第54話 英雄は命を燃やし、戦う

 木々の葉に隠れるようにして砂金を散りばめたような星空が広がっていた。


 秋のそよ風に揺られて見える満月は煌々と輝いており、いつもと何も変わらない。


「世界最後の日に温泉なんて贅沢」


 北関東・栃木県某所――。


 森の中にひっそり佇むロッジの裏には秘境と呼ばれる天然温泉が湧いていた。


 ここ一帯にはかつて源平合戦に敗れて落ち延びた平家の残党が、天然温泉で傷を癒したという伝説が残っている。


「冬になれば雪が積もってカモシカが出るんだって」


 莉那は胸元まで温泉に浸かり、湯気の向こうのエミに言った。


 二人して木陰で洋服を脱いだとき、エミには無数の傷跡があった。彼女は凍り付く莉那に自らの過去の話をしてくれた。まるで他人事のように。


「ゲームが気になる?」


 無言のエミに莉那は訊ねた。エミは首まで温泉に浸かり星空を見つめていた。


 すぐそこに生えた木の枝に立てかけたポータブルテレビは日本とイタリアのデスゲームを垂れ流しにしていたが、ずっと膠着状態だった。


 時差があるため向こうは日中。米国の峡谷で戦いを繰り広げているため、映画かテレビドラマを観てるようで実感が湧かないというのが本音だった。


「タイムオーバーまで、どっちも動かないでしょ」


 エミの声を数十分ぶりに聞いた。


「さっきも、ゲームが終わる寸前までじっとしてるなんて馬鹿らしいって言ってたもんね」


「だってそうでしょ?それにしてもこんな素敵な場所を知ってるなんて。あなたのご両親にも感謝しなきゃ」


 上機嫌なエミを見て莉那は少し安心した。


 遡ること少し前――。


 ドールアイズの中継をみた莉那の両親は、都心近いK県にも核汚染の危険が及ぶと考え莉那の母親の親戚がいるこの地に避難することを決め早々に娘を退院させた。


 そして特に行く宛もないという春日の家族とエミ父娘もここに招いた。すべては襲撃の一件が結んだ縁だった。


 春日の両親は派手な息子とは似ても似つかない地味な夫婦だった。


 まだ傷の治りが完全じゃない息子を病院から移すことを心配していたが、病院のスタッフの半数が避難してしまった状態じゃ十分な治療も受けにくいと言うことで、この場所まで着いてきた。


 田舎町の小さな診療所では世界最後の日になるかもしれないのに、年老いた開業医が同じく年寄りの診察を夕方までしていて、春日の傷の具合も避難してきて早々にその開業医が診てくれている。


「エミちゃんや春日さんは私のことを守ってくれたでしょ。感謝するのはこっちの方よ」


 莉那の言葉にエミは何も返さなかった。


「世界最後の日になるかもしれないのに、私たちノンキね」


「世界最後の日になるなんて思ってないでしょ?」


 今度はすぐさまエミは言葉を返してきた。


「どういう意味?」


「ツトムが姿を消したの、知ってるよね」


 湯気の間からエミの顔が見えた。濡れた髪に薄く化粧をしている。自分なんかよりもずっと大人っぽいと莉那は感じた。エミは再び夜空を見上げ言葉を続ける。


「ツトムだけじゃない。虎文っちも消えた。うちのパパが変なヒーロースーツを制作していたのも知ってるし…絶対今回のことと関係してるでしょ」


「ずっと連絡をとっていなかったんでしょ?」


 莉那はエミの表情を見ようとしたがすぐに湯気がそれを隠してしまった。


「パパが連絡を取っていた。私はその横にいただけ」


「有働君のことを忘れられるの?」


 莉那はエミを見つめ続ける。


「あなたは世界が終わるなんて思ってない」


 エミは莉那の瞳の中にいる有働を見つめ返した。


「そうね。どこか信じているのかも…有働くんなら何とかしてくれるって」


 莉那は本音を吐露した。実際、有働は日本を出発する前に病院まで別れの挨拶をしにきた。


「何をするかは言わない。でも、世界を救いたい。また戻れたら伝えたい言葉があるんだ」


 有働はそう言って莉那の次の言葉を待たずして姿を消した。


「ウチキングー!!ウチキング」


 木の枝に立てかけてあったポータブルテレビから騒がしい音が流れてきた。


 ゲームの戦況に変わりがあったのだろうか。莉那はタオルを巻いたまま温泉から上がりそれをとると少し遅れて温泉から出てきたエミと一緒に画面を観た。


 仮面のヒーローが大勢の男たちと戦う姿。その傍らには権堂や誉田がいた。


「有働くん」


 莉那とエミは顔を見合わせた。エミはゆっくりと頷く。間違いなくこの仮面のヒーローの正体は有働努なのだ。


 二人は早々に着替えて、春日と家族が待つロッジに戻った。


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「あの男は政治家たちにギブアップをすすめている」


 莉那の父親は大画面のテレビを見ながら憤っていた。


「いったい…何が目的なんでしょうか」


 春日の父は震えており、春日の母はその肩を抱いていた。


「俺たちの怯えた顔が見たいんだろうよ」


 ベッドから春日の声が聞こえた。抗生物質と痛み止めでさっきまで寝ていたのだが不穏な空気を察して目を覚ましたらしい。


「もし日本が負ければ東京、大阪、福岡、北海道に核が落ちるという噂があるわ…でも実際どこに落とされるか分からない」


 春日の母は眼鏡をとり涙を拭う。


「実際どこに落とすか明言しないのも不安を煽るためだ。だが少なくともここには落ちない。落ちてからのことは後から考えればいい」


 春日はそういうと再び目を閉じた。


「ウチキング…そいつが何とかしてくれる」


 春日はいびきをかきはじめた。


「ウチキング。彼は何者なんだろう」


 莉那の父の問いかけに答えられる者は一人もいない。


 だが向こうのソファでネット接続ができないノートパソコンのチェックを逐一しているエミの父――、遠柴博士がこちらの方を気にしているのを莉那は見た。


 画面の分割された一部分がズームされる。


 映し出されたのは中華人民共和国・北京市――。


 高校生くらいの少年が大きな紙に英文でメッセージを書いて掲げているのが映し出されていた。


「なんて書いてあるのかしら」


 莉那の母が眼鏡をかけるが、母は英語が読めないので無意味なことであると莉那は思った。


「私が読もう」


 エミの父がソファから身体を起こしそれを読んだ。その右手は包帯でぐるぐる巻きにされている。有働と中国に行った際に負った怪我だと言うことはエミから聞いていた。


「僕の名は謝偉卓です。北京の高校生です。全世界の政治家の皆さん、ここはドールアイズの誘惑に乗らずにウチキングが勝利するのを待ってください。まだ時間はあります。彼は世界を救うヒーローです。ウチキングを信じましょう!きっと…きっと、僕の願いが天に通じたんだ!」


 少年の傍らには彼の恋人らしき少女もいた。


 デスゲームの最中、どこかへ避難せず北京に残っている彼らにはどれほどの覚悟があるのだろうか。おそらく家族の手をふりほどいてその場にいるのだろうと莉那は考えた。


「この少年の主張はもっともだ。ウチキングが狂人を倒せば全ては丸く収まる。これを見た政治家たちがギブアップのタイミングを遅らせるかもしれない。だが…なぜドールアイズはこれを中継したのだろう…数ある世界中の映像からこれをピックアップする意味は…」


「きっと、こういった問いかけが無駄に終わると言うことを僕らに理解させたいんでしょう」


 莉那の父の疑問に答えた春日の父は、半ば諦めたように笑った。


「悪魔のような男だ」


 莉那の父は憤った。エミの父はただ、成り行きを見守っていた。春日の父は絶望していた。


「みんな、今あの男と戦ってるのは、有働――、有働努くんなの」


 莉那の言葉に一同の視線が集まる。エミとエミの父だけは表情が変わっていなかった。


「有働くんはいつも誰かのために戦っていた。学園祭の事件も、アイドルグループのコンサート会場占領事件も、中国のクーデターだって有働くんが世界を守るためにやったことなの…だから…」


「有働くんか」


 莉那の父は苦い顔で天井を見上げた。


「彼の噂は聞いている。どこまで事実で、どこまでがデマなのか私には分からないが…あの深夜の襲撃事件以降、彼がこの町のやっかい者だという父兄が少なからずいた」


「でも今回の事とは関係ないわ」


「莉那…お前は彼の怨恨に巻き込まれ何度も狙われた。ウチキングが有働君かどうかは知らないが、一つ言えることは彼は関わってはならない人間だということだ」


 莉那の父は厳しい視線を娘に向ける。


「有働君だってお父さんを殺されたのよ」


 莉那は涙を溢れさせた。


 有働を擁護したい気持ちは山ほどあったが、言葉がそれに追いつかなかった。画面の向こうで戦う有働の理解者はここに誰一人としていないのだと気づいてどうしたらいいのか分からなくなった。


「ツトムはね、ただの偽善者だよう」


 そう言ったのはエミだった。


「ここにいる莉那ちゃんに好かれたいばかりに、ツトムは厄介ごとに首をつっこむようになった。きっかけは莉那ちゃんがツトムを影で最低呼ばわりしたことなんだって」


 エミは椅子から立ち上がると皆の顔を見渡す。


「莉那ちゃんがいなければツトムは普通の高校生活を続けられた。でも私は莉那ちゃんを責めることはしない。だってそんなことしても意味がないもの」


 莉那の父は娘の方を見つめた。莉那は父を見つめ返す。


「でもね。ツトムは私の心を救ってくれたんだよ」


 エミは上着を脱いで下着姿のまま、全身に刻まれた無数の傷を皆に見せた。莉那の両親は驚愕し、春日の両親は息を呑んでいた。


「世の中には存在しちゃいけない悪がある。私たちにできるのは二つの選択だけ。悪に怯えて目を背けるか。悪と向き合い戦うか」


 莉那の父はエミの身体に自分の羽織っていた秋物のジャケットをかけた。


「私が言いたいのは…有働君を応援してほしい…パパ…ママ…みんな…怯えるのはもうやめよう。悪者が望むようなことは、もうやめよう…」


 莉那は言った。その場の全員がそれに頷いた。


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 新バベルの塔――。

 地下スタジアム――。


 ここまでようやく辿り着いた汗だくの太田は、ライトに照らされた五人の天使たち――、スーサイド5Angelsのパフォーマンスをアリーナ席の影から見ていた。


 四方に配置された黒服たちは太田の侵入に気づいていない。ファン仲間から「動けるデブ」「最前列にいつの間にかいる巨漢忍者」などと揶揄されたものだがあながち間違っておらず、自分には気配を殺し影のように動く能力が本当に備わってるのだと再認識させられた。


「それじゃ…まだ未発表だけど…以前、私たちを救ってくれた男の子をテーマにした曲ヒーロー・ショー」


 疲労症

 ヒーロー・ショー

 正義の真髄、披露しよう

 命を燃やして緋色の勝(しょう)


 自殺した死体に扮する五人の天使たちが舞う――。

 踊る――。

 歌う――。


 だがすぐさま、太田は異変に気づいてしまった。


 ステージが始まってしばらく経つというのに彼女たちのパフォーマンスは精彩を欠き、歌声もイマイチ響かなかったのだ。


 疲労か――、恐怖か――。


 太田は天使たちの表情を見た。そしてそのどれも違うと言うことに気づいた。


 関係者以外、お客が二人くらいしかいなかったインディーズ時代から彼女らを追い続けているため、小さな違和感の正体が何なのか理解するのにそう時間はかからなかった。


(お客さんがいないからだ――)


 アイドルがなぜパフォーマンスをするのか。

 そしてそのパフォーマンスがなぜ輝きを見せるのか。

 すべてはファンを元気づけるため。

 答えはそれに尽きた。


 これがただのPV撮影や無観客コンサートだというなら彼女たちも割り切ってパフォーマンスができただろう。


 だが、彼女たちがスクリーンで見せられてるのは、喜ぶファンの顔などではなく、世界の崩壊に怯える人々の様子、そして殺し合いをさせられてる政治家たちの姿だった。


「せめて僕ひとりでもお客さんがいれば」


 演者と観客の相乗効果というのはアイドルのコンサートでは必須であった。


 アイドルの語原は「偶像」「崇拝」を意味する。ファンが欠けてしまったアイドルのステージは太陽を失った星々や月に等しい。


 自らを太陽と称するのはおこがましい気もするが、アイドルとファンは共に太陽であり、星々や月である表裏一体の存在なのだ。


 実体と影と言った方が相応しいだろうか。切っても切れない、実存を証明する相互関係にある。


「せめて僕が彼女たちの前に出れば」


 太田は座席の影からスタジアムの四方、定位置に立つ黒服たちを睨んだ。


 有働から預かったスマホと任務もあるので、今ここで彼らに捕縛されるわけにはいかなかった。


 だが――。

 次の瞬間、身体が勝手に動いてしまっていた。


「まなみぃ~ん!ちゅりちゃぁ~ん!ゆっきぃ~!らんらん~!もえぴぃ~!僕はここにいるよぉ~!」


 太田はポケットのペンライトを取り出し、踊り狂った。

 巨体をものともしない俊敏な動き。

 リズムに乗せて舞う。


 この「ヒーロー・ショー」という歌は聞いたことない新曲ではあったが、一番を聞いただけでメロディは頭に入っていた。


 五人の自殺天使たちは最初は驚いていたものの、目にうっすら涙が滲んでいるのが見えた。


 誰もいないはずにステージに、最古参のファンである太田が様々な障害を乗り越えて駆けつけてくれたことに心が動いているのだ。


 殺されてしまうかもしれない。でも彼女たちを隠れて観るだけなんて――、応援しないなんて――、ファンとして死んだも同然じゃないか――。


 太田は思った。


「きさま、どこから入ってきた!」


 すぐさま黒服がなだれ込んできた。白人、黒人、見るからに誰も彼も太田よりも力持ちの連中だ。銃も携帯していた。


 ここで死んでしまえば彼女たちの心に傷を残してしまう。太田は降参のポーズをとりながら五人にエールを送った。


「とらえろ!」


 数人の男たちが太田に覆い被さる。太田は泣いていた。


(悔しい。悔しすぎる)


 一分でも一秒でも、彼女たち五人の観客になってあげたかった。無名のインディーズ時代から彼女たちを観てきたし、自分はどんなことがあろうとも最前線で天使たちを守ると決めたのに――。


「待て!彼をはなせ」


 そんな声が聞こえてきた。男たちの重力が消え失せた。


 涙で濡れた視界にスタジアムの光が射し込む。そして一人の白人男性の顔が見えた。


「起きれるかい」


 手を差し伸べてくれたその顔を見て太田は肝が冷えた。


「ド、ドールアイズ」


 白人男性は笑った。そして「違う。僕はマイケルの兄だ」と答えた。


 よく見たら目は義眼ではなかったし傷もなかった。髪型もオールバックで違う。何より物腰が柔らかでマイケル・ホワイトとは顔こそ似てるがまるで別人だった。


 冷静になった太田はこの男が「ノアの救世会」の教祖にして、ドールアイズの実兄であるガブリエル・ホワイトであることを思い出した。


「あ、ちょっとごめん…」


 ガブリエルはポケットから白い粉を取り出すとそれを指になすりつけ、歯茎にねじ込んだ。これが薬物の手っ取り早い接種方法であることは太田も理解している。


「ああ~いい気持ち。これをやって彼女たちの歌を聴くとさ、すごいよ。君もやるかい」


 太田は首を振った。


「じゃあ世界が終わるまで僕と一緒に最前列で聴こう」


 ガブリエルに促されるまま、太田はアリーナ席の最前列へと歩いた。


 先ほどまで太田を捕縛しようと動いていた黒服たちは、再びスタジアムの四方へと戻っていったものの、彼らの突き刺さるような視線を太田は背中で感じた。


「どの政治家もまだ死なないね」


 ガブリエルは世間話のように言った。


「ま、まだ時間はあるからじゃないですかね」


 太田もつたない英語でそれに答える。


「うちの弟は人間の本性は悪だと考えている」


「どういう意味ですか」


「政治家たちにギブアップルールを追加した。家族の安全は保障するから国民を見捨ててさっさと負けろということさ」


 ガブリエルは上等なスーツの襟元――、シルクのネクタイを緩める。そのワインレッドは血の色よりも鮮やかで鼻や歯茎からこぼれ落ちた薬物の粉が白い水玉模様になっていた。


「父は昔から弟に期待していてね…今思えばマイケルは父にそっくりだ」


 そう言いながらガブリエルは白い粉に再び手をかけた。


 太田はガブリエル・ホワイトの経歴を有働から大まかに聞いていた。


 ガブリエルは大手軍事企業アウグスティン社CEOだったラファエル・ホワイトの長男としてこの世に生を受けるも、病弱に生まれついた。


 そのためラファエルはガブリエルを早々に見放し、次男のマイケルに目をかけるようになったという。


 ところがラファエルの見立ては外れてしまったようでマイケルは両目を失明し青春時代には人格崩壊を起こした。


 一方のガブリエルは十代のうちに死ぬだろうと言われていた難病を克服し、二十代半ばでアウグスティン社傘下にある製薬会社の役員になった。


 奔放な弟と堅実な兄。


 世間がそう噂する中でガブリエルはいつか父が自分の方を選んでくれると期待していたという。


 だが実際にアウグスティン社のCEOの座に就いたのは弟のマイケルだった。


 父が倒れ意識を失う一ヶ月前に書かれていた法的効力のある書類にマイケルを後継者として推薦する旨が書かれていたのだ。


 明確な理由は書かれていなかったというが、ガブリエルはそれ以来荒れてゆき、薬物に溺れるようになった。


 一方でマイケルは911テロに端を発する一連の中東戦争で莫大な利益をあげることに成功しアウグスティン社はさらに業績を伸ばした。


 薬物使用の現行犯で逮捕された際に、大手製薬会社役員を辞任したガブリエルは当時のインタビューでこう答えている。


「武器商人は根底として人を憎める人間にしか務まらない。一方、薬売りは人に病気になってほしいと願う連中にしか務まらない。僕はもうただのジャンキーでいい」


 その発言の解釈は様々な憶測を呼んだが、結局のところガブリエルは一般的な感覚を持つ善人であったのだろうと太田は結論づけている。


「ノアの救世会だって…僕の思っていたものとはかけ離れていった」


 ガブリエルの言葉に太田は頷いた。


 ノアの救世会が発足したのは、911テロの翌々年のことだった。


 表向きはガブリエルが神の啓示を受けて開いたスピリチュアルコミュニティと言うことで始動したのだが、その実はマイケルからの資金援助によって発足した宗教団体であった。


 神は善と悪を振り分ける。悪しき者は滅び善人だけが箱舟に乗れる。というコンセプトでガブリエルは法衣を纏い、大勢の前で説教を垂れた。


 有名ハリウッドスター、サム・クレイマーという広告塔を得たことでノアの救世会は信者数を大幅に獲得し、当時、ローマ法王が「カトリックとノアの救世会は無関係である」という異例の記者会見をするまでに至った。


「当初の僕は乗り気だった。優しい世界を実現するのだと薬物も断ち切って正しい教祖であり続けた。でもすべて弟の狂った妄想を実現するための道具にすぎなかった。僕は父に見捨てられ弟にまで騙されていたのさ」


 ラファエルは子供のように泣きじゃくった。太田はアニメ柄のハンカチを差しだし、ラファエルはそれを受け取る。


「本当は…僕は…誰かを切り捨てるのではなく、最終的には皆が改心して、七十億全員が箱舟に乗れる世界が創りたかったんだ」


「今は…コンサートに集中しましょう」


 太田は天使たちの歌声を聞くよう、ガブリエルを誘導した。


「いい歌だね。僕は日本語は分からないけど…きっと愛や、優しさ、勇気について彼女たちは歌ってるんだろう」


 ガブリエルは少年のような表情でステージを見上げている。


「そうだ。アイドルコンサートの正しい楽しみ方を教えますよ。俗にいうオタ芸です」


「オタ芸?」


 太田はペンライトを持って踊り始めた。やがてガブリエルもそれに倣って踊り始める。


「あはは…小さい頃、母に踊りを褒めてもらったことがある。今思えば病弱だった僕が身体を動かすことを喜んでいたんだね。マイケルも僕に負けじと踊ってたよ…思い出せてよかった」


 ガブリエルはそれからも太田と踊り続けた。


 観客が二人になったことで、五人の天使たちの歌声も一層、素晴らしいものになっていった。


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 新バベルの塔・最上階――。


 スクリーンの向こうでは、全世界の大都市に集まった人々が叫んでいる様子が流れていた。


 ギブアップルールが追加されたことが混乱を招いているのだ。


 殺し合いに積極的になれない政治家たちに対して「ウチキングが勝利するのを待ってほしい」とメッセージを送る者もいた。


 冷えた空気が大広間に流れていた。


 気絶した権堂と誉田を広間の端へ寝かせた有働はドールアイズの出方を伺う。


「どうやって潜水艦を用意した」


 青い瞳がこちらを睨むが、有働は何も答えなかった。


「クリス・グライムズか。奴がオブライアンの死後コソコソしていたのは知っていた」


 トゲのついた鉄球をグローブ代わりに装着したドールアイズはトゲの両先端をぶつけ、金属音を鳴り響かせる。


「私はお喋りしにきたわけではない」


 有働はあの殺戮兵器をどうかわそうかと頭を悩ませた。


 両者ともに距離を取りながら構える。


 それは一瞬の出来事だった。


 ドールアイズの右拳――、鉄球のトゲの先端がウチキングの仮面――、アイシールドをかすめた。


 凄まじい風圧。ドールアイズは二度、三度と、片方二十キログラムはあるだろう鉄の塊を有働に向かって振りかぶってきた。


「いつまでそのキャラをやってるつもりだ!仮面を叩き割ってやろうか」


 青い目が笑う。


 有働は真後ろに飛んだ。


 間一髪、鉄球は胸元を浅く抉り、プロテクターに横一文字の傷をつける。


 続いて左からの攻撃。


 巨体に似合わぬ俊敏な動きで、それは有働の脇腹に衝突した。


 プロテクターに三つの穴が開き、多少、血が飛び散っていた。


「こいよ、クソ野郎」


 有働は正義のヒーローウチキングらしからぬ口調で青い目の狂人を挑発する。


「死ね」


 ドールアイズの大振りな攻撃。


 有働はそれを真横に避けた。


 さらなる追撃――、左右の鉄の拳の連打。


 それらを避け続けるうちに有働は壁際に追いやられていた。


「死ね」


 鉄球のアッパー。


 有働は身を屈めそれを避ける。


 石像の一体がいとも容易く砕け散る。


 続いて蹴りが飛ぶ。


 有働は両腕でそれをブロックし、さらに隣の石像に叩きつけられ、ニ体目の石像が上半身から真っ二つに砕け散った。


 砂埃が舞う。


 立ち上がりざま有働は石像の頭部を拾った。


 そしてドールアイズの懐に潜り込むと、下から顎めがけて石像の頭部を振り上げた。


 血飛沫が舞う。


 続いてニ撃目、青い目の大男の右横っ面に向けて石像を叩きつける。


 女神の顔は粉々に砕けた。


 後方へよろめいたものの、ドールアイズは膝を落とし踏みとどまった。


 すかさず――、鉄球が有働の顔面にめり込んだ。


 トゲが仮面に刺さり、ドールアイズがそれを引き抜く際、有働は首ごと引き寄せられる形になった。


 そして二発目の鉄球。有働は下からそれを食らい後方へと吹っ飛んだ。


 吹っ飛んだ先――、それは石像ではなく銅像だった。


 有働は銅像に凄まじい勢いで打ちつけられ卒倒した。


「ヒーローはこんなザマだ…政治家どもは、さっさとギブアップした方が身のためだぞ」


 ドールアイズは有働の首を掴み、天井へ向かってギリギリと締め上げる。


「今ので何体…お前の母親と恋人が壊れただろうな…」


 その言葉に反応し締め上げがきつくなった。


 有働は両足を広げ、ドールアイズの胴体をカニ挟みした。


「てめぇ」


 鍛え抜かれた脚力によってドールアイズと有働の距離が近づく。ドールアイズの両腕が震え始める。


 手の力が怯んだ瞬間――、有働はドールアイズの両腕を掴んだままその顔面に向けて思い切り頭突きをした。


 青い目の狂人の鼻はひしゃげ血が吹き出す。


 戒めを解かれた有働は地面に着地すると、右肘をドールアイズの鳩尾に思い切りめり込ませた。


 ゴムのように固い感触――、ドールアイズはニヤリと笑うと、有働の仮面めがけて右の鉄拳を振り下ろした。


 凄まじい衝撃――、隕石が頭上に降ってきたかのような衝撃だった。


 有働はその場に倒れ込む。


 仮面はひび割れ、頭頂部には穴が開いていた。


 幸い怪我は負っていないが、もうこの仮面に防御力は見込めないと有働は理解した。


「ウチキング…お前が仮面を脱ぐというならば…」


 ドールアイズは息切れしながら、倒れ込んだ有働に向かって言葉を続ける。


「政治家とその家族、そして両国の国民すべてが救われるかも知れない最後のルールを付け加えてやってもいい」


 ウチキングの仮面――、シールドの中は汗と吐息で曇り始めている。


「てめぇ…」


 モニターの向こうでは七十億の人々の声が流れ続けていた。


「ウチキング――、仮面をとってくれ」

「仮面をとってお願い!!」

「君はよく戦った!あとは仮面をとってくれるだけでいい」

「仮面をとってくれ!!頼む!!!」

「死にたくない!お願いだから彼の言うとおり仮面をとって…!」


 ギブアップという最悪の選択肢、膠着したままタイムオーバーという最悪の結末を打破できるかもしれない――。


 世界七十億は、ドールアイズの甘言に縋るしかできなかった。


「くそ」


 有働はうつ伏せの状態のまま俯いた。モニターからは人々が神に縋るように嘆く声が響く。


 数秒――、数分の時が流れ、やがて有働は顔を上げた。


「…分かった…」


 有働はよろめきながら立ち上がると、顎の下にあるホックを取り、ウチキングの仮面をはぎ取った。


 前髪は額に汗でへばりつき、その雫が顎まで滴り落ちる。


「おまえの名はツトム・ウドウ」


 最上階天井中央に設置された丸型監視カメラが動き、有働の顔をズームする。


 等分割された画面に映し出された世界中の人々は、ウチキングの正体が東洋人の少年であることを知り、衝撃を隠せないでいた。


「このガキはなんとも凄い経歴の持ち主だ…去年十一月、高校の学園祭で同級生が大量虐殺しようと計画していたことを察知し寸前で阻止した…そしてその翌月――、アイドルグループスーサイド5Angelsの年末カウントダウンコンサートの観客監禁事件を解決。さらに今年、八月の中華人民共和国のクーデターの計画を立案、北京軍区指令員、除暁明上将と共に実行の指揮をとった。こいつは、こんなおとなしいガキの面をしながらオブライアン前大統領とも繋がってやがった」


「気は済んだか」


 有働は目の前の大男を睨み据える。


 モニターの向こう側では、世界の命運を年端も行かない少年が握っていることに絶望した人々が祈りを捧げる声が響いていた。


「ヒーロー気取りのクソガキめ。ここまで来れたことは褒めてやる」


「いいから最後の条件とやらを発表しろ」


 有働の言葉に、ドールアイズは先ほどとは一転して英国紳士のようなポーズを取った。


「約束通り最後のルールを発表しよう」


 人々が息を呑む様子、デスゲームに参加している政治家たちの表情も時間をかけてゆっくり映し出される。


「レーザーガンを使い、自分自身の体を撃ち抜け」


 政治家たちが目を丸くして、上空の撮影用ドローンを見上げていた。


「場所はどこでもいい。死にたい奴は自分の頭を撃ってもいい。死にたくない奴は…後遺症は残るだろうが足でも撃っておけ」


 青い瞳は機械音を立てた。


 きっと画面に映し出された人々の怯えきった表情を脳にデータの信号として送り続けているのだろう。


「その国の政治家の十割…、全員が自らの身体を傷つければその国には神の杖は行使しない」


「全員…だと…?」


 政治家たちは凍り付いたまま言葉を失った。


 ドールアイズは彼ら世界の為政者たちが自らの肉体を傷つけてまで自国を救おうなどとしないことを確信しているのだ。


 彼ら政治家の多くは銃で人を撃ち抜いた経験もなく、このデスゲームにおいて目の前の敵を撃てずにいるのも、自分たちに報復がやってくるリスクを考え躊躇しているからだった。


 ましてや未知の兵器、レーザーガンで自らの肉体を撃ち抜けばその銃創がどのようなもので、出血量がいかほどでどれほどの痛みを伴うのか想像すらつかない状況である。


 さらにその国の政治家全員がそれをしなければ意味がないという条件が、ハードルとして重くのしかかる。


「怪我をしてもうちの医療斑がすぐに運ぶ。だが命の保証はしない。急げ。各国レーザーガンは十二丁しかない。ゲームオーバーまで三時間。急がなければ数百人が自傷するには時間が足りないぞ」


 世界の人々はどよめいた。


「見てみろ政治家どもの顔を…自己犠牲精神の欠片もない。これだけ優しいルールを最後に提示してやったのに諸君は核の炎でバーベキューになるかもしれんな」


 白人、黒人、黄色人種、世界の人々は最後の希望に縋るつもりが絶望的な条件を提示され、今度こそ自分たちの命運は尽きてしまったのだと嘆き、悲しんだ。


「俺の片腕でも片足でもくれてやる…くだらんことはやめろ!」


 有働は吼えた。


「心外だな。俺が望むのは英雄の自己犠牲ショーじゃない。お前はそのままの状態でなぶり殺してやる」


 ドールアイズは愉快そうに口角を歪めながら、一歩ずつ有働に近づく。


「このクズ野郎」


「俺だけが有利でもつまらん。お前にも希望は持たせてやろう…このスマホは俺の義眼以外に唯一、神の杖を操作することができるツールだ」


 ドールアイズは黒いレザージャケットの懐からスマートフォンを取り出すと、それを地面に落下させ勢いよく踏みつぶした。


「何が目的だ」


「ヒーロー気取りのお前が敗れる様を世界に届けるためさ…」


 青い義眼は機械音を立てて有働の顔を舐め回すようにスキャンする。


「お前が世界を救う唯一の手だては政治家どもがギブアップする前に、俺の二つの義眼を抉ることだ」


「嘗めやがって」


 有働は呪詛の言葉を腹の底から絞り出した。


「俺は宣言するぞ、有働。お前は何もできず俺に殺される運命だ。手足を砕かれ、顔面を砕かれ…頭蓋骨を割られ、脳味噌を全世界に見せるはめになる。さらにデスゲームに参加中の政治家どもも国民を見捨て、世界七十億は失意のうちに神の杖によって洗礼を受けることとなる」


「ふざけるな!」


 地面を蹴り上げ、有働は右拳を振りあげた。


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 レナルド・トンプソン米合衆国大統領は混乱していた。


 太陽は頭上で輝き続け、黒いダイビングスーツに包まれたこの身をじりじりと焦がし続け正常な思考力を奪ってゆく。


 しかしここで思考を停止してしまえば寝首をかかれてしまう。トンプソンは現状把握のために頭を働かせた。


 ドールアイズから提案された内容は――、両国に核を落とす前提ではあるが、家族の安全が保障された状態でギブアップが可能であるという事。


 中継ではトンプソンの妻と子供たち、果ては叔父や叔母、従兄弟までもが新バベルの塔で「保護」されている様子が映し出されていた。


 確かにこれによって暴徒と核の脅威は彼らには及ばない。議員の中にはギブアップ推進派も少なくはないだろうとトンプソンは踏んだ。


 そして全世界が揺れ動く中――、ウチキングと名乗る頭のおかしい仮面ヒーローが登場した。さらに驚くべき事にトンプソン自らが仕向けた米国のエージェント三名が殺されてしまい他国の特殊部隊隊員たちも倒れる中、なんとそのウチキングだけがドールアイズの元へたどり着いてしまった。


 ウチキングの正体は有働努という日本の高校生だった。トンプソンは有働のことを副大統領時代から認知していた。彼がオブライアン前大統領と懇意であったことに加え、中華人民共和国のクーデターにも一枚噛んでいることは在中米大使テレンス・オルコットから聞いている。


(有働はドールアイズに勝てるだろうか)


 冷静に考えれば、神の杖を所有する狂人に対してヒーロー気取りの高校生じゃ相当分が悪い。


 そんな中、ドールアイズは最後の提案をしてきた。


 その国の政治家全員――、つまりデスゲームに参加していない数百名の連中を含め、全ての政治家がレーザーガンで自らの肉体を撃ち抜けばその国には核爆弾を落とさない――、というものだ。


「あの狂人は…我々が国を裏切るところが見たいだけなのだ」


 トンプソンは滴り落ちる汗が目に入り、顔をしかめた。


 すると、中華人民共和国とデスゲームを行っているエリアの外――、峡谷に固まっていた米合衆国の上院、下院議員の集団から言い争うような声が聞こえてきた。


「レーザーガンをよこせ!私はもう耐えられない…自分が傷つくだけならそれでいい…」


 下院議員のジェレミー・マクレーンが暴れていた。


「よく考えろ。君一人が手足を失ったとしても、他の人間がそれに続かなければ無駄に終わる」


 ジェレミーを制したのは上院議員のスティーブ・スティーブソンだった。老齢なスティーブは若輩者のジェレミーを諭すように肩をニ、三度叩く。


「しかし、…トンプソン大統領は戦う意志がないように見える!それならば私たちが身体を張るほか手段はないだろうっ!!」


 ジェレミーはこちらを指さして叫んだ。


「我々は英雄ではない。ただの人間だ」


 上院議員のアーノルド・キッキンガーはジェレミーを憐れむように見つめた。


「あの悪魔は…これが目的なんだ…」


 ジェレミーは絶望した。他の議員が誰ひとりとして自らの肉体を傷つけるつもりがないことを理解し、その場に崩れ落ちた。


「自らを犠牲にしても得られるものはない。状況を見て利口に立ち回るんだ…皆もそう思うだろう?」


 周囲の議員たちはスティーブの言葉に頷く。


「こ…国民の…国民の命が…」


 ジェレミーが泣き崩れる様を見て、顎のしゃくれた白髪の上院議員――、カーク・ウルリッヒが声を張り上げた。


「我々は知的労働者階級出身の上級国民だ!下級市民を救う必要などないのだ!奴らの大半は愚かだ!不満や愚痴は吐き出すくせに自分たちでは何もせず、できず、行動や責任は我々政治家に委ねる!我々は民意の代表者として政治を行っているにも関わらず悪役にされる!実に割に合わないと思わないか?」


 カークは自らの姿が全世界にどう中継されてるかなど考えていない。すでに国民を切り捨てる腹積もりでいるのだ。


「私はあんなものの為に命など懸けられない!バカバカしい!」


 カークは腕組みしたまま黙り込んだ。


「大統領はどう思われますか」


 スティーブはこちらへ水を向ける。


「私の意見など必要はない。決めるのはジェレミー君だ…自傷するというのなら止めはしない」


 黙って彼らのやりとりを聞いていたトンプソンは、敢えて選択肢をジェレミーに委ねる姿勢をとった。


 そして自らが手にしていたレーザーガンを地面に起き、白線が引かれたエリアの外へと足を使って彼の方へと滑らせる。


「トンプソン大統領…」


 ジェレミーは崩れ落ちたままそのレーザーガンを手にした。


「私が血を流す勇気がないことは認めよう。だが賢明だとは思わないかね?我々は英雄にはなれないのだよ」


 スティーブ上院議員は幼子を諭すように言う。


「私は…私にしかできないことをやるだけだ…あんたらとは、同じ人間には、な、な、なりたくない…いい…」


 ジェレミーはスティーブの言葉を聞き入れず、レーザーガンを自らの脹ら脛に充てた。


「ううううう…こ、こここ、怖いよう…うぅううう」


 そして、引き金をひいた。


「ああ!!!!!!!!」


 パシュン…という音と共にレーザーが彼の足を貫通し、焦げ臭い血煙が立ち上る。


「い、い…痛い…痛いよう!!!」


 気絶したジェレミーを黒服たちは担架に乗せて連れて行った。


 スクリーンの向こうではジェレミーの母と妻、息子たちが涙を流して彼の心配している。


(馬鹿め…)


 トンプソンは内心、ジェレミーを英雄などとは思わなかった。


 ただ重圧から逃げたくて自傷しただけの愚か者であり、救いようのない偽善者であると見下した。


「さて。これからどうしたものか…」


 癪だが、イニシアティブを握るのはあの義眼の狂人であることは間違いない。いくつか提示された選択肢の中から、最善のものはどれかとトンプソンは思案を始める。


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 炎天下が熱気を生み出す。


 着用を強制されたダイバースーツとゴーグルが大韓民国――、ペクウニョン大統領から闘志を奪っていった。


 対戦相手であるドイツのメンゲルベルク首相とはしばらく舌戦を繰り広げていたものの、どうやらあちらは「ギブアップ」を考えているらしい。


「ペク大統領。攻撃を仕掛けますか」


 与党議員チェ・スヒョンが語りかけてきた。兵役を終えて十年以上経過するというのに筋骨隆々の肉体はダイビングスーツをパツンパツンにしている。


「選択肢が増えた今、その必要はないわ」


 ペク・ウニョンはチェの肉体と股間の隆起を舐め回すように見つめた後、唇を唾液で湿らせた。


「ギブアップと、全議員の自傷ルールですか」


 チェ・スヒョンは撮影用ドローンが音声を拾うか拾わないかの小声で訊ねる。


「自傷は論外としてギブアップには両国の同意が必要。何故か分かる?」


「ギブアップのハードルを上げるためでしょうか?」


 チェ・スヒョンはペクの問いかけに答えながらも、向こうからドイツチームが押し寄せてこないか注意深く目を凝らした。動く気配は全くない。


「一つでも多くの国に負けてほしいのよ。片方だけがギブアップじゃもう片方が不戦勝になる。ドールアイズの願いは全世界が彼の意志通りに負けること」


 ペク・ウニョンの言葉に頷くのはチェ・スヒョンだけではない。他の十名も腑に落ちたのか、声を上げて納得していた。


「ペク大統領、私たちは貴女の剣であり盾です。貴女の望むままに動きます」


「ドイツ側に戦意が戻る可能性もある。あちらの気が変わらないうちに決断した方がよさそうよ」


 ペク・ウニョンはドイツのメンゲルベルク首相が先ほど中継で漏らした本音をギブアップ交渉の提案として捉えていた。家族も親戚も新バベルの塔で「保護」されている現状、これに乗らない手はない。


「僕は…僕はそんなことはできない…」


 エリアの内と外を隔てる白線の外側で若手議員の一人が泣いていた。グレーのスーツは汗でぐっしょりと濡れて色が変わっており、右手には十字架のペンダントトップが握られていた。


「憐れね」


 ペク・ウニョンはこういった偽善者が少なからず存在することを疎ましく思った。


 ドールアイズの先ほどの説明によると「ギブアップ」には両国の政治家八割の賛同が必要だという。そう考えると彼のような偽善者が二割以下でいてくれることを願うばかりであった。


「私はこの馬鹿げた殺し合いを続行するつもりはない。大統領とて命は惜しいもの」


 ペク・ウニョンは撮影用ドローンを見上げて堂々と言い放った。


 それはこの場に集められた全ての政治家の誰もが言いたくても言えなかった本音だった。


 画面の向こうではソウル市に集結した国民が声を失って青ざめているのが見える。


「ふざけるな!あんたを大統領にしたのはこの国の未来を信じてたからなのに!」


 油に汚れたシャツ姿の――、おそらく労働者階級の中年男が口火を切った。やがて彼の言葉に泣き出す者もいて、ソウル市は騒然とし始めた。


 韓国の政治体制における大統領の選出方法は国民の直接投票によるものが採用されているため、国民は「自分たちが選んだ国の代表者」という感覚が大きく、ペク・ウニョンの裏切りは国民に深い後悔と絶望を与えた。


「ごめんね。皆さん」


 彼女が宝石のような涙を一粒見せた途端に、大人しかった連中も一斉に怒りの声をあげる。


「私は死ぬために大統領になったわけじゃない」


 この清々しいまでの開き直りは、ペク・ウニョンにさらなる発言力を与えた。


「ここで多数決を取るわ」


 撮影用ドローンがペク・ウニョンをズームアップする。


「ギブアップに賛成できないものは手を挙げて。その者にはレーザーガンを渡すわ」


 極論であることは自覚していた。


 ギブアップに賛成できない者=国家を守るためにレーザーガンで自傷することを肯定する者ではないことはペク・ウニョン自身、理解している。


 だが選択肢が「デスゲームを続けて勝利を狙う」か「国民を見捨ててギブアップ」するか「自傷して国民を救う」かの三択しかない今、デスゲームの続行を望まない姿勢のペク・ウニョンからすれば「ギブアップに賛成できず国民を守りたいならば自傷してその意思表示をするべきだ」と解決方法を一つに纏め問題をすり替えることが簡単にできた。


 数秒――、数十秒の時が流れた。


 自傷は全員でやらなければ意味がない。誰一人、手を挙げるものは現れなかった。


 先ほど泣きじゃくっていた十字架を握った議員も手を挙げなかった。だが彼はこう言った。


「もう一つ…選択肢があるじゃないか…ウチキング…有働少年が…ドールアイズに勝てば…」


「あんなもの子供だましよ」


 ペク・ウニョンは、かつて自らにスカトロ・ハラスメントを繰り返してきた中華人民共和国の元・国家主席――、周遠源のことを思い出した。


 周は会談のたびに下痢便を食べさせ味の感想を訊ねるような大悪党だった。


 その大悪党である周を死に追い込んだことは実に勇敢で大したものだと感心する一方、有働少年では到底ドールアイズに太刀打ちできないだろうとペク・ウニョンは考えている。


「有働少年がやっていることは私たちがより良い選択をするための時間稼ぎにはなる。でも期待はできない。ドールアイズがその気になれば神の杖を盾にして彼を八つ裂きにすることも可能なのよ」


 ペク・ウニョンはそう言って、向こうの峡谷にいるドイツチームに対して手を振って合図を出した。


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 青い目の狂人は有働を見下ろしていた。


 有働のプロテクターのそこかしこにはモーニングスターによる攻撃で穴だらけになっていた。額からも若干の出血がある。滴り落ちる赤い雫が目に入り有働は顔をしかめた。


「ドイツと韓国がギブアップの交渉に入ったようだ。風見鶏に徹してる他国の奴らもその動きに倣って動こうとしている」


 ドールアイズは膝を突いた有働に向かって鉄球を振り下ろす。


 鋼鉄の棘が大理石の地面を砕いた。


 そこに有働の姿はない。


 血の点を追うようにしてドールアイズは鉄球を振り下ろし有働を追いつめていった。


「正義気取りめ」


 ドールアイズのモーニングスターナックルの追撃に有働はよろめきながら、ぎりぎりのところでかわす。


「…俺はただの偽善者だ…」


 そこかしこに大理石の細かい破片が宙に舞う。


 有働の動きは明らかに疲労と出血で鈍くなっていた。


「それはいい」


 ドールアイズは獣のように歯を剥き出しにして笑った。


「この戦いが終われば偽善すら過去のものになる。核を生き延びた奴らは悪意こそが生き延びる唯一の手段だと気づく」


 地面に転がる石像の首をぶん投げる。ドールアイズはそれをトゲつきの鉄球で思い切り砕いて振り払った。


「略奪、暴行、殺人…悪が蔓延し、世界は二つ目の滅びの扉を開けるんだ」


 青い瞳の狂人は笑いながらモーニングスターを振り回す。もう有働のことすら見ていなかった。ただ、ひたすらにそこら中にある石像、銅像を破壊していた。


「今から三時間以内に俺は必ずドールアイズを倒す!何もせずその場で待っているだけでいい!持ちこたえろ」


 有働はカメラに向かって叫ぶ。


 中継映像でそれは流れていた。


 世界中の人々の顔がアップになったが、だれもその言葉に希望を見いだせないでいるのが見て取れた。


 有働にとって形勢は不利だった。ドールアイズがその気になればすぐにでも有働を殺すことができるのは明らかだった。


 死に損ないの東洋人の少年。巨躯にして俊敏な動きの狂人。


 最上階の壁や床――、石像、銅像は破壊され尽くしている。一度でも有働の身体にあの鉄球が当たれば有働は卒倒し、ニ撃目には有働の顔面は潰されるだろう。


「奴らがクズっぷりを露呈した今、残り三時間この戦いを見届けるメリットなどない」


 ドールアイズの右鉄拳が有働の顔面すれすれをかすめた。なんとかそれを避けた有働の腹部にニ撃目のモーニングスター。


 凄まじい音がした。


 トゲつきの鉄球ナックルは有働の――、ウチキングのプロテクターに突き刺さり、有働は板にはりつけにされたネズミのように手足をばたつかせる。


 ドールアイズは左腕を天井に向かって掲げた。


 どの左腕の拳の先――、鉄球から放射線状に伸びた鉄のトゲに釘付けにされた有働の身体も持ち上がる。


 血液がトゲの刺さったプロテクターの穴から滴り落ちた。


 有働の身体が痙攣する。


「ギブアップにはこの無駄な戦いを見届けるという重圧から逃れられる大きなメリットがある」


 ドールアイズは有働の顔面に右拳の鉄球をめり込ませようと構えた。


「…てめぇは必ず…俺が潰す!!!」


 有働は身体を持ち上げられながらも笑って見せた。


 画面の向こうでは人々が「もうやめてくれ」と言った表情で目を伏せていた。


「大切な者のため…有働…お前を確実に殺さなければならない」


 青い目が機械音を立てて動いた。


「どういう意味だ」


「てめぇには関係ねぇ…もう死ね!」


 ドールアイズは有働の身体を左腕で支えたまま、右鉄拳を有働の顔面めがけて思い切り叩き込んだ。


 飛び散る鮮血――。


 肉と骨が潰れる音が中継で流れた。


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 日本・東京都内某所――。

 某少年院――。


 格子突きの窓の隙間から鈍い月明かりが差し込んでいた。


 消灯時間はとっくに過ぎていたが、同室の誰ひとり寝ている者はなかった。


 布団の中に潜り込み泣く者もいれば、この世の終わりに何を思ったのか腹筋を繰り返す者もいる。


 数時間前からデスゲームの様子が漏れ聞こえていた。宿直の教官が巡回そっちのけでテレビ中継を観ているからだ。


 日本の政治家はイタリアのチームとデスゲームを組まれたようだが膠着状態のようだった。彼らがイタリアに敗北、またはギブアップ、タイムオーバーになればここ東京に間違いなく核爆弾は落ちるだろう。


 不破勇太は、漏れてくるテレビの音に耳を澄ました。


 テレビの音でこの凶行の首謀者たるドールアイズに戦いを挑んでいる世界各国の諜報員たちの存在がほのめかされていたが、彼らのほとんどは倒されてしまい、ウチキングという得体の知れない男だけが戦いを挑んでいるらしい。


「ごめんね。母さん…ごめんなさい…椅子を作って上げられなくて…ごめんなさい」


 勇太は涙の筋をこぼす。


 勇太の視線の先――、五人の少年が暮らす部屋の隅で、パジャマ姿のまま半年以上ずっと立ったままでいる母親の亡霊がそこにいた。


 勇太は母親を手に掛けていたことを後悔していない。


 母親は命を失ったことで肉体という牢獄から解き放たれて永遠に等しい存在になれたのだ。


 ゆえに勇太も死刑にされたかった。沢山の人命を奪った償いとして世界にこの命を捧げる名目で永遠の存在になりたかった。


 だが有働努という憎むべき存在のせいでそれは回避されることとなり、勇太が奪えた命は母親のものだけに終わってしまった。


(でも…もう動物や人を殺すのはやめよう)


 勇太は母親の亡霊が姿を現し始めた日からそう思うになった。


 母は少年院で更正に励む息子を監視するために現世に魂を留めることになったらしい。黄泉の国行きの切符を破棄してまでそういった選択をした母親を見て、勇太は幼い頃の願望が叶ったと気づいたのだ。


 幼い頃の勇太は、ただただ母親に振り向いてほしかった。価値のある存在だと知らしめたくて勉強も頑張った。


 だがそれは適わず母はおろか父親でさえも勇太の学力は努力の賜物ではなく、有名大学卒業の父母による遺伝によるものであると切り捨てた。


 孤独感に苛まれた勇太は、自己価値を再構築するため自分よりも弱い立場にある動物の命を奪うようになっていった。


「母さんが僕だけを見ててくれるなら、それでいい。いつか出所したら立派な大人になるから」


 すっかり性根を入れ替えた勇太は母の亡霊に語りかけた。だが母はずっと部屋の隅から動かなかった。


 ワークプログラムや授業、食事が終わり部屋に戻っても母はじっとそのままの姿で立ち尽くすばかりだった。


 勇太はそういった母を不憫に思い、畳の上に腰掛けるように勧めたが母がそれを聞き入れることはなかった。


 毎日、母に語りかける勇太を同室の少年たちが不気味に思ったのか、ある日勇太はカウンセリングを受けることになった。


 事情を聞いた医師は、勇太に更正プログラムの一つに家具作りがあることを伝えてきた。


「お母さんが安心して座れるような丈夫な椅子を作りなさい。出所するまでに家具職人も驚くような立派なものを作るんだ」


 医師の話は的外れではなかった。生前の母はいつも腰痛に悩まされており、椅子を何度も買い換えていた事を思い出した。


(亡霊になった今でも母さんは座り心地のいい椅子を探しているんだね)


 その日から勇太は社会適応プログラムのカリキュラムに木製の椅子作りを組み込んでもらうこととなり、それに専念することとなった。


 椅子作りは思った以上に難航した。


 かつて毒入り饅頭を製作したとき以上の根気と忍耐力を必要とされた。


 笠木、背板、背貫、後脚、後台輪、側台輪、隅木、前台輪、前脚、足貫、つなぎ貫と、生前の母の体型を思い出しながら木を削り取り、各部位がうまくはまるように細心の注意を払いながら何度も、何度も作り直した。


 後脚と側台輪の接合部、ほぞは他の部位よりも長めにとらないと体重を支えることができないということ。


 ほぞにも片胴付き、ニ方胴付き、三方胴付き、四方胴付きと様々な形があり部位によって使い分けをしなければ椅子としての強度が安定しないと言うことを学んだ。


 完璧主義な勇太の周囲には、不具合のある椅子の屍が沢山横たわっていた。


 動物の死骸を眺めても何の心の変化も起きなかった勇太ではあったが、出来損ないの形を与えられた彼らを見て初めて「ものを粗末にした」という罪悪感に駆られるようになった。


 やがて、失敗作は教官たちによって破壊される事となった。


 愛着あるものが自分のふがいなさのせいで形を失っていく様を見て、勇太は自己嫌悪に陥った。


「守ってあげられなくてごめんね」


 犯罪者にペットや子供を殺された者の気持ちというのは、こういうものかもしれないと想像する。


「悲しい。とても悲しい…」


 それからの勇太は木材を一切無駄にしないように、慎重に椅子作りに取り組むようになった。


 これまでの倍の時間がかかった。だが納得いくモノができあがる一歩手前まで進むことができた。


 そんな矢先である――。


 世界はドールアイズと名乗る巨大軍事企業CEOマイケル・ホワイトの凶行によって混乱に陥ってしまった。


「東京にも核爆弾が落とされるかもしれない。少年たちを安全な場所に移さなければいけない」


 そんな声があがったのも一瞬だけのことだった。


 政治家たちはドールアイズの発言の真偽の調査に奔走し何度も緊急議会を開き、徴集されていった。


 国家が国家として機能しなくなった状態で、罪を犯した少年たちの人権や安否などは二の次にされてしまい、現状、少年たちは少年院の中で世界の行く末を祈りながら過ごすほかなくなってしまった。


 教官のほとんどが職務を放棄する中で、志の高い独身者の教官だけが残り、宿直をこなしている。


 今もこうしてテレビの音が流れているのも、最後の瞬間くらい少年たちにも心の準備をさせてやろうという教官の親心なのかもしれない。


「おまえの名はツトム・ウドウ」


 テレビ中継の中でドールアイズがそんな言葉を口にして、勇太は一瞬耳を疑った。


「このガキはなんとも凄い経歴の持ち主だ」


 ドールアイズは仮面を外したウチキング――、ツトム・ウドウのこれまでの経歴を全世界に流し始めた。


 学園祭の大量虐殺阻止――。

 年末カウントダウンコンサート観客監禁事件の解決――。

 中華人民共和国のクーデター実行――。


「まさか」


 勇太は心の中がざわめき始めるのを感じた。


 自分をこんな場所に押し込んだ有働――。

 自分を死刑にさせなかった有働――。

 そして――、


「有働…」


 各国の政治家たちがギブアップを選択肢として視野に入れ始めている様子と同時進行する形で、有働はドールアイズと戦っていた。


「もう死ね!」


 ドールアイズの叫び声。


 有働への容赦ない攻撃を思わせる骨と肉が砕ける音――。


 全世界から悲鳴が上がった。


 相変わらず、母の亡霊はパジャマ姿のまま部屋の片隅で立ったままだった。


 世界がこのまま終われば、母は未来永劫この場に立ち尽くしたままになってしまうだろう。少年院が跡形もなく吹き飛んだあとも母はずっとこの場に居続けなければならなくなるのだ。


 それだけは何としても避けたかった。死んでもなお息子を心配し続けたまま成仏できないでいる母が不憫でしかたがなかった。


「有働!死なないでくれ!…あとは背板を…背板をはめ込むだけなんだ…やっと母さんの体型にあった椅子が完成しそうなんだ…だから、有働…」


 勇太は天井を見上げるようにして叫んでいた。


 僕にあの椅子を完成させる時間を与えてくれ――。


 やっと見つかった生きる希望なんだ――。


「有働!死ぬな!!!教官!!テレビを僕たちにも見せてください!!」


 勇太は教官の方に向かって叫んだ。


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 今から少し前――。


 東京拘置所――。


 六人部屋の片隅で冬貝久臣は来る日も来る日も、ふて寝をするようにして転がっていた。


 朝七時の起床――、そして朝食。

 十ニ時と十六時半の食事。

 二十一時の就寝。


 規則正しい生活と三度の飯を与えられているものの、死を待つ者としては屠殺前の豚になった気分だった。


 裁判の結果はどう考えても不利だった。


「なんとしても無期懲役を勝ち取る。一家殺害の主犯は犬尾くんであり君ではなかった。カウントダウンコンサートのガソリンを用意したのも犬尾くんのルートだろう。すでに故人となった彼には気の毒だが、君が罪を背負うことはない」


 弁護士はそんなことを言ったが、死刑判決が覆る可能性は極めて低かった。


 どうせ死ぬなら沢山の人間を殺しておくべきだった。

 どうせ死刑になるならばもっといい女を沢山、犯して殺しておけばよかった。


 冬貝はそんなことを毎日考えて過ごしていた。


 柄にもなく神に祈るようにして毎日そんなことを考えていたとき、信じられない事態が世界を襲った。


 米合衆国の軍事企業のCEOマイケル・ホワイトが核爆弾を搭載した宇宙兵器を盾にして、全世界の政治家に徴集令をかけたというのだ。


 冬貝は判決を待つ身――、未決囚であるためテレビを観ることはできずそうした塀の外の情報は母親からの差し入れである週刊誌で入手したのだがマイケル・ホワイト――、ドールアイズの暴走を冬貝は心から賞賛した。


(俺が奴なら政治家同士で殺し合いをさせ、負けた国に核爆弾を落としてやるのに)


 冬貝のそんな想いが通じたのかどうかは分からないが、今から数時間前、ドールアイズは全世界の政治家たちに自国を守るための殺し合いを命じたという。


 数時間前、刑務官たちが大声で話しているのが耳に入ってきたので間違いない。


「世界など滅んじまえ!」


 ドールアイズという男が、自分と同じ思考、嗜好を持つ男であることが分かり冬貝は小気味よく思った。


「日本も、この東京も焼き尽くされればいい」


 現在――。


 冬貝は、拘置所内の刑務官たちの会話のやりとりや、彼らがこっそり職場に持ち込んだポータブルテレビの音だけを頼りに現状把握に努めている。


 どうやらスーサイド5Angelsは世界の終焉を前にして歌わされ、踊らされているらしい。


(MANAMI…犯してやりたかった)


 ウチキングという謎の男がドールアイズに戦いを挑んでいるという情報も耳に入ってきた。


「おまえの名はツトム・ウドウ」


 ドールアイズがウチキングの仮面を外すように命じた後の台詞に、冬貝は心底驚いた。


 そして驚いたと同時に、どす黒い感情が胸の中で渦巻いた。


「有働め」


 俺の欲望を潰した男――。

 俺を死刑に追いやった男――。


 ドールアイズが有働の経歴を口上してゆく。


 有働は過去に自分の通う高校の大量殺人を阻止したり、中国共産党のクーデターにも関与していたということが分かった。


「何もかも思い通りになると思うなよ」


 冬貝は自らの親指を噛みちぎり、血の滴る指で壁に「くたばれ」と書いた。同室の連中は冬貝を奇異な目で眺め、世界の終わりに気が狂ったのかと囁きあっていた。


「東京に核が落ちればいい。日本の政治家どもはさっさとギブアップしろ」


 冬貝は貧乏揺すりをしながら焼け跡を這いずり回る黒こげの死体の列を想像した。


 金持ちも貧乏人も、犯罪者もエリートも無差別に殺される地獄絵図――。


「俺の見たかったものだ」


 冬貝は笑う。


 有働――、お前はドールアイズには勝てない。

 勝ち続けられる人間など、この世に存在しないんだ。

 有働――、お前が悔しがる姿を地獄の底で笑って見てやるよ。


 そしていずれお前が守りたかった連中も、世界を呪いながら死んでいき地獄へ堕ちるだろうよ。


 そいつらを地獄で殺し、犯し、いたぶってやる。

 死んでもなお永劫の苦しみを味わわせてやる。

 お前が俺から「自由」を奪った代償だ――。


「もう死ね!」


 野太い叫び声が、中継で拘置所内に響いた。

 ドールアイズがウチキング――、有働に一発お見舞いするエグい音。


「有働、くたばったか」


 ドールアイズよ――、よくぞやってくれた。

 有働よ――、地獄を見せてやりたかったが、お前が俺よりも先に死んだならそれはそれで気味がいいぜ――。


 冬貝は腹を抱えて大笑いをした。


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「もう死ね!」


 骨と肉が潰れる音――。

 血しぶきの噴水の向こう側で有働は笑っていた。


「重いものつけてたんじゃあマトモにストレートも打てなかったか」


 ドールアイズのトゲつきの鉄球――、モーニングスターは有働の左腕に深々と刺さっている。

 顔面を潰そうと迫る鉄拳を有働は寸前のところで左腕でブロックしたのだ。


 滴り落ちる深紅の血――。

 プロテクターはズタズタになり有働の骨深くまでトゲが刺さっていた。


 ドールアイズの右拳のモーニングスターが突き刺さったままの有働は左手で左拳のモーニングスターをブロックしたまま、右手を伸ばす。


「手も足も出ないのはお前の方だ」


 有働はドールアイズの左耳を握り、引きちぎろうと全握力を総動員した。


「てめぇ」


 ドールアイズの顔が歪む。


 有働の握力は82――、同年代の平均の二倍あり野球選手やプロボクサーにも匹敵する。


 思い切り引っ張られた左耳に亀裂が走った。


「…有働…てめぇ…」


 両手を塞がれたドールアイズは苦痛に顔を歪め、両手を高く掲げた後、有働を地面に叩きつけるようにして両拳を地面へと振り下ろした。


 勢いよく有働が転がる。


 ウチキングのプロテクターのそこらに穴が空き、血の点が有働の転げ落ちた先まで道筋を作った。


「有働!死なないでくれ」


 モニターの向こうで誰かが叫ぶ。


 訛りのある英語だった。きっと東洋人の少年にもその言葉が届くように広く使われている英語を用いて叫んだのだろう。


「てめぇはもう終わりだ…有働」


 鉄球のはめられた左拳のトゲのない箇所で、流血した耳を押さえながらドールアイズは息を切らす。


「それはお前の方だ」


「その左腕はもう使い物にならんはずだ。チェルシースマイルにやられた傷が疼くだろう…有働」


 青い目の狂人が有働の方へと近づいてゆく。


「クソ野郎相手にはこれで充分だ」


 有働は石像の頭を右手で持ち上げ、その首の切断面から突き出したへし折れた鉄筋を握ると棍棒のように構えた。


「その手を離せ…アリシアの首を軽々しく持ち上げるんじゃねぇ」


「それにしても不細工な石像だなぁ」


 有働は笑った。青い目の狂人の顔色が見るからに変化する。


「離せ」


「俺だってこんな薄気味悪いもの持っていたくはないさ」


「くそガキめ…」


 ドールアイズは深く息を吐いて冷静さを取り戻した。


「有働よ。お前が頑張ったところで何も変わらない。世界は救えない…政治家どもは自ら進んで世界を終わらせるだろう」


 ドールアイズは天井に向かって何か暗号のようなものを呟いた。


 瞬時にモニターの画面が切り替わる。シェルター内で待機していた「ノアの救世会」信者たちが大画面に映し出された。


「そろそろ時間だ、メアリー・クレイマー…審判の時を始めろ」


 信者の群の中で一際、美貌を放つ金髪妙齢の女がズームされる。


 彼女こそ、現在デスゲーム司会進行役のサム・クレイマーの妻にしてハリウッド女優のメアリー・クレイマーその人だった。


「畏まりました。マイケル様」


 メアリーは艶やかな微笑みを見せた。


「デスゲーム参加中の政治家の皆さん、よく聞いてください。私はいち早くこのゲームのギブアップをお勧めします。これから皆さんに考える時間を差し上げますが、時間は有限。私がこれから話す内容を聞いてもなお決断をできない方々は新世界において下級国民と認識されることとなります」


 全世界は彼女の言葉に背筋を凍らせることとなった。


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 類希なる美貌を得た女は、不幸になる――。


 メアリー・クレイマーことメアリー・スミスの人生に関わった者たちは口を揃えてそう言った。


 カルフォニア州で中古車販売の会社を経営する父と、周囲から良妻賢母と言われるような穏やかな母。


 メアリーは優しい兄と妹に囲まれ何不自由なく育った。


 だが――、彼女の最初の不幸は七歳の時に訪れた。


 学校の教師がメアリーの欲しがっている人形をダシにして彼女を自宅に呼びだし、性的暴行に及んだのである。


 帰り道、人形を抱えた幼いメアリーは後悔に苛まれた。


 その人形はあと二ヶ月待てば誕生日に両親から買ってもらえるはずのものだったからだ。


 自分が恵まれた容姿をしており、周囲の子供たちよりも特別な存在であることは子供心に理解していた。


「選択こそが未来を大きく左右する。あと二ヶ月人形を手に入れるのを我慢していればよかった」


 漠然とではあるが、子供ながらにメアリーはこれを人生の教訓とした。


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 神に与えられた美貌――。


 成長するにつれ、それは磨きが掛かった。


 同級生の女子はメアリーを羨望の眼差しで見つめ、男子たちは彼女を崇めた。


 十五歳になるまで何人か男子との交際を経たメアリーは、ある日アメフト部のキャプテンから告白を受けた。


 大金持ちの御曹司。恵まれたルックスに学業優秀な彼の告白を受け入れたメアリーはその日のうちにレスリング部のキャプテンを体よくふった。


 その翌日のことである。


 髪型がいまいち決まらなかったメアリーが遅めの登校をすると、学校の前にはテープが貼られ、警察が無線で連絡を取り合っている様子が目に入った。


 救急車に運ばれる血塗れの同級生たち。袋に入れられた遺体の数々。数時間後、メアリーは警察に呼び出された。


 それは突然の校内銃乱射事件だった。


 犯人はレスリングのキャプテンで、学生たちを射殺しながらメアリーを探し回っていたというのだ。


 犠牲者の中にはアメフト部のキャプテンも含まれていた。


 メアリーが見つからず自殺したレスリング部キャプテンの遺書らしきメモにはこう記されていた。


「俺の誕生日前にわざわざふるなんて。ダチの用意してくれていたパーティーは中止。俺は笑い物になった」


 レスリング部のキャプテンの遺体からは大量のドラッグが検出された。自暴自棄になった彼が昨夜のうちに繁華街に繰り出しそれらを買い求めたらしい。


 メアリーはこの時「選択こそが未来を大きく左右する」という教訓を再び思い出すこととなる。


 アメフト部のキャプテンから一日遅く告白されていれば事件は起こらなかったかもしれない――。


 自分がレスリング部のキャプテンからの交際を受け入れていなければ彼がこの凶行に及ぶことはなかったかもしれない――。


 選択を誤ったメアリーの前に、さらなる困難が待ち受けることとなる。


 週刊誌がメアリーの美貌に目を付けて、銃乱射事件の経緯を面白おかしく報道したのだ。


 結果、父は顧客を失い、母は酒に溺れ、兄は退学し家を出て、妹は学校でのいじめを苦にして自殺してしまった。


 すべては類希なる美貌を持つメアリーの選択が引き起こした波及といえた。


 それからのメアリーは他者との交流を恐れるようになり、自宅に引きこもるようになった。


 ぶくぶくと太ってゆく身体。消費されるジャンクフード。自室の鏡に映る醜い自分を見るたび、なぜかメアリーは安堵した。


 だがそんな生活も二年と続かなかった。


 父の会社がいよいよ倒産することとなり、自宅が売却されることとなってしまったのだ。


 メアリーは父と二人でトレーラー生活を送るようになった。


 各地を転々としながら日雇いで日銭を稼ぐ父と、過食が止まらないメアリー。


 ある日、メアリーはホットドッグとハンバーガーのどちらを胃袋に詰め込もうか悩んだ。


 そして悩んだ結果、ハンバーガーを買ってくるように父に頼んだ。


 父はそれを快く聞いてくれた。


 数時間後、パトカーのサイレンを鳴り響かせ、警官がやってきた。


 なんと父がハンバーガーを買って帰る途中、金品強奪目的のホームレスに襲われ殺されたというのだ。


 メアリーはトレーラーハウスの鏡に映る自分の姿を見た。美しさとは無縁の自分がそこにはいた。だが、父は死んでしまった。自らの選択の末に。


 美貌を捨てたのに――。

 神よ、なぜ私からすべてを奪うのですか――。


 その日からメアリーは過食をやめ、かつての自分に戻る決意をした。


 運命に従う形で、運命にあらがってやろう――。

 自らの選択こそ、唯一決められた世界の運命であり、私は賽の目を振る役割を与えられたのだ――。


 メアリーはそう考えるようになった。


「どうせ逃げきれないのならば、私は率先して賽の目を振ってあげるわ」


 一年後――、かつての美貌を取り戻したメアリーはハリウッドに渡り、ウェイトレスをしながら業界関係者から声がかかるのを待つようになった。


 声は複数名からすぐにかかった。名刺を机に並べながらそれぞれの条件を比較してみた。


「賽の目を振るのは私…」


 メアリーは一番最初に声をかけてきたエージェントに自らの過去をすべて話し、それをすべて公表する条件で彼の事務所と契約を結んだ。


 不幸を売りにした新人ハリウッド女優。


 そういったレッテルを貼られたものの、彼女の背負った悲劇性や壮絶なストーリーに心惹かれる者たちも少なからずいた。


 ラブロマンスからアクション、サスペンス、グロテスクなホラーまでジャンルを選ばない彼女の活躍は全米が知ることとなり、彼女は一躍トップスターとなった。


 そんな中でメアリーは親子ほど年の離れたトップスター俳優であるサム・クレイマーから食事に誘われた。


 恵まれたルックスに莫大な資産。キャリア。メアリーとしては自らの交際相手として彼ほどの人材はないと考えそれに応じた。


「一目見たときから思った。君は世界の命運を握る人だってね」


 サムはパーフェクトな歯並びを見せながら、宗教団体「ノアの救世会」のパンフレットをテーブルに広げた。


「世界の人口は緩やかに増え続けている。それに伴い悪も増加している。今こそ剪定が必要なんだ。うちの代表は近い将来、核爆弾を用いて不要な人間を処理する計画を立てている…とんでもない大量虐殺だと思うかい?でもそれは違うよ…地獄の扉を開けてしまったのは彼ら自身なんだ。僕らはその後押しをするだけ。地上で神の意志を遂行するには僕らのような存在こそが必要なんだ」


 突拍子もない言葉に一瞬だけ思考が停止したものの、メアリーの中にその言葉はすっと入り込んできた。


(世界七十億人も、私と同じように賽の目を振るべきよ。私はその役目を負うために生まれてきたのかもしれない)


 メアリーはその日のうちにサムの求婚を受け入れ、女優業の傍らで信者獲得に勤しむようになった。


(今がそのとき…私はただ彼らの「選択」の後押しをするだけ)


 メアリーはマイケル・ホワイト――、ドールアイズの指示を受け、全世界に向けメッセージを発信することを決意した。


(さぁ、世界七十億のみんな。選択の結末を見届けなさい)


 誰よりも美しく、悲劇的な過去を持つ女優メアリー・クレイマーの微笑みに全世界が息を呑む。


「デスゲーム参加中の政治家の皆さん、よく聞いてください。私はいち早くこのゲームのギブアップをお勧めします。これから皆さんに考える時間を差し上げますが、時間は有限。私がこれから話す内容を聞いてもなお決断をできない方々は新世界において下級国民と認識されることとなります」


 メアリー・クレイマーはカメラの前でありったけの微笑みを湛えた。


「食料、水、生活用品、衣類に至るまで新世界における格差は厳然として存在します。新世界でよりよい生活を送りたい政治家の皆さんは早めのギブアップをおすすめします」


 メアリーの周囲に集まった信者たちもその言葉に大きく頷く。


 彼らの多くが傷ついていた。貧困、病気、人種差別。純粋な心を持って生活していても彼らがかつて崇めていた神は救ってはくれなかったからだ。


 キリスト教、ヒンズー教あらゆる宗教に裏切られてきた彼らは、世界終末を人工的に起こす男に未来を委ね、ドールアイズの構築する新世界こそ選ばれた「正しい人間」のみが生き残ることができる世界だと信じている。


 当初、優しい人間だけを生かし、間違った人間のみを消す計画ではあったが、ドールアイズが「世界の罪は等しく七十億人にあり、罪を逃れられるのは運によって生かされた者のみ」という新しい教義も彼らの中に充分、浸透していた。


「私たちは何も祈らない。ただ答えのみを崇拝するだけ。国民に選ばれた彼ら政治家が世界の終焉を選択するならばそれもまた運命」


 中継画面がデスゲームに切り替わると、メアリーは信者たちにそう言った。


「いずれにせよ人類は生まれ変わる。悪しき者も善人も関係ない」


 信者の誰かが言った。大勢がそれに頷く。同意する。


 シェルター内で保護されている政治家の家族たちがそれを見て、怯えた目を向けていたが、彼らがそれを気に留めることはなかった。


 政治家たちが滅亡の道を選択しようとも、それは運命――。

 また、可能性は低いが彼らが滅亡の道を回避しようともそれは運命――。


 すべては選択の結果なのだ。

 結果こそが運命なのだ。

 政治家のほとんどは国民投票によって選ばれている。

 独裁政治家が国家の命運を握っている場合もそれを野放しにしてきた現状は国民による選択と言える。


 よってどんな結末になろうとも、それは七十億による選択の末の結果なのだ。


 ノアの救世会は「どのような答えが出ようともそれが神によって与えられた運命である」という答えで一致した。


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 米合衆国・イリノイ州――。


 西側を流れるミシシッピー川の東にあたる農村――、マーティンスバーグは人口が五十人にも満たない農村である。


 照りつける秋の太陽を浴びた広大なトウモロコシ畑。雲一つない真っ青な空は世界の果てまで続いていた。


「ここなら安心だ。二人ともお休み」


 キム・ビョンドクはここ数日間の不眠状態の末ようやくたどり着いたこの地で緊張の糸が切れたように眠る妻と娘の顔を見たあと、木製の扉をそっと閉める。


 鼻腔をくすぐるのは埃くさい乾いた空気だった。


「私たちのような者を匿っていただき、感謝します」


 キムはキッチンに立つ年老いた白人に感謝の意を述べた。


「テレビは観ないのか。ネットも電話も使えないこの状況で唯一、生きてるメディアはテレビだけだぞ」


 老人は古ぼけた農家にそぐわない、ダイニングに置かれた薄い大型テレビを指さす。


「そうですね…」


 キムはそちらへと視線を移した。


 ダイニングテーブルの上には少し前までキム一家が飲んでいたコーヒーカップが置かれていた。互いにチェーンを括り付けあったパパキリン、ママキリン、コドモキリンの三つのキーホルダーとともに。


 そしてその先――、テレビの画面にはハリウッド女優のメアリー・クレイマーが世界各国の政治家に向けてギブアップを奨める様子が流れている。


「政治家たちは新世界での生活を考え、ギブアップを検討してるようだ」


 老人の言葉にキムは頷く。デスゲーム開始から数時間で予想できたことだった。


 おそらく政治家たちに国と民を救う意志はない。彼らの多くが家族を人質にされているためにドールアイズの呼びかけに応じただけであり、積極的に何かを解決しようという意志がないことは明白だった。


 キムはもちろん政治家同士の殺し合いを望んでいたわけではなかったが、駄目だと分かっていても某かの交渉をドールアイズに呼びかけ、事態解決に奔走しても良いのではないかと憤った。


 ウチキングなる仮面の人物が自ら素顔を晒すことと引き替えに、唯一の最小デメリットで済む解決方法である「自傷ルール」がドールアイズから提案された際も、議論の余地すらなくそれを実行しようと動いた政治家は世界でも数えるほどしかいなかった。


 彼らの多くが、家族の安全がシェルターで保証された現状、自ら血を流してまで国を守る意味などないのだと考えているためだろう。


「有働…努」


 キムは日本語でウチキングの正体である日本の少年の名をつぶやいた。


 自ら体を張って阻止しようと動いたが、結果、阻止ができなかった不死の黒孩子(ヘイハイズ)たちによる小喜田内市襲撃事件。


 そこで不運にも命を落とした有働保巡査長を思い出す。


 キムはあの乱戦でパープルと共に身体を一度吹き飛ばされたため、有働巡査長の死に様を見ていないものの、日本の勇敢な警察官が命を落としたことに心が痛んだ。


 有働巡査長は自分の息子が幾度となく他人の命を救い、戦ってきたことを知りながら死んでいったのだろうか。


 自分も人の親として、もうこの世にはいない有働巡査長の気持ちを考えてみた。


「命だけは落とすなよ」


 キムは一度も会ったことがない日本人の少年に向けて心の中で祈りを捧げる。


 有働がドールアイズと死闘を繰り広げる様子はデスゲームや世界各地の人々が戸惑う様子と交互に中継されており、有働が血塗れになって戦う姿を見るたびキムは胸の奥がざわめくのを感じた。


 窓の向こうを眺めると広大な農地の向こう側には黒塗りのセダンが停車されているのが見えた。


 そこに見える複数の人影はCIAたちだ。彼らは少し離れた場所からキムが匿われているこの農家を警護している。


 彼らは大統領の命令により国家の切り札となり得る不死人間であるキム・ビョンドクとその家族をこの地まで避難させ、彼の命を守るという任務を世界が終焉を迎えるかもしれないこの瞬間も遂行しているのだ。


「ここなら核は落ちない。テレビを観ないならあんたも寝たらどうだ」


 老人は寝室の方を指さした。


 キムがソファに座らず立ったままでいるためテレビを観る気がないのだと判断したのだろう。


「あなたこそこの国の、世界の行く末が気にならないんですか」


「わしは青春を国家に捧げた。だが国家はわしを見捨てた」


 テレビに背を向けてキッチンに立つ老人は、今夜キム一家に振る舞うためのスープの仕込みに精を出しながら静かに言った。


「ベトナム戦争ですか」


 キムの問いかけに老人は静かに頷く。


 一九五五年から一九七五年に及び繰り広げられたベトナムの南北戦争は、実体として資本主義国家アメリカと共産主義国家、中国とソ連による代理戦争であり、政治的思惑が大きく関わった内戦と言える。


 しかし米国に有利な方向では事態は進まなかった。


 米軍による北ベトナムへの大規模な空爆、後世へと多大な被害を残すこととなる枯れ葉剤投入の報道は、北ベトナム軍によるジャングルでのゲリラ戦での苦戦も相まって、米国内でも政府批判、反戦運動の起爆剤となってしまったのだ。


「わしの父は太平洋戦争で英雄となった。だがわしは戦争犯罪者と罵られ生きるはめになった」


 老人は心の傷を隠すことなく吐露する。


 ベトナム帰還兵問題――。


 前述の通り、このベトナム戦争はそれまで連勝してきた米国が政治的勝利を得られず、国民が敗北として認識する事となった最初の戦争である。


 屈辱にまみれたこの負の記憶を国家も国民も帰還兵になすりつけるようになっていたのは自明の理と言えた。


 お飾りの勲章に、形だけの歓迎ムードが終わり、帰還兵を待っていたのは地獄そのものだった。


 政府や軍、議会が負うべき責任はすべて将兵が負うこととなり、PTSDを煩った帰還兵は社会から爪弾きにされ孤立することとなった。


 国が帰還兵に充分な保証をするわけでもなく、彼らの多くは薬物に依存することとなり犯罪行為に手を染めることとなった。


「神はいると思いますか」


 キムは老人に問いかける。何を言われても鍋としか会話していなかった老人が虚を突かれたようにしてキムの方をゆっくりと振り返った。


「定義にもよるな」


「私は…今のこの身体になってからたびたび、幻聴を耳にするようになった」


「神はなんと言ったのだ…」


「求めよさらば与えられん」


 頭の中で鳴り響く原始言語――。鼓膜ではなく脳内に直接語りかけてくるようなその言語の意味を訳すると、神はそう問いかけてきた。


「こりゃ、難題だ」


 老人は肩を竦める。


 それは新約聖書ルカの福音書おけるイエス・キリストの言葉だった。


「私はあなた方に言います。求めなさい。そうすれば与えられます。さがしなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれるでしょう」


 この言葉において「信仰を持ちなさい」と言う解釈が一般的ではあるが、未来は人々の手によって開かれるという普遍的な問いかけとも言えた。


「この扉を開いたのは…我々自身ということでしょう」


 キムは老人の瞳をのぞき込んだ。老人はそれを逸らさずに受け止める。二人の男は生まれた年代も国籍も、人種も違った。


 だが彼らの中には一つの共通認識が生まれていた。


 この瞬間、この場所に存在する自分たちは、自らの選択によってここで生かされているということ。


「わしは投票に行ったことがない…」


 老人深いため息とともに言葉を吐き出した。


「戦争が終わりここで暮らすようになってからは、この国に理想を求めることなどしなかった…だが、今この瞬間にこそ思う。もっとこうなる前にできることはあったのかもしれないとな…」


 テレビの向こう側ではいくつかの国々が双方でギブアップに合意したようで握手をしている。


 彼らがギブアップ宣言をすればその国の要所には核が落ちる。該当する国の民は絶叫していた。


「世界は燃える。跡形もなく…な。ここもじきに汚染されるだろう」


 老人に返す言葉が、キムの中では見つからなかった。


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 ロシア・モスクワ――。


 西日に染まる空は血のような様相を示していた。もうじき夜が来る。


 モスクワ川東岸に沿ってレーニンスキー大通りに細長く広がるゴーリキイ公園には沢山の人だかりができていた。


 その背の高いロシア人たちに混じり、十名の年端もいかないような東洋人の少年たちがいた。


「なぁ…大陸は繋がってんだろ?早く親父に会いに行こうぜ」


 少年の一人が言う。


「今から行っても着くのはだいぶ先になる。それよりもここで親父の無事を祈ろうじゃないか」


 背の高い少年がそれに答えた。


「ウナギ。おまえは何を考えている。解放されてからずっと喋ってないよな」


 背の高い少年は手前で俯く寡黙な少年に向かって言った。


「頭の中の声についてだ」


 ウナギと呼ばれたこの少年は数時間ぶりに口を開く。


 自分たちが不死の黒孩子(ヘイハイズ)と呼ばれ国家間で争奪戦が繰り広げられていたこの数ヶ月――。


 学術機関・ロシア科学アカデミーにおいて何度も実験は繰り返され、ウナギら十人の黒孩子(ヘイハイズ)たちは何度も死んだ。


 蘇生するたびに声は形を色濃く成してゆき、ウナギはその言葉の意味について深く考えるようになっていた。


「求めよさらば与えられん、か」


 コーラが呟く。


「過去にこの隕石の恩恵を受けた人物がいたとする。彼にもこの声が聞こえていたのかもしれない」


「だが、彼の存在をもってしても世界は変わらなかった」


 コーラとウナギの会話に他の八人もそれぞれの反応を示した。


「何はともあれ、研究員の気まぐれで解放された俺たちはラッキーって事だろう」


 ヤキニクが欠伸をかみ殺す。


「気まぐれなんかじゃないさ。彼らは絶望したんだ。このゲームの状況に」


 公園内に誰かが設置した巨大テレビジョンのモニターにはロシアとイギリスの首脳が膝をつき合わせて話し込んでいる様子が流れていた。


 人々は泣き崩れていた。


 ロシアの偉大なるリーダー、プチョールキン大統領はすでに戦うことを放棄し敵国とギブアップの算段をつけ始めている。


「核の汚染を免れられるシェルターで家族ともども豪勢な暮らしができるんだろう?そりゃギブアップするだろうよ。逆になんで早くギブアップしないんだ?あいつら」


 メロンが他人事のように言った。


「新しい世界における利権や配分について国家間で話し合っているのさ。例えばこんな風にな。…このままデスゲームを続ける場合、戦力的に我が国の方が有利だ。だがそちらがギブアップをしたいのならば条件によってはそれに同調してやってもいいぞ。新世界シェルターにおける物資の配当、権利、その半分を我が国に渡せ…。恐らくこうやってロシアもイギリスもおそらく互いを牽制しあっているに違いない」


 コーラは眼鏡を拭きながら眉を顰める。


 その時、広場から大きな歓声が流れた。


 仮面のヒーロー・ウチキングこと日本の少年、有働努がドールアイズと死闘を繰り広げている場面に切り替わったからだ。


「俺たちはあいつの父親を見殺しにした」


 ウナギは顔をあげ、有働努の顔が大きく映し出された画面を見た。


 今から少し前、ウチキングの正体があの「小喜田内市襲撃計画」のターゲット――、有働努だと知った瞬間、ウナギはポロポロと涙をこぼした。彼の父親である有働保巡査長の死に様を思い出し、胸が締め付けられる思いがしたのだ。


 有働は祖国、中国においてクーデターを計画した人間という意味ではウナギたちにとって敵に当たる人物だった。


 だが有働の行為が悪であるかどうかは疑問に思っている。あのような非人道的な研究を行う中央政府と、それを指揮した周遠源やチェルシースマイルらは世界の平和のために排除されるべき人物たちだったのかもしれない。


 誰もそれを実行しないために、日本の少年が動いた。多大な犠牲を伴いながら。


 ウナギは有働を憎む気持ちにはどうしてもなれなかった。


 隣のコーラも同じようなことを考えているに違いない。悲しそうな目で戦い続ける有働を見つめていた。


「おい!この広場が中継されてるぞ!おそらくドールアイズの衛星がここを捉えているんだ!おーい!!!」


 そんな二人を後目に、ピザが天空を指さす。


 モニターでは全く同じ台詞を喋るピザが大きく映し出されていた。


「おおい!親父!生き延びろ!生き延びてくれ」


 ピザたちは祖国の父――、楊に向かって大声で叫んだ。孤児院の連中もきっとこの中継を観ているに違いなかった。


 瞬間、死闘の現場へと画面は切り替わった。


 有働がドールアイズの棘つき鉄球――、モーニングスターを腹部にまともに喰らい、吹っ飛ぶ様子が映し出された。


 広場に集った人々は手で顔を覆い、絶叫した。


 有働が死んでしまえば世界は終わってしまうということを彼らは理解しているのだ。


「あ!また映ったぞ!」


 ピザが言うとおり再び、モスクワのこの公園に映像が切り替わった。


 ウナギは自分の顔が中継で画面に映し出されるのを観た。


 この瞬間――、逃してはいけないこの瞬間――。


 ウナギは先ほどのピザのように祖国の父に言葉を伝えたいという思いを堪え、今まさに命を懸けて死闘を繰り広げている有働努に心からのメッセージを日本語で届けたいと思った。


「有働!僕は不死の黒孩子(ヘイハイズ)だ!!君の父の死の現場にもいた!僕たちは自分たちの過ちに気づきながらも君の父を救えなかった!だが君の父は町を守ろうと最期の瞬間まで奴らに抵抗した!有働!負けるな!君の父は最期まで諦めずに戦っていた!命を懸けてバスを転落させたんだ!君はあの英雄の血を受け継いでいる!世界を救えるのは君しかいない!負けるな!」


 ウナギが最後まで言い切る寸前――、画面は死闘の場面へと再び切り替わった。


 そのメッセージが有働の耳に届いたかどうかは分からない。


 有働は体勢を持ち直し――、右手に握った石像の頭部をドールアイズの脳天めがけて振り下ろした。


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 有働は腹部を貫かれ激痛に耐えていた。強化プロテクターといえど何度も衝撃を喰らい続ければ強度が失われていくのは当然のことだった。


「…てめぇは石頭か」


 有働はうなだれたドールアイズに呪詛を吐く。


「くそガキが」


 ドールアイズの流血した頭皮から鈍い銀色の頭蓋骨が見えていた。命を守るための人体改造に違いない。


「石頭め」


 舌打ちした後有働は唾を吐く。


 画面の向こうでは世界七十億が自分たちの戦いを見守っていた。先ほど腹部に衝撃を食らい意識を失いそうになったとき、現実か幻聴かは定かではないが中継映像で黒孩子(ヘイハイズ)を名乗る少年が父の死に際のことを叫んでいた。


 薄れゆく意識の中、父の顔が浮かんだ。死んでいった仲間たちの顔が浮かんだ。次に母の顔、権堂や誉田、地元の仲間たち――、吉岡莉那の顔が浮かんだ。


「てめぇには負けられねぇよ」


 有働は石造の頭をドールアイズの横っ面に叩きつける。


 吹っ飛ぶ血飛沫。白い歯の破片。ドールアイズの巨体が左によろめく。通常ならばこれで気絶してもおかしくはない。だが、そこは敵もまた怪物だった。


「テメェを殺さなきゃならねぇ」


 ドールアイズは有働の腹部に再度、モーニングスターをめりこませた。


 凄まじい速度と重量――、有働は吐血した。


 自らが吐き出した血飛沫――、その水滴の一つ一つ――、赤血球――、白血球――、細胞の一つ一つがスローモーションで見えた。その中に含まれる遺伝子たちが笑う。勇敢な男の血統と誰かが言った。だが俺は何者でもなかった。偉人の血を引いてるわけではない。ただの田舎の高校生だ。祖父は戦場に出たが勇敢な戦いぶりで勲章を受けるような人物ではなかったし、先祖をたどればおそらくはよくて商人、農民だろう。世界を変えるような人物はいないはずだった。


「てめぇを倒さなきゃならねぇ」


 有働は血を吐きながらも踏みとどまり、ドールアイズの顎めがけてに石像の頭部を振り上げる。


 巨人が怯んだ。後方へと吹っ飛ぶ。だが次の瞬間――、その青い目は鈍く光りながらこちらを見下ろしていた。


「なぜ倒れねぇ」


 有働はさらに歩み寄り石像の頭部を振り上げた。


 浅かった。踏み込みが浅かった。腹部をやられているため力が入らなかったためだ。二度目の石像アッパーはドールアイズの顎を掠っただけだった。


「くらえ」


 ドールアイズのモーニングスターが有働の腹部をとらえる。これ以上持ちこたえられそうにない。有働は残った体力と気力を総動員してそれを避けた。


 正直、自分の腹筋と内臓がどのような状態にあるのかは想像もつかないし、考えたくもなかった。だが夥しい流血と凄まじい傷口から判断するにのこされた時間はもうないことは明白だった。


「くそったれ」


 有働は石像の頭部を思いきりドールアイズの顔面めがけて投げつける。ドールアイズはそれを素直に避けた。


 好機――。


 有働はその避けた先――、そこを狙って右拳を繰り出す。


 プロテクターで保護された拳はドールアイズの左頬をとらえた。重くて速度の遅い石像による攻撃よりもそれは予想外の衝撃。ドールアイズは右後方へよろめく。


 それを有働が逃すはずもなかった。有働は痛みをいったん忘れ、猛スピードで駆け寄り右拳を再びドールアイズの左顔面に叩きつけた。


 ドールアイズが尻もちをつく。


 有働は馬乗りになった。


 そこで――、すべての元凶である二つの青い目――、義眼をくり貫こうと右手の指をチョキの形に変えた。


「これで終わりだ!!!」


「よく聞け!!!ここで俺が有働に負ければ神の杖は奪われ、ギブアップルールは無効になる!!!」


 有働にマウントポジションをとられたドールアイズが両手のモーニングスターでそれをブロックしながら、全世界の政治家たちに向かって叫んだ。


「無効になればお前らは今の状態のまま祖国に戻る羽目になる。国民を守れずギブアップの算段をしているお前らが戻ればどうなるかは分るよな?」


 有働はドールアイズのモーニングスターを引きはがそうとするものの、その堅牢な防壁が一切崩れる気配はなかった。


「ギブアップを宣言するなら今しかない!!!さっさと宣言しろ!!!そうすればすべてが終わる」


 ドールアイズは笑っていた。顔はモーニングスターに隠れているが声は笑っていた。


 モニターにはデスゲームを中断し、相手国と話し合いの最中である政治家たちが映し出される。国民の敵。いかにして新バベルの塔でいい暮らしを得られるか。まぬけな為政者たちの顔がそこにあった。


 そして数秒か数十秒の沈黙の後――、いくつかの国々がギブアップ宣言をはじめた。


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 グレートブリテン及び北アイルランド連合王国――、通称イギリス。


 ロンドン――。


 ここはローマ帝国の都市ロンディニウムに由来した地名を持つ、テムズ川河畔に位置するヨーロッパ域内の最大の都市圏である。


 点を穿つような高層ビルの数々が歴史的建造物と共存しているのもこの街の特徴だ。


 世界の終わりを前に、人々は巨大モニターを見上げるようにして立ち尽くしている。


 闇夜に染まった高層ビルがまるで巨大な墓標のようで、そこで立ち尽くす人々は葬儀の参列者のように見えた。


 無職の青年セドリック・ドライバーは仲間数人と酒を飲みながらホワイトカラーたちが呆然としている様子を遠巻きから眺めていた。


「奴らも結局、行き場のない家畜のようなものだったんだな。どこぞの田舎町に逃げりゃ死なずに済んだものを」


 友人の一人がウィスキーの瓶を傾けながら笑った。


「それを言うなら俺たちもだろう」


 セドリックの言葉に反論するものは誰一人としていない。


 彼ら全員が少年期をロンドンの片隅――、貧困地区で過ごし都市開発を理由にここから追いやられた経緯がある。皆が皆、片親でありドラッグとアルコールと暴力の日々で育ってきた。


「なぜここに戻ってきた」


 別の友人が言う。世界の終焉を前にした彼らは互いの連絡先さえ知らないのに、示し合わせたかのようにして同じ場所に集まってきた。


「育った街がどのように素晴らしく発展したか見たくてな。この状況じゃ奴らも俺を追い返すような気力もないだろう」


 ロンドン市警の警察官は今すぐにこの街が消滅するかもしれないというのに制服を着用し、街の交通整理にあたっていた。


「奴らに敬意を払うよ。この状況でも制服を着てやがる。奴らは正しかった。俺たちを追い返すのも奴らなりの正義だった。世界の終わりを前にしてやっとそれが証明されたな」


 セドリックをはじめとして、この場に集まった少年と青年のはざまにいるいる連中のすべてが、だらしない身なりをしており酒に溺れていた。財布には小銭しかない。拳の皮は喧嘩でやぶれてめくれている。せいぜいマトモに生きている連中に迷惑をかけないことがセドリックたちが人間でいられる最後の防波堤のようなものだった。


「お前たち、来ていたのか」


 目の前に小太りの警察官が立ちはだかる。青い目に赤毛の口髭が特徴的な中年警察官――、父のいなかった少年時代のセドリックは常識を持った大人の男性が怖くて彼から常に目を逸らしていた。


「来ちゃいけなかったか、おっさん。あんたにパクられたことは忘れないぜ」


 仲間たちがざわつきはじめる。


「その様子じゃマトモに職にもついていないんだろう」


 警察官はため息をつく。


「育った環境が悪かったんだよ」


 誰かが言った。


「それを言い訳にするな。労働できる年齢になればそれは自己責任だ。今のお前らは自ら選択してその状況にいることを忘れるな」


「あともう少しで核爆弾が落っこちてくるってのに説教かよ」


 スクリーンの向こうではイギリスの首相がフランスの大統領と相談事をしている様子が流れている。ドールアイズが有働努という日本の少年に形勢逆転されたのをみてギブアップ宣言を視野に入れた話し合いをしているに違いなかった。


「そうだな…」


 警察官は俯く。


「なんであんたはいつも俺らを気にかけるんだ」


「若い時はなかなか気がつかないものだが、私とお前らでは時間の価値が違う」


「どういう意味だよ」


 セドリックははじめて警察官の目を見た。そしてこの警察官の名がベンジャミンであることを思い出す。


「去年、ピアノを生まれて初めて触った。残り寿命から逆算して定年までにジャズ喫茶で演奏するのが目標だった」


「意味がわからねーよ」


「私の一年とお前らの一年では価値が違うんだ。お前らにとって一年なんざ欠伸をしている間に通り過ぎる時間なんだろうが、私にとっては一年という時間は限りなく重要になってくる」


 セドリックはベンジャミンが泣きそうになっているのを始めてみた。


 少年時代、私服姿のベンジャミンがアパートを何度も訪れては悪い連中とまだ付き合っているのかと小突いてきたことを思い出す。


 彼には夢があったのだ。いつかピアノを弾きたいと思いながら生きてきたのだろう。だが日々の貴重な時間を、若かった時間のすべてを職務に充ててきた。


「なんでアンタはいつもそうなんだ。今だって…こんなとこにいなきゃもっと長生きできただろうよ。長生きすりゃピアノをやる時間だって…」


 熱くなるセドリックをベンジャミンは手で制した。


「私が私を許せなくなったら、きっとそれはピアノの音色に出てしまうだろう。素人の私が言うのもおかしな話だが」


「この状況では時間の価値は、みんな同じになっちまったな。金持ちも俺らみたいな不良も、アンタみたいな真面目な警察官も」


 仲間の一人が諦めたような口調で言う。


「この期に及んで天国など私は信じていない。だが、私はここから逃げたくなかった。私は私が守ってきたものを、つくりあげたものを信じたい」


 スクリーンに映し出されたイギリスの議員たち。彼らは国民の総意によりあちら側に立たされた、いわば国民の代表者たちなのである。


「裁きを受けたい、ってことか」


 セドリックの言葉にベンジャミンは何も言い返さなかった。


「約束するよ。もしも今日を生き延びることができたなら…俺たちは生まれ変わる。偉くなんてなれないが、せめて今よりマトモになってみせるさ」


 一同がそれに頷く。仲間全員が同じ気持ちだった。彼らは強がりながらも泣いていた。


「大切なことは最後の最期にやっと気づくものだ」


 ベンジャミンは笑った。もしも父がいたらこうして息子である自分に優しく声をかけてきれただろうか、とセドリックは考えた。


 その数秒後――。


「我々、イギリスとフランスはギブアップを宣言する」


 耳を疑うような言葉がスクリーンから流れてきた。


「よく言った。イギリスとフランスに神の杖を行使する。両国の主要都市には消えてもらう」


 ドールアイズが言うと、大画面に宇宙空間に待機する神の杖のプラットホームが映し出された。


 無数の核爆弾がそこから出現し、槍のような先端が地球に向けて突出した。


 ロンドン――。

 バーミンガム――。

 グラスゴー――。

 リヴァプール。

 リーズ。

 シェフィールド――。

 カーディフ――。

 エディンバラ――。

 ベルファスト――。


 パリ――。

 マルセイユ――。

 リヨン――。

 トゥールーズ――。

 ニース――。

 ナント――。

 ストラスブール――。

 モンペリエ――。

 ボルド―――。

 リール――。


 画面に表示された目標値はそれだけに留まらず、大中小規模の都市部も含まれていた。


 現地の人々の顔が世界中に中継された。


 神の杖が行使され、無数の死神がそれら都市部に向けて鎌を振り下ろす――。


 逃げ惑う人――ー。


 それぞれの空中で眩い輝きを見せた後、それぞれの都市を中継する映像が真っ白になり、それ以降は何も映らなかった。


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 夕闇がデスゲームの地ー、グランドキャニオンを茜色に染めてゆく。


 日本国第百代内閣総理大臣――、琴啼(ことなき)至道(ちかみち)は傍らに内閣官房長官、副総理を置いた状態でイタリアの大統領、首相らと共に膝を突き合わせ正座のまま話し合いを続けていた。


 先ほどイギリスとフランスがギブアップを宣言し、両国の主要都市に神の杖が行使された。


 イギリスとフランスが先陣を切って祖国を見棄てた要因として考えられるのは、彼ら上流階級出身の議員の中に根付く選民思想、一般市民や貧困層への侮蔑などが挙げられるだろう。


 嘆き悲しむ国民たちは一瞬にして都市と共に消滅し、彼らに手を下した両国の政治家たちはデスゲームから解放されダイビングスーツを脱ぎ始めていた。中にはドールアイズの手下の黒服にビールを持ってこいという議員までおり、緊張から解き放たれた彼らは両国間の長きにわたる憎しみの歴史も忘れ去ったかのように肩を叩きあっている。


「総理。ギブアップ宣言をしないのですか」


 イタリアの大統領が急かすように問い詰める。彼の傍らにいる首相は地面に置いたレーザーガンを一瞥した。交渉が決裂すれば再び殺し合いを始めるぞ、という無言の圧力だった。


 ドイツと韓国の両国首脳も話し合いが大詰めを迎えている。ロシアとイスラエルに関しては今にも手を挙げてギブアップしそうな勢いだ。そしてその他の国々もどのタイミングで国民を裏切るべきか伺っている状態だった。イギリスとフランスの決断は多くの影響力を齎していた。


「国民が納得しない」


 琴啼総理は誰にともなく呟く。


「今から裏切る一億人への言い訳を考えているのですか」


 イタリアの大統領は苛立ちを隠すことなく問い詰めた。


「我々と君たちとでは価値観が違うのだよ」


 官房長官はイタリアのトップ二人に向かって言い放つ。


「君らと我が国は四百年以上の付き合いだが、意見が合ったことは一度もない。満州事変に対する我が国への非難にはじまり、1940年のオリンピックにおける不義理行為。ムッソリーニ失脚後の裏切り…立場をコロコロと変える君らには詫び寂がないのだよ」


 官房長官の言葉にイタリアのトップ二人は顔を見合わせ、首をかしげる。


「ではどうすれば」


 イタリアの首相が今度は口を開く。


「ギブアップ宣言をせずに、実質ギブアップできる方法があれば…」


 琴啼総理はドローンに拾われない程度の小さな声で本音を漏らした。


「なくは、ない」


 イタリアの大統領は琴啼総理の耳元へ口を近づけた。


「…その方法とは」


「ここに集結した与野党…すべての国会議員が辞任すればいい」


 イタリアの大統領の言葉に琴啼総理は目を見開いた。


「そうか、その手があったか」


「立場が危うくなれば辞任、辞職。君ら日本の政治家の専売特許だろう」


 イタリアの大統領はウィンクをする。


 琴啼総理は副総理と官房長官に同意を求めるような視線を投げかけ、二人はそれに対しゆっくりと頷いた。


「国民の皆様、私、琴啼は辞任いたします」


 琴啼総理は立ち上がり辞任を発表した。


「私めも…」


 続いて副総理、内閣官房長官、その他の大臣――、与党の議員すべてがその場で辞任、辞職を表明し、あれだけ与党に反目していた野党議員たちもそれに倣った。


「では我々も総辞職する。これで四百年の国交がある日本と今、はじめて歩調を合わせられた」


 イタリアの大統領も立ち上がり、それに続いて九百数十名からなる第一党から第四党までのイタリア共和国の国会議員も辞職を表明した。


「なるほど考えたな。日本、イタリア両国ともに議員全員の辞職は事実上のギブアップ宣言と認識する。日本の主要都市――、およびにイタリアの主要都市に神の杖を行使する」


 東京、ローマが中継で映し出された。


 現実味がないのか彼らの多くは口をだらしなく開けたまま成り行きを見守っていた。やがて宇宙空間で神の杖が目標値に向けて核爆弾を吐き出す準備をする映像が映し出されると街中がパニックになった。


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 ドイツ連邦共和国ヘッセン州――。

 フランクフルト市内――。


 そこはすでに瓦解した都市だった。


 不死隕石をめぐる争いの中、ポーランド軍の戦闘機によって壊滅させられた超高層ビル群――、ドイツ大手の銀行タワー、オフィスビル、放送タワー、高層マンションの残骸がそこかしこで瓦礫のまま存在している。


 エグモント・テールマンは漆黒の闇夜で燃え盛る焚火を囲み、かつての同僚アルベルト・キルシュタインとポータブルテレビに見入っていた。


「パリは昔妻と新婚旅行をした。無くなってしまったのは悲しいな」


 エグモントの言葉にアルベルトは頷くが二人ともそこに感情は伴っていなかった。


 イギリスとフランスがギブアップ宣言した時はさすがに驚いたが、そのあと日本やイタリアが「議員辞職」という裏技でそれに続いているのを見たときはすでに諦めの境地に達していた。


「メンゲルベルク首相がギブアップしたら、こんな死んだ街にも核が落ちるのかな」


 エグモント同様にかつてフランクフルト市内でやり手の証券マンとして働いていたアルベルトが酒を煽る。


「さぁな。俺が願うのはドイツよりも先にポーランドが敗北し消滅すること。奴らは俺の妻と娘を殺した」


「俺の妻と息子、もだ。ついでに言うとポーランド側からすれば奴らの爺さん婆さんを俺たちは苦しめたんだろうよ。ナチスドイツ時代にな」


 憎悪に心を燃やすエグモントに水を差すように言ったアルベルトの目にはおよそ生気というものが感じられない。すべてを失ったあの日から酒がアルベルトから人間性を奪った。


「生き残った自分が許せない」


「報復を遂行できなかったこの国を許せない。いまだデスゲームで戦おうとしないメンゲルベルクを許せない。こんなドイツを経済で支えてきた自分を許せない…」


 アルベルトはエグモントの言葉にいちいち余計なものを付け加える。


 二人はあの日からこのような不毛な会話を延々と続けてきた。


 政府による物資や住居の支援を極力断り浮浪者同様の生活を続けているのは、何かに頼りたくない気持ちと生きる気力がない証拠だった。


「心のどこかで俺を殺してくれと神に祈っている」


 エグモントのその言葉に珍しくアルベルトは茶化しを入れなかった。


 やがて二人は泣いた。


 周囲で浮浪者たちが彼らから距離を置く。


 生活レベルが同等でもホワイトカラーだった彼らと自分たちとでは未だ住む世界が違うとでも思っているのだろう。


「私、アンネ・メンゲルベルクを始めとするドイツと…」


 テレビ中継からメンゲルベルク首相の声が聞こえてきた。


「…韓国も」


 韓国のペク・ウニョン大統領の声がそれに重なる。


「ここにいる全員で議員を辞職します」


 焚火を囲んだ全員がその様子を画面を通して凝視した。


 議員辞職――、事実上のギブアップ。


 イギリスやフランス、日本やイタリアに続きドイツが韓国と協調してまさかのギブアップ宣言をした瞬間だった。


「おいおい…嘘だろ…」


 アルベルトが酒瓶を地面に落とす。


 浮浪者がその場から一斉に逃げ出す。


 エグモントはようやく心が解放された気がした。


 だが次の瞬間――、妻と娘がいる場所に自分の魂が辿り着くかどうか不安になった。


 ポーランド軍の戦闘機による攻撃でマンションの下敷きになった妻子――、彼らは死の直前まで死など望んでいなかった。


 一方で自分は心の底から死を望んでいる――。他人の力を借りて自死したいと願っている。


 神の言葉を信じるならおそらく自分の魂は地獄へいきつくだろう。


「待ってくれ…まだ…お別れも言っていないんだ」


 憎しみにばかり日々を費やし、天に召された妻と娘のことを考え祈ることすらできていなかった。


 エグモントはこれまでの不毛な日々を深く反省した。


「せめてあと一時間だけ猶予があったなら…」


 だがもう時間はない。


 中継映像では宇宙空間に待機している神の杖のプラットホームから小型の核爆弾の先端が迫り出し、そのうち一つがここフランクフルトを見据えてる様子が流れている。


 エグモントは泣いた。


 意味がないことを理解しながらも死ぬ直前まで泣いてやろうと思った。


 あと数分の命――、泣くことでその残り時間を費やするなどと昨日までの自分では想像もつかなかった。


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 堕落した太陽が西のほうへと傾き空が炎で焼き尽くされたかのようだった。


 グランドキャニオンの峡谷が真っ赤に染まる。


 デスゲームの行われているこの地では未だゲームによる死者はでていない。にも拘わらず七十億の人類の血を浴びせたかのように真っ赤に染まっていた。


「イタリアの入れ知恵でしょうか。日本の議員たちのやり方には度肝を抜かれましたね」


 ロシアチームと停戦状態であるイスラエルチームは首相を中心に円形になって話し合いが行われていた。


 ロシア側のリーダーであるプチョールキン大統領は「ギブアップで一致したらいつでも声をかけてくれ」と言い放ち、向こう側で待機している。


「罪の意識を抱えずに事実上のギブアップ宣言ができる。議員辞職とは実に都合のいい方便だ…我々も使わせてもらおう」


 向こう側の巨大スクリーンを見ながらそう言ったのは軍人上がりの首相だった。


「だが一つ問題があります」


「なんだ。言ってみろ」


 首相に促されたのは大統領――、イスラエルにおいては大統領の権限は制限されており事実上のトップは首相であることから大統領は首相の顔色を伺いながら言葉を選ぶ。


「我々はユダヤ教徒です。新バベルの塔――、ノアの救世会に入信することはできません」


「なるほど…我々と同じ理由からギブアップ宣言ができない国々もいるようだな」


 首相は腑に落ちたといわんばかりにため息をついた。


「インド、パキスタン、バングラデシュ、ナイジェリア、エジプト、イラン、トルコ、サウジアラビアの議員たちがこちらをチラチラ見ているのは彼らがイスラム教徒だからでしょう」


「彼らも我々と同じく宗教問題を抱えているからな。日本とイタリアがギブアップ宣言せずに議員辞職で問題を切り抜けたように糸口があるはずだ」


 首相と大統領は向こう側の南アジアや中東の国々のチームを眺める。


「改宗せずに新バベルの塔で新しい生活を送る方法などあるのでしょうか?」


 大統領からの問いかけに首相は深く考え込んだ。


 知能指数168と呼ばれた天才的頭脳を以てしてこの難題に取り掛からなければならない。できれば涼しいオフィスとデスクと、ノートパソコンがほしかったがワガママは言ってられない。


 暑苦しいダイビングスーツを着させられた状態で、乾いたこの異国の国立公園の夕闇に嬲られながらその答えを出すほかなかった。


「ノアの救世会の思想の大本はノアの箱舟。これに間違いはないか?」


「ええ。拡大解釈されてはいますが根本は旧約聖書です」


「ノアは旧約聖書第五章から登場する人物。つまりユダヤ教と思想は根っこで繋がっている。そしてイスラム教においてノアはヌーフと呼ばれアブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドと共に五大預言者の一人とされている」


「つまりノアの救世会の信仰は旧約聖書に依拠するものであり、我々と相反するものではないと…糸口が見つかりましたね」


 大統領の顔が明るくなる。周囲の議員たちも歓声をあげた。向こう側にいるインドやパキスタンの連中も中継ドローンの音声を通してイスラエルの導き出した答えを聞き、感心しているようだった。


「よし。ロシア側と話し合い、双方同時に議員辞職宣言をしよう」


 彼らのやり取りを見ていたイスラム教、ユダヤ教を信仰する世界の政治家たちもそれに倣った。


「結局は神によるお導きだ。世界の終わりを以てしても信仰によって我々は生き延びることができそうだ」


 宗教問題がクリアされ新世界での暮らしに思いを馳せる政治家たちとは裏腹に、それらの国々の主要都市では人々が絶叫し、議員たちに讒謗の言葉を投げつけている様子が中継で映し出された。


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 そのあともいくつかの国がギブアップ宣言をした。


 そのほとんどが「議員辞職」という方便を使ったものであった。


 まもなくイギリス、フランスに続いて世界各地で放たれるであろう「神の杖」による核攻撃――。


「トンプソン大統領、中国側との交渉が纏まりました。上院、下院議員もほぼ全員がギブアップに同意しております」


 アーノルド・キッキンガ―上院議員がジャケットを整えながらレナルド・トンプソン米合衆国大統領に促す。


「それでいい。議員辞職などという曖昧な表現ではなく、きちんとギブアップするべきだ」


 中継画面の向こう側――、ニューヨーカーたちはトンプソンたちに対してありとあらゆる罵声を浴びせていた。中には「見捨てないで」と懇願し嗚咽する声も聞こえる。トンプソンは敢えて中継映像は直視せずに淡々と準備を進める。


「新世界の扉はすでに開かれた」


「では…ドールアイズに意思表示をしましょう」


 トンプソンは右手を挙げて撮影用ドローンに合図を送った。中国側も同じく手を挙げている。


「中国側と協議は済んだ…宣言をはじめる」


 トンプソンの言葉に国民は絶望していた。だがもう決定してしまったことに抗うことはできない。せいぜい君たちの罵詈雑言を受け止めてやろう、とトンプソンは中継映像の流れる巨大スクリーンに目をやった。


「…待て」


 ふいにトンプソンの支配に入ったランダムな中継映像の断片――、デスゲームの最初期にレーザーガンで射殺されたはずのトルコ議員の死体が動いたように見えた。


 疑念――、このデスゲームには何か裏があるのではないか――?


 そもそもドールアイズの目的は我々に新世界を提供することなのだろうか――?


「どうかしましたか?」


「今…死んだはずのトルコの議員が映ったが…動いたような気がする」


 トンプソンは時間がないことを承知しながらも頭をフル回転して現状を読み解こうと努めた。


「死後、筋肉の硬直ないし弛緩で遺体が動くことは珍しくありません。気温も関係しているでしょう。そんなことより…早く」


 周囲の上院、下院議員がぞろぞろと集まりトンプソンにギブアップを促す。


 中国側のチームが怪訝な顔でこちらを見ていることに気づいた。


 そうだ――、時間がないのだ――。


 中国が心変わりをしないうちにギブアップをしなければならない――。


「ああ、分かった」


 トンプソンは中国側の国家主席である黄大景と距離をとったまま頷き合い、それと同時に撮影用ドローンを見上げた。


「ギブアップを宣言する」


 米合衆国、中華人民共和国の主要都市が中継で映し出され――、人々が絶叫する様子が全世界に流れた――。


「よく言った」


 有働にマウントを取られ――、モーニングスターで顔面をブロックしたままのドールアイズが笑った。


 やがて切り替わる中継映像――。


 すでに核攻撃を受け、壊滅状態のイギリス、フランスの都市部が映し出された――。


 かつてそこにあった都市――、人々はもうこの世には存在しない。


 彼らは沈黙を貫き、やがて中国、米国、日本やイタリア、イスラエルやロシアに訪れるであろう未来図を、荒涼とした風景を通して冷然と示していた――。


 米国に向けられた神の杖。


 ニューヨーク――。

 ロサンゼルス――。

 シカゴ――。

 ヒューストン――。

 フィラデルフィア――。

 フェニックス――。

 サンアントニオ――。

 サンディエゴ――。

 ダラス――。

 サンノゼ――。

 ジャクソンビル――。

 インディアナポリス――。

 サンフランシスコ――。

 オースティン――。

 コロンバス――。

 フォートワース――。

 シャーロット――。

 デトロイト――。

 エルパソ――。

 メンフィス――。

 ボルチモア――。

 ボストン――。

 シアトル――。

 ワシントンD.C.――。


 その他にも人口の密集した都市名が画面に表示されている。


 現地の人々の様子が中継された。


 誰もかれもが世界の終焉を前に発狂していた。


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 レナルド・トンプソン米合衆国大統領が「ギブアップ宣言」をするよりも遡ること少し前――。


 ニュージャージー州――・北西部――。


 ニューヨークとさほど遠く離れていない場所に位置するにも拘らず、そこには山と田園に囲まれたのどかな風景が広がっていた。


「本当に良かったの?ひとたび神の杖が行使されればここも危ないわ」


 全世界の政治家たちによるデスゲーム中継を眺めながらコーヒーを啜る兄に向って、アニー・ボネットは問いかける。


「大統領がギブアップすればどこに逃げようとも未来はない。死ぬならばリタが眠るこの地でと俺は決めている」


「母さんに続いて父さんも去年、天に召されたしね」


 兄はそれに何も答えなかった。若き日の兄はシボレー・シルバラードを父から借りリタとよくドライブしていたものだ。


「俺は国敵(パブリックエネミー)か」


「必要なことをしたまでよ」


 兄のアーロンは少し前までネイビーシールズとして国家の特殊任務にあたっていた。その内容は――、梅島における不死の実験被験者であるキム・ビョンドクを奪還するというものだった。


 だが、兄はキムの回収に失敗した。


 日本の沖縄での爆発事故をきっかけに不死身の人間の存在は明るみに出ることとなり、除隊を余儀なくされた兄は連日メディアに出演して仲間と共に様々な記録映像の公開と証言に踏み切った。


 実験を極秘裏に進め続ける中国へのプレッシャーを期待した米国政府の黙認もそこにはあったのだが、表向きアーロン・ボネットは「米国の恥を晒した元シールズの隊員」というレッテルを張られることとなり、肩身が狭い思いをしている。


「私のことも気にしてるの?」


 兄は再び沈黙する。


 アーロンが渦中の人となり、アニーの周囲の人間関係に少なからず影響が出たことは事実である。あからさまに不快感の意を示し離れてゆくもの、憐みの目で見つめ余所余所しく優しい言葉をかけてくるもの、そして音信不通になってしまった恋人のリッキー。


「あの証券マンとは別れたのか」


「あっちは別れたつもりみたい。だって喧嘩してからずっと連絡がないんだもの」


「最後の最期で後悔だけはするなよ」


「まるで大統領が私たちを裏切るような口調ね」


「それは分からない。だが最悪の事態は想定しておけ」


 兄はそう言うと空になったコーヒーカップをテーブルに置き「すぐ戻る」とだけ言い外へ出て行った。


 すると兄と入れ違いになるようなかたちで玄関のチャイムが鳴った。


「リッキー」


 扉の向こうに立っていたのはげっそりした顔のリッキーだった。


「先週別れたはずよ」


 アニーは鼓動が早鐘を打つのを感じながら恋人に言う。


「ごめん。忙しくて」


「今まではどんなに忙しくても連絡はあったわ」


「ごめん」


 沈黙が続いた後、リッキーは小さな箱をアニーに手渡した。


「世界が終わるなら、君と一緒がいい。家族には先に別れを言った」


 アニーは精いっぱいの言葉でリッキーを傷つけてやろうと思ったが、気づくと涙で濡れた顔のままそれを受け取っていた。


「誓いの言葉は俺が言ってやろうか」


 玄関に立つリッキーの背後から兄が声をかけてきた。その両手にはワインボトルが握られている。


「父さんが生前管理していたワインセラーから持ってきた。一番値打ちがあるやつだ」


 リッキーは照れ笑いして、アニーは食事の用意をするわと言った。


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 最後の晩餐はいつもの食卓と同じように進み、三人は日常通りの他愛のない会話を楽しんだ。


 アニーとリッキーの左手薬指にはリングがはめられている。


 一方のテレビ中継ではデスゲームの膠着状態が続き、有働努という少年とドールアイズが激闘を繰り広げていた。


「リッキー。職場の仲間や友人に挨拶は済んだのか」


 アーロンはリッキーとアニーにワインを注いでやった。


「彼らは諦めていませんでしたよ。警察官の友人に限って言えば職務でもないのに街の治安のために私服で立っています」


「奇跡が起こるといいな」


 アーロンの言葉に若い夫婦はそっと頷く。


「そういえば…おにいさん、これ」


 リッキーはアーロンに小さな紙袋を手渡した。


「これは」


 アーロンは紙袋を逆さまにすると薄汚れ、金属の錆びたキーホルダーを取り出した。


「この周囲のリサイクルショップを回って…それらしいものを見つけました」


「ファニー・ジャッキー」


 あの日、恋人のリタと喧嘩の原因になったキーホルダーと同じものがここにある。アーロンの手は震えていた。


「この周辺のホームレスが時折、買取を依頼しにくるそうで…これはもう何年も買われずに店の片隅で眠っていたようです。それがリタさんがくれたものかどうかは分かりませんが」


「いや…間違いない」


「なぜそう思うんです?」


「あの日、俺はリタと喧嘩して運転席の窓からどこかの住宅の植え込みにこれを投げた。その時、チェーンの一部が壊れた。見てみろ」


 リッキーとアニーはアーロンが差し出したキーホルダーを凝視する。ファニー・ジャッキーのキーチェーンの一部は錆び、ある箇所から上は新品の状態だった。


「おそらく中古屋の店主が修理したんだろう…俺が壊したものをな。あそこのオヤジはケチで有名だ。ゴミでも値段をつけて売るようなおっさんだ。だが、今回はそれに感謝だな」


 アーロンは子供のように泣きじゃくった。


「俺は…死にたくない。俺が死ねばリタとの記憶もこの世から消えてしまう」


 アーロンの言葉に妹であるアニーも、その夫であるリッキーも頷く。


 画面の向こうでは有働努がドールアイズにマウントポジションで打撃を加えていた。


「あの日…俺はあの少年を救った」


 アニーもリッキーもアーロンから宜野湾での出来事を聞いていた。


 この有働という少年は友人を殺され――、中華人民共和国の中央政府に復讐を果たし、それだけに留まらず今もこうして世界のために巨悪と死闘を繰り広げている。


「神はいるかもしれない。そして神は彼…有働少年のようなものをこの地につかわせて我々に何かを気づかせようとしているんだ」


 アーロンは祈るように言った。その矢先だった――。


 イギリスとフランスがギブアップ宣言をした。


 神の杖を行使された両国の都市部――、壊滅的な破壊の様相が映像を通して中継される。


 やがて日本とイタリアの議員辞職。それに倣うイスラエルとロシア――、その他の国々。


「中国側と協議は済んだ…宣言をはじめる」


 他の国の心配をしている暇もなくそんな音声――、レナルド・トンプソン大統領の声が中継から流れてきた。


「うそだろ」


 その場にいる三人すべてが耳を疑った。


 このまま有働に戦いを任せていれば世界は「神の杖」の脅威から逃れられたはずだった。だがトンプソンを始めとする中国の国家主席、およびその他の諸外国の国家元首は「ギブアップ」を宣言した。


「よく言った。くくく…。神の杖よ…行使だ」


 有働にマウントを取られたまま、ドールアイズは遥か上空――、宇宙空間で待機する死神の化身に音声で指示を出す。


 画面は切り替わり神の杖のプラットホームから小型核爆弾が吐き出され、凄まじい勢いで世界のいくつかの都市に向かって突入する映像が流しだされる。


 目標設定のひとつに――、ここからそう遠くない都市都――、ニューヨークもあった。


「終わった…」


 アニーとリッキーは抱き合った。


 アーロンはガタガタと震えた。


 あと数分、数十秒であの衝撃は地上へと到達する――。


 この地に死の灰がやってくる――、黒い雨が降り注ぐ――。


 死者の群れが町中を覆いつくすだろう――。


 土壌は汚染され――、作物は枯れ果てる――。


 じわじわと俺たちは死んでゆくんだ――。


 画面の向こう側でドールアイズは有働のマウントをすり抜けて有働を思いきり蹴り飛ばしていた。有働が吹っ飛ぶ。


 わざと劣勢を演じて、トンプソンたちにギブアップさせる算段だったのだろう。


 中継で世界に無数の核爆弾が炸裂する様子が映し出される。


 今から数十秒後――、


 遠い向こう側で轟音と眩い煌めきが広がっていることを想像した――。


「こんなことになるなんて」


 トンプソンめ――、上院議員――、下院議員どもめ――、俺たちを見棄てやがった――。


 アーロンは絶叫した。


 ニューヨークシティではそれ以上の叫び声があがっていることだろう。


----------------


 イギリス、フランス、日本、イタリア、ロシア、イスラエル米合衆国、中華人民共和国――、その他――。


 ドールアイズは神の杖へと指示を放った。


 日本においては、東京――、大阪――、名古屋――、京都――、福岡――、北海道――、その外の主要都市が標的となった。


 世界の終焉が訪れる中――。


 有働努の周囲の人間たち、関係者――、かつての敵対者たちは各々の思いを抱いていた――。



 東京拘置所――。


「くくく…ざまぁみろ!!!有働め」


 冬貝久臣は笑った。


 狂ったように笑い転げた。


 肩が震える。可笑しいからなのか。それとも――。


「く…くく…あれ…あれ?」


 願いが叶ったはずなのに膝から震えが止まらない。


「あれ?」


 覚悟は決めたはずだった――。


 どうせ死刑になるならばこの東京ごと吹っ飛ばしてくれと願った。


 だが、自分の命があと一分もないことを悟ると、来月の面会で母が持ってくるはずだった鰻の蒲焼きが食べたかったと後悔の念が押し寄せてきた。


「死刑と問答無用の爆死は訳が違う!おれはこんなのイヤだ!」


 同室の誰かが叫ぶ。


「確かにあんたの言うとおりだ」


 冬貝は泣きながら乾いた笑い声をあげた。


 失うものがないと思っていた俺にも失うものがあったとは――。


 時を戻せるなら、癪に障るが有働を応援しておけばよかった――。


 そんな事をしても何も変わらないのは理解できていた。


 だが――、ただ死ぬ前にもう一度好きなものを食べて、自分は今から死ぬのだと覚悟を決めて死ねることがどれほど幸福なのか気づいた。


 見えない死の恐怖が空から降ってくる――。


 数十秒後には東京都は消滅する。


「やめてくれえええええええええ!!!!まだ死にたくないいいいいいい!!!!」


 冬貝は叫んだ。


 同室の連中も一斉に悲鳴を上げた。



「母さん…ごめんね」


 不破勇太は少年院の隅に立つ母の亡霊に謝罪を繰り返す――。


 僕の命はあと数秒だ――。


 有働は必死に戦ってくれていた――。


 だが僕が生きることは叶わなかった――。


 人の命が失われるということはこれだけ絶望に満ちたものなんだね、母さん――。


 希望や夢、目標があればあるほどに死ぬことは悲しい意味を持つんだね――。


 僕は間違っていたよ――。


 人をたくさん殺そうだなんて、生まれ変わったら決して望まない――。


「さようなら…」


 勇太はあと数秒後に、東京ごと消えてなくなる自分の運命を憂いた。



 北関東某所――。


 森の中のロッジは吉岡莉那はその様子を見ていた。決して目を閉じぬように、現実をしっかりと見届けなければならないと涙を溢れさせながら見ていた。


 隣にはエミがいた。彼女もまた泣いていた。


「有働くん…」


「つとむは悪くない。私たち全員が選んでしまった最悪の結末」


 テレビを前にした一同は地獄絵図――、日本が壊れてゆく様子を傍観することしかできない。


「やつは…負けない」


 熱にうなされた春日は譫言を口にした。薬が切れたのかもしれない。春日の父兄は息子の看病にあたる。


 神の杖による小型核爆弾が吐き出され、大気圏を突破し日本国めがけて落下する様子が中継で流れた。


「恐ろしい光景だ」


 遠柴がつぶやく。


 この日本を舞台に、地獄が始まる様子が中継で流れる――。


 夜の闇に浮かぶ都庁が太陽を思わせる凄まじい炎に飲み込まれ――、大阪城は凄まじい爆風で瓦解をはじめた。


 歴史的建造物が音もなく、跡形もなく消滅してゆく。


「神の杖の威力とはこれほどまでに」


 莉那の父は母の肩を抱いた。新婚旅行の思い出の地――、京都が消滅する様子を衛星による中継で眺めながら泣いた。



「最悪だ。東京が消えた。すぐそこだぞ」


 音も光もここまで届かないが、確実に隣接する東京は核の威力によって消え去った。


 中継映像では木っ端微塵になった東京と、グロテスクな死体の肉片が映し出されている。


 小喜田内市に残留した権堂組の面々は膝から崩れ落ちた。


 有働が――、権堂が――、誉田が――、体を張って繋いだ未来は愚かな為政者たちによっていとも簡単に潰された。


 都内からそう遠くないこのK県にも風に乗って死の灰がやってくるだろう。


「どうする…今から逃げるか」


 誰かが言った。


「逃げ切れない。国が崩壊したんだぞ」


 リーダー格の小田島は仲間を制する。


 国政に微塵も興味を示さなかった少年たちではあるが、国家という概念が崩れ去ったことだけは理解した。



「…東京が…大阪が…日本の文化が…消滅してしまった」


 自宅のマンションで新渡戸教諭はブランデーの空ボトルを握りしめ、世界の終焉――、日本の終わりをテレビで眺めている。


「有働くん…君一人に重いものを背負わせてしまったな」


 今、あちら側で戦っている有働を守ることも制することもできない、教師として何もできない自分が歯痒かった。


「我が校、数十年ぶりの東大合格を目指すんじゃなかったのか、有働…」


 新渡戸教諭は追加の酒がないことを恨んだ。


「有働…もういい。世界の未来など君には変えられない。戻ってこい、有働。そして私と一緒に参考書を解こう」


 我が校、二人目の東大合格者――。


 かつての教え子――、徳園仁市議会議員以来の快挙を有働が達成する日を想像してみる。


 東京はもうないが――、東大はある。


 新渡戸教諭は意味不明な独り言をつぶやき、自嘲した。


「有働、死ぬなよ」


 新渡戸教諭は信じてもいなかった神に、生まれて初めて祈りを捧げた。



「これは我々、全員の罪かもしれない」


 徳園仁市議会議員は息子の勝と自宅地下でテレビ中継を観ながらつぶやいた。


「まさか地下室がこんな形で役立つとは…皮肉なものだよ」


 その地下室は数年前、隣国と日本が険悪になった際に核戦争を見越して突貫工事で築き上げたシェルターだった。


 備蓄食料は三年分あり妻と息子、自分の三人が生活するには十分なスペースも確保されている。緊張感の欠片もない妻は向こうの部屋で鼾をかいて寝ていた。


「有働さん…」


 息子の勝は日本の要所が消滅してしまったことよりも有働の生死を心配している。


「彼は…私に、必ずあんたを総理にすると約束してくれた…私はその言葉を今も信じている」


 仁は息子勝の肩を抱く。


「日本はまだ滅んではいない。…東京や主要都市が壊滅しようとも…最後の最期まで希望は捨てちゃいけない。勝、お前の友達は必ず勝つはずだ」


 父の言葉に、勝は嗚咽した。


 ちょうどその時――。


 有働がドールアイズの凄まじい蹴りを食らい吹き飛ばされる中継映像が流れた。


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 驚愕すべきことか、必然か――。


 デスゲームに参加した国の八割がギブアップを宣言した。


 神の杖のプラットホームから吐き出される小型核爆弾――。


 それらが各々の目的地へと到達した瞬間――、爆風の熱が凄まじい速度で拡散し、外気温で冷却された対流圏の水分がキノコのような形で膨れ上がった。


 熱放射で一瞬にして消滅する何千万、何億という命――。


 上空数万メートルからの宇宙からの俯瞰視点――。


 すべての大陸で真っ赤な炎が吹き上げている。


 中継映像はそれら人類の終焉を冷然と流し続けていた。


 ドールアイズが保持するあらゆる集音システムが作動し、地球上に存在する人類七十億の最後の悲鳴が聞こえてくる――。


「もっと生きたかった」

「夢があったのに」

「なぜ告白しなかった」

「勉強しておけばよかった」

「母さんに謝ればよかった」

「死ぬ前に免許取ってドライブ行けばよかった」

「仕事なんかにかまけていないで家族と過ごす時間をもっとつくればよかった」

「好きなものを食べたかった」


 様々な言語、老若男女による悲鳴――。


 それらは凄まじい爆風によって一瞬にして掻き消された――。


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 新バベルの塔・最上階――。


 世界が滅びの道を辿ろうとしているこの瞬間も、二人の男は血を流しながら戦いを続けていた。


「なぜまだ戦う。有働よ…もう世界は終わりだ」


「今、俺はまだここに立っている。終わりじゃなんかじゃない」


 有働はよろめきながら立ち上がった。


「死海文書ダニエル書にはこう記されている…光の子と闇の子の戦いが起き、世界は破滅へと向かう…と。有働、予言は変えられないぞ」


 ドールアイズは息を切らせて血反吐を吐く。


「なら今、俺が予言してやる。てめぇは悲鳴を上げてくたばる…」


 有働は笑った。


 ドールアイズも笑っている。両手にはめたモーニングスターの棘からは有働の血液が滴り落ちていた。


 体中に空いた穴のそこかしこが痛む。有働は思った。


「残された時間はない」


「それは俺も同じだ。もう戦うのに疲れただろう、有働」


 ドールアイズは空を見上げて笑った。


「五分だ。五分後にK県小喜田内市に核を落としてやる」


 ドールアイズの青い義眼が機械音を立てる。

 有働は驚愕した。


 地元には有働の母が残っていた。父が眠る地で世界の終焉を見届ける覚悟が有働の母にはあった。


「お前の家族も仲間も死ぬ。さらに十分後にはお前の恋人が隠れてる北関東にも落としてやる」


 莉那のことか――、エミのことか――。彼女たちが春日とともに北関東へ避難していることは知っていた。


 宇宙から俯瞰できる最新の衛星――。ネットワーク回線の掌握――。ドールアイズの追跡を逃れられる人間など地球上にいない。


「てめぇ」


 有働は獣のように吼えた。右腕がドールアイズの頬をかすめて空回る。


「安心しろ。お前の方が先に死ぬ」


 ドールアイズは有働の懐に巨体を潜らせアッパーを繰り出す。


 有働は寸前でそれを避けた。すさまじい風圧。モーニングスターの棘の先端が顎をかすめてカミソリのような血筋を残す。


「俺は諦めない」


 有働はよろめきながらもドールアイズとの間合いを詰めた。


 恐ろしいほど連続で繰り出されるモーニングスター。その重量のおかげで有働は器用に紙一重でそれをかわすことができる。だが――、この僥倖がどこまで持つだろうか。


「さっさと死ね!有働」


 血が足りない。視界が霞む。有働の眼前でモーニングスターが大きく見えた。直径二メートルの鉄球に見えた。それからはもはや逃れる術がないと思えるほどドールアイズの両拳が有働の左右から迫り、翻弄する。


 ふいに動きが変則的になり、有働の腹部をモーニングスターが抉った。


 ウチキングのプロテクターはとうとう粉々に飛び散り上半身が裸の状態で有働は宙を舞う。


 そこからはスローモーションだった。


 床に叩きつけられる感覚。


 ドールアイズはこちらへ突進し、モーニングスターを振り上げていた。


 数秒後の自分の運命を悟った。


「内木…ごめん…」


 自分の顔面はあの鉄球に押しつぶされ、両目も頭蓋骨も脳の大半も一瞬のうちに粉砕されるだろう。


 全世界に中継される残酷ショー。世界はヒーローなど存在しないのだと悲観しながら終わりを迎えるのだ。


 地元に落とされる核――。莉那やエミ、春日たちを襲う核――。


 すべてが無になってしまう。


 心のどこかですべての重圧から解放されたがっている自分がいた。


 内木や父親、先に逝ってしまった仲間たちに会いたいと思う自分がいた。


 だが――、それでいいのか――?


 今までの戦いを意味のないものにしてしまう――、それでいいのか――?


「お前がなにをしようとしているのか気づいていた。血は争えないな」


 ふいに父と最期にかわした言葉が脳裏に蘇った。


「たいほじゅつ…」


 有働は父との日々を思い出し、夢遊病患者のように立ち上がった。


 殺意を放ちながら突進してくる敵――。


 有働はその両拳から繰り出される打撃をひらりとかわし、その肘をとった。有働はするりとドールアイズの背後に回り体重をかける。ドールアイズは巨大を地面へと沈め有働に鎮圧された。


「くそがっ」


 ドールアイズも大人しく捕縛されるつもりがないらしい。


 そこから無理な体勢で巨躯をねじり、回転させ――、有働からの戒めから逃れた。


 関節が粉砕され明後日の方向をむいた左腕と引き替えに。


「てめぇも左腕がイカれてる。これでちょうどいい」


 ドールアイズは使い物にならなくなった左拳からモーニングスターを外し有働の方へと投げつけた。


「あと二分でお前を倒す」


 有働は回転する鉄球を避けてからドールアイズへ向かってタックルを繰り出す。


「総合格闘技へルール変更か」


 ドールアイズは有働の突進を受け止め、右の拳を有働の背骨へ向かって振り下ろした。


 有働は体を右回転でよじり、左側からの攻撃を避ける。


「お前のアッパーは最強だ」


 久住の声が脳裏によぎった。


 無意識に有働は重心をかけてドールアイズの左顎めがけて右拳を突き上げる。


 モーニングスターを振り下ろした直後、怯んでいた顎に拳がめりこみ巨人は脳を揺らし膝から崩れ落ちそうになった。


「ツトム。君なら勝てる」


 オブライアン前米合衆国大統領の声が聞こえる。


 有働はもう一度右拳を巨人の顎めがけて突き上げた。


「君はまだこちら側に来るべきじゃない。生きろ」


 徐暁明上将の声も届く。北京でクーデターを共に成功させた盟友までもが天からこの戦いを見届けてくれているらしい。


「俺は負けられねぇ」


 巨人は青い瞳を輝かせ上空から有働を見下ろした。


「くたばれ!有働」


 そしてその右拳にはめたモーニングスターが有働の左横っ面を吹っ飛ばした。


「ぶっ」


 残虐な無数の棘。鉄の塊――。


 有働は殴られた瞬間、ズタズタになった自らの顔を想像した。


 痛みというのは想像の後にやってくる。


 おそらくは頭蓋骨と脳、片目を失った――。


 吹っ飛びながら有働は冷静にダメージを予測する。おそらくもう戦えない。


 有働は倒れながら痙攣した。


 そして損傷箇所を確認する。思考能力に問題はない、脳は大丈夫だ。目は見える眼球は無事だ。


 頬骨――、右手で触ってみたが一カ所、左の頬に大きな穴が空いていた。おそらく無意識に避けたおかげで棘のすべてを顔面で受け止めずにすんだのかもしれない。


 脳震盪をおこしているせいか身体が動かなかった。思考だけが働いているのが不思議だった。もしかすると半分死にかけていて、自分はすでに魂だけの存在になっているのかもしれない、とさえ思った。


「とどめだ」


 ドールアイズの冷酷な足音と同時に、その声が有働の鼓膜に響いた。


 おそらくあと数秒の命――。


「早く死ね、有働。早く死ね、有働。早く死ね、有働。早く死ね、有働。早く死ね、有働…」


 誰かが死を囁く。


 ドールアイズの声ではなかった――。


 不破勇太か――?いや、あいつじゃない。


 冬貝久臣か――、いや、あいつでもない。


 チェルシースマイルか――、いや、あいつはとっくに死んだ。


 たびたび俺の脳内に鳴り響くお前らは誰なんだ?


 きっと俺自身の声だろう。


 心のどこかで自分自身をあいつらと同類だと理解している――。


 俺はあいつらを喰らい続け本物の怪物になった――。


「だったら動いてくれよ、俺の身体…」


 有働は確実に歩み寄る死神の足音を聞きながら立ち上がろうと必死でもがいた。


 足が動かない――。


 せめてあと十秒、いや五秒あれば運命は変わっていたかもしれない。


「くそったれ」


 有働は歯を食いしばる。


「…有働くん…」


 ふいに聞き覚えのある懐かしい声がした。


「有働くんはヒーローだ…でもヒーローには相棒が必要だよね?最初で最後の手助けしてもいいかな…」


 内木の声だった。


「なんだよお前…そんな流暢に喋れる奴だったっけ」


 血なのか涙なのか分からないほど顔が濡れていた。


「死ね!!!!」


 棘だらけの巨大な鉄球が有働の頭頂部めがけて振り下ろされる。


「くそったれめ」


 有働は避けることすらできず讒謗の言葉を吐く。


 ふいに、ドールアイズの鉄球がぐらついた。


「なんだと?!」


 まぬけな声と共にモーニングスターの落下軌道が逸れていくのが見えた。


 疲労の末に筋力が低下したせいか――、ドールアイズの右拳は有働の頭頂部から十センチ離れたところへ落下する。


 有働には見えた。


 あの太っちょが――。


 内木が必死の形相で、透明な姿でドールアイズの右腕を押さえているのが――。


 頭がおかしくなって幻覚を見ているのかもしれない。


 だが有働は泣きながらその好機を逃さなかった。


「内木」


「有働くんは僕のヒーローだ」


 顔面、全身が激痛を忘れるほどの感情の迸りを有働は感じた。


 有働はよろめきながら立ち上がる。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」


 右腕を持ち上げ構え直す前の――、隙を見せたドールアイズに向かって有働は最期の突進をする。


 右拳をドールアイズの分厚い脇腹へと叩き込む。渾身の一撃だった。権堂を倒した時の何倍も殺意を持って本気の拳を叩きつけた。


 ミシリ、ミシリとゆっくり肋骨にヒビが入り砕けていく様子が拳に伝わる。


「ふざ…けやがって…」


 巨体が揺れ、ぐらついた。


「終わりだ。ドールアイズ」


 最後の好機――。


「その両眼もらうぞ」


 有働の右手は拳からピースサインに変わった。


 この指を奴の両眼に叩きこんでやる。


「終わりだあああああああああああああああああああ」


「やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」


 野太い男の叫び声。


 ドールアイズは防御が間に合わないと悟り、断末魔の悲鳴をあげた。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 奇しくも二人の男の咆哮と絶叫が重なり合った。


 数秒の沈黙の時間が流れる――。


 そこいらに真っ赤な鮮血が散った。


 有働の人差し指と中指は、不自然な角度でへし折れていた――。


 そしてその先――。


 ドールアイズの足元には青い――、人形の瞳を思わせる義眼が転がっていた。


「てててて…、てめぇ…」


 両目を失った巨人が吼える。


 転がった義眼はバチバチと音を立て放電していた。


 有働はへしおれた自分の指を気にもせず、それを片足で踏みつぶす。


「お前の負けだ…神の杖はもう使えない」


 有働は息を切らせて笑い、ドールアイズは叫んだ。


「ちくしょおおおおおおおおお」


 その叫びは絶望に満ちていた。両目の空洞からは血液なのか涙なのか、沢山の血涙が流れ出ている。


 有働は中継映像を見た。


 まだ神の杖によって核を落とされていない街に佇む人々が、有働に拍手喝采を送っている様子が映されていた。


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「トンプソン大統領…有働少年が勝ちました…」


 夕闇に染まるグランドキャニオンの地で米国チームは唖然としていた。


「仕方がない。結果論だ。私たちは間違っていない。家族が優先、ファミリーファーストの何が悪いというのだ!」


 ダイビングスーツを脱ぎ捨て高級スーツを纏ったトンプソン大統領は、岩場に腰かけ苦虫を噛み潰したように眉根を潜める。


「もう少し…彼を信じていれば…祖国は救えたかも知れない…」


 ミッチ・ニューマン副大統領が嗚咽した。


 荒廃したニューヨーク――、ワシントンD.C.――、ロサンゼルス――、その他人口の密集した地域やインフラ要所は核の炎によって今もなお焼き尽くされている。


 水を求め彷徨う死者の群れ――。天は慈悲を示さず、地獄のような黒い雨を大地に叩きつけていた。


「考えても仕方がない。ここもじきに汚染される…さっさとシェルターに入るぞ」


 トンプソンは議員たちに命令する。


 誰も彼もが重い表情のまま、トンプソンの後をついていった。


「時を戻せたら…」


 ミッチ・ニューマンだけはひとり、歩みを止めたまま天に救いを求めるようにして嘆いた。


 その言葉に全員が反応し泣き始める者もいた。


「我々は自分の命と家族を守るために国民を犠牲にした。いつか地獄で罪を償おう」


 上院議員が皆を諭すように言った。


 暫し無言の時間が流れた。


 失われた魂へ祈りを捧げることは白々しく思えるが、かつて権力者であった罪人たちは心の片隅に残っていた人間性ゆえに現在の状況に葛藤している。


「…誰もが時を戻したいと望む…」


 長い沈黙の後で、その音声と共に画面が切り替わった。


「…戻れない過ちに足を踏み入れてから、人は後悔する…」


 男の声は全世界を完膚なきまでに痛めつけた為政者たちに向けて語りかけていた。


「ドールアイズ!!!」


 全世界の政治家たちが巨大モニターに向かって叫ぶ。


「…有働ならそこで気絶しているぜ」


 画面が切り替わり、地面にうつ伏せで倒れる有働が映し出された。


「…安心しろ。今の俺じゃもう神の杖は行使できない」


 巨悪の顔がアップで映し出され、洞穴のような双眸からは血涙が流れていた。


「何がしたい?何をする気だ!!もうゲームは終わっただろう」


 トンプソンは泣きそうな表情で唾を飛ばした。


「心外だな…俺はお前らの願いを叶えてやろうとしているのに」


「どういう意味だ…」


「この俺が時を戻せるとしたら、どうだ…?」


 ドールアイズは眼球を失った状態でこちらを見つめ、笑っていた。


「何を…何を言っているんだ、お前は」


 トンプソンはモニターに向かって叫んだ。


「いいものを見せてやろう」


 巨大モニターに映し出された全世界の巨大都市――。


 ロンドン――。


 ニューヨーク――。


 ワシントンD.C.――。


 ロサンゼルス――。


 東京――。


 大阪――。


 パリ――。


 シンガポール――。


 ソウル――。


 香港――。


 アムステルダム――。


 ベルリン――。


 ウィーン――。


 その他――。


「…ま、まさか…」


 トンプソンをはじめ、全世界の政治家たちが額から脂汗を流し始める。


 意味が分からない――。


 先ほどまで核の炎で嬲られ続けていた祖国の惨状とは打って変わって無傷の都市、あっけにとられた表情の人々の顔が中継で流れた。


「核の炎で焼かれた都市部を魔法で戻した」


 ドールアイズは笑った。


「…何を言ってる」


 トンプソンは鼓動が早くなるのを感じ、自らの胸を手で押さえながらモニターを睨む。


「冗談も通じないのか。最初から核など落としていない」


「そ…そんな馬鹿な」


「神の杖で滅びた都市はすべてフェイク映像…うちの映像製作班があらかじめCGで作ったものだ」


 巨大スクリーンにはかつてハリウッドで名を轟かせた監督をはじめとする製作チームが一丸となって核の炎によって焼き尽くされた全世界の都市、死にかけた人々の映像をコンピューター・グラフィックを駆使して製作するメイキング映像が流された。


「俺はこのデスゲームにおいては、神の杖を一切行使していない」


「なんだと…」


「核を落としたのは一度きり。お前らを動かす為、サウジアラビアの砂漠に落とした一発のみ」


 変形した砂漠の様子へと中継が切り替わる。


「ネット接続を断絶させたのもこのためさ。SNSで核が落ちてないことを拡散されてもたまらんからな」


 再び両目のないドールアイズの顔が映し出された。血涙はいつの間にか止まり乾いた笑いだけがそこにこだまする。


「ふ…ふざけるなよ…私たちがどれだけのものを失ったか分かるか…?」


「失ったのは貴様だけか?トンプソン…俺はむかし、お前に命よりも大切なものを奪われた」


 トンプソンは心臓の痛みに耐えきれなくなりその場に崩れ落ちる。


「ある日を境に核開発の権威やら宇宙開発の権威がすり寄ってきた…すべてお前の差し金だろう、トンプソン。俺は奴らに神の杖の開発を誘導されたようなものさ」


 全世界がその言葉に騒めく。


「人は一度、深い闇に落ちてこそ一筋の光に縋る。お前らはそれになれなかった。新しい時代の幕開けだ」


 狂った笑い声が峡谷に響いた。


「お前らは世界を救えなかった」


 闇が世界を侵食し尽くし月明かりが煌々と輝きを放っている。世界から集められた為政者たちはざわめき、発狂した。


「ウソよ…ウソだわ…そんな…」


 ドイツのメンゲルベルク首相は膝から崩れ落ちた。プチョールキン大統領に限っては青ざめた顔のまま、夢なら醒めてくれと叫んでいる。


「そろそろトルコ野郎が電流から目を覚ます頃だろう」


 岩場に放置されていたトルコの議員が寝返りを打って欠伸をしている様子が画面に映った。


「お前らには必要がなかったが、その防弾ダイビングスーツには大量の血糊が仕込んである。レーザーが当たった瞬間に血が飛び散るようにな。さらに電流が流れ気絶するから死んだように見える」


 ダイビングスーツを着た政治家たちが自らの体中をまさぐる様子が全世界に中継された。


「すべて映画で使われてる手垢の付いた演出さ。お前らには死んでもらいたくなかったからな」


 トルコの議員が担架で運ばれていく。


「たった今連絡が入った。レーザーガンで自らを撃ち抜いた英雄たちは命には別状はないと」


 自傷すれば国が救われると考え、自らの肉体の一部を傷つけた議員たちがベッドの上でノアの救世会医療チームによる治療を受けている様子が中継される。


「こ…こんなことをして!私たちはどうなる!祖国に帰れば袋叩きにあうだけだ」


「だから言っているだろう。シェルター内で生涯の生活を保障すると。新バベルの塔に残りたい奴は残れ。帰りたい奴は帰れ。」


 抗議に燃える全世界の為政者たちに向かってドールアイズは言い放つ。


「部下たちに飛行機とヘリを用意させている」


 黒服たちは峡谷の向こう側で一列に並んで待機していた。


「ふ…ふざけるなー!金を返せ!私たちをここから降ろせ!」


 椅子ごと括り付けられたゴッドスピード、シュミットバウワー両家の党首が叫ぶ様子が映し出される。


「金は返さん。お前らは傲慢な態度を直さない限りずっとそこで過ごさせる。すべての元凶である貴様らを新世界の警察や消防署が助けてくれるかな?」


 その言葉を聞いて二人の富豪は黙りこくった。


「くそ…やられた…」


 トンプソンは泡を吹いて気絶した。


 ドールアイズが見たかったものはこれなのだ。為政者に国民を裏切らせ、その本性を全世界に明らかにさせること。おそらく戻れば縛り首にされる。怒り狂った七十億を前に政府も司法も機能しなくなるだろう。


「トンプソン大統領!!!」


 副大統領のミッチ・ニューマンがトンプソンを抱きかかえた。


 トンプソンは、こと切れていた。


「心臓発作だ…死んでいる…」


「ミッチ・ニューマン副大統領…今からあなたが大統領です…簡素ではありますが宣誓式を行いますか?」


 上院議員の一人に促されたミッチ・ニューマンはしばらく考えた後、それを断った。


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 暗い世界がそこには広がっていた。


 父による最先端の義眼を手に入れてからというもの、寝ても覚めても脳内には様々な色彩や波形が情報として奔流しており、全くの闇というものを体感したのはあの日、母に両眼をつぶされて以来かもしれない。


「世界七十億よ、新しい世界を楽しめ」


 ドールアイズは笑いながら、全世界への中継を完全に切断した。


「通信を戻せ」


 衛星に指示を飛ばす。


 時間にして数分。すべてのネットワーク回線が正常に戻り、通信手段が七十億の元へと戻ったことを伝えるアナウンスが最上階に鳴り響いた。


 ドールアイズは懐のスマートホンを取り出す。


 その男の番号は予め知らされていた。


 数コールの後に電話は繋がった。


「お前の言うとおりにしたぞ…ミスターシャイ」


 ミスターシャイ――。


 シンシア・ディズリーを誘拐しテレビ通話をかけてきた裏社会の男――。


 そいつはテレビ通話の画面越しにシンシアの心臓に鉛の弾丸を撃ち込んだ。


「すべてお前が指示したとおりにした」


 相手が名乗る前にドールアイズは堰を切ったように喋り続ける。


 ミスターシャイはシンシアを殺され狼狽するドールアイズに向けて「お前に見せてやりたいものがある」と「あるもの」を見せてきた。


 その瞬間、ドールアイズはミスターシャイの要求をすべて呑むことにした。


「…ただ…」


 ドールアイズの脳裏にはシンシア・ディズリーの姿が浮かぶ上がる。アリシア…すまない。心の中で何度も何度も彼女に謝罪した。


「…有働だけは殺せなかった…こいつは殊の外、強かった…この俺よりも。だが、お前は言ったはずだ。ミスは一つまで許すと…」


 沈黙が流れる。ミスターシャイは沈黙で揺さぶりをかけているのかもしれない。ドールアイズは何度も彼の名を連呼した。


「あ…あの…」


 通話口から流れてきた男の声は、あのとき聞いた加工されたミスターシャイのものではなかった。だがそんなことはどうでもよかった。ドールアイズはミスターシャイに懇願を続けた。


「ミスターシャイ。俺は約束を守った。大切なものを…シンシアを返してくれ」


 あの時――。


 ミスターシャイが見せてきた「あるもの」とは「シンシアが生きている証拠」だった。


 心臓を撃たれ倒れこんだと思い込んだドールアイズに向けて、シンシアのジャケット内に仕込まれた防弾チョッキとそれに食い込んだ鉛弾を見せてきたのだ。


 ミスターシャイは「時を戻せるのは一度のみだ。もう一度、私の要求を断ればこの女を殺す」と言った。


 要求の内容――。


 神の杖を行使し、全世界の政治家たちを一か所に集結させ彼らに国民を守るためのデスゲームをさせること――。


 彼らには防弾機能のあるスーツを着用させ、なるべく死者がでないようにすること。


 デスゲームが膠着状態になった場合、ゆさぶりをかけること。


 自己犠牲か国民を見棄てるのか――、彼ら政治家自身に選ばせること――。


 さらにいくつかの要求を追加した後、ミスターシャイはこう続けた。


「もしも君の計画を邪魔するようなヒーロー気取りが現れた場合、最後まで君に食らいついた一人のみ殺すことを命じる。なるべく残忍な形で時間をかけてそいつを殺せ」


 ドールアイズはその指示通りデスゲームを進め、ウチキングこと有働努を殺そうと全力を尽くした。結果として神の杖は奪われてしまったがミスターシャイからの指示に「神の杖の奪還阻止」は含まれていないためミスは一つのみで留まったことになる。


「…す、すいません。僕はミスターシャイなんかじゃないです…お、太田と言います…」


「誰だ?」


 太田という男は訛りのひどい英語で何度も何度も謝罪した。そしてなぜか彼の背後ではスーサイド5Angelsの歌が大音量で流れている。


「どういう意味だ?俺はミスターシャイと話がしたい!どうしたらいい」


「この電話を預かった者から伝言を頼まれています…目の前の男こそが貴方の探している男だ。今からその男の指示に従え、と」


「何…」


 ドールアイズは目の前で気絶しているはずの有働を見下ろす。


「よく寝た」


 有働は血だまりの中で息を吹き返し、ゆっくりと立ち上がった。左頬の大きな傷からは鮮血が流れ出しまるで不謹慎な笑いをとろうとするピエロのように口の周囲が真っ赤に染まっていた。


「有働…貴様が…ミスターシャイだと」


 ドールアイズはスマートホンを落とす。


 有働はスクリーンを見つめ中継が完全に切られていることを確認した。


「ああ、ぜんぶ俺の計画だ」


 有働は舌なめずりしながら笑った。


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「本気で俺を殺そうとしやがったな。だが、それでいい…」


 有働は肩の関節を鳴らしながら愉快そうに破壊された石像の数々を眺めた。


 同じ最上階で倒れている権堂と誉田は気絶したまま目を覚ましていない。


 ドールアイズと二人だけの空間で有働はようやくすべてが計画通りに収まったと安堵した。


「貴様…そうか…今、気がついたぞ。太田という男はここの地下でウチの兄貴と仲良くコンサートを煽ってるあのオタク野郎か」


 両目を失いながらもドールアイズは有働を睥睨する。


「シンシアはこちら側の人間だ。危害など加えていない。あのテレビ通話も仕組まれたものだ。黒いフードを被ったクリス・グライムズがミスターシャイの役をやり、それに合わせて俺が喋った」


「なに?」


「失った者は目を覚ます。後悔をして、時が戻れば――、と願う」


 深く呼吸をするようにして有働はこれまでの戦いにおける喪失の数々を思い起こした。内木の死から久住や父の死――。


「…これしか方法はなかった。世界を救うには光と影が必要だ。チェルシースマイルに殺された俺の親友、内木の作品…ウチキングとウチキラーから着想を得た」


 内木の遺した漫画の設定資料に書かれていた内容――。


 世界を滅ぼすウチキラーと正義の味方ウチキングは表裏一体の双子であり、彼ら双方が存在してこそ世界平和の価値は発揮されるというのが内木の構想だった。


「内木――内気、シャイ、ミスターシャイ。なるほどな」


 腑に落ちたのであろう。ドールアイズは日本語にも精通しているため、その単純なアナグラムに気づいたようだった。


「為政者たちは国民を見捨て、お前は血を流し戦った。これがお前の言う正義か」


 皮肉めいた口調で問いかけるドールアイズ。有働はそれを意にも留めなかった。


「お前の持つシャドープロファイルのデータはもらう」


 有働は笑った。


「何が目的だ」


 盲目になったドールアイズは膨大なデータを収容したチップを手探りで懐から取り出し、有働に渡す。


「世界平和さ」


「戯言を…具体的に何をするつもりだ」


 国家予算レベルに達するであろう価値を有するチップを弄び、有働は考えるしぐさを見せた。


「世界連邦政府の樹立を達成する」


 世界連邦政府――。


 それは国際連合が戦争抑止力として機能しない昨今において、世界法に基づき全ての国家の主権を掌握、統治する世界機構の名称である。多くの科学者、思想家、活動家が世界連邦政府運動を推進してきたが未だそれは達成に至っていない。


「国家という概念をぶち壊すつもりか」


「文化は壊さない。だが利権は壊す」


 有働は笑った。そこから鋭い牙のような八重歯がのぞく。


「世界連邦政府の利権はどうなる」


「中枢に腐敗はつきものだ。そのためには風通しをよくしなければならない」


「そういうことか…」


 ドールアイズは小刻みに足が震えていた。


「世界中から協力者を集めなければならない。世界数十億を個人単位で思想調査するためにはシャドープロファイルが必要だ」


「すべて計画通りに…国家を破壊し、再構築するため…自分の命を危険にさらして迫真のヒーローショーを世界七十億の前で繰り広げたというわけか」


 先ほどまで狂人だった男は震えながら笑った。自分よりも狂った男が目の前にいる。これには笑うしかなかったのだろう。


「金がいる」


 有働は淀みなく言い切った。


「分かっている。ゴッドスピードとシュミットバウワーから巻き上げた金は世界中の秘密口座に分散させた。パスワードも引き出し方もすべてそのチップに詰まっている」


 有働がミスターシャイとして出した指示の一つに彼らから金を巻き上げるというものがあった。有働は今後それを世界連邦政府樹立のため軍資金として運用するつもりだった。


「もう一つ渡すものがあるだろう」


「ふん」


「お前の義眼がつぶれた今、神の杖を動かせる唯一のツール。さっき壊したスマホがフェイクであることぐらい気づいてる」


 ドールアイズは最上階の隅に置かれた金庫からスマホを取り出す。


「よこせ」


「壊すつもりか…」


 渡そうとする素振りを見せるもののドールアイズは名残惜しそうにそのスマホを握りしめていた。


「神の杖を築き上げるまでどれだけの金と労力を費やしたと思っているんだ」


「壊すつもりはない」


「何…!?」


「世界七十億が目覚めなければ…こいつの力を借りるほかないな」


 有働はスマホを受け取るとその画面に記された指紋認証の再設定画面を操作した。


「とんだ救世主だ」


 ドールアイズは不自然なほどに肩を震わせ咽るほど笑った。傍から見れば怯えているようにも見えるその様子は有働から見ても滑稽だった。


「答えは直に出る」


「ヒロシマ、ナガサキの悲劇から世界は何一つ変わっていない」


「それでも俺たちは希望を失ってはいけない。世界平和はたった一人では成せない…七十億が気づかなければ実現しないんだ。そのためなら俺は何者にでもなる」


 父が日記帳に記した言葉――、有働はそれを思い出しながら口にする。


「有働…お前は俺が…なり…」


 ドールアイズは洞穴のような双眸で有働のほうを見つめた。


「何が言いたい」


「…いや、何でもねぇ…ついでにこれもやろう」


 暫しの沈黙の後でドールアイズは一本の注射器を渡してきた。


「…中国共産党が最後まで守り抜こうとした一本だ。うちの部下に盗ませた。精度は高く、これを体内に入れれば九十パーセントの確率で永遠の命が約束される。これさえあれば…未来永劫、お前は自身がなりたい者でいられるぞ」


「永遠を手に入れれば、未来は価値を失う」


 有働は「永遠の命」の源を手にしながら途方に暮れたような表情で天井を見上げた。


「どういう意味だ」


「限りある時間の中でしか大切なものを見つけることができない。それはこの俺とて同じだ」


「ならばどうする。捨てるか」


「これの魔力に呑まれる前にそうした方がよさそうだな」


「それと同じものが他に二つとないとは断言できねぇぞ…事実、隕石は世界各地に落下していた」


「不死隕石やその研究は国民の監視の元で破棄させ、不死人間は新体制の連邦政府管理で保護させる」


 二度と旧時代のような悲劇を繰り返してはならない――。


 有働は世界七十億の未来のため、本当の戦いは今はじまったばかりであると思った。


「この世でもっとも恐ろしいのは金で雇われたり、何者かに支配された者じゃない…思想で繋がった連中だ。見てみろ、世界でお前の名を叫んでいる連中を…」


 巨大モニターに映し出されたテレビ中継の映像――。


 米国の国営放送だった。世界中で有働コールが沸き上がり政治家たちへの罵詈雑言が飛び交っている。


「有働…お前はすべてを手に入れた」


「それはどうかな」


 新世界の救世主――。


 神の再々来――。


 時代に祭り上げられこれまでのように自由に動き回ることができなくなるかもしれない。


 だが有働は心に誓った。


 亡き者たちのためにも――、明日を見失った世界七十億のためにも――、自分は偽善者であり続けなければならない――、と。


「俺はとんでもない魔王を誕生させちまったのかもしれない。敢えて言うが、お前は有史以来、本当の意味で世界征服を成し遂げた唯一の人類とも言える」


 ドールアイズはその場にへたり込んで大笑いをした。


 最上階の巨大モニターでは新バベルの塔地下シェルターでコンサート続行中の五人の天使たちの様子が、太田のスマートホン越しに全世界に動画中継されている。


 それに合わせて世界中でスーサイド5Angelsの楽曲を合唱する人々の様子が映し出された。


 彼らの多くは彼女たちの楽曲を知らないはずだった。


 だが世界は一つになって彼女たちの歌う希望を共に分かち合い、合唱していた。


----------------


 激闘が終焉した。


 有働は目を覚ました権堂、誉田と共に最上階を去っていった。


 各国のエージェントたちは新バベルの塔で治療を受けている。


 世界中の政治家の九割が新バベルの塔に残留を表明し、彼らの受け入れでシェルター内は多少混乱している。


 もはや旧時代の為政者へと成り下がってしまった彼らの中にはこの新バベルの塔を独立国家とするべきだと主張するものもいた。神の杖を失った上に全世界の怒りを買ってしまったこの塔には外部からの攻撃も予想されるため、早急な対策が望まれた。


「マイケル…」


 激闘の終焉から二時間後――。


 新バベルの塔・最上階で壊れた石像の前に跪くドールアイズの背後から柔らかい女の声がした。


 女の声は涙で濡れ、震えていた。


「お前の姉や、ウチの母と語り合っていた…」


 何も見えない暗闇の世界の中でドールアイズが頼れるものと言えば過去の記憶と、彼女たちが存在したという事実だけだった。


「なんて言ってたの」


 シンシアはドールアイズの広い背中に身を寄せ後ろから抱きしめる。


 彼女の胸元で黒猫のネックレスが揺れた。


「神は…神はいたよ、と言ってやった…」


 ドールアイズは背中越しに添えられたシンシアの手に血だらけの自らの手のひらを重ねる。


「神はどんな顔をしてた?」


「顔などない。俺は目が見えないからな…」


 シンシアは笑った。泣きながら笑った。


「神は…」


 ドールアイズは一呼吸置くと、天井を見上げるようにして言葉を続ける。


「お前を生かしてくれた…ここで再び巡り会えた奇跡。そのすべてだ」


 シンシアは何も言わず頷いた。


 ドールアイズことマイケル・ホワイトはやっと本当の自分に戻れたような気がして、この世界を憎むことをやめた。


----------------


 それから数か月後――。


 世界のあちらこちらで新しく政治家を決める投票が行われた。それは至ってシンプルな国民投票制によるものだった。投票率はどの国も九割を超えた。


 旧政権に携わったものは一部の知識層を除き一掃され、既得権益に絡まない若い世代たちが多くの支持を得た。


 新しく国政を担う者たちは世界中で神格化された有働信者が多数を占めている。


 有働の思想、発言を多く取り入れた者が一般大衆の支持を集めやすかった事と、純粋に旧時代の腐敗政治に辟易した若者たちが政界に進出していった現状を考えれば当然の結果だった。


 いくつかの独裁国家ではクーデターが勃発し、国家体制の健全化が図られつつある。


 グランドキャニオンに建てられた新バベルの塔は「旧時代の罪の象徴」として独立国家として認定され、防衛は米軍が行っている。


 マイケル・ホワイトおよびシンシア・ディズリーは姿を消した。彼らの行方を知る者は誰ひとりとしていない。

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