第39話 お金の奴隷だよ!全員集合!
「お前らの負けだ。周遠源、チェルシースマイル」
有働はそう吐き捨てた。
左前腕の夥しい出血。右手に握ったサバイバルナイフの先端は、チェルシースマイルに突きつけたまま。多少、目は霞むが内木を殺した憎き男を追い詰めたことに有働は達成感を得ていた。
(さて…どこで、この男、チェルシースマイルを拷問してやろうか)
チェルシースマイルは大男だった。そして人形のように無表情で、有働を冷ややかに見下ろしているものの、自らが置かれた状況を理解し、右手に握っていた青龍刀を床に捨て、両手を上げている。
有働は舌なめずりをした。
「有働…たかが日本の高校生の分際で…くだらない復讐の為にぼくの王国を壊しやがって…許さないぞ…」
七千人の兵士から銃口を突きつけられたままの国家主席――、周遠源が苦々しく有働を睨む。
「オブライアン米合衆国大統領に、国際緊急経済権限法を中国に適用させたのは中国内を混乱させるためだけではない」
屈辱に耐える周遠源に、有働はネタバラシをする。
国際緊急経済権限法―。
米合衆国の「安全保障」や「外交政策」「経済」に対する、異例かつ、重大な脅威に対し、非常事態宣言後、米合衆国で司法権の対象となる資産を没収し、外国為替取引、通貨及び有価証券の輸出入の規制、禁止などを行使できる法律―、いわゆる「経済制裁」と呼ばれるものであり、議会を必要とせず大統領令一つで適用可能な強権である。
勿論、中国共産党幹部が米国口座にもつ「資産」も、その適用に含まれる。
「そこにいる従順な幹部たちが、米国内に隠し口座を持っているかどうか…オブライアンに調べさせ…案の定、不正蓄財が発見された。そして米合衆国にある愛人村から七大軍区幹部らの隠し資産を押さえた」
有働は、大会議場の前列席で起立する七人の軍区・司令員を、血塗れの左手で指差す。どうやら左前腕を貫通した刃は腱を逸れていたらしい。左手の指を動かすことができた。
「くそっ!!!くそ!!!くそ!!!」
「お前に従順だった彼らの正体は、いわゆる、裸官さ」
あの日、チェルシースマイルについて調べるため、日中外交問題に詳しい今市大学の國分教授を訪ねた際、彼より与えられた知識だった。
裸官―。
それは、賄賂が横行する中華人民共和国において、中国共産党幹部、国有企業幹部、七大軍区幹部らが後ろめたい「不正蓄財」を、家族や愛人を通し海外に移す行為をいう。
方法は、子女を留学させる、または愛人に永住させることで、地下銀行から、彼女らの海外口座へ「不正蓄財」を移動させ、幹部本人は何食わぬ顔で中国内にたった一人「裸」の状態で残り、自らの追及の手が伸びる寸前まで同様の行為を繰り返すというものである。
米合衆国ロサンゼルス郊外には、中国人妊婦専用の宿泊施設「月子中心」など、中国高官が資産と共に愛人を隠すいわゆる「愛人村」と呼ばれる一帯が存在する。
これまでに海外へ逃亡した「裸官」は実に二万人弱――。
中国から流出した資産は、八千億元(十四兆四千万円相当)にも昇り、中国共産党側も、この裸官を警戒しているとはいえ、巧妙な資金洗浄経路に加え、米国政府も中国の権力者たちの資産の流入の情報を「政治的切り札の一つ」として意図的に伏せている状況にあり、その全てを把握し取り締まることは事実上、不可能である。
「幹部の殆どが、いずれ中国が破綻したときのため家族と財産を秘かに米国に移していた。そこにいる愛国軍人の正体は裸官だったのさ」
有働は歌うように告げた。
「きさまら~…絶対に絶対に、ぜぇ~ったいに許さないからな!!!!」
大会議場中を睨む周遠源は、自らの膝を何度も何度も叩いた。
「党や軍の最高幹部になるほど自国を信頼していないという皮肉な状況だ。米国政府が国際緊急経済権限法を以ってその財産を没収できる状況じゃ、政府に従順だった幹部たちも手も足も出まい」
「黙れ黙れ!!!!!あああああああああ!!!!!!きさまら皆、罪人だぁ!!!」
大会議場内の党幹部と司令員に怒号を飛ばすものの、少しでも動く素振りをみせれば同時に兵士たちの銃口も動く。結局、周遠源は舞台上で地団駄を踏むに止まった。
「天安門では六十万人のデモ…民衆も今回のクーデターを支持するだろう。罪人は、あんたの方だ、周遠源…あんたのやってる不死研究(プロジェクト・イブ)は、この世界を混乱させる最悪な計画だ」
「ぐぬぬ…してやったり、とでも思ってるのか、こんのクソガキがぁ!!!」
有働は七大軍区・司令員や、党幹部らの顔を舞台から見下ろす。誰も彼もが、周遠源による恐怖政治から解き放たれ、安堵とともに疲弊していた。
中でも、瀋陽軍区・司令員の馬国立は、起立したまま目を見開き、周遠源に激しい敵意をむき出しにしていた。資料で知ったことだが、馬国立も例に漏れず去年、米合衆国に愛人とその間にいる娘を資産と共に移していたという。やはり結局のところ守るべきは、独裁者の野望より愛する者とその未来だったかと溜飲が下がった。国家に忠誠を誓う軍人とて人間なのだ。
彼らが人間でいてくれて良かった。有働は笑った。
もちろん遠柴が四本の指を失ったのは想定外であり、彼が拷問にかけられた際はひどく動揺したものの、なんとか米合衆国は、すべての「裸官」の米国内資産と弱点を有働と遠柴が殺される前に見つけ出し、周遠源に電話をかけ、大会議場内および天安門広場において死者を一人も出さずクーデターを完了させることができた。
(恨みのない誰かに死なれたら、寝覚めが悪いからな)
チェルシースマイルの喉元に突きつけたサバイバルナイフの刃先を少しだけ動かしてみた。赤い血の筋ができる。
「お前も赤い血を流すのか」
有働の言葉に、チェルシースマイルは左頬の傷を歪め醜く笑った。
「…周遠源、劉水の両者を拘束しろ!」
クーデターの首謀者である除暁明が、北京軍区に合図を出す。
舞台にいた瀋陽軍区の兵士十名が下手(しもて)へと退き、北京軍区の兵士十名が舞台にあがった。
「除さん」
有働は、大会議場の前列席で起立した北京軍区・司令員の除暁明に向かって叫ぶ。
「分かってるよ、有働くん」
除暁明はそう言い、頷いた。
有働は、北京軍区が周遠源とチェルシースマイルらを拘束したあと「有働とチェルシースマイルが誰の目にもつかない場所で二人きりになる時間を、一時間ほどつくってもらう算段」を、すでに除と交わしてあった。さらにチェルシースマイルが絶命した状態で発見されても、それは事故として処理されるという条件つきで。除暁明は一族の仇であるチェルシースマイルの命を、笑顔で有働に譲渡してくれたのだ。
この約束を取り付けた際、中華人民共和国という国、漢民族の懐の深さに有働は感嘆した。言い換えればそれは命の軽さや人権蹂躙、法整備の甘さを意味するが、内木の仇であるチェルシースマイルを思うがまま拷問して殺害したい有働にとって、これほど好都合な話はない。
「おい、こらぁ!!!!!やめろよう!!!!」
周遠源は兵士らを振りほどき暴れまわろうとするが、銃口を向けられると一切の動きをやめ、下を向いた。
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北京軍区の兵士十名が、九五式自動歩槍を構えながら、周遠源およびチェルシースマイルを取り囲む。
「ふふふ…有働努くん。ここでは、私の負けだ」
サバイバルナイフの先端が数ミリ突き刺さり、血の筋をつくったチェルシースマイルは天を仰ぎながら哄笑した。
「笑う余裕があるのか、狂人」
「私はここを脱出する」
高級スーツの下で筋肉が盛り上がるのを有働は見た。百九十五センチの巨躯が何かしらの動きを見せる前兆。有働は警戒して態勢を整える。
「何を言ってるんだ、てめぇ」
そう言いかけた時、チェルシースマイルが左足を軽やかに動かした。有働は舞台の上手(かみて)まで凄まじい力で蹴り飛ばされ、気絶する遠柴の側で倒れた。
「くそっ」
声を張り上げると左脇腹に痛みが走る。舞台の床に強く打ちつけられたせいで、肋骨にヒビが入っているかもしれない。
遠柴はまだ気絶している。有働は這うようにして、衝撃により放り投げてしまったサバイバルナイフを求めたが、顔を上げると驚愕の光景が視界に入ってきた。
チェルシースマイルは、周遠源と自分を拘束しようと近寄ってきた北京軍区・兵士の一人から奪い取った九五式自動歩槍を構え、軽やかにそれを操作していた。
銃床左側側面――、床尾板に近い後方に設けられた丸いダイヤル状のセレクターレバーは、すでに連射(フル・オートマチック)に切り替わっている。
「さようなら」
チェルシースマイルは銃を構えたまま、緊張に息を呑む北京軍区兵士たち十名に向け引鉄に力を込めた。
パラララララララララララララララララララララララララララララ…と小気味良い音を立てて銃口から火花が散る。
舞台上にいた北京軍区の兵士たちがダンスを踊るようにして崩れ落ちる。中には撃たれた衝撃で引鉄を引いてしまった者もいて、大会議場の天井そこかしこに火花が散り照明器具が破壊され、舞台が一気に薄暗くなった。
北京軍区と入れ替わるようにして舞台から退出した瀋陽軍区の兵士たち十名の対応は俊敏だった。事態を理解し、チェルシースマイルを射殺しようと九五式自動歩槍を向ける。
同時に固定席から舞台へと九五式自動歩槍を向けていた兵士七千名も、司令員の合図を待たずしてセレクターレバーに指をかけ、射撃の体勢をとった。
「おっと撃つなよ!!!周遠源(こいつ)が死ねば、不死研究(プロジェクト・イブ)の全貌が分からず全世界が困るだろう!!!私を無事に逃がせば、こいつを北京のどこかで解放してやる!!!だから追ってくるな!!!」
高級スーツを鮮血で染めたチェルシースマイルは連射(フル・オートマチック)で箱型弾倉が空になった九五式自動歩槍を舞台の床へと放り投げ、兵士たちの屍の中で蹲(うずくま)る周遠源の襟首を左手で掴み、素早くスーツ内ポケットから右手で取り出した小型オートマチックピストル――、グロック20の銃口を周遠源の右頭部へ突きつけ、微笑んだ。
「劉ちゃん!!!なぜ、ぼくに銃口を向ける!!」
「お前が金の流れをすべて把握してれば、こんなことにはならなかった」
チェルシースマイルは、周遠源を一喝した。
「米国とは相互の国民が自国に口座を持つ場合、情報開示する約束していた!彼らの情報は意図的に米国から伏せられてた!こいつらが裸官だと知ってたら信用なんかせず逮捕してたさ!ぼくは米国にハメられたんだ…わかってくれよぉ…劉ちゃん…」
「それもお前の愚かさだ…仮想敵国をどこまで信用していたんだ」
「劉ちゃん…」
「安心しろ。人質としての価値がある限りは生かしておいてやる」
チェルシースマイルは、情けなく尻餅をついた周遠源の襟首を左手で掴み、客席(こちら)を向いた状態でズリズリと舞台の下手(しもて)へ引っ張ってゆく。
「逃がさないぞ…くそ」
左前腕の出血と肋骨のダメージに顔を歪めながら、有働は立ち上がる機会を伺った。
人民解放軍の戦闘服の下に防弾チョッキを着用しているものの、下半身や頭部はノーガードである。ヘタに動きを見せればチェルシースマイルに射殺される可能性がある。
舞台の床には、頭蓋骨の欠片や脳漿がぶちまけられていて、顔を半分なくした北京軍区の兵士たち十名が折り重なるようにして斃れていた。
有働は宜野湾市での爆発事故を思い出した。この兵士たちにも彼らの死を悲しむ家族や友人がいるに違いない。名も知らぬ無残な遺体の山を見て胸が疼いた。
「内木の仇だ」
チェルシースマイルは、周遠源の右即頭部へ銃を突きつけたまま襟首を引っぱりあげ、舞台下手(しもて)から逃走を図ろうとしているが、周遠源の重さが原因なのかスーツの襟が破けたらしく目線が下がり、一瞬の隙ができた。
(銃の扱い方は一通り米大使館で学んだから問題ない。やるなら今だ)
有働は立ち上がると同時に、血まみれの舞台床に転がるいくつかの九五式自動歩槍のうち、一番近くにあるものを拾い上げ構えると、照準をチェルシースマイルに向け、引鉄に右手人差し指をかけた。
セレクターレバーがゼロ――、つまり安全装置にかかっていれば、射撃する為にコンマ何秒か操作する時間が必要とされる。その少しのタイムラグでチェルシースマイルに射殺(かえりうち)される可能性も脳裏をよぎったが、有働はとにかく最後のチャンスを逃したくはなかった。
有働の立ち上がる気配に気づいたのかチェルシースマイルは目線を上げ、右手に握ったグロック20の銃口を周遠源の右即頭部から離し、こちらへと向ける素振りを見せた。
スローモーションの世界。
(殺される)
有働はセレクターレバーの操作をせず、反射的に引鉄をひいた。
ただそれだけ。
パララ…と、チェルシースマイルの額と心臓部周辺の二ヶ所の計三ヶ所に火花が散った。
でたらめに手足をくねらせ、チェルシースマイルは衝撃で後ろへ吹っ飛んだ。
(くたばったか)
セレクターレバーを確認した。ダイヤルは三を示している。三発だけ連射できる三点射(さんてんバースト)だった。できることなら連射(フル・オートマチック)で箱型弾倉にある三十発すべての弾丸を撃ち、派手にやつの脳髄や内臓をぶちまけてやりたかったが、贅沢を言えるような状況ではなかった。
有働は崩れ落ちるチェルシースマイルを確認したあと、膝をついて用済みになった九五式自動歩槍を舞台の下へと放り投げた。
「終ったよ…内木」
濃厚な血と硝煙の匂い。
そして銃撃の恐怖で言葉を失った周遠源が漏らしたと思しき糞尿の臭い。
先程の撃たれた兵士による舞台天井の誤射でめちゃくちゃになった電球のいくつかが重力に耐え切れず落下し、砕ける音が大会議場内に響いた。
チェルシースマイルの愛犬(ドーベルマン)――ジェイソンは、床で死んでいる北京軍区・兵士たちがぶちまけた血塗れの脳漿を、鼻息を荒くして貪っていた。
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血なまぐさい舞台。党幹部、軍司令員、九五式自動歩槍を構えたままの兵士たち七千名が大会議場内で息を呑んでいた。
無言の時間。
有働は膝をついたままぜぇぜぇと息をした。この左前腕と、気絶した遠柴の左手の止血をしなければならない。
立ち上がろうとしたその時だった。
「不意打ちとは卑怯だな。有働くん」
チェルシースマイルの死体がムクっと起き上がり、不満を漏らした。
幸い、先ほどの衝撃で、その右手に握られていたグロック20は舞台の下に吹っ飛んでいる。
「なぜ死なない。まさか」
有働は、九五式自動歩槍を手放したことを後悔しながらも最悪の予想を立てた。
「ははは。私は不死身ではないよ」
チェルシースマイルが完全に立ち上がった。
誰も彼もが、状況を見守り凍りつく中、チェルシースマイルの部下と思しき黒いスーツにサングラスをした男たち四名が、舞台の上手(かみて)からやってきて、そのうちの三名が周遠源に銃を突きつけた。
「劉さまに銃口を向けるな!!ヘタな動きを見せれば、周遠源を撃つぞ!!!」
銃を突きつけているうちの一人が、客席で九五式自動歩槍を構えた七千人の人民解放軍兵士たちに叫んだ。
そして、周遠源に銃を突きつけた三名が見守る中、残りの一人が周の巨体を担ぎ上げた。再び人質にされた周遠源は「ひぇぇ」と小さく叫び尿をじょばじょばと漏らし始める。だが、スーツを汚されてもチェルシースマイルの部下は文句を言う素振りを見せない。
観客席で起立していた兵士たちはたじろぎ、一斉にその銃口が揺らいだ。軍区・司令員たちは突然の状況に対処しきれず、彼らに何も指示を出せないでいる。
「不死身でないなら、なぜ頭を撃たれて死なない」
有働は腑に落ちず問いただした。
「世界中の要人やその家族は、こうやって皆、頭蓋骨を軽量チタンに変えている。私だけではない。それだけのことだ」
呆けたようにしている有働に、チェルシースマイルはそう言い、自らの額に空いた小さな穴を指差した。
有働の視力は2.0ある。凝視すると、たしかに先ほど有働が撃ち抜いた傷からは血の筋ができているものの、破れた皮膚の向こうから銀色の頭蓋骨が覗いているのが分かった。
「ふざけるな、そんなのアリかよ」
「ふふふ。だが、その男…周遠源の頭蓋骨は、軽量チタンではない。今もここで撃てば脳漿が飛び出るだろう。気の弱い彼は、私が手術を奨めても人体改造を拒んだんだ…そのおかげで、今こうして、人質として使えるのだがね。あと、私の身体を撃っても意味がないぞ。防弾チョッキを着込んでいるからね」
「先に車でお待ちしております」
チェルシースマイルの部下の一人が周遠源を担ぎ、あとの三名は相変わらず彼に銃をつきつけたまま、舞台の下手(しもて)へと消えていった。
「さらばだ、七千人の兵士諸君。私は焦らずゆっくりとここを出てゆくよ。何かおかしな動きがあれば、私の部下が必ず周遠源を射殺する。先ほども言ったが、君らが何もせず追ってこなければ、北京のどこかで周遠源を解放しよう。不死研究(プロジェクト・イブ)の追求は、その後ゆっくりすればいいさ」
チェルシースマイルはマイクも使わず声を張って言った。大会議中の誰もが固まったまま成り行きを見守り、彼の逃亡を黙認しかけている。
そして舞台の下手(しもて)へと消えようとした、その時。
「誰が逃すかよ」
有働は先ほどまで自らの左前腕を貫通していた刃渡り三十センチのサバイバルナイフを舞台の床から拾いあげ、一気に突進した。
「死ね」
有働は、百九十五センチの男の首筋に飛び掛る。
出血多量で、踏み込みが浅かったのか、サバイバルナイフを握り締めた右腕を、チェルシースマイルに右手だけでひょいと掴まれた。凄まじい握力。地元の不良連中など比にならない。この男は素手で人間を殺したことがあるに違いない、と有働は思った。
「ナイフで頚動脈を狙うとは、なかなかだ。血管だけは細工しようがないからね」
「くそ!くそ!くそ!」
有働は、腕を掴みあげられたまま宙に浮き、ぶら下がり棒ではしゃぐ子供のように身体をバタつかせた。
「このまま、頚椎を砕いてやろうか」
チェルシースマイルの分厚い左の掌が、有働の首にかかる。
「やってみろよ…」
有働は、宙ぶらりんの両足をチェルシースマイルの胴へ挟み込み、太股に力を入れたあと、その顔面へ思い切り額を叩きつけた。
血飛沫。
切れたのは有働の額だった。さすがは軽量チタンでできた頭蓋というべきか。渾身の頭突きを物ともしないチェルシースマイルの表情が歪む。有働は脳震盪を起こしかけていた。
「…まぁ、いい」
有働殺害への意欲が失われたのか、呆けたようにチェルシースマイルは左手を引っ込めると、意味もなく、割れた天井の照明器具を見つめた。あっけに取られた司令員たちは相変わらず何の指示も出せず、七千人の兵士たちも九五式自動歩槍を構えたまま固まっている。誰も助けてはくれない。チェルシースマイルの気まぐれで、有働が命を拾ったのは明白だった。
「有働くん…君には生きてもらい、死よりも重いものを与えよう」
チェルシースマイルは有働の耳元で、左頬の傷を歪めながら囁いた。
「死よりも重いもの?」
「現在、不死の兵士二百人が旅行客を装い、日本各地にいる…日本人絶滅計画のためだ。うち数十名を、都内からK県小喜田内市に行かせる。時間にして数時間か」
「なんだと」
「除暁明の計画とその協力者たちが明らかになった時点で、私たちは君の住所や個人情報を、パスポートから辿り入手している。君が帰国する頃には、家族も同級生も不死の兵士たちによって皆殺しにされているはずだ…日本人とは不自由な国だね。国民は銃も所持せず、海外からの攻撃に対し自衛隊の出動は閣議決定を待たねばならない…憲法九条…これ以上、都合の良いものはない」
チェルシースマイルは右手の力を一気に抜き、縛めから解放された有働は舞台の床に尻餅をついた。
「ゲス野郎が!!!」
憎き男を睨み、有働は讒謗の言葉を吐く。
「そんな目をするな。これは戦争だ。君と私のね。君が仕掛けてきた以上、私は君の家族、友人、恋人すべてを抹殺せねばならない」
それを意にも介さずチェルシースマイルは右手をバイバイ、という風に振った。
だが次の瞬間。
「油断したな、間抜け野郎め」
有働は笑った。
「…ん?」
「死ね!!!!!!!!!!!!」
声を張り上げたのは、舞台に上がってきた除暁明。
除の突進と共に、チェルシースマイルの右頬に、小ぶりなナイフが突き刺さった。
飛び散る鮮血。
それは、金属の柄に独特の装飾が施されていて、刃先が湾曲したウイグル刀だった。除暁明は有働よりも十センチほど背が高いため、少しの跳躍でチェルシースマイルの顔面へとそれを叩き込むことができたのだ。
「一族の仇…」
除暁明は涙声で呪詛を吐く。
刃の突き刺さったチェエルシースマイルの左頬からは、瑞々しい音を立てて血液が噴射されていた。なるほど軽量チタンだろうが顔の皮膚までは強化することができない。有働が頚動脈を狙ったのと同じ道理で、除暁明は憎き仇の顔面を切り裂いたのだ。
「ほう」
チェルシースマイルは痛がる素振りもみせず、除暁明を右手で弾き飛ばした。それなりに訓練を積んだ軍人が舞台に転げ落ちるサマを見て、誰もがこの男の腕力に恐れおののいたに違いない。
「君のお父上は、君の母上…、つまり妻を立ったまま後ろから犯され、死に物狂いで彼女を守ろうとしていたな…」
そう言いながら、チェルシースマイルは右頬に突き刺さったウイグル刀を引き抜いた。プシュという音と共に彼の高級スーツとシャツが紅く染まるが、動じた様子は幾分も感じられない。
不思議なもので、左頬と同じように右頬を切り裂かれたチェルシースマイルは左右対称になっていた。眉目秀麗な男であるがため、その形相は迫力の相俟った怪物のそれを連想させる。
「あの時、クローゼットの中にいた子供をわざと生かしておいたんだ。君の半生は地獄だったろう?」
「鬼子め」
除暁明は立ち上がって、腰にぶらさげたハンドガン――、九十二式手槍を構えた。
「君は見ていただろうが…旦那を殺されたあと、君の母親は命乞いしながら、自ら私の上に跨り腰を振っていたよ…結合部をぐっしょり濡らしながらね。おそらくクローゼットに隠れた息子から、気を逸らそうとしていたのかもしれない…。君はしょうもない売女の息子だ…彼女は旦那を殺した相手に対し、出し入れするたび卑猥な音が部屋中に響き渡るほど、糸を引きながら濡れそぼっていたのだからね…ここだけの話、恐怖のせいか締まり具合が尋常じゃなかった」
「鬼子…」
「私は耐え切れず…騎乗位のまま、彼女の胎内へ射精すると同時に、こうやって内臓を抉ってやったがね」
一瞬の出来事だった。
除暁明が九十二式手槍の引鉄に指をかけるよりも早く、チェルシースマイルが握るウイグル刀が除の腹部に深く突き刺さった。真っ赤な噴水。除暁明は崩れ落ち、チェルシースマイルは背を向けた。
「彼女を殺さなければ、美味い胎児が育っていただろうに…」
去り際にそのような言葉を北京語で残し、チェルシースマイルは、風のように舞台から立ち去った。
-------------------------
「有働…くん…早く、追いなさい…やつは天安門地下道から、北京市内のどこぞのアジトへと…ドルによる多額の隠し金を…回収し…逃亡するはずだ…」
「しっかりしろ」
絶命寸前の除暁明を抱きかかえ有働は叫んだ。除は共通の敵をもち今回の計画を一緒に遂行した仲間だった。有働の胸にやりきれない思いが募る。だが残された時間は少ない。除と有働の周囲に、夥しい量の血溜まりが広がっていた。除暁明を今まで生かし動かしてきた血液のほとんどが流れてしまっている。
「やつのジャケット…左ポケットに…小型GPS機器を放り込んだ…注意深いやつでも、焦ってる今は…気づかないだろう…」
除暁明はズボンのポケットから血で濡れたスマホを取り出し、有働に渡してきた。画面には北京市一帯の地図が広がり、赤い点滅が動いている。
「くそ」
除暁明は顔を歪めながらも自らの腹部からウイグル刀を引き抜き、それを有働に渡した。
「これを…持ってってくれ…骨董好きだった、父さんの…形見なんだ…私たちの仇を…た、たのむ…」
血を吐き出しながら「これで…両親の元へ行ける」と北京語で呟き除暁明は絶命した。
「必ず、ヤツはぶち殺してやる」
有働は除暁明の両眼を右手で閉じた。その口元は微笑んでいるように見える。それは除がようやく本来の姿――、王永朋に戻った瞬間だった。
ここ大会議場から、北京市内三十ヶ所の出口へと繋がる「天安門地下道」は、六四天安門事件を機に、数十万単位の民衆が、天安門広場から人民大会堂に押し寄せるという事態を想定し、政府が極秘裏に地下工事した「政府要人逃走ルート」だった。
なにせ複雑に入り組んだ地下道である。追跡などされないと、チェルシースマイルは高を括っているだろう。除暁明の機転は、仇敵を見失う危機に一筋の光明をもたらした。
「不死研究(プロジェクト・イブ)の全貌を把握する周遠源を解放するなどありないよな…」
有働は、除暁明に向かって呟く。彼はもう何も答えてはくれないが、生きていればきっとこの問いに頷いただろう。チェルシースマイルは逃亡が成功し、用済みになれば、きっと周遠源を殺害する。
有働がすべきこと――。
それは、劉水ことチェルシースマイルへの復讐と、連れ去られた周遠源の確保である。チェルシースマイルへの復讐は、本人を殺すだけでは完全とはいえない。その野望もろとも打ち砕くことで、有働は憎き口裂け男に勝利できるのだ。
有働は、除暁明から受け取ったスマホの画面の表示を凝視した。
(誰かに運転を頼まなければならない。そして最低限の武装もしなければ。できれば何十人か兵力もほしい――)
そう考えていると、除暁明の部下にあたる北京軍区の兵士たちが数十名ほど、有働の周囲に集まってきた。
「ぼくらも一緒に行きます」
若い兵士の一人が、除暁明の亡骸に敬礼しながら目に涙を浮かべ言ってきた。
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