第24話 楽園への帰還

 韓国・首都・ソウル市―。

 面積605.21平方キロメートル。

 総人口1000万人 。

 国民のほぼ半数が集中する大都市―。


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 4月27日(月)

 19時―。


「おとうさん、おかえり~」


 ソウル市内にあるアパートの202号室のドアを開けるなり、3才になる娘が駆け寄ってきた。キムは、何枚か履歴書が入ったままの薄っぺらな鞄を玄関に置き、娘を抱きかかえた。


「ただいま。ちゃんとお薬飲んだかい」


 キムは娘の小さな鼻をつまみながら言う。


「今日も調子がいいみたい」


 鍋を煮ながらの妻の声。娘の小児喘息の発作はここ最近、現れていない。


「そうか」


 キムのメガネを小さな手で掴む娘をあやしながら、鍋の材料に想像をめぐらせた。


「新しいお仕事、見つかりそう?」


 先月下旬に日本人が経営する洗車場が、反日の暴徒の襲撃によって閉鎖されてから、それがずっと夫婦の会話になっていた。


「残念ながら今日はだめだった。明日、チョウと会って職がないか頼んでみようと思うんだ」


 キムは娘を床に降ろしながら言った。


 チョウは、40年近い付き合いになる幼馴染みだった。小学校までは一緒だったが、中学からは進学校へ通うようになり、今や総合病院の外科で勤務している。


 チョウに電話したのは3日前だった。

 数年ぶりの会話だったが、お互いすぐに少年時代に戻った。

 近況を伝え合う流れで、キムは恐るおそる、チョウに「いい仕事はないか」と切り出してみた。「病院の清掃員の仕事ならあるぞ」とチョウは言ってくれた。そして「身体の調子はどうだ」と聞いてきた。ただの世間話のつもりだったのだろうが、キムの数秒の沈黙に異変を感じたのか「職を世話してやる代わりに、ウチで診察うけろ。いいな?」と約束させてきた。

 長い付き合いだ。もうじき、キムは、自分の父親が癌で他界した年齢に達する。チョウの言葉には有無を言わさぬ響きがあった。


「日本人の会社だけはやめてね」


 妻は鍋の火を止めて、キムの横顔を見ながら言った。


「ああ。また暴動で店が潰れたら、たまったもんじゃないからな」


 手の平に汗が滲む。店が潰れるとか、それ以前に自分がいつまで働けるか。それを考えると背筋が寒くなった。


「そういえば、お隣のリーさん。昨日の夜、血まみれになって帰ってきたわよ。たぶん、あれは本人の血じゃないわ。たぶん…」


「おとうさん、いっしょにテレビみよ」


 キムの脳裏に、粗野な隣人、リーの顔が一瞬浮かんだが、天使のような我が娘が目の前に現れ、目尻が下がる。


「いいよ、一緒にみよう」


 右足にまとわりついた娘の手を握りソファに座った。テレビでは野生の動物特集がやっていた。


「ねぇ、せかいでいちばんこわいどうぶつは、なに?」


 娘はテレビより父親との会話をほしがっていた。


「さぁ、どうだろうね」


 答えは分かっている。ニュース番組にチャンネルを変えれば、すぐに分かる答えだった。


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 翌日―。

 11時30分―。


「じゃあ、行って来るよ」


 キムは昨夜の鍋の残りを胃に流し込むと、そう妻に言い、玄関まで指をしゃぶりながら見送ってくれた娘の頭を撫でてから202号室を出た。


 幼馴染みに就職の世話をしてもらうとは言え、一張羅のスーツを着込んだキムは1ヶ月ぶりに社会に復帰できたような気持ちになった。


 階段を昇る音。若い女の悲鳴もいっしょに聞こえた。


「おい、おっさん何見てんだ」


 現れたのは201号室のリーだった。咥え煙草のまま、でっぷりした体つきにだらしないポロシャツを身に纏い、右側に小柄で髪の長い若い女を抱きこんでいた。女の顔は涙で濡れている。化粧からして商売女ではないのは明らかだった。


「たすけて」


 女はキムに向かって言った。イントネーションがおかしかった。キムには分かる。これは日本人の訛り方だった。


「さっさと行け。誰にも言うんじゃないぞ。言ったらお前の女房と娘がどうなるか分かってるな」


 暑がりなリーは額に汗を滲ませながら、煙草を廊下に投げつけて言った。ヤクザの下っ端のような仕事で食い扶持を繋いでるチンケな男だったが、その生活は暴力にまみれている。よって、この発言は、ただの脅しではなく、予告であると理解できた。


「いや、たすけて」


 キムは女を見た。おそらく旅行者だろう。実際、日本人女性を狙った強姦事件は少なくない。そういう報道を見るたびに恥ずかしくなったし、自国について、そんな印象を日本に与える一部の連中に対して許せない気持ちがあった。


「なぁ、なんでそんな事をするんだ」


 精一杯の抗議。キムはリーの瞳を見つめ、彼の中に残る人間性に問いかけた。


「この女は日本人だ。家畜以下だ」


 リーは鼻を膨らまし、女の胸を揉みはじめた。妻が見たという、リーの浴びた返り血は、どこかの日本人たちが流したものだろう。

 キムは先月まで一緒に働いていた日本人たちを思い出す。国がどこであろうと、言葉が違えど、民族がなんであろうと、人は人だった。誰かが誰かを傷つけていい理由にはならない。


「日本人だからって…」


 キムの心臓が早鐘を打つ。ここ最近の体調不良がぶり返してきた。妻に内緒で今朝も、便所で何度も嘔吐していた。また吐き出しそうだった。


「おっさん、お前は何も見なかった。いいな?」


 リーは脂汗をかくキムに対し、それを自分に対する怯えと捉えたのか、一方的にそう言うと女を引きずりまわし、部屋の鍵を開け始めた。


「いや!たすけて!」


 女の悲鳴。


「うるせぇ!黙ってろ!淫売が」


 ドアを閉める音が廊下に響く。日常と悪夢を隔てた扉が、そこには厳然として存在していた。


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「なんて日だ…」


 キムは、あの女性が乱暴される前にすべてを解決しなければならないと思った。廊下ではリーが投げつけた煙草の穂先が燃えている。

 201号室のドアの脇には新聞の束が積まれている。おそらくリーは新聞など読まない人間だろうが、身内か何かの付き合いで取らされてるのかもしれない。


 リーが投げつけた煙草をハンカチでつまみ、拾い上げると新聞紙の束の上に穂先をくっつけた。

 チリチリ…チリチリ、と炎が燃え移る。新聞紙が黒く染まりながら煙をあげた。


「もしもし、消防署ですか。隣で火事が起きてます。場所は…」


 女の悲鳴が聞こえる。まだ抵抗の段階だろう。消防署はここから近かった。キムは慌ててアパートを飛び出し、外から成り行きを見守った。本当に火事になったら妻と娘の危険が出てくるからだ。


 数分後、消防車が到着し、さらに数分後警察が到着した。

 中から出てきたのは手錠をかけられたリーと、保護された女性だった。女性の着衣に乱れがないのを確認すると、キムはほっと胸を撫で下ろした。


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 同日―。

 12時過ぎ―。

 ソウル市内総合病院―。


「大腸から肺、そのほかにも全身に転移している…。末期癌だ。なぜもっと早くに来なかった。ずっと体調がおかしかったはずだぞ」


 キムは、真っ白なレントゲン写真を掲げた白衣姿のチョウに、無機質な診察室で、いともたやすく死刑宣告をされた。

 2年ぶりに会う幼馴染のチョウは、相変わらず鏡に映るキムの顔よりもずいぶん若かった。


「すまん」


 キムは診察室の椅子に座ったまま、頭を垂れる。チョウの傍らにいる若い女性の看護師は決まり悪そうに天井を見上げていた。


「俺に謝られてもな。これじゃ、病院の清掃員の仕事だって紹介してやれない」


 チョウは目頭を揉んだ。感情を堪えてるようだった。


「頼む」


 頭を上げることはできなかった。キムは、生命保険には加入していない自分を悔やみながらも、少しでも稼いで妻と娘に金を残してやりたかった。


「お前の命は、あと2ヶ月ってところだ」


 ポールペンをカルテの上に放り投げる音が聞こえた。チョウは感情を制圧し、キムの目をまっすぐ見つめていた。目頭は赤かった。


「頼む」


 壊れたカセットテープのように、何度だって言うつもりだった。


「長い付き合いだ。お前の家庭の事情はよく分かってる。友人として気がとがめるが…。お前が自分の2ヶ月の寿命を捨て去るというなら、法外な金額のアルバイトを紹介してやらんこともない」


 チョウは再び視線を床にやった。何か気が進まない話を始めようとしているらしい。


「何だ?何でもやる。言ってくれ」


 残された道はなかった。キムは、白衣を纏い高級腕時計をはめた幼馴染に縋った。


「いいか。これは極秘のアルバイトだ。契約すればその場で、エリート大卒の医師や弁護士が一生かかって稼ぐだけの金額が、お前の家族の口座に振り込まれる」


 チョウはキムの目を見つめた。その濡れた黒い瞳にはキムが小さく映り込んでいた。


「やる!やらせてくれ」


「卓島の研究所で行われる、治験のようなものだ。だが、ほとんどの人間が死ぬ。お前が死んだ場合、勤務中の火災事故として処理され、遺体は家族のもとへは戻らない。もっとも賠償金は家族に支払われるがな」


 チョウは溜息を押し殺し、言った。

 卓島―、日本では「梅島」と呼ばれていて領土問題となっている。だが、あの島は漁業水域としての価値はあれど、資源も何もない島のはずだった。自国が占有しているのは知っていたが研究所など内密に設立していたとは思いもよらなかった。


 だが、今はそんなことはどうでもいい。


「どうせ2ヶ月の命だ。娘は喘息を患っていてまだ幼い。女房もろくな仕事にはつけないだろう。やらせてくれ」


 キムはチョウの肩を両手で揺すり、言った。


「最後まで、話を聞け。ほとんどの人間が死ぬが、死なないケースもある。その場合が、さらにやっかいだ」


 チョウはキムの両腕を掴み、まっすぐ向き合ったまま話を続けた。いつの間にか看護師は姿を消していた。


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 4日後―。


 5月1日(金)―。

 10時30分―。


「あなた、ちゃんと来年になったら帰ってくるわよね」


 キムがボストンバッグに着替えや諸々を詰め込んでいると、妻が心配そうに声をかけてきた。

 妻には1年間、中国の工場に出稼ぎに行くと言ってある。妻に大きな嘘をつくのは覚えている限り、これが初めてだった。


「ああ。ときどき電話もするよ」


 キムは嘘が苦手だった。荷造りに忙しいふりをして妻と目を合わせずにいた。


「あと、お金が振り込まれたら、すぐにでもこのアパートを引き払うんだ」


 妻が頷くのが気配で分かった。数日前に201号室のリーに脅された挙句、消防車を呼んだ顛末はすでに話してある。


「おとうさん、あのね。おかあさんがね、どうぶつでいちばんこわいの、ライオンさんだっていってたよ」


 娘が駆けてきた。大切なものをあと少ししたら手放さなければいけない。涙が滲んできた。


「この子ったら、動物の話ばっかりよ」


「一番、怖い動物は~、熊さんかもしれないぞ~?いや、ワニさんかもしれないな~?」


 キムは妻に表情を悟られまいと、背を向ける形で娘を抱きかかえる。


「ええ~、おかあさんがいってたのとちがうよ」


 娘は小さな指先でキムの目頭に触れた。父親の涙の理由は知るよしもなかった。


「そうだ、時間もあるし、動物園に行こうか」


 元々、家族3人でいいレストランに行くつもりだったが、どうせなら娘に本物のライオンを見せてやりたいと思った。


 バスで10分ほどの場所に動物園、植物園、美術館、映画館などを有するS大公園がある。娘がまだ乳飲み子だったころに何度か足を運んだが、物心がつくようになってから家族で足を運ぶのははじめてだった。


「やったぁ」


「良かったわね」


 妻が娘に着替えさせている間、吐き気を堪えたキムは洗面所で身体に麻薬パッチを貼った。チョウに処方してもらったものだった。これで全身を癌細胞に蝕まれる痛みから、しばし逃れる事ができる。


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 12時過ぎ―。


「ライオンさんだぁ。おとなしいよ」


 檻の中でオスライオンが欠伸をしている。金曜の昼という事もあって客はまばらだった。愛想のない顔でメスライオンはプイと向こうへ去っていった。


「テレビで観たライオンさんと違って食べ物が充分にあるから暴れないんだよ」


「くまさんもみたぁい」


「いいよ。行こう」


 涙が溢れ出した。妻や娘に見られないように汗を拭くふりをして、そっと拭った。「キリンさんも、象さんもいるよ」と言おうと思ったが、声が震えて言葉にできなかった。

 明日の午前には、妻名義の家族用の口座に、中国の大企業から信じられないほどの大金が振り込まれる。妻は驚くだろうが「中国の企業はお金もちなんだよ。鉄や鉛を溶かす危険な工場だし、お金もいい。募集人数はたった5名だったからラッキーだった」と前もって言ってある。


(いや、それでもエリートの生涯で稼げる額の一括はムリがあるか)


 キムはそう思ったものの、他にいい嘘など思いつかないし、分割でなく一括で支払ってもらう事で、心置きなく死ねる覚悟を持てた。


 そんな気持ちをよそに、肩車した娘は、はしゃいでいた。妻はキムの左手をしっかり握っている。たとえ自分が死のうとも、家族だけは守り抜かなければならない。キムの意思は固かった。


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 夕方―。


 家族と空港で別れたキムは飛行機には乗らず、別ルートのヘリに案内された。


 卓島―、梅島にある研究所に到着してすぐ、様々な検査が行われ、その日は精神病棟のような無機質なコンクリートの壁で固められた個室で眠りについた。


 真夜中に目が覚めたキムの手には、動物園で娘が選んだ親子3匹のキリンのキーホルダーのうち、ヒゲの生えた「パパキリン」が握られていた。娘はリボンのついた「コドモキリン」を、妻はエプロンの「ママキリン」を持っている。


「はい、おとうさん」


 小さな手で渡してくれた娘を前に、震えてしまい「ありがとう」が上手に言えなかった事だけが悔やまれた。


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 翌日―。

 10時30分―。


 研究所の1階にある、応接室のような場所に通された。天井も壁も、テーブルもソファもすべて白かった。時計はなかった。

 永遠とも思える数分間にキムが耐えていると、ノックする音が聞こえた。


「やぁ、どうも。上海から来た、当プロジェクト出資者の、劉(りゅう)だ。契約書にサインをもらう前に、私から最終面談をさせてもらおうと思ってね。君の国の言葉で話すから、多少アクセントがおかしいかもしれんが、大目に見てくれ」


 目の前に現れた男―、劉は威圧感のある風貌をしていた。

 年齢はキムと同じか少し上、40代半ばから50代前半だろう。背はかなりある。180ほどあるキムよりも15cmほど高かった。広い肩幅を高級スーツで纏い、左腕には数千万はする高級時計が輝く。


 面長だが、知性のある二重瞼の双眸と筋の通った鼻は美男子の部類に入るかもしれない。肩まである長く豊かな黒髪は、オールバックで後ろに流されていた。


 だが、惜しむらくは、彼の唇の左端から左頬にかけてまっすぐ伸びた古い刃物傷の痕だった。傷はかなり深く、彼の口の左側を顔の筋肉ごと不自然に歪めていた。そのせいで、真顔なのにも関わらず、人を馬鹿にしたような笑いを常に浮かべてるように見える。


「お目にかかれて、光栄です」


 キムは、立ち上がり、握手をしながら劉に頭を下げた。


「まぁ、固くなるな。見たところ従順そうだし、ほぼ君は合格だ。世間話でもしながら、美味いものでも食べないか。おい、持ってきてくれ。もう煮込んであるよな」


 劉がそう言うと、銀色の厚手の大きな鍋が、ワゴンに乗せられやってきた。

 持ってきたのはシェフなんかではない。おそらく劉の部下だろう。サングラスにスーツを着た屈強な男だった。男は鍋をテーブルの上に置くと、一礼してどこかへ去っていった。


「私の生まれた村での、薬膳料理だ。わざわざ持ってきたんだぞ」


 キムは、ソファから身を乗り出し、鍋の中を覗きこんだ。そこにあったものは、理解を超えるものだった。


「何ですか!これは!」


 吐き気がこみ上げる。何の冗談だ、と叫びたかったが、口の中は今朝、研究所で出された朝飯が溢れ出していた。


「6ヶ月で中絶された女児だ。私の国では、人が増えすぎてね。地域によっては、産む事ができなかった胎児を、こうして滋養強壮のために食べる習慣がある」


 鍋に浮かんでいたのは形は少し小さいものの、赤ん坊だった。キノコ類や野菜と一緒に煮込まれて、色は灰色に変わり、ぐずぐずになってる箇所はあれど、人間の赤ん坊だった。手足を折り曲げ、まるで産湯に使っているかのように丸まっていた。


 キムは吐き気を堪え切れず、少しだけ床に粗相してしまった。


「ムリもない。だが、実験に入る前に、精力をつけておかなきゃいけないぞ。どうだ?」


 劉は笑いながら、くずくずになった肉を箸で掴んだ。


「いえ、けっこうです」


 もう、鍋の中身は見たくない。あろう事か、病院で産まれたばかりの娘を思いだした。鍋の中身の、あの肉も、きちんと出産されていれば、言葉を話し、親に甘え、時に拗ねる事もあっただろう。それだけではない。恋をして、母親になる未来だってあったはずだ。だが、彼女は今、肉として劉に美味そうに食われていた。


「そうか、ムリにとは言わない。話は戻るが、君は実験の概要については聞かされているかね」


 切り替えの早い男だった。劉は面談と言う体裁で、仕事の話を進めようとしている。


「ええ。だいたいは」


 やっと吐き気が治まり、キムは、自分の足元の吐瀉物の異臭の方が、あの鍋よりもマシだ、と劉に向き直った。


「これまでに100人以上の被験者が死んだ。君が生き残れば初の成功者だ」


 にべもなく、劉は言う。視線は鍋に向かっていた。


「生き残った場合…私は、どうなるんでしょうか」


 答えは知っている。だが、最高責任者による回答をキムは聞きたかった。


「荒唐無稽な映画のような返答になるが…」


 劉は箸を置くと、ズル、とそのまま手掴みで鍋の中の右足をもぎとり、口に含んだ。


「君は世界初の不老不死の人間となる」


 肉にむさぼりながら、劉は久しぶりにキムの目を見た。


「聞いてはいましたが、いまだ信じられません」


 信じられません、のイントネーションに力がこもる。劉はそんなキムを見て笑った。


「当然だろう。だが、常識とは輪郭の曖昧な幻想に過ぎん。今は理解の外にある現象も、ひとたび科学的考証をもってして具現化されれば、常識として受け入れられはじめる。100年前の人間が思いもつかなかった事を、現代人はどれだけ成し遂げてきたのか考えてみたまえ」


 赤ん坊を食いながら常識について語る劉は、傷のある唇の左端を歪めて笑った。間違いなく、笑っていた。


「その…人間以外では成功しましたか?」


「いい質問だ。実験ではモルモットなどを含む、万を越える動物のうち一匹だけ、不死身のチンパンジーが生まれた。一瞬の事だがな。頭を割っても死なない。心臓を突き刺しても死なない。すぐに細胞が修復を始めるんだ。頭と胴体を切り離したらどうなったと思う?」


「さぁ、分からないです」


「胴体の方は活動を停止し、頭から下が少しずつ再生を始めたんだ。その中には小さいながらも新しい心臓が含まれていた」


 劉は左足の骨を吐き出し、しばし食事を中断して、話の本題に入ろうと、手をおしぼりで拭きながら、居住まいを正した。


「とは言え、不死身の状態は三日と持たず、絶命したがな。粉々にすればどうなるか研究したかったのだが、日数が足りなかった」


 ひとつ咳をして、劉は口をモゴモゴさせた。肉が奥歯に挟まっているのだろう。


「そんな事が」


「世界中が、この細胞に注目してる。日本にはアメリカが、北朝鮮にはロシアがついて、この梅島を狙う理由はそこにある」


「梅島…ですか」


 キムは「卓島」と呼ばれなかった事に少し傷ついた気持ちになった。とは言え、そこに大きなポリシーがあるわけではなかったが。


「君らの国では別の呼び名があったな。失礼を承知で言うが、便宜上、国際的に多く呼ばれている梅島の方で呼ばせてもらう…。申し訳ない。それはそうと、他国の連中はこの研究が成功するまでに2年から3年はかかると踏んで、それぞれ悠長に準備してるようだが、中国…、私としては、さっさとこの実験を成功させ、梅島を焼き尽くしてしまいたい。そして用済みとなった燃えカス状態の梅島を日本なり北朝鮮にくれてやればいいと思ってる」


 ソファーにゆったり、長く伸びた左足を組みながら、劉は言った。


「島で軍事訓練中に引火したとでも言えばいい。おそらく燃えカス状態でも欲しがるであろう彼らに、あらゆる条件を呑ませたのち、梅島をくれてやるんだ。そうすれば、第三次世界大戦を回避した上で、永遠の命を君の国と私の国で堂々と独占できる」


 劉は、高級な黒い革靴を履いた右足の甲を、子供のようにパタパタとさせた。


「永遠の命は、どう使われるんでしょうか」


 キムは白い床―、さっき自分の吐いたものを眺めながら訊ねる。


「面白みもない無難なところで言えば、再生医療に応用できるだろう。それは莫大な利益を生み出す。条件つきで国内外の富裕層を不老不死にしてやるもよし。世界一の軍隊をつくることもできるな。飲まず食わずで弾丸が当たっても死なない兵士だ。どこの国も戦争をしかけてこれなくなる。ほかにもいろいろある。考えればキリがない。この研究が早々に成功すれば、あらゆる面で世界の利権は、私たちのものになる」


 劉は笑った。出会って数十分が経過したが、一番の笑顔だった。顔中に深く皺が刻み込まれていた。豊かな黒髪は染めたもので、もしかしたら劉は、60代かもしれない、とキムは思った。


(ねぇ、せかいでいちばんこわいどうぶつは、なに?)


 娘の言葉が蘇る。まだあの質問に対して、きちんと答えていなかったことを思い出した。


「人間だ」


 キムはひとり呟いた。


「…楽園への帰還(リターン・トゥ・エデン)」


 劉の言葉に、キムは、はっとした。「エデン」という単語に、信仰深い祖母に小さい頃、聞かされた話を思い出す。


「かつてエデンの園にいたアダムとイヴは、知恵の実を食べて現在の人類へと進化した」


 劉はキムの目をまっすぐ見た。さきほどの笑みはすっかり消えて、獲物を射抜くような鋭い眼光だけがキムに向けられた。


「旧約聖書の創世記ですか」


「2章9節以降だ。エデンの園を追い出されたアダムとイヴが、もしも神の目を盗み、帰還して生命の実を食べたらどうなるのか…。私はこの不老不死の研究プロジェクトを、楽園への帰還、と名づけた」


 二人の男の間で、長い沈黙が流れる。


「この島は、エデンの園ですか」


 劉は笑った。

 それ以上は何も言わなかった。再び箸を持つと、鍋に浸かった胎児のどこかの肉を削ぎ、丹念に啄ばんでいた。この男は時間をゆっくりかけ、その肉や内臓を食いつくし、残った骨までしゃぶり続けるだろう、とキムは思った。


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 同日―。

 11時過ぎ―。


「さぁ、家族のもとへの振込みは完了した。君の方でも確認するといい」


 劉はノートパソコンをキムの方へと向けた。送金完了の画面だった。


「感謝します。劉さん」


 一応、キムも自分のスマホで確認を済ませた。吐瀉物と鍋は片付けられていた。白い部屋で二人の男は握手を交わした。


「私と君は、もう盟友だ。だろ?」


「はい、光栄です」


「劉なんて苗字じゃなく、私の裏の通り名…愛称(ニックネーム)で呼んでもらってかまわない」


 劉は後ろに流した長い髪を掻き毟った。額に皺が寄る。少年のような、はにかみんだ笑顔がこの男の意外な一面を物語っていた。


「私は、この地位に昇りつめるまで、荒っぽい事も散々してきた。この左頬の裂けた傷もその一つだ。この傷のせいで、いつもニヒルな笑顔(スマイル)を浮かべているようだと言われる」


 左人差し指を、自らの左頬まで裂けた傷をなぞらせながら劉は言った。


「チェルシースマイル…。もし君が生きていられたら、次から私をそう呼んでくれたまえ。長い付き合いになるだろうからね」


 これまでに、どれだけの人間がその名を呼べずに死んでいったのか。怖気を震ったが、ここまで来て、命など惜しんでも仕方がなかった。「どうせ元々、2ヶ月の命だから関係ない」と自分に言い聞かせた。


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 同日―。

 12時―。


 研究所の地下、実験室―。

 ここもまた、天井や壁、床に至るまで、徹底して白で統一されていた。


 劉に頼み込み、左手薬指の結婚指輪とは別に、家族との最後の思い出であり、絆の品でもある「パパキリン」のキーホルダーを革紐に通し、ペンダント代わりに首からかけた。


 全裸にされ、頭に脳波を調べるバンドが取り付けられた。手足は凶悪囚人を拘束するようなベルトが巻かれている。「ラクにしてください」という女の若い研究員から芳香が漂う。白衣越しの胸も大きかった。マスクをしているが目の形もいい。美人かもしれない。妻以外の女性に欲情するのは久しぶりだった。死期が近いせいだろう。生殖本能が多少、刺激されたのかもしれない。


「生きて戻ってこれたら、妻子に会えるぞ」


 劉―、チェルシースマイルがコンコンと右人差し指で叩きながら、ガラス越しに笑った。その言葉に縋るのはあまりにも残酷だと思ったが、どうせ死ぬなら希望を抱いたまま死んだ方がいい、とキムは、最後の最後で思い直した。


(私は生きて帰る)


 これは祖国のためではない、家族のための誓いだった。恐怖に震える裸の胸の上で「パパキリン」が踊った。


「ありがとう」


 キムは呟く。だが、生きて直接、伝えなければいけない言葉だった。


「私の娘でいてくれてありがとう」


「私の妻でいてくれてありがとう」


 泣きながら震えるキムの身体に、黄褐色の液体で満たされた太い注射が打ち込まれた。全身に激しい軋みが襲い掛かる。心臓が早鐘を打つ。血圧が上昇する機械音が聞こえてきた。視界がぼやける。鼓膜が機能を失い始める。周囲の研究員の言葉を認識する能力など霞の向こうに置いてきた。


 途切れゆく意識。家族への思いだけが原初の自我に刻み込まれ、残った。

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