第50話 狂気と凶器

 米合衆国大統領官邸(ホワイトハウス)・迎賓室――。


 白を基調としたシンプルながらも格調高い内装の部屋に、紅茶の香りが優雅に立ちこめる。


 そして部屋の中央に据え置かれたテーブルには、二人の男が対座していた。


 レナルド・トンプソン米合衆国大統領と、彼のパトロンであるゴッドスピード家第四代当主ジェイムズ・ゴッドスピードその人である。


「欧州においてはドイツ、フランスが不死隕石を保有し、ロシアは不死者の生体実験に勤しんでいる。すべてヤコブ・シュミットバウワーの息がかかった国々だ」


 うら寂しい髪を撫でつけながら、ジェイムズが深いため息をつく。


 先日、天敵であった叔父のダニエルが他界し、憂い事の一つが消えたばかりではあるが、世界有数の名家当主であるダニエルの悩みの種はまだまだ尽きそうにない。


「心中お察しします、ジェイムズ様」


 トンプソンは肩を竦めた。


「君とてその地位につくまで、様々なことをしてきただろう…その結果がこれでは君も納得いかないんじゃないか?」


 痩躯をソファに沈めながら、ジェイムズの眼鏡の奥の目が光る。


「お察しいただき光栄です…」


 トンプソン大統領は苦笑した。


 事実として、梅島問題をクローズアップするため、自己判断で極秘裏に先代日本国総理であった桐柿甘造を韓国人留学生に暗殺させたり――、


 梅島で中国共産党が不死人間アダムを完成させた後、当時大統領であったオブライアンをけしかけてアメリカ海軍特殊部隊ネイビー・シールズを派遣しアダムを拉致させたのは、紛れもなくトンプソンだった。


「そこまで手を汚したのならば、相当の見返りが欲しいはずだ」


「ごもっともです」


 トンプソンは一つ咳払いをし、一語、一語、噛み砕くようにして言葉を続ける。


「私は当初、先代大統領であるオブライアンが敷いた対話路線、十二月の会談には反対でした。十二月では時間が余りすぎて遅い…会談するならば早急に、それが適わないのならば米合衆国による世界への宣戦布告をすべきであると、副大統領としてオブライアンに進言したのですが…」


「彼は国益よりも平和を好んだ男だったからね」


 ジェイムズは迎賓室に飾られた歴代大統領の写真の隅に飾られたオブライアンの遺影を見上げて、ため息をつく。


「一度とりつけた約束は覆せない…ならば仕方がないと考えた私は十二月までに交渉材料を用意すべく考えをシフトチェンジしました。パープル、アダムによる不死研究の再現、そして宇宙兵器・神の杖の行使を視野に入れた戦略…すべてがパーフェクトだった」


「だが彼は…オブライアンは、それらに反対したのだね?」


「ええ。対話に望むならば、まずは米合衆国がパープルやアダムを放棄すべきであると…そして全人類を殲滅できるほどの宇宙兵器神の杖に関しても、ドールアイズを説得し放棄させるべきであると…」


「イニシアティブを自ら放棄する男に一国の長は勤まらない。優しさや誠実さだけでは国交は回らないのが常だ」


 ジェイムズは眉をあげて米合衆国前大統領への失望の色を表情に出した。死者に鞭を打つことは下品極まりないが、オブライアンは米合衆国の国益のために消されて然りの人物だったといえよう。


「いずれにせよ十二月の会談を待たずして世界は真っ二つに割れ、第三次大戦へ突入するでしょう」


 迎賓室には巨大なテレビモニターが設置されていた。消音(ミュート)態ではあるが画面いっぱいに破壊され尽くしたフランクフルト市の姿が映し出されている。


 取材記者は幼い娘と妻を失った証券マンの顔をアップに映し出し、彼にポーランド軍への呪詛を思い切り吐き出させていた。


「君はどう動くつもりだね」


「今や世界警察、米合衆国の名も失墜…核保有国をはじめ、今や七割の国が国連を脱退しています。神からの贈り物を前に彼らは自国の利益、そして目下の利害関係だけで同盟を好き勝手に結び始めている…もはや米合衆国の呼びかけだけでは統制がとれません」


 トンプソンはジェイムズの瞳をまっすぐ見つめた。


「ドールアイズ…、マイケルホワイトから神の杖を奪います。この状況を打破するには米合衆国が保有する軍事力だけでは収拾がつきませんからね」


 神の杖は無数の小型核ミサイルを搭載した宇宙兵器である。


 ひとたび発射指示を出せば、宇宙空間に待機している管制衛星によって小型核ミサイルの誘導が行われ、それらは電磁波を放出せず時速一万千五百八十七キロの速度で落下するため迎撃は不可能。


 またその宇宙プラットホームには高度な迎撃防衛システム及び報復プログラムを搭載しているため、衛星攻撃兵器、戦闘機を用いて高度二万メートルから発射する衛星キラーですら通用せず、神の杖は世界を屈服させ得る万能にして最強兵器といえた。


「やつからどうやって神の杖を奪うつもりだ」


 ジェイムズは出された紅茶をはじめて啜った。トンプソンは彼がカップを置くのを待って口を開く。


「やつの大切なものを奪えば、やつの心は折れるでしょう。そして何もかもを差し出す…」


 トンプソンの瞳に狡猾な鈍い光が宿る。ジェイムズはそれを見て首を振った。


「変な追いつめ方だけはしない方がいい。暴走もありえるぞ」


「CIAにやつの身辺調査を依頼しています。エージェントの名はシンシア・ディズリー」


「ディズリー…?まさか、あの女記者の妹か?」


 当時のジェイムズはイラク戦争で石油利権を得ており、アリシア・ディズリーによる「クウェート人少女の証言」記事に当時、憤慨していた一人だった。


 だがその後にアリシアが失踪し、何者かに凄惨な暴行を受け生還した後、マスコミの前で射殺されたのを知って衝撃を覚えたものだった。


「シンシア・ディズリー…。運命の悪戯か、姉の恋人だった男を、監視する役目を担うとはな…」


 ジェイムズは、本日何度目かの深いため息をつく。


「シンシアは自らの正体を隠したままシャーロット・デイヴィスと名乗り、ドールアイズ…マイケル・ホワイトと行動を供にしています」


「…すべては君の計画通りかね」


 言葉は少ないが、ジェイムズはこういう意味を込めて言った。


 アリシアの死に絶望したマイケルが神の杖を開発したのも――。

 シンシアが姉の死の真相を追うためにCIAとなったことも――。

 マイケルの監視役に就いたことも――。


「単刀直入に聞こう。マイケル・ホワイトにとっての弱点とは何だ?」


「言うまでもなく――、」


 トンプソンはジェイムズの問いかけに答える前に人差し指を自らの唇にあてて、静かに言葉を紡ぎ出す。


「シンシア・ディズリーです」


 トンプソンの薄い唇がニヤリと歪む。


「…彼女が姉と同じような目に遭うと知れば、マイケル・ホワイトは顔色を変えて神の杖を私に差し出すでしょう」


 トンプソンはこれまでにない邪悪な表情で笑った。


 ジェイムズはそこから底知れぬ悪意を感じ取り、かつてアリシア・ディズリーを死に追いやったのもこの男に違いないと確信した。


「君は二十年以上も前からこの瞬間を見据え、着々と準備を進めていたというわけか…」


 ジェイムズ・ゴッドスピードは世界皇帝と呼ばれる経済的絶対者である。他者から畏れられることはあれど、他人を怖れたことなど一度たりともなかった。


 そんな彼をして震え上がらせたのは、本能のまま全てを欲しがり、それを手に入れるため手段を選ばぬ貪欲な一匹の虎だった。


「君の真の目的は何だ?」


 ジェイムズは目の前の虎に問いかける。


「あなたを越える地位…」


 トンプソンの濁った眼球に見つめられ、ジェイムズは怖気を震う。


「ジョークですよ…ハハハ」


 獣の本性を一瞬で隠し、大きな口で笑う姿は米合衆国大統領に相応しい豪快にして快活なものだった。


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 暦は九月から十月へと変わり――、

 トンプソンの予言通り、世界は真っ二つに割れた――。


 不死隕石を巡る争いの火種は往々にして燃え上がり、どの国がどの国を支持するのか、各国首脳はその答えを早急に求められるようになり、結果として世界は二つに割れてしまったのだ。


 アメリカ、イギリス、ポーランド、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、カナダ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、オーストラリア、日本、大韓民国――。


 ドイツ、フランス、ロシア、イタリア、ギリシャ、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、アイスランド、キューバ、続いてオランダ――。


 政府を立て直したばかりの中華人民共和国はしばらく風見鶏に徹していたものの、なし崩し的にアメリカ支持の意志を表明した。


 インドとパキスタンは沈黙を貫いている。


 これは実質、数世紀に及び世界を二分するゴッドスピード家とシュミットバウワー家の雌雄をかけた争いであったが、各国の政治家たちは自らの野望と企み、利権を隠し、自国を守るためという名目で国民を鼓舞した。


「我が国は神から贈られし、不死隕石を守り抜く使命があります!同盟国と共に米合衆国の横暴に立ち向かいましょう!」


 ドイツ首相メンゲルベルクが、頬の肉を揺らしながら吼える。


「いかなる場合においても武力行使による一方的な権利の主張は認められない!ドイツは悪しき帝国主義に逆戻りしたのだ!我が国および英国は核による攻撃も辞さない」


 トンプソン米合衆国大統領も大仰な身振り手振りで、負けじと吼えた。


 そんな中で悲鳴を上げたのは、世界各国の声なき民たちだった。


「第三次世界大戦の始まりか…悪夢だ」


「為政者どもは何を考えている…不死隕石など破棄すればいいものを…」


「世界大恐慌からの第二次大戦を再現するつもりか…」


「不死隕石を放棄したところで…真の平和は訪れるのか?」


 当初は困惑していた各国の民たちも、その何割かは政治家、知識人、有識者たちの言葉に誘導されるように戦争容認論へと傾いていった。


「時として守るべきものを守るために我々は銃を持たなければならない!悪しき国々に制裁を!僕らはもう手をこまねくだけじゃダメだ!」


 トンプソン大統領が見守る中、活気ある大学生が主張し拍手喝采を浴びる――。


 そんな様子を、米メディアは連日報道した。


 一方で――、


「米国一強の時代を終わらせるべきだ!我々は不死隕石を新しい時代の飛躍に生かし、真の強者となる!」


 プチョールキン大統領の言葉に、メンゲルベルク首相が拍手した。二人は国を越えて恋人同士のように見つめ合う。


「命を落とした兵士たちに勝利という花束を手向けましょう」


 メンゲルベルクが涙声で言うと、プチョールキンは彼女の肩を優しく抱き、メンゲルベルクはプチョールキンの胸に顔を埋めて泣いた。


 一度でも血が流れればそれは思想ではなく、思考へと変わり、論争は戦争へと形作られてゆく。


 不死隕石を巡る小競り合いで命を落とした兵士たちや、他国からの攻撃によって命を落とした一般人たちの声なき声は、報復の材料としてメディアに取り上げられ、形ある悲劇、争いを起こす真っ当な理由として存在し続けるようになった。


 世界は乾いていた。


 小さな火種は乾燥した世界中で火柱をあげて燃え盛り、七十億の人々は落としどころを探す間もなく、各々の政府が提示する正義と悪の定義の中で、汝の敵を殲滅せよと叫び狂った。


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 世界の終わりを予感させる昨今においても、ニューヨークの路地裏は喧噪にまみれている。


 ドールアイズは久しぶりに地下ファイトに参加し、自らが不在だった期間に長らく勝者として君臨していたメキシコのファイターを破り、小銭を手にした。


「やっぱマイケルさんがいないと、盛り上がらないっすよ」


 声をかけてきたのは、売人の黒人青年。


「もう今回で引退だ。俺にはやらなくちゃならん仕事が山積みだからな」


 ドールアイズは青年を手招きし、ファイトマネーのすべてを彼に握らせる。青年は甲高い声で礼をいうとすぐに姿を消した。


 サウスブロンクス――。


 ニューヨークと川を挟んだ向こう側に広がるブロンクス区の中で最も犯罪の腐臭が漂う悪の巣窟。


 大通りにはギャングたちが掲げた旗がそこかしこで見られ、夕暮れ以降は売人と売春婦、犯罪者予備軍しか歩かなくなる。


 地下ファイトクラブ「ワルキューレ」を後にしたドールアイズは背後に忍び寄る足音に耳を澄ませた。


 時計の針が示すのは二十二時過ぎ――。


 空は漆黒の闇に犯され、月は神が天から穿った覗き穴のように丸く、爛々と輝いている。


「少し遊んでやるか」


 ドールアイズはわざと建物の隙間に入り、狭く暗い袋小路の半ばで足を止めた。


「気づくとは中々だ」


 背後で銃を操作する音。声の主は若い男のように思えた。


「金が目当てじゃないらしいな。暗殺者か」


「いかにも」


 男は声を殺して笑う。


「俺を殺せばどうなるか分かるよな」


 ドールアイズはこの男がどれだけの情報を保持しているのか、水を向けた。うまくいけば依頼人のヒントが見つかるかもしれないと考えたのだ。


「君を殺れば、心停止を神の杖の報復システムがキャッチし、数分以内にこの場所は核攻撃の対象となる。そんな事態は私とてまっぴらだ」


「どこからの刺客だ。ゴッドスピードか、シュミットバウワーか」


「さぁ。君の恋人を殺した真犯人かもな」


 男が言い終えるよりも前に、ドールアイズは動いていた。


 振り返りざまに繰り出した右の蹴りが空を切る。全身黒のフードを被った男はドールアイズと距離を取るようにして後方へと飛び跳ねた。


 男の上背は百八十五。細くしなやかな体躯に、左右非対称な顔がペイントされた面を被っている。


「ピカソか」


「これはこれは。お見知り置きいただけて、光栄にございます」


 男――、ピカソは畏まった口調で言った後、仮面の奥で笑う。


「暗殺成功率は九十九パーセント。標的の遺体は各身体部位の方向が出鱈目にねじ曲がって発見されることから、裏社会からつけられたあだ名が現代アートの巨匠にちなんだピカソ。くだらねぇ理由で芸術の名を汚すんじゃねぇよ。三流の変態殺人鬼が」


「私がそう名乗ったわけではない」


 ピカソは銃口を向けたまま高笑いをやめなかった。


「命が惜しけりゃ今すぐ消えろ」


 ドールアイズは唾を吐く。


「どうやら君は自分の置かれた状況とやらが理解できてないらしい。暗殺稼業十五年の私にとって生まれて初めての生け捕りだ。手足を失い脊髄を損傷した状態で連れてきてもいいと依頼人からは言われている」


「三流が勝ったつもりか」


 身体が動かなくなろうとも、この義眼をたった数秒間、一定リズムで動かせば脳内チップが爆発し、自殺が可能であることをドールアイズは告げようとしたが、三流暗殺者相手にイニシアチブを得たところでつまらないと思い直し口を噤んだ。


「もちろんその義眼はくり抜く。自殺されたら困るからな」


 その言葉と同時にピカソは銃を放り投げ捨て、間合いを詰め、左右の拳を繰り出してきた。ドールアイズは舌打ちする。ピカソは左右の拳をチョキの形に変え、後退するドールアイズの義眼を執拗に狙い始めた。


「知ってやがったか」


「私の依頼人を甘く見るな」


 ピカソはドールアイズを袋小路に追いつめようとスピードを上げてくる。


 ドールアイズは時折ガードしながら拳をピカソの顔面に叩き込もうとするが、ピカソはそれを難なくかわし、下から潜り込むようにして間合いを詰めてきた。


 月明かりに照らされた二人は、建物の影を縫うようにして一定の速度と距離を保ちながら攻防を繰り広げる。


 ピカソは暗殺者としては三流だが、格闘家としては世界レベルであるかもしれないとドールアイズは再認識した。


 恐らく十代の頃に武術なりスポーツの心得があり、何かしらの大会への出場経験もあってそれなりに結果も残してきたことだろう。


 だが、何かのきっかけでピカソは闇の世界に足を踏み入れ、殺人の快楽と高額な報酬に味をしめてどっぷり抜け出せなくなったのだ。


「昔の名残が見え隠れするぜ。それがお前が培ってきた体術か」


 提示された情報を基にして、推理し、言葉で揺さぶる。ドールアイズはただの喧嘩師ではなく精神攻撃をも得意としていた。


「戯言を」


 一瞬、ピカソの動きが鈍くなる。過去の痕跡を隠そうとして不自然な動きになり、それが一瞬の隙を生んだ。


「バカが」


 袋小路まであと一歩というところまで追いつめられたドールアイズは、地面にわざと背中から転び、両肘を地面についたままピカソの顎を思い切り蹴り上げた。


 体勢を低くしていた仮面の男は思わぬ角度からの攻撃に怯み、次の瞬間、ドールアイズが金的を攻撃してきたときにはその衝撃で後方に吹っ飛んだ。


「お前、玉がないな。病気か、性的嗜好か…それとも…」


「自ら断種した」


 体勢を立て直したピカソは、顎の部分に亀裂の入った仮面を気にする仕草をしながら構え直す。


「情報はだいぶ集まった。お前はもう暗殺者として生きていけなくなるぜ」


 ドールアイズは右肘を旋回させ、ピカソの左側頭部を狙った。それをかわすピカソ。続いて左肘でピカソの右頬を狙う。それすらもかわされた。


「七光りの道楽息子め」


 ピカソが挑発する。それは余裕の欠如を意味した。


 ドールアイズは唾を吐いた。飛沫は勢いよくピカソの仮面に開けられた両目の穴へと飛び散った。一瞬の隙が生まれる。


 ドールアイズはゴツい指輪を填めた右拳をピカソの左耳に思い切り叩き込んだ。


 三半規管をやられピカソが卒倒する。


 さすがは職業暗殺者、ピカソはすぐに立ち上がろうとしたが、ドールアイズは袋小路の途中でピカソ自身が放り投げて捨てた銃を拾い、それを上からピカソに向けていた。


「暗殺者は、あだ名を付けられた時点で三流なんだよ」


 ドールアイズは引き金に力を込めた。


 乾いた音と共にピカソがのけぞる。やがて地面は彼の血に染まっていった。


 ピカソを生け捕りにして依頼主の存在を吐かせても良かったのだが、ドールアイズの中でこの哀れな殺人稼業の男に対して何かしらのシンパシーが生まれていたのかもしれない。


 ピカソは暗殺者として死んだ。


 同時に呪われた世界から解放された。


 少しだけ羨ましいと思う自分を恥じらいながら、ドールアイズは銃の指紋をふき取るとそれをその辺のゴミ箱へ捨て、袋小路を出た。


 パトカーのサイレンはまだ聞こえない。


 毎週、この区域のどこかで誰かが死ぬ。犯人は捕まらないというのが常識だった。


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 新バベルの塔・最上階――。


 純白に塗り固められたその広大な一室には、ノアの箱舟をイメージしたステンドグラスがはめ込まれており、床一面にはチェスの盤面のような幾何学模様が広がっている。


 さらに左右、後方の壁にはドールアイズの母親ジュディス・ホワイトとアリシア・ディズリーの銅像が等間隔で交互に配置され、様々なポーズで立ち並んでいた。


 それらは神秘的、というよりは神話を茶化した悪趣味なヴェルサイユ宮殿の列柱回廊を思わせる。


 銅像の一体が掲げた時計の針は、十八時過ぎを示していた。


 ドールアイズはそのど真ん中にテーブルをこしらえ、分厚いステーキを頬張っていた。


「世界は俺が手を下さずとも滅びようとしてやがる」


「計画が遂行できなくて不満か」


 権堂も負けじとステーキを頬張る。


「俺としてはさっさと選民を済ませて世界中を核の炎で焼き尽くしてやりたかった…だが悠長にそれをやっている暇は、もうない」


 ドールアイズはワインを流し込み一息ついた。ラベルを見ればそれが作られた年は湾岸戦争の年であることが伺える。


「選ばれし人間を今年中にここ新バベルの塔および地下シェルターへと収容する」


「人類の三分の二にあたる四十三億人か」


 権堂はナイフとフォークを置いて天井を見上げた。


「世界中に張り巡らしたネットワーク、SNSから吸い上げたシャドープロファイルを基にして、柔軟な思考を持つもの、知能指数は百以上で遺伝的疾患のないもの、過去に一度も軽微な犯罪歴がないもの、同性愛者でないもの、生殖能力に問題がなさそうなもの、不道徳行為を行わないもの、それらの情報を吸い上げて名簿を作成したんだが…」


 ドールアイズは首を振って悲しそうな顔をする。


「…そんな奴らは十五億弱しかいなかった」


「ではお前は汚れた五十五億を滅ぼすんだな」


「そういうことになるな」


 ドールアイズは再びステーキを頬張り始めた。


「十五億人もどういう方法で集めるんだ」


「すでにSNSをやってる選民たちには招待状を出してある。この新バベルの塔で年末に音楽フェスをやるとな。カネがない低所得者には米国までの渡航費をウチの会社が負担するシステムに切り替えてあるし、奴らには無作為抽出の抽選であり、一人でも多く参加することで会場内の収益はすべて恵まれない子供たちに寄付すると謳ってあるから、七割以上が何の気負いも疑いもなくこの場所までやってくるだろう」


 そして世界各国から集められた選民たちが新バベルの塔の地下シェルターに閉じこめられている間、外の世界では神の杖が吐き出した業火が世界を焼き尽くすシナリオというわけだ。


 権堂は唸った。


 世界大手のSNS企業を傘下に収めているドールアイズだからこそできる戦略であり、暴挙であった。


「絶対的平和ってのは、選択の余地を与えちゃいけねぇ」


 そう言ってドールアイズはワインをどんどん流し込んだ。


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 微睡みが途切れ、最上階のテーブルの上でドールアイズは目を覚ました。


 皿はすでに下げられており、飲みかけのワインボトルとグラスだけがあった。


 権堂はそこにはいなかった。おそらくは今頃トレーニングジムで汗を流していることだろう。


 銅像が掲げた時計の針は深夜零時を指し示している。


 ドールアイズは欠伸をしながら立ち上がり、母であるジュディス、恋人だったアリシアを模した銅像の一体一体を見て回った。


 どこか傷はついていないか、カビははえていないか、劣化していないか。


 すでに故人となってしまった二人の在りし日の姿を想起させてくれるものはこの大量の銅像しかない。


「母さん…アリシア…」


 もうじき二人を傷つけた世界は消滅する。優しい人類だけが世界に残され、争いのない世界が始まりを迎える。


 ふいに首をくくった母親の遺体と、身体中を無惨に切り刻まれたアリシアの姿が脳裏によみがえった。


「私に何かあったら妹をお願いね」


 アリシアは言っていた。冗談だと思い聞き流していたが、彼女は唯一の肉親であるシンシアのことを心配し、その行く末をドールアイズに託して逝った。


 だがドールアイズはシンシアの行方を敢えて調べることはしなかった。復讐に囚われた自分をアリシアの妹に見せたくはなかったからだ。


 きっと十五億の中の正しい人物の中にシンシア・ディズリーは含まれているはずだ。


 ドールアイズはそう確信していている。


 いつか自分の行いを全ての人類が受け入れ、理解してくれる時が来たならば、この新バベルの塔の住民の中からシンシアを見つけだそう。


 そして彼女の幸せのためだけ生き続けよう。哀れなこの復讐者は漠然とそんなことを考えていた。


 巨大衛星モニターを操作する。


 宇宙空間に待機した核兵器――、神の杖。


 神の杖が見下ろす青く輝く地球にズームすれば、各大陸のあちらこちらで紛争が発生し、衝突地点は真っ赤な炎に包まれていた。


 不死隕石保有国はいずれも激戦が繰り広げられており、どの国家元首も隕石と共に姿をくらましている状況にあった。


 際限なく人の命が奪われてゆく。


 弱いもの、手段を持たぬもの、国家紛争の原因から遠く離れたものたちが盾となって、見せしめにされて殺されていく。


 そんな中、最も狡猾な人類だけが生き残り、不死隕石の恩恵によって醜い永遠の命を生き永らえる。


 考えられる限り最悪な結末だった。


 ドールアイズが理想とする世界とはかけ離れた未来。


 母を、アリシアを死に至らしめた醜悪な者たちだけが地上を歩き回り、死者の肉を踏みにじる世界。


 そうなる前に手を下さねばならない――。


 ドールアイズは衛星モニターを切った。


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「飲み過ぎたようですね」


 女の声がする。


 ワインボトルは床の上に転げ落ち、ドールアイズは天井を見つめていた。


「シャーロットか」


 女はそれには答えず、ワインボトルを拾った。


「このワイン…姉さんが死んだ年のものね」


 ドールアイズは耳を疑った。


 確かに酔いは回っている。だが幻覚、幻聴をきたしても不思議ではないくらいに酔っぱらっているわけではなかった。


 たかがワインボトル一本分のアルコールで頭の中がおかしくなるほど、ドールアイズはヤワじゃない。


 目の前の女――、秘書であるシャーロット・デイヴィスは薄く笑いながらドールアイズを見下ろしている。


「俺の過去を知っているといえ、ふざけたことを抜かすと承知しないぞ」


 ドールアイズはシャーロットを睨んだ。


 確かにシャーロットの顔はどことなくアリシアに似ていた。


 秘書として採用したのも、心を落ち着かせる道具として彼女を側に置いていたのもアリシアの面影をそこに見たからだった。


「これを見て。もらったクリスマスプレゼント…本当は姉さんじゃなくてあなたが用意したんでしょ?」


 シャーロットは首からぶら下げたネックレスを掲げた。


 黒猫の顔に両目にはガーネットがはめ込まれたトップ。それは量産されたものではなく、湾岸戦争の前年に限定発売された日本産の人気アニメのモデルで、ガーネットは一月生まれのシンシアの誕生石だった。


「あなたなら…私の過去を洗い出すのも容易だったはず」


 シャーロット・デイヴィス――、否、シンシア・ディズリーは悲しそうな目でドールアイズを見つめて言った。


 ドールアイズ――、マイケル・ホワイトは嗚咽した。


「…よりによって…なぜ、今になって…」


 どこか心の奥底で気づいていた事実だった。


 だが敢えて彼女の身辺調査をすることはせず、彼女がこしらえた上辺の情報だけを信じるようにして今まで接してきた。


 マイケルはシンシアを道具のように扱った。


 自らの性欲処理は勿論のこと、取引先の重役と寝るように指示し、重要な情報を抜き取らせたりもした。


 全ては彼女が自分の元を無言で立ち去るように仕向けてるためだった。だがシンシアは何も言わずマイケルの命令に背くことはしなかった。


 もちろん彼女がCIAの回し者として接してきていることにも気づいていた。


 そしてその真の思惑は亡き姉の遺志を引き継ぎ、自分に世界崩壊のシナリオを実行させぬよう監視することにあることも感づいていた。


「サングラスはずそうよ」


 シンシアはマイケルのサングラスをそっと外す。


 あのクリスマスの日、少女だったシンシアが食事中にとった行動を思い出す。


「七面鳥おいしかったね」


 マイケルは涙腺ごと母にえぐり取られたため、涙を流すことはできなかったが、シンシアの顔を見上げ形のない落涙をした。


「姉さんは最期の瞬間、悪を憎んでいた。そして憎むことを止められなかった自分を罰するためあの場所へ出て行った」


「やめろ…」


「姉さんは自死を選んだの。貴方に責任はないわ」


 マイケルは叫んだ。


 認めたくない事実だった。憎むべき敵を探し出すことによってアリシアを永遠の聖女に仕立て上げていたかった。


「俺にどうしろと言うんだ」


「神の杖を放棄して」


 シンシアは腰を屈めてマイケルの顔を両手で覆った。


「それはできない…」


 マイケルは即答する。迷いは一切なかった。


「そう…」


 シンシアは背を向けた。マイケルはそれを追おうとしたが膝から崩れ落ちた。


「誰かがやらなきゃならないんだ…」


 マイケルは立ち上がった。


 最先端技術の粋を集めて作られた青い義眼――、人形の目と揶揄された両目は未来を見据えている。


「深い闇に落ちてこそ、人は一筋の光を頼るようになる…俺がやらなきゃならない」


 マイケル・ホワイトことドールアイズは、この瞬間、自らの本名を捨てた。


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 新バベルの塔・五十階――。


 トレーニングジムでは権堂を含む十二人の格闘家たちが汗を流している。


 彼らは世界各地からドールアイズによって勧誘され、破格の契約金で雇われた「選ばれし者」たちだった。


「…ったくよ。大金目当てに来たはいいが、タワーに閉じこめられて退屈な日々だぜ」


 ボクシングヘヴィ級世界王者――、マーカス・キャメロンがクタクタになったサンドバッグをタコ殴りしながら笑う。


「あと数ヶ月、年末の音楽フェスに連動した格闘技大会までの辛抱だ。我慢しろ」


 中国拳法の達人――、王(ワン)洋(ヤン)がミネラルウォーターを飲み干し、言った。


「それにしても何で僕らに声がかかったんだろうね」


 テコンドーの王者――、ユン・トユンが首を傾げながら蹴り技を繰り出す。


「悔しいが、俺はお前らと違って現王者じゃない。三位だが、一位、二位を差し置いて俺に声がかかった。なぜだろうか」


 モンゴル相撲の元王者――、カーン・ホトクトはこの集団の中で唯一の三十代である。


「恐らくだがスカウトの基準は人間性…私たちに共通して言えるのは清廉潔白、過去に微細なスキャンダルもなく、犯罪歴がないこと、そして、ある程度の手練れであることだ」


 空手の世界大会で一歩及ばず、準優勝に甘んじた神倉護は息切れ一つせずに正拳突きを繰り出す。


「過去に駐禁切符一回切られただけでも、この聖域に足を踏み入れる資格なしってことなのかな?変なの」


 オリンピック金メダル候補、重量級の柔道家ラヴィル・シュルチャノフは、目を丸くして皆に訊ねた。


「武器商人が懺悔のためにつくった宗教タワーなんだろ?ここ。要はそういった思想の関係で俺たちが呼ばれたってことか」


 カポエラの新星――、エドゥ・パッポエは西アフリカにルーツを持つブラジル出身のカポエラ・マスターだった。


「でもまぁ、この格闘技大会で恵まれない子供たちに収益がいくようだし、細かいことはいいんじゃないのか」


 プロレスラーのダニエル・エッカートはプロテインを飲み干す。


「早くタイに帰りたい…お父さんお母さん、弟たちに美味いもの食わせてあげたい…」


 ムエタイ王者パチャラ・メーキンタイはサンドバッグを殴りながら独り言を繰り出した。


「もし、格闘技大会が終わった後、宗教に勧誘されたらどうするよ」


 ヨーロピアン柔術の達人――、ゲオルク・ヨチスは眉を潜める。


「いや、ふつうに断るだろ。なぁ、お前もそうだろ?権堂」


 シュートボクシング王者――、ヘンリー・オールドマンは、自分のすぐ隣でサンドバッグにパンチを打ち込む権堂に向かって訊ねた。


「お前ら、余計なことは考えるな。命が惜しけりゃな」


 権堂はそう言って口を閉じる。


 他の十一人の格闘家たちは、呆気にとられていた。


「この十二人の中で権堂、お前だけが何のタイトルも持っていないし…その、なんていうかさ」


 プロレスラーのダニエルが言いにくそうに口を噤む。


「お前、日本で不良やってただろ」


 ボクシング・ヘヴィ級王者マーカスがダニエルの後に続いた。


「だから何だ」


「俺はこう見えて、ガキの頃から喧嘩を一つもやったことがないクリーンなボクサーだ。リングではパフォーマンスで過激な言動をするが、常に心を痛めてるほどだ。だが、お前だけは俺たちと違う。どんなルートでここへ呼ばれて来たんだ?」


 黒人ボクサーのマーカスは厳つい風貌にそぐわぬ繊細な瞳で権堂を見下ろす。


「…お前らは、これから起きる地球滅亡のシナリオから格闘家の種を残すためマイケル・ホワイトに選ばれた」


 権堂はマーカスの目を見つめた。


「俺は地下ファイトでドールアイズと知り合い、奴をリングに沈め気に入られたらしい。お前らと違って他人を傷つけて生きてきた。本来ならここに選ばれるべき人種じゃない」


「権堂…お前…」


 マーカスは吹き出した。釣られて残りの連中も吹き出した。


 権堂はそれ以上、何も言わなかった。


「お喋りはそこまでだ」


 遮ったのはドールアイズの声。


「権堂以外の奴らは俺についてこい」


「こいつらをどうするつもりだ」


 権堂はドールアイズに食ってかかる。他の連中はそのやり取りを目を丸くして見ていた。


「権堂、お前には関係ない。俺が用があるのはこいつらだけだ」


 ドールアイズの纏う空気が以前と変わったような気がした。


「そうか。勝手にしろ」


 権堂はサンドバッグを殴り続けた。


 十一人の格闘家たちはドールアイズに連れられ、トレーニングルームの外へ出て行った。


---------------------------


 数十分後――。


 十一人の格闘家たちは、光が明滅する暗黒の部屋で、涎と涙を垂れ流しながら天井を仰いでいた。


 彼らに投与されたのは適量のイソミタールおよびチオペンタール。投与された者の中枢神経に影響を与え、催眠状態へと陥らせる薬物である。


「そろそろ、電気ショックの出番だな」


 ドールアイズが指示を出す。部下数名が、男たちの頭部に電極と繋がったヘッドギアを装着させていく。男たちはされるがままに全てを受け入れた。


「あがががが」


 男たちの頭部へと電流が流れた。


 そしてそのヘッドギアから流れ出る「神の声」は、「我々、神の救世会は人類の大半を殲滅し、より良い世界を構築するのです」と訴えかけた。


「死んでしまいませんか」


 部下の一人が不安そうに言った。


「このくらいじゃ死なねぇよ。今後も新バベルの塔に招いた連中の中で改宗しない者にはこの方法を行う」


「何億、何十億という人々に、ですか?」


 部下の質問にドールアイズは、やれやれという表情になる。


「コミュニティで影響力のある人間たちにこれを行えば済む問題だ。人間ってのは不安になりゃ誰かに縋る。だがその実、誰かに自分の代わりに責任をもって判断してほしいだけなんだ。その言い訳を与えてやるには、人数に対するたった数パーセントにも満たない代表者たちを改宗させりゃあ、いい」


「にしても、こんな方法…薬物と電気ショックですよ?」


「九十年代に日本のカルト宗教が確立した方法だ。必ず成功する。ノアの救世会への信仰を望まない、あるいは疑いの目を持つインテリ野郎にはこうして科学を用いた洗脳をしなきゃならない」


 ドールアイズは踵を返し、テンキーの暗証番号を押して鉄の扉を開けた。


「一週間以内に仕上げておけ」


「畏まりました」


 部下たちは頭を下げた。ドールアイズは満足そうに頷くと、十一人の男たちが失禁した糞尿の香りと叫び声が響く部屋を後にした。


--------------------------


 新・バベルの塔、百階――。


 無機質な部屋で呼吸器に繋がれた父――、ラファエル・ホワイトがいた。心電図の電子音は規則正しく鳴り響き、彼の生命活動を証明している。


「くそ親父…そこで見ていろ」


 ドールアイズは毒づいた。


「お前らみたいな奴がいるから、母さんとアリシアは死んだんだ」


 俺のせいじゃない。ドールアイズは声にならない言葉を吐き出す。


 次に考えたのはアリシアの妹、シンシアのことだった。


 シンシアはあの日以来、姿を消してしまった。


 考えないようにすればするほど、シンシアの動向が気になって仕方がなかった。


「アリシア…俺を許してくれ…」


 シンシアをたくさん傷つけてしまった。


 頭の中で身体中を切り裂かれ、絶望の淵に立った血塗れのアリシアがこちらを振り返り、笑う。


「アリシア」


 アリシアは世界に絶望し、悪を憎悪していた。


「姉は自分を罰するためにあの場所へ出て行った。自死を選んだの」


 シンシアの言葉が蘇る。


 病院の前で報道陣に囲まれ、銃殺されたアリシアの姿が浮かんだ。


「時を戻せたら」


 もしも、時を戻せたならば――。


 あの日、部屋を出ていこうとしたアリシアを自分は無理矢理にでも引き留めるだろう。


 そして、嘘と憎悪と欲望で塗り固められたこの世界には、丸腰の正義では太刀打ちできないと彼女を説得するだろう。


「ねぇ、サングラス外そうよ」


 次に浮かんだのは、幼き日のシンシアだった。


「サングラスを外して」


 かつてアリシアも同じことを言った。


 醜い傷を見られたくはなかった。だがアリシアはすべてを受け入れると言った。


「見せてくれて、ありがとう」


 アリシアはドールアイズの傷を指でなぞり、あなたは何も悪くない。これから見るものすべては光と愛に包まれますように、と言った。


「俺はどうすればよかったんだ」


 ドールアイズは同じ言葉を何度も繰り返す。


 その時だった。


 懐のスマホが振動した。


 見慣れない国際電話の番号だった。


「マイケル!!!!」


 通話口の向こうから聞こえてきたのはシンシアの叫び声だった。


「シンシア、どこにいる!!!!」


 ドールアイズが問いただすも虚しく、通話口の相手は一瞬で代わった。


「はじめまして。ミスター・ホワイト。私の名はミスター・シャイ。仕事であろうとも人前に姿を出したくないものでね…シャイと名乗っている」


 加工された男の声だった。訛りのある英語。おそらく英語圏で生まれた者ではないことは推測できた。


「君の大切な彼女が死なないためには、私の要求を丸ごと呑んでもらう必要がある。それができない場合、シンシアには彼女の姉と同じ運命を辿ってもらうことになるが」


 単語選び、文法に間違いはないが、やはり男の語り口には違和感があった。


 間違いない――。


 米国政府高官か、あの狂った大統領トンプソンが雇い入れた裏社会の人間に違いない、とドールアイズは確信した。


「トンプソンの差し金か。奴は神の杖を欲しがっていたからな」


「依頼人については答えられない。君が語るべきは私への質問ではなく、今から掲げる要求に応えられるかどうか。イエス、ノーの答えだけだ」


 男は冷徹な口調で言う。


「私の要求は………」


 男――、ミスター・シャイは「とある要求」をしてきた。


「てめぇ!!!!頭がおかしいんじゃねぇのか???」


 ドールアイズはスマホ片手に唾を飛ばす。


「応じないならば仕方ない。女を殺す」


「待て!!!!」


 通話は途切れた。


「お、おい!!!おい」


 ドールアイズは狼狽した。


 通話の途切れたままのスマホに向かって、思いつく限りの懇願の言葉を述べた。だが、通話は途切れてしまった。


「くそっ…ちくしょう…」


 沈黙したままのスマホを意味もなく凝視する。


 数秒後、今度はテレビ通話でコールが鳴った。


 ドールアイズは微かな希望に縋るようにしてそれに出た。


「おい!アンタか?俺の話を聞け!カネならある」


「ミスター・ホワイト…」


 男はドールアイズの言葉を遮り、話し始めた。


「君は私の要求を断った。私は二度同じ提案はしない主義でね。報いを受けてもらおう」


 スマホの画面いっぱいに、中継映像が映り込む。


「マイケル!!!!今すぐ通話を切って!!!!」


 薄暗い部屋で椅子に縛られたシンシアが叫ぶ。黒いフードを被った男は右手に銃を持っていた。


「この女の頭蓋骨はチタン製だったよな…心臓に撃ち込めばくたばるか」


「待て!!!カネならいくらでもある!!!そうだ…お前には新しい世界での特権を与えて」


 その言葉を遮るように、無情な銃声が鳴り響いた。


 シンシアが椅子ごと転げ落ちる。中継映像はそこで途切れた。


 ドールアイズは叫んだ。


 声帯が張り裂けるほど、血飛沫を吹き出しながら叫んだ。


 シンシアは殺された。転げ落ちたシンシアの死体がアリシアの死体に重なる。


 もっとうまい交渉方法もあっただろうに。自分が感情を抑えきれなかったが為に、シンシアはあっけなく殺された。


 憎しみが視界を真っ黒に塗りつぶす。


 世界に価値などない。自分を含め全ての人間をぶっ殺してやりたいと本気で思った。


 沈黙していたスマホが、三たび振動する。


 番号は先ほどの男からだった。今度もテレビ通話の誘いだった。


 ドールアイズは通話ボタンを押す。


 男に呪詛を吐いてやろうと思った。


「てめぇの居場所は突き止める。そしてそこに核を落とす」


「おお、怖い。怖い。だがそんなお前に見せてやりたいものがある」


 男は含み笑いをした。


 男は画面いっぱいに「あるもの」を見せた。ドールアイズの目から形にならない涙がこぼれた。男は数分間ひとりで喋り続けた。


 ドールアイズはそれを黙って聞いていた。


 通話が途切れた。男からはもう電話がかかってこないことは確信できた。


 ドールアイズは笑った。


 狂ったように笑った。笑った、ただひたすらに笑い転げた。


「くそ親父…」


 眼下には呼吸器に繋がれた父――、ラファエルが眠っている。


「お前に見せる世界など、もうない」


 ドールアイズは腰元に差していたリボルバーを操作した。それは父がよく手入れしていたお気に入りの品だった。


「くたばれ」


 銃口が弾丸を吐き出した。


 父ラファエルの眉間に黒い穴が穿たれ、すぐにそこから真っ赤な血が流れ出た。


 心電図の電子音が異常を報せる。別室に待機していた医師と看護師が慌てて駆けつけたが、事態を把握してすぐに部屋から飛び出た。


 ラファエルの遺体は、長い間閉じていた瞳をかっと見開き、ドールアイズを睨んでいた。


「…年末の音楽フェスも、四十三億人の救済も中止だ」


 ドールアイズは笑った。むせび泣くように笑った。そしてリボルバー片手に、腹を抱えたまま笑い転げた。


 そこには母と、アリシアの姿は見えなかった。シンシアの幻影だけが微笑んでいた。

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