第55話 世界70億よ、これが本気の偽善だ

 空は快晴だった。


 雲一つないどこまでも続くような蒼天。じりじりと地面を焦がすような太陽はこれから訪れるであろう冬の気配を微塵も感じさせることがない。


 高校三年生になった有働努はいつものようにバスの右最前列に座り、地元の景色を眺めていた。


 バスが林道の陰に入り窓ガラスに自分の顔が映り込んだ。左頬に残る傷跡を見るたび、有働は一年前の激闘を思い出す。


 人生はいつも「ひき逃げ救急車」

 悲しい過去は「やり逃げ高級車」

 あなたと未来は「勝ち逃げ霊柩車」

 Yeah...Yeah...Right now.


 イヤホンから流れるのはスーサイド5Angelsの代表曲だった。


 ふとバスのバックミラーに目を向けてみる。バスの前方を走行する国産黒塗りの乗用車と同じ車種だった。


 上空を飛行するヘリの音。


「あれから一年…総理大臣なみの警護だな」


 有働はバスの運転手の緊張した面もちに配慮して、声に出して笑うのを控えた。


 やがてバスは「横嶋団地前」で停車する。


 扉が開き、乗車してくる客の中に吉岡莉那もいた。


「おはよう」


 有働と莉那はほぼ同時に挨拶を交わした。莉那は有働の隣に黙って座る。有働は彼女とどんな会話をしようかと視線を宙に漂わせた。


「お兄ちゃん、しばらくぶりだね」


 有働の耳に聞き覚えのある声が届く。


 めいっぱい膨れ上がった藤色の風呂敷包み。手ぬぐいを被った老婆の笑顔がそこにあった。


 バスの扉が閉まる。この先、バスは市街地のゆるやかな坂道を登るため有働は老婆に席を譲ろうと腰を上げた。


「おばあさん、荷物大変でしょう?よかったら座ってください」


 有働よりも先に動いた者たちがいた。バスの座席に座っていたサラリーマン、OL、学生たちだった。


 彼らは有働の方をちらちらと見ながら老婆にありったけの笑みを見せる。


「それじゃ、お兄ちゃんに譲ってもらおうかね」


 老婆は破顔した。有働は笑顔で老婆に席を譲った。


「私も立つわ。おばあさん、風呂敷を隣に置いてね」


 莉那も有働と一緒に立ち上がり、バスが発車する。


 乗客たちは有働と莉那に遠慮してかどうかは分からないが誰一人として着席しなかった。


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 高校の体育館を囲むようにして世界各国の屈強なSPたちが一列に並んでいた。ヘリは相変わらず上空で騒がしい音を立てている。


「じゃあまた後でね。授業の内容はノートに取っておくから」


 有働は手を振る莉那と別れ、老婆からもらった桃にかじり付く。


 体育館の入り口には身長二メートル以上の黒人が門番として姿勢を正しており、有働の顔を見るなり深くお辞儀をした。


 有働は重々しい空気を纏った体育館に足を踏み入れる。


 中は薄暗く、巨大モニターや立派なテーブルとチェアが並べ立てられており、そこに鎮座する面々が有働の到着を知るなり、総出で起立した。


「我らが救世主の到着だ」


 第一声をあげたのは日本国総理大臣の徳園仁だった。


 有働は地元の市議会議員だった徳園を約束通り総理の立場まで押し上げた。徳園はパーフェクトな歯並びを見せて有働に握手を求める。


「君は日本の誇りだ。息子の勝ともたまに遊んでやってくれ」


 今やすっかり有働の信者となった徳園を見て有働は苦笑いをするしかなかなかった。だがそれもこれも有働の思惑通りだった。


 国会議員全員が新バベルの塔に残留すると表明した日本で、地方議員や官僚主体で新しい政党が雨上がりの筍のごとく立ち上げられる中、有働は自分の手足となり得る人物をシャドープロファイルを用いてピックアップし、徳園に立ち上げさせた「U党」へ入党させた。


 U党は有働個人の思想や正義を色濃く反映させた政党であり、有働は公の場でU党を支持することを表明した。


 その結果――。


 前代未聞のスピード国民投票によってU党は与党の座を獲得し、U党総裁である徳園は日本国総理となった。


「ミスター有働は世界の誇り、正義の象徴だ」


 米合衆国大統領ミッチ・ニューマンが徳園の前に出て有働に向けて敬意を表する。


 一年前――、デスゲームの終了後ミッチは新バベルの塔での残留を選択せずホワイトハウスへ戻った。


 涙を流し国民に謝罪する姿と、旧世界での罪の象徴、贖罪として敢えて公務を全うしたいという意思表明。資産のすべてを国に寄付するという声明の末、なんとか現在も大統領として存在している。


「君がいなければ世界七十億は救われなかった。大統領としてではなく一人の世界市民として君に感謝したい」


 ミッチ・ニューマンは全世界中継を意識してか、オーバーな作り笑いで有働に礼を言った。


 彼の傍らにはクリス・グライムズが秘書として立っている。有働はクリスと視線でコンタクトを取った。


 オブライアンの秘書でもあったクリスは有働にとって信頼できる協力者であり、昼夜ミッチ・ニューマンを監視している。


「皆様。こちらの申し出に答えていただき感謝します。このような田舎町の学校の体育館にお越しいただき恐縮ですが、何分、学生は勉学を優先する立場にあり、この会議にも一時間ほどしか時間を割けないことをお許しいただきたく思います」


 上達した英語で有働は世界各国首脳に感謝の意を述べた。


「これは国民の総意だ。君を招くのではなく、君がいるところに我々が出向く。世界の平和は君によってもらされたのだからね。…ところで左腕はどうだい」


 ミッチ・ニューマンは心配そうな顔で訊ねてきた。


「何度か手術して動くようになりました」


 有働は左腕を高らかに挙げて見せる。


「学業には支障ありません」


ドールアイズの義眼を抉りへし折れた右手の指二本も完治していた。


「世界情勢はどうなっていますか」


 議長席に着席した有働は各国の首脳に向けて英語で質問する。


「世界各地で停戦状態は続き、目立った紛争も起きていません」


 首脳のほとんどが新バベルの塔に残った者たちと入れ替わるようにして新しく選ばれた首脳たちであり、彼らは有働に対して熱のこもった視線を向けていた。


「ただ一つ…ウチキング主義と名乗る自警団が世界各地で動いています。一部の無法者に関しては警察関係者も手を焼いており法整備が必要かと思われますが…」


 イギリスの新しい首相が資料をめくる。


「ただ彼らの思想はあくまで犯罪や社会悪、戦争を許さないという点にあり、過激なやり方を除けば犯罪発生率の低下に貢献していると発表している国もあります」


 フランスの大統領がそれに続いた。


「北朝鮮では民主化の動きから大規模なクーデターが起きました。中心人物はパク・サミョン。ウチキング原理主義者です」


 そう報告するロシアの新しい大統領は二十五歳という若さだった。


 彼は有働を支持する演説を連日繰り返し国民投票で選ばれたリーダーであり、北朝鮮の独立化を支援している。


「無法者ばかりではないということですね」


「我が国…米国でも、有働くん…君を救った元シールズ隊員のアーロン・ボネットが国民から絶大な支持を得ている。デスゲームで自傷した英雄ジェレミー・マクレーン上院議員も同等の支持を得ているが僅差でアーロンが有利だ。いつか私は大統領の座を彼に明け渡すことになると思う。アーロンはウチキング主義者であり、次の選挙に向けて有働くんのいう世界平和を公約に掲げている」


 有働は宜野湾で見かけた白人青年の顔を思い出す。いつか彼を大統領と呼ぶ日が来るのだろうかと思うと笑いそうになった。


「世界各地に落下した不死隕石およびキム・ビョンドク、彼の細胞を移植された者たちはどうなりましたか?」


 有働は次の質問を投げかけた。


「キム氏を含め不死隕石の元・被験者たちは隕石と共に新国際連合で保護されています。ただ一人パープルという男は地下牢に閉じこめられているようですが」


「それは賢明です。悪しき者は区別しなければなりませんからね」


 有働はゆっくり頷き資料をめくる。


「本題に入りましょう」


 各国の首脳たちは襟を正す。


「核保有国首脳の皆さんに訊ねます。国民は自国の保有する核兵器の放棄に同意していますか?」


「未来に核兵器など必要ないとウチキング…ミスター有働に教えられた」


 ミッチ・ニューマンの言葉に核兵器保有国の首脳たちが頷いた。


「それはよかった」


 有働は制服ブレザーのポケットに入れたスマホ――、神の杖を操作できる唯一のツールを右手でまさぐった。


 世界が核を放棄すれば「神の杖」による優位性はこの上ないものとなる。もしも世界七十億が真の意味で目覚めないのならば、今度こそこいつの出番だと有働は考えている。


「これから先、核兵器開発に取り組む国家は制裁の対象としましょう」


 世界の首脳は有働の提案に重く頷く。


「これは七十億の願いです」


 有働は体育館に掲げられた巨大モニターを見上げた。


 全世界の人々がこの会議を中継で見ていた。様々な人種、老若男女。彼らは世界の未来をこれまで以上に注意深く見守っている。


「全世界への公言通り、来年の春までに連邦政府の樹立を達成させなければなりません」


 有働の言葉にモニターの向こう側にいる七十億が沸いた。


----------------


 校舎に足を踏み入れるなり、有働を迎えていたのは信じられない光景だった。


「どういうことですか…これ」


 教室を使った様々な催し物の数々。生徒は売り手と買い手に分かれて行き交いそこには笑顔が溢れている。


 江戸の茶屋を再現した喫茶店にゲームブース、美術個展ブース、占いの館にお化け屋敷。手作りアクセサリーのショップに古着屋、岩石展示、似顔絵コーナー、焼きそば屋、ビデオ鑑賞コーナーに洋菓子屋、和菓子屋。


 笑ってしまったのが有働の顔写真を無断でプリントした「救世主Tシャツ」の販売だった。売り子の女子生徒は顔を赤らめながら有働にその一枚を手渡してきて有働は唖然とした顔でそれを受け取る。


「二年前も去年もオジャンになっちまっただろ?学園祭。あれの再現だ。同じ出店に同じ催し物。俺たちOBまで引っ張ってこられる始末だぜ。学生服がきつくてきつくてよ」


 入り口で出迎えてくれたのは権堂だった。その隣では春日や誉田がにやけている。


「言い出しっぺは春日さんですか」


「いや。俺じゃない」


 春日は向こう側で和菓子を売っている莉那を指さした。


「あの日、有働君に助けてもらえなかったら私はここにはいないわ。ここにいる皆も同じ思いなのよ」


 莉菜は饅頭を買っていった生徒にお辞儀を終えたところだった。和服姿の莉那はとても魅力的で有働は一瞬、目のやり場に困った。


「もう情報は解禁されたのか。我々も一緒に楽しませてくれ」


 有働の背後から声をかけてきたのは米合衆国大統領のミッチ・ニューマンだった。


「あなたもグルでしたか」


 振り返る有働と目が合うとミッチは笑った。すべては米合衆国大統領をも含めた計画だったのだ。有働はやられた、という表情をつくった。


「これが日本の高校生の実態か。興味深い」


 世界各国の首脳たちもミッチ・ニューマンに続き押し寄せる。


「ここの学園祭の焼きそば美味しいって有名なのよ~」


 彼らの周囲にいるSPを押しのけるようにして地元住民たちもやってきた。


 SPたちは不機嫌な顔を当初見せていたが地元のおっさんに肩を組まれようやく苦笑いしてそれを受け入れた。


「有働さんからは金をとりませんから、うち寄ってくださいよ~」


 焼きそば屋を営む生徒が教室からひょっこり顔を出すと他の店舗の生徒たちもそれに続く。


 有働は苦笑しながらも店舗の一つ一つをすべて回っていった。


 各国首脳は有働の後ろについてまわり、お化け屋敷で悲鳴をあげる。お化け役のリーダー根倉照子はそれを見てピースした。


「そういやよ、オジャンになっちまったのは学園祭だけじゃないよな」


 時計の針は十九時をさしていた。


 誉田が天井を親指で示す。権堂はそれを見てにやつきながら頷いた。


「どういう意味ですか」


「屋上へ行ってみろ。彼女たちのスタンバイはオッケーだ。あの日会場にいた全員が招かれてる。うちの学校って屋上だけはやたら広いだろ。それが今回はじめて役に立ったな」


 春日の言葉と同時に目の前に現れた少年が有働に一枚のチケットを渡す。


「有働さん、おひさしぶりです」


 MANAMIの弟だった。


「姉からの贈り物です。僕と一緒に来てください」


 有働は彼に導かれるままに屋上へと続く階段を一歩ずつ進んだ。見慣れた校舎が、屋上への階段が、まるで異世界へと続いてゆく回廊のように思える。有働はめまいがする思いでとにかく一歩ずつ階段を昇っていった。


「有働くん!待ってたよ」


 太田の声がどこからともなく響く。


 屋上で待ち受けていたのは凄まじい人だかり――、あの日の観客たちとスーサイド5Angelsのメンバーだった。


「私たちのヒーローが到着したので…そろそろいっちゃいますか?」


 MANAMIのかけ声とともにステージは始まった。屋上に備えられた簡素なステージも無限に広がる満天の星空を受けて壮大な野外コンサートへと姿を変えてゆく。


 メンバーはあの日と同じメニューをパフォーマンスを繰り広げた。


 MCもあの日のテンションを再演するかのように展開され、その場にいた観客たちはあの恐ろしい事件で失ってしまった感動を今ここで取り戻そうとしていた。


「世界の首脳たちもこのステージが見たくてゴネてたみたいだけどここに入れるのはあのカウントダウンコンサートの観客だけ。見てみなよ、大統領ですら校庭で音漏れを聞いてるよ」


 栞が小気味よく言うので、有働は屋上のフェンス越しに校庭の様子を見下ろす。


 校庭には数千人のファンや地元住民が集まっており、各国の首脳たちはSPに囲まれながらもみくちゃにされていた。


 次の瞬間、有働は人混みに紛れてこちらを凝視する男の影をみた。


「まさか…」


 驚愕する有働をよそに男はゆっくりと帽子を脱ぐ。


「あ り が と う」


 唇はそう動き、踵を返すと校門を出て行った。


 有働は男の後ろ姿をずっと見ていた。男の正体に確証をもてなかった。だが有働の体中の傷が疼いていた。


 有働の体に傷をつけた連中――、不破勇太はまだ出所していないはずだ。冬貝久臣は死刑がほぼ確定と言われている。チェルシースマイルに至っては墓の中だ。


「…そうか」


 有働は屋上のフェンスに身を乗り出し男の名を叫ぼうとしたが思いとどまった。


 男は第二の人生を歩もうとしているのだろう。彼の傍らには背の高い女が寄り添っていた。


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 雲一つない夜空で満月が煌々と輝く中、コンサートは終幕し美術や機材がクレーン車で次々と降ろされてゆく。


 屋上から客がひとり、また一人と帰っていく中で有働はスーサイド5Angelsのメンバーに礼を言った。


 五人の天使たちは多くを語らず「次の新曲を聴いてね」とだけ言って帰って行った。


 新曲のテーマは世界平和であり、来年アニメ化が予定されている内木が描いた読み切り漫画「ウチキング」のエンディング曲につかわれるという。


 自分たちの思いを言葉ではなく楽曲を通じて世界に発信する彼女たちを有働は誇りに思った。


「んじゃ俺たちも行くわ。来週、俺と権堂相手にスパーリングする件よろしくな」


 贅肉を落とし筋肉質に戻った誉田が、有働の胸に拳を押し当てる。


「分かってます。新渡戸先生の授業が終わり次第、道場に向かいます…お二人とも救急車に乗る覚悟をしておいてくださいね」


「言うようになったな。メンツにかけても一回はダウンをとらせてもらうぜ」


 誉田の後ろで権堂が笑った。


 権堂は帰国後、母の経営する焼き肉屋を手伝いながらその建物の二階に格闘技道場を開いている。三人はそこでスパーリングをする約束をしているのだ。


「それからこれ。エミちゃんからの手紙だ。なぜか知らんがお前宛の手紙がウチの店に届いた」


 有働は権堂からピンク色の封筒を渡された。それの封を切ると花柄の便せんに「つとむへ」と汚い字で書かれた手紙が出てきた。


「エミ」


「電話番号もメールアドレスも変わってる。遠柴さんですら彼女の居場所を知らないそうだ」


 権堂と誉田が去り、屋上には有働ひとりだけが残った。



 つとむへ。


 まず最初に。


 居場所は言わないよ。つとむに知られたらきっとどこにいても私は私のままでいてしまうから。


 私は今、言葉も通じない私のことを誰も知らない場所にいます。


 そしてそこで現地の人々と触れ合い、人間として再びやり直そうと思ってます。


 私はね、これまでやってきたことを後悔することなんてないと思ってた。


 でも本当に愛する人ができたとき、私は自分の行いを後悔した。


 毎日が苦しかった。自分が恐ろしい怪物に思えてきた。


 そんな自分に気づかない振りをすることに疲れてきたんだと思う。


 怯えながら怪物を演じる自分に嫌気がさしたんだ。


 そして、つとむを止めることができない弱い自分にも腹が立った。


 結局、私は人間にもなれないし怪物にもなりきれない中途半端な存在だって気づいたの。


 でも、もしも私が私を許せるほどの――、別の存在になれたならば。


 友達としてつとむの前に姿を現すね。


 そして、その時つとむに恋人がいなかったら、恋人候補として立候補するね。


 そのためにも、つとむはつとむで莉那ちゃんにちゃんと告白するんだよ。


 不戦敗なんて絶対だめ。


 告白もせずになんとなく付き合うなんていうのもダメ男っぽいからだめ。


 いい?


 後悔はしないでね。


 人生は一度きり。


 百年後にはつとむの今の気持ちを知る人なんて誰もいなくなる。


 長い長い歴史の中にその宝物みたいな気持ちは埋もれていってしまうの。


 だからこそ、今のこの瞬間を大事にしていってね。


 遠く離れた地にいるエミより。



「メールでいいじゃないか…手紙なんて古くさい方法をとりやがって」


 有働の中で胸が締め付けられるほど懐かしさがこみあげてきた。


 まだ秋だというのに、エミと初めて出会った頃の冬の日の寒い空気を思い出す。


 エミの笑顔――、悲しむ顔――、過去の傷跡――。


 その全てが彼女自身であり愛しい存在だった。エミは自分を許せないと書いてあったが有働はそのすべてを受け入れたいと思っていた。


「これって、エアメールだよな」


 有働は封筒の消印を見た。


 消印には「小樽」とあった。


「言葉が通じないって…北海道の人に失礼だろ」


 そういった部分もエミらしいと有働は思った。


---------------------


 エミの手紙を有働はポケットに仕舞った。


「有働くん」


 ふいに背後から自分の名を呼ぶ声がした。


「…吉岡」


 振り返るとそこには有働が数年間、恋いこがれた少女が立っている。夜の闇を照らす月明かりよりも眩く、漆黒に凛と浮かぶその顔に有働は気まずさを感じた。


 すべてはこの子のために、はじめたことだった――。

 だが俺は彼女にきちんとまだ想いを伝えていない――。


「みんなこの日のために結構、頑張ってたんだよ。有働君に気づかれないように」


 莉那はフェンスに指を絡めて空を眺める有働の隣にやってきた。


「いや…なんとなくだけど、気づいてた」


「どうして?」


「吉岡がいつもの時間にバスに乗ってこなかった期間があったろ。遅刻ギリギリで学校に来るし。他の連中もなんかおかしかった」


 まさか学園祭とコンサートの仕込みをしているとまでは想像していなかったが何か自分に内緒で周囲がコソコソしていることには気づいていた。


 二年前の有働ならば鼻で笑ったかもしれないが、今の素直な気持ちとしては級友やOBたちが自分の時間を削ってまでここまでのことをしてくれた事に深く感動し、感謝している。


「さすがね…みんなのことを一番ちゃんと見てるのは有働くんかもしれないね」


「そうかな」


「そうよ」


「今までの俺は、たった一人しか見てこなかった」


 口をついた言葉。有働の心臓は飛び出しそうなくらいに高鳴っていた。


「どういうこと…?」


 莉那の問いに有働はすぐに答えられず、少しの沈黙が流れる。


「とある女子に最低呼ばわりされて…いい人間になろうと必死にもがいてた…」


「元々いい人だったのよ。人はきっかけがなければ本当の自分に気づけないときもある」


 有働が校内暴力根絶に勤しみ、生徒会長にまでなった経緯は莉那も知るところであるため、彼女のフォローを有働は有り難く感じた。


「そういうもんかな」


「私もずっと有働君を見てたから」


 瞬間、夜空を切り裂く流星が二人の横顔をかすめた。


 この言葉を彼女の方から先に言わせてはいけない。有働は意を決したように莉那の方を向く。


「俺はずっと…きみのことが好きだった…」


「好きだった?」


「今も、好きだ」


 有働は視線を逸らさず過不足なく気持ちを伝えた。莉那の黒い瞳にはかつての臆病な自分の姿は映っていない。勇気さえあれば人はいつでも、どのような状況にあっても変わることができるのだ。


「ありがとう。私も…好き」


 莉那は有働の胸に顔を埋めた。


「私、十センチ身長が伸びたんだよ。でもいつかの時と差が変わらないね」


「そうかな」


 有働は莉那の鼓動と温もりを感じながら応える。


「有働くんも身長が伸びたんだね」


 二人は見つめ合った。


「そうみたいだな」


 有働は莉那の柔らかい唇へ自らの唇を重ねる。しばらくの間、二人は時間を忘れて抱き合った。


----------------


 有働は父の仏壇に手を合わせ、二階の自室へあがった。


「もうすぐ夕飯だからね」


「わかったよ母さん」


「今日はあなたの好きなカレーよ」


 母は父を失って以来、塞ぎ込んでいたが世界の終わりを前に戦う息子の姿を見て再び生きる気力を取り戻したのだと言っている。


 窓の外では日本国総理の徳園仁の指示により警察と自衛隊による合同チームが二十四時間体制で有働の自宅を警備していた。


 近くの空き地には弾道弾迎撃ミサイルが置かれ、その周辺のアパートやマンションには百名ほどの自衛隊員が常駐している。


 有働は今も自問自答を続けている。永久に答えがでない「もしも」の話だ――。


 もしもあのとき偽善者になる選択をしていなければ、父は今も一階でナイターを鑑賞しほろ酔い加減でいたのだろうか。


 自分は死んだような目で世界を傍観していただろうか。


 内木や久住たちは今も生きていただろうか。


 エミとの思い出は無かったことになるだろう。


 莉那には片思いしたままだったかもしれない。


 不破勇太によって自分を含む全校生徒が殺されていたかもしれない。


 カウントダウンコンサートではスーサイド5Angelsのメンバーと観客が犠牲になっていただろう。


 世界はまだ争いを続けていたかもしれない――。


 人生とは選択の連続である。選択の末に現在がある。


 選択をしない選択も、一つの選択といえる。


 惰性に流されるのも選択肢の一つだ。


 それとは逆に、勇気を伴う選択が大きな一歩となるかどうか誰にも分からない。


 最善の選択をしたつもりが最悪の結果を招くことも少なくない。


 有働は思った。


 これからも俺は無限に続く扉を一つずつ開いていくのだろう、と。


 勝敗など神にすら分からない。


 だが俺は俺らしく、これからも自らが信じる「善」の道を突き進んでいこう――、と。


「所詮…やるか、やらないかだけだ」


 有働は自室の机に座りパソコンを起動させた。


 SNSには世界中から感謝のメッセージが書き込まれており、どのページも真っ赤な文字で「これ以上、書き込みができません」と表示されている。


 メールボックスにも毎日、数万件のメッセージが届いていた。言語は様々だった。


 世界中のたくさんの人から感謝される毎日に麻痺しそうになるが、ここで初心を忘れてはならないと自戒の念を持つ。


 有働は久しぶりに巨大掲示板を訪れてみようと思いついた。なんとなく開いたのは「悩み相談」のスレッド一覧ページ。


 そこには嘘か本当か分からないネタのような悩みから、人生に関わるであろう深刻な悩み相談まで膨大なスレッドが乱立していた。


「久しぶりにスレを立ててみるか」


 有働は舌なめずりをした。


 かなり前に「好きな子を振り向かせるため、善人ぶる方法を一緒に考えてほしい」というスレッドを立てて、罵詈雑言を浴びせられ即、削除した苦い経験を思い出す。


 今の自分なら――、どんなスレッドを立てるべきだろうか。


 こんなに悩んでいる連中がいるなら、俺は俺の経験談を交えてそいつらの相談に乗ってやるべきではないだろうか?


「別に正体がバレようが構いやしない」


 有働はさっそく巨大掲示板にスレッドを立ててみた。


 タイトルは「本気で偽善者はじめたらたくさんの人に感謝され、なりゆきで巨大犯罪組織まで壊滅させ、いつの間にか世界七十億人を救ってたんだが、こんな俺がなんでも悩み聞くよ(*^_^*)」とした。


「さて…どれくらいレスがつくかな?前回の二十数件を越えてほしいもんだな」


 有働はくしゃみを何度かした。


 夜はまだまだ深まるばかりで、明けそうになかった。

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本気で「偽善者」はじめたら、たくさんの人に感謝され、なりゆきで巨大犯罪組織まで壊滅させ、いつの間にか世界70億人の命を救ってたんだが。 実時 彰良 @sugar62emblem

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