第35話 俺があんたを総理にする
米合衆国大統領エイブラハム・オブライアンは意識を取り戻した。
「ああ、ケツが…ケツが痛い」
有働の右手には電動式玩具が、へし折れた状態で汚れていた。
「散々ヨガりやがって。この変態野郎が」
有働は唾を吐き捨て、鼻に詰め込んだティッシュを奥に入れなおす。
有働は間違いなく、女性のみを愛する異性愛者(ヘテロ)だ。男に性的興味は一切ない。故におぞましい男色野郎の快楽を満たすのは苦痛ではあったが、どんどん自我が崩壊して行くオブライアンを観察するのは、死ぬほど面白おかしかった。
「アンタはまともな人間じゃない。自覚しろ。言ってる意味は分かるな?普通の人間じゃ、すでにギブアップしてるはずだ」
有働は、笑いながら思い切り電動式玩具を床に叩きつけた。
オブライアンがビクっと身体をのけぞらせる。
「きゅ、急に動きが変化するから…多少、きつかった…ここまで来たら、引き返せない…」
「これからは、俺たちは共犯者だ。意味は分かるな?決着がつくまで、世界の薄汚い暗部と闘争するんだ」
ゴシップ記者さながらの隠しカメラ入りサングラスは、鈍い光を湛えていた。
「分かってる…どんなにきつかろうが…私は最後まで走り抜けるつもりだ」
「だったら、さっさとケツの穴をすぼめて、しゃきっと大統領を演じろ」
「ああ」
「それと…ホテルの防犯カメラ映像はすべて削除させろ。おれもアンタも面倒は避けたいはずだ」
有働はオブライアンのケツを蹴り飛ばした。
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7月19日(日)
15時00分―。
「誉田さん…権堂組のみなさん、春日さん、久住さん…五味さん…お願いがあります」
有働は焼き肉屋「辰前」にて、テーブルを挟んだ誉田に視線を向けた。
春日、久住の隣には、椋井の五味。他のテーブル席には誉田の側近や、旧権堂組幹部らが座っていた。
総勢三十名。これまでの十ヶ月間に及ぶ、有働の偽善活動によって血を流しながら得ていった仲間たちである。
店の手伝いに来ていたエミの父、遠柴が、焼き肉を皿を運んでくる。
カルビ、ロース、ハラミがすぐに空になった。間壁は店を辞めたようで、遠柴と景子は肩を寄せるようにして厨房にいた。
「お前の頼みだったら何でも聞くぜ」
誉田がかるくコブシをぶつけてきた。遠柴は厨房で有働らの会話を気にしながらも軽く頷く。遠柴もまた、偽善活動で得た仲間の一人なのだ。
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その夜―。
「来週の日曜に、二千名ほど収容できる施設を借りてもらうことって、できますか?」
遠柴に電話を入れる。
「いいだろう。手配する」
何も言わず遠柴は協力してくれた。
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7月26日(日)
13時00分―。
電話で有働に呼び出された市議会議員、徳園仁が黒のセダンを止めたのは、刈間市内にある大型モールの駐車場だった。
「これは、どうも有働くん。息子は白状しないが、私には分かっている。書斎には防犯カメラが設置されているのでね…。私に何か言う事があるんじゃないかね?」
怒りでこめかみが震わせがらも、徳園は笑顔を絶やさない。自分の金庫から宝の山が消えている事に気づいている。だがヘタに詰め寄ることができないのも、徳園は自覚していた。
「その事について、ですが」
有働は、先日のオブラアインの痴態が収められた動画をスマホで見せる。音量は小さくしてあるが、グウィィィン…ブィィィィンというモーター音が漏れ出る。
「なんだこれは…合成じゃないだろうな」
徳園は背後に誰もいないか確認しながら声を潜める。
「あなたの盗聴音声を頼りに寿司屋をまるめこみ、ホテルコクラ東京へ侵入し、オブライアン大統領を一晩中、玩具で陵辱してやりましたよ。彼は何度も射精しながら米合衆国の大物政治家の弱みや、世界中の大物たちの弱みも暴露してくれました。オブライアン大統領はすでに僕の奴隷です」
「まさか、私に…なにかするつもりか」
徳園が怯え始める。
「あなたのケツの穴にそれだけの価値がありますか?僕だって好きでこんな事してるわけじゃないので」
「では…なにが目的だ」
「今日はオフでしたよね?これから刈間市の文化ホールまで来ていただけませんか?あなたの車で移動しましょう」
有働は、歌うように言った。
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1時間後―。
「なんだ…彼らは…これは、いったい」
有働と徳園は、文化ホールのステージに立っていた。
徳園が目にしたのは、二千人収容のホールにぎっちり詰め込まれた若者たちだった。顔に大きな傷があるものもチラホラいて、彼らが健全な青少年ではないのは一目瞭然である。
しかしその全員が髪を黒く染め、学生に限れば制服、卒業した者たちはスーツにネクタイ姿だった。
「殷画に往訪、椋井…小喜田内市の中高生に、若者…二千三百名を集めました」
有働が手を上げると、二千三百人の若者は「有働さん、徳園さん、お疲れ様です」と合唱した。
「何のために?」
徳園の喉が、ごくりと動く。
「僕はこれだけの人数を集めることができます…それを踏まえたうえで、あなたにお願いがあります」
有働は真剣な眼差しで徳園を射抜く。
「どういうことだ」
「ここに集まった連中には、友人、後輩、兄弟と、さらに枝葉があります。潜在数にして、万と言ってもいいでしょう。あなたの後援会の高齢化を考えてみてください…数年先を見据えた場合、この辺りを基盤に政治活動をする以上、この数は武器になる」
有働は二千三百人を背景にして、両手を天使の翼のように広げた。それだけの人数を味方につけるか、敵に回すか。有働は薄笑いを浮かべる。
「昨日まで不良だった少年たちが、髪を黒く染めて有働くんに服従か…いかに君がカリスマなのか理解できたよ」
徳園は下を向く。
「お前ら、もう帰っていいぞ」
二千三百人は「有働さん、徳園さん、お先、失礼します」と一礼をしたのち、速やかに退場した。
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「それで、私にどうしてほしいんだ」
徳園がネクタイを緩める。
「僕があなたから奪った、あの金庫の中身を売って下さい」
有働はまっすぐ徳園を見た。
「そもそも、なぜあれを必要とする」
「それは言えません。しかし、出所があなただと決して口外しません」
「いくらで買うつもりだ」
徳園は歯を剥き出す。今まで見たこともない粗野な表情だった。
「僕の残高は八百万ちょっと…以前、同級生に刺された時の慰謝料です。でも、そんな額じゃあなたは納得しないでしょう」
「見返りに、金以上のものが用意できるというのか」
「二十年…いや十五年以内に…」
有働は、右手人差し指を徳園に向けた。
「…あなたを必ず総理にしてみせます」
「そんな言葉を鵜呑みにすると思うのか」
薄ら笑いを浮かべながら両手を上げた徳園。だが有働の表情は真剣だった。
「事実、あなたは僕に金庫の中身を奪われた。主導権は僕にある…しかし、僕はあなたを脅すのではなく、取引がしたいと言ってるんです」
「君の事は多少調べさせてもらったが…確かに断れば面倒になりそうだな」
徳園はおどけた表情を引っ込めた。
「面倒は俺も嫌いです」
「…その金庫の中身と私は、一切関係ない。以上だ」
徳園は有働に背を向け、軽やかにステージを降りた。
「はい」
「それと…」
広大なホールを眺めながら、徳園がステージ上の有働を振り向く。
「数年後、君がまっとうな人間として大学に合格したら…私の事務所にバイトで入りなさい」
「もちろんです」
有働は高い位置からお辞儀をした。
「楽しみにしているよ」と徳園が小さく呟いたような気がした。
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その日の夜―。
「ツトムか…早くまた会いたいよ。あれ以来、妻にナイショで色んなものを入れてる」
オブライアン大統領は国際電話で恥ずかしそうに言った。
「それより、中国共産党の反応はどうだ」
「米国メディアで今日はじめて、不死の実験テープの公開や、元シールズ隊員のアーロン・ボネットを証言者として取り扱って騒然となっている。だが、中国の国家主席、周遠源はシラを切っているよ…食えない男だ」
アーロン・ボネットは、あの日宜野湾市の爆発時、後方のジープに乗っていた隊員だ。証拠品が無事だったという事は、難を逃れたアーロンかジェフが所持していたのだろう。
「何度も何度も、揺さぶりをかけろ」
「わかった。脅威の再生能力をもつ昆虫と隕石の分析もはじめてる。もちろんその研究結果を合衆国が自国の為に使うことは永久にない。国際社会に警鐘として訴えていくつもりだ」
オブライアンの声は揺ぎ無いものだった。
「信頼してるぞ。それと、大統領権限で探してほしいものがある」
「なんだい?」
「アメリカ合衆国のどこかにある、人民解放軍幹部の愛人たちが住む、通称・愛人村だ」
有働は薄く笑いながら言った。
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「さて…どうやって中国に行くか。親父やお袋の理解なくしては、海外になど行けない」
有働は遠柴のアニメ会社が、一部のアニメ作画やグッズ制作などを中国に発注してることを思い出した。
「社会科見学とでも言うか」
壁を眺めた。
両親に見られぬよう、すでに内木の死体スケッチは剥がしておいた。代わりに貼った世界地図を眺める。中学の時に社会科の資料集についてきたポスターだった。
近くて遠い国――中華人民共和国。広大な土地と、壮大な歴史は、数々の野望と侵略、殺戮で紡がれてきた。その圧倒的な他民族性により精神的統一がなされなかったことは、隣で小さく浮かぶ日本にとって大きな幸運といえよう。
地図で見るちっぽけな国――日本は、大陸からの侵略や干渉されることなく緩やかな転換期を幾度も迎え、開国後一気に強国へと成長し日清戦争に勝利した。
「ちくしょう、未成年で高校生なんてめんどくせぇばかりだぜ。夏休みとはいえ動きに制限がかかるばかりだ」
有働はカッターナイフを取り出す。
「…だが、待ってろよ…チェルシースマイル」
ネット上で手に入れた劉水ことチェルシースマイルの写真をプリントアウトしたものを取り出す。やがて、その顔をカッターナイフで切り刻んだ。
中国当局が制限している為か、劉水についての情報は少なかった。五十代の実業家で上海在住ということは分かった。
だが、住所や年齢など、いくらでも捏造できる。カネさえ払えば政府がニセモノの戸籍を用意する事だってあるだろう。
「お前が何者か知らないが…必ず、見つけ出し…内木に謝らせてやる」
あの日、チェルシースマイルが、ヘリで梅島に降りていたことは、米国の衛星写真で確認済みだった。時間の詳細をオブライアンに調べさせたところ、チェルシースマイルがあの地に降りて三十分後に宜野湾市で爆発が起こり、その直後にヘリで帰っていったことも分かっている。
「殺してやるからな…待ってろよ」
有働は笑った。話に聞くところによるとチェルシースマイルは、とても残忍な男らしい。梅島で警備隊の責任者に銃を突きつけ、自ら右腕を切断させるなど拷問にかけていたというのだ。
最悪、彼を追う途中で有働自身が命を落とすこともあるだろう。しかし、友人やクラスメートの命を奪った男を、何もせず野放しにしておくことなどできなかった。
身内や友人、友人の家族を傷つける人間はどこの誰であろうと許さない。それが有働努という少年だった。
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ダルマ――生きたまま人間の四肢(両腕、両足)を切断し、頭と胴体だけの状態にする、清時代の拷問方法の通称。
とりわけ日本人女性のダルマは、近年も「見世物」「慰み者」としての需要があり、年間十万人にも登る日本人行方不明者のうち何パーセントかは、海外人身売買ブローカーによってダルマにされ、各国の愛好家たちに取引されているという。
今から、ちょうど六ヶ月前―。
中華人民共和国河南省――。
チェルシースマイルは農村地帯を越えて、ぽつんと佇むガレージの前にベンツを停車させた。
「旦那…いいダルマが入りましたぜ」
ガレージの裏口ドアを開けるなり、店主は下卑た笑みを浮かべた。頭は薄いが腹は迫り出ている。暮らしには不自由していない証拠だった。
足を踏み入れると異臭が漂う。
薄暗いガレージの中には縦幅の広いスチール棚が設置されており、そこには無数の蠢くものがあった。
「いつも思うが、部屋は明るくできないのか」
「やつらは明かりを怖がるんですわ。警察にも知られたくないんで、騒がれては困るもんでね…すいやせん」
店主の欺瞞。
商売を始めて数十年。地元警察はすでに賄賂で丸め込まれ、商売を黙認している。部屋に明かりをつけないのは、傷んだ商品の難を隠すためだった。
「国籍はどこだ」
チェルシースマイルの問いかけに、棚の中の呻き声が呼応する。
「アメリカ…カナダ…オーストラリア…インド…ベトナム…インドネシア…北朝鮮人…韓国人…日本…もちろん国内の田舎娘もいますぜ。雲南省の少数民族の血を引いて希少種かと」
「どれどれ」
チェルースマイルは自前の小型懐中電灯を懐から出し、照らした。店主は舌打ちを我慢し笑顔で手をくすねる。
棚の横幅は室内の四方合計で三十メートルほどで、三段で区切られていた。
並べられたのは、様々な人種の若い娘たち、ちらほらと男もいるが、殆どが女性ばかりだった。彼女たちは手足を切断され、ダルマ女として裸のまま紐で縛られ、棚に固定されていた。衰弱死寸前の骨と皮だけになっている者もいれば、つい最近手足を失ったばかりなのか、縫合部分が赤い筋となっているものもいた。
「病気持ちはいないな?」
手当たりしだい、ダルマ女の下半身を懐中電灯で照らす。
「ええ。あらゆる検査を済ませてます」
店主は汗を拭きながら答えた。
「傷口は」
「もちろん塞がっています。斬りおとす前に、きちんと破傷風の予防接種も済ませてますぜ…」
手前にいる、若くて豊満な体つきの欧米女性のダルマ女が英語で助けを求めた。懐中電灯で彼女を照らすと、糞尿が垂れていた。彼女だけではない。他のダルマたちも垂れ流していた。異臭の原因のひとつはこれだった。
「…まぁ、もっともアタマの病気まではどうもできませんがね…へっへっへ」
店主は笑う。
ダルマ女たちの中には真新しい痣をつくっているものもいた。近くには使用済みコンドームが落下していた。買い手がつかないダルマに関しては、レンタルに切り替えているらしい。
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「日本人はいるか!助けてやるぞ」
チェルシースマイルは流暢な日本語で声を張り上げた。過去に幾度と繰り返されたことなのか、店主はそれに動じない。
「私!私たちは日本人よ!助けて」
女の声が聞こえた。
懐中電灯で彼女を照らす。彼女は若干ほかのダルマ女よりも切断の位置が低かった。日本人のダルマ女は高値で売れるので、見栄えよく手足を剪定するのが業界の暗黙のルールだからだ。
「あの女を買う」
チェルシースマイルは即決した。
「そう仰ると思ってましたよ。あっしの見立ては当たりでしたね」
「何年ものだ」
「ここに入荷されたのは先週ですが、二年くらいあちらこちらを転々としてたみたいですね。前オーナーは観賞用として置いてたようなので、アッチの方の傷みも少ないです」
「確認済みなのか」
チェルシースマイルの問いかけに、店主は申し訳無さそうに頭を下げた。
日本人のダルマ女の陰部を懐中電灯で照らすと、隣に据え置かれた男のダルマが呻き始めた。
「この男も日本人なら買う」
照らし出されたのは、ボサボサ頭に無精ひげの骸骨のような男。
「自殺防止に舌を抜かれたようで喋れませんが、その女と夫婦ですわ。どうするおつもりで?」
店主の言葉に何も答えず、チェルシースマイルはカネを支払った。
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中華人民共和国北京市某所――。
日本人のダルマ夫妻はチェルシースマイルの所持する倉庫内に招き入れられた。この倉庫は三階建てで部屋も複数あり、頑丈かつ機密性に優れたこの倉庫の実態を知るのはごく数人であった。
「ラクにしてくれたまえ。君たちの名前は?」
流暢な日本語で夫婦に自己紹介を促す。
テーブルを挟み、手足のない夫妻は椅子に置かれた。女のほうは緑の安物のワンピース、男の方は裸のままだった。
「奥さんの方は喋れるんだろう…?君たちをあそこから出す為に高いカネを払ったんだ…がっかりさせないでくれ」
部屋の隅で部下たちが料理を始めた。コンロは複数あり、鍋が音を立てている。
「山田…私は山田陽子…主人は山田俊夫です」
向き合って左側に置かれた女の方が口を開いた。
二年に及ぶ壮絶な暮らしのせいか目に光はないものの、前オーナーのメンテナンスがよかったのか、女としての美貌は備えていた。年の頃、三十代半ばか。髪はボブ。多少歯並びが悪いものの、目鼻立ちははっきりしていて、隣の旦那は彼女を口説き落とすまで多少、苦労をしたかもしれない。
「まぁ、そう怖がらなくていい…その、なんというか…災難だったね」
チェルシースマイルは山田陽子の胸の膨らみを眺めながら言った。
「日本大使館には連絡していただけましたか?」
疑う素振りも見せず彼女は言った。日本人とはなぜこんなにも愚かなのだろうと笑いを堪えるのに必死だった。
「その前に、せっかくだから美味いものを食べていってくれ。いつからそんな身体に?」
「に、二年です…旅行中に…男たちにさらわれて…」
店主からの情報は正確だった。次からもあそこを贔屓にしよう、とチェルシースマイルは思った。
「陽子さん、君は性的暴行をうけたかね」
山田陽子は俯く。彼女の隣の旦那が顔を歪めた。
「答えなくていい…堕胎はしたかね?これだけは教えてほしい」
「いえ」
消え入りそうな声だった。
「妊娠経験は?」
「日本に…今年、五才になる娘が…」
彼女は声を詰まらせた。
「安心したよ…流れやすくはなさそうだ」
チェルシースマイルは口唇左端の刃物傷を歪めつつ、微笑んだ。
「え?」
「おい、君たち…あれは、もう煮込んであるか」
チェルシースマイルはスーツ姿のままシェフをこなす部下三名に声をかけた。
「三つご用意しました」
屈強な男たちが鍋を三つテーブルに置いた。出汁の利いた芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
「美味そうだな…君たち、腕のないご夫妻に代わって、それをクチに運んで差し上げなさい」
いじきたなく鍋の中身を覗くチェルシースマイルをよそに、部下たちは中身のものを三者の皿の上に乗せ始める。
「よく煮込んであるな」
チェルシースマイルは部下たちを褒め称えた。
「なんですか!これ!!」
山田陽子が、鼓膜をつんざくような声をあげた。
「6ヶ月で中絶された胎児だよ。私の国では人が増えすぎてしまってね。男子ならば家督を継ぐため産むが、女子の場合こうして中絶される。地域によっては、産む事ができなかった胎児を滋養強壮のために食べる習慣がある…人肉は栄養価が高いんだぞ」
野菜やキノコ類と共に煮込まれた灰色の胎児たち。ひとり一皿。一皿につき一人の胎児。それぞれ手足を丸めて目を閉じたまま調理されていた。
「こんなもの…食べられません」
山田陽子が吐き気を堪え、手足がないながらも身体を横に仰け反らせた。
「これを振る舞う為に、向こうの部屋で三人の女が腹を裂かれた。命に報いる為にも、残さず食べるのが礼儀だとは思わないかね」
チェルシースマイルは厳しい口調で諭した。
「どういう意味ですか?」
「まぁ、いい。日本人は高い教育と礼儀を身につけていると思っていたんだがな…」
胎児の右足を千切り、口に運び喰らいつく。
「たーめねねぬわねなだお」
山田陽子の夫、山田俊夫が発狂した。舌がないため何を言っているかわからない。だがおそらく「たべれるわけがないだろう」と批難しているのだ、とチェルシースマイルには理解できた。
「たべろ!!!!!」
山田俊夫の頭をテーブルに叩きつけた。皿が砕け男の額がパックリ割れた。テーブルクロスは鮮血に染められた。
「たべろ!小日本人!」
小日本人――日本人を侮辱する言葉だった。チェルシースマイルの唇左端の傷が歪む。怒っているわけではない。ある事情で彼は「怒る」という機能を失っていたからだ。だが、自分が侮辱された時に限り、チェルシースマイルは「憤怒する自分」を事務的に演じてきた。
「ぐぎぎぎぎ」
舌を失ったダルマ男こと山田俊夫は、言葉の代わりに反抗的な目をぶつけてきた。隣ではダルマ女の山田陽子が「あなた、やめて」と叫ぶ。
「食わないなら、お前は罪人だ」
チェルシースマイルは嗤った。切り裂いたような左頬の刃物傷が醜く歪んだ。
「やめてください」
「文化大革命まで、我が国が罪人にどのような罰を与えたか教えてやろう…」
山田陽子の懇願など聞かず、チェルシースマイルは部下たちに顎で合図を出す。部下たちは迅速に動き始めた。
「おい、お前ら、このダルマ男を磔にしろ」
ダルマ女に比べ、需要の少ないダルマ男には充分な食事が与えられなかったのだろう。痩せっぽっちであばらの浮き出た芋虫のような男を、屈強な男の一人が片手で担いで言った。
「なにをするんですか…やめてください…やめてください…主人を放してください…お願いします」
山田陽子は泣き叫ぶ。
「凌遅刑(りょうちけい)に処す」
チェルシースマイルは満面の笑みを浮かべた。
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凌遅刑(りょうちけい)―。
歴代中国王朝が科した刑罰で最も残虐な処刑方法。磔にした罪人の肉を少しずつ切り落とし、途中休憩を入れ、気絶しないように叩き起こしながら長時間にわたって激しい苦痛を与え死に至らすというものであり、歴史は古く「水滸伝」にも記述が確認されている。
現在も膨大な写真資料がインターネット上に遺される、その処刑方法の詳細―。
磔にした罪人を刻む際は、左胸肉、右胸肉、左上腕筋、右上腕筋、左大腿、右大腿、左肘下、右肘下、左膝下、右膝下、そして最後に首を斬り落とす。
人肉は栄養価が高いと信じられていたため、野次馬たちは削ぎ落とされた罪人の肉を奪い合い、夜の食卓に並べた。
「おやおや、もう気絶か。侍の国が聞いて呆れるな」
天井から吊るされた山田俊夫は、数十分後、左右の胸肉、左右の上腕の肉を失っていた。気絶しないように何度も顔を殴打され、鼻がひしゃげ顔が腫れあがり、舌がないながらも、何かを呻いていた。
血と失禁の臭いをごまかすようにして、香ばしい油と肉の焦げる香りが充満してきた。
チェルシースマイルの部下たちが複数のコンロを器用に使い分け、山田俊夫の肉片を煮たり、揚げたり、炒めたりしているためだった。
「もうじき料理ができるぞ」
チェルシースマイルは嗤った。胎児の肉を食いながらこの食欲だ。彼の部下が料理上手になるのも無理はなかった。
「なんで…なんでこんなこと」
山田陽子が座らされた椅子の上で、糞尿を漏らしながら嗚咽する。
「今度は君が頑張る番だ。次の料理の前に少し運動をしよう」
チェルシースマイルは、食いかけた胎児の肉片を皿の上に置くと、立ち上がった。
「なにする気…」
「旦那はまだ意識があるだろう…」
チェルシースマイルは、上等なスーツのズボンを几帳面に折りたたみ椅子に置くと、下半身だけ裸の状態で山田陽子のもとへ歩み寄る。
「やめて」
黒い茂みに生えた毒々しいキノコは、恥らうこともなく上を向き、パックリ割れた裂け目からは透明の雫が蜂蜜のように垂れていた。
手足が欠如した状態にあっても、山田陽子は逃げようともがいた。結果、椅子から転げ落ち頬を強打したようだが、まだまだ這いずり回る。
「こないで」
「君は堕胎経験がないと言っていたね…出産経験もあると。期待しているぞ。骨盤も広く美味しい胎児が育ちそうだ」
チェルシースマイルはナイフを翳し、芋虫のような山田陽子を仰向けにすると、糞尿に汚れた緑のワンピースを縦に裂いた。
「おねがい」
切断された手足がもぞもぞと動く。汗まみれの乳房が顕になった。二年に及ぶ壮絶な生活にあっても、彼女が女性らしさを失わずにいたのは、前オーナーの美的センスに感謝するより他はない。
「おねがいだから」
大声で懇願する一糸纏わぬダルマ女を、易々と抱え上げテーブルに乗せた。彼女の寸足らずな足を広げ顔を埋める。
やがてチェルシースマイルによる手練手管の舌技によって、山田陽子は不本意ながらも反応させられた。粘着質な音が響き渡るまでに要した時間は、実に三分。
「おい、その旦那を起こせ。起きないなら刃物を突き刺してでも起こせ」
部下の一人によって、包丁が山田俊夫の右胸に突き立てられた。
ダルマ男の覚醒を意味する呻き声を確認すると、チェルシースマイルは恥じらいもなく、嬉々として男女の生殖パズルを彼に見せつけた。加害者と被害者の状況にも関わらず、皮肉な程それは見事な完成品であった。
「悔しいか…日本人…」
激しい痛みに耐え妻の恥辱を視認する夫。成す術もなく慰み者にされた妻。
芋虫と化した夫妻にも、人としての羞恥が脳の片隅に残っていたのだろう。状況を理解すると、子供のように泣き喚き始めた。
「窮屈で痛いか…旦那のとは比べ物にならないだろう?」
チェルシースマイルはわざと乱暴に腰を揺すり、音を立てながら結合部を見せるようにして山田俊夫に笑いかける。双方の体液が混ざり合い撹拌され濁った蜜が糸を引いて大量に溢れ出し、床に垂れた。
「やめ…」
山田陽子はそう言った後、狂ったように笑い始めた。放物線を描いてチロチロと尿が垂れ流される。
「恐怖が増すごとに受精率があがるという統計を聞いた事があるか?戦時、敵兵に乱暴された私生児が多いのはそのためだ」
唇の左端にある裂けたような刃物傷を歪め、チェルシースマイルは山田陽子に甘美な接吻をはじめた。
「いいぞ…いい具合だ…」
「あはははは…あはっ…あははははっ」
彼女の笑い声につられて、思い出したかのように通路の向こう側でも複数の女の呻き声が響きはじめた。言葉はみな日本語だった。
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