第5話 和解と涙
春日と久住に"石黒から全てを奪ってやりましょう"と宣言してから9日後―。
日曜の午後2時すぎ。
内木の部屋で、有働は腕組みをしながらデスクトップパソコンの前に張り付いていた。
珍しい来客―春日と久住が、部屋の隅で煙草に火をつける。内木はその煙が美少女フィギュアの方へ流れていかないか神経質に視線を泳がせている。
有働のスマホが振動した。インスタントメッセージの内容を確認する。
「きましたよ」
有働は皆に言うと、内木のパソコンのブラウザを立ち上げ、メールを起動した。
差出人は「栞(しおり)」
添付された複数のファイルの一つめを開くと、全裸の石黒教諭と複数の男たちの"行為"の動画が現れた。興味本位で覗き込んだ内木が吐き気をこらえる。
春日と久住は、部屋の隅で煙草を吹かし続けていた。
「昨日、撮りたての動画だそうです。先輩。これでどうすか…」
春日がタバコを片手に、その動画を確認する。想像を絶する光景に心を揺らされたようだが表情は必死に平静を保とうと努めていた。久住はタバコを咥えたまま部屋の隅から微動だにしなかった。春日が久住を呼ぶ。久住が動いた。だが、パソコンの画面を見ようとはしなかった。
「石黒を徹底的に追い込むチャンスですよ…」
有働は機械音声のように、感情を込めずに言った。ジーンズの中に手を突っ込む。この後、使うことになるであろう"目薬"はちゃんと入っていた。
「すまねぇな、有働。感謝する。これで奴を…」
春日の煙草の穂先が微かに震えている。灰が床に落ちるのを内木は困惑顔で見ていた。
「お二人がこの計画に賛成してから、僕は友人の力をどうにか借りて、動きました…。納得していただけて…良かったです。しばらく石黒を苦しめて、精神的にいたぶった後に、USBをマスコミに流せば、公私ともに破滅させられますね」
(本当はこんな事はしたくなかった。でも―先輩方の復讐のためにやりました、と言いたげな)有働の沈んだ声に呼応するかのように、久住は右手で握り締めたUSBを呆然と眺めている。中身は全て、春日と二人で確認済みだった。
「なぁ…。石黒はどれくらいの期間、そいつらにいたぶられるんだ?」
久住が消え入りそうな声で有働に訊いた。
"そいつら"とは、有働のチャット仲間の"栞"が手配した"男性専門レイパー"と言われる犯罪集団だった。警察が証拠不十分で逮捕できない婦女暴行の犯人などを拉致し、慰み者にして"世直し"をしているらしい。
「僕は直接的に関わりないので詳しくは分からないですが、栞の話によると相手の精神状態によるらしいです。石黒の場合、守るべきものが大きいので2ヶ月間、週に2回は応じるだろうと言ってました…」
「そうか…」
久住は頷きながらUSBを神経質に親指でなぞっている。憎むべき相手とは言え、かつての恩師が男たちにいたぶられているのを想像し、良心の呵責に耐えかねているようだった。
「2ヵ月後、先輩方の怒りが治まらなければ…苦しめる方法はまだあります」
「こんな事して…お前、法律的にヤバくないのか?」
「石黒はもし淫行で逮捕されても、男性たちに陵辱されていた件は口外しないでしょう。少女たちを対象にしていた石黒はそういったものに嫌悪を感じるタイプだと思いますし、口外すれば報復として動画を流出させられる事を心得ていますから」
久住は声を出さず頷いた。春日は久住が握るUSBを凝視している。
「なぁ。それ、俺が預かってようか」春日が言った。
「いや。俺が責任もって保管する」
「でもよ」
春日は何かを言いたそうだった。この中には臼井祥子の裸の画像や動画がたくさん入っている。久住を信用しないわけではないが、第三者の手に渡れば、石黒を追い詰める切り札を失うと同時に、アダルトカテゴリで無意味に流出する可能性があった。
「あ、あの。う、う、う、うちに、使わない金庫ありますけど」
状況を察した内木が口を開いた。春日が内木を睨む。内木は視線を逸らしながら言葉を続けた。
「暗証番号は…、僕が見てないところで、お、お二人で設定できるようになってます。だ、だから…」
「それがいい。ナイスだな。内木」
静かな口調で有働が言った。
「2ヶ月間。内木の金庫を貸してもらえば、誰にも見られる事なく、誰に奪われる事もなく保管できます。どうですか?先輩」
「有働がそう言うならよ…それでいいか」
春日の言葉に、久住も頷いた。
「色々と悪いな。有働。この借りはきっちり、いつか返すからな」
「春日先輩。礼を言うなら内木に言ってくださいよ…」
有働はジーンズのポケットの中の"目薬"をまさぐりながら、真剣な口調で二人に言った。
◆
春日と久住が感謝すべきは内木―これは紛れも無い事実だった。
8日前―。
春日と久住とのゲームセンターでの一件の翌日の土曜日。
有働はこの日も内木の部屋にいた。
「なぁ、内木、MIX BOOKのアカウントを、もし複数持ってたら1個くれないか?前、トラブル起こしちゃってさ。俺のスマホからだとアカウント作れないんだ」
有働は、MIX BOOK―完全招待制の"実名登録SNSサイト"の名を告げた。
内木に言ったとおり、有働自身も以前はこのSNSに登録していたが、趣味のコミュニティで他の参加者と些細なきっかけで罵詈雑言になり、その相手に何度もいやがらせメッセージを送ったため、管理会社から永久追放をさせられ、アカウントは所持していなかったし、作成もできない状態にあった。
「い、いいけど。何に使うの?」
内木は期待と不安の入り混じった表情で聞いてきた。有働は事の顛末を、すべて内木に話し、こう言った。
「うまくいけば、春日先輩と、久住先輩に感謝されるぞ。何より石黒って教師を俺は許せないんだ…石黒と繋がる決め手となるのはMIX BOOKしかない。あそこで、あいつを探すんだ」
石黒の連絡先を知らない状況で、繋がりを作れる可能性があるとすればSNSサイトだけであり、また、石黒がそれを活用し未成年の女子に手を出している可能性もゼロではなかった。
うまく立ち回ればアカウント1本で罠にはめる事が容易にできる。実名登録率が高いMIX BOOKのアカウントは必須だった。
快諾ながらに内木が用意した"裏"アカウントにログインした有働は、今回の協力者として志願してくれた―チャット仲間の、いわゆる男娘(おとこのこ)―"栞"名義で、まずアカウントを作成した。
"石黒誠司"―"K県刈間(かるま)市"で検索をする。ヒットは1件。
「刈間(かるま)市立天声高校で社会科を担当―」と自己PRが記載されている。いとも簡単に、石黒のアカウントを探し出す事に成功した。
そしてそのまま直接メッセージを送るような事はせず、石黒の"お友達リスト"126人を丹念に調べ上げた。
有働が思うに石黒は慎重な男だった。"表"と"裏"―アカウントを2つ持っているに違いない。
だとしたら"裏"アカウントを作成する際に、"表"アカウントから自らに向けて招待をしなければいけないため、必然的に"表"アカウントと"裏"アカウントが、お友達リストとしてリンクされる事となる。
つまり"石黒誠司"の"お友達リスト"の中に、"悪い事をする専用"の"裏"アカウントはあるかもしれない―有働はそう思ったのだ。
石黒の126人の"お友達"の中の1つに"そのアカウント"はあった。
名前は空欄で、TOP画像はどこからか拾ってきた自己主張のない風景画だったが、参加している趣味のコミュニティのいくつかは石黒のそれと重複していた。好きな歌手―サッカーチーム。石黒と符合するいくつかの点。
「石黒だな。こりゃ」
有働は舌なめずりをしながら呟いた。
さらに怪しいことに、そのアカウントの"お友達"は石黒と、あと1人だけの合計2人だった。SNSをSNSとして利用するならば"お友達"が2人だけとは聊か不自然過ぎないか―。
もし、これが石黒の"裏"アカウントだとすれば"表"である石黒本人を除く"たった1人のお友達"―それが示すのは、SNS本来の用途ではなく、何かの連絡手段として活用している可能性が高いという事だった。
有働は、そのアカウントのページに飛んだ。
名前は無記名で、画像はなし。性別は女となっていた。そのアカウントも"お友達"が1人しかいなかった。そして有働は、そこに向けてさらに飛んだ。
"アリス"と言う女子大生のページにたどり着いた。TOP画像のプリクラはギャル風で、似たような格好の友人と写っていた。また"アリス"の参加コミュニティは風俗関係や、小遣い稼ぎ情報といったものだった。
この無記名の女性アカウントが"アリス"の裏アカウントだと考えれば、石黒と、"アリス"は、それぞれ"裏"で連絡を取り合う秘密のお友達に違いない―。
話を聞く限りでは、石黒は女子大生に興味を持たないはずだった。
"アリス"は水面下で石黒に、SNSを使って集めた小遣い欲しさの女子高生を紹介しているのだろう…と推測するのは自然な流れだった。だからこそ、リスクを分散させるために、双方ともに"裏"のアカウントで連絡を取り合っているのだ。
石黒も"アリス"も、共に"お友達"が100人を越えていため、"裏"アカウントだけが目立つような事はなかった。
有働は、推測を確信に変えるべく、行動を起こす事にした。
この"栞"を名乗るアカウントで"アリス"に接触し「友達伝いにアナタの事を聞きました。バイトを探してます」とでもメッセージすればいい。好みのタイプとして石黒を連想させる発言をし「どんなプレイでも頑張ります」と言えば、かなりの高確率で石黒に渡されるだろう。
だが、その前にインスタントメッセンジャーの通話で"栞"に最終確認を取らねばならない。有働が通話ボタンを押すと、ほどなくして繋がった。
「いいよ。僕の写真使っちゃっても。その"石黒"ってヤツみたいなタイプ嫌いなんだ。中学時代、僕に"イタズラ"してきた若い男性教諭を思い出しちゃうもん。こらしめようよ。こらしめてくれるお兄さん方は、僕の方で手配するから安心して。ワークくん…有働くんには迷惑かけないよ。皆、プロだから」
"栞"は少女のような繊細な声で、ハンドルネームの"ワーク"ではなく、信頼の証として名乗った有働の名を呼んだ。
「うちの春日って先輩の話によると、石黒はハメ撮りが趣味らしい。自殺した女子生徒も撮影されたようで、その場で石黒が、撮りたてのデータをパソコン経由でUSBに保存してるところを確認してたらしい」
「隙を見てそのUSBを盗めばいいんだね?たぶん、ベタに鞄の隠しチャックの中に入れてたりするんじゃないかな。楽勝だよ。いざとなったら薬品でも嗅がせて気絶させてから、じっくりあさるから大丈夫!」
「ありがとう。機会があればいずれ会ってお礼が言いたいよ」
有働は会った事もない"友人"にそう告げると通話を終えた。彼ならきっとやれる。また多少の不測の事態があっても、うまく切り抜けられるだろう。
彼が今までしてきた事―"男性が好きなお兄さん方"と組んで、何人もの"婦女暴行魔"を成敗してきた武勇伝を、幾度と無くチャットで聞かされてきたからだ。
「準備は万端だ。春日と久住は、お前に感謝することになるぞ」
有働は内木に笑った。内木はなんと答えて良いか分からない、といった表情のまま曖昧に頷いた。
◆
「内木のアカウントがなかったら、"アリス"と繋がる事もできなかったですし、石黒と会う算段がついてから"栞"に案件を渡す事もできたわけですから。内木の功績は大きいですよ」
有働に再び促されて、春日と久住は決まり悪そうに内木に向かい「有難うな」と言った。
皆が自分に意識を集中していない隙に、有働はジーンズのポケットから取り出した"目薬"を両眼にさして言った。
「春日先輩…久住先輩…これで、臼井祥子さんの仇はとれたでしょうか?」
有働は、目薬―"偽りの涙"を流しながら、デスクトップのブラウザを閉じて、二人に向き合った。用途を終えた目薬は、もちろんすでにポケットに収まっている。
「有働…泣いてる…のか」
久住が言った。春日は男の涙を直視するのは失礼だと思ったのだろう。顔を逸らした。
「すまなかったな。有働。俺たちのために」
久住まで目頭が赤くなっていた。春日も顔を伏せているが何かを堪えているようだった。内木はどうしていいか分からないといった表情で、自分の手のひらを意味もなく眺めていた。
「俺は、この殷画高校に起こりうる問題を…すべて解決しようと思ってます。」
春日と久住は顔を見合わせた。内木が有働のほうを見ながら目を見開いた。
「うちの学校は、ここ10数年間、暴力や不登校、その他いろいろな問題を抱えています。県内最低の学校とまで言われ、教育委員会にも見放されてます。そういった土壌が、石黒のような淫行教師の横行を許し、看過させてきた。"第2の臼井祥子さん"を出さないためにも、まともな学校に戻したいんです」
「お前マジで言ってるのか」
春日が、困惑した顔で有働に問いただした。だが、目には光るものがあった。涙ぐんだ表情を隠そうとはしない。本音で語り合う姿勢ができあがった証拠だ。
「マジです。学校だけでなく、俺の目に映るすべての人たちを幸せにしたい。その幸せを奪う部外者は容赦なく叩き潰しますけどね。そのためにも春日先輩、久住先輩の協力も必要です。学校内で起こりうる何か"問題のタネ"に気づいた時は、教えてください。もちろんムリにとは言いません。俺と先輩方に貸し借りなんてものはありませんから。これは単純なお願い事です」
春日は感銘を受けたように深く頷いたあと、やがて首を小さく振って、困ったような顔で久住を見ていた。久住は洟をすすりながら目頭を押さえていた。
「俺たちに何ができるって…いうんだ。本当…俺たちはクズだから…有働のために何もしてやれねぇ…くそ…」
春日は言った。無力さを恨んでるようだった。
有働の目薬は、乾いていた。だが、なぜだろう。春日と久住のかもし出す空気に呑まれたのか、有働自身の目にもうっすら涙が滲んできた。演劇や映画を見て心が動いた時と同じような感覚だった。
「ゲームセンターでの一件もあるしな…あ、いや。貸し借りは無しなんだったな。俺は、俺の意思でお前に協力したい。何でもやるぜ」
久住は右手で目頭を押さえたまま、左手の吸殻を窓枠に置かれた空き缶に押し込むと鼻声で言った。
「できる事と、できない事があるがな…でもよ、お前が何をしたいのかは分かった。俺らが知る範囲、できる範囲でいいなら…お前のチカラになるぜ」
久住同様にすでに一本目の吸殻を空き缶に放り込んでいた春日は、感情に震える両手で二本目の煙草に火をつけながら、そう言った。
「あ、すいません…春日先輩。ここでは煙草を吸わないでやってください。内木のやつ、フィギュアに煙の匂いがつくのを嫌がりますから…」
泣き顔の有働に言われ、春日は目を丸くして内木の方を見た。内木は俯いたままだった。久住は、それが空気を変える為の有働の冗談と捉えたのだろう、少し笑っていた。
「悪い、悪い。悪かった」
指摘された事に特に不愉快そうな反応もせず、穏やかな表情の春日は内木の肩を叩いて素直にキッチンの方へ歩いていった。
「金庫ってどれだ。見せてくれ」
久住も、これまでの重い空気を変えるかのように明るい口調で内木に言った。内木が押入れを開けると、下段にアニメグッズの入った段ボールに埋もれる形で、灰色の頑丈そうな金庫が見えた。
「こ、これです。1回も使ってません。暗証番号は先輩が、か、考えてください。き、緊急開錠用の鍵も、お渡しします。」
「いろいろと有難うな。それと、今まですまなかったな。内木」
再び目頭が赤くなりはじめた久住は内木に言うと、煙草の箱を握ったまま春日のいるキッチンへ向かった。ほどなくして押入れからはみ出し落ちてきたアニメイラスト入りの抱き枕を、内木は必死に押し込めた。
有働はその様子をぼんやり見つめながら、内木の肩を叩いた。
「良かったな、内木。先輩たちと和解できて」
内木に告げたその言葉が心の奥底から出た本心だと自覚すると、有働は少し照れくさくなった。
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人生はいつも「ひき逃げ救急車」
悲しい過去は「やり逃げ高級車」
あなたと未来は「勝ち逃げ霊柩車」
Yeah...Yeah...Right now.
有働のイヤホンからはお馴染みの曲が流れていた。
バスが「横嶋団地前」に辿り着くまで、3つほど停留所に余裕がある。有働は老婆に譲るべき席―右最前列窓側に着席していた。
10月に入ったにも関わらず、近年の異常気象、温暖化のせいか、真夏日のような陽光が窓を照り尽くしている。有働は頬に熱を感じ、視線を窓際からバスのフロントに移した。
減速するバスの前方から、停留所に向かって殷画高校の制服を着た女生徒が前方から駆け寄ってきた。普段どおり無人の停留所「六道坂」ではあったが、駆けて来る女生徒を確認し、バスの運転手が流さずに停まったのだ。
「ごめんなさい。ありがとうございます」
息を切らせながら乗り込んできたのは、吉岡莉那だった。
莉那がいつもの「横嶋団地前」より2つ前の停留所で現れたのは、何か家族がらみの事情だろうか。(友人と一緒ならばお泊りか何かだろうが莉那は単身だった)
有働の心臓は急激に脈打ちはじめた。視線のやり場に困ったが、太陽光で熱々の窓ガラスに頬を押し付けるようにして再び有働は窓際を向いた。
バス車内はそこそこ埋まってはいたが、おそらく運動部に所属しているであろう大学生の集団4名が自主的に立っていたので、有働の左向かいにあたる左最前列窓側へと莉那は着席した。
身体の弱い莉那が息切れをしている。席が埋まっていれば莉那に席を譲っていただろう。だが、奇跡にも等しい偶然の確率を突破し、いつもこの時間には埋まっている席が空き、莉那がそこに座った。
「今はまだ、その時ではないのだ」
有働は一人で結論付けた。
いずれ自らの「偽善活動」が順調に進んだ暁には、莉那に同級生として、クラスメイトとして、ごく普通に、単純な内容で話しかけてみようと有働は画策していた。元はと言えば、莉那に少しだけ認めてもらいたいという気持ちで偽善者になったのだ。偽善者として完成した自分を恥じることなく披露すべき相手は、吉岡莉那に他ならない。
別にデートに誘うとか、告白するとか言うわけではない。戸倉や内木ですらごくたまに雑談だったり、用件を伝えるためだったりをキッカケに莉那と数秒、数分の会話をしているくらいだ。そのレベルの会話だけでもできれば充分、満足だった。「苦手」と烙印を押されたこの自分が、いちクラスメイトとして莉那と対等に、何のストレスも与えることなく、多少の微笑みも含ませながら、数秒、数分の会話に興じる事ができたならば…。それだけで胸がいっぱいになる事は確信できた。
その日のためにも、すべての始まりでもあり、咎人の贖罪でもある行為―今日も明日も、あと2つ先の「横嶋団地前」であの老婆に席を譲らなけなければならない。
バスは坂道を登っていく。重力が背中にかかる。普段、彼女はこの坂道の経験がないためだろうか。視界の端で、微かな物音で、莉那がズリ落ちた鞄を抱きしめているのが分かった。
坂を上り切り平坦な道筋を行った後「六道坂峠」でサラリーマン一人を拾い、やがてバスはほどなくして「横嶋団地前」で停車した。
どっと押し寄せるサラリーマン、OL、パートの主婦、学生。そして荷物を抱えたあの老婆。
人間とは不思議なもので、決まった時間、決まった場所で、同じ人間に毎日会うようになると、愛着が湧くらしく、老婆を確認するなり、有働は言い表せない安心感、安堵感にも似た気持ちに頬が緩んでいた。
老婆はいつもの風呂敷包みに加え、今日は両手に果物がたくさん詰め込まれた紙袋を持っていた。
(かわいそうに。あんな荷物じゃバスまでの道のりは辛いだろうな)
有働は胸の奥に、何か得体の知れない痛みを感じた。家族はあの老婆を心配したり、ムリをさせないように言わないのだろうか、という憤りが沸き起こった。
「お婆ちゃん、ここどうぞ」
有働がそう言いながら席を立つのと同時に、莉那が立ち上がり、老婆に席を譲ろうとしていた。老婆は左右の空席に視線を泳がせて、やがてにっこりしながら「いつもはお兄ちゃんにばかり迷惑かけてるからねぇ。今日はこっちで甘えてさせてもらうね」と左前方窓際の席に腰をかけた。さらに、その隣―通路側の席も老婆の荷物によって占領されてしまったが、誰も咎めるものはいなかった。
中途半端に席を立とうとしていた有働に、サラリーマンが物欲しげな視線を注いできた。立つのか座るのかはっきりしないうちは、空席である有働の隣―右前方通路側の席に座る事すらできない。
サラリーマンは有働の行動を待つあまり、空席に腰をおろす事すらできないでいたのだ。
「日本人とは、相手を思いやる心を重んじる、奥ゆかしい国民性をもっている」
いつか父が海外派遣の日本人医師団のニュースを見ながら感慨深そうに呟いていた言葉を思い出した。
「すいません」
有働は心からサラリーマンにそう言うと席を立ち、通路側に立った。サラリーマンは会釈すると窓際に詰めて座り、その左隣には別のサラリーマンが姿勢を低くしながら申し訳無さそうに座った。
謙虚さ、感謝の気持ち。自分に欠けていたものがこの世界には溢れていた。有働はこれまでの自分を恥じながら吊り革を握り締めた。
「発車します」
運転手のアナウンスの後、バスは動き始めた。
やがて、いつものように坂道の上にある細い曲がり角で車内は大きく揺れた。瞬間、百合の花のような、シャンプーのような甘い香りが鼻腔をくすぐった。サラリーマンに気をとられていた有働はハっとした。老婆に席を譲り終えた吉岡莉那は、混雑の成り行きで自分の隣―右側通路まで押しやられ、いつの間にか有働の左隣に立っていたのだ。
耳のいい人間ならこの揺れ動くバス車内においても、有働の爆発しそうな心臓音を聞き取る事ができただろう。緊張のあまり口の中に唾液が溜まる。大きな音を立てて飲み込むのが莉那に聞こえそうで、有働はそのまま唾液を溜め続けていた。
バスがさらに大きく傾いた。
莉那は体勢を崩し、有働の胸に寄りかかるようにして倒れた。ゴクリとツバを飲み込みながら有働は反射的に莉那を支えていた。莉那の柔らかな胸をその左腕に、太股の感触をその右膝で感じながら有働は逆流する血液で気を失いそうになった。
「ありがとう」
莉那の言葉が聞こえてきた。いつも友人たちに言う「ありがとう」よりも消え入りそうな、何かを恥じているようなそんな些細なイントネーションの違いを有働は聞き逃さなかった。
莉那の、自分に対しての「苦手」と言うネガティブな感情がそうさせているのか―。有働は、この状況―心臓が暴れだすほどのトキメキの中に、小さな落胆の花が開くのを感じた。
(俺なんかが莉那に触れてはいけないのだ)
有働は自分がものすごく汚いものに思えてきた。
「殷画高等学校前」でバスが停車した。
有働は莉那とほぼ同時に老婆に会釈してバスを降車した。老婆が紙袋から林檎を2つ取り出し、距離が近かった莉那の方に渡した。
バスが去っていく音を聞きながら、有働は力なく校舎へ歩いていった。
「これ」
莉那が林檎を1つ有働に渡してきた。
「ありがとう」と言いながらそれを受け取る有働に、それが莉那との高校に入って初めての会話だと喜ぶ精神的余裕は無かった。一瞬のうちに心の許容を越えたハプニングがいくつも起こり、最終的に自己嫌悪で終結したため、何が何だか分からない精神状態に陥っていたのだった。
「いつも、席を譲ってるよね」
数秒の沈黙が流れた。莉那は自分に話しかけてるのだとやっと理解するまでおそらく30秒ほど時間を要していた。
莉那は相手の言葉をきちんと待つ性格らしい。沈黙に耐えながらも有働に歩調を合わせながら共に校舎に向かっていた。
「え?あ、あああ。ああ」
「有働くんって、本当は正義感の強い優しい人だったんだね」
吃音と共に放たれた有働の相槌を待ち構えていたかのように、莉那は言った。
「え?」
「今まで少し有働くんのことを勘違いしてた…」
「な、なにを?」
「勘違いしてた、って言うか…中学のときの有働くんのイメージ。守ってくれる優しい人っていうイメージ。高校になって変わっちゃったのかなって一瞬、思ってたの。だから…私にとって、苦手なタイプの人になっちゃったのかな…って」
「に、苦手?」
莉那の言わんとしてる"苦手"の意味は知っていた。だが、敢えて訊く事で、有働は何とか会話の間を持たせる事に成功した。
「うん。すごく他人に対して冷たい人になっちゃったのかなって、ガッカリしてた…だから、すごい腹が立って」
「腹が立って?」
「何いってるんだろ。あたし、ちょっと変だよね。ごめん」
能のないオウム返しを繰り返す有働をポツンと取り残すようにして、莉那は歩みを早めて校舎に入っていった。
―中学のときの有働くんのイメージ。守ってくれる優しい人っていうイメージ。―
どういうことだ?莉那の言葉を反芻し、有働は記憶中枢を掘り返してみた。思い当たる節は無理やり探せばあった。あれはたしか中学1年生の2学期―今よりも心のあり方が子供に近かった…つまり素直だった有働は、莉那の美少女ぶりに目をつけてからかう男子生徒を、恥ずかしがることなく、大人ぶって嗜めた事があった。
その実は、前々から気に入らなかった男子クラスメイトへのケンカの口実として、さらには教師や父への言い訳として"正当防衛"へ誘導するため、正義のヒーローを気取り「女をいじめて楽しいか?やめとけよな」と挑発したかっただけなのだが、その時は目論見どおり生徒たちは有働に殴りかかってきてくれて、それを返り討ちにした記憶がある。ただ、少しやりすぎて相手の生徒を鼻血まみれにさせてしまい、父に鬼の形相で叱責を受けた。
「そんな事を覚えててくれたのか…」
有働の目頭が熱くなり始めた。意味もなく身体が震える。莉那との触れあい、会話、言葉、自分との中学時代の他愛のないやり取りを覚えていてくれていたという事実―。
事実?これは現実か?有働は右手に掴んだ林檎に視線を落とした。大きく口を開けて齧る―。瑞々しい。甘い。これは現実だ。あのやり取りは事実だ。有働は林檎を貪り尽くし、この日一番の太陽を拝んだ。
と、その時だった。有働は腰に衝撃を喰らい、地面へ両手と膝をついた。
「邪魔だ。殺すぞ」
何者かに後ろから蹴られたらしい。逆光で顔は遮られたが、声でそれが誰かは分かった。3年生でも悪名高い"権堂"という男だった。間髪いれず、無様にへたり込み何が何だか分からないままの有働に、無数の膝蹴りが降ってきた。有働は膝を折ったままの姿勢で突っ伏しそれに耐えた。
「さっさと消えろ。1年」
有働は状況が理解できた。校庭の真ん中―恐れおののく他の生徒たちがいつの間にか端に寄り、できた"3年生らの通り道"のど真ん中に有働は突っ立っていたのだ。邪魔だと蹴り飛ばされた後、おそらく一人につき一発、数にして22発の膝蹴りを喰らい終わり、有働は"その集団"の後姿を睨んだ。
「いてぇな…」
砂埃にまみれたまま立ち上がると有働は握りこぶしを固めた。
前々から気に入らなかった3年生たちの横行だった。めんどくさいからと今までは自分も他の生徒同様に道を空けていたが、何度も何度も蹴られて、はらわたが煮えくり返っていた。
「たかが2年早く生まれてきただけで威張りやがって…」
有働はふつふつと怒りが湧き上がるのを感じていた。やり返せ。やり返してやれ。あいつら3年生には皆、迷惑しているんだ。弱き者を代表してお前が奴らをぶっ殺してやれ―。そうだ、お前は被害者なんだ。奴らは加害者だ。圧倒的暴力で奴らに、きちんと非を認めさせればいい。奴らの顔面に思い切り拳を叩きつけてやろう―。
有働はこの瞬間、暴力を振るう動機を与えられ、これからそれを実行する口実を手にして喜びに打ち震えていた。返り血に塗れたあの感触。ぶっ殺してやる。ぶっ殺してやる。今までにないくらいの痛みと恐怖を与えて、何度も何度もぶち殺してやる。くたばれ!くたばれ!くたばれ!くたばれ!くたばれ!くたばれ!くたばっちまえ!理性が吹っ飛びそうだった。暴力衝動に全身が沸騰しそうだった。
「やめろ!暴力からは何も生まれないぞ!」
暴力的な衝動に脳が暴走を始める中、温和な父が、鬼の形相で叱責するのが脳裏に浮かんだ。
思い出す―あれは中学校1年生の1学期。体育の授業中での出来事だった。バスケットボールの試合中、有働と因縁のあった数人が申し合わせて、肘を使いファールという名の暴力を振るった。額を切りうずくまる有働を尻目に彼らは、教師の前で"合法的"に暴力をふるえば、有働は反撃できないだろうと浅はかな企みに満ちた笑みを浮かべていた。
「ぶっ殺してやる!ぶっ殺してやる!ぶち殺してやる!」
計算ずくの暴力を、計算外、想定外の圧倒的な暴力でねじ伏せてやる。思うがまま、本能のまま、快楽のまま、憎悪に任せた握り拳を振り下ろし続け、男性教諭3人がかりでとめられるまで有働は返り血を浴びながら狂ったように笑い続けていた。今思えば、莉那を含む女子たちが同じ体育館にいなかったのは幸いだったといえよう。それほどまでに有働の様相は常軌を逸していた。
申し合わせて先に殴りかかったと彼ら認め、喧嘩両成敗、むしろ多勢に無勢の方にこそ非があるとして学校は判断したが、有働に殴られたその生徒たちの全員の顔はひしゃげ、壮絶な裂傷と打撲を負っていた。有働の怪我は拳の皮がめくれたくらいだった。その夜、警察官である父に深夜の道場へ連れていかれ、3時間に及ぶ"指導"を受けた。
中学1年にありながら、天性の素質を持った有働はとっくに父の体技を越えていたし、反撃して半殺しにする事もできたが、唯一尊敬できる父をそのような目に遭わせたくなかったし、息切れしながら有働を殴り飛ばし、涙ながらに説教する言葉を聞きながら、有働もまた泣いていた。
「もっとちゃんとした理由がなきゃ暴力はダメなんだ」
後日、ニュースを見ながらテロリスト殲滅のためアフガン侵攻を果たした米軍を支持する父を見て、有働はそう都合よく考えるようになった。体育館での件から数ヵ月後、莉那をからかう男子生徒に暴力の口実ほしさにつっかかったのもその為だった。実際、女の子を守るためだと説明したら、父は体育館の一件ほど怒らなかったように思える。
今は―?今は、あの3年生を半殺しにすべき時か?3年生たちの姿はもうなかった。彼らは校舎に吸い込まれていった。
やるなら、さきほど蹴られてる最中に"正当防衛"という名目で反撃するべきだった。中学生の"ファール"とはワケが違う。成熟しきった上級生の暴力から身を守るための正当防衛を咎めるものはいないだろう。あの父だって納得するはずだ。さらに言えば、充分に叩きのめして、命乞いをする血まみれの権堂たちに「校内での暴力は止めましょうよ」と偽善的な言葉を投げかければ完璧だった。その瞬間、怒りという動機を孕んだ暴力は、必然性、大義名分を発揮し、正当化されるわけだ。
有働は莉那とのやり取りに浮かれるあまり、一方的な暴力を許し、無様にへたり込んでいた自分を恥じた。
両手に爪が食い込む。握りこぶしの中で血が滲むのが分かった。
「おい、大丈夫か」
誰かの声が背後から聞こえてきた。春日だった。
「やり返さないかヒヤヒヤしたぜ」
久住の声も追いかけてきた。
「この前の話だけどよ。殷画高校に起こりうる問題を解決したいとか何とか言ってたよな…」
春日が言った。
「おい、でも今の状況じゃ…また後にしたらどうだ?」
久住は春日を制した。今の有働にその話をするな、と目配せをしてるようだった。
「何ですか?言ってください」
血走った目の有働に怯むようにして、春日が口を開いた。
「権堂さんたち3年がよ。隣の往訪(おうほう)高校の3年と"やり合う"らしい。みんな殺気立ってるのはそのせいもあるんだろうな…。まだそこまで詳しい事は分かんないけどよ。俺ら2年も数名駆り出されるかもしんねぇんだ。起こりうる"問題のタネ"は教えてほしいみたいな事を、この前言ってたよな…だからさ…一応、情報として耳に入れておいてやろうかなって…あ…でもよ、これはお前にどうこうできるレベルを超えちまってるから…聞き流しておいてくれ」
「やり合う?抗争ですか」
有働は唇の端を歪めながら言った。
"他校との抗争"という問題のタネがくすぶっている。放っておけば大惨事に繋がりかねない。その為にはどうすればいい…どうしたらいい…。先ほど不条理な暴力を与えていった"権堂たち3年生"と"話し合い"をしなければいけない。血が騒いだ。権堂を腕力で屈服させてみたかった。聞くところによるとケンカで敗北を知らない権堂は、半殺しにされながら、どんな命乞いをするだろう。考えただけで愉快ではないか。
だが、これは私的な暴力ではない。今は、大惨事を免れるための話し合いの末の可能性としての暴力について想起しているだけだ。そう、決して私的な暴力ではないのだ。正義のための暴力。偽善活動の一環としての暴力。間違ってはいないはずだ。抗争を止めさせ、権堂たちを改心させ、校内の浄化に成功したならば今日、莉那が自分に感謝したように沢山の生徒に感謝される事となるだろう。
これは"正義"に他ならぬ善行ではないか。有働はさらにもう一方の唇の端を歪めた。傍から見れば満面の笑みに見えるだろう。構いはしなかった。
「ああ…そうだ。権堂さんたちと往訪はさ、昔っから因縁もあるみたいでよ。卒業前に決着つけるらしいって話だぜ」笑顔の有働を見つめながら春日は言った。
「教師たちは知ってるんですか?」
「まぁ、水面下で警察にも連絡して抗争をとめようと画策してるみたいだがよ…いかんせん、いつ、どこでやるか…それが分からないらしくて。まぁ、うちの3年も、あっちの3年も、ガチだし、誰もサツや教師には売らないだろうからさ」
「俺が止めてみせますよ」笑顔の有働は自信ありげにそう言った。
「へ?」
「権堂さんたちにも、相手方にも、きちんと話を…話をしてみて、何度でも、何度でも…何度でも…何度でも…何度でも、何度でも、何度でも、分からせて…その抗争を止めてみせますよ。抗争なんか起きたら誰かが死んでしまうじゃないですか?そんなの…俺…イヤです。誰にも死んでほしくなんかない…。だから…しょうがないんです。しょうがなく…何度でも、何度でも…何度でも…ふふふ…何度でも…くくく…何度でも、何度でも、何度でも…どんな手を使ってでも…理解してもらい、理解させて…抗争を止めます。絶対に…」
「ああ…だ、だけどよ…お前のやろうとしてる事は…この前、聞いて分かったつもりだった…でもよ…」
春日が言葉を詰まらせ、久住の方を向いた。
「お前さ…」春日はノドを鳴らし唾を飲み込んで言葉を続けた。
「お前さ、何になろうと…してるんだ?」
すると、有働は笑みを浮かべたままこう答えた。
「僕はこの殺伐とした殷画高等学校を…良くしたい。臼井祥子さんの魂のためにも…そして春日先輩や久住先輩…僕自身のためにも…その為には…この前みたいに…いえ、この前以上に…何だってやります」
春日と久住はまっすぐな瞳で有働を見つめ、その言葉を咀嚼するように頷いた。
「たとえ周囲から…偽善者…そう呼ばれても僕は、構いません」
有働はブレザーについた土埃をはたき、鞄を拾い上げながら言った。
「偽善者だなんて思ってねぇよ。お前、まさか真っ向から権堂さんと勝負するわけじゃないよな?説得だったらよ、俺らもボコられる覚悟で協力するぜ。お前のチカラになりたいんだ」
春日は言った。久住も同じ気持ちのようだった。
「ありがとうございます。計画を練ったらお二人や…内木にも、協力していただくかもしれません。説得が通じない場合、状況によっては小さな戦争を起こしてでも、大惨事は食い止めねばなりません。」
協力を要請した場合においても、権堂らを徹底的にぶちのめす時は、春日も久住も、内木もいない場所でやらねばらないだろうな、と有働は思った。 彼らの前では修羅の如く、返り血を浴び喜びに打ち震える姿を晒してはならないからだ。
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