第49話 回り始める歯車

 昼休みを告げるチャイムが鳴った。


 教室を出た有働はポケットのスマホの振動を確認し、それに出る。番号は国際電話。通話の向こうから聞こえてきたのは聞き馴染みのない男の声だった。


「有働くん…君に伝えることがある。もうじき報道されるだろうが、オブライアン大統領が先ほど何者かに暗殺された。次期大統領となる副大統領トンプソンはアメリカ・ファーストの危険な男だ。世界は最悪の事態を招くことになるかもしれない」


 そう語ってきた男の名は、クリス・グライムズといった。


 クリスはオブライアンの第一秘書だった男で、有働自身何度か面識があったものの、その声を聞いたのはこれが初めてといってもいい。


 日本はワシントンD・C・よりも十三時間進んでいるため向こうは深夜の真っ直中のはずだが、電話の向こうはサイレンの音で騒がしかった。飛び交う英語から察するに、どうやらホワイトハウスは爆撃を受けたらしい。


「今後も君には全面的に協力をする。オブライアンの遺志は私が継ぐ」


 クリスはそう言って電話を切った。


「誰が…何のために」


 有働がそう質問する前にクリスは一方的に電話を切ってしまった。


 生前オブライアンは自らが暗殺される可能性を示唆していた。そして暗殺された場合、その犯人は十中八九副大統領ロナルド・トンプソンであろうと語っていた。


「彼は反戦主義者である私に対し、強国アメリカ、軍事大国アメリカの立場をことさら強調してきた。もちろん水面下での話だがね」


 オブライアンによると副大統領になるまで従順であったトンプソンだったが、就任した途端、同じ与党でありながらオブライアンと全く違う立場を示し始めたという。


「私に何かあった場合…秘密の動画は削除しておいてくれ。でも、もし君がそっちのケに目覚めていて私の動画で興奮を覚えるようになったのならば永久保存してもいいけどね…時折私を思い出してそれをオカズに自慰してもいいんだよ」


 オブライアンは言っていた。


 有働はスマホのフォルダを開く。


 そこにはかつてホテルコクラに忍び込んだ有働がオブライアンを襲い、電動式玩具で慰み者にしてやった糞まみれの動画から始まり、オブライアンが定期的に送ってきたプライベート菊門自慰動画などがぎっしりと詰め込まれていた。


「オブライアン…」


 ちょうどその時スマホに「米合衆国ホワイトハウスで爆発騒ぎ。オブライアン大統領死亡確認」というニュースのプッシュアップ通知が目に飛び込んできた。


 先ほどの電話が事実なのだと確信し、有働のスマホを持つ手が小刻みに震え始める。


 オブライアンは権力を持った変態野郎ではあったが、有働にとっては国家や人種を越えた友人でもあった。


「…安らかに眠ってくれ…動画は削除するぞ…」


 有働は徐々に視界が潤むのを感じた。そして今は亡き友人のために、悪趣味な動画の数々を一斉削除した。


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 購買に群がる生徒たちに押しつぶされそうになりながら、有働は突っ立っていた。目当てのチキンカツ弁当二百八十円は売り切れとなっており、残るのはパン類のみとなっていた。


「おい、ウドー」


 背後から声がして有働は振り向いた。


「並んでるならこれやるよ。俺のおごりだ。やっぱ二袋は食えん」


 未開封のサンドイッチを差し出してきたのは戸倉だった。


 同じクラスでありながら内木の死後、塞ぎ込んでいた有働は戸倉とまともに会話をしなくなっていたためどう返事していいのか分からない。


「久しぶりに教室でメシ食おうぜ」


 戸倉は笑った。有働は頷く。


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「俺はさ、今でも内木があの席に座ってるような気がするよ」


 サンドイッチを頬張りながら戸倉がふいに言った。


「あいつはいつも窓側の席だったな」


 有働は答える。


 確かにいつも内木は窓側に座っていた。


 一年生の時も二年生にあがってからも、そして臨海学校のバスの時も。くじ引きでも不思議と窓側の席になることが多かったし、自由に席を決めていいと言われても内木は決まって窓側を選んでいた。


 外から見える景色はその瞬間にしか見れないものだから、と内木は言っていたのを思い出し、有働は俯く。


「お前に関する色んな噂を聞いてるぜ。報道陣からも色々聞かれた」


 戸倉は笑いながらも有働の表情を観察するようにじっとこちらを見ている。


「不破勇太の件はそうとしても、他は出任せだろ」


「じゃあその左腕の包帯は何だよ」


 戸倉は有働のブレザーの袖からのぞく包帯を見て言った。


「夏休み中に転んだ。左腕にガラスの破片が貫通した。それだけだ」


「俺のせいなのか?」


 戸倉は沈んだような表情で訊ねてきた。


「どういう意味だ」


「一年だった頃、お前に偽善者になれとか軽はずみなことを言ったよな」


「よく考えてみろ。俺は偽善者どころか善人にもなりきれちゃいない中途半端な存在だ」


 有働は食いかけのパンを戸倉の前に差しだし、言葉を続けた。


「偽善者ってのはお前みたいにサンドイッチをくれる奴のことを言う。それに比べ俺は何もしちゃいない」


「そうだな…お前に関する噂がぜんぶ本当だとしたら、お前は偽善者じゃない」


 戸倉は天井を見上げるようにして次の言葉を考えていた。


「…必要悪。お前のやっていることは偽善ではなく、必要悪だ」


「戸倉。お前は国語教師にでもなれよ」


 有働はふざけて返す。


「永遠の命だとか、隕石だとか、俺にはよく分からない。だが噂が事実だとすればお前は内木の復讐のため、間接的に中国共産党の野望を打ち砕いたんだ」


 戸倉は真剣だった。


「今や世界中は隕石を巡り争いを始めている。先日、人類史上三度目の核兵器使用がパキスタンで行われた。さっきネットニュースで知ったが、不死隕石に警鐘を鳴らし続けてたオブライアン米合衆国大統領も暗殺された。政治だの、歴史だの世界史だの勉強してこなかった生徒たちですら必死にネット記事を追ってる状況だ」


 有働は周囲の様子を伺った。


 世界情勢について議論を交わしながら食事をしてる生徒たちと一瞬目があったが、彼らの方から視線を外してきた。


 戸倉がこんなことを言ってくるような状況だ。クラスメイトに恐れられていても何の不思議もない。


「次はどう動く?ウドー」


 有働は何も答えなかった。戸倉は深い息を吐き笑う。


「今のはぜんぶ俺の妄想。冗談だウドー」


「やっと気づいたか。この妄想族め」


 有働は無表情のまま戸倉に調子を合わせる。


「ところで、意中の人の見舞いには行ったか?」


「一度行ったきりだ」


 有働は答えた。


 吉岡莉那は有働と関わったばかりに数知れない危険に曝されてきた。今更どう関わっていいのかもよく分からない。


「だと思って今回、心強い助っ人を用意した」


 戸倉が教室の隅で弁当を啄む少女を手招きした。


「莉那のお見舞いに付き添う件ね」


 やってきた犬養真知子が両手を腰に当てて笑う。臨海学校で受けた怪我もすっかりよくなり、いつもの調子に戻っているのを見て有働は安心した。


「内木、宇津井、枝野、豊田の墓参りも兼ねてさ、次の土曜日、三人で出かけようぜ」


 バス事故で亡くなった生徒たちの名を耳にして有働の背筋に寒気が走る。


「行きたくないなんて言わせないぞ、ウドー」


 戸倉は明るく言った。犬養真知子もそれに賛成する。息のあったところを見ると二人は付き合ってるのかもしれないと有働は思った。


「いいだろう。お前らのデートのダシに使われてやる」


 憎まれ口を叩く有働を見て、戸倉は満足そうに頷いた。


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 地元の総合病院は、こんな田舎町にそぐわない巨大かつ近代的な建物だった。


 有働、戸倉、犬養の三人は受付に名前を告げ、吉岡莉那の病室へと進む。


 廊下を歩く杖をついた患者、車椅子に乗せられた老人とすれ違うたび、彼らは軽い会釈をしてくれた。有働も彼らに倣って挨拶をする。


「さぁ、ここだウドー。姫君はここにいらっしゃる」


 戸倉が扉の前の表札を指さす。そこには確かに、昭和初期にありがちな古くさい名前に混じって莉那の名前が掲げられていた。


 案の定、扉を開けると老婆たちと談笑する莉那の姿がそこにあった。


「莉那、お見舞いにきたよ」


 犬養真知子の差し出すチーズケーキを受け取り礼を言った後、莉那は有働と視線を合わせた。


「しばらくぶりだな」


「そう?三週間前に来てくれたじゃない」


 莉那は言った。


 しばらく来なかった薄情な男という響きはそこにはなく、きちんと以前見舞いにきた時のことを覚えているという莉那なりの気遣いが感じられ、有働は救われた気持ちになった。


「あらぁ、彼氏だったら三週間も来ないなんてひどいわよ」


 莉那と同室の老婆の一人が有働の腰を思い切り叩く。


「うちの爺さんはボケちゃってホームにいるから来れないけど、あんたまだ暇な学生でしょ?勉強が忙しくたって毎週一度は来れるでしょう」


 別の老婆がたまげたような表情で有働を詰った。


 戸倉も犬養も苦笑いをするだけで助け船を出してはくれない。有働は莉那の方を見て「ごめん」と謝った。


 莉那はそれには何も答えず、ただ、ただ赤面しているだけだった。


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「エミちゃん、大丈夫だった?」


「歯が欠けたのと軽い打撲だけ。命に別状はない」


 戸倉たちが「売店でお茶でもしましょうよ」と老婆たちをけしかけて出て行ったため、この病室には有働と莉那の二人きりしかいなかった。


「有働くん、エミちゃんにフられたんでしょ?」


「なんでそれを」


「直々に言いにきたもん。ツトムはあなたにあげるって」


 有働は頭をかきむしる。


「もらったものは、しょうがないよね」


 莉那はベッドから半身を乗り出して、有働の唇に口づけをした。


「おい、何を…」


 一瞬のことで有働は何が起きたのか理解できなかった。


「何度か助けてもらったお礼」


 莉那は頰を赤らめ、顔を背けた。有働は俯く。


「何度も危険な目に遭わせたのは俺だ。俺と関わってもロクなことにはならない」


 本音だった。あの夜、有働の指示で不死の黒亥子(ヘイハイズ)たちと戦い命を落とした者が久住をはじめとして何人かいる。


 自分が動けば不幸な人間が増えてゆく。有働はそれを自覚しながらも歩みを止めることができずにいる自分を、ただ、ただ自己嫌悪していた。


「自分のしてきたことに後悔はある?」


「当たり前だ」


「ならいいじゃない」


 莉那は目を細めた。


「後悔や罪悪感を受け止めれる人にしか試練は訪れないよ。きっと普通の人なら一歩も動けなくなるか自ら死を選んじゃう」


 エミは別れ際、言っていた。


 ツトムは怪物なんだよ――、と。


「有働くんがドラゴンでも、私は構わない」


 エミの顔が消えて、そこでは莉那が微笑んでいた。


「これ、私が好きだった絵本。あげる」


 手渡されたのは「宮殿の悲しきドラゴン」という絵本だった。


 内容を要約すると――、


 とある王国のお姫様が、破壊の限りを尽くすドラゴンの元へとやってきて、彼になぜ破壊を繰り返すのかと問いただした。


 ドラゴンは、自分はかつて涙一粒流さぬ傲慢な王であり、神によってその姿に変えられたのだと語った。そしていつか自分を殺してくれる勇者を待ちわびているとも言った。


「あなたの力が強大すぎて、灰と化した町にはこの十年間子供が生まれていません」


「ならば勇者が現れるまでの二十年間、焔を吹くことを我慢しよう」


 ドラゴンはお姫様にそう約束し、内側から身を焦がされる苦痛に耐えた。


 焔を吹くのはドラゴンにとって自然な行為であり、それをしないことは自らの身体に負担をかけることになるからだ。


 それからお姫様はドラゴンの身体を冷やすために海水を汲む毎日を送った。


「私は王子であるお前の兄弟らを焼き殺した。なのになぜ私を救おうとするのだ。私に与えるべきは罰だと思わないのか」


 そう問うてきたドラゴンにお姫様はこう返した。


「あなたは自分で罰を与えています。あなたに必要なのは救いです」


 ドラゴンはお姫様の優しさに触れ、一粒の涙を流した。


 そこにはかつての恐ろしいドラゴンの姿はなく、王様の姿に戻った男がいた。


 王様はお姫様の国と協力して、世界の平和のために生き続けたという。


「私は有働くんが怪物でも…ドラゴンでも構わない」


 莉那は絵本を読み終えた有働の手を握った。有働はその手を握り返す。


 きっとそれは、長い間誰かに言ってほしかった言葉だったのかもしれない。


「俺が…怖くないのか…」


「怖いのは有働くんも同じでしょ」


 莉那は有働を抱き寄せる。


 自分よりも背が低く華奢な、守られるべき存在であるはずの莉那に間違いなく有働は抱きしめられていた。


 人は自分を理解してくれる誰かに出会えたとき、心からの愛を知るのかもしれない。


 有働はしばしの間、子供のように泣きじゃくった。


 病室の扉が一瞬、開きかけたが、気を利かせた戸倉たちが老婆たちを再びお茶に誘い、廊下を逆戻りしていくのが分かった。


「俺は…」


 いつもひとりで戦っているつもりでいたが、そこには沢山の理解者の存在があった。


 世界には利害関係ではない、無償の愛というものが存在するのだと理解させられた。


 そしてそれは父母との間や、内木や戸倉たち、権堂や誉田との間にも確実に存在するものだと有働は確信した。


 俺は彼らのために戦わなくちゃいけない。


 有働はそう思った。


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 莉那の病室を出た有働は、その足で同じく入院中である春日を訪ねた。


 戸倉たちは気を利かせて外に出ていてくれた。


 春日は腹部の手術を終え快方に向かっているらしく顔色もよかった。


「久住の件は気に病むな。あいつは命がけで守ったんだ、この町を」


 春日は泣き顔を見られまいと顔を手で覆っていた。


「まだ戦いは終わっていないんだろ?入院してたって外のことは分かる」


 春日は涙と鼻水だらけの顔を見せ、有働に右の拳をつきつけて言った。


「お前の親父さんや、あいつらの死を無駄にしないためにも…世界を救ってくれ。お前なら必ずやれるさ」


 有働は深く、頷いた。


 暴走する世界を、人々を救わなければならない。ありとあらゆる手を使ってでも。そしてこれまで散っていった幾人もの命に餞をしなければならない。


「僕は世界一の偽善者です。任せてください」


 冗談を交えたその言葉に春日は、頼んだぞと親指を立てた。


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 戸倉、犬養真知子らと共に宇津井友美、枝野幸恵、豊田愛梨の墓参りを終え、久住やその他、襲撃事件で命を落とした者たちの元へも出向いた。


「あと、最後にもう一人、大事な人が残ってるだろ」


 戸倉にわき腹をつつかれ、有働は頷く。


「私は直接お会いしたことないけど、この町を守ってくれた立派な人だと思うわ」


 犬養真知子は涙ぐんでいた。あの不幸な事故を思い出し、若くして亡くなっていった同級生や先輩たちを思って胸を痛めているのだろう。


 有働はその場所へ無言で進む。戸倉たちはその後ろを黙ってついてくるだけだった。


 有働家之墓――。


 数十年前に他界したという祖母に続き墓石に名前を彫られているのは有働の父、有働保だった。


 有働がまず線香をあげ、手を合わせる。そして戸倉、犬養真知子がそれに続く。


「俺はもう少しここにいる。先に帰っててくれ。今日は有り難う」


 有働が言うと、二人はしんみりした表情で霊園を後にした。


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 しばしの時間が流れた。


 周囲に人がいないことを確認した有働は、こちらを伺う気配に視線を飛ばす。


「そこで、さっきから俺の方を見てるおっさん、あんた何者だ」


「おやおや。隠れたつもりが、流石としか言いようがないな」


 少し離れた墓石の陰から上背の高い柔和な中年男が顔を出す。


「あんた何者だ。二度は聞かないぞ」


 中年男は有働の鋭い視線を受け止めてなお、笑顔を絶やさない。


「私は公安警備課の佐藤だ。少し話をしないか」


 有働は舌打ちして男の手招きに誘われるようにして霊園を出た。


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 佐藤の運転する車は、有働の育った田舎町をぐるぐると回った。


 車内の緊張感は凍り付いた冷房のようで、窓の外の見慣れた景色を薄っぺらな写真のように見せつける。


「実は私はずっと前から君に目を付けていたんだよ。それには気づかなかったかね?」


 公安警察――。


 警察庁警備局を頂点に、警視庁公安部・各都道府県警察本部警備部・所轄警察署警備課で組織される、極左、極右などの思想犯やテロリスト、狂信的教団、外国工作員などが引き起こす社会的攪乱を防ぐことを任務とした集団であり、危険人物と認定された者は長期監視対象者となる。


 なお東京都は公安と警備課は別々に存在するが、地方においては公安警備課として置かれている。


「有働努くん…君は、地元警察署黙認とはいえ大量の銃火器を抱え込んでる組の若頭の息子の友人にして、毒入り饅頭事件解決の功労者であり、これは警視庁の管轄だが中野のアイドルグループコンサート会場占領事件に加えて、これまた国外で我々の管轄外だが中国の中央政府を一夜にして転覆させた人物として公安から正式にマークされている」


 佐藤は柔和な顔を崩すことなく有働に告げる。


「今日暗殺されたオブライアン大統領や、日本国政府与党、警察庁幹部ともパイプラインがあるようじゃないか。君がその気になれば公安のマークからも逃れられる。恐ろしいねぇ」


「あんたの顔は毒入り饅頭事件のすぐ後から見かけた。俺が不破勇太に腹を刺されて入院しているとき、俺に事情を聞きにきた納谷警部補と飯田巡査があんたと話し込んでる姿も見たことがある」


 佐藤は笑った。


「というよりも君の親父さんとも何度か話をしたよ」


「なに?」


「私自身、同僚の息子さんを疑うのも気が引けていたのもあって、親父さんが私の存在に気づいたとき、即座に否定ができなかった。そしたら親父さんは泣きながら息子の弁解をしてきたよ…あいつは不器用なだけなんだって」


 悲しそうな目をして佐藤はハンドルを切る。


 その先には湾曲したガードレールがあり、有働の父が横転したバスの中で命を落とした場所であることが一目瞭然だった。


「以前、親父に公安警察に怪しまれるぞと釘を刺されたことはあった。その前からあんたは親父と接触していたのか」


「そういう事になるね」


 車は停車し、佐藤はひしゃげたガードレールをくぐり抜け、崖の斜面に覆い茂った木々の中に立てかけられた梯子に手をかけた。


 折れた木々がバスの横転を物語っており、有働はこれまで敢えて見ようとしなかった父の壮絶な死の現場に直面することとなった。


「君もおいで」


 有働は一瞬躊躇ったものの、佐藤に続き梯子に手をかけ降りた。


「ここだね」


 佐藤は一本の木に向かって手を合わせると、懐から出した小さな花束をそこに添えた。


 それは樹齢数十年ほどの木で、大木というほどではないがしっかりとした佇まいをしていた。ところどころ穴が開き皮がめくれているのは銃弾を受けたためであろう。


間違いなくこの木とその土は有働の父の血を吸っており、最期の場所となったであろうことは明白だった。


 有働は自らの頬を伝う涙を隠すことなく、その木に近寄った。


「これ、お父さんの手記だよ。私は彼からこれを託され、君がただの危険人物ではないことを理解し、ずっと静観していた」


 佐藤は手帳サイズの革張りのノートを有働に手渡すと肩を二度、三度叩き踵を返した。


「家まで送っていってあげよう。お父さんはもうここにはいない。だが、お父さんの正義はここに眠っている。心の整理がついたら上まであがっておいで」


「ありがとうございます」


 有働は佐藤に対して、はじめて敬語を使い頭を下げた。


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「実は薄々お前がなにをしようとしているのか気づいていた。血は争えないな」


 転落する前のバスで、格闘中の父が最期に残した言葉が脳裏によみがえる。


 その革張りのノートは角が潰れ、ページはまとまりのある文章から散文的なものまで様々で、単語と単語を丸で囲み矢印で繋げるという父の思考をそのまま文字にしたような内容ばかりだった。


 夕食を済ませた有働は自宅のベッドに正座し、それを一枚一枚、丁寧に開く。


「毒入り饅頭事件の数週間前、猫の死体が多く発見された。おそらく努はそれを不審に思い、経緯は謎だがその犯人が同級生であると推理した。そしてその同級生が学園祭で食品を出品していることをつきとめ、彼の大量殺人を予測、彼が急に働き出したというバイト先の和菓子屋の門を訪れ学園祭の前日に毒のない饅頭とすり替えた」


 経緯は謎だが――、と書かれているが、有働が不破勇太に興味を持ったきっかけは生徒会長信任投票で「不信任」と書いた生徒たちの思想調査をした結果であり、結果として目を付けた反逆者が偶然危険な人間であっただけの話である。


 だが、父は情報が少ないながらも不確定要素を空欄のままにし、多少順序がバラバラでも、有働が不破勇太の大量殺人に気づくまでの筋道を正しく推理しているのが見て取れた。


「疑わしきは疑い、犯罪を未然に防ぐ。努は刑事に向いている」


 そんなことがページの端っこに書かれており、有働は恥ずかしくなる。


 他にもスーサイド5Angelコンサート占領事件に関しての記述や、息子を中国に見送った後の心境などが書かれていた。


「おそらくあの子は一国を相手に戦うつもりなのだ。友人の死を弔うために」


「だが、たった一人で突っ込む無謀な子ではない。おそらくは米国政府および在中米国大使館に協力者を儲けているに違いない。もはや一介の田舎警察官の私よりも強大なコネクションと実行力を努は保持している」


 書き殴られた文字で父はそう心境を吐露していた。


「不死隕石の噂とそれを巡る国家間の駆け引きは、世界中のあらゆる人々が気づくところだ。おそらくは第三次世界大戦の幕開けとなるかもしれない。そうなれば努とてそれを阻止する術は持ち合わせていないだろう」


 そして生前の父の手記の最期のページはこう締めくくられていた。


「世界平和はたった一人では成せない。七十億が気づかなければ実現しないのだ」


 有働はそれを父からの本当の意味でのラスト・メッセージであると受け取った。


 そしてこの度の戦いの真の敵とは何者かを深く考え、それを倒すべき戦術と戦略はどうあるべきかを思案した。


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 その晩、この春に渡米した権堂から久しぶりに電話があった。


「今なら盗聴もされていない。積もる話は山ほどあるが時間は限られている。要点だけ話すぞ。俺は今、世界の未来に関わる重大な案件に関わっている…ある意味、不死隕石よりもまずい」


 権堂の声は途切れ途切れだが、車の往来が激しい場所にいることだけは理解できた。


「聞かせてください」


「いま俺はCIAの女と組んで、とあるイカレ野郎と行動を共にしている。なかなか連絡できなかったのもそのせいだ。そいつは、お前が倒した中国のチェルシースマイルと並んで世界五大裏権力者(ファイヴ・フィクサー)と呼ばれている、カネと狂気と実行力を兼ね備えたクソ野郎で、全米第一位の軍事企業のCEOにして世界中に核の雨を降らせることを可能とした宇宙兵器・神の杖の保持者、通称ドールアイズ…本名マイケル・ホワイトという男だ」


「宇宙兵器…ですか」


 権堂は世界中へ核攻撃を可能とした宇宙兵器――、神の杖についてさらに詳細を語った。


 そんな物があることなどオブライアン大統領からすらも聞いておらず、有働としては寝耳に水だったものの、先日のインドによるパキスタンへの核攻撃からオブライアン暗殺と、現実離れした状況が続く中、心が麻痺しているのか有働は意外なほどすんなりとその事実を受け入れることができた。


 権堂は早口でまくし立てるようにしてドールアイズの情報を伝えてきた。有働は頷きながら現在の危機的状況について隙間なく理解する。


「話を纏めると想定される危機は二つ。ドールアイズが世界戦争を待たずして人類の剪定を開始し、核の雨を降らすこと。もう一つは神の杖が国家ないし野望を持った個人によって奪われること」


 有働の言葉に、通話口の向こうで権堂が頷く。


「話を聞く限り、ドールアイズは愛する者のために悪役に徹し、世界を破壊しようと動く男です。つまり大切な人間を救うためならば、神の杖など躊躇なく放り投げるでしょう」


「どうすればいい」


 権堂の問いかけに、有働は数秒間沈黙し、思案した。


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 さらに夜は更けた。


 考えることが多すぎて有働の脳味噌はパンク寸前だった。


 今回の真の敵は手強い。


 世界平和を実現するためには、動かせる駒を最大限に活用して有働自らが正義を体現しなければならなかった。


「これまでの、こそこそした偽善活動とは違う。世界七十億に俺の存在が知らしめられることになるだろう。内木…父さん、それでいいか」


 有働は自宅のベッドで頭を抱え込んだまま、スマホを見つめる。


 そして気分を変えようと、未読が蓄積された「スーサイド5Angels」チャットメンバーたちのトークルームを有働は何気なく開いた。


「あ!ワークくんが久しぶりに来たみたい!おひさ~!」


 するとさっそく「午前肥満時(ごぜんひまんじ)」こと太田が有働の来訪を喜ぶメッセージを打ってきた。


 もう逃げることは許されない。有働は返信を打つ。


「すいません。最近忙しくて」


「中国共産党を潰したのワークくんでしょ?」


 盗撮マニアの「盗撮ルパン」がすかさず突っ込みを入れ、


「ネットじゃ噂になってるけどさ、毒入り饅頭事件や中野のコンサート事件を解決したワークくんならあり得るかなって。実際どうなの?」


 不倫主婦の「りん子」がトドメを刺してきた。


「俺は関係ありませんよ」


「ふぅん。信じないけどそういうことにしとくよ」


 自殺未遂マニアの「車内恋痰(しゃないれんたん)」のメッセージはいつになく皮肉だった。


「あ、話変わるけどさ、年末にスーサイド5Angelsがアメリカの音楽フェスティバルに出演するんだけど、みんなで行こうかって話してるんだ。まぁ、そもそも前代未聞のSNS経由で当たる渡航費込みの無料ライブだし、全世界の人々が対象だからチケット手に入る確率は低いけど、音漏れだけでも聴きたいじゃん?」


 男の娘である「栞」からの情報は有働としては初耳だったが、


「どうしよう」


「僕ら全員、中野のカウントダウンコンサート占領事件ですでに顔を合わせてるし、一緒に犯人を倒した仲でしょ?好きなグループが全米進出するっていうんだから、皆で揃っていくべきだと思うよ」


 栞は珍しく熱弁を振るう。


「忙しくなきゃ行くよ」


 世界が年内に滅びるかどうかという時に、できない約束を仲間たちと結ぶ根性の太さを有働は持っていなかった。


「今回スポンサーも凄いんだよ。全米第一位軍事企業アウグスティン社が全面バックアップだっていうから」


「ちょっと待って。マイケル・ホワイトの会社か?」


「CEOの名前は思い出せないけど両目が義眼の人だよ。たまにテレビ出てるじゃん?ヘヴィメタみたいなファッションの人。その人がスーサイド5Angelsのファンらしくて。メンバーの人柄が気に入ったんだってさ」


 有働のメッセージに対し返答したのは午前肥満時だった。


「開催場所は?」


「ニュー・バベル・タワーとかいう世界一の超高層ビル」


「なるほど…それなら無料なのも頷けるな」


 有働はひとり唸った。


 先ほどの権堂の話によるとドールアイズの野望は世界の三分の一を殲滅し、心優しき三分の二の人類を「ニュー・バベル・タワー」=「新バベルの塔」に収容し、救済するということだった。


 ドールアイズは国内外から優れた人格と音楽性を持つアーティストを集め、新しい世界のために保護しようと考えているのかもしれない。


 もちろんフェスに参加、招待される者たちも「選ばれし者たち」ということになる。


 おそらくドールアイズは音楽フェスやその他催し物にかこつけて、世界中から「生き残るべき四十三億の人々」を新バベルの塔におびき寄せ、収容するつもりなのだろう。


 当チャットメンバーたちは人間として欠陥があるため、チケットすら手に入れられないだろうが、往生際の悪い彼らは現地でチケットを手に入れようと、あるいは音漏れだけでいいからと渡米するに違いなかった。


「俺も行く。母さんにつく最後の言い訳だ」


 チャットメンバー全員が「意味不明」と反応したが、有働は話題をすぐに変え、数十分チャットをしたあと、早々に退出した。


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「ロシアから帰ってきたばかりなのに、すごい精力ね」


 女の喘ぎ声がホテルの一室に響きわたっていた。


 その声色は決して艶やかなものではない。


 永きにわたる飲酒の習慣と、声を張り上げる日常によってひどく嗄れており、それでいて失われた年月を取り戻すかのような演技が相まっているため、スレた少女の淫靡な鳴き声のようにも聞こえる。


「マイロード。先端が子宮口に当たって気持ちいいわ。耐えられなくなったら沢山パージしてね」


 声の主はドイツ連邦共和国首相――、アンネ・メンゲルベルク、その人のものだった。


「ついこの前まではダニエル・ゴッドスピードの雌犬だったくせに、私に跨がってぐしょ濡れとは」


 メンゲルベルクを貫くのはヤコブ・シュミットバウワー。


 ロシアでプチョールキン大統領らと話し合いを終えたその足で、ドイツまで赴き国内有数のホテル一室でこうして汗を流している。


「もうグランパのことは言わないで…グランパは私をこの地位まで昇り詰めさせてくれた恩人よ」


 天国へ旅立ったパトロンの話題にメンゲルベルクは涙をこぼし嗚咽するが、ヤコブが下から腰を突き上げると痙攣しながら垂れた乳房を震わせた。


「ポーランドとの国境の川に落ちた石はどうなっている」


「あいつらイギリスに助けを求めてるわ。マイロードも知ってるでしょ」


「イギリスにはゴッドスピードの息のかかった政治家が多い。ブレグジット(イギリスのEU離脱)もジェイムズ・ゴッドスピードによる陰謀だ。実際やつは英国債や大量のポンドをユーロに換えて莫大な利益を得た」


「じゃあマイロードは、イギリスには影響力がないのね」


 メンゲルベルクはヤコブを揶揄しながら腰を動かす。


「ロシアとフランスはすでに我が手中にある」


「アメリカは?」


「トンプソン大統領の背後にはジェイムズ・ゴッドスピードがいる。お前はどうするつもりだ」


「ドイツは戦争なんてできない」


 第二次大戦における敗戦国であり、ナチス党によって戦争犯罪を引き起こしたとされるドイツは、他国との本格的な軍事衝突に消極的になるのも無理はなかった。


「君はお父上の野望を果たすために政治家になったのではないのかね?この、年の割にはきつく締まる名器を使いながら」


 ヤコブの言葉にメンゲルベルクは何も言い返せない。


 ダニエルと自らの結合部分を揺らしながら、彼女は自らの数奇な運命を思い出す。


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 第二次世界大戦ドイツ――。


 ナチス政権下においてユダヤ人捕虜への人体実験を繰り返し「死の医師」の異名を与えられたダミアン・ベーデカーという男がいた。


 敗戦後、ソ連の裁判所で一度有罪判決を受けたベーデカー博士ではあったが、ソ連の医学界関係者筋によってその業績が認められ「捕虜に施した人体実験の学術研究成果を提供する」という司法取引によって、異例の無罪となった。


 それから約十年間、ソ連で医療分野の指導者として働いたのち帰国を許された際、西ドイツに舞い戻ったベーデカー博士は、国内に隠しておいた「とある人物の精子の凍結サンプル」を国立研究所へと持ち込み、高額な報酬と引き替えに名もなき売春婦の卵巣へそれを注入し、女児を出産させた。


 その女児こそがアンネ・メンゲルベルク、その人である。


 ベーデカー博士はのちに「人工授精のパイオニア」と呼ばれ、彼は生涯「アドルフ・ヒトラー」の生物学的娘を極秘裏に誕生させたという事実を公にはしなかった。


 メンゲルベルクが、その事実を知ったのは十八の夏だった。


 彼女を育てた牧師夫妻は、連合国軍による追求を逃れたナチスの残党であり、アンネがヒトラーの遺伝子を受け継ぐ娘であることを知る数少ない者たちだった。


 メンゲルベルクは両親の会話を盗み聞きして、絶望するよりも先に興奮を覚えた。そして悲観せずに歓喜に震えた。


 戦後の学校教育で悪の根元として語られているヒトラーではあるが、実際は彼こそが世界一優秀な指導者だとメンゲルベルクは考えていたためである。


 アドルフ・ヒトラーは、世界恐慌の影響による四百八十万人の失業者のうち、四十万人を「アウトバーン」と呼ばれるドイツを網羅する高速道路建設に従事させ、建設費の半分を彼らの賃金に充てた。


 そしてそれに続き、当時富裕層のためにしか存在し得なかった自家用車を低所得者層にむけて開発、生産する「フォルクスワーゲン計画」を発案。


 これによる雇用効果は六十万人にも昇り、戦後のドイツ自動車産業の発展の礎となった。


 他にも農業の生産性向上を目的とした「ライヒ農場世襲法」や植林や野生生物の生態系を守るための「ライヒ自然保護法」を制定するなど、ナチス瓦解後のドイツでも効力を維持している優れた法律もある。


 真実を知れば知るほどに、悪魔だの独裁者だのと貶めている男が遺した恩恵の上に胡座をかいているドイツ国民に対し、深い失望と怒りを覚えるくらいメンゲルベルクはヒトラーを尊敬するようになっていた。


「総統が私のパパだったなんて…」


 メンゲルベルクは夜も眠れなくなるほど、亡父について思いを馳せ、彼に関する書物を読みあさるようになった。


 どれもこれも戦後の否定的な観点から描かれたものではあったものの、そこには少しの真実とヒトラーが後世に遺した真理の欠片が含まれていた。


「平和は剣によってのみ守られる」


「我々はむやみに大きな力を持とうと望んではいない。我々の労働のために、我々の民族のために、我々ドイツのために立ち上がる必要があるのだ」


「自己をあらゆる武器で守ろうとしない制度は、事実上、自己放棄をしている」


 亡父ヒトラーが遺した金言の数々は、思春期のメンゲルベルクの心を揺さぶり、その後の彼女に行動力を与えた。


「私はパパ以上にドイツを繁栄させるわ」


 メンゲルベルクは信頼できそうな隠れナチ残党二世政治家に自らの出生の秘密を打ち明け助力を得たり、ありとあらゆる策謀と女の武器を使いこなし、女の果実が腐り落ちる寸前の四十代後半で現在の地位を得た。


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「ポーランドとの国境に落ちた隕石を回収するわ、どんな手を使ってでもね。きっとパパならそうしたはず」


 ベッドでメンゲルベルクは決意を固めた。


「よく言った。君も知っているとは思うがヒトラーに資金援助をしていたのは私の祖父なのだよ。彼もれっきとしたシュミットバウワー家の血筋が入っている男だった。ということは私たちは血縁者にありながらセックスをしているということになる…それを意識すると背徳感で快感が増すね…うぅっ…!」


 ヤコブは笑いながらメンゲルベルクの生温かい胎内へと白濁汁を放出した。


「新しいドイツの誕生よ」


 メンゲルベルクはヤコブの男根を引き抜くと金髪と白髪混じりの陰毛の生えた襞を自らの指で押し広げ、真っ白い遺伝子の液体をヤコブの腹部へと垂らして見せた。


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 翌日――。


 ドイツ首都、ベルリン・ミッテ区国会議事堂でのメンゲルベルクによる生中継の演説は、多くのドイツ国民に「在りし日のヒトラー再来の畏怖」を感じさせ、同時に「ドイツが混迷の世界情勢を生き抜くための一筋の光」のような印象も与えた。


「かの日本政府を壊滅状態まで追いやった恐るべき力の根源が、あの川には眠っています。不死の世界。それは神からの贈り物かもしれません。しかしそれを持つ者に正しさがない場合、多くの悲劇と死を招くことになるでしょう。ポーランドは私たちを恨んでいる。過去の過ちを許さず反撃する機会を望んでいる。だからこそ核保有国であるイギリスに助けを求めたのです。彼らは正しさを失っています。持つべき者と持たざる者、その二つのうち私たちは持たざる者といえるでしょう。過去の反省を半世紀以上に渡って償えど一度貼られたレッテルは剥がれることなく、私たちに世界的弱者でいろと彼らは言います。今こそ戦いましょう。そして今度は侵略のためでなく、自衛のための聖戦を始めるのです」


 敬愛する父であるヒトラーの時代を過ち、と表現するなど不本意ではあったがメンゲルベルクはドイツ国民に聖戦の賛同を呼びかけた。


 シュミットバウワーによって買収された与野党の議員は、揃って彼女の演説に拍手する。その日の昼下がりには軍事パレードが行われた。


 その日のうちにドイツと同じくヤコブ・シュミットバウワーに買収された国――、ロシアとフランスはドイツの表明に賛同した。


「ドイツの暴走は許容できない。我々はドイツを非難する」


 そう反対の意を表明した米国とイギリスは、ジェイムズ・ゴッドスピードの息がかかっており、これは二大名家による代理戦争を意味した。


 数日後、ドイツはポーランドとにらみ合いを続ける両国・国境ナイセ川において先制攻撃をしかけ、不死隕石を強奪した。


 応援に駆けつけたポーランドの兵士が見たものは、肉片をまき散らし川を真っ赤に染めてぷかぷかと浮かぶ自国軍の兵士たちの残骸だった。


 米国とイギリスはドイツを激しく批判し、話し合いに応じない場合、核攻撃も辞さないと表明した。


 そしてもう一つの不死隕石が眠るとされるヨーロッパアルプスの最高峰モンブラン頂上にて、フランス軍がイタリア軍を制圧しそれを持って帰還したとされる旨の報道が流れた。


 フランスはすぐさまドイツ、ロシアと協定を結び、米国、イギリスとの不死隕石を巡る対立を一層、表面化させるに至った。


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 その数日後――。

 ドイツ連邦共和国ヘッセン州――。

 フランクフルト市内――。


 金色の巻き髪に、天使のような微笑みをもつ四歳の少女、エルマ・テールマンは、高層マンションの十三階のベランダに出て、眼下の建物へ手を振った。


「こら、ひとりでベランダに出ちゃダメって言ったでしょ」


 母はエルマを叱るが、優しく微笑む。


 今日はエルマの誕生日であり、常日頃から娘にお願いされていたマネキュアを娘に施してあげたばかりであった。


 やがてエルマも母が施したピンクのマネキュアをまじまじと見つめ、笑顔になる。


「これ、パパにみせたかったの」


 エルマはフランクフルト証券取引所に勤めている父を思い、はしゃいだ。


「パパはお仕事中よ、エルマのことに気づいてないわ」


 母は優しくエルマの髪を撫でる。


「パパいってたわ。せんそうになるの?」


 エルマの問いかけに、母は何と答えていいか分からず、笑顔を凍り付かせる。


「戦争にならないように、これから偉い人たちが話し合いをするのよ」


「ふぅん」


 雲一つない青空に向かってエルマは思いを馳せた。


 パパはテレビに映し出された偉い人の言葉を聞いて深く頷き、今こそ我が国がすべきは国防のための聖戦だと言っていた。


 無論、エルマにその意味など分からない。


 だが、あの日を境に街の空気や大人たちの表情に変化があることくらい気づいている。


 パパによると、まだ戦争は始まっていないらしい。


 国境の川で小競り合いがあって、何人かのポーランド人兵士が死んだと言っていた。


 パパは大切なものを守るためには争いと死は必然だと豪語し、ママに窘められていた。


 言っている意味はさっぱり分からなかったが、その時のパパはいつもより怖い顔をしていた。


 だからこそエルマは、ママに塗ってもらった可愛いマネキュアを見せて、パパに喜んでもらいたかったのだ。


「あ、飛行機だぁ」


 エルマは母に抱き抱えられながら、空を飛翔する黒い陰を指さした。


「エルマ!こっちへ来なさ…」


 そして次の瞬間――、


 鼓膜を破くような轟音と、巨大なコンクリートの塊が二人の目の前を塞ぎ、エルマとその母を一瞬にして押しつぶした。


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 フランクフルト市内の街は半分が瓦礫と化していた。

 ポーランド政府がドイツに宣戦布告したのはほぼ同時であった。


 つい先日ポーランド政府がアメリカのFー35戦闘機を三十数機購入したというニュースが世界を駆けめぐったばかりであったが、それを即座に使うなど誰が予想したであろう。


 ポーランド軍は、国境での小競り合い及び不死隕石の奪取をドイツによる侵略行為と認識し、先手を打ったのだ。


 フランクフルトに集中した超高層ビル群――、ドイツ大手の銀行タワー、オフィスビル、放送タワー、富裕層が居住するマンション、資本主義社会の象徴たる建物は重点的に破壊されており、そこかしこで血の煙が舞い上がっている。


「マリア様…もうそろそろ宜しいのでは」


 執事に声をかけられながら、瓦礫の山を散策する女がそこにいた。


 欧州シュミットバウワー家当主であるヤコブ・シュミットバウワーを父に、金やダイヤモンド、レアメタルなど地下資源を牛耳る南アフリカ一の権力者の娘を母に持つムラート、マリア・シュミットバウワーことカラーレスである。


「まだまだ、見たいものが沢山あるのぉ」


 カラーレスは漆黒の肌に映える真っ赤なドレスを纏い、その裾を広げて右手人差し指を陰部に潜り込ませる。


「あはは…気持ちいい」


 カラーレスこと、マリア・シュミットバウワーは幼い頃、東アフリカのナイジェリアで誘拐されたことがあった。


 父母が現地の資源を調査するために足を運び入れた先で、政府要人が射殺されボディガードも瀕死の状態の中、幼いマリアだけが両親の目の前で多額の身代金を目的として連れ去られたのだ。


 結論から言えばその一週間後、マリアは身代金と引き替えに無傷で解放されたのだが、彼女の瞳はガラス玉のようにすっかりくすんでしまっていた。


 原因はマリアを連れ去った無政府主義者たちが、ほんの戯れで幼い彼女に銃を持たせ、捕縛した者たちを射殺するよう命じたことにあった。


 彼らにとっては戯れにすぎなかったのだろうが、それ以来、マリアは心の奥底に巨大な怪物を飼い始めることとなる。


 成人したマリアは、自分が人が悪意をもって人を殺す現場でしか心を刺激されない体質であることに気づき、極秘ルートで接触した東アフリカの犯罪組織に大金を握らせ、彼らが行う「処刑」に立ち会いさせてもらったりした。


「…やっぱり、核攻撃あとのパキスタンに比べたら濡れない…あら、可愛いの見つけた」


 自慰行為をいったん中止したカラーレスは、ピンクのマネキュアをした幼女のものらしき千切れた腕を瓦礫の中から持ち上げる。


「…せっかくお洒落したのにグチャグチャにされて残念ね…」


 するとそれに絡みつくようにして、少女の母と思しき女の手首までもが芋蔓式に現れた。


「罪もない母娘の命がここで散ったのね。小さな不幸もたまにはいいわ…あっ、ヌルヌルになってきたぁ…あはっ」


 カラーレスは満足そうに頷くと、そこかしこで繰り広げられる半死半生の者たちの助けを求める呻き声と、彼らの家族たちの悲鳴を聞きながら自慰行為を再開した。


「もっともっと争って、死んでちょうだい」


 やがて陽が落ちると空は血の色に染まり、カラーレスの狂ったような笑い声だけがフランクフルトの夕闇を切り裂いていった。


 そしてその夜――。


 不死隕石と共にドイツ国内の地下施設へと姿をくらまし難を逃れたドイツ首相のメンゲルベルクは、インターネットを使った緊急会見を開き、ポーランドへの報復を表明。


 全世界に向け、隕石の所有権をより一層強く主張した。

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