第23話 とっくに偽善者引退してますが何か?

 1月13日(火)―。


 現職・日本国総理大臣の暗殺事件が発生した。

 報道陣に偽装した1人の青年が「ステルス爆弾」を体内に仕込み、 第99代総理大臣の桐柿甘造(きりかきかんぞう)や他の報道陣と共に自爆した。


「我が韓国は、日本国に対し、いかなる場合においても武力で制圧することができる。現、梅島がそうであるように、圧倒的軍事力と他国の協力を以ってして、日本列島をも我が国の領土として統治すべき未来が、いずれ来るだろう」


 そう書かれた声明文が荷物と共に路上に放置されていたため、犯人の特定はすぐにされた。


 犯人は、韓国籍の留学生の青年だった。生前、特に反日活動をしていたわけでもなく動機も不明。金銭面で困っていたという報道が一部でされたが、彼についての追求は、なぜかある日を境に一切なくなった。


「韓国は、日本を仮想敵国として正式に認定しているのか」論点はそこに絞られた。


 韓国側は「日本国を混乱に陥れた個人の行動は誠に遺憾であり、当国とは無関係である。第99代総理大臣の桐柿甘造(きりかきかんぞう)に、深く哀悼の意を表明する」との姿勢をとったが、ネット上では、韓国民による、日本国総理暗殺に成功した青年を英雄視する書き込みが多く見られ、日本国民の「反・韓国」感情を煽る結果となった。


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 1月20日(火)―。


 国際連合の緊急特別会が開かれ、韓国は日本国への侵略行為を正式に否定。

 また紛争回避という名目で、国際司法裁判所での梅島領土問題解決を促す米国と、それに応じる必要はないという他国が対立する場面も見られた。


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 日本国憲法9条―。


「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」


「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」


 この2つの項目は「何をされても、それが一国家であれば我が国はやり返さない。永久に他国と戦争はできない」という解釈ができる。

 日本が何者かによって蹂躙されはじめようとしている中、憲法9条改正を声高に叫ぶ者たちが増加していった。


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 事件直後から2週間が経過した―。


 未だ日本国民は興奮していた。

 靖国神社の周囲には「嘘つき韓国許すまじ」との旗、のぼり、プラカードを持った数万人が結集し、暴動が起きた。

 彼らの多くはもともと、右翼でも、保守派でもない、去年まで普通に会社員、学生、主婦だった者だった。


 そのほか、皇居や国会議事堂、日本国内において政治経済の主要とされる施設周辺で「テロ撲滅」を叫ぶデモが行われ、群集に紛れたテロ警戒のために警官隊、自衛隊が増員されるという事態へと発展した。


 とあるテレビ局の生放送インタビューに答えた青年の言葉。


「戦犯?英霊?え~っと、ぶっちゃけ、靖国神社の持つ意味合いなんて、あんま深く知らないで~す。殺された桐柿総理のことだってどうでもいいですし。あと、韓国が国連で、日本への侵略を否定したって信用できませ~ん。ネットじゃ、やっちまえムードらしいじゃないですか。奴らにさんざん舐められて、挑発されてる以上、やり返す意味でも、ここに集まるしかないかなって思ったんですよね~。このままじゃ日本は侵略されちゃいますよ?まじヤバくないっすか?俺、来月、結婚するんすけど~、嫁さんを韓国の侵略者どもに犯されまくるとか耐えらんないんで~。まじ侵略者はぶっ殺すべきですね~。あと、そうそう、異世界モノのゲームとかアニメと同じで、王様がやられたらその国は終わりでしょ?だから、俺らが天皇陛下を守らなきゃダメだと思うんで~。日本国バンザ~イ」


 皮肉なことに、つい最近まで日本国憲法や、政治に興味がなかった若い世代が中心となって「他国民による総理大臣暗殺」を機に「他国からの侵略から日本を守れ」「日本国憲法9条を改正せよ」「靖国神社に終結」「皇居を守れ」「愛国」「梅島奪還」などと叫ぶようになっていった。


 また、自衛隊員に志願する若者の数が、前年より倍増したという情報も世間を賑わせた。


 70年前に終戦を経験した老人たちは、この日本国内の状況に震え上がった。戦争の恐ろしさを知らない若い世代による帝国主義の再興を怖れ、何人かは老体に鞭を打って、同じ過ちを繰り返してはならないと、か弱い声をあげていた。


 だが、彼らの声は多くの喧騒にかき消されていった。


 日本国内の大企業の何社かが、靖国神社に多額な寄付金をしたという報道がされ、彼らは国民から喝采を浴びた。


 韓国大統領は、一連の日本国内の動きに対し、ただ、沈黙を守った。


 一方、かつて日本国によって侵略されたとされる中国と韓国、北朝鮮は「靖国神社」に集う国民の姿を見て「70年間眠っていた帝国主義の悪鬼が目覚めるのは時間の問題。日本国民は同じ轍を踏むつもりか」と糾弾した。


 米国は「テロは許されない。日米安保条約は、いかなる場合も守られるべきだ」とだけ発言した。


 これを受けた第100代総理大臣の琴啼至道(ことなきちかみち)は「米国との、今まで以上の協力関係こそが日本国民の総意を汲み、世界の中で、日本国を守り抜く未来へと繋がる」と発言したが、憲法9条改正の是非については一切、触れなかった。


 ただ「梅島は日本の領土ですか」との問いに対し「他国(韓国)により侵略されてしまった日本の領土です」という琴啼総理の言葉に、国民は熱狂した。


「梅島が侵略された我が国の領土ならば、ただちに韓国から奪還すべし」


 日本国の誰もがその理屈に辿り着いた。


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 3月―。


 権堂は無事に卒業し、ニューヨーク行きの飛行機に乗った。

 皆が集まった空港での見送りでは、権堂の目に光るものがあった。「こんな世界情勢だが、あっちで何か得るものがあったら帰国するぜ」と言っていた。


 4月―。


 春日や久住は3年になり、有働は2年B組に進級していた。

 内木や戸倉、莉那らと同じクラスだった。莉那とはあの日以来、口を聞いていない。避けるとか避けられてるのではなく、お互いに話すきっかけが特にないまま時間が過ぎた。


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 4月13日(月)―。

 18時過ぎ―。

 日は傾きかけていた。

 雨が降り出しそうな灰色の空に、空気は冷えて、埃くさかった。


 新渡戸教諭による「東大を目指した補習授業」は継続されていた。有働の成績は下の下から、中の上まで上がっていた。理解できる範囲が増えれば知識欲が湧く。新渡戸教諭の教え方の巧さも手伝い、有働自身、勉強が前よりも好きになっていたし「つとむ~東大目指すの、エミ応援してるよう」と言うエミの存在もあって、やれるところまでやってみようという気になっていた。


「夏までには、とりあえずトップになってもらう。そのためには」


 …と鼻水を啜りながら新渡戸教諭がこの日、渡してきた「今週中にこれだけの単語を覚えるんだ」という英単語帳をめくりながら、有働はバスから下車した。すると「あのう、すいません」と誰かが声をかけてきた。


「有働努さんですよね。はじめまして。往訪高校1年の、徳園勝(とくぞのまさる)です」


 自宅へ向かう足を止め、単語帳から目を離す。


「誰だよ?」


 有働は振り向いた。


 顔立ちのはっきりした徳園勝という少年は、たしかに往訪高校の生徒らしい。かつての誉田と同じ校章をつけた学ランを着ていた。だが、ボタン、ホックはすべて閉じられていて、いわゆる不良高校に入れられた真面目な生徒といった風情だった。

 それはそうと「徳園(とくぞの)」という苗字、どこかで聞いた事があったな、などと有働が考えていると、その少年―、勝は言葉を続けた。


「殷画高校の毒殺計画を阻止して…中野のコンサート会場で2000人を救ったのも有働さんですよね。ネット上ではバレバレですよ。うちのオヤジも実は、殷画高校出身なんですけど、有働さんのことを感心していましたよ」


 勝は笑いながら言った。


(また、それか)


 有働は溜息が出た。

 マスコミ関係者を除き、一般人による興味本位の「おっかけ」はこれで21人目だった。


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 冬貝久臣率いる60人余の半グレによる、年末のスーサイド5エンジェルズのカウントダウンコンサート占領事件。


 ディレクターの判断により、事件が起きてすぐに、ネット中継は配信停止となっていたが、客席からスマホで現場を録画していたファンによって後日、有働と冬貝らグループの一部始終が流出してしまった。


「有働!」


 緊張のあまり、あの時、会場で有働の名を呼んでしまったのは春日だった。


「すまねぇ、あのままじゃ、犠牲者が出そうだったからよ」


 すまなそうに謝る春日に何も言えなかった。まさか名前をそのまま呼ばれるとは思わなかったが「やばそうになったら起き上がるタイミングを合図してください」と皆に頼んだのは有働自身だった。


「有働って、あの有働か?なんか前ネットで有名人になった高校生がいたよな」


 そんな噂が広まり始めた矢先、ある音響学専攻の大学院生が、内木のブログ上に載せられていた生徒会長立候補時の有働の肉声を声紋分析し、コンサート会場で勇敢に戦った肥満青年と99.99%同一人物であると発表したことで、祭り騒ぎとなった。


 誰かが半分ふざけて作ったのだろう。内木のホームページにも貼られてる「レスキュー戦闘隊イレブンナインズ」のテーマ曲に合わせ、デブに変装し冬貝らと肉弾戦する有働の姿と、生徒会長立候補時の精悍な顔つきの有働それぞれが、イレブンナインズに出てくる悪役キャラと戦うMADムービーが出回った。


 有働はネットでそれを見つけるたび、寒気を堪えながら削除依頼を申請している。


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「勘弁してくれ。救ったわけじゃない。あれは皆が戦って制圧したんだ」


 有働は、勝に向かって、厄介払いのように右手を振り回した。


「自らの危険を顧みず、事態を収拾させた統率者。誰にでもできることじゃないですよ」


 勝は目を輝かせながら言った。有働は無視して歩き続けた。


「俺を助けてください。入学してから同じクラスのヤンキーに毎日のようにカツアゲされてて…辛いんです。今日もオヤジの財布から2万抜いて、奴らに渡しました」


 勝は有働の前に立ちふさがると、これ見よがしに、長い前髪をかきあげた。そこにはいくつか青痣があった。よく見ると唇の端が切れて血が滲んでいるのも見えた。


「おいおい、俺を何だと思ってる」


 有働は勝を押しのける。


「内木さんのブログにも書いてあるじゃないですか。有働さんは人助けをする正義のヒーローだって」


 勝はそれでも引かない。有働の前に立ちふさがった。


「人助け?そんなのとっくに止めたよ」


 これが、有働の本音。事実。現状だった。


「またまた…。大勢に助けてくれと、押しかけられたら日常に支障をきたしますよね。そうやって謙遜する気持ちも分かります」


 言いながら目尻が垂れる。勝は、眉や睫毛はもちろん、顔立ちそのものが濃かった。有働は、勝の顔に似た誰かをテレビで見た記憶があったが、それが誰かは思い出せなかった。


「俺がどういう人間か知ってるのか?偽善者だよ、偽善者」


 有働は吐き捨てた。


「善人ぶらないところが、またいい!お願いです!俺を助けてください。このアザを見ても分かるように毎日、毎日、殴られたり蹴られたり…」


 勝は一歩も引かない。


「お前を助けたところで、何か見返りを用意できるのか」


「え?」


「お前みたいに利用価値のない人間は助けないんだよ、俺は。それに、もう偽善者でいる理由はとっくに無くなった」


 莉那に振り向いてもらいたくて、ひたすら偽善活動をした日々。

 懐かしくも思わなかった。

 ただ、ただ、滑稽なだけだった。


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 勝は呆然と立っていた。

 表情を失い、突き放されたまま、立っていた。


 有働は、勝を押しのけ前を歩いた。有働に向かって長く伸びた勝の影から逃れるように、さっさと進んだ。


「俺には、関係ない」


 角を曲がってから、有働は呟く。


「いじめくらい、自分で何とかしろ」


 さらに、進みながら呟いた。


(俺を助けてください。入学してから同じクラスのヤンキーに毎日のようにカツアゲされてて…辛いんです)


 先ほどの勝の言葉が蘇った。


「わざわざ俺にそんなこと言うんじゃねぇよ」


 有働はボタンひとつで、解決することができた。


(お願いです!俺を助けてください。このアザを見ても分かるように毎日、毎日、殴られたり蹴られたり…)


 勝の顔を思い出す。髪で隠れた部分は痣だらけだった。校舎の裏でヤンキーに拳で額を思い切り殴られる姿が思い浮かんだ。


「いちいち、うるせぇよ」


 面倒なことを聞かされてしまった。寝覚めの悪い日々を暮らすか。あの角の向こうで、まだ勝(あいつ)は突っ立ってるだろう。有働は溜息を吐いた。


「今度からイヤホンして歩くしかないな…」


 溜息まじりに、有働はスマホを取り出し、高校卒業後も、往訪高校に強い影響力を残す誉田の番号を呼び出した。


「誉田さん、元気してますか。ちょっとお願いがあってかけました」


「おう!先月、権堂を、空港で見送った日以来だな。どうした」


 学生じゃなくなった誉田は、仕事もせず部屋にいたのだろう。明るい誉田の声のうしろで、AV女優の演技がかった喘ぎ声がうっすら聞こえた。「おっと」と言いながら、ズボンを直すような振動が聞こえたので、マスでもかいていたのかもしれない。


「往訪の1年で徳園勝って奴がいると思うんですが、カツアゲされてるみたいなんで、何とかしてやってくれませんか?ネットの噂を頼りに俺んとこ来て、泣きつかれてたまったもんじゃないですよ」


「今やお前は、2度も凶悪事件を解決したヒーローだもんな。俺がお前の立場なら、女とがんがんヤリまく…」


「やってくれますか?ムリですか?」


 有働は誉田の言葉を遮って、結論を求めた。


「まぁ、俺としては、カツアゲされる側にも問題アリって考えだが、お前からそう聞かされたら動くしかねぇな。それに往訪の問題をお前のところに流しちまって面目ない気持ちもあるしよ。3年の強面(こわおもて)どもに言って何とかさせとくわ」


「偶然を装って解決して欲しいんです。俺が、あいつを助けたとなると、後々、面倒な事になってイヤなので」


「有働、お前もいろいろ面倒な事情を抱えてんだな。分かったよ」


「すいません。お手数かけます」


 誉田の笑い声の途中で、通話を切った。

 溜息が止まらない。

 角の向こう側では、勝はまだ突っ立てるだろうが「もう心配いらないぞ」なんて言ってやるつもりはなかった。


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 翌日―。

 18時過ぎ―。


「有働さん、ありがとうございます」


 24時間ぶりに、めんどくさい奴が話しかけてきた。


「またお前か。今度は何だよ」


 有働は勉強に集中するあまり、イヤホンをせずに歩いた事を悔やんだ。

 数学の参考書を閉じる事はしなかった。有働は勝を押しのけ、自宅に向かい、歩き続けた。


「あいつら、手出しできなくなって悔しがってましたよ!有働さんが、誉田さん経由で手を回してくれたんですよね?」


「さぁな、知らん。さっさと消えてくれ」


 有働は舌打ちを堪えた。

 確かに、昨日の今日のタイミングで解決すれば、どんなバカだって誰の差し金が気づく。面倒ごとを遠ざけたい一心で、考えが至らなかった自分をひどく嘆いた。


「そうだ、俺を有働さんの舎弟にしてくださいよ!それと、あいつらにはこれまでの恨みが沢山あるんで、仕返しするの手伝ってくれませんか?」


 勝が有働の前に立ちふさがった。


「おい、お前」


 有働は、勝の胸倉を思い切り掴んだ。


「あんま調子に乗るな」


 吐き捨てるように言った。


「え」


 勝の顔に怯えが走る。内木にも共通する、長年、同世代からの暴力に晒されてきた人間の顔だった。


「調子こくなって言ってんだよ」


 有働は、勝に言った。


「自分で解決できなかったことを恥ずかしいと思え」


 何も言い返せない勝。その胸倉を掴む手に、さらに力がこもる。さすがに殴りはしないが、有働の怒りは消えなかった。


「すいません…」


 やっと言葉を発した勝は震えている。泣き出しそうだった。

 有働は、勝の胸倉から手を離した。


「じゃあな」


 冷たく言い放つと有働は再び数学の参考書を読みながら、歩いた。


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 4月17日(金)―。

 20時ごろ。


 風呂上りに10分ほど前にかかってきた春日からの着信に気づく。

 かけ直すと、2コールで繋がった。


「おい、辰前でボヤ騒ぎがあったぞ。メシ食いに行こうと寄ったらパトカー停まってるし…今から来れないか。景子さんひとりじゃ大変だろうし、俺らじゃ何していいか分からないし」


 春日は興奮ぎみに声が震えていた。景子、とは権堂の母の下の名前だった。


「嫌韓主義ですか」


 有働は少し考えたあと言った。


「だろうな。客がいないのを見計らって、店内に火炎瓶を投げつけたらしい」


 春日の怒りがひしひしと伝わってくる。


 総理が暗殺されてからここ数ヶ月、日本国内の韓国人へのアレルギーは凄まじいものがあった。「侵略者どもを国外へ追放しろ」「奴らはテロを企てている」などと言いながら、特別永住者に対する大小のいやがらせは日本各所で起こっていて、その中でも傷害や殺人未遂などの大きな事件は社会問題として報道された。


 権堂の母は、父の世代で帰化済みの日本国籍だったが、親しい一部の人には「キョンジャ」と母国読みで呼ばれることもあり、また店内には民族衣装を着て笑う彼女の写真が、いくつか貼られていた。それをどこかで聞きつけたであろう嫌韓主義者は、日本の敵国人として「辰前」を襲撃したのだ。


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 有働が「辰前」に徒歩で辿り着く頃には、夜の霧雨を赤く照らすパトカーが1台停まっていて、私服警官2名と、制服警官1名が権堂の母―、景子に店の外の駐車場で、調書を取っていた。


 店の駐車場から出てすぐ、道路側のブロック塀の傍で腕組みをしながら成り行きを見守っていた春日と久住に手招きをされ、有働もその位置に立った。


「ガラスの破損に、火炎瓶ですか。今年にはいって、市内で6件目です。警察としても早期解決を望んでるわけですがね~、その~」


 私服警官の間延びした声がここまで聞こえる。

 景子の右頬は赤く痣ができていて、エプロンの下は、黒いトレーナーと、スウェットの灰色のズボンという姿だった。


 有働は遠目から「辰前」の被害状況を確認した。椅子が散乱し、ガラスドアが割られ、店内の壁の一部は焦げていた。


「襲撃時は、たまたまお客が1人もいなかったようですが、ん~、ご近所にも目撃者はいないようですね~。それとですね~、とりあえず器物損壊、傷害で捜査しなければなりませんが、犯人に、その…なんといいますか」


 私服警官がボールペンに鼻の頭を搔いた。


「乱暴は…されそうになりましたが、抵抗したら逃げていきました」


 景子は消え入りそうな声で言った。クリスチャンなのだろうか、景子は胸の上で十字架のペンダントトップを握っていた。


「そうでしたか、失敬。では、今後も署の方で、何度かお話を伺うかもしれませんが、その時はご協力願います」


 パトカーは去っていった。霧雨を照らす赤いテールランプが闇に消えた後、有働らは呆然と立ち尽くす景子のもとへ寄っていった。


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「権堂さんにはこの事は?」


 景子にそう訊ねたのは春日だった。変わり果てた「辰前」を見ながら有働は、拳に力がこもるのを感じる。


 最初にこの店に入ったのは去年の10月だった。

 権堂と誉田の和解後、「辰哉のお友達?今日中に処分しなきゃいけないお肉がいっぱいあるから、特別タダでぜんぶ食べていいわよ」という景子の計らいで食べ放題にさせてもらった。その後も何度も何度も、この店には世話になった。その店内は暴徒によって無残な姿にされ、有働は権堂らとの絆まで蹂躙された気になった。


「辰哉には言わないで。あの子は今、やっと自分自身で何かを見つけようとしてるの」


 不安と恐怖の中にありながらも、景子は渡米した息子を気遣っていた。気丈な女性だった。今は亡き権堂の父親や前島さんは、彼女のそういった部分に惹かれていたのかもしれない。


「権堂さんにこの事は言いません。その代わり…こちらでボディガードを用意します。景子さんの身を守る為です。いいですか」


 頭を搔いて考え込んでしまった春日に代わって、有働は提案をした。景子は目を丸くしていたが、数十分後、そのボディガードは現れた。


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「はじめまして。遠柴です」


 駐車場に停車した後、白のレンジローバーイヴォークから降りてきたのは、遠柴とその部下だった。車内にまだ1人残っている。それは、出て行くべきか迷っているものの、ガラス越しに有働に手を振るエミだった。


「はじめまして。あの、有働くんとはどういったご関係で?」


 遠柴とその傍らの筋肉質な部下を見て、景子が訊ねる。彼らを筋者(すじもの)だと思っているフシがあるな、と有働は苦笑した。


「有働くんとウチの娘が交際してまして、なんと言うか」


 遠柴が頭を搔く。この男は多少、景子を女性として意識しているのかもしれない。ガラス越しに父親の様子の変化に興味を示したエミが、車外に出る。「娘です」と遠柴は、景子にエミを軽く紹介した。


「遠柴さんが、悪い連中から守ってくれますよ」


 有働は遠柴を改めて紹介した。


「守ってくださると言っても」


 当然の反応。30代半ばから40代前半と思しき景子は、か弱い少女でなく、大人の女性である。何をどう守るのか。


「任せてください。ウチの会社の間壁という男です。空手の世界選手権でランク入りした経験もあり、荒事にも慣れています」


 遠柴の部下―、間壁。筋肉質な身体にピッシリとしたスーツ。

 有働は、彼の身体能力を値踏みした。もし仮に自分が彼を倒す場合、多少、卑怯な手が必要かもしれない。つまり、ボディガードとしては合格ラインだった。


「そうですか。主人が他界し、ひとり息子も海外なので、心強いです。ちょうど従業員も1名ほしかったので」


「いえ、こいつにはウチから給料を出してるので、そちらに雇っていただくわけにはいきません。週に6日、タダで働かせてやってください」


 遠柴は本気で照れていた。相手が景子ではなく、70代の老婆であっても同じ事を言っていたであろうが、景子は女性として魅力があり過ぎた。変に下心を邪推されたらたまらない、と言わんばかりに、遠柴は少し困ったように照れながら、景子を守る提案を進める。


「そんな」


 景子は両手を口に添えて「まぁ、どうしたらいいのかしら」と言いたそうに、有働を振り返って見た。有働はそれに頷く。「安心のためですよ」という意味だった。


「ウス、よろしくお願いします」


 間壁は両腕を斜めにして一礼した。躾のされてる礼儀正しい青年に対して、景子は軽くお辞儀を返した。


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 春日や久住は帰っていった。

 遠柴らが景子の前で今後のあれこれを間壁に指示している間、エミと有働は、意味もなく店の近くの歩道をぶらぶらする。


「つとむ。勉強が忙しいのは分かるけど、もう5日も会ってないよう。もっと会う回数、増やして」


 前に立ったエミが、両手で有働の右手を握りながら言った。その手の平があまりにも冷たいので有働は両手でそれを握り返す。


「毎週日曜だけって決めただろ。毎日、会いたいのは俺だって同じだ」


 エミは大きな瞳を伏せたまま、何も言い返せない。それ以上はわがままになるからだ。


「参考書ばかり読んでる俺といても、一緒にいてもつまらないんじゃないか」


 有働の問いに、エミは何かを考えるようにして上を向いた。傘をさすほどでないにせよ、霧雨はやまない。エミは目に雨が入らないよう、反射的に俯いた。


「じゃあ一緒に勉強しようよ!こう見えてエミ、皆より半年先の勉強してるんだよう」


 そう言った後、数秒の沈黙。有働の返答に緊張してるのか、言い終えたあとエミはぐっと、ぽってりとした唇を結んでいた。


「分かった、それならいいだろう。でも勉強以外のことをするのは日曜だけだぞ。それと、一緒に勉強するのは、来週からでいいか」


 エミが抱きついてきた。いつもと同じ甘い香りがした。今年に入ってからエミは、有働が気に入ったと言った香水しかつけなくなっていた。


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 4月20日(月)―。

 18時過ぎ―。


「今日はこれで終わりだ。君の得意、不得意がはっきりしてきた。どうやら記憶や応用を必要とする科目は得意なようだが、現代文のように、情緒を必要とする科目が苦手なようだ」


 新渡戸教諭は、鼻の両方の穴にティッシュを詰め込みながら言った。


「情緒ですか」


「他人の恐怖心を操る事には巧みなようだが、喜怒哀楽、以外の微細な心の動きには鈍いようだな」


 新渡戸の皮肉。だが憎悪は含まれていない口調だった。

 有働の脳裏にふと、なぜか吉岡莉那の顔が思い浮かんだ。あの日以来、莉那とは、まったく喋っていないが、教室でたまに目が合うと哀しそうに俯いていた。


「鈍いというより、考えないようにしてるふしはないか。君は人間らしい時と、そうでない時がある」


 新渡戸教諭の言葉は、もはや勉強に対するアドバイスではなかった。


「いい加減、取り繕うのはやめなさい」


 意味が分からなかった。偽善者をやめて取り繕うのは止めたばかりだった。それとも偽善者をやめた今こそが取り繕っている状態とでも言いたいのだろうか―。


「明確な理由がないのに、衝動的に何かをしたいと思ったとき、自分の心に耳を傾けなさい。嬉しい、腹が立つ、哀しい、楽しい。これ以外にも無数に人間の感情というものはある。複雑なんだ」


「なにが言いたいのか教えてください」


「言葉では言い表せない。私は教師失格だな。だが、人間ってのは、そういう心情のときだってあるさ。なぜか最近、君はふわふわしたような、死んだような目をしている。私の生徒でも受験の為に部活を辞めた者たちがよくそんな目をしている」


「そうですか」


「世の中のこと、すべてに説明がつくわけじゃない。最初から理由なんてなくていいんだ。理由はあとで探せばいい。君が大事にしてた、趣味なり、スポーツなりを、勉強に支障がない程度やってみたらどうだね。君なら器用にこなせるだろう」


 以上だ。と言って新渡戸教諭は生活指導室を出た。有働も鞄を引っさげて校舎を出た。


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 補習を終えた有働は、そのまま帰宅せず「辰前」に立ち寄った。間壁はボディガード兼、従業員を汗だくになりながら、粛々とこなしていた。ガラスドアは新しくなっていて、焦げた壁はタペストリーで上手にごまかしてあった。

 休憩に入った間壁と店の外で少しだけ喋ったが、ここ最近の情勢のせいか、客足は途切れ途切れであるものの、景子が生活に困らない程度の客足は向いてるようだった。


「襲った連中は見つかりそうですかね」


 有働が訊ねると、間壁は首を振った。

 警察もそれなりには動いてるのだろうが、事件から3日が経過してもいまだ犯人が検挙されたという報告はなされていないらしい。


 殷画には、かの暴君、権堂辰哉の実家を襲撃するようないかれた人間はいない。

 権堂本人が日本にいない今も、旧権堂組の幹部の何人かは極道へ就職し、権堂の帰国を待っているという。今回は事件そのものがボヤで済んだため幸運にも報道される事はなく、それに加え景子の意向で旧権堂組の耳には入れないようにしていたため、彼らが特に動くことはなかったが、権堂の地元での恐ろしいまでの影響力はまだ残っている。


 また誉田のいる往訪にも、地元ヤクザ若頭の息子、誉田虎文の友人、権堂辰哉の実家を襲うような向こう見ずな人間はいなかった。念のため誉田に探ってもらったが、それらしいグループは見つからなかった。


 残るは、椋井(むくい)だ。

 椋井は、殷画や往訪に並び治安の悪い地域で、傷害や器物損壊レベルの犯罪なら日常茶飯事、殺人事件もたまに報道されていた。権堂や誉田のような影響力のある強面は不在の町だったが、それだけに始末が悪い。思い思いの欲望のままに犯罪に走る若者が出てくるからだ。悪には悪の、裏社会には裏社会の統率者がいなければ、町そのものが無法地帯となる、といういいお手本だった。


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「ねぇ、もう来週になったよう。月曜だよ。いつになったら一緒に勉強できるの」


 少し遅い夕食を終え、部屋でエミからの電話に出た。有働は、適当にごまかした。「辰前」襲撃事件が気になって、エミと勉強どころじゃなかった。補習を終えた放課後は、自分なりに動いてみようと思った。


(俺に何ができる。偽善者なんて、とっくに止めたのにな)


 エミが一方的に何かを喋る中、そう思いながら有働は自嘲気味に口を歪めた。だが、権堂らとの思い出の詰まった「辰前」の無残な姿を思い出すたび、はらわたが煮えくり返り、手のひらに爪が食い込んでいった。


(クソ野郎どもが)


 小さな焼き肉屋の女店主を狙った卑劣な犯行。襲撃グループが、景子が韓国の血を引いてると断定した材料は店内の写真などからだろう。店に来た事があるか、噂が届く距離か。景子を襲った犯人は小喜田内市の人間の可能性があった。やはり椋井を調べる必要がある。


「金曜まで待ってくれ」


 エミは無言になったが「分かったよう」と言った。その後、数十分間、学校の友達の恋愛事情の話など聞かされた。


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 それから有働は、3日連続、補習を終えたあとまっすぐ帰宅せず、バスを使って椋井まで赴き、方々の地元の強面どもに話を聞いて回った。いやな顔をする者、けんか腰の者には、一発か二発くれてやった。できの悪い連中には肉体言語が有効だ。


(以前の俺だったら、偽善活動の一貫で、この椋井も制圧していただろうな)


 地元のヤンキーをボコボコにしながらそんな事を考えていた有働に、鼻血を噴きながら、涙目で口を開く男がいた。


「椋井運動場ちかくの駐車場に、週末の夕方にたむろってる奴らが、嫌韓主義だってのは聞いた事がある。今週の金曜もたぶんいる。大型の黒いバンに旭日旗のステッカーが目印だ」


 有働は、鼻血男からそいつらの特徴と人数を聞くと、礼に万札を一枚握らせた。有働の残高は900万円以上ある。そこまで痛手ではなかった。


「あざっす」


 暴力と、温情。いくらかの感謝の言葉でもくれてやれば、怖れおののき、そいつは二度と逆らわない。有働は飴と鞭を使い分ける天才だった。


「そいつらに会ってみる。人違いだったら、またお前に協力してもらうかもしれない。そん時は頼むぞ」


 数分前まで、有働の胸倉を掴んでいたヤンキーどもは、血まみれになりながらヘラヘラと笑って頭を下げた。やはり犬どもには躾が必要なのだ。権堂や誉田のような存在がいなければならない。とは言っても、この件が解決すれば有働にとって、この町などどうでもよかったが。


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 4月24日(金)―。

 18時―。


 補習を終え、バスを待つ間、お馴染みの香りがした。左側からその香りが濃厚になっていく。


「今日は逃がさないよう」


 鈴音高校の制服姿のエミがいた。バス停の前で、猫のような目を見開きながら両手はしっかりと有働の左腕を掴んでいた。振りほどく事はできない。だが、エミに約束させるべき事があった。


「ついてきてもいいが、遠くにいろ。いいな」


 何のことか分からない、といった表情だったが「つとむのいう事なら何でも聞くよ」とエミは笑って言った。


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 もうすぐ19時になろうとしていた。


 何本かのバスを経由しやって来た、椋井運動場近くの駐車場―。

 エミはブロック塀の向こう側に待機させてある。これからの荒事に巻き込ませたくないし、エミの顔をそいつらに見せたくない。エミは有働にとって弱点になっていた。


 あの時、ヤンキーどもが言ってたように、黒い大型のバンが1台だけ停まっていた。旭日旗のステッカーも貼ってあった。

 周囲の影の数は8つ。有働は黒のパーカーに手を突っ込んだまま、そいつらに向かって歩いていった。


「市内で、くだらない襲撃をしてるのはお前らだな」


 フードを被ったままの有働は、8人に向かって言った。至近距離になってそれぞれの顔の判別がついた。そいつらの印象―。半グレとまでは言わないが、それなりに荒事に慣れてる連中だろう。突き刺さるような視線が一斉に有働に向けられた。


「はぁ?誰だお前」


 8人の中で一番強そうな男が言った。身長は185以上で、筋肉質な身体がグリーンのジャージ越しにも分かる。ボクシングか何かをやってるのかもしれない。体脂肪率も低そうだった。頬は引き締まってカマキリのような鋭敏な顔つきをしていた。


「では質問を変える。焼き肉屋の辰前を襲撃したのは、お前らだな?」


「だとしたら、何だ」


 カマキリ男は笑いながら言った。


 クロだ。確信した有働は、カマキリ男の腹に膝蹴りを食らわせた。

 そして、崩れ落ちるカマキリ男の髪を右手だけで鷲掴みにしながら、他の7人を睨んだ。他の7人はリーダーの無様な姿を見てすぐに戦意を喪失していた。


「お前そこの女店主に乱暴しようとしたよな。あの人は俺の友人の母親なんだ」


 苦しみながら、胃液を吐き出しながらカマキリ男はあまりにも不自然に目を逸らした。


(この目の逸らし方。こいつが権堂さんの母親を乱暴しようとした男だろう)


 有働は確信した。自らの髪を掴む有働の右手をどけようとしたカマキリ男の左薬指にはペアリングが光っていた。


「お前、オンナがいるようだな」


 有働は口の端を歪めながら言った。


「あ?」


 カマキリ男の顔に怯えが走る。有働は右手で髪を鷲掴みにしながら、左手の人差し指でカマキリ男のペアリングをつついた。カマキリ男は言わんとする意味が理解できたのか、視線を左右に泳がせた。


(こういう奴は恐怖で支配するのが一番だ)


 有働は、どうせなら、このカマキリ男に、思いつく限り、暴力的な脅しをかけてやろうと思案した。これまでに出会ったゲス野郎たちを思い出す―。


 もし、不破勇太ならどんな事を考えるか。もし、冬貝たちだったらどういう脅し方をするか。そして逆に自分がされたらイヤな言葉を思い浮かべた。


「次にまた、ここらで襲撃事件が起きたら、お前のオンナを拉致(さら)って、犯してやる」


 虚仮威しの演技だった。だが、言葉は有働が思うよりもスラスラと出てきた。


「あ?」


 カマキリ男が威嚇してきた。


 有働は、鷲掴みにした右手はそのままで、カマキリ男の鼻柱に左の拳を叩きつけた。「あ?じゃねぇよ。聞こえてんだろう」そう言いながら有働は何度も何度も左拳を叩きつけた。飛び散る血飛沫。


「もう一度言う。次に襲撃事件が起きたら、お前のオンナを拉致(さら)って、気が狂うまで何度も何度も犯してやる」


「冗談だろ?おい」


 カマキリ男は鼻血を噴出させながら言った。


「俺が冗談を言うように見えるか?これ以上、お前がくさい息を吐きながら調子に乗るなら、お前の恋人や家族みんな同じ目に遭わせるって言ってんだ」


 有働は鷲掴みにした右手に力を込めた。頭皮が吊り上がり、カマキリ男の眉毛や目がおかしな形に変わった。


「分かった…あの焼き肉屋には二度と近づかねぇ。他の奴らにも手を出さねぇ」


 カマキリ男の目が赤くなる。泣いていた。


「それと、今日か明日にでも、自首しろ。何をしたのか警察にぜんぶ話せ。どうせ執行猶予がついて刑務所(むしょ)には入らないだろうが、あの無能な警察どもにも書類仕事をさせなきゃ気が収まらない」


 有働は言った。


「分かった…でもよ、まだ俺らは、誰も犯してねぇし、殺してもねぇ。あの女店主を殴って…その、抵抗されたからガラスを割ったんだ…壁に投げつけた火炎瓶だって…大火事はならなかったろ。ただの脅しだったんだ」


 カマキリ男はそう言いながら観念していた。


「そんなことは警察署で言え。それに…、まだだ」


 法で裁かれるのとは別に、個人的にきちんと落とし前をつけさせなければいけない。恐怖を植えつけねばならない。有働は思った。


「何だよ」


 カマキリ男の顔が強張る。


「これで、自分の左人差し指の爪を剥がせ。今ここでな」


 有働はポケットからペンチを取り出し投げつけ、わざと笑いながら言った。


「お、お前、アタマおかしいんじゃねぇのか?」


 有働はカマキリ男の髪を鷲づかみにし、ペンチを拾うと、笑いながらその右手にムリヤリ握らせた。


「俺の友人の母親に対してやった事への償いと、執行猶予がついた後も俺との約束を守り続ける意思を明確にするためだ。俺に信用されたいなら、やれ」


 カマキリ男みずから爪を剥がさせる事に意味があった。


「くそ」


 カマキリ男は泣いていた。握らされたペンチを、ただ見つめている。


「二度としませんと誓いながら、爪を剥がすんだ。やれ!」


 有働の恫喝。カマキリ男は泣きながら怯えていた。そして、観念したように肩を落とした。


「分かったよ…」


 カマキリ男はペンチを右手に握り「二度としません、二度としません」と悲鳴をあげながら自らの左手人差し指の爪を剥がし始めた。爪の3分の1が血に染まる。


「そうだ。偉いぞ。ゆっくりと痛みを味わいながら剥がせ」


 有働に言われるがまま、カマキリ男はペンチに力を入れ引き剥がす。爪と共に肉が裂け、鮮血が灰色の駐車場のアスファルトを濡らす。


「そこで見てるお前ら全員も、財布から免許証を出せ」


 吐き気を堪えながら見ていた他の7人も、充分すぎるほど怯えきっていた。カマキリ男による「二度としません」という苦痛の叫びは、まだ止まない。


「さっさと出せつってんだよ。ぶっ殺すぞ」


 有働はカマキリ男から離れると、カマキリ男の次に強そうな、身体の大きい男の鳩尾に、思い切り蹴りをめり込ませ、怒鳴りつけた。


「おっと。手荒なマネをして、すまん。できれば平和的に解決したい。爪を大事にしたい奴は財布を地面に投げろ。俺が直々に免許証を確認してやる」


 有働は低い声で、頭の悪い子供に算数を教えるような口調で言った。


 他の6人が慌てて自分たちの財布を地面に投げつけている間、有働は、ようやく爪を剥がし終えた血まみれのカマキリ男と、蹴られた痛みにのた打ち回ってる男の、それぞれの後ろポケットから、財布を取り出し、免許証を確認した。


「いいな?お前らも次にまた舐めたマネしたら、家族や恋人がどうなるか覚えておけ。他の仲間も使って、あらゆる手を尽くして、報復するぞ。これはマジだ」


 有働はにこやかに言った。男たちは怯えきっていた。


「なぁ。あ、あんた…何人だ」


 誰かが聞いてきた。


「日本人だ。お前らは何人だ?暇人か」


 有働は、それぞれの免許証をスマホで撮影した。名前や住所を知られてしまった8人は、各々うな垂れていた。


「こうなったのは自分のせいだと諦めろ。自首した際も、警察には俺のことは一切話すな。話したら、どうなるか分かるよな。頼むからこれ以上は俺を怒らせないでくれよ。な?」


 左人差し指の爪を丸々1枚失い、泣いている血まみれのカマキリ男に向かって、有働は肩を優しくポンポンと叩いた後「ほらよ、治療費だ」と1万円札を3枚投げつけて、去った。


「本当に、す、すいませんでした」


 誰かが後ろで言ったが、有働は振り返ることはしなかった。


(お前らが悪いんだ)


 有働は心の中で毒づいた。

 溜息が出た。

 だが、権堂の母親がこれ以上、危険に晒される事はないだろうと思えば、安いものだった。


 有働が去ったあと、入れ違いで、土建屋か何かの会社名が入った薄汚れた白いワゴンが駐車場にやってきたが、間一髪、トラブルを第三者に目撃される事は免れた。


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「カッコ良かったよ。でもさ、さっきの発言、マジじゃないよね?」


 駐車場から離れたところで、エミが追いかけてきた。当然、一部始終を見ていたはずだ。


「何がだ」


「エミ以外の女の子を犯さないでよ」


 泣きそうな顔で有働を見つめる。夕闇で白い目が光っていた。睫毛が濡れている。


「当たり前だろ。あれは脅しだ」


 有働は笑った。


「良かった。これからもエミだけを、いっぱい犯してね。大好き」


 有働の左頬に柔らかい唇の感触。


「高校を卒業したら、結婚しよう」


 エミと手を握り合う。有働の左手はエミのものだった。


「うん。子供いっぱいつくる」


 子供のように笑いながら言った。


「ばか言うな。学生結婚だぞ」


「パパのお金があるもん」


「そういう問題じゃない」


 有働は頭を掻き毟った。


「年をとるまで死なないでね。エミも何があっても、死なないから」


 今度は大人びた口調で言った。背筋に一瞬、寒いものが走った。


「急になにを言ってる」


 エミは鼻を啜っていた。


「人のために動くのもいいけど、今までどおりのムチャはもうしないで」


 今までどおりのムチャが、どこからどこまでの偽善活動を指すのか分からないが、とりあえず有働は頷く。


「俺が動くのは、勝算があるときだけだ。せいぜい半グレの相手がいいところだ。それに、もうトラブルには巻き込まれないだろ」


 本音だった。平和が一番だ。


「ここに婚約者がいることを忘れないでね」


 有働はエミを抱き寄せながら歩く。


「明日からうちで一緒に、勉強しよう」


 うん。とだけエミは言った。


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 4月27日(月)―。


 朝のニュース―。

 朝ご飯をつつきながら、父は新聞を、有働は現代文の参考書をめくっていた。


 韓国の日本大使館が、靖国問題を糾弾する現地人によって襲撃された。死傷者はいないが、小火がおきたとの報道。

 そして、K県小喜田内市の特定民族を狙った連続襲撃事件のグループが自首した旨が報道された。


 琴啼総理は「梅島は日本の領土」という見解を記者たちに再確認され、改めて頷いた。これまでにない日本国総理の強い姿勢や、梅島へのこだわりを見た日本国内外では「梅島にそれほどの価値があるのか」という論争が巻き起こった。


「これ以上は国交上も、経済的にも打撃です。何の得にもならない。なぜそこまでして総理は梅島にこだわるんでしょうかね。米国のあそこまで日本だけに加担するような姿勢も理解ができない」


 その後も、コメンテーターによって、世界情勢の不安を煽るようなことばかりが語られたが、有働にとっては、参考書を1枚でも多く、めくる事の方が重要だった。

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