第6話 殷画高校最強の3年生、権堂のメンツ
「お前の親父さん、辰道さんはなぁ、うちの組のメンツを守って死んでいった。立派な男だったよ」
10年前―。
"前島さん"と呼ばれる男が、権堂母子(ごんどうおやこ)のアパートに月一度のペースで出入りするようになったのは、権堂家の主(あるじ)、権堂辰道の四十九日が過ぎてからだった。
「前島さんに挨拶しなさい」
20代後半で未亡人となった母は、父以外の大人の男性を目の当たりにして萎縮する一人息子―権堂辰哉にそう促した。辰哉はまだ小学1年生だった。
"前島さん"がアパートに来る日はいつも月初めの日曜だった。
母は小学校が休みの辰哉に千円札を何枚か握り締めさせ「夕方まで帰ってきちゃダメ」と言った。
一人っ子だった辰哉は、時間をつぶすため意味もなくスーパーやゲームセンターをうろうろした。空が茜色に染まるまで駄菓子を買って空腹を紛らわせた。小学校の上級生に目をつけられ、残りの金を巻き上げられることもあった。
「お菓子をできるだけ盗んで来い。うまくいったら仲間にしてやる」
金を巻き上げるだけでは飽き足らず上級生は言った。気弱な少年だった辰哉はそれに従い、スーパーの店員の目を盗みランドセルいっぱいに駄菓子を詰め込み、公園へと帰還した。
上級生に褒められた。だが、上納した駄菓子の山から辰哉に与えられるのは、一番安い駄菓子だった。不公平だと思いながらも、自分の倍ほどの体格がある上級生を前にして、辰哉は「悔しい」と思わなかった。自分は弱い。弱い立場だから強い立場の者の言いなりになっても仕方がないのだ。―強きに従え―辰哉は本能レベルで社会の仕組み、弱肉強食のルールを理解していたのだ。
ある日の事だった。体格差のせいでサッカーや野球などの遊びについていけない辰哉は「もう帰っていいよ」と上級生に言われた。太陽は南に昇ったままだった。夕方まで帰れない。そう思ったが「ジャマだ」と睨まれ、辰哉は公園を渋々、後にした。
帰路を遠回りして時間をつぶしても、夕方までまだ時間があった。アパートにはきっと"前島さん"がいるだろう。しかし、お金も巻き上げられ行く場所もなかった辰哉は帰宅しようと思った。
鍵を差込みドアノブを開けると、そこから聞こえてきたのは、母に馬乗りになる"前島さん"の姿だった。なぜか二人とも裸だった。
前島さんの背中には在りし日の父とまったく同じ構図で龍が描かれていた。
母を守らねば。少年の心にうまれて初めて闘争心が芽生えた。守らねば。守らねば。守らねば。刺してやる。辰哉は台所から包丁を抜き取ると"前島さん"に突進していた。飛び散る血液。しかし、刃先は本人の意図とは裏腹に、突き刺さらず右わき腹の肉を少し抉っただけだった。
「なにしてるの!」
母の声とともに"前島さん"の拳が飛んでくる。辰哉は壁に叩きつけられ吹っ飛んだ。意識が遠のく。「すまねぇ、ボウズ、つい―」そんな声が聞こえてきたが視界は暗転した。
「気がついた?」
目が覚めるとそこには母がいた。"前島さん"はいなかった。
「お母さん。前島さんに何かされたの?」
辰哉の言葉に母は困ったような顔をしていた。
「忘れなさい」
母は冷たい口調で言った。
「前島さんは、なんで毎月うちに来るの?父さんと同じ絵が背中に描いてあった。お母さんは前島さんを父さんの代わりにしようとしてるの?」
「バカ」
母の平手打ちが飛んできた。辰哉は頬の痛みより、母の流す涙の理由に困惑した。
「前島さんはね。お父さんの弟みたいな人だったの。だからね。私たちが困らないように、死んだお父さんの代わりに、毎月お金をもってきてくれているのよ。だから前島さんには感謝しなくちゃいけないのよ。…代わりだなんて言ったらダメ」
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父は"ヤクザ"と呼ばれる人種だった。
父は世間では"鉄砲玉"と呼ばれる立場だった。
それを母から聞かされたのは、辰哉が小学校高学年になってからだった。
父―権堂辰道は、敵対する組の事務所に単身乗り込み、組員すべてを射殺したが、自らも深手を負い、数時間後に路地裏で絶命したという。
権堂辰道が属していた組―「梵能組(ぼんのうぐみ)」は、権堂の功績と慰謝料の意味も含めて、その息子、辰哉が成人するまでの14年間、生活費の援助を母子に約束した。
しかし、表立って銀行口座に送金するわけにはいかない。金の運び係として命じられたのが、前島だった。
前島は、辰哉の母に恋心を抱いていた。かつての兄貴分、辰道を慕うあまり、同じ彫師に頼み込み、辰道とまったく同じ構図で"昇り龍の刺青(ほりもの)"を入れたのだと嬉々として語る前島に、母もいつしか心を許していた。二人が男女の仲になったのは父の一回忌を越えた頃からだったらしい。
「決して俺は、独り身の弱みにつけこんだわけじゃあねぇぜ」
"前島さん"は男同士のサシの話し合いと称した―二人きりの日帰り温泉旅行で、小学校6年生の辰哉にそう言った。
紅葉の美しい鬼怒川温泉で、貸切露天風呂に浸かりながら"前島さん"は続けた。
「お前の親父さん、辰道さんはなぁ、うちの組のメンツを守って死んでいった。立派な男だったよ。…お前もな、辰哉。男としてのメンツだけは守りぬけ。お前には、あの人の血が流れてんだぞ」
"前島さん"は笑っていた。自らの背中をピシャリと叩いた。父と同じ背中の"昇り龍"その右わき腹、龍の鱗にあたる部分には直径5センチほどの傷があった。あの日、辰哉がつけた包丁の傷跡だった。
"前島さん"をお父さんと呼ぶ事はできない。
でも辰哉にとっては父親同然の存在だった。あの日の事を謝りたかった。いつか謝ろうと思っていたが、あの日の出来事に決して触れようとしない"前島さん"に対し、謝る機会が与えられないまま、時が過ぎていった。
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「お前の母ちゃんとよ、祝言あげることにした」
深夜のコンビニ駐車場。
奮発して買ったという中古の外車で乗りつけ、中学にあがり不良仲間とつるんで夜遊びに呆けていた辰哉会いに来るなり"前島さん"は言った。お伺いを立てる形ではなく"確定報告"といった体裁で物言いをしているが、辰哉に反対されるのではないかと一抹の不安があったのだろうか、"前島さん"の視線は多少泳いでいた。
「へえ」
心無い返事をする辰哉を小突きながら"前島さん"は笑っていった。辰哉の不良仲間は羨望の眼差しを辰哉に向けた。
「マエジマさんが辰哉のオヤジになんのか~、渋いな辰哉!それに比べて俺のオヤジときたらよぉ~羨ましいぞ、辰哉ぁ!」
「うるせぇよ」辰哉は冷やかしてきた不良仲間に蹴りを入れた。
「俺はあの人の代わりにはなれねぇけどよ。オヤジとしてお前とお前の母ちゃんを、命はって守れる男にはなれるぜ」
"前島さん"は笑った。不良仲間たちの前、気恥ずかしさがあってその言葉を無視したが、辰哉にとってその言葉は何よりも嬉しかった。
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その言葉通りになった。
その言葉通りになってしまった。
数日後、10月のある日。前島は、権堂母子を守って絶命した。奇しくもその日は権堂辰道の命日でもあった。
部屋でこじんまりとした父の回忌供養を終え、外食でもしようと3人がアパートを出たところ、黒いフードパーカーを着込んだ男の襲撃を受けたのだ。前島は母子をかばい、身を挺して前に出た。腹部に深く突き刺さった包丁。泣き叫ぶ母。辰哉は全速力で走り犯人を追ったが見失ってしまった。
サイレンの音。救急車で運ばれたがすでに"前島さん"は事切れていた。
犯人は、かつて父が壊滅させた某組の残党(当時、別件で服役中だったため、辰道の襲撃を免れた元・某組員)によるものだと警察は見解を述べた。犯人は先月出所したばかりで、辰道の命日であると同時に自分が所属していた組員全員の命日である今日、計画的に"権堂母子"襲撃を実行したのではないだろうかとも述べていた。
「いくら遺恨があったって、カタギの母子を殺しても得にならんだろ。やつの狙いは前島だったんだ。某組は解散したが、その親組織の差し金かもしれんな」
梵能組の幹部は"前島さん"の葬儀の席で悔しそうに言った。
「辰道の命日に前島を殺したのも意趣返しだったのかもな。許せねえ。それ以上に悲しくて悲しくて泣けてくらあ。二人して秋空に昇っていっちまいやがったか」
組員の啜り泣きが聞こえてきた。
泣きつかれた母も老け込んだようだった。父の死の時は幼かったせいもあり、あまり記憶にも残っていなかっただけに"前島さん"の死は、辰哉にとって人生最大の悲しみとなって胸に深く刻まれていた。
犯人は数日後に逮捕されたが、それにより"前島さん"が浮かばれるだろうと言う者は、もちろん誰ひとりとしていなかった。
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「男はな、メンツだけは守りぬけ」
瞼の裏の父の残像と、"前島さん"の言葉が重なる。
「父さん」
辰哉は涙ながらに呟いた。父と"前島さん"どちらにかけた言葉か自分でも分からなかった。もしくは、二人にかけた言葉かもしれなかった。
「俺がもっと強ければ。あの時、動けていれば。父さんを、前島さんを、守れていたかもしれないのに」
守れなかった。守りたかった。守らねばならない―。
何を守るべきなのか―?「男はな、メンツだけは守りぬけ」"前島さん"の言葉が残響のように心に染み渡る。
メンツを守れ、守れ、守りぬけ。腰抜けと呼ばせるな。狂犬と怖れられろ。組のメンツを守るために死んでいった父を、父の誇りを、自分らを守るため死んでいった"前島さん"を、前島さんの誇りを守るため。そして、権堂家の名を守るため、何があろうと戦い続けねばならない。舐められてはいけない―男はメンツを守りぬかねばならないからだ。
痛みを堪え、学校内で、街中で、店内で、路上で、路地裏で、広場で、必要とあらば積極的に殴り合いをするようになった。自分にケンカを売る連中、気に入らない連中は、もれなく全員ぶちのめした。
格上にも臆することなく立ち向かった為、負ける日もあった。だが、翌日必ず再戦を挑んだ。奥歯を折られ、指の骨を折られ、地べたを舐めながら何度も何度も、立ち上がった。「俺を舐めるな。父さんを舐めるな。"前島さん"を舐めるな。権堂の名を舐めるな」病院に運ばれ、警察に呼ばれ、母は泣いていた。母を泣かしているのは権堂のメンツを守りきれない自分のせいだ、辰哉はそう思った。舐められてるからケンカを売られるのだ。ケガをするのだ。もっと俺は怖れられなければいけない。強くならなければならない。誰もが避けて通る、怖れられる男にならなければならない。
一歩も引かない男、権堂辰哉の噂は徐々に広まっていった。
権堂辰哉の世界は暴力に塗れていた。
血まみれになりながら修羅の如く笑みを浮かべ、ひたすら殴り合いを続けた。病院に運ばれる事は少なくなっていった。場数を踏むうちいつの日か、痛みに耐える日々ではなく、ケガを回避する術―防御を覚えたからだ。相手の拳が見える。避ける。体の動きで次の一手が見える。感じる。相手が何かを繰り出そうとする瞬間には、権堂の右拳がその相手の急所を的確に捉えていた。ついには誰も権堂にケガを負わせる事はできなくなっていた。
超人的とも言える動体視力。開花した暴力の才能。「あいつにだけはケンカを売るな。あいつにはパンチひとつ当てられない」中学3年の夏以降、遂に権堂は負け知らずとなった。
誰ひとりとして、小学校時代の権堂辰哉を知らない。弱かった少年時代の権堂辰哉を知らない。小学校時代に辰哉をいじめていた上級生は恐怖のあまり口を噤んでいるからだ。
権堂辰哉は"敗北を知らない男"として祭り上げられ、小喜多内市で二十数名の少年たちがその下についた。権堂を慕っている者。権堂に惚れた者。権堂に破れたのちに、権堂にかつての自分の夢を託そうと傘下になった者。
「権堂組」―。二十数名の精鋭は周囲からそう呼ばれた。かつて弱気だった、強者に搾取されるだけの弱気な少年の影は、完全に消えうせていた。
なぜ権堂は拳を振るうのか?相手を屈服させるのか?答えは一つ。暴力に塗れたこの世界の中で、父が与えてくれた、"前島さん"が守ってくれた、この「権堂」の名が持つ名誉を、メンツを守り抜くためだった。「誰にも舐められるな」権堂は中学生でありながら、いつしか同年代の少年たちから怖れられる怪物になっていた。
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権堂は、入学してたった1週間で、殷画高校最強の座に昇りつめた。根性のない2年生、3年生は殴り合いをする間もなく権堂の「最強」の噂、称号に降参した。
「殷画高校の権堂のオヤジは、ヤクザの鉄砲玉として利用されて、情けなく犬死したらしいぜ」
6月―。
そんな噂が出回り始めた。噂のもとを突き止めた。隣町の往訪(おうほう)高校の1年生、誉田(ほまれだ)という男が発信源だった。話に聞くところによれば誉田もヤクザの息子だった。誉田もまた最強の称号を欲しがっていた。これまで両者は衝突する機会がなかったため、お互いに高校へあがったこの時期、誉田は権堂を挑発してきたのだった。
「オヤジは組のメンツを守るため命を張って死んでいったんだ。オヤジを侮辱するヤツは許さねぇ。ぶっ殺してやる」
怒り狂った権堂はその日のうちに、自分と同じく殷画高校に入学した「権堂組」二十余名を引き連れ往訪まで乗り込み、往訪高校の校舎内で乱闘を始めた。だが、数分が経過し、どこからか校舎中に防犯用の催涙ガスが充満した。生徒たちは戦闘不能に陥った。「往訪高校では生徒たちの暴動を鎮圧するために教師は武装し、催涙ガスまで準備してるらしいぞ」誰かが言っていた。噂は本当だったらしい。結局、むせ返る空気の中、権堂と誉田は直接対決することなく、駆けつけた教員たちによって乱闘は終わらされてしまった。後に殷画高校と往訪高校の話し合いの末、警察沙汰にはならなかったが、雌雄決することなく引き離された両者の間には遺恨が残り続けた。
「3年にあがったら、もう一度しかけるぞ」
権堂は言った。ほとぼりが冷めたころ、万全の準備を期して抗争を仕掛けるのだ。
「誉田の情報を集めろ。何でもいい」
権堂は言った。情報が次々に集められた。
「誉田の身長は189cmらしい」
「誉田の身長は192cmらしい」
「誉田の体重は90kgで、ほとんどが筋肉らしい」
「誉田は空手をずっとやっていて黒帯らしい」
「誉田のオヤジはどこかの組の若頭らしい」
「誉田の母親は昔、銀座でナンバー1ホステスだったらしい」
「誉田には兄が一人いて、その兄は東京でオヤジのツテでヤクザの企業舎弟をしているらしい」
「誉田はこれまで300回以上のケンカを売って、負けたのは3回だけらしい」
「誉田の趣味はボクシング観戦。とても手に入らない世界防衛のプラチナチケットを仲間全員分、気前よく用意したらしい」
「誉田の好きな食べ物は天下無双ラーメンらしい。月に2度、店で見かけるらしい」
「誉田の好きな動物はライオン。実家で飼っているらしい」
「誉田は男が好きらしい。女には興味がないらしい」
「誉田の好きな女性のタイプは演歌歌手の源田早苗らしい。50歳以上の女性にしか興味がないらしい」
「誉田はアイドル好きらしい。歌手の浮菜リホ(うきなりほ)。通称リポリンの大ファンだが、仲間はその事に触れないらしい」
「誉田は5歳以下の女児にしか興味がないらしい」
「誉田の好きなマンガは…」
「誉田がカラオケで歌う曲は…」
「誉田の好きなAV女優は…」
次第に、矛盾していたり、ウソか本当か分からないどうでもいいような情報が集まり始め、もういい。と権堂は言った。報告する連中はアホな内容の情報を伝える時も大真面目な表情だったため、それを責めるような事は言えなかった。
「もう情報は充分だ。2年後の計画を練ろう」
そう言って、権堂は誉田への憎しみ。傷つけられたメンツを取り戻すことに執念を燃やし始めた。
権堂組の面々は各々、空手、ボクシング、キックボクシング、柔道など格闘技道場などに通った。いつか雪辱を晴らすため、権堂のメンツを守るため、人から教えを請う事を嫌っていた不良少年たちは、大人に頭を下げ、せっせと練習に励んだ。
権堂自身も遊んでいたわけではない。様々な格闘技の基礎から練習し、培ってきたケンカの技術と融合させ、自分よりも10cm以上背が高く体格の良い誉田との対決に備えていた。
時が来る―。
3年目の10月。抗争を仕掛ける最後のチャンス。権堂の背は186cmまで伸びていた。聞くところによると誉田の身長は193cmで止まったらしい。体格差はこの2年で埋められた。腕力もぐんと上がった。
権堂は、父親の"前島さん"の命日―10月31日に決行することを皆に告げた。この日、往訪高校前で待機し門外に出た誉田らを襲撃する。武器は持つな。ステゴロでやれ。俺は誉田と3分で決着をつける―。
「俺に命、預けてくれ。ヤツを、誉田をぶちのめせば、俺らに舐めたクチ聞く連中なんざ誰もいなくなる」
誉田をぶちのめせばよ―メンツは保たれんだろ?オヤジ。前島さん。権堂は空に向かってそう言った。
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10月24日、金曜日。運命の日まであと1週間。
放課後、3年B組の教室には「権堂組」22名が集結していた。
金や銀、緑や赤の頭髪に刈り込みの坊主頭、レゲエ頭、スキンヘッドなど思い思いの髪型をしている連中が、"計画"実行までは誰一人、校内、校外で問題を起こさぬよう努めていた。血に飢えた男たちは、各々の格闘スキルについて雑談し、31日に往訪の連中とどう渡り合うかシュミレーションしている。
校庭では部活動に勤しむ生徒たちの掛け声や、白球が金属バットに跳ね返る音が聞こえてきた。スポーツ部の生徒たち―彼らは叶わぬ夢に向かって日々を費やしている。弱小高校でどれだけ頑張っても、その道で大成する事は叶わぬ夢であるし、スポーツ推薦枠を狙うにしてもインパクトが弱い。
往訪高校は腕っ節で有名な学校だった。「お前ら、わざわざココに入ってきたのに、殴り合いで、名を売らないでどうするよ」権堂は、意味のない努力を重ねる運動部の連中を見下ろしながら、欠伸を噛み殺し呆けていた。
「あんだ?てめぇ」
権堂組の何人かが来訪者に向けて威嚇する声が聞こえてきた。権堂は窓枠に腰をおろしたまま、ドアに立ち尽くした一人の"生徒"を見つめた。
「おい。なんの用だ、コラ」
剣呑な男たちに恫喝され、"生徒"はオロオロとしていた。
「あの…す、すいません。私、生徒会長の…3年A組の真田公平と…申します。このたび、あの、皆さんが、往訪高校の方々と、抗争をするという通報を一般生徒から聞きまして…あの…その…」
「あぁ?なんの話だコラ。おめぇには関係ねぇだろ。すっこんでろ」
「あの…抗争は…やめていただけませんでしょうか…?」
身長およそ168cmほど。痩躯で黒髪のメガネをかけた生徒会長は震えながら言っていた。視点は常に床にむけられている。
「あ…あの、ごめんなさい。失礼します」
真田は帰っていった。
「なんだ?あいつ」
権堂組の連中はあっけにとられながら、廊下の向こうへと消えてゆく生徒会長―真田の姿を見送った。事態を飲み込めない権堂も腰を上げて、わざわざ真田の後姿を見送った。なんだ?あいつ―権堂自身も皆と同じ言葉を胸の中で呟いた。
やがて、真田と入れ違うようにして"3人の生徒"がB組の教室の方へと歩いてきた。
こちらへ歩いてくるのは、春日と久住だった。あと一人は分からない。おそらく1年生だろう。今年の新入生には生意気なのがいなかったので3年自ら赴く事はなかったため、2年生までしか名前と顔を把握していなかった。春日と久住は、彼らがグレ始めた頃、権堂みずからヤキを入れてやったことを思い出した。あの一件以来、他の生徒同様に二人は権堂を畏怖するようになった。
「よぉ、お前らも参加できそうか」
権堂は、二人に声をかけた。春日と久住は1週間後の抗争に加わる決意をしたに違いない。彼らの参加は正直、有難かった。
癪ではあるが、往訪高校の誉田の兵隊は30名。それに対し、こちらは22名。春日や久住や他の2年生が加わってくれれば、数に阻まれず、すんなりと誉田と直接対決に臨める確率がぐっと高くなる。権堂は思わず頬が緩んだ。
「この前は、どうも」
無言のままの春日と久住をよそに、名も知らない1年生が権堂に話しかけてきた。背は平均ほどだが筋肉量はあるのがブレザー姿のままでも分かった。運動部だろうか。眼光が鋭い。
「あ?誰だお前」
「1年E組の有働努といいます。先週、皆さんの道のジャマになって蹴られてしまった有働です。その節はすいませんでした」
「なんか、そう言えばジャマな野郎いたな」
後ろで誰かの声がした。
「俺らに踏んづけられた1年か」
他の誰かが嗤った。
有働と名乗る1年の目つきが険しくなった。「こいつは俺に敵意があるな」権堂は久しぶりにイキの良さそうなのを前にして、面倒な気持ちが湧き上がってきたが、数分で片付けてやろうかと思いワイシャツの腕まくりを始めた。ネクタイは元々、締めていない。校則違反だろうが関係なかった。自分にとって命取りになるモノを四六時中ぶらさげるつもりはなかったからだ。
「有働とやら。何してきた」
権堂は自分よりも10cm以上背が低い有働を睥睨し、訊ねた。有働は険しい視線を臆することなく権堂へぶつけてきた。
「さっき生徒会長の真田さんが言ったでしょう?抗争をやめてください、って。抗争やめてくださいよ」
有働は薄ら笑いを浮かべている。何を考えているのだ。気が狂っているのか。権堂の率直な感想だった。春日と久住は黙っていた。二人とも有働に従うという事だった。
「おい、春日、久住。どういうことだ」
「権堂さんと誉田の因縁は…自分も知ってます。でも…ガチでぶつかったら死人でますよ…やめましょうよ…権堂さん。考え直してください…」
春日が震え声で言った。久住も頷いた。
「てめぇ、わざわざやめろって言いにきたのか。この俺に」
春日は凍りついたように動かなかった。久住は小刻みに震えていた。
「そうですよ」
有働が言った。間違いない。春日も久住もこの有働と言う1年生に篭絡されたのだ。「舐めてやがるな」メンツを保つため、この有働、春日、久住の3人をこの場で今すぐぶちのめせばそれで問題はなかったが、権堂はぶちのめすよりも先に、率直な気持ちを有働に投げかけたいという、自らの好奇心に従った。
「止めて何になる。何が目的だ?頭がおかしいわけじゃねぇよな」
「この学校から一切の私利私欲の暴力を排除します。他校に迷惑をかける事も許しません。俺は今、さきほど出て行った生徒会長の代理としてここにいます」
断罪するような有働の物言いに、権堂は敬意を払った。自分を怖れぬ者の眼差し―心地が良かった。出会う場所を間違えていなければ、有働とは対等な友人関係を築けたかもしれない。場違いな想起が脳裏を支配した。
「俺に意見する権限はあるってか。おもしろいな。止めてみろよ」
嘲笑で湧いた教室内で誰かが言った。
「黙ってろ」
権堂の一喝で嘲笑が止んだ。
「俺が、権堂さんの唯一"得意分野"で勝ったら、抗争やめてもらえますか?」
「やめてもらえますか?じゃなくて、やめさせてみろよ」
権堂が有働に向ける眼差しは蔑視や挑発などではなかった。男が男に意地をかけて向き合う時のそれだった。
「そこにいる20人全員で僕にかかってきますか?」
有働の言葉に教室の誰かが吹き出しそうになったが、権堂を怖れてかこらえていた。
「お前おもしろいな。俺が直々に相手してやる。教室にはいれ」
有働がにやけながら教室へ入る。お前は入るなと言わんばかりに春日と久住の目の前でドアが閉められた。カーテンも閉められた。机と椅子が黒板側に寄せられる。
有働はブレザーを脱いだ。ネクタイをほどいた。ワイシャツの袖をまくった。革靴をトントンと床に叩きつけ、にやついていた。
「権堂さん。アンタがどれだけ自分の強さを勘違いしてるのか、教えてやりましょう。結果がここで出れば、抗争なんてバカな事考えなくなるでしょうから」
有働の目は血走っていた。こいつは何のためにここにいるのだ。なぜ暴力を否定しながら、これから行われるであろう暴力の応酬を楽しもうとしているのだ。
権堂にはすべてが分からなかった。だが、気を抜いたら痛い目に遭うだろう―直感がそう告げていた。
俺は何のためにこいつと戦うのだ。メンツのためだ。そう―オヤジ、"前島さん"あんたたちが命を張って守ったもの。権堂のメンツを俺は守る。
そのためには、有働を全力で叩き潰すしかない。権堂は左ジャブを繰り出した。
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打つ、討つ、撃つ、ウツ―。
壁に、床に、血飛沫が飛び散る。骨と肉がぶつかり合う音がする。「権堂組」の面々は二人の男の成り行きに見とれていた。
権堂も有働も人相が分からなくなるほどに顔をパンパンに腫れ上がらせ、ワイシャツを鮮血に染め上げながら殴り合いを続けていた。
「バケモンだ。二人とも」
「もう20分も全力で殴り合ってるぞ」
「どっちも退かない。有働、あいつは何者だ」
権堂と有働は互角に渡り合っていた。権堂は鬼の形相。有働は狂人の様相で笑みを浮かべていた。皆、自分だったら有働を相手に何十分、いや何分、立っていられるだろうかと考え始めていた。
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「有働。なぜだ、なぜ倒れない―」
権堂は、有働の顔面めがけて血まみれの右拳を繰り出す。
避けられた―。
憎き有働は―避けた直後、左肘をつかい、宙を彷徨う権堂の右拳をブロック。
権堂のふところに潜り込んだ有働は、右拳を権堂の腹部に叩き込んだ―。
重い一撃。
権堂は、胃液が逆流するのを堪えた。
射程距離に近づいた有働に、権堂はすかさず左拳を叩き込む。
紙一重で避けられたが、左膝で有働の腹部を射抜いた。
有働が蹲る。
チャンスだ。
有働の左頬めがけて、宙をさまよっていた右拳を握りなおし叩き込む。
有働の鼻血が空中を飛散する。
赤い、紅い血潮だった。
有働の唸り声が聞こえる。
すかさず、左拳を有働の右顎に叩き込む。
有働は唸る。だが倒れない―。
「なぜだ、なぜ倒れない―」
権堂の心の声だった。無意識に呟いていたかもしれない。
有働の顔面に、右拳、左拳と、交互に繰り出す。
有働の血が飛沫となって権堂にふりかかる。倒れない。
倒れなかった。倒れない―倒れない。なぜ倒せない?
血まみれの有働が嗤った。
こいつは気が狂ってるんだ。
権堂は絶望した。
こいつにとって"暴力"は"手段"ではなく"自己表現"なのだ。
有働は道化のような表情で、軽やかに右回し蹴りを権堂の頸部に叩き込む。
どこにそんな体力が残ってやがった。
恨み言くらい叫ばせてくれ―。
脳が揺らいだ。頚椎に衝撃が走る。これはシャレにならん。
よろめく権堂のアゴに有働の拳が叩きつけられる―
―前に、権堂は右拳でそれをブロックした。
間に合った。
これを食らったらひとたまりもなかった。
ブロックと同時に、拳が砕ける音。
有働のものではない。その音は痛みを伴っていた。
砕けたのは権堂の右拳だった。
悲鳴をあげたかった。悲鳴をこらえた。
メンツを守らねばならない。
俺は、オヤジと"前島さん"の守り抜いたものを守らねばならない―。
痛みを堪え、潰れた右拳を有働の顔面に叩きつける。
骨の砕ける音。
有働の鼻の骨を折ってやった―。
いや、完全に折れたのは自分の右拳だった。
なんだこれは。現実か、夢か。
無意識に左拳を繰り出していた。
どうやら有働の右頬にめりこんだらしい。
眼前に移ったのは、パンパンに腫れ上がった有働の顔。
「バケモノじゃねぇか」
権堂は鏡―有働に向かって言った。
「お互いな」
有働がそう言ったような気がした。
倒れてくれ。
頼む。頼む。頼む。
俺はここまで痛みを堪えて頑張ってきたんだ。
メンツのため、オヤジや"前島さん"のため―。
ずっと、ずっと堪えてきたんだ。
お前なんかに奪われてたまるか。
なぜだ、なぜ倒れない―。
何度も何度も、お前を殴り続けてるだろう。
なぜ倒れない―?
「じゃあ、なぜお前は倒れないんだ」
有働が言った。
いや、言ったような気がした。
実際に言ったのは"前島さん"だった。
懐かしいな、何年ぶりだよ―前島さん。
「メンツのためだよ。前島さん」
権堂は踵を有働の腹部にめり込ませた。
有働が吹っ飛ぶ。
窓ガラスが砕け散る。
校庭で悲鳴が聞こえた。
「死んじまえよ。有働」
有働。有働。有働―?
割れた窓ガラス。
床を見たが有働は倒れていない。
校庭に飛んでいったか。
蹴飛ばしただろ。吹っ飛んだだろ?
お前吹っ飛んだんだよな?
よかった。
これで、有働の相手をせずに済む。
あいつは消えてくれた。
全身の筋肉が軋む。
これじゃ1週間後の誉田との抗争に備えられない。
くそ。
ふざけやがって。
「どこ向いてるんですか」
背後から声が聞こえた。
粘着質な、死神の声。
ふざけるな、てめぇ、たった今窓から落ちただろ。
いい加減死ね―
瞬間、身体が重力を失った。
有働が自分を投げ飛ばしたのだと理解するまで数秒を要した。
馬乗りになって、何度も何度も、何度も、何度も…。
有働は権堂顔面に拳を叩きつけていた。
「嗤ってやがる。キチガイが」
権堂も嗤った。
「俺も狂人か」
有働は権堂を殴り続ける。
誰も怖れて手を出そうとはしない。
止められない、止まらない―。
痛みの感覚が麻痺を始めた。
「それ死ぬ証拠だよ」
"前島さん"が笑っていた。
勘弁してくださいよ。
「重いもの背負わせちまったな」
"前島さんが"ペロリと舌を出した。
いつもの悪気のない、屈託のない笑顔だった。
「ホント、いつもいつも。ウチの母親と寝た日もそんな顔してただろ―アンタ」
"前島さん"がすまねぇと頭を下げた。
でも顔は笑っていた。
有働が殴り続ける音が頭蓋に響き渡る。
俺は死ぬのか―メンツのために。
メンツのために死ぬのが男らしいのか?
幸福なのか?
「俺はよ。メンツなんかどうでもいいから、死にたくなかったぜ」
"前島さん"がペロっと舌を出して言った。
そりゃねぇだろ―。
俺だってよぉ、死にたくない。
死にたくない。
そうだ―。
この有働とか言うキチガイに命乞いをしてみようか。
「ころさ…ない…で」
聞こえねぇか。
唇の感覚が麻痺しちまってる。
権堂は死期が迫ってる事を悟った。
「…か?」
有働が何かを言っている。
有働が、何かの選択肢を俺に与えようとしている。
なんだ?
なんと言っている―?
「…か?」
「もう…か?」
「もう…ないか?」
「もう…しないか?」
「もう…抗争…しないか?」
有働の拳の雨は止んでいた。
周囲は静寂に包まれていた。
有働の血まみれの右拳が頭上で止まっている。
権堂は悟った。
自らの言動ひとつで、自らの命を救う事も、絶つ事もできる―と。
(はい。抗争なんてしません。すいませんでした)
権堂はその言葉を…
その言葉を…呑み込んだ。
呑み込んでやった。
よくやった。
よくやったぞ、辰哉。
幸い誰にも聞かれなかったとは言え、さっきは命乞いをしてしまった。
だがな、辰哉。
二度も負け犬になる必要はないんだ。
お前は命乞いをしなかったため、有働に殺されるだろう。
だが、お前は男としてのメンツを潰さずに死ぬんだ。
お前は頑張ったぞ、辰哉。
本当はオヤジに言ってほしい言葉だった。
"前島さん"にかけてほしい労いの言葉だった。
だが、二人ともいない今、自分で自分を褒めてやるしかできなかった。
自己憐憫で、涙が溢れ出した。
さぁ、最期の言葉を吐いてやれ。
そして華々しく、男らしく死んでいくんだ。
「男だったらメンツを守って死んでやらぁ」
有働に言ってやった。
つもりだった、が反応はなかった。
おそらく声が漏れただけで、言葉としての体裁を保っていなかったのだろう。
有働が言葉を待つ。
権堂が言葉を搾り出す。
「誉田の…方から…う…、うってきたケンカ…だ。あいつが…俺に…詫びない…限り…俺は…あ…あいつを…許さない…」
命乞いの言葉を呑み込み、搾り出した言葉だった。
死の恐怖と戦いながら、搾り出した本心だった。
涙が溢れ出して止まらない。
命を賭してでも、父の誇りを、"前島さん"との約束を汚す事はできなかった。
(あいつは、俺のオヤジを犬死だと言った。俺のオヤジをバカにしやがった。許せるわけねぇだろ)
有働にそう言ってやりたかった。
だが、言葉を発する体力はもう残っていなかった。
さぁ、もういい。
殺せよ、有働。
周囲からすすり泣く声が聞こえる。
あいつら―権堂組はもう解散だな。
「じゃあ、誉田から謝らせます。そしたら権堂さんも、抗争とかバカなマネ、二度としないでくださいね」
権堂の身体から有働の体重分の重力が消えた。
有働は立ち上がったのだ。
(お前…俺の…話が通じたのか…俺は…い…命拾いをした…のか)
権堂の頬を温かいものが濡らし続ける。
血ではない。涙だ。
俺は涙を流しながら喜んでいるのか。
守れた事を―。
そう―。
権堂辰哉は、あの日―前島さんが守ってくれたもの―"命"を守る事ができた。
命乞いの言葉を呑み込み…"交換条件"を有働に呑ませる事で、辛うじていくらかの"メンツ"を守る事ができたのだ。
「俺は…守れたよ…」
権堂は、言葉にはならない声を…宙に向かい、搾り出した。
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