第48話 それぞれの腐った野望

 米合衆国・レナルド・トンプソン副大統領は、野心家である。あと数年で八十歳に手が届きそうな今も、その上昇志向の炎が絶えることはない。


 すべては亡き父の言葉――。


「とれるものはすべてとれ。しかし他人には与えるな。奪われるな」


 その教えが根底にあった。


 一九〇〇年代初頭――。


 レナルドの父であるチェスター・トンプソンは四十代半ばで弁護士の仕事を捨て、オクラホマ州に移住し、石油会社を設立した。


 当時の石油ブームに肖り、一代で財をなしたチェスターはその後の世界恐慌を強かに生き抜き、第二次世界大戦が終結すると、その数年後にサウジアラビア、イラン、クウェートで油田開発に取り組んだ。


 一九五〇年代には石油業、ホテル経営含めて五十社を保有するまでに至り、巨額の富を得たチェスターではあったが、プライベートは順風満帆とはいえなかった。


 それまで四度の結婚を経験したが、なかなか子供に恵まれず、ようやく五度めの結婚で第一子となるレナルドが生まれた時にはすでに七十歳に手が届きそうな年齢になっていた。


「いいか、レナルド。わしには欲しいものがまだまだ沢山あるぞ。金で大抵のものが買える立場だからこそ、人々からの尊敬という金では買えないものが欲しくなる。お前も死ぬまで貪欲でいろ」


 チェスターは常々、曾孫ほど年の離れた一人息子にそう言い聞かせた。


 それから数十年の時が流れた。


「わ…わしは、ま、まだ欲しいものがある…だ、大統領の座だ」


 齢(よわい)百歳を越えてなおその欲望は衰えることなく、最期の瞬間にあっても父は譫言のように夢物語を唱えていた。


「父上の事業は私が受け継ぎます。そしていつか大統領の座も」


「あ…あと、十年…寿命が…欲しかった」


「父上の分も、必ず私が長生きします」


 レナルドの言葉を聞き終えると父は微かに笑みを浮かべ、涙の粒をこぼすと静かに息を引き取った。


 それが一九七五年――。


 レナルド・トンプソンが連邦下院議員選挙に初勝利するちょうど十年前のことである。


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 米合衆国・メリーランド州ベセスダ――。

 米国立老化研究所――。


 国立衛生研究所の傘下にあり、老化の本質の研究解明を主とした研究所である。


 研究所の奥――、他の部屋から遠く離れたその「特別室」には一人の東洋人男性が繋がれており獣のようなうなり声をあげていた。


「これが不死の人間の生体か。まるで映画やコミックのようだがこれを中心に世界が右往左往しているとなると笑い事ではないな」


 レナルド・トンプソン副大統領は、血塗れのその部屋でいくつもホルマリン漬けにされたその男の頭部や手足、内臓の数々を見ながら顔をしかめる。


「彼の細胞を調べたところ、損傷の回復以外にも老化の発生が見られません。ラパマイシン、メトホルミン、レスベラトロール、MNMを越える抗老化作用が期待されます」


 研究所の責任者が資料をめくりながら答えた。


「悠長に研究を進める時間はないのだよ」


「と、いいますと?」


「君も知っているだろうが、あの男の名は通称パープル。日本を壊滅に追い込んだ黒亥子の一人だ。関係者の私怨で日本の田舎町を襲撃したため、その存在は知られておらず、秘密裏に日本政府から引き渡されたものだが、表向きは隕石保有国に対し和平のための放棄を呼びかけている米国としては、彼という存在を保有しているという事実こそがまずい」


 トンプソン副大統領は眉間に皺を寄せて咳払いをした。


 癖の強い金髪と恰幅のよい体つきのため、年齢の割には病弱な老人には見えず、言うなれば不機嫌さを纏った大富豪の初老の紳士といった風情だった。


「では彼を処分するのですか」


「いや。彼は切り札だ。隕石が落下していないこの米国にとっての切り札なのだ。他国が牙を剥いたときにこそ、パープルの存在が我が国の強みとなる」


「では先ほど仰られた、研究を進めることへの懸念は」


「私はこう言ったのだよ。悠長に研究をしている暇はないと。彼を保有するリスクを抱えている以上、早期のリターン回収が不可欠なのだ。十二月の会談で最悪の結末が出たときのために、我々の強みとして不老不死研究の大きな成果が欲しい」


 トンプソン副大統領は唸る。


 かの中華人民共和国は、軍部による中央政府へのクーデターに際してその研究結果の大半を証拠隠滅してしまい、研究者は亡命した一部を除き大半が一夜のうちに処刑され、不死研究のステージは振り出しに戻ってしまったといえる。米国としては中国をなだめすかしても得るものが少ないというのが泣き所だった。


「お前ら隕石保有国に比べ、米国の不死研究はここまで進んでいるのだ。白旗をあげろ」


 理想を掲げるならば、交渉決裂の際のカードとしてこれ以上の脅し文句は存在しない。平和主義者のオブライアン大統領にはなしえない、強気な外交戦略がトンプソン副大統領の頭の中に存在していた。


「チャイナにできたことが、我らにできないはずがありません。お任せを」


 責任者は薄くなった頭頂部を下げると持ち場に戻っていった。


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 研究所を後にしたトンプソンを乗せた高級セダンがヘッドライトを輝かせる。


 薄暗い空では月と太陽の残骸が生き残りをかけて争っていた。時計の針は六時半を過ぎている。闇の首長として月光が勝ち名乗りをあげるまで時間の問題といえた。


「本当にパープルだけが我々の切り札なのでしょうか」


 運転席の秘書が背後のトンプソンに話しかけてきた。


 彼とは四半世紀を共にしており、隠し事の一切がない関係であるため、秘書でありながら運転手を兼任させている。


「そんなはずがあるまいよ。まだあるだろう?」


 トンプソンは大げさに笑った。


 質の悪いジョークを咎められたコメディアンのように秘書は表情を失う。今度は彼が何かを考える番だった。長年仕えてきた主の思惑を見抜けないようでは第一秘書の名が廃る。


「宇宙兵器…神の杖…ですか」


 秘書の問いかけにトンプソンは過剰に頷いて見せた。彼も秘書が愚鈍でないことを再確認できて内心、喜ばしく思っているのだ。


「米国最大の軍事企業アウグスティン社CEOマイケル・ホワイトことドールアイズ。奴が巨額の私財を擲って宇宙に放ったあれがようやく我が国の切り札として使える」


 米合衆国政府は長年、ドールアイズの神の杖の開発、発射を黙認してきた経緯がある。


 米国は一九六七年における「月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用における国家活動を律する原則に関する条約」に署名したことにより、国家として表だって宇宙兵器を開発、発射することができない事情があった。


 だが小型核爆弾を大量に搭載した「神の杖」を一個人の私的凶行として開発、発射させ事後に正義の名の下でそれを奪えば、表向き条約違反とはならない。


 もちろん最終的な目的は、奪った神の杖を宇宙の藻屑として破棄することなどせず、様々な大義名分、お題目を並べ立て「神の杖」を自国の軍事力、外交カードとして利用する事にある。


 大富豪による民間宇宙開発が盛んな昨今において、これ以上に円滑かつ狡猾な戦略はないといえた。


「国益であれば悪も悪ではない」


 トンプソンはどこまでも貪欲な愛国者だった。


「隕石保有国が十二月の和平条約に応じ、隕石を放棄した場合はどうされますか。オブライアン大統領はそれを望んでいるようですが」


「それならそれでいい。不死隕石が存在する前の世界に戻れるならそれに越したことはない。だがそうならない確率の方が圧倒的に高い。」


 秘書からの問いかけに、トンプソンは確信のこもった口調で言い放った。


「世界は長期的な利益、または長期に渡る不利益よりも、目先の恐怖、目先の利益に目が眩んでいる。日本政府の失墜とインドによるパキスタンへの核攻撃がそれに拍車をかけた」


 窓から差し込むネオンの明かりが年老いた副大統領の頬を照らす。


 トンプソンはこの年まで大統領の椅子に座ったことがない。ある時は邪魔が入り、ある時はまだ時期尚早だと自分に言い聞かせ、大統領戦の出馬を見送った。


 だが今だからこそ、分かることがある。夢は掴むまでがエネルギー源だということだ。


 大統領になれば、それ以上の欲望が見つからなくなってしまう。故に父に誓った「長寿」の夢を果たすことなく、男として、人間としてその生を全うしてしまうのではないかという危惧がトンプソンの中に漠然と存在し、彼を大統領以下の立場に甘んじさせてきた。


 しかし不死隕石というものが世界に飛来してしまった今こそ、さらなる欲望への枯渇、欲求の誕生が望めるとトンプソンは踏んだ。


 トンプソンは「もうそろそろ、大統領になっても良い頃合いかな」と考える。


「別の見方をしてみようか」


 トンプソンからの提案に秘書は目を丸くした。


「君が言うように隕石保有国が和平に応じた場合のルートで考えてみよう。各国が冷静さを取り戻して話し合いで解決する場合、不死隕石の共有が絶対条件になるはずだ。そうすれば新しいパワーバランスが生じてしまう。富裕層や一部の頭脳労働者が永遠の命を得る。そしてそれが恒久的な価値を帯びれば一般人、軍人にも適用されはじめるだろう。その時点で一瞬にして大勢の命を奪う神の杖のインパクトは薄まってしまう。米国の売りである絶対的暴力による優位性が薄れてしまうのだよ」


「なるほど。その通りです」


 秘書は溜飲を下げた。トンプソン副大統領はオブライアン大統領の意向を支持し、十二月の会談を成功させようと表向きは動いているが、実のところ最悪の事態を想定して次の手を打っているのだ。


「ドールアイズから神の杖を奪い、切り札として使うべきは不死隕石の所有国が安定する前の今しかない」


 トンプソンは笑った。


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 数日後――。


「先ほどオブライアン大統領が死にました」


 電話の主はそう言った。


「もうじきそちらにも連絡がいくでしょう。おめでとうございます」


 向こうではけたたましいサイレンが鳴り響いている。


「ご苦労だった」


 ガウン姿のトンプソンは、超高層ホテルの窓から百万ドルの夜景を見下ろしながら笑みを浮かべた。


「だが、伝えるときは言葉を考えろ。どこで誰が聞いているか分からん」


「失礼しました。トンプソン大統領」


「口の減らないやつめ」


 トンプソンは舌打ちしながらも頬が緩むのを自覚していた。


「前金でいただいた分の三倍を振り込んでおいてください。今回、オブライアンと共に自爆した男娼には家族がいます。彼らが一生、生活できる分を」


「分かっている。ところで…オブライアンはどんな最期を迎えたんだ」


 質問された男は電話口で忍び笑いをする。


「直前までの会話傍受によると…オブライアン大統領…いや…前大統領は、最期の最後まで電動式玩具を菊門に突っ込み絶頂に達していました」


「そうか」


 激務のストレスからくるオブライアンの男漁りはホワイトハウス警護たちも容認しており、高級男娼が頻繁に出入りしていた事実があった。


「裏門から出入りする白人の美少年を招き入れたが最期。彼の直腸には爆弾が仕込んであったわけですからね。攻守交代でオブライアンが美少年の菊門を攻めたとたんに爆発…まさに彼は自ら人間ロケットのスイッチを入れた。すべて貴方の思惑通りです」


「言葉が過ぎるぞ」


 トンプソンは語気を強め、電話口の男は言葉を呑み込んだ。


「もう一人の標的はうまく狙えるか」


「マイケル・ホワイトのことですか」


「奴はとんでもない玩具を持っている。それこそ我が国の勝敗を大きく左右するものだ」


「神の杖ですね」


 男の声から緊張が伝わってくる。


「奴は私の思惑以上に、大きな怪物へと進化した。二十数年前、お前に初めて依頼した仕事を覚えているか」


「アリシア・ディズリー。忘れもしません」


「彼女はあの戦争の本質を見抜いていた。故に当時、中東に多大な石油利権を持っていた私としては彼女を消すほかなかった」


 当時すでに上院議員第一位の資産家であったトンプソンは、自らの政治資金源でもある亡父から譲り受けた石油業による資産を失うことを恐れ、米国による中東問題介入に賛成の立場を示していた。


 そしてクウェート人少女による虚偽証言のプロパガンダを思いつき、秘密裏に計画を実行に移させたのだ。


 すべてが順調にいきかけた直後に虚偽報道を暴こうと動いたのがアリシア・ディズリーだった。


 トンプソンは彼女を始末すべく、裏社会のツテを辿り男に依頼をかけた。


「彼女をすぐに殺さず、激しい拷問の末に解放せよと貴方から命じられたときは私が雇った六人の男たちも目を丸くしていましたよ。まぁ彼らとて次第に拷問そのものを楽しむようにはなっていったんですがね…」


「すべては奴を怪物へと育て上げるための材料だった。そして彼女が死んだ後、すべて私の思惑通りに進んだ」


「奴がアリシアの死によって平和に目覚めてしまうリスクは考えなかったんですか?」


「それはないな」


 トンプソンはワインを飲み干し、笑った。


「彼の決して幸福とはいえない過去を徹底的に調べ上げ、財力、行動パターン、思考パターン、心理分析すべてを行った結果に導き出されたのが今の状況だ」


「さすが心理学科博士号」


「戯れはもういい。さっさと奴を捕らえろ。そして神の杖の操作方法を吐き出させ始末しろ」


 男は電話口で忍び笑いをする。


「神の杖を奪われるくらいなら、奴は自殺しますよ。一部情報によると奴が心臓を停止させれば神の杖は自動運転に切り替わるとか」


「だからこそ捕らえろと言っているのだ。なんなら奴が大人しくなるように奴の愛する者を拉致し、拷問してやれ。青春時代の悲劇であるアリシア・ディズリーのことを思い出すようにな。そうすれば奴は傀儡となる」


「奴に愛する者などいるのでしょうか」


「調査不足だな。私からは敢えてヒントは出さんぞ」


 トンプソンは笑った。男は電話を切った。


 ホテルのベッドでは全裸の女たちが手招きしている。そこには白人に黒人、東洋人もいた。トンプソンはガウンを脱いでその肉の池を優雅に泳いだ。


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 さらに数日後――。


 晴れた日差しとどこまでも透き通る青空に、空軍による哀悼の意を込めた飛行機雲が浮かんでいた。


 ホワイトハウスの前には山ほどの花束とメッセージカード、在りし日のオブライアン大統領の笑顔が納められた大きな写真が飾られている。


 オブライアンが肉片となった大統領執務室は未だ黒こげのまま。世界各地から報道陣が詰めかけては、国防省(ペンタゴン)からの新しい情報の発表を犬のように待っていた。


「お待たせ。今日という日を平和の始まりとしたい」


 上等なスーツに中年太りの体躯を包み込んだ老紳士が現れ、記者たちはマイクを彼に向け、カメラマンはシャッターを切った。


「まずはオブライアン前大統領に、心から哀悼の意を表する」


 白い歯を剥きだして笑うのは、つい先日宣誓式を終えたばかりのトンプソン大統領だった。


 現職の大統領が死亡、または辞職、免職された場合において、副大統領兼上院議長が大統領権限第一継承者となり、速やかにそれを遂行しなければならない。


 混乱の中で生まれた新しいリーダーに対して大方の報道陣が哀れみの視線を投げかける中、トンプソンは大仰な仕草、大統領としての威厳、どれを置いてもある意味、オブライアン以上の米国大統領に見えた。


「この度のオブライアン前大統領の暗殺の犯人だが、大方の予想はついている」


 トンプソンは早々に核心部分を語った。


「中東のテロリストですか」


「違うな」


 質問を投げかけてきた女性キャスターの胸から腰回りを舐め回すように見たあと、トンプソンはウィンクする。


「ここ最近、世界を取り巻いている新たな驚異、不死隕石。我が米合衆国はそれを保有、または国境地帯に置いたまま膠着状態にある各国に対して隕石の放棄を呼びかけた。だがその提案に乗り気でない国がちらほら散見されることをオブライアン前大統領は嘆いていた」


「では、隕石保有国からの差し金であると?」


 女性キャスターは食いつく。トンプソンは乾いた唇を舐めるようにして言葉を続けた。


「まだ確定ではない。だが予想はついている」


 トンプソンは人差し指を立てて、ゆっくりと言葉を繰り出す。


「ここから先は米合衆国と、反米国との戦いだ。いいか?我が国最良の指導者であり、我が最愛の友人であったエイブラハム・オブライアンを死に至らしめた国を、私は、絶対に、許さない」


 恫喝めいた言葉に報道陣は静まりかえる。そして静寂の後に激しいシャッター音と質問責めがトンプソンを直撃した。


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「君たちをここへ招いたのは他でもない。どうだった?大統領としての私の初仕事は」


 トンプソンは待たせてあったリムジンに乗り込むと、その助手席に座る東洋人の親子三人に目を向けた。


「本当にオブライアン大統領は他国からの刺客に殺されたのでしょうか」


 車の発車と同時に、東洋人親子のうちの父親が口を開く。


 韓国訛りのある英語を話すのはキム・ビョンドク。またの呼び名をアダムと言った。


 一見うだつのあがらない中年男ではあるが、キムは中国共産党主導による梅島・不死研究実験の成功例第一号であり、日本を壊滅に追いやった黒亥子(ヘイハイズ)は皆、彼の細胞株を移植された者たちだった。


「元・大統領だ。そしてその質問には答えられない。立場をわきまえろ」


 トンプソンの言葉にキムは黙り込む。不死身といえ気の弱い男なのだ。眼鏡の奥では小さくなった目が宙を泳いでいる。


「君たちの安全は米国が保証する。その代わり、十二月の会談において不死隕石放棄条約が決裂した際、またパープルによる結果が思わしくない場合…キム…いや、アダム。君には梅島での出来事と、不死の肉体を持つ苦悩を証言して欲しいのだよ。米国内、そして世界に向けてな」


「世論の煽動ですか…戦争を始めるための」


「いやそれは違うな。言うなれば、人類が愚かな道を歩まぬための反戦キャンペーンだよ」


「中国の若者…パープルの実験結果がうまくいった場合、どうするんですか」


 そう言ったあと、キムは再び黙り込む。


「感謝してほしい。君には彼と同じ道を歩ませていないことを」


 そう言いながらトンプソンはキムの一人娘の頭を撫でた。


 娘はキリンのキーホルダーを握りしめたまま、トンプソンを見上げた。


「おじちゃん、見て見て。パパキリン、ママキリン、コドモキリン。これ三つ持ってればもう家族がバラバラになることはないんだよ」


「可愛いお嬢ちゃんだね。私にも娘がいる。娘というのは父にとって永遠の恋人のようなものだ」


 トンプソンの言葉にキムは頷く。


 娘を抱きしめるキムの妻。キムは二人を見て深いため息をついた。


「もうお為ごかしは止めよう。隕石保有国の出方次第では、米国は立場を一変させ実力行使も止むなしと考えている」


「それでは世界は…」


 トンプソンは人差し指を立てて、キムの言葉を遮った。


「君は世界を救うヒーローにはなれないが、家族を守る良き父にはなれる。それでいいだろう」


 キムはもうそれ以上、何も言わなかった。


 そしてその瞳は深遠たる寂寞を帯び始め、ゆっくり地の底を見つめるようにして落ちていった。


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「はじめまして大統領」


 先日、改修工事が終了したホワイトハウスの大統領執務室にやってきたのは、中央情報局諜報員シンシア・ディズリーだった。


「よく来てくれたな。オブライアンから命じられた神の杖奪還計画については引き続き任務を遂行したまえ」


「マイケル・ホワイトは世界情勢を鑑みて、神の杖の行使を早めようとしています」


「それはまずいな…」


 トンプソンは書類にサインする手を止めて唸る。


「シンシア・ディズリー。君は二十三歳のとき姉上の死の真相を暴くためCIAに入局したものの、マイケル・ホワイトの恐るべき計画を知ることとなり、現在はその凶行を阻止しようと奔走している…」


 シンシアはそれに何も答えなかった。


「姉上を殺した黒幕にはたどり着けたかね」


 トンプソンは射抜くような視線をシンシアに投げかける。


「いいえ。今となってはそのような事に関心はございません。世界はあの男によって脅威に晒されております」


「君は優等生だな。あの男に近づくため実行犯六人を特定したそうじゃないか」


「姉は復讐など望んでいません」


 シンシアはトンプソンの視線をまっすぐ受け止めた。


「君をマイケル・ホワイトに近づけるため政府はシャーロット・デイヴィスという架空の人物の戸籍を作り上げた。出身地も年齢もまるで違う。君はそれにあわせて若干の整形手術を受けたようだね」


「大したことではありません」


「単刀直入に言う。米合衆国は神の杖を必要としている。会談が行われる十二月までにだ」


「存じております」


「あの男から神の杖を奪うには何が必要だ」


「あの男にとって人類七十億の命よりも重いものです」


「そんなもの、存在するかね」


「亡き母、亡き恋人…あの男の大事なものはすべてこの世界から消滅しています」


 トンプソンは深いため息をつく。シンシアは表情一つ変えずトンプソンからの次の言葉を待った。


「時間はまだ少しある。マイケル・ホワイトの泣き所を探れ」


 シンシアは一礼すると大統領執務室を去った。


「いい女じゃないか…アリシアにもどことなく似ている」


 トンプソンは邪悪な笑みを浮かべ、シンシアの残り香を嗅いだ。


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 ロシア――。

 ヴォルゴグラード州――。


 第二次大戦末期、ナチスドイツ軍を破ったスターリングラード攻防戦勝利を記念して建造された母なる祖国像――。


 それを遠くに望む高層マンションでその男は欠伸をした。


 男の名はエフィム・バザロフ。


 ロシアの資本主義化の過程で形成された政治的権力すらも有する新興財閥(オリガルヒ)である彼は、ロシア最大級の民間石油会社スパシーバ・オイルのCEOという肩書きを持っていた。


 エフィムはベッド脇のスマホの振動に気づき、通話ボタンを押す。


「もしもし」


「ヤコブ・シュミットバウワーと約束を取り付けた。明日の昼十二時だ」


 通話の相手は、ウコーロヴナ・プチョールキン大統領だった。


「一時間前には来い。いつもの調子で遅刻だけは絶対するなよ」


 プチョールキンはそう言うと、一方的に電話を切ってしまった。


「ったく、勝手なんだから…」


 エフィムはため息をついたが、二〇〇七年に始まった世界金融危機以来、政府資金による救済で自社は何度も息を吹き返してきたという経緯があるため、今は国家元首たるプチョールキンに従うしかなかった。


「とはいえ…シュミットバウワー家と正式に約束を取り付けられれば…」


 エフィムは薄い笑みを張り付けたまま、遠くで剣を構えた母なる祖国像を眺める。


 この国には寒さという強みがあった。


 古くは十九世紀初頭。ナポレオン一世率いる四十万の軍勢からなるモスクワ遠征――、近代ではスターリングラード攻防戦――。


 極寒の地は防壁となり、あらゆる外的からこの国を護り続けてきた。


「この恵まれた環境、不死身のロシア兵を破れる国などない」


 エフィムはこれまで国益に反するものをプチョールキンに密告し、何十人、何百人と始末してきた。


 人はエフィムを大富豪ではなく、処刑人だと揶揄する。


 生まれついた孤児という環境からか、運良く資産家の養子となったあともエフィムの上昇志向は止まることなく、現在の地位にたどり着くまで政財界から裏社会まで幅広く渡り歩いてきた。


 大金を動かすときも、人を殺すときも、常に彼は笑顔だった。


 エフィムの裏の顔を知る数少ない者たちの証言によって、やがて「顔のない男」=「ノーフェイス」という異名がつけられるようになった。


「そのうち顔を取り戻すさ」


 エフィムは誰にともなく呟く。


 自らが世界権力の中枢に食い込むその時こそ、心から笑える――。


 そんな気がしたからだった。


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 翌日――。


 モスクワの高級ホテル最上階レストランに、プチョールキン大統領と供にエフィムはいた。


「君らも知るところだろうが、オブライアンが暗殺され、新しく米合衆国大統領となったトンプソンは隕石保有国に圧力をかけはじめた…」


 二人の前で、欧州シュミットバウワー家当主ヤコブ・シュミットバウワーが熱々のジンギスカンを頬張りながら言い放つ。


 ヤコブは十九世紀末の英国紳士じみた口髭とカールされた前髪が特徴的な男で、エフィムは内心彼を「温室育ちのスターリン」と名付けていた。


「…トンプソンは、あのジェイムズ・ゴッドスピードと繋がっている。私としてはやっかいだ」


 ヤコブは鷹のような目でエフィムとプチョールキン大統領を睨んだ。


 シュミットバウワー家とゴッドスピード家は世界を二分する大富豪の名家であり、常に両者は世界の覇権を争って戦ってきた経緯がある。ヤコブが躍起になるのも無理はなかった。


「存じております。我々ロシアも水面下でそれなりに動いております」


「私がロシアまで足を運んだ理由を理解してくれているようだね」


「あなたの支援なしではロシアがうまく立ち回れないことは存じておりますゆえ…」


 エフィムの隣で、プチョールキン大統領が上等なシルクのハンカチで薄くなった頭頂部から流れ出る汗を拭った。


 国内外では強面で通っている筋肉質なこのリーダーとて、目の前の世界第二位の富豪一族当主を前にして萎縮していることが可笑しく、エフィムは笑いを堪える。


「あの~…。話は変わりますけど、あなたの娘さんと僕はいい関係ですよ?」


 隣に座るプチョールキン大統領がわき腹を小突くが、怖いものなしのエフィムは笑顔でヤコブの反応を待つ。


「ふん。娘が食べたフランクフルトなど星の数ほどある」


 案の定、ヤコブは些かも動揺を見せる素振りはなかった。


 事実エフィムは、いつぞやのオーステルベーク会議で、このヤコブ・シュミットバウワーを父親に、金やダイヤモンド、レアメタルといった地下資源を牛耳る南アフリカの権力者一族の次期当主を母親に持つムラート(白人と黒人の混血)――、女傑カラーレスとベッドで関係を深めた。


 すべては梅島に落下した不死隕石をめぐり、将来的に圧力をかけてくるであろう米国に対抗すべく、ロシアと中国、南北の朝鮮、ヨーロッパ間の均衡が重要だと感じたための作戦であったが――、中国の暴走に端を発し日本政府崩壊に至る現状、その思惑も水泡と帰してしまった。


「娘さんの話はそれくらいにして…本題に行きましょう。とある事情から我々は隕石保有国よりも先に不死兵士の研究を進められると確信しています。中国がつくりだしたものを完璧に再現できるといっていい」


 プチョールキン大統領が話題を変える。


「隕石保有国であるパキスタンはすでに、亡命してきた中国の研究者を何人か招き入れてると聞いたが」


 ヤコブは口元をナプキンで拭いながら、鷹のような鋭い眼差しをプチョールキン大統領に向けた。


「彼らは研究内容の全貌が分からないようセクションごとに分けられていたようです。中国政府がデータを破棄した今、イチから結果を出すには時間がかかるでしょう」


「ほう。その自信はどこからくる」


「現物を手に入れたんです…」


「どういう意味だね?」


「…中国から日本を壊滅させるために派遣され、途中で離脱し逃亡した不死の細胞を持つ少年たち十名を、日本の警察や米軍が押さえる前に我々ロシアが手中に収めました」


「日本政府が必死に追っている行方不明の黒亥子(ヘイハイズ)十人組のことか。潜水艦でも使って拉致したのかね。まるで北朝鮮のようだな」


「ウナギ、コーラ、ヤキニク…名前を持たない彼らはそんな風に互いを呼んでいるようですが…我が国の研究施設は彼ら一人一人に気が遠くなるほどの実験を繰り返しています。おそらく不死人間の再現性は年末までには高まるかと」


 ヤコブからの揶揄など気にすることなくプチョールキン大統領は今後の展望を語る。


「確かに、中国政府にできて君らロシアにできないことはない」


 ヤコブは咳払いをした。


「だが、君らにできることは米国政府もできるだろう」


「承知しております」


 米国は日本政府から秘密裏に、第一の不死人間アダム、および不死の黒亥子(ヘイハイズ)を譲り受けていることは確実だった。


 不死の人間を手に入れたからといって浮かれていられないのが現状といえる。


「ヨーロッパにもいくつか隕石が落ちたのは知っているね」


「フランスとイタリアの国境に位置するヨーロッパアルプスの最高峰モンブランの頂上に落下した不死隕石を目指し、両国の兵士が秘密裏に銃撃戦を行っていると聞きました」


「ほかにもドイツとポーランド国境に位置する川にも隕石が落ちた。歴史的にも緊張感のある両国はとりあえず川の周辺に監視体制を敷くことで膠着状態となっているが、ポーランドはいつドイツが本性を出すかと怯え、核保有国であるイギリスに助けを求めだしている」


 言い終えたヤコブはジンギスカンの骨を赤ん坊のようにしゃぶり出す。


「EU…欧州連合も崩壊寸前ですね」


「あえて言おうか…私は他の国々にも粉をかけているのだよ。先に結果を出した国を支援すると」


「理解しています。世界経済が崩壊する前にあなたは最大の結果を残したい。つまり勝ち馬に乗るのではなく、このレースの主催者になればいいだけのこと」


「君には焦ってほしい。ほかの国々が結果を出す前に」


「心得ております」


 プチョールキン大統領は再びハンカチで汗を拭った。


「ところで…娘さんは今の状況についてなんと?」


 エフィムは会話に割り込んだ。


 テーブルの下でプチョールキン大統領に足を踏まれたがお構いなしに身を乗り出す。


「マリア…君らにはカラーレスと呼ばれているらしいが、あの子は地獄絵図が見たいらしい。金では買えないものといえば人の凄惨な死しかないと…先日も核攻撃をされたパキスタン現地へヘリで飛び現地視察をしたそうだ。理解しろとは言わないが、あの子は幼少時代に特殊な経験を経て壊れてしまったのだよ…」


 ヤコブの顔に少し翳りが見えたものの、すぐに消えた。


「僕やカラーレス、今は亡きチェルシースマイル、そしてシャカにドールアイズ。この五人が世界をひっかき回す五大裏権力者(ファイヴ・フィクサー)と呼ばれているのはご存じですか?」


 エフィムは他のプレイヤーの面々を思いだし、彼らは今後どう動くだろうかと考えた。


「シャカはパキスタンに落ちた不死隕石を追ってるらしい。なんでもパキスタンの大統領は隕石ごと中東へと亡命し、隕石の共有と引き替えにインドへの報復を提案しているらしい。インドがそれを許すはずはない。おそらく年内には中東でインド産の核の炎が吹き上げるだろう」


 食事を終えたヤコブは、英国産の上等な紅茶を啜る。


「米国の狂犬ドールアイズはどうでしょうか」


「彼はとんでもない玩具をもっているね。君もよく知るところだろう?」


 宇宙兵器――、神の杖。


 小型核爆弾を無数に搭載し、地上からの操作で世界中至る場所へと核攻撃をしかけることができる恐るべき兵器。


「数年前、モスクワで彼と口論になり喧嘩別れした数日後、チェバクリ湖でジョギングしてたら、神の杖で殺されかけましたよ。もちろんそのときは核ではなくテスト用の爆弾だったので九死に一生を得ましたけどね」


 エフィムはジョギング中にすぐ後方の木々が吹っ飛び、その爆風で宙を舞った経験を思い出し苦笑いした。今思えばあの時は衛星モニターの精度が今ほど高くなかったため、命拾いしたといえる。


 ちなみに当時、騒動を聞きつけた各国のマスコミが現地に押し寄せ、


 二〇一三年、二月十五日――。

 米国からロシアへ、宇宙兵器による複数箇所への攻撃か――、

 ロシア当局は隕石と発表――、真偽はいかに?


 という記事を世界中に発信し、人々は馬鹿らしいと笑い転げて真剣に取り合わなかったものだが、これぞ「真実とは意外なところに紛れ込んでいる」という典型的な例かもしれない。


「個人的恨みからそれを行使する稚拙さと狂気を彼は持っている。ドールアイズは最も警戒すべき人物だ」


 ヤコブはティーカップを静かに置いた。


「米国政府は神の杖の開発を黙認し、民間宇宙開発に見せかけ発射させたのでしょう。トンプソン大統領があれを奪うのも時間の問題です」


 エフィムの言葉にヤコブは苦々しく頷く。


「世界中から手練れの暗殺者を仕向けたが悉く失敗している。今となっては下手に刺激しないよう距離を置いてるよ。むしろ米国政府がドールアイズから神の杖を奪ってくれた方がまだいいと考えるようになった。不本意ではあるが、狂った個人よりも傲慢な米国政府の方がまだ理性があるからね…あ、いや…今のは冗談だ。ゴッドスピード家の息がかかった米国にイニシアチブを握られる未来など私にとって最悪なものだからね」


ヤコブの瞳が憂いている。世界皇帝と呼ばれる名家が二つあることを嘆いている。


「…いずれにせよ、我が国は不死の研究を成功させ、ヤコブ様にも満足していただき、国家としても繁栄していく所存であります」


 プチョールキン大統領が会話に割り込み、そう総括した。


「いいパートナーでいられるよう頑張ってくれたまえ。勝者さえ決まれば、ヨーロッパにおける他の隕石保有国に私の力を持ってして制限をかけることができる。米国とて不死身のロシア兵を前にすれば白旗をあげるだろう」


 ヤコブは労いの言葉と共に手を差し出した。


--------------------------


 モスクワ――。

 ロシアの最高学術機関・ロシア科学アカデミー。


 ロシア連邦全土の学術研究機関を包括するこの巨大な建物の地下に、ウナギたち十名の黒亥子(ヘイハイズ)たちは捕らわれていた。


「みんな…」


 ウナギは声を絞り出す。


 喉が焼けるように乾いていた。口の中が塩辛い。楊が食わせてくれた故郷の料理が懐かしかった。


「求めよさらば与えられん」


 蘇生するたび頭の中で繰り返された「謎の響き」が、ウナギの中で形ある言語となって久しい。


「求めよさらば与えられん」


 意味は理解できないが、内なる巨大な意志が自分に何か問いかけていることだけは認識できた。


 九人の仲間たちとは無機質な研究室で引き離されているものの、今頃、同じような体験をしているかもしれない。


「ここはロシアか…」


 百六十二回目の蘇生で、周囲の研究者が喋る言語がロシア語であることにウナギはようやく気づいた。


 体は実験台に括り付けられており、目隠しと猿轡をされている現状、聴覚だけは鋭く研ぎ澄まされていった為、言語そのものは理解できないが、その語気によって彼らがいかに驚愕し、焦り、苛立っているのかがよく分かる。


 銃殺、毒殺、四肢の切断による失血死、その他もろもろ思いついた方法で彼らはウナギたちを何度も殺してきた。


 おそらくそのデータや採取した細胞を元にロシアのストリートチルドレンあたりが何人も犠牲になっていることだろう。使い捨ての命はどこの国にも存在する。


「これだけ切り刻まれるということは、おそらくロシアは研究結果を出せていない」


 ウナギはそう推測した。


 その前にどこかの国がロシアを倒してくれないだろうか――。そして自分たちをここから解放してくれないだろうか――。


 ウナギは漠然とそんなことを考え、ふと涙が頬を伝うのを感じた。


 かつて日本軍に捕らえられ、様々な人体実験の材料にされたという養父である楊やチェルシースマイルのことを考えた。


 人間とほかの動物において一線を画すもの、それは他者の痛みを理解する共感力にあるといえる。


 人間は欲望のために動物にまで堕ちることができる――。


 なぜだか涙が溢れ出した。


 それは繰り返される痛みや、自己憐憫によるものではない。


 人類がそれと気づかず、地獄へと足を踏み入れていくのが、そしてそんな世界で楊や孤児院の兄弟たちが生きていかなければならない事実が、ウナギの心をただ、ただ締め付けていった。


「求めよさらば与えられん」


 原始言語を思わせる不思議な響きだが、意訳するとそんな言葉だった。


 神よ、私たちは何を求めればいいのですか――。


 求めた果てが滅亡であるならば、それは必然と仰るのでしょうか――。


 今の今まで神の存在など信じてこなかったウナギにできることは、ただ、ただ涙を流すことだけだった。

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