立で両手を上げる遠柴と有働に刃先を向けて、爬虫類のような笑みを浮かべ始めた。


「君らと除暁明は、復讐という点で利害が一致したわけだね。在中米大使館の密告者(スパイ)によると、この絵図を描いてきたのは君だってね…有働くん。高校生なのにやるね。まぁ、日本で先の事件二つに関わった経緯から考えれば不思議なことじゃないけどさ」


 周遠源に指さされた除暁明は、相変わらず前列の席で両手を上げたまま俯いているものの、何かをぶつぶつと呟いている。


 着信音、マナーモードの振動音は各軍区・司令員や共産党幹部の胸元で、騒々しく音を立て続けていた。


(それにしても、騒々しい。一体なにが…)


 馬国立は胸元の携帯電話を気にしながら、息を吐いた。


 鳴り止まない、鳴り止まない、鳴り止むことがない、着信音。だが、それに出ようとする者も誰一人としていなかった。


「殺してやる…チェルシースマイル」


 有働は、両手を上げたまま呪詛を吐く。


「今この状況でよくそんなことが言えるね」


「お前もぶっ殺す」


 呆れたように問いただす周遠源に、有働は唾を吐いた。側の兵士がライフルの先端で、有働の後頭部を思い切り殴った。有働は、多少よろめいたものの仇敵を睨み続ける。


 遠柴は両手を上げたまま目を瞑り、何かに耐えているようだった。


「ふふふ…私こそ君たちを生きては帰さないよ。我が国も舐められたものだね」


「ブタ野郎!!!!」


 有働が周遠源につかみかかろうとしたその時。


「やめなさい、有働くん!!!」


 遠柴が、声を張り上げた。彼は手を上げ続ける事にくたびれたのか、右手はやや下がり、左手が高い位置にあった。


「動けば撃つぞ!!!」


 兵士の怒号。


 舞台で会議場中で無数の銃口が有働を捕らえている。遠柴の制止を聞かず飛び掛っていれば、周遠源に辿り着く前に有働の体は蜂の巣になっていたに違いない。


「くそ」


 有働は毒づく。死は彼ら二名の日本人をゆっくり取り囲み、巨大な蜘蛛の巣のように捕らえて離さない。


「周さま、彼ら二人に制裁(コミュニケーション)を加えても宜しいでしょうか」


 チェルシースマイルが、弓なりに輝く白銀の青龍刀を高い位置に掲げながら歌いだした。


「外交部の高ちゃん、そこの日本人たちに何かあっても大丈夫?」


 周遠源は、大会議場の全席に着席する中華人民共和国外交部長――、高華良に尋ねる。


「表向きは日本からの旅行者である彼らですが…ここでの出来事は我々だけの秘密。まぁ死んだとしても、外交部で事故死として処理しましょう」


 高華良は、額に汗を浮かべながら苦笑した。


「だってさ。劉ちゃん、やっちゃっていいよ」


「感謝します、周さま。まずは…年功序列で、遠柴くんから制裁だな」


 舞台中央で有働と遠柴を取り囲んでいた瀋陽軍区の兵士十名は、九五式自動歩槍を構えたまま下手(しもて)へと下がり、周遠源から「殺傷の承諾」を得た劉は、冷笑しながら青龍刀を構えた。


 そして百九十五センチの巨躯が軽やかに舞った。影のように。しなやかな風に吹かれた柳の葉のように。


「ぐあっ」


 有働を飛び越え、両手を頭上で上げたままの遠柴に向けられた一閃。


 大会議場中の光を一身に集めた流麗な刀身が、鮮血の彩りを、七千の人民解放軍兵士たちと数百におよぶ共産党幹部たちの前で見せつけた。


 転げ落ちる四本の指。


「遠柴さん!」


 遠柴は膝から崩れ落ち、左手の人差し指、中指、薬指、小指それぞれの付け根から噴き出す血液を見つめていた。眉間に皺を寄せ、痛みと葛藤しているが、素早く背後へ回ったチェルシースマイルによって刃先を喉元に突きつけられているため、転げ落ちる指を目で追うしかできなかった。


「動くな…遠柴とやら」


 大会議場のあちらこちらで悲鳴が上がった。


 血を見慣れていない共産党幹部たちだった。慌てふためき立ち上がる者もいたが「お静かに」と広州軍区・司令員の胡志峰に窘められ、仕方なく着席する。


「ありゃりゃ~遠柴さんとやら…左手の指がごっそり四本とんだね~…もしも彼が左利きだった場合、親指だけじゃマスもかけなくなる…お楽しみ半減だわ、これ」


 周遠源は、舞台の床でころころと転がる遠柴の指を見つめ、菩薩のような笑みを浮かべた。


「てめぇ!」


「やめなさい…有働くん…今の状況じゃ、我々の方が不利だ…くそっ…」


 遠柴が再び声を張った。


 飛び掛ろうとする有働を制し、チェルシースマイルに突きつけられた青龍刀の先端が首に食い込み、血の筋をつくっている。


「遠柴さん…この切り離された四本の指がほしいの?そりゃそうだよね…一時間以内に病院に行けばくっつくもんね」


 周遠源は、腰を屈めて四本の指を拾った。


「劉ちゃん、ジェイソンを連れてきたら?」


「承知しました」


 チェルシースマイルは遠柴に刃先を突きつけたまま、舞台の上手(かみて)にいる部下たちに何かしらの合図を送った。


「なにをするつもりだ」


 有働の怒号。


 部下たちが連れてきたのは巨躯のドーベルマンだった。


 ドーベルマンはゆったりと舞台を歩み、床の血の臭いを嗅ぎ始める。漆黒と薄茶の肌の下では筋肉が蠢き、獰猛な野生の匂いを発散させていた。


「ほらっ」


 ジェイソンとはこのドーベルマンの名前なのだ。誰もがそう理解した瞬間、周遠源は四本の指を放り投げた。


 ワウッ、と一吼え。


 ジェイソンは、遠柴の左手から斬り離されたばかりの人差し指――、中指――、薬指――小指を大口を開けてキャッチ。


「美味しいかい?ジェイソン」


 周遠源はジェイソンに歩み寄り、彼の頭を撫でる。チェルシースマイルも目を細めてその様子を見つめていた。


「なんてことだ…」


 遠柴は、数十年間、世話になった四本の指に別れの挨拶もできないまま、ジェイソンがそれを、ただ食料としてボリボリと音を立てて咀嚼、嚥下するのを見守るしかできなかった。


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「おっと動くなよ?動いたら君ら、蜂の巣になっちゃうよ…ふふふ」


 周遠源は舞台中央で、飛び掛りそうな有働に宥めるようにして言った。


「くそが」


 膝をつき、欠損した左手四本の指からの出血を眺める遠柴。その右隣で立ち竦んだまま、有働は怒りに震えていた。


 周遠源はジェイソンから離れると、スーツの内ポケットからペーパーナイフを取り出し、遠柴の背後に回ろうとした。


「どうぞ」


 遠柴の背後で、その喉元へ青龍刀を突きつけていたチェルシースマイルが退く。


「うひひひ…」


 場所を入れ替わった周遠源は中腰になると、ペーパーナイフを右手に握り、膝をついて苦しむ遠柴の左目の前に突きつけた。


「このオッサンの眼球をこの場で抉り出してやろう…こうやって…うふふ…こうやって…ぐふふ」


 ペーパーナイフの刃先が遠柴の左目下瞼に押し当てられ、圧迫により眼球が迫り出される。刃先は肌に数ミリ突き刺さり血の筋をつくった。


「ぐっ」


 遠柴は額に汗を浮かべながらもされるがままになっている。自らと有働を取り囲む、人民解放軍・六大軍区兵士らによる数千の銃口の前になす術がないためだ。


 舞台にいる兵士たちも、いつでも彼らを狙撃できるように、九五式自動歩槍を構えながら成り行きを見守っていた。八方ふさがり。文字どおり彼らに逃れる術はない。


「やめろ!クソ野郎」


 有働が、この日一番の怒鳴り声を上げた。


「おお、威勢がいいねぇ」


 周遠源が、菩薩を思わせる完璧な微笑を見せた。しかし右手に握ったペーパーナイフは遠柴の左目の下瞼から離れない。周遠源は日本の少年の恫喝ひとつで拷問をとりやめるような男ではなかった。


「周さま、私に考えがあります。再び、制裁をお任せいただけますか?」


 青龍刀を右肩に担いだチェルシースマイルが、柔らかな口調で提案した。


「いいよぉ、劉ちゃん。楽しませてね」


 舞台中央で、中腰になっていた周遠源が立ち上がる。ペーパーナイフは元通りスーツの内ポケットに仕舞われ、愉快そうに微笑を浮かべ両腕を後ろに組んだ周遠源は、チェルシースマイルの後ろへと下がった。


「日本の少年、有働くん…さきほど見たように、私の愛犬ジェイソンは高級ドッグフードと人肉しか食べないんだ…」


 チェルシースマイルはそう言うと右手に青龍刀を握ったまま、左手でスーツの内ポケットから大振りなサバイバルナイフを取り出し、有働の前に放り投げた。太陽光を反射させないよう黒燻しが施された本格的なもので、刃渡り三十センチはある。


「…君がその身を削ってジェイソンを満足させることができれば、遠柴氏への拷問はこれ以上しないと約束しよう」


 左唇から頬にかけて一直線に走る刃物傷を歪め、チェルシースマイルは嗤った。


「なんだと」


「そこに跪き、そのサバイバルナイフを上手に使って、右か左の腕の肘から下の筋肉を削って…少しずつ、少しずつ、ジェイソンに与えなさい」


 大会議場の舞台で遠柴の血液を嗅ぎ回りウロウロしていたドーベルマン――、ジェイソンが一吼えする。


「うげっ、げぇっっ、うぐっ」


 場内の党員たちの誰かが、嘔吐するのが聞こえた。


 兵士はともかく、陰惨な暴力の応酬に、脆弱な心をもった政治家たちが耐えられるはずもなかった。だが、周遠源が無言の圧力としてこの場に止まることを強要している為、誰も外へ出られない。


 残虐ショーは終る気配を見せなかった。


 大会議場内では、相変わらず着信音があちらこちらで鳴り響いてるものの、誰もが携帯電話の存在を忘れていて、四人の男たちの一挙一動に息を呑む。


「きちんと肘から下が骨だけになるまでね…いいね?」


 チェルシースマイルが有働の肩を叩く。有働は無言のまま、目の前に放り出されたサバイバルナイフを右手で拾った。


「有働くん!騙されるな!」


 遠柴が声を荒げた。左手首を押さえ止血しながら、滝のように汗を流し、人民解放軍の戦闘服は濡れて、緑から黒っぽく変色しつつあった。


「どうする?」


 チェルシースマイルが、有働と遠柴の間に入るかたちで彼らのアイコンタクトを遮(さえぎ)る。周遠源は微笑を浮かべ、ジェイソンの頭を撫でながら三人の男たちのやり取りを見守っていた。


「分かった」


 有働の呟き。


「有働くん…聞くな。こいつの目は殺人鬼だ…私には分かる…」


 遠柴はなおも有働を制止した。


「…私も、悪人とはいえ、たくさんの人を殺めてきた…今ここでツケを払う」


 ツケを払うとは――、どういうことなのか。遠柴が立ち上がろうとしたその時。


「誰が喋っていいと言った!立場をわきまえろ!」


 チェルシースマイルの右つま先が、遠柴の顔にめりこんだ。


「ぐんむっ!!!」


 バカ正直に正面から喰らったため、前歯がカケラとなって飛び散った。鼻骨も粉砕したかもしれない。


 遠柴は、顔から大量の血を噴出させながら後ろに倒れ、意識を失った。


「分かったから止めろ!」


 有働は怒鳴ると人民解放軍の戦闘服の左袖をまくり、チェルシースマイルに言われたように、舞台中央で跪く。


 そして刃渡り三十センチのサバイバルナイフの柄(ハンドル)を右手で逆手に握り、細い筋肉が顕になった左前腕の二本の尺骨の間へと刃先をあてがった。


「うまいナイフの入れ方を教えてやろうか」


 チェルシースマイルが嗤う。周遠源も嗤う。ジェイソンが吼える。どこかしこで着信音の鳴り響く場内では、冷えた空気がゆっくりと流れていた。


「よけいなお世話だ、チェルシースマイル。人体の構造なら学んだ…お前をバラバラに斬り刻むためにな…」


 有働は跪いたまま、サバイバルナイフの刃先を自らの左前腕に突きつけた状態で、舌足らずな北京語を使い吐き捨てるように言った。


 それを聞かされたチェルシースマイルの右頬の傷が、神経質に引き攣る。


「それは残念だったね。ならばせめて手伝ってやろう」


 チェルシースマイルは右足を高く掲げ、有働が右手で握り突き立てていたサバイバルナイフの柄の底へと蹴り下ろした。


「ぐあ」


 肉が裂ける瑞々しい音と血飛沫。


 日本語でも中国語でも、英語でもない――、有働の絶叫。


「てめぇ…」


 有働の左前腕に、刃渡り三十センチのサバイバルナイフが三分の一ほど貫通し、舞台の床へと突き刺さった。静かに広がる血溜まり。有働は苦痛に顔を歪めている。


「昆虫標本だ」


 チェルシースマイルは、ナイフの柄の底を何度も何度も、蹴り下ろした。


 有働の絶叫。


 何度も、何度も、何度も。杭を打つ鉄槌のようにひたすら蹴り下ろした。


 有働の絶叫。


 そのたびサバイバルナイフは床へと深く突き刺さり、肉が広い範囲で裂ける音と共に血溜りが床一面に広がってゆく。


 有働の絶叫。


 最後の蹴りが決まると、ガキンという金属音と共についに刃の根本までもが、有働の左腕にずっぷりと収まった。


「くそったれがぁぁぁ!!!!!」


 瑞々しい、多量の血液が吹き出す音。


「て、てて…てめぇ…」


 有働は血溜まりの中、飛びそうになる意識を必至に耐えて、チェルシースマイルを睨んでいる。


「く…、く、くく、くたばれ!ゴ、ゴミ野郎が」


 サバイバルナイフで、床へ固定された血塗れの左前腕。音を立てる赤い小さな噴水。


「ぶ…ぶち殺してやる!!!醜い口裂け野郎が!!!」


 大会議場内では二人の日本人に対し、兵士六千人の銃口が向けられている。


 遠柴は昏倒したままであり、拷問を受けている有働はナイフを引き抜くこともままならず、額に汗を浮かべながら、下手な北京語で讒謗の言葉をチェルシースマルに投げつけるしかできなかった。


「その左腕、痛いだろう…かわいそうに。予定変更だ。斬りおとしてやる」


 チェルシースマイルは左頬の傷を歪めながら青龍刀を構え、蹲る有働の左肩へと狙いをつけた。


「くそがっ!!!!ゴミクズ野郎が!!!!!!」


 会場中では携帯の着信音が鳴り止まない。


 振動音もあちらこちらで響いていた。有働の怒号はそれらに負けないほどに、大会議場内に響き渡った。


-------------------------


 党幹部、軍区・司令員たちの胸元から、大会議場内に響き渡る着信音。


「おや?ぼくにまでかかってきたぞ」


 ついには、チェルシースマイルと有働の成り行きを見守る、周遠源の胸元からも盛大なメロディが流れ始めた。


「周遠源!!!!!てめぇの携帯に着信があったってことは、すべて準備ができたってことだ!!!!これは合図なんだよ!!!!米合衆国からのな!!!!!」


 左手を串刺しにされたまま、血塗れの有働は、北京語で叫ぶ。


 有働の左腕を斬り落とそうと青龍刀を高く掲げたチェルシースマイルも、周遠源の方へと目をやった。


「なにを言ってるんだい、有働くん。恐怖で頭がどうかしたのか…たしかにこの番号は米合衆国からのものだが…」


 周遠源は、両手をやれやれという風にジェスチャーしながら、眉尻を下げた。


「…だからって、なにがあるってんだ?米合衆国が、国際緊急経済権限法を我が国に適用した今…米合衆国(かれら)が、ぼくらから奪えるものなんて何一つない。皮肉ではあるけどね…。だが、いい。面白いじゃないか、有働くん。ぼくは今からこの電話に出るから、幹部や司令員の皆も電話に出ちゃっていいよ。くだらん政治的駆け引きの電話ならすぐに切ってやる。皆もクソ喰らえって言ってやりなよ。そしてから有働くんへの拷問再開だ」


(周さまに対しては別として、米合衆国が政治的駆け引きの電話を、一軍人である司令員の私たちにかけてくるものだろうか)


 馬国立はそう思いながらも、周遠源に従い、胸元の携帯電話を取り出しナンバーディスプレイを確認した。


 表示されているのは、たしかに国際電話の番号だった。麗燕との電話でお馴染み、米合衆国からの番号だ。間違いない。


(米合衆国から、この私に何の用事だ)


 済南軍区・司令員――「朱小東」南京軍区・司令員――「林兵」広州軍区・司令員――「胡志峰」成都軍区・司令員――「白巴甲」蘭州軍区・司令員――「何龍」ら、他軍区・司令員も馬国立同様に、携帯電話を操作しはじめた。


 除暁明だけは例外で携帯電話に着信がなく、俯いたまま何かをぶつぶつ呟いている。


(除暁明――。まさかこれも、お前が有働や遠柴と一緒に仕組んだ、何かしらの戦術だと言うのか?いや、それはないだろう――。除よ、お前はすでに詰んでいる)


 馬国立は通話ボタンを押す。


「あんた…ごめんなさい…」


 受話器越しに聞こえてきたのは、麗燕の湿った声だった。


「どうした」


 馬国立は、気丈な彼女の異変に不安を感じ、事情説明を促す。


「いま国政府の人が訪ねてきて…米合衆国内にある、あたしたちのお金を…凍結するかもしれないって…」


「なに…」


 麗燕は嗚咽し、それ以上なにも話せなくなっていた。背後で何者かが、英語で彼女に英語で通話の交代を促すのが聞こえる。


「お電話かわりました。私は米合衆国・国務省・外交保安局のレナード・スタークと申します。あなた、およびあなたのご家族が保有する米国内の資産を、国際緊急経済権限法に法(のっと)り、すべて凍結させていただこうかと検討しております。米国内の口座におきましては、あなたの名義でないもの…つまり、あなたの内縁の妻である黄麗燕さまの名義のものから、巧妙に名義変更しているものも、すべて調査済みです…」


 外交保安局員のレナード・スタークは抑揚のない声で、馬国立が隠し持っていた口座の名義をすべて告げた。受話器の向こうでは、麗燕が嗚咽する声が漏れてくる。


「もう米合衆国(ここ)では居場所がないわ…未来も…」


 馬国立は焦った。今この状況でそんなことをされれば、愛する麗燕は、妊娠中であるにも関わらず異国の地で、幼い娘を抱え丸裸にされたも同然となる。


「そんな…」


「ただし米国政府に協力していただける場合のみ、その限りではありません」


 情けなく声を絞り出す馬国立へ、レナード・スタークは助け舟を出した。


「な、なにをしろと」


「除暁明氏のクーデターに加担し、周遠源と劉水を拘束していただきたい。それだけです」


 縋りつく馬国立に、レナード・スタークは「国賊になれ」と冷たく言い放った。


「なに」


 馬国立は憤りながらも、周囲を見回す。


 他軍区・司令員たちも、それぞれ携帯電話を片手に青ざめているのが分かる。党幹部らも同様だった。


 状況が導き出す答え――。

 司令員、党幹部らも皆、馬国立と同じく、米合衆国内に隠し資産を保有していたのだ。


「ふざけるなよ!!!!皆が、このぼくを裏切ったと言いたいのか!!!!」


 携帯を片手に、周遠源は怒鳴った。


 周は通話しながら、大会議場中を睨んだ。馬国立も一瞬、彼と目が合い、背筋が凍った。


 周遠源へ電話をかけた米合衆国・外交保安局員は、彼にすべての種明かしをして、不正蓄財を働いた馬国立らが、逃げ道を作れないようにしたのだ。


(もう言い逃れはできない――。電話を切ることも――、シラを切ることも――)


 馬国立は震える手で、携帯電話を握り締める。


 すべてが周遠源国家主席の耳に入ってしまった今となっては、もし米合衆国の提案を振り切ったとしても、後日、彼からの粛清が待ち受けていることは明白である。


 しかし、周国家主席にこう提案した場合はどうだろうか――。


(米合衆国からの提案を無視します!クーデターに加担などしません。その代わり、私たちを見逃してはもらえませんか――?)


 馬国立ひとりだけの不正ならば、こんな駆け引きは無謀に等しい。


 しかし、他軍区・司令員や党幹部らも共犯関係にある現状、彼らと共にこの取引を周国家主席に持ちかければ、特例として断罪を免れられるかもしれない。断罪を免れれば、麗燕を帰国させ、二人でなんとか生活を立て直すことができる。馬国立はそう思った。


「躊躇すれば、あなたは失うことになる、すべてを」


 レナード・スタークの言葉。馬国立は現実に引き戻された。


「どういう意味だ」


「もしも断れば、資産を没収するだけでなく、あなた…、いえ、あなた方全員の米合衆国への不正蓄財の記録を、全世界に公開します。例え今その場でクーデターに不参加の意を示し、周遠源氏からの恩赦を受け断罪を免れても、十三億の中国国民から見ればあなたは売国奴…遅かれ早かれ、あなたは全てを失うことになります」


 馬国立の目論見は、レナード・スタークに見抜かれていた。


「彼らの存在と、不死研究(プロジェクト・イブ)は米政府にとって脅威です。それを除くためには我々も手段を選ばない」


 レナード・スタークは声のトーンを落としてこう続けた。


「あなたの愛する黄麗燕さんに、何かしらの罪をでっちあげ、最悪な状況にある祖国へ強制送還させることだってできます…全てを失ったあなたは、彼女を守りきれますか?」


 背筋にナイフを押し当てられたような寒気が走った。心臓がバクバクと早鐘を打つ。


 馬国立はもう一度、周囲を見渡した。他軍区・司令員たちは、すでに携帯電話を切り、俯いたまま沈黙している。


 その時だった。


「周遠源と、劉水を拘束せよ!!!!!」


 意を決したように「長老」こと、広州軍区・司令員――、胡志峰が、最前列の席から起立し額に汗を浮かべ、広州軍区の兵士たちに叫んだ。


 胡志峰は、米合衆国に寝返ったのだ。


「私はやっと目が覚めたぞ!天安門広場での六十万のデモ隊は国民の総意だ!!彼らは世界に脅威を齎す不死研究を行い、我が国を国際社会から孤立させた!!正義の為に彼らを拘束せよ!!!!」


 言い終えた後、胡志峰は、まだ何かと葛藤しているのか、小刻みに震えていたが、踏ん切りをつけるようにして目を見開き、舞台の周遠源らを睨んだ。


 他、四名の司令員たちもそれに乗じ起立、自らの軍区に所属する兵士たちに同様の命令を下した。


「なにを言ってるんだ…お前ら…」


 舞台中央に立ち竦む周遠源は、携帯電話を床に落とした。


「…幹部の皆からも…あいつらに何か言ってやってよ…このぼくを拘束するとか言ってるよ…」


 大会議場にいる党幹部は沈黙を貫いた。米合衆国での不正蓄財を暴かれ、崖っぷちに立たされた彼らも、成り行きを見守るかたちでクーデターを容認するということだ。


 除暁明と北京軍区に銃口を向けていた兵士たちは、一瞬だけ困惑の色を見せたものの、機械的に舞台中央の周遠源と劉水――、チェルシースマイルへ向けて、九五式自動歩槍を構えなおす。


 たった数分間のうちに――、馬国立率いる瀋陽軍区・兵士を除く五千人の兵士たちがクーデターに加担した。


 ただ一人、着席したままの司令員――、馬国立は軽く目を閉じ、愛しい麗燕の笑顔を思い出す。


 辛いとき――、悲しいとき――、寂しいとき――、彼女は歌ってくれた。心の支えになってくれた。守りたい――。


「お前ら全員、粛清してやる!!!これまでだって、ぼくは不正蓄財した党幹部や軍幹部を懲らしめてきたんだからな!!!お前ら皆、無期懲役だ!!!いや、死刑にしてやる!!!裏切り者どもめが!!!!ぼくを誰だと思ってやがる!!!」


 周遠源は、立ち上がった司令員らに向かい、讒謗の言葉を吐いた。


「早く引退して、こっちに来てくれる?もし、このまま米国と中国が戦争になんてなったら、もう会えなくなる…そんなのイヤだから…」


 あの日、麗燕は言っていた。


 引退して愛する女と余生を送るのも悪くはない。馬国立は涙を拭い、笑った。


 間違いなく自分はこの国を愛していた。名実共に国家の頂点である周遠源に忠誠を誓った。


 だが――、この国はいつしか道を踏み誤り、間違えた方向へ舵を切ってしまったのだ。


 中華人民共和国による世界征服など、分別のつかない子供が描く荒唐無稽な夢に過ぎない。愛する麗燕は戦争を忌避していた。戦争はすべてを奪う。愛する者の命を――、未来を――。もっと早くに気づくべきだった。愛する者を手に入れた瞬間、自分は麗燕とその子供、そして家族を守るため、この国の暴走に反抗すべきだったのだ。


 馬国立は、周遠源の野望に取り込まれていた自分を恥じた。慣れすぎていてしまったため、見えていなかったものが見えてきた。


 人民解放軍に志願した頃の、若き自分が今の状況を見たらどう思うだろうか――。


 怒り狂う独裁者、周遠源を見ながら、馬国立の心は冷えていった。


 馬国立の心は決まった。天秤が傾いた瞬間だった。


「分かりました、その代わり麗燕の安全と資産は保障してください」


 レナード・スタークにそう告げ、電話を切る。


 馬国立は深呼吸をして、他軍区・司令員同様に起立する。


「瀋陽軍区も、周遠源らを捕らえよ!!!!正義のために成すべきことをせよ!!!!」


 大会議場内で、馬国立の声が響いた。彼の管轄にある瀋陽軍区・千人の兵士が九五式自動歩槍の銃口を、舞台中央にいる周遠源たちへと構えなおす。


 兵士、六千人の銃口――。


「馬国立!君もか!この裏切り者!!!!!!!裏切り者!!!!!!!ぼくは中央軍事委員会主席だぞ!!!!!!各軍区の司令員よりも偉いんだ!兵士たちは銃を下げろ!」


 周遠源の絶叫。


 七大軍区における頂点――、人民解放軍最高権力者の命令に、兵士たちは一瞬たじろいだが、すでに周遠源へ銃口を向けている以上、引き返すことはできなかった。


「周遠源!!!!!!!あなたは間違った指導者だ!!!!!!!」


 馬国立は、舞台で怒鳴り散らす周遠源に、はじめて意見した。


「馬国立…どの口で、ぼくにそれを言っているんだ!!!」


 もう戻れない。もう進むしかない。馬国立は心の中で、愛する祖国に決別をした。いつしかこの国が正しき姿に生まれ変わる日を願い、現在の間違った体制に反旗を翻した。


「我らの勝利だ!!!!!!!!」


 クーデターの首謀者――、除暁明が起立し、叫んだ。


 彼が率いる北京軍区・千人の兵士も起立し、六千人の兵士と同じ方向へ九五式自動歩槍の銃口を向ける。


 大会議場に集結した兵士全員――。

 七千人からの銃口――。


「除暁明…キサマ…キサマさえいなければ…」


 周遠源は臍を噛む。


 中華人民共和国・史上初――。

 人民解放軍・七大軍区による、中央軍事委員会主席――、周遠源に対するクーデターがこうして完了した。


 先ほどまで有働と遠柴を連行すべく、舞台へ上がっていた瀋陽軍区の兵士十名も下手(しもて)より現れ、周遠源とチェルシースマイルを囲むようにして九五式自動歩槍を構え始める。


 遠柴は舞台上で昏倒したままだった。サバイバルナイフで左腕を床まで貫通させられた有働は、その夥しい出血量をものともせず愉快そうに声を出して笑った。


「当初の予定通り、人民大会堂中に仕掛けた五十の爆弾で、クーデターが完了するならそれで問題はなかった。だが、俺たちは事前に計画がバレた時のため、おそらく何名かいるであろう在中米大使館の密告者(スパイ)にすら気づかれないほど極秘裏に、大きな保険をかけておいたんだ。除暁明が、何故わざわざ七大軍区の司令員たちを、大会議場(ここ)に集まるよう仕向けたのか考えるべきだったな…周遠源、チェルシースマイル…てめぇらは、もう終わりだ」


 有働は薄く笑いながら、自らの左腕に深く突き刺さっていた刃渡り三十センチのサバイバルナイフを素早く引き抜き、立ち上がると、青龍刀を構えたまま微動だにしないチェルシースマイルの喉元へ、その刃先を突きつけた。

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