第47話 ウチキングとウチキラー

 八月十五日――。


 皇居および国会議事堂、日本国内の原発が総勢二百名の若者たちに占拠される様子が世界中へネット発信された。


「今日限りで日本を終わらせてやる」


 彼らは自らが不死身の肉体を得た黒亥子(ヘイハイズ)たちであることを告白し、生中継で日本政府への呪詛を吐いたものの――、突如として投降し暴挙に幕を下ろした。


 真実か、虚偽か――。

 報復か、ただのパフォーマンスか――。

 彼らはなぜ、途中で日本政府への復讐を放棄し、大人しく投降したのか――。


 全世界が日本政府、自衛隊、警察組織の権威失墜に揺れる中、その前夜に起きたK県小喜田内市の深夜発砲事件の犯人も彼らの仲間ではないかということが、囁かれはじめた。


 小喜田内市と言えば去年「学園祭毒殺未遂事件」で騒がれた場所であり、また大量の死傷者を出さずに事件解決に尽力した一人の高校生がいたという噂が当時、当時のネットを賑わせていた。


 救世主高校生が今回も何とかしたのではないか――。

 地元を襲撃され、国家を襲撃され、彼がすべてを解決したのではないか――。


 そんな推測が世間を駆けめぐったものの、未成年者である救世主高校生についての情報は厳重に保護されているため、確証もなく噂はすぐに立ち消えた。


 一方、中国政府は、周遠源主導による不死研究と人体実験を公に認め、彼が間違った主導者であるということを糾弾したうえで、そもそも不死研究の発端は韓国が占領する梅島の隕石からはじまったということ、そしてその一部が米合衆国に流出している可能性があることを示唆した。


 するとたちまち世界の目は米合衆国に向き、大統領であるオブライアンは弁解と否定、曖昧な回答を全世界生中継の記者会見で繰り広げた。


「ネイビシールズが極秘裏に梅島から持ち帰ったものこそ不死隕石の欠片なのではないですか」


 メキシコ訛りのある色黒な記者が訊ねると、オブライアンは神妙な面もちで答えた。


「ある時期には正義だとされていたことが、時流と状況によって悪に変わることがある。それについては正式な発表を待っていただきたいが、一ついえるのはその時点ではそれが最善だと判断できたからに他ならない。迫り来る驚異を前にして、できる限りのことをするのが米国にとっての正義であり自衛でもあった。誰がそれを責められるでしょうか?だが今後、別の価値観や倫理が世界から提示された場合、米国としては早急に方針を変える心積もりはある」


「中国政府が不死研究を撤廃した今、米国もそれを放棄すると考えていいのでしょうか?」


「それに答えるのは時期尚早だ。だが中国政府の宣言については米合衆国は大きく敬意を表し、歓迎する方針でいる」


「この数週間、他国にもそれらしき隕石が落下したとの情報もありますが」


「それについてはフェイクかどうか確認中だ。いずれ各国政府首脳を集めて審議に入りたい」


「不死の研究の撤廃、また隕石の所有権放棄の定義はどのようなものでしょうか?核施設封鎖や核兵器の放棄とは違い目に見える形で提示するのは至難の技といえますが」


「それは各国の元首、国民の心の中の正義に委ねられている。疑う心には障害物が見え、信じる心には道が開ける。七十億の人類が枕を並べて眠りに就ける時こそ、問題解決を意味するでしょう」


 オブライアンは辞去しようとする。だが記者はなおも食らいついた。


「しかし…本音を言えば、撃たれても死なない兵士が存在するならば、米国としては喉から手が出るほど欲しいのではないですか」


 そんな質問に、オブライアンはこう答えた。


「撃たれても死なない兵士が味方と敵方に存在するとしよう。戦争は永遠に終わらない。敢えてシビアな言い方をさせてもらうが、有利なカードというのは片方のみが所持するから有利なのであって、皆に配られればそれは膠着状態を意味する。核保有国が増えるほどに核の出番が減るのと同じ理屈だ。米国は今後そのような不死研究には手を出さないし、他国もそういったものには手を出さないで欲しい。そもそも不死身の肉体など神に背く行いであり、非道徳的であり非人道的な行為だ。隕石と研究の放棄。これが早々に適えば万事解決だ」


 オブライアンは白い歯を見せて記者会見を終えた。


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 殺戮の夜から二週間が経過していた。


 小喜田内市には連日報道陣が詰めかけるようになり、有働家にも記者たちが押し寄せていた。


 小喜田内市深夜発砲死傷者事件――。

 通称「殺戮の夜」事件――。


 当初、有働はオブライアン米合衆国大統領を通じて日本政府、および警察に根回しをしこれをもみ消そうとしたが、日本国占領事件との因果関係を疑われてしまった以上、記者団を止める術はなかった。


「殉職された有働保警部補は不死のテロリストと戦ったのではないですか?未だアメリカ合衆国が明言を避け、隠匿している生物兵器の研究についてどう思われますか?」


「中国共産党では非人道的な人体実験を彼ら孤児に繰り返していたと言われています。この国際的犯罪の責任はどこにあるとお考えでしょうか?」


「事の発端である梅島は日本の領土であると有識者は言います。韓国側が現在も梅島を占領し研究を続けていると言われていますが…」


 有働は二階の部屋の窓から黒い人だかりを見下ろしていた。母がインターホンから離れた後も記者たちは質問を続けている。


 日本政府及び警察関係者は、この「殺戮の夜」を「不死兵士と地元青年たちの攻防戦であった」と認めておらず、一般市民を巻き込んだ暴力団同士の抗争であるという見解を貫いていた。


 報道陣は尻尾を掴もうと躍起になっている。世間は「高校生による毒殺事件」で一躍有名になったこの田舎町の奇妙な噂に沸き立っていた。


「バカどもが」


 有働はカーテンを閉めた。


 夏休みは終わろうとしている。左腕はまだ思うようには動かない。医師には何度か手術が必要だと言われた。


 有働は三角巾で左腕を吊った状態で、父と自分が並んだ写真を見つめる。


「父さん…」


 父、有働保はガードレールを突き破った崖の下で見るも無惨な遺体となって発見された。


 地元の葬儀社が父の損壊した頭部を修復してくれたものの、パテで塗り固められたその顔は人形そのもので却って気味が悪く仕上がっていた。


 写真の中の父の姿は世界から消えてしまった。久住や他にも権堂組や誉田の仲間らも命を落とした。


 内木の死に憤り、復讐に狂った有働はさらなる悲劇の連鎖を生んでしまったのだ。


「どうすればいい…」


 有働は震える。


 すると何者かが囁きはじめた。


「有働くん。どうするつもり?うちの母親を救えなくて心を病んでいた君だけど、今回はもっと犠牲者が出たね」


 不破勇太の声だった――。


「おいこら、有働。てめぇは俺らよりもよっぽどタチが悪いじゃねぇか。正義を気取りながら気に入らねぇ奴らを山ほどぶっ潰してきたんだろ?」


 冬貝久臣の声――。


「君は狂人だ。生まれながらの狂人だ。死ぬまで踊り続けるがいい。私の代わりにね」


 チェルシースマイルは笑い続けていた。


「だまれ!!!」


 有働は声の主たちを蹴散らす。


 声は消えた。


 だが心の透き間が生まれるたびに、小さな亀裂から水が漏れ出すように常に声は溢れ出してくる。


「くそったれ」


 世界は中国政府によって明らかにされた「不死研究(プロジェクト・イブ)」の全貌に激震し、その研究結果をかすめ取ったとされる米合衆国とその他の国という対立構造が決定づけられようとしていた。


 これは第二次大戦後勃発した、先進国主導の核開発競争以来の衝撃である。


「俺にはどうすることもできない」


 どうやら内木からの最後のメッセージに答えられそうにない。内木は有働にヒーローであって欲しいと願い死んでいった。


「内木のやつ…俺にどうしろってんだよ…」


 有働は引き出しからマンガの原稿用紙を取り出して読んでみた。それは内木の生前最後の作品であり、彼の正義感を色濃く反映した作品だった。


 ヒーローの名前はウチキング。自分の名前をそのまま採用してしまうところに内木らしさがあった。


 内容は、元いじめられっ子の少年・内木光一がひょんなきっかけで正義の科学者に認められ金属製のパワードスーツを着用し、悪を倒すというものだった。


 当初は一話完結の勧善懲悪であったが、次第に物語はシリアスになっていき、終盤主人公の双子の弟・内木影二がウチキラーという名で世界を恐怖で支配する悪の組織のボスであったことが判明する。


「僕らは六十九億九千九百九十九万九千九百九十九人VS一の世界を生きてきた。世界を守るのも滅ぼすことができるのも、孤独な存在だけ。兄さんはこの世界の命運を決めなければならない。僕が弱かったばかりに重いものを背負わせてごめんね」


 弟のウチキラーはウチキングとの壮絶な戦いのあと、絶命間際にそう言った。


 ウチキラーもウチキングも表裏一体の存在として描かれており、世界を導く者は常に孤独であり、何モノにも染まらない孤高でなければならないというテーマがそこには隠されていた。


「…世界を救う…か…」


 現実問題、世界を救えるのは米合衆国大統領であるオブライアンであり、中国の新しい国家主席であり、核保有国の首脳たちに他ならなかった。


 国の命運は各国の政治体制に委ねられ、約六十九億九千九百九十九万九千九百とんで数人の一般人たちは、彼らトップの決定を固唾を飲んで待つしかない。


「頼んだぞ…オブライアン」


 有働はホワイトハウスで走り回っているであろう友人の顔を思い浮かべた。


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 九月になった。


 二学期が始まり、有働は昼休みに学校の屋上で焼きそばパンをかじっていた。今では飢えた生徒たちに混じり購買に並ぶのも苦痛ではない。


 まだ暑さが残る真っ青な空の下、かつてここで不破勇太と対決したことを思い出す。


 考えてみれば自分が後戻りできない世界に足を踏み入れたのは、あの瞬間からかもしれない。有働はそう思った。


「色々あったな…」


 不破に刺されたわき腹の傷跡が微かに疼く。


 あのとき命をかけて救った吉岡莉那は「殺戮の夜」でも黒亥子(ヘイハイズ)たちに標的にされ、心身ともに傷つき入院中である。


「他人を山ほど巻き込んでさ…」


 エミの父である遠柴博士の顔を思い出した。


 チェルシースマイルを倒すため中国共産党に潜入し、共に戦った遠柴は左手の指四本を失ってしまったが、帰国後は日常生活に戻っているという。


「…ありがとう…今まで、ありがとう…」


 久住の葬儀でエミは涙声で言った。有働はそれを追うことはしなかった。


 彼女なりに考えて出した答えを尊重しようと有働は思ったのだ。別れ際、至近距離で二人は見つめ合った。だが手を振るだけにとどまった。


「だが、守れた命もある」


 有働は自らが不在の小喜田内市を守ってくれた仲間たちを思う。


 不死身の黒亥子(ヘイハイズ)たちと派手な撃ち合いを演じた誉田たちは、今のところ銃刀法違反を罪に問われてはいない。


 米合衆国大統領エイブラハム・オブライアンから日本政府に――。

 日本政府から警察組織へ――。

 警察組織から地元警察へ――。


 根回しを指示したのは有働だった。


 正直、先の黒亥子(ヘイハイズ)の襲撃や不死研究の国際問題の渦中にあって、米合衆国も日本政府もガタガタな状態にあり、滑り込みで隠蔽に成功したようなところはあったが、今のところ「殺戮の夜」は被疑者不明の暴力団同士の抗争として処理され、久住らはその流れ弾に当たって死んだことになっている。


 誉田にしても、権堂や久住の家族にしても、有働同様にマスコミに追いかけ回される日々を送っているが、世間は「殺戮の夜」の確証を得られないまま都市伝説を追いかけ回しているだけであり、鬱陶しさはあれど現時点では実害はなかった。


 必ず騒動は収束していく。失ったものはあれど、事態は良い方向へ向かっていくはずだと、有働は自分を納得させた。


 その時だった。


 スマホで「歴史上、三番目の核攻撃。インド、パキスタンへ核による先制攻撃か」というニュースの見出しがプッシュアップ通知された。


「は?」


 目を疑うタイトルだった。


 有働は記事の内容を開こうとするが、同時に国際電話の着信が入った。


「ツトム…世界はもうダメかもしれない」


 そんな弱気な声がスマホの通話口から聞こえてきた。


「何があったんだ?」


 有働は少し荒っぽい口調で、オブライアン米合衆国大統領に英語で応える。


「君もニュースで見たと思うがインドがパキスタンに核攻撃をしかけた」


「おいおい!どうなってんだよ」


 有働は食いかけの焼きそばパンを手から落としてしまった。状況が状況なので敬意を払った口調ではなくフランクな物言いでオブライアンに詰め寄った。


「報道を見ていないのか?」


 オブライアンは素っ頓狂な声を上げた。


 あんたのせいでニュースが見れなかったんだよと言いたかったが、有働は、


「いやいや。何があったんだ。説明してくれ」とオブライアンに促す。


「きっかけは不死隕石の所有権を巡る争いだ。インドとパキスタンの軍事境界線にそれが落ちた」


「世界中に不死隕石が落下したってやつか。あれはフェイクニュースだったんじゃないのか?現に米国は調査中といったきり何も明言してないじゃないか」


「我々も衛星で情報を追うのがやっとだったんだ。今月に入って世界中の国境や軍事境界線、所有権の曖昧な土地にいくつか隕石の落下が正式に認められた。形状からして…不死隕石に違いないと我々は踏んでいる」


 オブライアンは沈んだ声で言った。


「核戦争が始まる前に何とかするのが米国の役割じゃないのか」


 いったい、何がどうなっている。


 有働は唸った。


 ふつう、隕石が落下しても地球の面積からして通常は太平洋や大西洋に落ちて終わりだ。


 よりによって政治的、軍事的対立が表面化している場所へピンポイントで落下するなどタチの悪い冗談としか思えなかった。


「これは神の意志だ…間違いない」


 オブライアンは言う。


「神…って…」


 神の存在有無については議論の余地があるが、人類を見下ろすような宇宙規模の大きな力があるとすれば、たしかに今の状況はその存在からの攻撃、挑発としか思えないような流れだった。


「…神が人類を試してるっていうのか?」


 有働は苦笑する。オブライアンはそれを否定するようなことはしなかった。


「世界はこれから破滅に向かうだろう…うぐぐぐ…」


 オブライアンの湿った声の背後で、電動式玩具のモーター音が鳴り響いている。


 グゥイイイイイイイィィィィン…ズヒュンズヒュンズヒュン…バブリブルブリ…


 情緒不安定になり逃げ出したくなったとき、例外なくオブライアンは自らの菊門を虐め抜く傾向にあった。


「おい、お前…」


 こんな時に何やってるんだよ。


 有働はオブライアンを罵倒したかったが、それをすることでオブライアンが性的興奮をおぼえ会話が成り立たなくなることを危惧して自制した。


「どうせ米国主導で話し合いの場を設けるんだろう?それはいつだ」


「首脳会議は…今年の十二月に、あ、あっ、あっ、…ある」


 オブライアンは泣きそうな声で喘ぎながら応えた。


「三ヶ月後か…遅すぎる」


「きっ…、き…緊急性を訴えた末、やっと十二月で話が決まったんだよ…」


「どうなっても知らんぞ…」


 不死隕石を一秒でも長く保有するうちに各国首脳の考えが変化してゆき、リスクよりもメリットをとるようになるかもしれない。


 三ヶ月という期間は色々な事を彼らに準備させるには充分な長さといえた。


 有働はしゃがみ込み、頭を抱える。


「隕石の保有国に不死隕石撤廃条約を持ちかけてくれ。…一斉にすべての国がそれを手放せば話は丸く収まるはずだ」


 有働は言った。言うだけ言ってみたものの、そんなことが果たして可能だろうかという疑念が頭をよぎる。


「もちろん分かっているさ…だ、だが…彼らが応じるだろうか…ががががが…」


 オブライアンは、直腸奥深くに挿入された電動式玩具の小刻みな振動に合わせて弱音を吐いた。


「米国は世界警察としての威光を、保ち続けられるだろうかかかか…」


「いいかオブライアン。隕石を手にした各国の本音を聞き出せ…話はそこからだ」


「はっ、はひぃぃ!!!」


 もしも世界が平和とは真逆の道をゆくというのならば。


 今までのように頭をフル回転させ…やるしかない。これが最後の戦いになる事を願って。


「いろんなものを失って…なおも戦うのか…俺は…」


 そうしたら今度の敵は、世界か。いや、神か。


「ダチを殺され親を殺され、なりゆきとはいえ…」


 本気で偽善者になるつもりか。


「世界七十億を…どうやって救うつもりだ…俺は…」


 有働は天を仰ぎ、笑った。


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 米合衆国某所――。

 ノアの救世会「新バベルの塔」五十階――。


 黒を基調とした広大なトレーニングルームは貸し切り状態だった。


「クソボケが…」


 ドールアイズは通話終了のボタンを押すと、スマホをソファに放り投げる。


「…読書のじゃましやがって」


 蝶型のサングラスように広がる傷跡。


 ドールアイズは「スキャン」と呟き、その両眼に填め込まれた義眼に搭載された高性能レンズを通し、脳に手元のアメコミの映像を直接送り込んだ。


 タイトルは「古今東西ヴィラン大決戦」――。


 版権や時代を超えたアメコミの悪役たちがヴィランの王の座をかけて戦うというストーリーだった。


 派手な機械音とともに人形のような青い目が輝き、ドールアイズはページをめくる。どうやら最先端の義眼による「読書」は正常に続行されたらしい。


「不機嫌そうだな」


 権堂辰哉はリングの外に設置されたサンドバッグをタコ殴りしながらドールアイズの方を見る。汗の玉が滴り落ちて床にこぼれ落ちた。権堂はここいらで休憩をするかとタオルで顔を拭った。


「当たり前だ」


 ドールアイズは口を尖らせる。


「誰からの電話だったんだ」


「オブライアンからだ。十二月に不死隕石保有国、核保有国を招いた首脳会議とやらを開くらしい」


「世界平和のために必死なんだな」


 権堂は苦笑した。


 ここ数ヶ月、不死隕石を発端とする日本政府転覆テロや、インドによるパキスタンへの核攻撃など、確実に世界は破滅の方向へと動いている。


 権堂の地元である小喜田内市もつい先日、不死の黒亥子(ヘイハイズ)による殺戮の標的にされた。


 だが誉田らの尽力、久住の死によって犠牲者が最小限に押さえられたということを誉田本人から聞かされた。


 中国共産党クーデターの黒幕が有働であり、それに対する中国の黒社会からの報復であったということだが、誰が有働を責められようか。現に警官であった有働の父も黒亥子(ヘイハイズ)に殺害されている。


「…マジで俺が言ったとおりになりやがったな」


 ドールアイズはアメコミをソファに放り投げ欠伸をする。


「世界の国境や紛争地域にあれが落ちるって話か」


 実のところ八月半ばの時点で、隕石の落下を「新バベルの塔」の衛星モニターは感知しており、それらが世界各地の泣き所に落ちれば世界は混乱するだろう、と冗談混じりにドールアイズは言ったことを権堂は思いだした。


「クソ食らえ。んなもん当たっても得にはならねぇ」


「先見の明があるなら、有力な株にでも投資すりゃよかっただろうに」


 汗だくの権堂は冗談を言った後「ノアの救世会」と印字されたスポーツドリンクのボトルを手に取り、中身を吸い上げた。


「世界が核戦争を勃発させやがったら、俺の野望は台無しだ」


 トレーニングルームの壁に貼られた毒々しいヴィランたちを眺めてドールアイズは唇を噛みしめる。


「世界人口の三分の一をお前自身が核の炎で焼き尽くす計画のことか」


 権堂の問いにドールアイズはにやりと笑った。


 ドールアイズは小型核爆弾を無数に搭載した宇宙兵器「神の杖」を極秘裏に発射し、待機させてある。


 そしてそれを使い、二十三億の悪しき人類を滅ぼすというのだ。


 核の汚染を免れ、新バベルの塔およびその広大な地下シェルターで生き延びられるのは人類の三分の二に当たる四十七億。


 選民基準は国籍、人種こそ問わないものの、知能指数百以上、遺伝的疾患のない者、過去に一度たりとも軽微な犯罪歴すらない者、同性愛者ではない者、生殖機能に問題のない者、不道徳行為をしない「ノアの救世会」に改宗できる柔軟な思考をもつ者であるという。


 審判の日に備えて各国政府の協力者に根回しをしたり、スマートフォンが普及している先進国では、その持ち主のSNS上の個人情報や言動などを吸い上げ、その人物像を収集、蓄積させた「シャドープロファイル」を使い「生かすべき者」と「そうでない者」の選定を始めている。


「美しい世界を創造するためには時間がもう少し必要だ。だが悠長に構えてもいられない。多少の計画変更で審判の日を早めようと俺は考えている」


 そう言ってドールアイズは天井を見上げた。


 新バベルの塔、百階ではかつて母を不貞に走らせ自殺に追い込んだ張本人であるドールアイズの父、ラファエル・ホワイトが呼吸器に繋がれて死を待っている。


「親父が死ぬ前に完成させなきゃならねぇ…」


 ドールアイズは誰にともなく、消え入りそうな声で呟いた。


 この「選民」と「新世界創造」は、すべて亡き母と亡き恋人アリシア・ディズリーを奪ったこの世界への復讐であり、餞でもあった。


「母さん…アリシア…」


 トレーニングルームの暖色のライトはドールアイズだけを照らす。いつの間にか同じ室内にいた権堂は世界から姿を消した。


 孤独な世界。ドールアイズの思考がじわりじわりと影のように、浸水のように床から壁へ、天井までもを埋め尽くす。


 母さん、アリシア…俺にとってあんたたちは世界七十億の人類よりも重かった。


 だが、奴らは奪った。この俺から、いともたやすく、あんたたちの命を。


 それもこれも俺が世界をコントロールできなかったせいだ。人間が増え続ける限り、不幸な出来事は増えてゆく。


 この世界は純度を保たなければならない。


 まっとうな人間だけの世界。


 俺が創造する新世界では、他人を傷つけるような人間は一人として存在しない。言うなれば悪は俺ひとりだけで充分だ。


 純粋な心を持った人間が、純粋な行為の末に命を落としてしまうような腐った世界は俺が終わらせてやるんだ。


 ドールアイズ――、マイケル・ホワイトは母の死に続き、人生において二度めの喪失感を味わったあの日のことを思い出す。


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 マイケルがアリシア・ディズリーのことを考えるとき、一番最初に思い出されるのはその屈託のない笑顔だった。


「マイケル。嘘はダメ。悪いことをしたらきちんと赦しを求めなきゃダメよ」


 アリシアは信仰をもっていた。


 彼女の胸元にはいつも十字架がきらめき、常に神に道標と赦しを求めていた。


 二十数年前――。


 アリシアと初めて出会ったあの日――。


 夏が終わり、その日は雲ひとつない晴天だった。


 マイケルはまだ父から会社を受け継いでおらず、二十歳そこそこの大学生だった。


「あなたは…米合衆国ナンバーワンの軍事企業アウグスティン社の御曹司、マイケル・ホワイトで間違いないわね?その本はなに?機械工学の参考書かしら」


 キャンパスのベンチで読書をするマイケルに声をかけてきた女がいた。


「あ?なんだてめぇは」


 マイケルは本を閉じるとすぐさま女の方を振り返った。様子からしてどうやら学生ではないらしい。


 鼻腔をくすぐる百合の香り。


 どこか懐かしさを感じたが記憶の奥底に沈んでしまっているため、それが何かは分からない。


「その義眼は開発中の最先端技術でしょ。傷病兵に応用されるのはいつの事かしらね」


 女はマイケルの隣に腰掛ける。


 義眼レンズ越しに見たが体温や心拍数、呼吸に乱れはない。女はマイケルを恐れるでも軽蔑するでもなく、ただ、そこに友人のような態度で座った。


「俺のツラを見て、わざわざこの距離に来る物好きはそうそういねぇ。何が目的だ」


 商売女じゃあるまい。マイケルは女に名を訊ねた。


「アリシア…アリシア・ディズリー。職業はジャーナリスト。このところの中東情勢について調べてるの。立場上あなたのお父上の敵になるかもしれないわね」


 アリシアはICレコーダーを片手に、笑顔を見せた。


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「イラク暴走の話か?あんなの石油利権に絡んだゴタゴタに過ぎない。本質は金だよ、カネ」


 マイケルはにべもなく言った。女は笑顔をひっこめ真剣な表情になる。


「米国(このくに)にも責任はあるわ。知ってのとおり今年の夏、イラクはクウェートを攻撃し占領した」


 一九九〇年八月二日――。


 イラクは隣国であるクウェートへ侵攻をはじめた。


 イラクの狙いはクウェートが保有するルマイラ油田の領有、採掘権の奪取にあり、その直接的原因は、遡ること二年前に集結したイラン・イラク戦争による戦災による経済回復の遅れと、原油価格の下落に伴うイラクの戦時債務の遅滞を受けたアメリカからの余剰農作物および工業部品の輸出の制限による困窮が原因であった。


「八十年代のイラン・イラク戦争で、イラン革命を見過ごすことができなかった米国はイラクのフセイン政権を指示し、大量の武器、資金援助を行ってきた。未来の脅威を自ら育てたようなものよ」


「たしかに今回のクウェート侵攻で使われた武器はウチの親父の会社がこしらえた米国産がほとんどだそうだ。笑えるよな」


「米国(このくに)はイラクを軍事大国として育てあげ、果てには困窮させ追いつめ、ならず者に仕立て上げた…」


 アリシアは肩を落とした。


「米国大統領は間違いなくイラクへの制裁を決行するわ。そうすれば中東は泥沼よ」


 その姿はジャーナリストというよりも聖女に近かった。


「イラクへの制裁は国民の半数以上が反対している。あんたの言う正義は政府じゃなく、国民に委ねられているんじゃねぇのか。良いか悪いかは別にして」


 人間の善意というものや信仰心は身を滅ぼす。


 母を失ったあの日からマイケルは傍観者であることに徹して、生温かい地獄から目を背けてきた。


 だが――。


 アリシアというこの女を見過ごすことがどうしてもできなかった。彼女の身につけた香水が亡き母が愛用していたものであると気づいた今、マイケルは彼女にちょっとした「お節介」をかけようと思い立った。


「政府だって負い目はあるはずさ。ちょっとこの後、時間いいか?」


 マイケルは大きめのサングラスをかけて義眼と両目の傷を隠す。外出や移動の時はいつもこうしていた。


「いいけど…」


 アリシアはきょとんとするだけだった。


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 米合衆国ホワイトハウス前――。


「イラクの暴挙は米国が育てた脅威だ!!!」


「米国の中東介入によって引き起こされた問題の責任は我が国にある!!!」


「戦争に介入し続けたこの十年の罪を償うべきだ!!!」


「神は国家の悪を見過ごさない!!!悔い改めよ!!!」


 そこには千人を超える老若男女がプラカードを持って列をなし、大統領に向けて叫ぶ姿があった。


「やつらは米国の思惑を感じ取り正義を叫んでいる。俺には理解できないが信仰とやらはこの国を監視する国民の目となり、信念となっているらしい」


 去年ゴロツキから巻き上げた真っ赤なセダンを停車させ、マイケルは笑う。


 助手席に座ったアリシアの表情は当初固かったものの、この場にいる千人と自らの信念は根底で繋がっているのだと解釈したのか、涙を浮かべていた。


「この国もまだ捨てたもんじゃない…当分、米国が中東問題に首を突っ込むことはなさそうね」


「ベトナム戦争を終えた頃から、やつらも気づきはじめたのさ。大義名分に隠れた国益のための戦争に自分たちが踊らされてることにな」


 マイケルはメシでも行くか、とアリシアを誘う。アリシアは静かに頷いた。


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 九月いっぱい、マイケルは大学そっちのけでアリシアと過ごした。


 母との過去や両目を失った経緯、父との確執――。

 正義と悪について――。

 神について――。


 時間が許す限り、それらのことを彼女と語り合った。


 幼い頃に両親を亡くしたアリシアは、十二歳年の離れた妹と二人、教会が経営する孤児院で育ったという。


「院長はいつも私たちに嘘はダメ、素直な心で人に接しなさいと諭してくれたわ。人は傷つくことをおそれて心にナイフを隠す。それが戦争の原因なんだって…神の導きによって素直な行いをすれば、この国もそして世界も争うことなんてしないと思うの」


 グランドキャニオンの峡谷で、焚き火がアリシアの顔を照らす。


 二人は一枚の毛布を分かち合い、恋人同士のように寄り添って過ごしていた。


 マイケルはこれほど美しい女がこの世界にいたのかと胸を躍らせた。


 無論、アリシアの顔がそっくりそのまま見えてるわけではない。大まかな造形、鼓動と脈拍と、体温が見えているだけだったが、マイケルは目の前の聖女に心を奪われてゆく自分に気づいた。


「本気で思ってるならお前はバカだな」


「私はあなたのためにも毎日、祈りを捧げているわ」


「そいつはありがたいことだ」


 マイケルは毛布から出ると、地面に敷いたレジャーシートに寝そべった。


 無数の巨大な岩山が屹立するグランドキャニオンの夜空では、満月と星々がその輝きをこれでもかとばかりに主張していた。


 アリシアは聖女だった。マイケルが神を否定したり間違った考えを述べるたびに彼女はそれを優しく諭してくれた。


 神はいるのかもしれないな。ふとそんな考えが頭をよぎり、マイケルはひとり笑う。


 母が自殺した日以来、マイケルは神と言うものを徹底的に憎み、決して救われることのない母の魂の安寧だけを願っていた。


 だがアリシアによれば母は死の間際に懺悔をしたはずであり、今ごろ神の元で永遠の安らぎに包まれているはずだという。


 それが事実か否かは問題ではなかった。アリシアが本気で自分の心を救おうとしてくれている事がマイケルは嬉しかった。


「神なんざいねぇよ」


 マイケルは心とは逆の言葉を投げかけて寝ころぶ。


 次の瞬間にはアリシアから説教が飛んでくる。それが目的でわざと悪態をついたのだ。


 自分が神を信じないと言い続ける限り、アリシアはずっと側にいて考えを正し続けてくれる。


 薬物中毒の兄に代わって、いつか自分が父の会社を継ぐ日がくるだろう。


 米国最大手軍事企業アウグスティン社――。


 世界中に武器をばらまき金に換える死の商社――。


 いつかその立場と地位を利用して、アリシアと共に平和貢献できないだろうか、とマイケルは思った。


「神なんかいねぇ」


「マイケル、そこに座りなさい。今この瞬間も神は私たちを見守ってくださっているのよ」


 自分がこの漆黒の夜空ならば、アリシアは月や星々の輝きだった。


 アリシアが――、正義とやらが――、この世界には必要なのかもしれないな。


 マイケルは微睡みはじめた。


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 翌月――。


「マイケル、これをみて」


 血相を変えたアリシアがマイケルの安アパートの門を叩くなり叫ぶ。


「なんだよ、騒々しい」


 彼女が手渡してきた新聞記事の見出しにはこう書かれていた。


「クウェート人少女、涙の証言。イラク軍による残虐非道な行い。我々アメリカ人はイラクの暴走を止められるか」


「なんだ?こりゃあ」


 新聞にわざわざ目を通す必要はなかった。テレビをつければどこの局もその話題で持ちきりだったからだ。


 マイケルとアリシアの二人は部屋のソファに座り、比較的偏向報道が少ないとされているニュース番組に敢えてチャンネルを合わせた。


 するとタイミングよく、ブラウン管にクウェート人少女が非政府組織トラントス人権委員会の証言台に立っている映像が映し出された。


「私は病院でボランティアをしていました…そしたらイラク兵が銃をもって病院に押し入ってきて…私の見ている前で…保育器を強奪するために…保育器に入った赤ちゃんを床に投げ捨てて殺したんです…」


 あどけない十代のクウェート人少女の、黒ダイヤを思わせる美しい瞳から涙の滴がひとつ、ふたつこぼれた後に、画面にはベテラン女性ニュースキャスターが映し出され、彼女はいかにイラク軍が非人道的行為をクウェートにしかけているか、アメリカの正義にかけて彼らの暴虐を阻止すべきであるという持論を投げかけた。


「このガキ…嘘を言ってるな」


 マイケルは言った。


 義眼に仕組まれた様々な機能の中に、声の振動や体の動き、近年心理学でも研究が進められている微表情による言動の真偽を精査するものが備わっており、マイケルはこのクウェート人少女が「演技」をしていることを一発で見抜いたのだ。


「ドラマや映画で見るのと同じ動きだ。このガキは心から言葉を発してはいない。あらかじめ覚えた台本を演技つきで喋ってるだけだ」


「やっぱりそう」


 アリシアは何かを決意したように言った。


「政府関係者に不穏な動きがあると、とあるルートで聞いたばかりなの。まるで戦争を始めようとしているような…」


「お前、何するつもりだ。下手に動けば身に危険が及ぶぞ」


 マイケルはアリシアを戒める。有能なジャーナリストが政府の陰謀を嗅ぎつけて姿を消した前例はごまんとあった。


「大丈夫。神はすべてを見ているわ。正義が悪に敗北することはない」


 アリシアはそう言ってアパートを出た。


「おい、待て」


 マイケルは彼女を追いかけたが、彼女の運転するセダンは勢いよく去っていった。


「くそっ…」


 自分の車は離れた場所に停めてあるため間に合わない。マイケルは道ばたに唾を吐く。


 見上げた空は高く、嘘のような薄ら寒い青だけが広がっていた。


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 その後――。


 この「クウェート人少女による涙の証言」は、米合衆国大統領、上院議員たちによる「クウェート侵攻問題」のスピーチに引用され続けた。


 するとつい最近まで米国による中東問題への介入に反対していた者たちも含め、米国中で反イラク感情とイラクへの批判が急激に高まり、ついには「イラク攻撃指示世論」が最高潮にまで高まっていった。


「イラクの横暴を許すな!」


「彼らを育て上げた我が国は決して無関係ではない!神にかわって彼らに制裁を加えるべきだ」


 米国民は熱狂した。


 それはやがて海を越えヨーロッパに広がり、世界規模の国際的反イラク感情へと燃え広がり、三十カ国以上の各国首脳をはじめとした数十億の市民たちは、正義のための「中東問題介入」を叫ぶようになっていった。


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「その女性は二十歳すぎてるんだろう?しかもジャーナリスト。行方知れずになったと言われてもなぁ」


 ニューヨーク市警は鼻で笑って相手にしようともしない。


 二ヶ月もの間、マイケルは汗だくになりながらアリシアを捜し続けた。


 彼女のジャーナリスト仲間、裏社会の人間たち。


 思いつく限りすべての筋を金を握らせ、時には暴力を行使して当たってみたが、失踪した彼女の行方は一向に掴めなかった。


 十歳になるアリシアの妹、シンシアは、姉が不在の間もニューヨークの片隅で賃貸マンションの留守番をしていた。


 当初はマイケルに対して訝しげな視線を投げかけてきたシンシアも、アリシアのいない間、世話を焼いてくるマイケルに心を開くようになっていた。


「ちゃんとメシは食ってるか」


「お姉ちゃんはいつ戻ってくるの?社会の悪を追いかけてるっていっても、もう二ヶ月だよ?」


 シンシアはアリシアによく似た目鼻立ちをしており、十二年前の彼女がそこにいるといわれても納得いくほど似ている。


「もうじきクリスマスだろ。サンタクロースに注文でもしておけ」


「マイケルがサンタクロースになってくれるの?お姉ちゃんから聞いたけど、貴方お金持ちの息子のくせに安アパートに住んでるんでしょ?そんな貴方が何を買ってくれるわけ?」


 シンシアは物怖じしない言い方でマイケルに詰め寄ってきた。


「俺は親父の金では生活しないと決めたんだ。それで、欲しいものはなんだ?ガキの玩具くらい買う金くらいはある。言ってみろ」


「欲しいもの…お姉ちゃんが戻ってくればそれでいい」


「戻ってくるに決まってるだろう。安上がりなガキだな」


 マイケルはシンシアの頭をぐしゃぐしゃに撫で回すとマンションを出た。


 マンションの家賃はアリシアの残高から引き落とされてるに違いないが、もしも彼女に何かあった場合、シンシアのことは自分が面倒を見なければならないと思った。


「いや…アリシアは神に守られているんだ」


 頭によぎった最悪の想定を振り払い、マイケルは革ジャンのジッパーを襟元まであげる。汗が冷えて不快だったがお構いなしにポンコツセダンに乗った。


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 深夜、突然マイケルの安アパートの電話が鳴った。


 受話器を取るなり罵声を浴びせようとしたマイケルを凍り付かせたもの、それはアリシアによく似た女の声による悲鳴だった。


「おい!アリシア、無事なのか?」


 悲鳴を上げたいのはマイケルとて同じだったが、冷静に受話器の向こうへと語りかける。


「この女は米国の敵だ。我々はこの女に制裁をくわえなければならない」


 冷徹な男の声がアリシアに代わり返事をしてきた。


「お前、誰だ?何を言ってやがる」


「これ以上嗅ぎ回るな」


「金か?金ならいくらでも用意する!だから…なぁ」


「この女は二ヶ月間、拷問に耐え何も喋らなかった。だが、我々はお前のことを把握している…確かにその気になればお前は金を用意するだろう。だが大事なのはそんなことではない。お前もいつか我々の目的に気づき、理解することだろう」


「おい待て!どういう意味だ!アリシアを返せ」


「時がくれば返すさ」


 男は機械のように話したいことだけ話すと、早々に受話器を切った。


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 クリスマスイブがやってきた。


 マイケルは不眠不休で狂ったようにアリシアを捜し回ったが、やはり足取りは掴めず、陰鬱な毎日を送っていた。


 受話器の男の冷酷な声と、アリシアの悲鳴が脳裏によみがえりマイケルは精神安定剤を服用するようになった。


 アリシアが戻る日まで守らなければならないもの、それは彼女にとってたった一人の肉親である妹のシンシアだった。


 柄ではないと思ったがマイケルはこの日、シンシアとともに過ごすことにした。


「お姉ちゃん…今夜くらいは帰ってこないかなぁ」


「さぁな。でもプレゼントくらいは用意してるんじゃねぇのか」


 実はマイケルはアリシア名義でメッセージカードを作成し、年頃の女の子が喜びそうなネックレスを購入していた。宅配サービスで夜の七時に届くように指定してある。


 姉のことを心配するシンシアを納得させるためにやったことだが、嘘はダメと言い続けたアリシアがそれを知ったらどう思うだろうかとマイケルは考えた。


 アリシア、戻ってきてくれ。戻ってきていつもみたいに俺を叱ってくれ。マイケルは祈るような気持ちで拳を握る。


 七時になった。


 配達員よりアリシア名義のプレゼントの包み紙を受け取ったシンシアは飛び跳ねて喜んだ。


「見てよ、マイケル。お姉ちゃんセンスあるでしょ。黒猫の両目に宝石が埋め込んである。きっと私の誕生石ガーネットよ」


 シンシアはマイケルが選んだネックレスを姉からの贈り物として誇らしげに首からぶら下げた。


「仕事が忙しいから、しばらく帰ってこれないとさ」


「早くお姉ちゃんのお仕事終わらないかなぁ」


 タイプライターで刻んだ文字を姉からのメッセージだと思い、シンシアはメッセージカードを何度も何度も読み返す。


「んじゃ、メシにしようぜ」


 マイケルはサングラス越しにシンシアの様子を伺いながら言った。義眼レンズの解析によるとシンシアに動揺や疑念は見られない。マイケルはひとまずは彼女の心の平穏を喜んだ。


「食べるときくらいサングラス外そうよ」


 お祈りを済ませたシンシアは七面鳥を手にしながら言った。


「これはな…」


「外そうよ」


 シンシアの手が伸びてきてマイケルのサングラスは外された。シンシアはマイケルの両目に広がる大きな傷跡と明らかに作り物の両目をみて息を呑んでいた。


「怖いか」


「ううん…怖くないよ」


 シンシアはマイケルの顔に手を伸ばし瞳に触れた。


 まるでそこにいるのはアリシアではないかと思わせるほど、シンシアは慈愛に満ちた眼差しをマイケルに向けてきた。


「きれい…まるで人形(ドール)の瞳(アイズ)のようだわ」


「ドールアイズ…いいな。いつかそのニックネーム使わせてもらおうじゃねぇか」


 マイケルは久しぶりに声をあげて笑った。


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 夜は更けた。


 シンシアはソファで微睡んでいる。姉がいたころはベッドで寝なさいと叱られていただろうが、ここ数ヶ月は姉が不在のためにソファで寝る習慣が身についてしまったらしい。


「ドールアイズか」


 マイケルはシンシアに毛布をかけた。あと数年もすればこの無邪気な少女とて背も伸び、胸も膨らみアリシアに似てくるだろう。


 そろそろ帰ろうかとマイケルはサングラスをかける。


 その時にマンションのインターホンが鳴らされた。時計の針は十一時過ぎを指していた。


 とっくに宅配業者は営業を終了している時間帯ではあるが、もしかするとアリシアの友人か同僚の誰かがクリスマスイブに間に合うようにシンシアへのプレゼントを用意していたのかも知れない、とマイケルは思った。


 多忙を極める現代のサンタクロースは時計の針が切り替わってもなお、街中にプレゼントを配達しているのだとニュース番組で取り上げられてるのを見たばかりだった。


「ったく、しょうがねぇな」


 マイケルはシンシアが起きないようにそっと足音を忍ばせ玄関へ歩いてゆく。


 ドアを開けるとそこに配達員はなく、薄汚れた段ボールが一つ置かれているだけだった。


 玄関に段ボールを置く。意外に軽いなと苦笑しながらガムテープを段ボールの割れ目に沿って爪でこじあけた。


 プレゼントは段ボールのままでなく、中身を出してソファの脇に置いてやろうとマイケルは思ったのだ。


 蓋を開けた。


 生臭いものが中からこみ上げてきた。


「なんだこりゃ」


 マイケルはジップロックされたいくつかの肉片を取り出して眺めた。


 右手に持ったジップロックの中に納められていたは、端正な顔だちのマスク――、ではなかった。


 両目と口の部分が穴のようにポッカリと開いた、女の顔の皮膚だった。


 長い睫毛に繊細な二重瞼。ぽってりとした唇は季節に咲く儚い花びらを連想させる。


「アリシア…」


 ずっと捜し続けていた女の顔がそこにあった。


 見たかったものが、最悪の形でそこに存在した。


「嘘だろ…」


 絶叫したかった。


 マイケルはアリシアの顔の皮膚を右手でぶら下げながら、唇を噛み千切らんばかりにそれを堪えた。


 続いてマイケルが取り上げたのは――、


 摘出された子宮だった。血が滴り、ジップロックの底に溜まっていた。


 アリシアは処女だった。結婚するまで男女の契りは交わさない。それが神との約束だから――と言っていた。


「やめてくれ…」


 摘出された子宮には数ミリほどの胎児が収まっていた。


 二ヶ月に及ぶ複数回に渡る性的暴行によって、望まない妊娠をさせられたのだと合点がいった。


 アリシアを玩具にして切り刻む男たちの姿が脳裏に過ぎり、マイケルの脳髄は沸騰しそうになった。


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 ようやくニューヨーク市警が動き出した。


 深夜の贈り物は警官たちによって押収された。


 夜が明ける頃、警察署ロビーで俯くマイケルの元へ太った中年刑事がやってきて、送られてきたパーツ、顔の皮膚、子宮、乳房、手足の指それぞれに生活反応が見られたと告げた。


「犯人は医学に精通した人物だ。おそらく麻酔と輸血と手際のよい処置で彼女を生かし続け、いたぶっている」


 マイケルは頭を抱えた。シンシアにはまだ何も告げておらず、今頃まだ寝息を立てている頃だろう。


「くそったれが」


 警察署を出たマイケルはアパートに戻ると、ベッドの裏を引き裂いて札束を取り出した。


 多少は裏社会にツテがあった。


 銃や弾薬などをこれで買い込もうと思った。


 どこの誰に弾丸をぶち込めばいいのか分からなかった。だが、マイケルは手を拱いているわけにはいかなかった。


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 年が明けた――。

 一九九一年一月十七日――。


 米合衆国を中心とした三十以上の国軍からなる多国籍軍がイラクに攻撃を仕掛けたというニュースが飛び込んできた。


 宣戦布告なしの恒常的空爆「砂漠の嵐作戦」でイラクの軍事施設は壊滅し、続く「砂漠の剣作戦」と名付けられた地上戦において多国籍軍は有利に戦局を押し進め、数ヶ月後にイラクの停戦合意、クウェートからの撤退という形で戦争は終結した。


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 同年の三月――。


 アリシア・ディズリーはニューヨークのマンハッタンの片隅にある小さな路地裏で発見された。


 第一発見者である学生によると、当初それは肉を剥き出しにしたホラー趣味なマネキンに見えたらしいが、興味本位で近寄ったところ、死にかけの人間だと分かり慌てて通報に至ったのだという。


「アリシア…おい、アリシア…」


 警察から連絡を受けたマイケルが向かった先はニューヨーク市内の巨大な総合病院だった。


 集中治療室ではアリシアの生存を知らせる機械音が静寂の中で単調に鳴り響いている。


 アリシアが何者かに拉致されてからすでに五ヶ月が経過していた。


「頼むから目を覚ましてくれ!」


 ガラス越しに変わり果てた彼女の姿を見たマイケルは絶叫に近い声を発する。


 担当医師によると、現在包帯でぐるぐるに巻かれた顔や体の皮膚は生存ぎりぎりのラインまで剥がされながらも適切な処置が施されており、乳房や子宮、手足の指に至っては外科医も真っ青な手さばきで切除されたのちに、迅速な治療が施されているため、皮肉なことに命に別状はないという。


「しかしながら、彼女が正常な精神のままかどうかは保証できません」


 医師は俯きながら、そう付け加えた。


「妹さんには会わせない方がいい」


 病院を訪れた中年刑事はそう言ってマイケルの肩を叩いた。


「犯人につながる情報はあるのか」


「あったとしてもお前さんには言わない」


 中年刑事はジャガイモにカツラを被せたような素朴な風体をしていた。だが目つきはベテラン刑事のそれであり、鈍く光を放っている。


「警察より先に見つけてやる」


「見つけたとしても復讐は果たせないぞ。お坊ちゃん」


「どういう意味だ」


「これは根が深い。裏社会のツテを辿って実行犯を見つけたとしても、そいつはトカゲの尻尾にすぎん」


「やはり政府が関係してるのか」


「わしとしたことが、喋りすぎたか」


 中年刑事は笑う。


「うちの親父は政府とも癒着が強い米合衆国最大手の武器商人だ。今から親父に会って聞き出してやる」


「お父上ならば何かご存じかもしれないね」


 中年刑事の眼光が鋭くなった。


 この野郎――。まだ犯人について何も掴んでねぇな。


 マイケルの義眼に仕組まれたサーモグラフィが真実を報せる。


「あんたの思惑通りに動いてやる。だがあんたの思い通りにはさせねぇ」


「残念だ。君とはいい友人になれたかもしれないのになぁ」


 マイケルは廊下を駆けだした。


 中年刑事の笑い声がどこまでも追いかけてくる。マイケルはそれをふりほどくかのように全速力で廊下を駆け抜けた。


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 アウグスティン本社ビル最上階にマイケルはいた。


 社長室の三方に広がるガラスケースには、所狭しと並べられた正義英雄(ヒーロー)のフィギュアの数々。


 ハイパーマン、スパイダーガイ、キャプテンニューヨーク、マッスルマン。


 虚構の世界の中で幾度となく世界を救ったヒーローたちがそこに並べられていた。


 そしてデスクに並べられた書類の山々に目を通す男――。


 彼こそがマイケルの父にして、アウグスティン社CEOラファエル・ホワイトその人だった。


「お前の方から訪ねてくるなんて珍しいじゃないか。金の無心か」


 オールバックにした金髪に縁なしのロイド型眼鏡。ラファエルは息子と目も合わせずに言った。


「んなことじゃねぇよ」


 マイケルはライダースの懐からリボルバー式の拳銃を取り出し、父親の眉間に狙いを定める。


「中国製の粗悪品だな。情けないぞ、マイケル」


 ラファエルはやっと息子の顔を見た。


「傲慢だな。クソ野郎」


 義眼レンズを通してみる実父の体温や脈拍に乱れは見られなかった。今後に及んでも自らの命が危機に曝されるわけはないと高を括っているのだろう。


「次からは実の息子であろうと身体チェックをさせる」


 ラファエルは受話器をあげようとした。


「次はねぇよ」


 マイケルは銃口を向けたまま、左手でそれを制した。


「ここに来たからには何か欲しいものがあるんだろう。昔からお前はそうだった。母さんが死んでからいつもお前は…」


「てめぇが母さんを語るんじゃねぇ!」


 マイケルは激昂し、銃身をラファエルの左こめかみに叩きつけた。


「…っ…、さっさと用件を言え。淫売婦の産んだ出来損ないめ…」


 ラファエルはよろめきながらこめかみの鮮血を左手で押さえる。


 サーモグラフィに変化が見られた。憎悪がラファエルを満たし始めている証拠だった。


「クウェート人のガキがトムラントス人権委員会でクソみてぇな虚偽証言しただろう。あの件を追ってたジャーナリストがゴミみてぇな連中に拉致されて半殺しにされた」


「事件は新聞で見た。お前が女に執着するとはな」


 ラファエルは薄く笑った。


「質問に答えろ。奴らは何者だ。今思えばあの嘘から戦争は始まった」


「答えから先に言おう。そんな連中に心当たりはない。黒幕についても、だ。もっとも私がそんな情報を知っていたならば、政府との交渉を有利に進めるための切り札として使うがね」


「嘘じゃねぇようだな」


 義眼が機械音を響かせる。


「だが、その犯罪集団と関わりこそ無いが彼らの背後にいるであろう人物の意図は充分に理解できる」


「どういう意味だ」


「今回の戦争で我々がどれだけの利益を得たか理解できるか?」


「…石油利権か」


 息子からの問いにラファエルは薄く笑った。


「今回の戦争における勝者は我が国だ。イラクのクウェート侵攻によって原油価格は下降。OPECは弱体化。それにより我が国の原油価格の統制力は回復し、米国内の石油会社は莫大な利益を手にすることとなった」


「米国だけじゃねぇだろう」


 マイケルは顔を歪めて、唾棄した。


 このたびの戦争に多国籍軍として米合衆国と共に参戦した欧米諸国の中にはクウェートに多くの石油利権を持った国もあり、正義の名の下に実のところは自国の利益を死守したと言い換えた方が正しいといえた。


「いずれにせよ、我が国は冷戦によって多くの負債を抱え財政危機に陥る寸前だった。それを打開すべく石油事業を掌握しようと動くのは国益のため当然のことだろう」


「その言葉はアンタ自身にも言えるよな」


「いかにも」


 ラファエルは悪びれる様子もなく腹を抱えた。


 米合衆国大手軍事企業であるアウグスティン社は先の冷戦を見越して大量の兵器を造りだしたものの、結局のところ冷戦は一滴の血も流さず集結を迎え、それら大量の兵器は使い道のない在庫として残されることとなった。


「我が社もこのたびの中東戦争で大量の兵器の在庫処分ができ、利益を得ることができた。国と国内企業、同盟国。すべてがウィンウィンだ」


「敵国は人にあらず、ってか」


 マイケルは今回の戦争における罪なき犠牲者たちのことを思った。


 アリシアがその身を犠牲にして報道の虚偽を暴露し守ろうとしたイラクの民間人の死傷者は数十万人にも及んだ。


「すべては正義のためだ。我が国が世界のパワーバランスを保つにはそれなりに利益を得なければならない」


「くだらねぇ」


 マイケルはリボルバーの引き金をすばやく操作し、父の背後に並んだ米国のヒーローたちを撃ち抜いた。


 破裂音と硝煙のにおい。


「気は済んだか」


 破壊され尽くした自らのコレクションを見つめながらラファエルは笑う。


 マイケルは踵を返した。警備員と一悶着おこすのも面倒だからだ。


「マイケル。お前には期待してるぞ」


 父の声が追いかけてきたがマイケルは振り返ることもなくその場を立ち去った。


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「どうやら何も掴めなかったようだね」


 中年刑事が煙草をくわえながら近寄ってくる。


 五月とはいえ、時折吹き抜ける風によって肌寒さがあるため中年刑事は肩を竦めていた。


「なぜ分かる」


 アウグスティン本社ビルを出たマイケルは自らも煙草をくわえた。中年刑事は火を寄越す。マイケルはそれを拒むでもなく穂先を燃やした。


「長年の刑事の勘だよ」


 中年刑事はマイケルに号外新聞を渡してきた。


「なんだ、こりゃ」


「残念だったね」


 新聞の見出しにはこう書かれていた。


 イラク軍の残虐行為を訴えたクウェート人少女は、嘘をついていた――。


 マイケルは義眼を操作し、活字を目で追う。


 少女の正体はクウェート駐米大使の娘であり、イラク軍による残虐行為が行われたとされる病院にいた事実はなく、そもそも当時クウェート国内に滞在すらしていなかったという。


「彼女の嘘は反イラク国際世論扇動のための広報キャンペーンであり、我々は見事に騙されたというわけだ」


 中年刑事は悲しそうな目をした。


「アリシアは正しかった…」


 マイケルは記者の名前を見た。


 そこには、取材ポール・ルーズベルトと記されていた。


 アリシアが命を懸けてつかんだネタをなぜこの男が持っているのか。なぜアリシアだけが凄惨な目に遭わなければならなかったのか。


 この記者に会えば何かが分かるかも知れないと思い、マイケルは走り出した。


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 深夜、マンハッタンのビル群の隙間に佇むバーの奥まったボックス席でマイケルはその男と向き合っていた。


 カウンター、ボックス席ともに心地よいカントリーミュージックをBGMにして若者たちが米国の正義と愛を語らい合っている。


 ジャーナリストのポール・ルーズベルトは、アリシアの大学の同級生でありジャーナリスト仲間だった。


 ポールはアリシアからこのたびのクウェート人少女の虚偽発言に対する裏付け資料を預かった経緯を話し始めた。


「アリシアは失踪する前、この戦争プロパガンダの一切に関する資料と推理をまとめたメモを僕に託した。そして自分に何かあった場合、機が熟すまでこれらの証拠を世に出してはならないと言ったんだ」


 暖色の間接照明がポールの顔を照らし続けている。


 その頬は痩け、落ち窪んだ双眸からは眼球がこぼれ落ちそうで、一目彼を見た者は薬物中毒者、拒食症患者、イエス・キリストのどれかを連想するに違いなかった。


「もっと早くにそれを公表してりゃ、戦争を止められたかもしれねぇんだぞ。クウェート人のガキの発言が当初は戦争に否定的だった国民に火をつけたのは事実だ」


「歯車は回り始めれば誰にも止められない。僕は自己判断で戦争が終結したあと、国民が冷静になった時こそこれを公表すべきと踏んだ」


 テーブルに広げられた資料の中にはクウェート駐米大使とその娘のポートレートが含まれており、背後に掲げられた星条旗と相まって彼らはクウェート人と言うより中東系米国人にしか見えなかった。


「いずれにせよ限られた時間で彼女がここまでの資料をかき集めたのは尊敬の念に値する。不十分な調査と確証の不足は今後、僕の方で暴いていくつもりだ。来年の年はじめには纏まった報告をあげられるだろう」


「ほらよ」


 マイケルは一枚の大判写真をテーブルに置いた。


 ポールはそれをつまみあげ、凝視した。そして嗚咽をはじめた。


「アリシアは手足の指、乳房、子宮、性器の一部、顔の皮、その他にも色々と失った」


 続いてマイケルはポールにアリシアの診断書を手渡す。


 ポールはポールでそれを受け取ることを拒否すれば自分の中の正義が揺らいでしまうと考えたのか、吐き気を堪えつつもすべてに目を通した。


「アリシアをこんな目に遭わせた連中に心当たりはないか」


「あれば、僕はここにいない」


「推測でもいいから話せ」


「君のことは…アリシアから聞いていた」


 話を逸らせようとする意図はないのだろうが、ポールは泣きながらそう言った。


「愛する人ができた、と…」


「何が言いたい」


「彼女は君がこれから行おうとする事を望んではいない。それだけは言える」


「勘違いするな」


「え?」


 ポールは目を見開いてマイケルの顔を凝視した。


「これは、俺自身の望みだ。さぁ何でもいいから話せ」


 ポールは深くため息をつき、俯く。


「おそらくは上院議員が絡んでいる。親族に石油利権を持つ者がいる政治家を洗っていけば黒幕にたどり着くかもしれない」


 マイケルは満足そうに笑う。そしてポールの肩を叩いた。


「仕事だ」


 札束をテーブルに出す。ポールの目がそれに釘付けになった。


「怪しい奴らをぜんぶリストアップしろ。ジャーナリストは金が必要だろ」


 ポールは病んだ瞳で笑い、札束を懐に仕舞った。


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 数週間後――。

 マイケルのアパートに段ボール三箱分の資料が送られてきた。


 中東の石油利権に絡んだ政治家たちの名簿すべてに目を通したが、彼ら一人一人を調べ上げるにはさらなる時間が必要だった。


 マイケルは大学の講義が終わると真っ先にアリシアのいる病院へと足を運んだ。妹のシンシアは姉がここにいることを知らされておらず、これからどうすべきかとマイケルは悩んだ。


「意識は戻りそうかね」


 中年刑事が背後から声をかけてきた。


「いや…。だが、戻ったとたんにショック死という事もありえるらしい」


 マイケルは振り返りもせず、くたびれた声でそれに答える。


「彼女の意識が戻ったとき、君は裁判中か塀の中か」


「そういった話はもういい」


「そうだな。復讐相手を見つけられるかどうかも怪しいからな」


「警察は何をしてやがる」


「今はFBI(連邦捜査官)が事件解決のために奔走している。ポール・ルーズベルトの記事によって女性ジャーナリスト監禁致傷事件とクウェート人少女の虚偽発言の関連性が示唆されたからな」


「つつけば蛇が出てくるぞ」


「国民は正義を求めている。真相を暴こうとしていたアリシア・ディズリーは間違いなく聖女であり受難者だ」


「大衆は都合のいい頭をしてやがるな」


「私はもうじき定年だ。残り時間でできる事はもうない。君のためにホシをあげられず残念だよ」


 中年刑事は手を振り、去っていった。


 それ以来、マイケルが彼と顔を合わせることはなかった。


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 その日もマイケルは病院の待合室にいた。


「意識が戻りました」


「本当か?」


 読みかけのアメコミを閉じ、マイケルは立ち上がる。


「こちらへどうぞ」


 担当ナースから訪室を促されマイケルはアリシアの元へと歩み寄った。


「アリシア、俺が分かるか」


 皮膚移植を施された平坦な顔のアリシアはゆっくりと頷く。


 彼女にショックを受けさせないため、医師による計らいで毛根を失った頭頂部には金髪のウィッグが被せられている。


 マイケルは震えた。そして素直に喜んだ。


 容姿は変わってしまえど、アリシアの魂は地上へと戻りマイケルの前に現れてくれたのだ。


「お前に伝えたいことがある」


 アリシアは青い瞳でマイケルを見つめる。


「神はいた。神は存在した。これまでの発言を撤回させてくれ」


 マイケルは震えながらアリシアの手を握った。アリシアはそれには何も答えられずにいた。犯人たちによって舌を切除されていたからだ。


「ここにいてくれるだけでいい…ずっと俺の心を支えてくれ」


 アリシアが生きている限り、彼女を苦しませるようなことはできない。犯人たちへの復讐はひとまず忘れようとマイケルは誓った。


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 ポール・ルーズベルトによる「クウェート人少女の虚偽発言」の記事が発表されてから数ヶ月が経過した。


 ポールは早期段階で、この情報源がアリシア・ディズリーであり、彼女が何者かの陰謀で拉致監禁され、命に関わるほどの激しい暴行を受けていたことを発表していた。


 全米がその情報に震撼した。そして政府を非難した。


 誰かがあの戦争は過ちだと叫び、大勢がそれに共感した。


 しかし別の誰かがあの戦争は国益を守るために必要なことだと反論し、さらに別の誰かが米合衆国は世界秩序を守ったのだと付け加えた。


「アリシア・ディズリーを悲劇のヒロインにするな。恐らくはどこぞのギャングに身体を売っていざこざに巻き込まれた貧しい女ジャーナリストに過ぎない」


 誰かが根も葉もないことを叫ぶと、あの戦争を肯定したい連中はそれに乗っかった。


 いつしか過激思想をもつ連中がそれに加わり、いつしかアリシアが入院する病院の前で「プロパガンダはどっちだ?」「正義と悲劇は反目するものではない」「神はすべてを見ている」「米国を売った女」などというプラカードが掲げられるようになった。


 さらには全身入れ墨にスキンヘッド、サングラスをかけた連中がバイクに跨がったまま、事件に巻き込まれる前のアリシアの顔写真にポルノ女優のヌードをコラージュしたパネルを掲げ、警察がやってくる前に消えるという珍事も発生した。


「ったく、しょうがねぇゴミどもだ。自分でものを考えることもできない、感情で動くバカどもが」


 マイケルは窓からデモ隊を見下ろす。


「彼らには導きが必要」


 アリシアはスケッチブックに文字を書いた。親指の付け根と人差し指の付け根にペンを挟んで書いた文字も指を失う前と変わらないレベルまで上達していた。


「ところで私はいつ退院できるの」


「もう少しだ。医者が言うんだから間違いねぇ」


 嘘だった。アリシアはすでにリハビリを終え、療養を必要としないまでに回復していた。


 だがマイケルは病院に金を握らせ、アリシアを保護させた。父親の会社の株券や裏社会カジノで儲けた金はそろそろ底を尽きようとしているため、新しい手だてを考えねばならない。


「生理がこないの」


 恐ろしい記憶は欠如しているらしくアリシアは時々こんなことを言った。


「そのうち身体も戻るさ。顔だって戻ってきただろう?」


 それも嘘だった。当初よりは人間らしい表情を取り戻しつつあったが、アリシアの顔の皮膚はゴムマスクのようにのっぺりとしている。


「私は悪魔なの?」


 アリシアは外のデモ隊の一人が掲げるプラカードを指さす。顔を失う前のアリシアの写真が印刷されており、そこには悪魔のツノと牙が落書きされていた。


「イエス・キリストはなぜ磔にされた?彼が悪魔だからか?」


 アリシアは何も答えなかった。


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 アリシアが病室から姿を消したと気づいたのはその日の午後、夕暮れ時だった。


 うたた寝をしていたマイケルは慌てふためきナースらと共に病院中を駆け回った。


「彼女が見つかったわ!あれを見て」


 ナースの一人がステーションに置かれたテレビを指さす。


「おいおい…止めろ…すぐに戻るんだ」


 マイケルは震え始める。


 ブラウン管に映し出されたのは病室を抜け出したアリシアだった。


 デモ隊は変わり果てた彼女の姿に悲鳴をあげ散っていたものの、報道キャスターは臆することなくアリシアに近づき、マイクを向けた。


「私は人が人を傷つける世界を赦さない。神はすべてを見ています。心を痛めながら」


 アリシアはそう書いたスケッチブックを掲げた。そしておもむろに入院着を脱ぎ始め、傷だらけの裸体を露わにする。


 削ぎ取られた両乳房。子宮を摘出した手術痕。そして戯れにメスを入れた痕跡の数々。


「オエヲイエ、エイイヲイエウ…?」


 これを見て正義と言える…?


 アリシアは根本で切除された舌を出し、笑って見せた。


 突如として乾いた音が鳴り響き、悲鳴が上がった。


 カメラは地面に倒れ伏したアリシアの姿を映し、次に逃走する男の姿を捉える。


 アリシアは後頭部から脳漿を溢れさせたまま、笑っていた。


 報道キャスターは悲鳴をあげ、カメラマンは彼女の亡骸を様々な角度からシャッターに収めた。


 実行犯の男は警察に取り押さえられる前に自らの口に銃口を突っ込み、自殺した。


 ほぼ時を同じくして、ポール・ルーズベルトも何者かによって刺殺されたという報道が全米を駆けめぐり、クウェート人少女による虚偽証言についての真相は闇へと消えた。


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 暗い部屋でマイケルは唸っていた。


 アリシアの葬儀を終え、マイケルは死と一体化するために部屋中のカーテンを閉め、暗闇の中で自らの心音に耳を傾けていた。


 俺はどうすればいい。


 何万回と自問自答を繰り返す。


 誰がアリシアを殺した。


 誰が母さんを死に至らしめた。


 答えはすでに出ていた。途方もない答えだった。他に答えはないものかと考えを巡らせても結局は同じ答えにたどり着くだけだった。


 誰よりも汚れをしらなかったアリシアと母さんは殺されたんだ、世界に。


「ならば俺はこの世界を壊してやる。アリシアと母さんを殺したこの世界を呪ってやる。俺からすべてを奪った神とやらに、復讐してやる。この俺が神ではなく、世界一の悪役(ヴィラン)として、人類の剪定と救済をする」


 マイケルは蝋燭に火をつける。


 テーブルにはヨハネ黙示録が置かれており、第九章十三節、第六のラッパ吹きのページが開かれていた。


「天使は人類の三分の一を殺した」


 そう書かれていた。


「自らの欲望で滅びるがいい。米国も、世界も」


 幼い頃に母から教わった「戦略」と「戦術」――。


「汚れた人間を一気に滅ぼし、アリシアや母さんのような優しい人間だけの世界を創造する」


 思い通りに事を進めるには、金が必要だった。


 金を生み出すには爵ではあるが、戦争が必要だった。マイケルは反吐がでる思いでアリシアを殺した連中と同じ色に染まらなければならない。


 だが――。


「世界が血を流し、俺は利益を得る。そして俺以外の悪しき人間は一掃される」


 マイケルは笑った。


 義眼の暗視レンズにはアリシアと母の姿が映し出されていた。幻視だと理解している。脳が見せた偽りの聖女たちだと気づいている。だがマイケルは彼女たちに微笑みかけた。


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 それから数年後、父ラファエル・ホワイトが倒れた。


 マイケルの計画していた通りに父は再起不能になった。


 側近の一人を買収し、兼ねてから服用していた心臓病の薬をビタミン剤にすり替えた末に、父は脳に重大な後遺症を患い、延命装置なしでは生きられない状態にまで堕ちた。


 薬物中毒の兄に変わり、マイケルはアウグスティン社のCEOに就任した。


 九十年代、マイケルは世界中に武器を売り続け、死の商人と呼ばれるまでになった。


 裏の通り名は「ドールアイズ」――。


 そのニックネームをマイケルに与えた本人、アリシアの妹シンシアとは葬儀以来顔を合わせていない。かつて身を寄せていた孤児院の口添えで、どこかの州の片田舎に住む優しい夫婦に引き取られたということだけは知っている。


「羊たちよ、耳を傾けなさい。人間がたくさんいる限り不幸が起きる。選民が必要なのだ」


 そう喧伝するカルト宗教「ノアの救世会」をマイケルは極秘裏に設立した。入信には厳しい条件が設けられており、マイケルの考える「優しい人間」だけがそこに集まり始めた。


 いずれ兄のガブリエル・ホワイトをそこの教祖として据えるつもりだった。だが、まだ早い。


 人類の三分の一を殲滅し、三分の二を救済するには二つの要件を満たさなければならなかった。


 まずは、小型核爆弾を大量に搭載した宇宙兵器「神の杖」の開発と、打ち上げ――。


 米国政府の目を欺き、それらをやってのけなければならない。時に金を握らせ、時に米国の切り札になると丸め込み、時として邪魔になり得る人物を殺害しなければならなかった。


 そして「新バベルの塔」の建設――。


 すでに国から買い占めてあるグランドキャニオンの広大な土地の地下をこれから大急ぎで掘り起こし避難シェルター、プラントを設置させなければならない。天まで届く高層ビルも建設予定だった。


「お前らが好きな戦争を起こしてやる。今度はもっと大きいのをな」


 二〇〇一年、九月十一日――。


 マイケル・ホワイトことドールアイズは米国政府と手を組み、あらゆる手を用いてタリバンによる「アメリカ同時多発テロ」を誘導した。


 資本主義の象徴とされる巨大なビルが崩れ去るとき、米国民は中東の悪魔たちを殲滅せよと叫んだ。


 奪われる側から奪う側へ――。


 ドールアイズはテロ攻撃に激昂した米合衆国によるアフガニスタン侵攻、イラク戦争によって多額な利益を得た。


 無論、罪なき人々の血も流れた。


 兵士として派遣された恋人の死に泣き暮れる女たちの姿も目にした。


 タリバンの兵士たちとて、自らの正義を動機とした純粋な凶行の末にその銃弾に倒れていった。


 ドールアイズだけが別の思惑のために戦争に荷担していた。


 それは常に孤独と恐怖を伴うものであり、彼自身の心に生き続けるアリシアを通して、その内面を蝕みつつあった。


「愛する者がほしい。アリシアの代わりになる女を」


 そんな矢先、秘書として一人の女が面接にやってきた。


 シャーロット・デイヴィス。


 どことなくアリシアを連想させる容姿はもとより、彼女は他の秘書希望者たちと一線を画していた。


「自己アピールをしろ。内容は自由だ」


「あなたの探していたであろうものを持ってきました」


 シャーロットは二人きりの部屋で分厚いファイルを差し出す。


「なんだ?こりゃあ」


「かつてあなたの恋人であったアリシア・ディズリーを死に至らしめた実行犯たちです」


 ドールアイズは血の気が引くのを感じた。


「どこまで知っている」


「調べられることはすべて。私もそれだけ本気なのです。ぜひとも御社で働きたく思います」


 ファイルの中には、六人の男たちの経歴と思想が詳細に記されていた。


 医者に弁護士、投資家にギャングの頭、タクシードライバーに食肉工場経営者など寄せ集め者たちという印象を受けたが、誰も彼も湾岸戦争によって利益を得た者たちだという。


「こいつらを始末する。そしてお前は採用だ。シャーロット」


 ドールアイズは携帯電話を操作する。


 殺人は誰かに任せる。だが殺害方法のアイディアは自分が出す。それが巨大軍事企業、もとい死の商人たるこの男の「殺人者」としての矜持であった。


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「なんでも話す…なんでも話すから解放してくれ…頼む」


「私たちは現在それなりの立場にある。こんなことをして許されると思っているのか?」


「ず、ずいぶん昔の話だろう!俺だけじゃない、あの頃はみんなイカレてたんだ!命だけはとらないでくれ!」


「殺すならとっととやれよ」


「僕は彼女を連れ去っただけだ!暴行には荷担していない!信じてくれ」


「助けてください…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ううぅっ」


 冷たい倉庫の中では咽び泣くもの、まだまだ強気でいられる者、叫ぶもの、開き直るもの、それぞれがいた。


 六人の男たちはそれぞれ全裸にされ、セメントの台に埋められた木製の十字架に磔にされている。


「ぜ、ぜんぶ話したら解放してくれる約束だったはずだろ…?頼む…助けてください…」


 アリシアの乳房と子宮を切除した医師の男はガクガクと震えていた。


「ああ、解放するさ。解放とはすなわち死だ。サーカスを引退した猛獣がどう使われるか知っているか?」


 ドールアイズは笑いながら、傍らに立つ猛獣使いにウィンクした。


 帽子を目深く被ったその猛獣使いは、鉄製の檻の扉を開け老いたライオンの鎖を引っ張る。


 老いたライオンは足取りこそおぼつかないが、長年自らを育ててきた猛獣使いの意図することはすでに理解しており、磔にされた男たちに向かって低いうなり声をあげた。


「あの女は俺たちのことを憐れんでいやがった…だから、顔を剥ぐ前に犯してやった!しまいには俺たち誰かのガキを妊娠しやがった!笑えるぜ」


 自分の運命を悟ったギャングが捨て台詞を吐く。


「マイケル様。この男は一番最後にしましょう」


 シャーロットの言葉にドールアイズは静かに頷いた。


「やれ。まずアリシアを連れ去ったタクシードライバーからだ」


 猛獣使いはライオンの腹を優しく撫でた。


 悲鳴、絶叫、阿鼻叫喚。そして鮮血。


 一人目の男が老いたライオンによって身体のあちこちの肉を少しずつ食われてゆく。頭は最後に、と調教されているためライオンは手順通りに牙を立てた。


「時間をかけてやるんだぞ」


 ドールアイズは地獄絵図を見ながらワインを飲み始める。一九九一年――、湾岸戦争の年に製造された銘柄だった。


「たった二十年でもここまで美味くなるんだな」


 本音をぽろりと漏らす。


「くっ、黒幕は上院議員だ!俺だけは彼の名を知っている!」


 さらなる情報を吐けば命が救われると勘違いしたのか、投資家の男が叫んだ。


「どうでもいい」


 ドールアイズの言葉に納得がいかないのか、投資家の男は気の抜けた表情を見せる。


「そいつを含む汚れた三分の一の人間を、神の杖で一掃する」


 敢えて黒幕の名前は聞かないでおこうと思った。そいつを殺して復讐劇が終われば、人類剪定計画へのモチベーションが下がってしまうとドールアイズは考えたのだ。


「ま、待ってくれ!そいつがここにいないで、俺らだけライオンに食われるのは納得がいかない!その男の名は…」


 乾いた音とともに、投資家の男の額に穴が開いた。


 べレッタM92FSの銃口から硝煙の匂いが立ちこめる。


「黙って死んでろボケが」


 ドールアイズは唾を吐いた。


 男たちに表向きの繋がりはなく、彼らの失踪と彼らの過去の罪を結びつけるものはない。


 やがて六つの死体はすぐさま消却され、闇へと消えた。


----------------------------


「いつの間にか寝てたのか」


 微睡みから覚醒したドールアイズは、トレーニングルームのベンチから身体を起こす。


 毛布がずり落ちた。権堂がかけてくれたものだろう。だが権堂の姿はなかった。


「マイケル様、このような記事が」


 シャーロットは自分が起きるまでずっと傍らに立ち待っていたのだろうか、起きあがったドールアイズにすぐさま声をかけてきた。


「二十数年目の真実――。クウェート人少女の発言は虚偽だった」


 シャーロットから手渡された新聞にはそう書かれていた。


 記者の名はジョージ・ルーズベルト。


 この件を深追いし、刺殺されたポール・ルーズベルトの息子であることが記者プロフィールに記載されていた。


「今更こんな…」


 そう言いかけたあと、ドールアイズの目に飛び込んできたのは在りし日のアリシア・ディズリーを捉えた写真だった。


 父の盟友にして聖女――。


 彼女の命をかけた正義なくしては、この真実は暴かれなかった。今の時代にこそ我々は彼女の功績を讃えるべきである。


 記者のジョージは世間にそう彼女を紹介していた。


 神を信じ、悪を赦し、何も疑うことの無かったアリシア。


「どうしましたか、マイケル様」


 涙腺を失った双眸から形のない涙がこぼれ落ちた。


「アリシアには妹がいた」


「彼女をお捜しになりますか?」


 シャーロットは訊ねてきた。


 彼女の調査能力をもってすれば明日中にはシンシア・ディズリーのこれまでの経歴と現住所が判明することだろう。


「いや…」


 ドールアイズは立ち上がって首を振る。


「あいつに合わせる顔なんてない。余計な事はするな」


「分かりました」


 シャーロットは、そっと姿を消した。

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