第36話 ダルマさんがころんだ
七三一部隊――。
正式名称、関東軍防疫給水部本部。一九三二年から一九四五年の間に満州に拠点を置いた大日本帝国陸軍の研究機関である。
主任務は兵士の感染予防、衛生的給水体制の研究としながら、その実態は「人間を極限まで破壊すると、どれくらいの期間、持ちこたえられるか」或いは「その状態より、どのような治療が効果的であるか」を生理学的研究する――いわゆる「人体実験」に特化した部門であった。
敗戦の足音が迫る中、戦局を打破するべく細菌化学兵器の開発に活路を見出そうとした陸軍の凶行は加速し、捕虜になった抗日運動家とその家族たちは、使い捨ての材木「マルタ」と呼ばれ日夜切り刻まれた。
主な研究内容――。
びらん性、腐食性の毒ガスを用いた実験。梅毒、ペスト、コレラに感染させる実験。収容施設で出産された赤子を氷水に漬け凍傷実験。その他もろもろ。
命を奪われたマルタの数は三千にも昇る。
七三一部隊の研究データは、順調に蓄積されたものの、終戦間近、瀕死のマルタたちと共に主要記録の多くが焼却され、七三一部隊は帰国、日本各地へ散った。
追及の手を逃れられず戦犯として逮捕された研究員幹部たちは、実験による貴重なデータをGHQ――米合衆国へ引き渡す代わりに断罪を免れたという。
米国医療はそのデータを基に飛躍的発展を遂げ、研究員幹部たちも戦後の日本医療に貢献し上層部へと出世し、七三一部隊の実情は、表の戦史から抹消された。
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一九四四年――。
中華人民共和国黒竜江省ハルビン市平房区――。
チェルシースマイルこと劉(りゅう)水(すい)の幼少時代の記憶は、一家三人で収容された、七三一部隊研究所の冷たい独房のコンクリートの中からはじまる。
窓に取り付けられた鉄格子。四方を灰色で塗り固められた独房で、差し込む光が彼らを照らす。
「腕が…腕が…殺してくれ…頼む…」
床に仰向けになった父は呻いていた。凍傷実験の末に両腕の肘から下を失い、ぐるぐる巻きの包帯は緑色に濡れていて、膿が腐敗臭を放ち蝿が飛ぶ。
「あなた…」
簡易ベッドで呻りながら震える声。母は梅毒患者の子供を強制的に妊娠させられていた。
「マルタ304号、こっちへ来い」
連れて行かれた父。冷たい音を立て鉄格子が閉ざされた。スイカのように迫り出した腹を抱え、母は泣き喚く。
「305号からどんなバケモノが産まれてくるかな。ロシアのマルタとの混血だ」
鉄格子の向こうで、日本兵たちは言った。
「いい女なのに、勿体無い」
母は、劉少年の耳を塞ぎながら泣き続ける。
日本兵は、鉄格子の向こうで薄ら笑いを浮かべながら去っていった。
「お母さん…お父さんは」
「いいの。お父さんはこれから戦場へ行くのよ。悪い人たちをやっつけにね」
母は青ざめた顔のまま薄く笑う。顔や腕には梅毒特有の腫瘍が広がっていた。
「お母さん、お腹がすいたよ」
「ダルマさんがころんだ、をやりましょう。気が紛れるわ」
日本兵の手前、母は日本語で息子と戯れることしかできない。母の心中など知らず、劉少年は児戯に夢中になった。
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幾日かして、劉少年は、手術刀、鋸、ドリルなどが置かれた手術台に乗せられていた。
饐えた血と、アルコール消毒液の混じった不思議な臭いが立ち込めている。本能が拒否反応を示し、小刻みに震えるだけの劉少年を、撫でるものがあった。
「こわくないよ、いい子だからね。痛くないよ」
白衣姿の若い日本兵が、目に涙を滲ませながら声をかけてきたのだ。彼の胸元には小さな十字架が光っていて、それを見た劉少年は母が語ってくれたイエスキリストの話を思い出す。
「これより少年マルタ306号の頭蓋骨を切除する」
執刀医が皆に声をかけ、麻酔もないまま冷たい刃先が頭頂部を抉る。真っ赤に染まる視界。激しい痛みは幸か不幸か劉少年の意識を断絶してくれた。
数日か、数週間か。
しばらくしてから劉少年の意識は覚醒した。
「目覚めたか、気分はどうだ。少年」
マスクを外した状態の執刀医は、髭を蓄えた壮年の男で端正な顔立ちだった。
「わからない。でもなにかへんなきぶんだよ」
頭に包帯を巻かれ、激しい嘔吐と前後不覚悟の中で漠然とした不安が劉少年の胸に広がった。執刀医は満足そうに頷く。十字架の日本兵は眼を背けた。
遠くで聞こえた産声。赤子と引き離された女の嗚咽が廊下中で響き渡る。
「305号の子供が産まれました。実験に使いますか」
ぞろぞろと日本兵たちは廊下に吐き出されてゆく。305号が母を現す数字であることは劉少年も知っている。あれは母の泣き声なのだと理解した。
「凍傷実験のサンプルがもう少しほしい」
その日、母は独房に戻ってこなかった。父同様、母は永遠に戻れぬ場所へと旅立ったのだろうと、劉少年は理解する。
以前の劉少年ならば、母恋しさで泣きじゃくっていたかもしれない。だが、頭を手術されてからは母のことなど、どうでもよくなっていた。「寂しさ」という感情がすっかり抜け落ちていたのだ。簡易ベッドを一人で占領し寝るのも悪くない。そう思いながら、嘔吐した。
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年が明けた。
数ヶ月が経過し頭の傷が塞がり、日本兵たちは劉少年のデータに興味を示さなくなった。嘔吐は相変わらず続いた。
「もう充分だ。マルタ306号は別の実験に使おう」
そう言われ始めたある日の深夜。
簡易ベッドで、凍てつく寒さに凍える劉少年に声をかけるものがあった。
「起きなさい」
声の主は、いつかの十字架の日本兵。劉少年はリヤカーに乗せられ、施設を出た。
「寒さのせいか、何人か用済みのマルタが死んだ。私が宿直の今夜に限って運がいい。ここから出れるぞ」
劉少年はそっと首を上げ、周囲を見渡す。
闇夜に浮かぶ非人道的研究施設の実態。
数キロ四方の敷地には、高電圧電流の有刺鉄線が張り巡らされた土塀が広がり、監視塔の側にはマルタを収容する施設がいくつか設けられている。
「見つかるとまずい、頭を下げろ。明日の早朝、農村相手の業者が下肥樽をいくつか回収しに来る。その中で大人しく入っていなさい」
痩せ細ったマルタたちの遺体が横たわるボイラー棟建物付近の廃棄所へとリヤカーを寄せ、十字架の日本兵が言った。
施設内のマルタたちが放った糞尿の残り香が不快な空樽の一つへ、痩せっぽちの劉少年が入ると、先客がいることに気づいた。
「業者がどこぞでトラクターを停車したら隙を見て飛び出し、川を渡って遠くまで逃げるんだ。君らはこのボイラーで火葬されたことにする。決して見つかってはいけない。いいね」
「うん」
劉少年の頷きとともに十字架の日本兵は霧の中へと去っていった。
「おれは楊、おまえは」
糞尿の臭いが激しい空樽の中、身を屈めた先客の少年が蚊の鳴くような声を出す。
「劉だよ。お母さんに教えてもらったから字だって書ける。こんな字だ」
劉少年も同じように身を屈めながら、右手人差し指を動かし自己紹介した。
「えらそうに」
楊少年の目は濁っていた。
「えらそうになんかしていない」
「おまえはいいな、右腕があって。おれはとられた」
注意深く目をやると、楊少年の右肘から先がないことが分かる。劉少年は自らの右腕を見つめた。
「ほしいならやろうか」
「変わったやつだな、きにいったぞ。おれたちは兄弟だ」
「兄弟か」
楊少年の乾いた笑みに、劉少年は真顔で答えた。
「おれは大人になったら家族を増やしたい。おまえは何がしたい」
楊少年は消え入りそうな声で訊ねてきた。
「生まれてきた意味をみつけたい」
劉少年の言葉に、楊少年は首を傾げる。
二人はただ、ただ夜明けを待った。
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夜明けはやってきた。
翌年の一九四五年、大東亜戦争終結。
時が経過し、激動の時代が訪れた。
一九六六年――。
中国において絶大な権力を手に入れた国家の父・毛沢東。
彼が掲げた大躍進政策により、国内で四千三百万人の餓死者が出た。これにより国家権力の座を追われた毛沢東は自身の復権を画策し、民衆を扇動することで政敵を攻撃、失脚に追い込むための恐るべき政治的クーデターを展開した。
いわゆる「文化大革命」である。
以下が、毛沢東語録の一節。
「革命は、客を招いてごちそうすることでもなければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえ目のものではない。革命は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である」
表向きは「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という美名のもとに行われた、政治・社会・思想・文化の改革運動だが、その実態は、共産主義に反する党幹部、知識人、旧地主の子孫などを、祖国に不利益を齎す資本主義者であるとして、弾圧、殺害し、さらには宗教、文化財までも共産主義の仇敵として徹底的に破壊し尽すという糾弾弾圧運動であった。
血に飢えた共産主義の若者たちは「紅衛兵(こうえいへい)」と名乗り、暴虐の限りを尽くし、毛沢東の死による一九七六年の大文化革命終結までに殺害された「反共産主義者」は数千万人にも昇るという。
動乱。
狂騒。
飛び散る血。
そこかしこで縛り上げられ、肉を削がれる反共産主義者たち。
「よう!劉!そっちの調子はどうだ」
手足を縛り上げた身なりのいい夫人に、びちゃびちゃとガソリンをかけながら、若い紅衛兵が大声で叫ぶ。
「一家全員の首を並べているところだ」
そこには緑色の軍衣を真っ赤に染めた、劉水の姿があった。
痩せっぽちだった少年は戦後を生き延び、筋骨隆々な若者へと変貌を遂げ、血にまみれた青春を謳歌していた。
彼の足元には父親、母親、息子、娘、と、等間隔に並べた「反共産主義者」の生首。ついさっき生きたまま切り離されたもので、その表情は薄目を開け口元がだらしない。
「アスファルトから四つの頭が生えた」
劉は呟くと、左端に置かれた父親の頭頂部へと鉄パイプを振り下ろした。
飛び散る頭髪、頭蓋骨、脳漿。
劉は、唇の左端から頬にかけて一直線に走った刃物傷を歪めながら、順番に四つの頭部を砕く。
「綺麗な色だな」
一家全員の脳漿が道路に溢れ出し、混じり合っている。劉は鉄パイプの先でそれをグリグリと押しつぶすと、左頬をひくひくと痙攣させた。
「お前のその刃物傷、見るたびに薄ら寒くなるぜ」
紅衛兵は苦笑しながらも、命乞いをする夫人にマッチで火をつけた。断末魔の悲鳴。
「すこし前、とある資本家一族を殺そうとした際、予想外の反撃を喰らった」
劉は顔の傷を撫でながら無表情で答えた。
「資本家が嫌いか」
「いや。私には彼らを否定する理屈などない」
劉は鉄パイプを引っさげて、雲ひとつない青空を眺める。
「お前ってやつは…なら、なぜこいつらを殺す」
紅衛兵の足元で、火達磨になった夫人が転げながら燃えカスになってゆく。立ちこめる煙と肉や脂の焦げる臭いに紅衛兵は顔をしかめた。
「この広大な中国を統一する為には血の革命が必要だ。党が国民を統制する環境を整えねば、我が国は再び分裂を繰り返し、未来永劫、他国の干渉と蹂躙を受け続ける。国家形成には共通の敵が、国民全員の罪が…そして恐怖が不可欠だ」
劉は鉄パイプを構えなおし、脳を失い頭部がスカスカになった娘の生首をゴルフボールのように弾く。見事に飛んだ。あちらこちらで銃をぶっ放し殺戮を繰り返していた他の紅衛兵たちが一旦、手を休めて口笛を吹く。
「今年、二十六だったよな。戦前はどう暮らしていた」
「聞くな」
劉の目の奥に揺らめく焔。
「その方が良さそうだな。お前はただの人殺しじゃない」
紅衛兵は黒焦げになった夫人の残骸に蹴りを入れて笑った。
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それから三十年後――。
劉水は、かつての文化大革命を否定するような高級スーツに身を包み、北京市内の脳外科の診察室で医師と向き合っていた。左腕には数千万の腕時計。秒針は無常にさくさくと時を刻む。
「前頭葉の一部が切除された形跡がある。前頭葉は、喜怒哀楽や、優しさなどの共感力、意志、衝動の抑制、社会性など人間らしさを司る部位だ。その半分がそっくりそのまま君にはない。残された大脳扁縁系にある扁桃体という極めて原始的な部位のみが君の人間性を支えていると言える」
医師はレントゲン写真を指差した。彼の言うように真っ黒に映し出された頭蓋骨は前頭葉の喪失を意味する。
「なるほど」
劉は無表情のまま、顎に手を充てた。
「君はどこかの精神病院にいたのか。この手術は今でこそ国際的に禁止されているが、かつて重症患者に施していたものだ」
「思い出したくはないが、ある場所に捕らわれていた」
劉の黒く光る瞳が医師を覗き込み、医師は視線を反らす。
「そうか、悪い事を聞いた。しかし妙だな」
「なにがだね」
「ロボトミー手術には両側頭部に穴をあけるモニス術式、眼窩の骨の間から前頭葉を破壊する経眼窩術式、眼窩脳内側領域切除術など、決まったやり方があるのだが…君の頭蓋骨を見る限り、かなり野蛮な方法で施術されている。少なくとも戦後の外科手術ではありえない」
オールバックで後ろに流した長髪。劉は額に手を充て、床の一点を見つめる。思い出すのは七三一部隊の研究施設での出来事だった。
「それはそうだろう。調べてくれて感謝する」
劉は作り笑いを浮かべる。
「なにか具合のわるいことがあったら、いつでも相談に乗るよ」
医師も相好を崩した。
「ああ」
そう言いながら、耳元で囁く声に劉は意識を集中させる。
(憎い…日本人が憎い…すべての日本鬼子を殺してやりたい)
(憎い…日本人が憎い…すべての日本鬼子を殺してやりたい)
(憎い…日本人が憎い…すべての日本鬼子を殺してやりたい)
誰の声だろう。男か、女か、父のものか、母のものか、それともあの場所にいた三千人の怨念が混じり合い、生み出された叫びだろうか。
「分かっている」
診察室を出て、時計に目をやり左端の唇を歪め襟を正す。
いつからか、劉は裏の世界で「チェルシースマイル」という渾名で呼ばれるようになっていた。
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現在――。
米合衆国大統領エイブラハム・オブライアンは連日、メディアに登場していた。
「永遠の命、それをもつ兵士は国家間の安保を揺るがす脅威となる。中華人民共和国に対し直ちに研究の中止を要求する」
「不死隕石を保有する梅島への任務遂行を米合衆国は認める。任務にあたったアーロン・ボネット、ジェフ・アーミテイジを証言者とし、全世界へその恐るべき全貌を公開する」
「証拠の映像、不死の昆虫サンプルを公開する。これは全世界への警鐘だ。韓国および中国へ適切な対応を求める」
「中国の横暴を許さない。あらゆる手段で最悪の事態を阻止する。私、米合衆国大統領エイブラハム・オブライアンはノーベル平和賞を返還する覚悟だ。これは軍事手段をも視野に入れた決意である」
米合衆国による、中華人民共和国への「永遠の命――プロジェクト・イヴ」への糾弾は止むことがない。
「私たちは、一切そのような陰謀に関与していない。でまかせだ。まずは話し合いが必要である」
中国国家主席の周遠源は、正式に疑惑を否定すべく八月に米・中・韓による三ヵ国・首脳会談を提案し、共産党は国内の不安を打ち消すべくネット規制を敷いた。
「世界の終焉です。かつてない資源を一国が手に入れた結果、争いは回避不可能。これは私利私欲に目がくらんだ人類に対する神からの罰だ。これにはキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、あらゆる宗教すら太刀打ちできない。我らがノアの救世会しか、あなたたちを救えないのです」
ローマ法王ですら口を噤む中、新興宗教「ノアの救世会」広告塔サム・クレイマーは人類滅亡をメディアに唱えた。人気ハリウッドスターの熱弁に頷く者も少なくなかった。
世界中の関心が集まる中、不死の兵士の研究はいよいよ大詰めを迎えることとなる。
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8月2日(日)
14時00分――。
中華人民共和国北部――。
河北省の河北平原の北を囲むようにそびえる燕山山脈某所。
山林を駆け回る無数の影があった。
彼らは人民解放軍御用達のアサルトライフル――03式自動歩槍を装備しているものの、着用した黒い戦闘服はどこの国家にも属さないことを意味していた。
「中央軍事委員会にデータを提出しなければいけない。少し見させてもらうぞ」
劉水――チェルシースマイルは、管制塔モニター前に座る部下の肩に手を置く。
「丸四日、不眠不休で撃ち合いを続けています」
規律正しい言葉遣い。部下は三十代半ばの教養ある青年だった。背筋を伸ばしたまま瞬きもせず兵士たちの動きを追っている。
「そうだ、そうだ。撃ち合え。そうだ、そうだ、もっと」
乾いた音と発光。そこかしこの樹木や土に着弾し、影たちは山林を飛び回る。
やがて兵士の一人が頭部に被弾し斃れた。部下はボタン操作で、樹に括りつけられたカメラを動かし彼へとズームする。
「ははは、脳みそが丸見えじゃないか」
兵士の眉から上がそっくりそのまま消失していた。血で人相は判別できないが戦闘服の右胸に「306」と数字を書いたガムテープが貼り付けられている。
やがて彼――兵士306号の頭部がぶくぶくと泡立ちはじめ、鮮血まみれの双眸がカっと見開いた。
今まさに、土に溢れかえった桃色の脳漿とおなじものが彼の頭蓋骨内で再生をはじめているのだ。兵士306号は「うぇっっく、うええっ、うぇぇっく」と発作のように痙攣しながら手足をばたばたさせ、やがて頭部の修復が終わると俊敏に立ち上がり、03式自動歩槍を構え山林へと消えていった。
「彼…兵士306号は、三十三回目の蘇生になります」
部下はズームしたカメラの倍率を戻し、感情のない声で告げる。
「平均、何秒で戦線復帰できる」
「損傷具合にもよりますが、四十秒ほどあれば」
「アダムよりも早い。いい兆しだ」
チェルシースマイルは顎に右手を充てる仕草で頷き、そのまま左腕に視線を落とす。高級腕時計は午後二時十三分を示していた。
「こんなにも早く成果が出るとは思いませんでした」
「あれから何人ほど適合者が現れたかね」
「九名です」
部下は抑揚のない声で答える。
「まずまずの結果だ。米国に兵器の質や数で劣る我々にとって、唯一の強みが兵士の数だ。この研究がいかに重要か理解し、励んでくれたまえ」
チェルシースマイルは左右の首の骨を鳴らしながら、部下の背中を撫でた。
「今月末までに計五百名を目指します」
「頼もしい限りだ。あと十名ほど補充する。年齢はおそらく十五から十八の間になるだろう。準備しておきなさい」
「また黒孩子(ヘイハイズ)ですか」
部下はハっと右手で自らの口を塞ぎ「余計なことを申しました。謝罪します」と言った。
黒孩子(ヘイハイズ)――、一九七九年に導入された中国政府による一人っ子政策の反動。二人目以降の子供を儲けた夫婦には賞罰が下されるため、貧しい農村部では戸籍登録されていない「闇の子供」が存在する。その数は数千万から億にも昇るといわれ、八十年代以降、安い労働力として黒孩子の人身売買が盛んに行われてきた。
「人民解放軍兵士は国家の貴重な財産だ。現・適合者たる黒孩子たちに、あらゆる面において問題なしと確証データが取れるまで適用できない。個人的には問題ないと考えているが中央軍事委員会は慎重だからね」
チェルシースマイルは左頬の傷をなぞりながら言う。
「国家の為この研究が使われる日を待ちわびております」
部下はモニターを見つめながら、背後に立つチェルシースマイルにお辞儀をした。
「国が掲げる台湾制圧の前にやらねばならないことがある」
「日本人絶滅計画ですか」
部下がはじめて背後を振り返る。
そこにはこの薄暗い管制室内で、モニターの光に照らされた髑髏のような顔をしたチェルシースマイルがいた。
「不死兵士たちを、日本にこれだけ送り込んでおいてくれ。私の独断だが問題なかろう」
チェルシースマイルは右手の指を二本伸ばし、薄く笑った。
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中華人民共和国北京市某所――。
三階建て倉庫の一室。
電灯も窓もないコンクリートの部屋。チェルシースマイルが扉を開けると廊下の明かりが差し込む先で、無数の蠢くものがあった。
饐えた臭いがこもっている。
扉を開け放つと、二十体ちかくいる芋虫人間が呻き声を上げた。手足のない、腹が迫り出した全裸のダルマ女たちだった。明かりを嫌う者もあれば、伸び放題になった髪の隙間から狂気に満ちた目で睨んでくる者もいる。
「君は…そろそろだな」
転がったダルマ女のうちの一体に声をかけた。腹が膨れ上がり、陰部からは謎の体液が固まっている。声かけに対する反応はない。日本語で小さくなにかを呻いていた。
「君はまだまだだな」
「君は、つわりがとまらないか。床を汚しても構わん。あとで掃除させよう」
チェルシースマイルはダルマ女たちの間を泳ぎながら、一体ずつ選別してゆく。
「君は、その兆しがないようだね…私がどれだけ苦労して、毎晩毎晩、腰を振ってるとおもってるんだね…ん?…あと一ヶ月様子をみても役に立たないなら…君は処分だ」
つい最近買った若いダルマ女の足の間に靴先を押し付けながら小言をいう。そのダルマ女の反応は鈍く、よだれを垂らしながら笑っていた。話によれば今年の初夏に拉致されたばかりの女子大生で、チェルシースマイルがワンオーナー目だった。ダルマ歴の浅い者は悲観、絶望、諦観という段階を踏んで従順になっていくが、中には発狂し戻ってこれなくなる者もいる。彼女はその典型だった。
「陽子…君のお腹は、順調に育ってるじゃないか」
二十体のダルマ女のうち、一番の古株である山田陽子に近寄った。
「…やめ…て…」
そのスイカのような腹を撫でながらチェルシースマイルは唾を飲み込む。月に一度か二度のご馳走である。山田陽子の陰部を意味もなく弄びながらこの腹の中の胎児をどのような料理にして食おうかと悩んだ。
「旦那の首は冷凍庫に保管してある。そこで早く会えたらいいね」
チェルシースマイルは、左頬の刃物傷を歪めて微笑む。
「おね…がい…赤ちゃん…いるの…」
「だからこそ、だよ」
立ち上がりながら、チェルシースマイルはジャケットの内側に右手をやった。
「それじゃ大和撫子のみなさん…いつものゲームをはじめるよ…。一分だけ時間をあげよう。ラクな体勢になりなさい」
右手で取り出したもの――オーストラリア産の小型なオートマチックピストル「グロック20」だった。
「では、いくよ…」
チェルシースマイルは扉の方へ向き直り、引鉄に人差し指をかけた。
「ダ~」
背後でダルマ女たちが一斉にもぞもぞと動き始める。先ほどまで無表情だった者までもが壁に向かって這っていた。
「ル~マさぁ~んが…」
呻き声。泣き声。笑い声。ダルマ女たちが壁にもたれ一塊となっているのが背後の気配で分かる。チェルシースマイルは薄く笑い引鉄にいよいよ力を込めた。
「転ん………」
右腕を天井へと伸ばす。
「だ!!!」
パァンと乾いた銃声。
パラパラとコンクリートの破片が落ちてきた。天井にある無数の弾痕のうち一つから煙があがり、空薬莢が音を立てて転がる。
「…ひっ…」
「動いたのは…」
チェルシースマイルは素早く振り返り、身重な山田陽子が寸足らずな両腕で腹を抱えるようにして、身体を震わせているのを確認した。
「陽子だな」
「やめて…」
チェルシースマイルは山田陽子の身体を抱きかかえた。抵抗しようと悲鳴に合わせて寸足らずの手足をばたばたさせる。腹の胎児も異常事態を察したのかゴムボールのような腹の表面がボコボコと動いた。
「君たち夫妻との出会いから、もう六ヶ月か…だいぶ育ったね」
感慨深さを込めて言うと、山田陽子は泣き出した。
「…食べごろだ」
「おねがい…」
明日は我が身ということだろう。周囲のダルマ女の中には泣き出す者もあった。
「今日は古い友人に会いに行くんだ。手土産がほしくてね…そいつは肉料理が好きなんだ」
チェルシースマイルは、山田陽子をお姫様のように抱きかかえながら部屋を出た。別室では部下たちがゴム製のエプロンをつけて待機していた。
「やめて…お願い…」
手術台の上に乗せられる。様々な刃物が用意されているのは、胎児を取り出すまでの間、幾つか拷問して暇つぶしをするためだった。
「人でなし…人でなし!!!!」
山田陽子は泡を吹きながらジタバタした。
「人でなしは君たち日本人だろ」
「やめて…」
チェルシースマイルは釘と金槌を手にした。
「日本人に生まれたことを後悔するんだ。せめて十本は打たせてくれ」
山田陽子の頭蓋に向けて釘の先端をあてがい、金槌を振り下ろす。
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中華人民共和国河北省衡水市某所――。
チェルシースマイルは、孤児院の前にベンツを停車させた。
「劉じゃないか。この野郎…なかなか顔を出さねぇから心配したんだぞ。いつも部下ばかりよこしやがって」
庭先で出迎えてくれたのは、安物のアロハシャツを着た院長の楊だった。普段から義手を装着しないため、右肘から下がないのがすぐ分かる。
「楊、お前はますます老けた」
髪も眉も真っ白な楊を見て、チェルシースマイルは言った。
「ムリもねぇ。今年で七十四だ」
皺が深く刻まれた小麦色の肌は、子供たちと毎日、畑仕事をしているためだろう。田舎の健康な老人といった風情の楊は、鼻をこすり笑う。
「それによ、お前と違って、整形する金なんてねぇんだよ」
楊は大笑いしながら、チェルシースマイルの右肩を乱暴にはたいた。
「まぁ、グダグダ言うな。数年ぶりの再会だ。いい肉を持ってきたぞ」
チェルシースマイルの右手からぶら下がる三枚重ねのビニール袋。中には血まみれの胎児。
孤児院の建物に向かい歩く二人の後ろで、すべての事情を知る部下数名が三歩下がってついてくる。
「上物だな。そこいらの田舎にいる栄養失調の女からじゃとれない。いつもどこの病院から買ってきてるんだ?」
「私にはいろいろとコネクションがあるんだ」
「イヤミなやつだ。まぁ、いい。おれには家族がたくさんいる」
楊は庭の一角を左手で示す。
ヨレヨレの服を着た子供たちが、手作りの遊具で遊んでいた。木の腐りかけたブランコの板を見たチェルシースマイルは、楊にいくらか金を置いていってやろうと考え、振り返って部下に目で合図をする。
「今夜は泊まってくんだろ?」
正面玄関のドアノブを掴み、楊は笑った。
「すまんが忙しい身だ。夕食までしか付き合えない」
「ふん、待ってろ。またすぐに帰ってきたくなるような美味いもん作ってやる」
むすっとした表情で楊は建物に入る。チェルシースマイルは頭をカリカリと掻くだけしかできない。
「楽しみにしてるよ…ところで…」
チェルシースマイルの言葉に、楊が振り返る。
「…十五歳以上の男児を十人ほど譲り受けたい。いいかな?」
「お前が引き取ったやつらは元気にしてるのか?軍に入ったきり手紙ひとつよこさないぜ」
楊は鼻を膨らまし機嫌悪そうに問い詰めてきた。
「国の為に頑張ってるよ」
チェルシースマイルは低い声で答える。
「ならいい。あいつらはおれの誇りだ」
楊は夢を叶えた。
七三一部隊研究所を脱出する前夜に誓ったとおり、楊は家族を増やした。庭先から聞こえる子供たちの笑い声。彼らは楊が引き取った戸籍のない子供――黒孩子(ヘイハイズ)たちだった。
「私の夢も、もうじき叶う」
チェルシースマイルはビニール袋を持ち上げ、へその緒をぶら下げたまま永遠の眠りを貪る胎児を眺め、薄く笑った。
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