第28話 女CIAエージェントと権堂辰哉

 ニューヨーク市―。


 アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州の南東部に位置し、ワシントンD.C.とボストンのおよそ中間にあるこの街は、陸地面積およそ790km²に対し市域人口8,175,133人を有する巨大都市である。


 マンハッタン島南端とブルックリンを結ぶ古ぼけた巨大な橋を尻目に、自由の女神に背を向けウォール街、ダウンタウン、さらにゴッドスピード・センターをはじめとする巨大ビルが密集するミッドタウンを抜ければ、アップタウンが顔を出す。


 六月をむかえ気温は二十六度。


 アップタウンでは、巨大都市公園「セントラルパーク」を囲むようにして乱立した高層ビルの隙間を、週末の雲ひとつない晴天を見上げながら、思い思いのサングラスをかけたニューヨーカーたちの姿が見られた。


 忙しなく摩天楼で働き、暮らすビジネスマンたちの週末。


 満ち足りた生活に笑顔。拭う汗の雫さえ眩しい祝福されたこの街から少し外れ、川を越えれば「ブロンクス区」に行き着く。


 サウスブロンクス―。

 広がるのは、太陽に照りつくされたゴーストタウンだった。


 犯罪の腐臭を放つ墓標のようなビル群。

 大通りを南西に行けば、かつてこの街を取り仕切ったマフィアたちの名残―、プエルトルコ国旗が目立ち始める。


 しかし、相変わらず人影はない。この区域の住人にとっての朝は日没である。


 さらに南へ―。

 そこには、政府が介入して立てられた「プロジェクト」と称される低所得者専用住宅街があった。


 もうじき陽が沈む。

 少し気の早い薬の売人たちや、薬切れの娼婦たちがぽつりぽつりと街頭に立ち始めていた。ここ数年の「浄化政策」で表向きは綺麗に整備されたものの、犯罪の芽が絶たれることはない。


 毎週この区域のどこかで、たった数十ドルのために誰かが死ぬ。犯人は捕まらないことの方が多かった。


-------------------------


 6月13日(土)

 16時過ぎ―。


 アメリカ合衆国中央情報局―、通称「CIA」エージェントの、シンシア・ディズリーは、サウスブロンクスの無表情な大通りに、黒のセダンを停車させた。


 饐えた街の空気に顔をしかめ、黒縁メガネを外す。


「姉さん、欲しいものないかい?」


 胸元の開いた上下黒のパンツスーツのシンシアを見てカモだと思ったのだろう、ブカブカなTシャツにスウェットジーンズ姿の売人と思しき小柄な黒人青年が声をかけてきた。


「あら、アンタに用意できるかしら」


「いい身なりだね。この辺の人じゃないだろ?姉さんどっから来たんだい」


 売人は数分間シンシアと話し込み、やがて粉袋を仕舞い込むと、あからさまにヘコヘコしはじめた。


「いやぁ~まさか、姉さんがホワイトさんのお知り合いだとは思わなかったっすよ」


 売人は鼻を啜った。


 マイケル・ホワイトはこの辺一体の商業施設を買い占めた有力者だった。彼に好かれれば警察からどんな犯罪のめこぼしも効くし、うまい儲け話も転がってくる。


 売人はシンシアに媚を売り、何かしらの美味しい話が彼女から飛び出さないかと期待しているようだった。


「彼は私の姉の恋人だったヒトよ。それより…今夜のイベントの手配をしてくれない?」


 シンシアは、束ねてあった豊かな金髪をほどき、ウェーブがかったロングに戻すと、バッグから取り出した数百ドルを売人に渡しながら言った。


「イベントって、どっちのっすか?」


 売人は受け取った金を慌ててポケットに入れながら、くしゃくしゃのレシートの裏にボールペンを走らせる。


「格闘(ファイト)の方よ。あそこって会員制でしょ?アンタんとこのボスに口を聞いてもらってメンバーズカードをつくってもらいたいの。時間はそうね、二十一時に間に合えば問題はないわ」


 シンシアのギリシア彫刻のような美貌に、どこかのレズでもいける娼婦が口笛を吹いた。溜息が出た。


 ここ数年のシンシアは、仕事は別として、プライベートではまったく男日照りの上、なぜかレズビアンに寄ってこられることが少なくなかった。


「あんた、男ではイケないたちでしょ?舌で痙攣させてあげるよ。あたしを買わない?」


 娼婦の安物の香水の匂いが、シンシアと売人の鼻腔をひくつかせた。娼婦はいい女を客にして、さらにクスリでも恵んでもらおうという魂胆だろう。


「よく誤解されるけど、女には興味ないの」


 シンシアは娼婦に冷たく言い放った。しばらくして、舌打ちとともに下品な香りは消えた。


「場所はそこの大通りを右に曲がって三軒先の雑居ビルにある…ワルキューレってクラブ、地下一階です。カードは二時間もあればつくれます。んじゃ、俺いったん戻ってボスに頼んできますんで。二時間後ここで待っててください」


 売人は消えた。おそらく彼の取り分は半分以上だろう。シンシアも敢えて値段は聞かなかった。多めに金を掴ませればあの売人は「次回のなにか」に期待して必ず戻ってくるからだ。


「頼んだわよ」


 シンシアが大声で言うと売人は振り返り笑顔で手を振った。シンシアは少女のような笑顔を浮かべ、今宵、出会うであろう「ある日本人」について知りえる限りの情報を反芻しはじめた。


 二時間後、売人はきちんと約束を守り、シンシアは予定通りメンバーズカードを手に入れた。


-------------------------


 同日―。

 21時―。


 髪を巻いて化粧を直し、ボディラインが目立つ白のワンピースに着替えたシンシアは、雑居ビルの階段を降り、黒地にシルバーの文字で「Walküre」と印刷されたメンバーズカードを差し出す。


 カードの裏のサインを数秒間凝視したのちに黒人セキュリティがトドのように太い首を上下に揺らしながらドアノブを開けた。


 金属の軋む音とともに広がった世界―、元々ライブハウスだったそれほど広くないフロアには、キャパぎりぎりの五百人ほどが密集していた。


 灰色の打ちっ放しコンクリート壁には、いくつかの缶スプレーを贅沢に使いこの上なくリアルに描かれたライオンや虎、豹と戦う男たちのポップアート。


 何人かの男がシンシアを見て口笛を吹く。シンシアはまんざらでもなさそうに笑う。プライベートの私だってレズにばかりモテるわけじゃないのよ―、と。


 シンシアは瞬く間にリングを囲む人いきれに揉まれながら観客たちの熱狂の渦の中に放り込まれた。


 すでに終わった前試合で目星の戦士(ファイター)が惨敗したのだろう。大損をしたであろう中年の黒人が呪詛を呟きながらシンシアにぶつかり、人の流れに逆らいながらフロアを出て行った。


「それでは今宵のトーナメント、決勝戦です」


 シンシアが壁際のカウンターでコークを注文してる最中にイベントは終わりを告げようとしていた。しかし問題はない。目的は最後にあの男が勝ち残るかどうかを確かめることだった。店員が渡してくれたコークを流し込む。むんむんとした熱気に冷えた炭酸が喉仏に心地よい。


 空になったプラスチックのコップをカウンターに置くと、群集の最後尾に立つ。高いヒールを履いていてよかった。元々、シンシアは女性にしては背が高い方だった。少し離れた場所に立つスキンヘッドの大男と同じ目の高さで苦も無く遥か先のリングを見た。


 巨躯の白人と、筋肉質の東洋人が、向かい合っていた。


 両者共に上半身は裸。両手にグローブなし。マウスピースも嵌められていない。これは歯が飛び散るのを観客が喜ぶため、主催者側からの指示によるものだった。


「ここ2ヶ月、負けなしの王者…日本からの刺客、ミスター権堂!」


 怒号と歓声、嬌声が入り混じった騒音がリングに向けられる。僅かに怒号の割合が多い。東洋人が無敗の王者として君臨する事を良しとしない連中だ。


 シンシアは無敗の王者・権堂のことを少しは事前に調べてあったし驚きはなかったが、何も前持った情報が無ければ少し戸惑ったかもしれない。王者は白人か黒人のどちらかだろうと誰もが思う。


(ミスター権堂には白人女を抱く勇気があるかしら)


 シンシアは思った。もしも権堂が今宵も王座を防衛できた場合、権堂に接近しなければならない。


 権堂を見つめながら、下着の中で汗と愛液により湿った襞が疼く。仕事とはいえ、彼女の経験のいくらかは東洋人たちに仕込まれたものだった。身体に刻まれた記憶ほど正直なものはない。


「勝つかしら」


 シンシアは呟いた。東洋人特有の薄い顔、浮き上がる筋肉の束。権堂になら、仕事の話が終わったあと、抱かれてもいいと思った。


「対するは…アトランタからやって来た猛獣!ミスター・ディクソン!!!」


 シンシアの食道を、コークの先ほど飲み干した炭酸がかけあがる。


 げっぷを頭上でされた、小柄な金持ち御曹司風の男が不愉快そうにシンシアを見上げるが、彼女の美貌を確認すると笑顔でウィンクしてきた。連れはいないようだった。


 ひょっとするとこの試合が終了したあと、この御曹司の方から何らかの誘いの言葉があるかもしれない、とシンシアは思った。場合によっては一杯つきあうくらいならいいだろう。そう思った。


 適当なところで女としての価値を取り戻さねば、自分がどこか遠い場所に流れ着いてしまうような気がするからだ。


 しかし、この御曹司と、グラスを傾けあうかどうかはミスター権堂の頑張り次第ということになる。「どうせなら、ミスター権堂に勝利して欲しいわ」それがシンシアの本音だった。


 シンシアがウィンクし返すと、心の中で権堂と天秤にかけられ、負けてしまったことも知らない御曹司は、満足そうにリングの方へ顔を戻した。


 レフェリーが睨みあう双方にルール説明をする。


 武器の使用をしないこと。金的、目玉への攻撃はしないこと。ストップが入ったらただちに相手への攻撃を中止すること。テンカウントかギブアップで勝敗が決まること。絶対に相手を殺さないこと。


 それぞれ首の間接を鳴らしながら説明を聞き終えると「ファイト!」の掛け声とともに、戒めから放たれた野獣のようにぶつかり合った。


-------------------------


 最初に仕掛けたのはディクソンだった。

 右ストレート。


 それを紙一重でかわす権堂の右ナックル・アローが、ディクソンの脇腹を抉る。

 胃液が飛び散る。


 苦痛に顔を歪め、蹲(うずくま)る、白い巨人。

 容赦ない東洋人の、右膝蹴り。


 ディクソンは背を丸め、胃液を吐き出す。

 権堂の追撃―、ディクソンの頭上へ容赦ない右ナックル・パート。


 頭蓋を強打し、脳震盪を起こしたディクソンは、重力を失い地に伏せた。

 レフェリーがカウントを始める。


 負けていられないディクソンは底力を見せる。

 立ち上がりざま、よろけながらも繰り出した右アッパーが、権堂の顎を正確に射抜く。


 手負いの野獣の牙。

 権堂のよろめき。

 血飛沫は緩やかに放物線を描き、最前列の観客に降りかかった。


 すかさず権堂の脊髄へ、ディクソンのハンマー・ブロー。

 権堂が背を丸め、腰を折った。

 吐き出される胃液。


 野獣ディクソンの本領発揮の瞬間。

 漲る殺意。

 瀕死の権堂へぶつけた、讒謗の言葉。


「日本人(ジャップ)め!一生、車椅子だ!」


 言葉にならない英語を叫び、岩の固まりにも似た両手を組み合わせ、ダブル・スレッジ・ハンマーを、権堂の首へ振り下ろす。


 間髪。

 権堂は、首から上に上げた左肘で、それをガード。

 

 ディクソンの拳は、権堂の肘にあたり、流血を起こす。

 飛び散る鮮血。

 低い呻き声。


 苦悶のディクソン。

 好機を逃さぬ、権堂の笑顔。


「白デブ!顎と鼻をもらうぞ」


 権堂は体当たりを繰り出し、ディクソンが吹っ飛ぶ。

 本人の意図とは関係なしに、その190センチの巨体はリングのロープへ跳ね返った。


 リングの中心に向かい弾んだディクソンへ権堂は突進し、その顎へと右ランニング・アッパーカット。

 お互いの勢いが交差し、ディクソンの顎がバカ正直にひしゃげた。

 白目を剥く、巨人。


 そこへ権堂からの、今宵最後の贈り物―、オープン・ハンド・ブロー。

 強靭な手首が、瀕死のディクソンの鼻柱を一瞬で粉砕。


 ドスンという音と共に勝敗は決した。


「今までで一番、手ごたえがあったぜ」


 権堂の賛辞の言葉は、ディクソンに届かない。

 試合時間、実に三分十七秒だと、屈辱的な事実を彼が知るのは、担ぎ込まれたこの付近の闇医者のベッドの上でだろう―。


「勝者、ミスター権堂!!!」


 歓声と怒号の中、権堂は賞金五千ドルを受け取りクラブを去った。


-------------------------


 権堂は歩いていた。シンシアはそのあとを追ってゆく。ハンドバックには、御曹司からもらった名刺が入っている。


 東洋のサムライはくたびれたザックを右肩に背負いながらも、王者たる誇りを失っていない。まっすぐ背筋を伸ばしながら路地裏を進んでいる。


「おい、金を出せ」


 建物の隙間から二人組の男が現れた。


 甲高い声からして、この辺に住むティーンだろう。二人は、それぞれ構えたシングルアクション式リボルバーの銃口を向け、権堂を前後に挟み込んだ。


「出すもん出せよ、あるだろ?」


 口ぶりからして、彼らは権堂が連勝中の格闘家(ファイター)だと知っているようだった。目当ては今夜の賞金なのだ。シンシアは権堂がどう対処するのか興味が沸き、建物に身を隠した。


「金を出さなきゃ撃つぞ!」二人は親指で、撃鉄をおこした。


 シンシアが成り行きを見守っていると、権堂は容赦なく二人の持つリボルバーの銃身を左右の手ですばやく掴み、腕力に任せてねじり上げた。


 空に向かって、パン、パンと、二発の銃声。

 権堂の腕力に押し負けて耐え切れなくなり、思わずティーンたちは引鉄に力を込めてしまったのだ。


 権堂はいったん両手をそれぞれの銃身から離すと、ティーンたちが再度、撃鉄をおこす前に、それぞれの鼻柱に鋭い右ストレートを、ちょいちょい、と喰らわせた。


 鼻骨の砕ける音。

 ウール素材の目出し帽から、パッパ、と飛び散る血。


 悲鳴を上げた二人は、リボルバーを投げ捨てて去っていった。


「二度と俺に関わるな。次はアタマをかち割るぞ」


 おそらく短期で取得したであろう、最低限の単語かつブロークンな英語でそういうと、権堂はちゃっかりとリボルバーを拾いザックに入れた。おそらく明日あたり、どこかで売りさばく算段なのだろう。


「やるじゃん」


 シンシアは呟いた。

 権堂の抜け目のなさが、妙に気に入った。


-------------------------


 そのあとも、シンシアは一定の距離を保ち、権堂の後を追った。どのあたりで声をかけようかと胸をときめかせていた。


「どこの誰かは知らんが、尾行してるのはわかるぞ」


 血に飢えた獣の低い呻り声。振り向きもせず背中越しに権堂が言い放った。主導権を握られたシンシアは舌打ちを堪えた。


「いい男だと思ったからさ。私と遊ばない?」


 裏声でシンシアは言った。それを聞いて権堂は左右の首の骨を鳴らした。


「商売女は消えろ」


「冗談よ。ミスター権堂」


 シンシアは、英語から日本語に切り替えた。


「日本語を喋れるのか」


 歩みを止め、首だけ振り向いた権堂は、ブロークンな英語から流暢な日本語へと切り替えシンシアに訊ねてきた。だがその眼光から警戒さは消えていない。


「私、日本のアニメ、アイドルが好きなのよ」


 シンシアは笑った。


「何者だ」


 シンシアの微笑みに権堂は不快感を現す。こういった直情型の男の信頼を得るには、もったいぶらずに手の内を早めに明かさなければならないことをシンシアは知っていた。


「私はシンシア・ディズリー。こう見えてアメリカ合衆国中央情報局のエージェントよ」


「…CIAが俺になんの用だ」


 権堂は眉根を顰めた。


「そんなに警戒しないで」


「用件をさっさと言え」


「単刀直入に言うわ。あるクレイジーな奴から、この世界を救ってほしいの」


「寝ぼけたことをぬかすな。それはお前らの仕事だろ」


 権堂は再び背を向け歩みを進めた。


「FBIやCIAはおろか、軍隊すら手が出せない特別な事情があるのよ。ミスター権堂、貴方があと一ヶ月も試合(ファイト)に勝ち続ければ、記録更新間近でそのミスター・クレイジーが自分の記録を破られないようにメンツをかけて貴方にリングで戦いを挑んでくるはず。そのとき奴をある方法で仕留めてほしいの。報酬もあるわ。十万ドル。やってくれるなら手付金で半分、今夜中に払ってもいい」


 歩みが止まる。二人の距離は縮まった。シンシアはヒールを履いた自分より少しばかり背の低い権堂の右肩に手を乗せて言葉を続けた。


「良ければ、アップタウンの方で一杯飲まない?」


「くだらん話ならすぐに帰るぞ。それにお前の奢りだ。今夜の賞金は一セントたりとも使わん。いいな」


 にべもなくそう言い放った粗野な日本人は、ようやく身体ごとシンシアに向き合った。


-------------------------


 談笑と嬌声。

 心地よいカントリーミュージックをBGMに、さほど広くはない店内では週末のビジネスマンと彼らに口説かれる為にやって来た女たちで賑わっていた。


 シンシアはギムレット、権堂はマティーニ。


 暖色の間接照明に照らされ、一番奥の席で二人は向かい合いながらグラスを傾ける。


 シンシアは卓上に、大判のカラー写真を広げた。


「これが、さっき言ったミスター・クレイジーよ」


 男らしい骨ばった輪郭に、短く刈り込まれた黒と金のツートーンヘア、人形のように輝く青い義眼―。


 それらは大手軍事企業CEOマイケル・ホワイトを様々な角度から捉えた写真だった。


「彼の名はマイケル・ホワイト―、通称ドールアイズ。アウグスティン社CEOにして政府主導の宇宙開発事業の出資者でもある」


 シンシアは細くしなやかな手つきで、テーブルに4枚の大判写真を指しながら言った。


「俺にこいつをどうしろと?」


 権堂はマティーニを飲み干し、オリーブの実を口に含みながら訊ねた。


「彼は…母親と恋人の死をきっかけにある妄想にとりつかれ、人類大量虐殺と救済を計画しているの。いわゆる…そう、ヨハネの黙示録第九章十三節、第六のラッパ吹きの再現」


 シンシアはギムレットに口をつけ、ライムの吐息で権堂に答えた。恋人の死…そうシンシアの姉が死んでからというものドールアイズの偏執狂は加速を増していった。


「ヨハネ黙示録?」


「天使が人間の三分の一を殺した、という世紀末思想。ドールアイズは、自らが神となり、救世主となり…人類の剪定(せんてい)をするつもりらしいわ」


 カクテルグラスに添えられたライムをつまみながら、虚ろな目でその輪切りの断面を天井に翳す。権堂は、そのシンシアの戯れを制して言葉を促した。


「そんなこと…どこかのヤバイ国家ならともかく、一個人がどうやって可能にする」


「宇宙開発に関わっていた彼は、政府に偵察衛星と偽り、借金まみれだった技術者を秘かに買収し、宇宙核兵器―、神の杖を打ち上げさせた」


 そういいながら、スライスされたライムを右手で握りつぶす。シンシアの握りこぶしからは果汁が滴り落ち、テーブルに水滴ができた。


「神の杖?」


「小型核爆弾を収納した、いわゆる宇宙兵器よ」


 まだ果汁は溢れ続けている。シンシアの瞳が熱を帯びてきた。彼女の脳裏に―、ドールアイズこと、マイケル・ホワイトとの記憶が蘇える。


「共謀した研究者がいうには―、軌道上に配備された神の杖は現在四つ」


 手の平をぱっと広げ、ぐずぐずになったライムを見せながらシンシアは言う。


「神の杖の、各宇宙プラットホームには無数の小型核ミサイルが仕込まれていて―、ドールアイズが発射指示を出せば、宇宙空間に待機している管制衛星によってミサイルの誘導が行われ、瞬く間に地球を太陽に変えることができるほどの小型核爆弾で世界全域を攻撃することができる。電磁波を放出せず時速一万千五百八十七キロで落下する小型核ミサイルは、現在の技術では探知できず迎撃は不可能…」


 シンシアは一息ついてから言葉を続ける。恐ろしい真実を。


「…成す術を持たない私たちが口をぽかんと開けてる間に、宇宙からの核ミサイルが上空五百五十メートルで起爆。核融合と核分裂を起こし、世界中でキノコ雲があがる。あの日のヒロシマとナガサキのようにね」


 権堂は、シンシアの手でぐずぐずになったライムを見つめながら言葉を失っていた。そして何かを言いかけてやめ、それでも何かを言おうと顔を歪めている。


 東洋人と西洋人の違いはあれど、どこか権堂はマイケルに似ているな、とシンシアは思った。


「そんなことが可能なのか」


 権堂は、やはり先ほどと似たような質問を繰り返した。


「現に彼は、数年前にロシアのチェリャビンスク州北部―、チェバルクリ湖周辺と、その西方ズラトウストに、神の杖からテスト用の小型爆弾を落としているわ。ネットで調べれば記事が出てくるほど有名な話よ。原因を解明できなかったロシア当局は隕石という発表で済ませたみたいだけど」


 シンシアはギムレットを飲み干し、ぐずぐずのライムを頬張った。


「米国政府がそれに気づいた頃には時すでに遅し。宇宙条約に抵触し、国際社会からの批難を怖れて、公にできないままドールアイズを怖れ、彼の顔色を伺う日々…」


「なら…殺すか捕まえるかすればいいだけじゃないのか」


「問題はそこよ。元々、彼が政府の資金源だという事情もあるけど…それよりも深刻な事実が、二つ判明している」


 権堂の唇に、シンシアはしなやかな右手人差し指をくっつけながら言った。権堂は「やめろよ」と動揺したが、話の続きを知りたいようで何も文句を言わなかった。


「まず一つ目、その高度な迎撃防衛システムのため、衛星攻撃兵器による神の杖の破壊は不可能ということ。攻撃してきたミサイル発射元の国の主要都市へ、小型核ミサイルによる報復プログラムが起動してしまうというオチもつくわ。戦闘機を用いて、高度二万メートルから発射する衛星キラーですら通用しない…いかなる方法であれ神の杖に向かって攻撃をすればその国は破壊される。そして二つ目。彼…ドールアイズが死んだ場合、その義眼を通して心拍数モニターが管制衛星に転送され…、脈拍ゼロになった時点で、神の杖のプログラムが全起動するようにセットされているってこと…。彼の死後すぐに、大量の核ミサイルが一気に降り注ぎ、彼と共に全人類が心中させられるという文字通り最低最悪の事態ね。また生け捕りをしても…」


 シンシアは権堂に差し出した人差し指を、今度は写真の中のドールアイズの両眼部分に移動し、こう言った。


「…彼が、この忌々しい義眼を数秒間、ある一定のリズムで動かせば、それが脳内チップに暗号として伝わり、頭の中で自動的に爆発する仕組みになってて…簡単に自殺ができてしまうってわけ」


「まさか、そんなことが…人類は一切手出しができない、天に君臨する神ってやつか。兵器としては完璧なんだろうが…そんなものを打ち上げたこいつは、とんでもない野郎だ」


 権堂は鼻を膨らまし、ドールアイズの写真を睨みつけた。


「まさに、それ以上の言葉が見つからないわ。日頃からトラブルまみれの彼を、殺すどころか生かすため、遠巻きでCIAエージェントが保護しているっていう皮肉な状況よ」


 テーブルに並べられた写真のドールアイズは笑っていた。そこにシンシアの爪が忌々しく、食い込む。胸が疼いた。


 ドールアイズ―、マイケルの言葉が蘇る。


「俺はこの世界を壊してやる―。アリシアを殺した世界を呪ってやる。俺からすべてを奪った神とやらに、復讐してやる。この俺が神ではなく世界一の悪役(ヴィラン)として、人類の剪定と救済をするんだ―」


 マイケルはアリシア―、姉のことを語るたび、狂人のように笑いながら涙を流していた。あの日の彼が今の彼自身を狂わせているのだ。ドールアイズを救うには、彼を…


「ではどうしろと言うんだ」


 権堂の言葉によって、シンシアは我に返った。


「彼が無防備に他人と接触する唯一の機会…、試合(ファイト)中に、彼から二つの義眼を抉り取ってもらいたいの」


 シンシアの爪は、まだドールアイズの写真に食い込んだままだ。


「義眼がなければ、彼と神の杖を繋ぐ回路は切断されるわ。そしてもう一つ、管制塔と繋がる彼のスマホを回収すれば神の杖を宇宙ゴミにできる。そっちはドールアイズが義眼が使えなくなれば悠々と回収できるから心配しないで」


 管制塔と繋がるスマホはドールアイズの手元にあるのだが彼の目が見えるうちは奪えない。ドールアイズは用心深い男だった。


「ならば話は早い。目玉への攻撃は反則だが…報酬の半分を今夜中に用意できるなら、やってやる。もちろん面倒にならないよう、CIA(そっち)には動いてもらえるんだよな?」


 シンシアは頷く。

 権堂は、空になったグラスを傾け「もう一杯飲むか」と呟く。


「油断はしないで。彼はあの闘技場での記録保持者なのよ。プロの格闘家すら歯が立たない。簡単にはいかない」


 シンシアは権堂を窘める。権堂はそれを意に介さなかった。


「メンツにかけて、いつかタイマンを申し込みたい大親友(ヤツ)がいるんだが。その前の肩慣らしにはもってこいだ」


 権堂は笑った。粗野な顔立ちながらも完璧な歯並びが魅力的だった。


「自信はあるの?」


「自信どうこうじゃない。メンツにかけてもやってやる」


 右の大きな握りコブシを、シンシアの肩に軽くぶつけ権堂は言った。


「信じるわ」


 シンシアはバッグから取り出した依頼金の半分―、大きな紙袋に入れられた百ドル札五百枚を権堂に渡した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る