第40話 不死者たちの行進

 8月14日(金)

 23時30分――。


 東京・新宿歌舞伎町――。


 大久保公園前のガードレールに腰をかけ空を見上げれば、夜を覆い尽くす陰鬱な雲。時折、薄っぺらなベールの隙間から、油膜のような鈍い光を湛えた月が顔を出す。雨は降りそうにない。不機嫌な真夏の夜を湿った空気が濡らしていた。


 男は、十代後半。


 黒いハートマークが複数デザインされた青いTシャツの襟をパタパタと扇ぎ、汗でくっつかないようにする。ジーンズの尻は、すでに不快な濡れ方をしていた。


 生ぬるくなった缶ジュースに口をつける。故郷の澄んだ空が懐かしかった。


 歌舞伎町の歓楽街からなだれ込んできた連中がちらほらいた。そのうちの一組、千鳥足の中年男と若い女のカップルがぶつかってきた。


 男はガードレールから立ち上がると言葉を発さず、手振りで彼らに謝った。


「おい、こら。クソガキ、てめぇ謝るんだったら声に出せ」


 中年男は、男の胸倉をつかんだ。


 汗ばんだ半袖のシャツから酸い体臭がした。男は両手を合わせて「すいません」とポーズをとるが男は許さない。


「ぼく、中国人、日本語むずかしい、ご、ごめんなさい」


 男はとりあえず日本語で謝った。


 この国にきて三、四回目の日本語の発声。ある人物から「なるべく日本語を喋らないでいろ。疑われず、いつでも迅速に動けるよう、日本人のふりをして東京に溶け込め」と言われていたので、できれば声を発さずやり過ごしたかった。


「サイトウさん、いこ。も、あやまてるよ」


 女が中年男の肩を叩く。中年男は舌打ちをして男の胸倉から手を離した。


「ごめね、おにさん」


 女は去り際に謝っていった。露出の多い服装で騙されたが、よくよく顔を見ると、そこまで若くなかった。三十代半ばか。発音からしておそらく韓国人。二人は百人町で飲みなおすのだろう。職安のある大通りの方へ消えて言った。


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 男は、皆との待ち合わせ場所である、歌舞伎町の中華料理屋前で立ち止まった。


 油と野菜、肉の焦げる匂いが鼻腔を刺激する。もうじき閉店時間だというのに満席だった。店主は汗をかき鍋をふっていて表情に余裕がない。ガラス越しに客の何人かと目が合い、男はドアから離れた。


 散り散りになった仲間たち九名は、まだ来ていない。


 男は、日本に来て最初に買った三万の腕時計を見つめながら、深く息を吐く。


 この腕時計を見るたび、男は「高い買い物したな」といたたまれない気分になった。ある人物から持たされた金は、まだ八十万ちかく残っているが、時間を見るだけなら支給されたスマートホンで充分だった。「電子機器を信じるな。金に余裕があればいい腕時計を買え。時間は信用だ」というのが、男が育った孤児院の院長、楊の言葉だったが、汗や水に濡れない限り、スマホは壊れないし、腕時計と同等に正確に時を刻み続けている。


 男は、こんな無駄遣いするくらいなら、「弟たち」のため育った孤児院に送金すればよかったと後悔した。


 そういえば、楊に一度も連絡を入れていない。「弟たち」も、ある日突然、姿を消した自分らを心配しているだろうか。故郷への不義理を反省し、男は気まずくなって意味もなく周囲を見渡す。だが連絡を入れられないのは、理由があった。


 中華料理屋から離れ、辺りを見渡す。


 ホストクラブがある雑居ビルやラブホテルが乱立し、真夜中にも関わらず人通りが絶えない。この国に来た初日は、こういった建物が何をする場所かさえも分からなかったが、男はいろいろと勉強したので理解していた。


 向かい側から中学生くらいの少女と中年男のカップルが手を繋ぎやってきた。遠くで白球を打つ金属音。カップルはもちろんバッティングセンターではなく、ラブホテルの前で立ち止まる。中年男は少女に数万を渡す。少女は頷き腕を組んで中に入っていった。


 なんだ、少女売春に貧富の差なんて関係ないじゃないか。男はそう思った。


「これが日本か」


 男は北京語で呟く。


「そうさ、これが俺たちが壊す国、日本だ。オヤジの右腕を奪った悪鬼の国だ」


 そう言葉を続けたのは、孤児院の仲間のひとり――、「コーラ」だった。


 黒のポロシャツにジーンズ。ショルダーバッグには教科書やレポートが入ってそうだった。コーラは日本の学生のような身なりをしていた。


「こっちにきて間もないが、ストレスで少し痩せたんじゃないか、ウナギ」


 コーラは笑いながら言った。


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 中華料理屋の客が減ってゆく。


 そろそろ閉店時間だからと、店主は新しく入ってきた客たちを追い返していた。眠らない街の住人は二十四時間、腹ペコらしい。


 やがて五分もしないうちに「ラーメン」「ピザ」「ハンバーガー」「イクラ」「メロン」「モモ」「ヤキニク」「フライドチキン」がやってきた。


 懐かしい顔ぶれ。同じ孤児院で育った十名。


 散り散りとはいえ、皆、新宿区に住んでいるので集まるのに時間はかからない。日本に来て二週間足らずだが、顔を合わせたのは二回目だった。


 各自「その日」がくるまで、目立たぬよう過ごす中、太っちょの「ヤキニク」だけは、休み時間に焼き肉を食わせてもらえるからと言う理由で、こっそり百人町にある韓国料理屋でアルバイトしている。


 店主に見せたのはもちろん偽造パスポートだ。国籍は違えど、同じ外国人同士ということで店主や従業員にはよくしてもらっているらしい。


 道路のど真ん中で、十名は拳を突き出し、ぶつけ合い挨拶を交わす。


 そして右手首に小さく彫った「黒いドラゴン」の刺青(タトゥー)を皆で見せ合い、微笑み合う。だいぶ前に孤児院で見たアメリカ映画の影響だった。


「その日がきた。皆も分かってるだろうが、劉さまから電話が入った。そして行き先も決まった。K県小喜田内市だ…」


 コーラが仕切り始める。同年代で一番、背が伸びたという理由だけで長男のような役割を果たしていた。


「こんなことを今更して、何になるんだろうか…俺たちの国では、もう」


 言葉を遮ったのはイクラ。


 気が弱い末っ子。銃の扱いも最後まで上達しなかった。イクラはここ最近勃発した天安門のデモを気にしている。「不死研究(プロジェクト・イブ)」は国内外から糾弾され、自分の存在意義を見失い始めていた。


 即座にイクラに反論する者はいなかった。


「仮に政府が倒れても、俺たちは日本という国に仕返しをしなければならない。やつらは我が国を蹂躙し、俺たちのオヤジ…楊克徳から右腕を奪った国だぞ」


 コーラは皆を諭すように言う。


「他のグループのヤツらは、日本に大ダメージを与えるため、皇居や国会議事堂、日本各地の原子力発電所に向かったらしいね。僕たちが向かう小喜田内市とやらに何があるの」


 太っちょのヤキニクは呟いた。


「劉さま曰く、小喜田内市に住むやつらを皆殺しにしろ…とのことだ。特にこの住所リストにある人間はすべて。意味は俺にも分からんが」


 コーラは、ショルダーバックから取り出した数十枚のファックス用紙の束を見せてきた。それには、カラー写真つきで対象者の名前と住所が記載されている。


「占拠とかじゃなくて?」


 小柄なモモが驚く。黙ってれば少女にも見紛う優男だった。


「劉さまの命令だ」


 冷たいコンクリートのような声。有無をいわさぬコーラの言動に、モモは俯いた。


「あの日、何かに疑問をもったり、考えるのはよそうって決めたじゃないか。飼い主に言われたことをすればいい。今までが幸せすぎたんだ。孤児院で彼から声がかかった日、飼い主を選ぶ権利が俺たちにあった。だがいったん飼い主を選んだ以上は、そいつに従うしかないんだ…それに…」


 滲む汗が目に入ったのか、コーラは一旦、口ごもり言葉を続けた。


「それに…あと十名、会ったこともない、別の孤児院から引き抜かれた黒孩子たちと、ここで合流することになってる。俺らが殺戮に不参加しようが、ヤツらがやるに決まってる。ならば臆病者と言われないように俺たちが率先してやるんだ。俺たちはお互いを撃ち合っただろ?最初は怖かったけど今はもう慣れたものだ。はじめて死んだときのことを憶えてるか」


 コーラは皆を説得する。


 道路に突っ立ったままの十名。


 中華料理屋の最後の客が店を出ていった。


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 ウナギは過去を思い出す。あれは三つか四つのときか。


 両親の顔も思い出せなかった。おそらく言葉を話し始めて間もない頃に、名前も戸籍も与えられないまま、黒孩子(ヘイハイズ)として、親に売られた。


 不思議と「人買い」の顔だけは、おぼろげに憶えている。皮肉だが、血の繋がった家族との平穏な日々よりも、人生で初めて体験する恐怖や不安の方が脳裏に深く焼きついているらしい。


 幼きウナギは、粗末な格好に麦藁帽子の、おそらく細長い髭を生やした男によって、トラックの荷台に乗せられ不安の中、延々と泣きじゃくっていた。


 数時間か、数十時間かは分からない。ずっと泣きながら荷台の上で目まぐるしく変わる荒野の景色を見ていた。そして何度か停車するたび、うるさいと男に殴られた。


 空腹と心細さでパニックになり、それ以降の記憶はすっ飛んでいる。


 次の記憶。


 広大な中国内のどこの地域は分からない。今思えば、どこかしらの倉庫。


 だだっ広いコンクリートの空間に放り込まれた。そこには自分と同じくらいの年齢の子供たちがいて、わんわん泣き喚く動物園そのものだった。


 しばらくして数字か漢字かは憶えてないが、何か書かれた木の板に紐を通したものを首からぶら下げられ、粗末な食事を与えられた。


 子供たちは数十人はいたと思う。


 百人には満たないくらいだった。自分を連れ去った人買いとは別の男がやってきては、子供たちを外に連れ去った。


 連れ去られた子供たちは戻ってこなかった。今思えば、あれは女の子たちだったのだろうと思う。


 売れ残った子供たちは泣くことをやめ、扉が開閉するたびに希望を持つようになった。


 キラキラした瞳で、男が自分を連れ去ってくれないかと。そしてあの扉の向こうには両親が待っているはずだと。迎えに来てくれたのだと、そう思うようになっていた。


 子供同士で会話はなかったが、そんな空気は伝染していった。


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 ある日、ウナギは連れ去られた。


 連れ去られた先は、両親のもとではなかった。


 中国内のどこかの省の田舎町。


 それ以降の記憶は蓋がされたようになっていて、意識しなければ思い出すことはない。人の心は便利だ。人間の脳みそは優秀な機械だ。許容を超えた不快な記憶は機械的に処理されるようになっている。


 その記憶は、ここ十数年でも二度か三度思い出したくらいだった。


 三度目に思い出したときは分別のある大人になっていて、意味が理解できた。あの日だけは右拳で何度も何度も地面を叩いて気持ちを鎮めた。


 強烈な痛みと疑問。


 理解できない行為を、でっぷりとした中年男と、その妻と思しき、下品な化粧をした女とに強要された「不愉快な記憶」だ。


 今もその名残が、ウナギの身体に残っている。「人工肛門をつけるほどでなくてよかった」というのは、のちに孤児院の皆で受けた身体検査のときに聞かされた医者の言葉。


 その意味が理解できたのも、拳が血だらけになったあの日だった。


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 解放の日は訪れた。


 あとで孤児院の長である楊から聞いた話だが、それは、ウナギが推定六才ごろのことだったという。


 真冬の凍える夜だった。


 数年にわたってウナギを快楽の私物として扱っていた夫婦が惨殺されたのだ。それもウナギの目の前で「おぞましい行為」の最中に。


 夫婦を殺した人間の顔は憶えている。殺し方も。


 世でチェルシースマイルと呼ばれている男――、劉水とその部下たちが、青龍刀で彼らを八つ裂きにしたのだ。


 飛び散る肉片。血飛沫。チェルシースマイルは夫婦の胴体を裂き、内臓を抉り出すと綺麗に並べた。


 夫婦が殺された理由は、カネの貸し借りで問題が生じた為だという。


 返り血を浴びたチェルシースマイルは、がりがりに痩せた全裸のウナギを見て、瞳を輝かせた。


 そして「ついてくるか」とだけ言った。


 唇から左頬にかけて裂けたような傷が恐ろしかったが、荒涼としたその瞳は人を惹きつける何かがあった。


 ボロ布しか巻いたことのない身体に、本革のジャケットをかけてくれたのを憶えている。のちに聞く彼の噂からは想像できないが、なりゆきといえ、彼はウナギの命を救ったのだ。


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 それ以降の記憶は、色もあって、音もあって、味があるものばかりだ。ウナギの人生はそこから始まったといってもいい。


 チェルシースマイルに連れられやってきたのは、河北省の衡水市にある孤児院だった。ビルが立ち並び自然と混在した町。


 その一角でひっそりと木造立てのその建物はあった。


 庭というべきか空き地というべきか分からないスペースには手作りの遊具がいくつかあって、子供たちが遊んでいた。


「しかし、ガリガリだなぁ、お前。まぁ、その方が食わせ甲斐があるってもんだ」


 院長の楊は、粗末なセーターを着ていて、なぜか右肘から下がなかった。


 ウナギが新しい洋服を着せられると、子供たちが寄ってきた。「コーラ」「ラーメン」「ピザ」「ハンバーガー」「イクラ」「メロン」「モモ」「ヤキニク」「フライドチキン」たちと出会ったのもこの瞬間だった。


「なぁ、お前、名前はあるか」


 楊は言った。


 何も答えられないでいると、チェルシースマイルがウナギの頭を優しく撫でた。


 大人に優しく撫でられるのは、何かを強要される前触れだと理解していたのでウナギは答えた。


「な、名前はありません」


「驚いたな、敬語が使えるのか…お前を育てた人間は…」と、ここまで言いかけたあと、楊は口を噤んだ。


 ウナギの背後で、チェルシースマイルが何かの合図を出したのかもしれない。楊はそれ以上、何も訊かなかった。


「名前がないなら、名前をつけよう。名付け親はお前自身だ」


 楊は笑った。前歯が虫歯で欠けていて舌がはみ出しそうだった。


「この孤児院にいるヤツは、みんな戸籍がない。たが、十八になって成人したら、おれが戸籍を買って与えてやってるんだ。名前もその時に決まる。だから今、つけるのは仮の名だ」


 ウナギは言ってる意味の半分も分からなかったが、楊は話を続けた。


「お前、好きな食い物あるか?」


「あ、ありません」


「なら、おれが今日から一ヶ月間、うまいものを食わせてやる。新人だけの特権だぞ。そして食った中で一番、美味いと思ったものの名前を、名乗れ」


 楊はまた笑った。


 そして、楊の背後にいる、子供たちを指して、あいつらは「コーラ」「ラーメン」「ピザ」「ハンバーガー」「イクラ」「メロン」「モモ」「ヤキニク」「フライドチキン」だ、と紹介した。


 それらがどんな食べ物かは分からなかった。


 辛うじて「コーラ」だけは分かった。あの夫婦が気まぐれで飲ませてくれた黒くて甘い飲み物で大好物だった。


「じゃ、じゃあコーラで」


「俺の名前をとるな!」とコーラが怒鳴った。


「ははは、ゆっくり食って決めればいいさ」


 楊は言った。


 二週間後、ウナギという名前を名乗ることになった。日本の特産品だという蒲焼というものを食べたときに、これをまた食べたいと思ったからだ。


 なぜ「食べ物の名前を名乗れ」と、楊はいうのか。


 これも最近、気づいたことだが、新しい名前と戸籍を与えられたとき、古い名前に愛着ができてしまったら不憫だろうと、楊は考えていたのかもしれない。


 もちろん、それを指摘したところで、楊は「考えすぎだ」というかもしれないが。


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 それから、いくらかの時が流れた。


 楊は苦学して大学を出たというだけあって、ウナギたちに勉強を教えるのがうまかった。


 望めば進学までさせてくれるという。


「戸籍をでっちあげたときに、義務教育課程を卒業した事にしてやる」とのことだった。


 ウナギは勉強が嫌いだったし、楊も強要はしなかったが、日本語と英語の授業だけはしっかりと教えられた。


 いつか海外に出たときのために、が楊の口癖だった。


 今思えば、ウナギたちが日本で二週間足らず問題なく生活できているのは、この頃の語学教育が役立っていると言える。


 楊は偉大な男だった。


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 十五になる頃、ウナギは仲間たちに「楊の過去」について聞いた。


 情報源はチェルシースマイルだという。


 ウナギはそれが事実かどうかが気になり、ちょうど何かの用事で孤児院を訪れていたチェルシースマイルに直接、話を聞いた。


 そしてその凄惨な過去を語るときも、彼は涼やかな瞳をして楽しげだった。


「楊の右腕は、日本人に取られたんだよ。第二次大戦の最中にね。私や彼の父母は抗日運動家…つまり、当時の日本政府にたてをついていたんだ。そして、我々は一家ごと捕虜になり、様々な人体実験をされた。彼ら日本人はそれについての正式な謝罪は一切していない。大まかな謝罪や戦争賠償と戦後補償はされたが、一人ひとりに頭を下げることは半世紀以上に渡って一度もない。これはね…まだ戦争は続いてるということなのだよ。我々は、国の中とも、外とも戦い続けなくてはならない…ウナギくん。いつか君が私の言ってることを理解してくれたら、嬉しいよ」


 ウナギは仲間たちと共に「第二次大戦」について調べた。


 大日本帝国がアジア全域を植民地化し、日本人になることを強要した事実。そしてその中で許されざる行為を、いくつかしたという事実。それについての細かい謝罪はなかったということ。


 中国国内の図書館やテレビで知りえた情報は、そんなところだった。


 ウナギはもっと日本と言う国を知りたいと思い、近所の古書店で買った安価な「戦後の中国史」を貪るように読んだり「抗日ドラマ」を観るようになった。


「こんなものを観るのはやめろ!」


 ある日、楊にテレビを消された。


 それは日本人将校が、手足を縛られた中国人を拷問し、ヨダレを垂らしながら日本語を強要するシーンで、これから捕虜の中国人チームが計画を練って脱獄し、武器を手に入れて日本人将校を返り討ちにするだろう、という伏線も張られていた、いいところだったので、ウナギは「何で消すの!」と怒鳴ってしまった。


「そんなものを観るより、外国語を勉強しろ。海外の本をたくさん読め」


 そう言っただけで、楊は部屋に閉じこもってしまった。


 ウナギは「抗日ドラマ」を観ることの何がいけないのか。楊は日本人を憎んでいるのではないのか。ならばなぜあんな事を言うのか。


 ウナギは、楊の気持ちを、無念さを、理解したかったのだ。


 ウナギは意味が分からず、テレビをつけ直した。


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 それから、すこしの時間が過ぎた。


 もうすぐでウナギは十八になり、楊に戸籍を用意してもらえるという時期にきていた。


 今年の春も終るという頃である。


 チェルシースマイルとその部下たちが、孤児院にやってきた。


 応接間兼、リビングであるテーブルに彼らと座り、楊は神妙な面持ちで彼らの話を聞いていて、ウナギの姿を確認すると「あっちへ行ってろ」という風に手を振った。


「いいじゃないか。彼ももうじき十八。軍に入隊するなら、ちゃんとした戸籍と名前も用意できる。楊、お前が用意するものより、もっとランクが高くてアシがつきにくい戸籍だ。一切、汚れていない。生きた親族がいて、彼を自分の家族だと口裏を合わせてくれる、そんな戸籍だ」


 チェルシースマイルの誘い水に、楊は眉間に皺を寄せ、何も答えない。


「ウナギくんたちが入隊してくれるなら…せめて見返りとして、この孤児院の寄付金を増やそう。ここ最近の異常気象で、作物は育っていない。農業収入は減ってきてるはずだ。大勢の子供を抱えて生活が苦しいだろう?」


 そう言いながら、チェルシースマイルはこちらをチラチラと見ていた。


 庭先では幼い子供たちの笑い声。


 一人っ子政策の反動。


 黒孩子(ヘイハズ)たちは、増える一方だった。


 ウナギの気持ちは決まっていた。


 いつの間にか後ろにいたコーラたちもそれに頷く。


 家族とは血のつながりではない。ましてや言葉だけのものでもない。「助け合いたい。守りたい」そう相手を思いやって、人は初めて家族になれるのだろう。


「俺、やります。国の為に働きたい」


 それを聞いた楊は、複雑な表情で俯き、手で顔を覆った。


「ダメだ」


「俺が生まれて初めて見出した夢を奪うのかい。名前のない俺は、この国から必要とされたいんだ」


「いっぱしのクチを聞きやがって」


 楊はそう呟いた。


「オヤジ、俺らも行く。英雄になりたいんだ」


 コーラ、ラーメン、ピザ、ハンバーガー、イクラ、メロン、モモ、ヤキニク、フライドチキンらが手を挙げた。


「おれはガキの頃…ある事情で腹が減って、腹が減ってな…お前らには、ひもじい思いさせなかったか?」


 楊の目には光るものがあった。


「いつもお腹いっぱいだったよ」


 ウナギは、それ以上の言葉を紡げなかった。


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 いざ、軍に入隊するとなると、楊はそれ以上なにも言わなかった。


 時折、悲しい顔をするのは、「そんなものを見るより、外国語を勉強しろ。海外の本をたくさん読め」というあの言葉と、何か関係があるような気がした。


 だが、ウナギは何も気づかないふりをしたし、楊は悲しい顔を見せないように努力していた。


 大人になるということは、ウソが少し上手になることかもしれない。


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 そして今年の春――。


 ウナギたち十名は、孤児院を出て、河北省の山の中にある粗末な寮に入れられた。


 戸籍を与えられることはなかったが、話と違う、なんて誰も口にしなかった。


 チェルシースマイルのウラの顔は知っていたし、彼が何かしらのまずい事に関わっていること。そして、それに関わらせられるのは、正規の兵士たちではいけないこと。


 黒孩子(ヘイハイズ)である自分たちを必要としていること。


 ウナギたちは分かっていた。


「もうじき君たちは、不死研究(プロジェクト・イブ)という過酷な研究の被験者となる。もう楊の孤児院とは縁を切れ。死んだつもりで励むためにな。国家のためなんだ」


 チェルシースマイルは左頬の傷を歪め、歌うようにいった。


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 ウナギたちは納得し、不死身の身体を手に入れる前に――、どんな傷でも治癒してしまう身体になってしまう前に――と、研究が始まる前、一日だけ余暇をもらい、若者たちが集まる町まで繰り出し、右手首に「黒いドラゴン」の刺青(タトゥー)を入れた。


 世界でたった十人の絆。


「これが俺たちが、人生で最後に受けた傷跡だ。もう、何かに疑問をもったり、考えるのはよそう。俺たちは俺たちの意思でここにいる。俺たちが選んだ道だ。これが黒孩子(ヘイハイズ)の運命だ。飼い主は絶対だ。孤児院に来る前に戻っただけさ。お互い、言えないような経験もしてきただろう。だが、あの頃よりも心も身体も大きくなってる。耐えられないことはない」


 コーラが言った。


 一番のノッポ。兄貴がわりになって皆の不安を除き、引っ張っていってくれた。


 声が震えていた。悲しんでいた。彼は自分の不幸を泣く男ではない。他の九人にそれをいうのが辛かったのだ。


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 その後。


 各々、冷たい研究室で個別に閉じ込められ、苦痛に苦痛を伴う投薬や実験を耐え抜いた。


 幸い、十人の仲間たちは「それ」に適合し、命を落とすことはなかった。


「おめでとう。今日から君たちは不死の兵士だ」


 祝いの言葉とともにチェルシースマイルから各自、弾丸をお見舞いされた。


 銃口が火を噴く。脳と一緒に目玉も飛散し、何も考えることができない暗闇が訪れた。


 頭部が破壊される感覚など、生まれてはじめてだった。撃ち込まれたのは小さな鉛玉。だがそれは、頭の上に大きな隕石が衝突し、何もかも潰されるような感覚だった。


 これが死か――。


 頭を破壊され、何度も何度も死んだ。


 脳漿と頭蓋骨が再生するたび、忌まわしい記憶、嬉しかった記憶、悲しかった記憶が逆再生されてゆき、自分を取り戻す。


 北部にある河北省の河北平原。北を囲むようにそびえる燕山山脈の山林で、仲間同士で、あるいは知らない黒孩子(ヘイハイズ)たちと、何度も何度も撃ち合った。


 黒い戦闘服の右胸にガムテープを貼られそこにマジックで書かれた番号が、個別に与えられた名前だった。


 306号。


 それがウナギの名前だった。


 こんなんじゃ、マグロやヒラメの方が幾分ましだった。


 孤児院の「弟たち」は元気だろうか。頭を撃たれ、再生を繰り返し、横たわったまま涙が山林の太陽光を反射し眩しかった。


「…………」


 何度目からか。


 蘇生する瞬間、頭の中にカタチにならない言葉が、響くようになった。


 何語か?ウナギは全世界の言葉を知り尽くした人間ではないから、それが人間の言葉ではないなどと断言はできない。だが、なにか原始的な、心の奥底に染み渡るような懐かしい響きがあった。


 コーラたちも、その声を聞いたという。


 これが神の声だと言われても、疑う余地はなかった。奇蹟体験。何度も死から蘇る経験をした者だけが聞ける言葉。


 イエス・キリストだって一度しか蘇っていない。


 他の孤児院からやってきた黒孩子(ヘイハイズ)たちにも「声」について訊いてみた。


 同意するものは元より、口を閉ざすもの、不自然に無視するもの。形はどうであれ皆、「声」の存在を肯定しているということだった。


 それ以降「声」について、誰も何も語らなかった。ウナギ自身の考えとしては、ただ単純に脳に障害が蓄積されているだけかもしれない、という結論に至った。


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 その後、ちらほらと楊の孤児院から「弟たち」がやってくるようになった。


 不死兵の数はどんどん増えてゆく。研究が発足した当時に比べ、実験の精度もあがり、死者はほとんど出ないという。


 それが世界の混乱と終焉を意味するなど、誰も思っていなかった。


 人の心は便利だ。人間の脳みそは優秀な機械だ。誰もそれについて何も危機感など抱いてはいなかった。


 被験者であるウナギたちも、研究の内外にいる者たちも。


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 そして、今夜。


 突然のチェルシースマイルからの伝達。


「K県小喜田内市で殺戮せよ――」


 ウナギたちに、何を迷う必要があるのか。


 その日はやってきた。


 チェルシースマイルに言われたように「日本人のふりをして」あるいは「中国人観光客のふりをして」指示を待つだけの時間に、終止符が打たれたのだ。


 ウナギに与えられた偽パスポートの名前。


 元霆發――。


 306号よりはマシだが、ウナギのままでいいと思った。


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 8月14日(金)

 23時50分――。


「おら。もう客はいねぇ。おめぇら、さっさと入れ」


 ウナギたち十名が、中華料理屋の前で突っ立てると、店のシャッターが閉まった。


 店のオヤジは裏口から出てきて、全員を招き入れた。


 このオヤジは、チェルシースマイルが在日の中華系マフィアの口利きで、ウナギたちに融通した「協力者」もしくは「日本に滞在する同朋」と呼ばれるメンバーのうちの一人だった。


 このオヤジとは初対面ではあるが、他の協力者に関して言えば、もうすでに何人かと接触してきた。


 ウナギたちに寝床と清潔な服装を真っ先に用意したのは、いわゆるその「日本に滞在する同朋」たちだった。


 彼らのほとんどは、中国語も話せない、日本で生まれ育った若い世代だった。


 中華人民共和国には、2010年7月1日から施行された「国防動員法」という法律が存在する。


 国防義務の対象者は、18歳から60歳の男性と18歳から55歳の女性で、中国国外に住む中国人。


 そして、その内容とは「中国国内で有事が発生した際、全国人民代表大会常務委員会の決定の下、動員令が発令された場合、その限りにおいて中国国外――、つまり日本に在住する中国人も、国家の軍事戦略に協力しなければならない」というものだった。なお、国防の義務を履行せず、拒否する者は、罰金または、刑事責任に問われるという。


「中国と日本が戦争になれば、在日中国人は、日本国内で、祖国のために日本を破壊せよ」


 平たく言えばそういうことだった。


 日本が中国の敵だと認定された場合において、日本在住の中国人は「軍事行動」の遂行、およびその協力を、自分が住む日本国内で、行使しなければいけない。


 麗しき漢民族の絆の強さ。世界のどこにでも根を張る基盤があってこその戦略。


 実際に日本人――、昨日までの隣人を、突然殺せと言われれば、多少は躊躇うのが人情かもしれないが、中国語もできない日本在住の二世、三世の若者が、ウナギたちに「住まいと衣服」を提供してくれたり、また、歌舞伎町で何十年と商売をやってる中華料理屋のオヤジが「集合場所を提供したりする」くらいのことは、「国防動員法」が適用されていない状況下であっても、当然の同朋意識としてある。


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 ウナギら十名は、中華料理店のテーブル席に五名ずつ向き合う形で座った。


「おめぇらが何するかははっきりとは知らんし、聞きたくもねぇ。店を貸すのは、これが最初で最後だぞ。政府にも顔が利く大物が動いてるからしょうがねぇや。おれにも横の繋がりがあるからな。だが、これっきりだ。厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだからな。こうなるなら帰化しときゃよかったぜ。めんどくせぇ」


 オヤジの言葉。


「追加で十名。お仲間が来たぞ」


 オヤジは気を利かせて、二十名の水と、大皿に盛られた野菜炒め、これまた人数分の割り箸を置きながら、換気扇の回る裏口のドアを見つめた。


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 追加の十名――。


 ウナギたちとは別の孤児院から引き抜かれた、黒孩子(ヘイハイズ)たちが立っていた。


 皆、思い思いの服装に、派手な髪型にピアス。ガムをくちゃくちゃ噛んでる者もいた。


「おたくら、演習場で見かけたな」


 リーダーらしき人物が、先に椅子に腰かけた。


「そこのお前とお前、お前も。この俺に頭を撃たれたよな。俺の頭を撃ったのは誰だ…憶えちゃいないや。ははは」


 訛りある北京語。


 背は百七十ちょっとか。髪はピンク色の短髪でハリネズミのようだった。おまけに眉が細い。真夏なのに鋲だらけのライダースに革パン。


 日本に何しにきたか分からない風体だった。


「かもな?だが、お前らこっちに来てから派手になったようだな。そんなアタマの兵士は、あのむさ苦しい山林に一人とていなかった。いたら恰好の標的(マト)になってただろうよ」


 コーラが冷たく返す。


「俺らは兵士じゃねぇ!」


 ピンク頭の後ろに立った、アルマーニのタンクトップを着た、緑色のモヒカン頭のイカツイ男が怒鳴り散らす。


 チームとしては統制がとれてるようだった。誰もピンク頭以外、席に座ろうとしなかった。


「俺らはよ、チェルシースマイルに騙されたんだ」


 赤い髪した、別の誰かが言った。


「なら、あの男を詐欺罪で訴えろ。本国へ帰れ」


 コーラは身内以外には厳しい。


「お前、何様だ、こら?」


 また別の誰か。背が高くて、紫色の髪をしている。


 ウナギは、十名の合流チーム全員の顔を、まじまじと見た。


 ピンク、グリーン、レッド、ゴールド、シルバー、ブルー、パープル、ホワイト、オレンジ、ブラック、といった風に、髪の色は誰ひとりとしてかぶってはいないが、リーダー格の「ピンク頭」以外は、身体の大きさの特徴はあれど、どれもこれも、似たような連中に見える。


「不満があるなら、殺し合いでもするか」


 コーラが立ち上がる。


 コーラの目は、ピンク頭の背後に立つ、一番背の高い男に向けられた。


 それはさっき「お前、何様だ」と凄んだ紫色の髪の男だった。二人とも百八十五センチほどある。


 店のオヤジが勘弁してくれよという顔で台所に腰かけ成り行きを見守っていた。


「やめとけ。お互い死なないんだからな」


 ピンク頭の言葉。


 店のオヤジの表情は変わらない。


 オヤジはさっき何も聞きたくないと言っていたが、既にだいたいの事情は伝わっているのだろう。それに連日の「不死研究(プロジェクト・イブ)」の糾弾ニュース。米軍が動き出したといわれたら、ウソのような話に、真実マークが何重にも判を押されたようなものだ。


「何が言いたい」


「死ぬ相手とじゃなきゃ、殺し合いはしねぇよ。俺たちは」


 ピンク頭はコーラとアルマーニ双方に矛を収めよと言っている。いがみあう男らの間に挟まれたピンクは、幾分か大人に見えた。


「それって一方的に殺すってことじゃん」


 ピンクの背後の誰か。本人はうまいことを言ったと思ってるだろうが、誰もなにも反応しない。


「俺は小喜田内市とやらに行くぜ…女も犯す。これは狩りだ」


 ピンク頭は、笑いながら言った。


「ボクなんかさ、おとといね。日本の池袋でね。半グレってやつを二人ね、やっつけたよ」


 ピンク頭の背後にいる九名のうち、一番背の低いヤツが勝手に喋り出した。


 金髪のオカッパ頭で、よれよれのTシャツを着ている。伸長は百六十五センチくらいか。少しばかり知恵が足りないのか、ヨダレを垂らしながら指をしゃぶっていた。


「そしたらね。ピンクくんがね、顔を見られたらね、任務を果たす前に捕まっちゃう、っていうからね…」


 ピンクくん。ピンク頭の呼び名。ウナギやコーラと大差ないあだ名だった。


「…ぼくね。そのカラーギャング二人のね、目玉をね、何度も何度もカッターで傷つけたよ。眼球から、変な液体と血液が吹き出して角膜がぐちゃぐちゃになったよ。なんでやったと思う?それならさ、眼が見えないし、もう顔わからないし、ボクをつかまえられないでしょ?そいでね、舌も切り落としたよ。証言とかできないようにね…そんでね、そいつらが連れてた女の子のね、チクビとクリトリスをね、カッターでね…」


「もういい、黙ってろ。ゴールド」


 ゴールドと呼ばれた、金髪で脳の足りないヤツは黙りこくった。


 顔はアホ面。だが、底知れぬ悪意と暴力行為に関する頭の回転の速さはあるようだった。


「とにかく、俺らは狩りを楽しむ。小喜田内市の…高校生の名前、住所一覧か。ご丁寧に写真までつけてあるぜ。この生徒たち…吉岡莉那?白橋美紀?いいじゃねぇか。犯して殺してやる」


 ピンクが、鞄から取り出したファックス用紙を何枚か広げ、舌を出して笑う。


「お前らも、使命感に突き動かされているのか」


 コーラが双方の落とし所を探った。


 こんなヤツらとはいえ連帯感は不可欠だった。


 目的は殺戮。憎き日本人の殲滅。だが、気持ちを一つにしなければ、お互いがお互いを頼りとしなければ「はじめての殺人」に心が折れてしまうかもしれない。


「バーカ、スポーツだよ。おたくらと競争がしたい。何人、殺せるかさ」


「スポーツ?」


「あんな事になって、当初の目的すらパァだろ。でも、やるっつってんだから。それは趣味以外の何ものでもないだろ?」


「あんな事?」


「おたく、知らないのか?聞かされなかったのか?チェルシースマイルによ」


 ピンクの顔が歪む。驚愕と言うよりも、憐れむような表情。


「何の事だ」


「天安門で六十万のデモ。これは知ってるだろ?そんでよ、ついさっき人民大会堂の大会議場で七大軍区の司令員と兵士たち七千人が、周遠源にクーデターおこしたらしい。んで、不死研究(プロジェクト・イブ)は頓挫。我が国による日本人絶滅計画、台湾制圧、欧米駆逐、世界征服の夢は潰えたってわけさ。チェルシースマイルは周遠源を人質に逃走中。チェルシースマイル本人が電話で言ってたぜ。車の中からだったが、はっきりと聞こえたよ。なにやら今回のクーデターに関与したヤツが、小喜田内市の高校生だったとか。結論としては、そいつの家族や同級生を殺せって話で、ターゲットごとに懸賞金が設定されてる。そいつと親しい順でな。おたくら聞いてなかったの?安く見られてるね」


「まさか…そんな」


 コーラの呟き。


 ウナギも同じタイミングで、同じ言葉を発していた。絶望のハーモニー。不死研究(プロジェクト・イブ)が頓挫。不死者である自分たちに、帰る場所がなくなってしまった。


 黒孩子(ヘイハイズ)である自分たちに、最初からそんなものなどないと言えばそれまでだが、やはりどこか「国のため」という大義名分に縋っていた部分はあった。


「んじゃ、行くか。小喜田内市まで車で二時間。いや、もっと早いか。渋滞してねぇしな。あ、その前に、銃や手榴弾なんかを、大久保で受け取ることになってるからよ。そこからはマイクロバスが出るが、新宿から大久保まではタクシー移動だ」


 ピンクが立ち上がり、他の九名はジャマにならぬよう、ぞろぞろと先に裏口から出て行く。


 ゴールドだけは手をパタパタさせ「レープ。レープ。レープするよ、吉岡莉那ちゃん。レープだよ。レープ。レープ」と独り言をいいながら出て行った。


「そんな」


 コーラは言葉というものを失念している。「そんな」「まさか」「ありえない」この三つだけを繰り返す。黒いポロシャツは、汗でぐっしょりと濡れていた。


「おいおい。これから日本の警官や自衛隊と遣り合うかもしれねぇんだぞ。シケた面するなら来るな。ジャマだ。おたくらが不死身じゃなきゃ、ウザすぎてとっくに殺してるとこだぜ」


 ピンクは「五分だけ、外で待つ」と言い残し、去っていった。


 店のオヤジがつくってくれた大皿の野菜炒めは冷めていた。


「僕、これを三分で食べるからちょっと待ってて。オヤジさん、いただきます」


 韓国人が経営する焼き肉屋のバイト先で、賄いを食べてきたはずの太っちょ――、ヤキニクは、コーラに許可を得てから大急ぎで野菜炒めを食べた。


 ウナギは溜息を吐いた。


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 梅島における「楽園への帰還」の被験者「アダム」こと――、キム・ビョンドクは、東京の新宿――、歌舞伎町にいた。


 そしてある人物を追って、遠巻きから「その中華料理店」を見つめていた。


 裏口から、ぞろぞろと若者たちが出てくる。十人…いや二十人か。最後尾から二番目に、やはりあの青年――、範くんがいた。


 範くんは十日ほど前、キムが働いている焼き肉屋に、バイトに入ってきた男の子だった。


 範くんは、仲間と思しき黒いポロシャツの長身な青年に「ヤキニク」と呼ばれている。それが、あだ名なのか。彼を呼称する固有名詞として「ヤキニク」という日本語を使っていた。


 二十名のうち、前方を行く派手な髪色の集団十名はこれからピクニックに行くような表情で、後方の範くんを含む地味な格好の十名はお通夜にでも行くような顔で歩いていた。


 誰かが「殺す」という単語を、また他の誰かが「死なない」という単語を日本語で言った。どうやら日本人を脅すときのセリフの練習のようだった。


 二十名は、職安のある大通りを目指していた。


 そしてタクシーを待っていたようだが、空車が少なく、二十名いっきに移動ができないことに苛立っていた。


 やがてピンク頭の青年と、黒いポロシャツの青年だけが、一台のタクシーに乗り込み、範くんを含む残りの十八名は後続のタクシーを待った。


「きっとテロないし殺戮をする気だろう…止めなければ…彼らにも聞こえているはずだ。あの声が…すべてが終るまでに、まだ猶予はある。我々が気づかねば」


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 7月8日――。


 あの日、宜野湾で爆発から蘇生したキムは、全裸で国道五十八号線を普天間基地の逆方向へ逃走。そして那覇港の貨物船に乗り込み、九州から本州、東京まで何とか辿り着いた。


 持っていた銃を海に投げ捨て、服は貨物船のアパレル関連の段ボールをあさり適当に見繕った。そして九州に辿り着き、キムは「全裸の不死身男」の報道を知った。


 この時点で、どれだけの人々が「全裸の不死身男」と、梅島での「楽園への帰還」の研究を関連付けていたかは分からなかったが、まず自分が別の誰かに成りすますべきだと考え、まず韓国人であることを隠そうと考えた。


 そして、日本人の経営する洗車場で働いていた経験をいかし、日本人として振る舞うことにした。


 それには訛りがばれてはいけない。耳は聞こえるが、口が聞けない人物を演じ、筆談で何とか人の親切を借りて東京までやってきた。


 東京の新宿には、学生時代の知人がいた。何の事情も知らない彼に「少しの間だけ雇ってくれ」と言った。友人は快諾してくれた。


 少しの金が入ると、キムは道中で世話になった人々へお礼を送ったりした。


 妻と娘がいる祖国に帰れる状況ではなかった。


 居場所がばれたらまずいので、国際電話もかけられないでいた。一瞬、日本政府に保護を求めようかとも思ったが「不死の研究」を前にして、どこの国家であろうと信用はできなかった。


 国際情勢は日々、悪化の一途を辿っていた。


 日々を悶々と過ごすキムのもとへ、飛び入りでアルバイトの面接が入ってきた。中国からの旅行者だという。彼は範と名乗った。日本語は、まぁまぁできる。


 気のいいキムの友人は彼を雇った。


 キムは少しだけ先輩として、彼に注文のとり方や肉の切り分け方などを教えた。


 範くんは焼き肉が大好物で、賄い焼き肉や、売れ残り肉の処分品をもらえることを大変、喜んでいた。


 ある日のことだった。


 キムは、そろそろ範くんに包丁を持たせようと肉の切りそろえ方などを教えた。


 不器用な範くんなりに頑張っていたが、調理場から「痛て」という声が聞こえた。日本語で接客するうちにクセになっていたのか、範くんは中国語ではなく、日本語で「痛い」と言ったのだ。


 注文をとり終えたキムは、絆創膏をもって調理場へ行った。


「指を切ったのか、大丈夫かい」


 肉切り包丁の刃先と、まな板に四センチほどの血痕が、たしかにあった。だが、範くんは「切ってないですよ」大丈夫ですと言い、傷ひとつない両手を見せてきた。


「すまない、私の勘違いだった」


 その日はそれで済んだ。


 だが、そのあとも、不器用な範くんは、何度か包丁で指を切ったようだが、やはり彼は「切ってませんよ」と言い、どこにも傷口は見当たらなかった。


 心臓が早鐘を打つ。


 指先を切る。三秒で傷口が塞がる。


 キムには心当たりがあった。


 思い過ごしかもしれないが、背筋が凍りそうだった。そして、中国からやってきたという範くんから、何がしかの情報を引き出そうと考えた。


 範くんの右手首には「黒いドラゴン」の刺青(タトゥー)があった。「それを入れたのはいつだい?」と聞くと、範くんはそれについて触れてほしくないようなそぶりをしながら「春も終る頃でしょうかね。友達と、ちょっとある事情から、離れ離れになる。卒業するっていうことになって、中国(あっち)で入れちゃいました」


 春の終わり――。


 キムが、梅島で「不死者兆候」を示し、チェルシースマイルがその細胞と研究データを、中国本土へ持ち帰り「不死研究(プロジェクト・イブ)」に乗り出した頃と、時期が重なる。


 ある日、キムは範くんを酒の席に誘った。


 ビール二杯で泥酔し、テーブル上で舟を漕ぎはじめた範くんの寝顔はあどけなかったが、キムはポケットに忍ばせたカッターの刃先で、範くんの手の甲を傷つけた。


 数ミリの小さな血の筋。


 線になった傷口が小さな泡を立てブクブク…ブクブクと塞がるのを確認した。


-------------------------


 キムは、範くんを含む十八名と一定の距離を保つ。


「君らにも…あの声が聞こえているんだろう…時間がないんだ。君らがヒキガネになってはいけない…いけないんだ」


 そう呟きながら、彼らが三名ずつ次々とタクシーに乗り込むのを見た。

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