第29話 虚実皮膜を知ってるかね

 6月27日(土)

 14時頃―。


 有働は内木と共に、刈間市にある遠柴のアニメスタジオ応接室のソファに腰かけていた。


 楕円形のテーブルを囲んだ向こう側で、遠柴が内木の原稿に目を通している。その左隣にはエミが有働と向き合う形で座り、退屈そうにマネキュアを塗っていた。


「悪くは無いが…もう少しストーリーを練り直す必要があるな」


 遠柴は原稿を大判の封筒にしまうと、笑顔で言った。


「どどど、ど、どの辺を直せばいいですか」


「正義が悪を倒す。この基本構造は良しとして、悪の側をもっと掘り下げてみたらどうだろう。なぜ人を苦しめたいのか、具体的にどう苦しめるのか…」


 顎に手を充てつつの遠柴の言葉。


「あ、あ、あ、悪役は…た、ただ人を苦しめたいって、だだ、だけじゃダメですか?あ、あ、あ、あんまり人を苦しめる具体的な描写は、か、か、か、考えるのが苦手です」


 内木はなおも喰らいつく。

 手土産として何かしらのヒントを得てからここを後にしよう、という意気込みが、隣の有働にまで伝わってきた。


「悪が具体的でないと、正義が勝利した瞬間のカタルシスが生まれないぞ」


「ぐ、ぐ、ぐ、具体性がないと、正義も、ひ、ひ、ひ、引き立たないということですか」


「その通り。内木くんは、虚実皮膜、という言葉を知っているかい」


 遠柴はまっすぐ内木を見つめ、問いかけた。


「ち、ち、ち、近松門左衛門ですね。事実と虚構の境目に、げげ、げ、芸術があるという」


 内木は目を逸らずに答えた。遠柴は満足そうに頷く。


「うむ。人という生き物は、深淵を覗きこみながら、一方でそこに照らされる光を求めるように、例えフィクション世界といえど、そこに具体的な悪-、実を求め、それが倒される瞬間―、虚を望んでいるものなんだ」


「なな、な、な、なるほど」


「いま流行してるマンガやアニメ、映画、小説。それらは現実の我々が抱える問題と地続きになっているからこそ、皆の心に感動をもたらしてくれるんだ…」


 いったん言葉を切った遠柴は、喉が乾いたのだろう。ストローをどけると、コップを右手で持ち上げ、氷で薄まった飲みかけのアイスコーヒーを飲み干した。内木もそれに倣いアイスコーヒーのストローに吸い付いた。


 遠柴の空のコップを置くと、溶けかかった氷が滑らかに回転する音がした。


「例えば、見知らぬ世界で奮闘し、英雄に生まれ変わるストーリーは、誰もが持つ現実逃避、承認欲求、出世願望であり、怪物に蹂躙された閉塞的な世界で、弱い人間たちが自由を勝ち取るために戦うストーリーは、社会の不条理に憤り、閉鎖的な未来に恐怖する我々自身の投影といえる」


 内木はストローを齧ったまま、遠柴の言葉に聞き入っていた。


「現実世界で勝利することは難しい。だからこそ、人は物語に夢を託す。そして恐怖は、現実に起きて欲しくないからこそ、恐怖として楽しめる」


 言葉の意味を内木なりに咀嚼しているのだろう。数秒の沈黙。エミがネイルを乾かすため息を吹きかける。いわゆる香水ネイルというものか、微かなフローラルの匂いがした。


「ちち、ちなみに、さ、さ、さっきの話に戻りますが、あ、あ、あ、悪を描くには、どど、ど、どんな、恐怖を描けば、い、い、いいですかね?」


「自分がされて嫌なことを、具体的に想像し、悪役にやらせなさい」


「じじじ、自分が嫌な…」


 内木は言葉を失う。付き添いの有働には、遠柴の意図することが理解できた。


「記号的な爆発シーンよりも、肉や内臓が飛び散る爆発でなければ、痛みや恐怖を想像できない、人は残虐な生き物なんだ。…例えば…、そうだな」


 再び顎に手を充てて、考える仕草の遠柴を尻目に、エミはぽってりとした唇でネイルに息を吹きかけ続けている。


「ナイフで頭皮を少しずつ剥かれるとか、眼球に熱湯を注がれるとか、鼻骨をハンマーで粉砕されるとか…鼓膜にエアガンを何度も、何度も、何度もぶち込まれるとか、あとは…」


「パパ、もうよくない?」


 言葉を遮ったのはエミだった。


「ははは。すまん、すまん。ついつい妄想が暴走してしまった」


「あ、あ、あれ?まま、ま、ま、ま、魔法ガール★マジックえみりん、って、そそ、そ、そういうアニメでしたっけ?っていうか、い、い、言い方が、なな、なんか、リ、リ、リアルですね…ははは、まさか遠柴さん、リアルでそんなことを、し、した経験があるとか…?」


 沈黙。

 永遠にも等しい、無言の時間が流れた。遠柴とエミは表情を失い、不穏な空気を感じた内木は愛想笑いをやめた。


 壁掛け時計の秒針だけが、さく、さくと存在を主張する。有働は頭を掻き毟るしかできなかった。


「じ、じ、じ、冗談ですよ、す、す、すいません」


 魔法が解けたように、遠柴が相好を崩す。エミも再びネイルに息を吹きかけ始めた。


「内木くん。君が思い切り頭を悩ませて、ものすごい悪人を描いたとしよう。しかし、現実の世界には、それよりも残忍な悪が存在するというのを、頭の片隅に置いておきなさい。人はその気になればフィクション以上に残虐になれる生き物なんだ」


 遠柴の目は漆黒だった。

 室内灯を反射させ鈍い輝きを湛える瞳は、数多の地獄を見てきた男のそれだった。


「は、は、はい」


 緊張した面持ちで内木が頭を下げた。それを見て遠柴は微笑む。


「もっと世界を知りなさい。そして、過去と現実に潜む問題、それらの本質を見つめ、内木くんなりの答えを作品に反映させればいいと思うよ」


「あ、あ、あ、ありがとうございます」


「七月中にいいのができれば、夏の間に某少年誌の編集者に紹介してあげてもいい。期待して待っている」


 遠柴の分厚く大きな手の平は、インクで汚れた内木の丸い右手を、握手という形で優しく包み込んだ。


-------------------------


 15時半―。

 遠柴のスタジオを出てから、約一時間が経っていた。


「うふふ~。リカ幸せそうでよかった~」


 刈間市にある大型ショッピングモールのフードコートで、有働の左隣に座ったエミが、メロンソーダの中で溺れるアイスクリームをストローでグズグズに掻き回しながら微笑んだ。


 その言葉に、通路を背にして、エミの向かいに座るリカが頬を赤らめ、つられて左隣の内木も掻き毟る。


「本当、紹介してよかったよ。うっちゃんは、マジックえみりんに出てくるリカの大ファンだっていうし、エミさ、あのときピンときたの!モデルになったリカ本人を紹介してあげようってね~。リカもさ~、これまでなかなか理想のダーリンが見つからなかったんだよね~」


 リカは、ふんわりウェーブのかかったピンクブラウンの髪の先を人差し指で巻きながら、声も出さず頷いた。目の前のウーロン茶にはまだ口をつけておらず、ただ、もじもじとしていた。


 リカは無口な少女だった。


 これまで何度か四人で会ったが、有働がその声を微かに聞いたのは四、五回ほどで、常にエミが一方的に喋りかけ、彼女がそれに頷くか首を横に振るかで意思の疎通が行われていた。


「リカさ~、処女、うっちゃんにあげたの?」


 あっけらかんとした口調のエミが、右手でストローを引き抜き、内木とエミの方へ意味もなく向けた。メロンソーダの雫が有働の左頬に降りかかる。顔をしかめたものの有働は舌打ちを堪えた。


「て、て、て、照れるな」


 うっちゃんと呼ばれた内木が頭を掻き毟る。

 有働は顔を拭きつつ、この場に春日や久住がいたらどんな反応をしただろうと考えた。


「えへへ、えへへ」


 俯くリカの隣で、内木は照れていた。

 その前にはリカ同様、ウーロン茶が置かれている。去年の内木ならコーラを頼んでいたはずだ。


 有働は、黒シャツに包まれた内木の体つきに刮目した。


 脂肪が筋肉へ変化しつつあった。内木が以前、格闘技を習うならどこのジムがいいか、など有働や春日、誉田に聞きまわっていたのを思い出した。結局のところ、どこで何を習っているかは知らないが、今年に入ってからというもの、以前のように内木が体育の授業で醜態を晒すようなことはなくなっていた。


 性格柄、自分がカツアゲされる分には抵抗はしないが、リカと一緒にいるところを男たちに絡まれたら、命がけの体当たりで彼女を守るだろう。


 それと、もう一つ。

 春先に、あんなに大事にしていた「魔法ガール★マジックえみりん」の「リカ(本気武装Ver)」の卑猥極まりない改造フィギュアを、内木はネットオークションで売却した。


「こ、こ、こんなの、リカちゃん本人が、み、み、見たら悲しむから」いつか、内木はそう言っていた。


 内木は守るべきものに出会い、自分を変えようとしている。幸せそうな内木を見て、有働の頬は緩んだ。


「つとむがそういう笑い方するの~、珍しいよね」


 目を細めてエミがいう。


「ん?何のことだ」


 すべてを見透かされた有働は、シラを切って真顔に戻る。


「あ、そういえばさ。リカちゃんは内木のどんなところが好きなんだい」


 話題を変えようと、有働はリカに訊いた。


「内…は、声を…笑わなかった…から」


 数秒の沈黙のあとに、リカがぼそっと喋った。


「え?」


 有働は反射的に聞き返していた。

 恋人の親友に伝えたいことがあるのだろう。リカは、左斜めに座る有働の目をまっすぐ見つめた。


「内木くん。私の悩みを理解してくれたから」


 リカが音量を絞らず、地声で有働に語りかけた。


 とてもインパクトのある声だった。


 目の前の美少女が発したとは思えない、例えるなら酒焼けしたベテラン漁師のような―、野太く、地を這うような声だった。


「私の声、変でしょ?そのせいで昔からいじめられていたの」


 わざとそういう声を出しているのではないと、理解した瞬間だった。


「内木くんは、こんな声も個性だって言ってくれたの。内木くんにならすべてを見せられると思ったから…」


 リカの目が潤み始めた。


「ぼ、ぼ、ぼ、僕も、ど、どもってることで、いじめられたことがあったから…」


 柔らかい沈黙が流れた。

 リカは、漫画を描き続け、インクで汚れた内木の手を愛しそうに握った。


「はいは~い二人とも、ごちそうさまぁ~」


 猫のように丸い目を細め、エミが鼻を鳴らす。


「話し変わるけどさ~、つとむぅ、再来月…八月十五日が誕生日だよね?」


 ストローの先を有働に向け、エミがいった。


「ああ。十七才のな」


「私たちより、一足先に十七才になるんだよね~!つとむの誕生パーティーしよ!プレゼント何がいい?」


「いや、いいよ。そんなん」


 中学を卒業してから、父母にすら誕生パーティーは止めてくれといったほどである。有働は大降りに手を振った。


「ぼ、ぼぼ、僕も、ぷ、プレゼント用意しておくよ」


 内木は目を細めた。


「私と内木くんで選ぶね」


 リカが言った。


「決定!この日は夏休みだし、部活もしてないんだし、空けておいてよう~」


 エミが意味もなく、有働の左頬にキスをした。

 グロスの湿った感触があった。


 通路の向こう、フードコートのブースに並ぶカップルたちが、こちらをみて笑う。顔から火が出そうだった。


 有働はメロンソーダをまずそうに飲み、エミに「ティッシュくれ。これじゃ歩けない。笑われる」と言った。


-------------------------


 数分後―。


「あ、あの、有働さんですよね!お久しぶりです!この前はありがとうございました!」


 という声が聞こえた。


 有働は左頬をティッシュで拭きながら、声の方を見た。


「お前は…」


 ちょうど、内木の左後ろにあたる通路数メートル先―、そこにはトレーの上に、ハンバーガーセットを載せた少年―、徳園勝(とくぞのまさる)が立っていた。


 勝の背後では、彼の父母がトレーを持って会釈している。こんなモールのフードコートに不相応な、高級かつ上品な身なりの夫妻だった。


「刈間市(こっち)にオフクロの実家があるから、よくここ来るんですよ。あ、有働さんの彼女ですか?めちゃくちゃ美人じゃないですか~、はじめまして!徳園勝です」


「はじめましてぇ~、エミです」


 勝に向かいエミが手を振る。内木とリカも何がなんだか分からぬまま、振り返る形でお辞儀をした。


「君が有働くんか。このたびは息子がお世話になりました」


 勝の背後から、長身で襟足の長い、日焼けした濃い顔立ちの男が笑いかけてきた。


 通路の邪魔にならぬよう、徳園一家は内木の椅子に近づく形で寄ってきた。


「あ、はぁ」


 どこかで見た顔だな、と思う有働に男は名刺を渡してきた。


 そこには「明るい未来のため、市政から国政を変えよう―、小喜田内市議会議員、徳園仁(とくぞのじん)」と書かれていた。


「今は俺が話してるんだから、親父はすっこんでてくれよ!あの、有働さん…この前はお礼もいえず…あんな感じになってすいませんでした」


 勝は、徳園を押しのけて頭を下げてきた。


「いいよ別に」


 無愛想な有働を、エミや内木が不思議そうに見ていた。


「君は私の後輩にあたるんだったよね。私も殷画高校出身だ」


 睫毛で濃く縁取られた二重瞼を細め、日焼けした肌に光る真っ白な歯並びを見せながら、徳園が言った。隣の夫人も笑顔を絶やしてはいなかった。


「ひょっとして大学も後輩になるのかな?そしたら殷画高校で二人目になるね。私にできる相談があればいつでも聞くよ。受験勉強頑張ってね」


 徳園は、有働の傍らに置かれた「東大生がすすめる東大受験のコツ百ヶ条」を指差しながら言った。


「あ!親父の名刺のウラに、親父の携帯番号と、俺の携帯番号が書いてありますんで!今度、遊びに連れていってくださいね、有働さん!」


 向こう側の空いてる席に座った勝の大声が聞こえてきた。勝は子供のような笑みを浮かべ手を振っていた。有働は舌打ちを堪えた。


 小喜田内市議会議員、徳園仁。


 元・内閣総理大臣、槍島統一(やりしまもとかず)の外孫にして、現・防衛大臣、槍島剣一(やりしまけんいち)の従兄弟。


 祖父の代からK県を政治地盤とし、いずれは国政進出を目論みながら、公立高校へ息子を通わせ、週末はこうした地元のモールにやってきて、家族で食事をとる「庶民派」市議会議員。


「あの世渡り上手は遺伝か」


 誰にともなく有働は呟いた。


 席に着いた勝は、メシを食いながら何度も何度も、こちらへ手を振っていた。それに対して律儀に手を振り返すのは、エミと内木だけだった。


-------------------------


 22時ごろ―。


「ん?徳園勝が、市議会議員の息子だってことか…?ああ、俺もよぉ最近になって知ったんだわ。お前、知らなかったんか?」


 スマホの受話口の向こう、誉田があっけらかんと言った。


 いつものように背後からAV嬢の喘ぎ声が聞こえてくる。「もっと、もっと」と懇願する女の声に、誉田の欠伸が被さった。


「知らなかったですよ。あいつ顔は親父似だから、どこかで見たような気はしたんですけどね」


「マジか。ていうかよ、俺…いま、それどころじゃねぇんだわ」


「どうかしたんですか」


「別れたリポリンから、久しぶりに電話があってよぉ」


 誉田はAVの音量を下げて、声を落とした。


「俺の子供(ガキ)を妊娠してるらしいんだわ。週刊誌の記者が毎日押しかけるわで大変だわ」


「え!どうするんですか、誉田さん」


 他人事ではあるものの、驚きのあまり有働の声はひっくり返ってしまった。


「責任取ってオヤジになるしかねぇだろ。リポリンは俺と結婚できなけりゃ自殺するとまで言ってるしよ」


「あの…こんな言い方、失礼かもしれませんが…本当に誉田さんの子供なんですか?」


 誉田は数秒、唸った。


 リポリンの奔放な男性遍歴は周知の事実であり、誉田自身、春先に彼女から性病を伝染(うつ)された経緯もある。


「間違いない。妊娠したであろう月は、この俺としかヤってないそうだ。抜かずに八発じゃムリもねぇ。それによ、芸能人だってのに、太股の内側に俺の名前のタトゥーまで彫ってよぉ」


 後悔か感激か、誉田が泣き出しそうな声で言った。


「そうですか」


「俺も、もう実家でプラプラしてらんねぇ。リポリンは極道はイヤだって言うからよ、カタギの仕事に就職しようと思ってる」


 そう言うと誉田はAVを完全に消した。


 静かになった受話口の背後から、六月のせっかちな蝉の鳴き声が聞こえてきた。誉田の部屋の明かりを昼と勘違いして、網戸にしがみつき鳴いているのだろう。


 蝉はひっきりなしに鳴いていた。


「頑張ってくださいね、誉田さん」


 なぜか目頭が熱くなるのを感じた。


「おうよ!あ、有働、お前ちゃんと避妊してるか?エミちゃん可愛いからよ~、抜かずに十発とか…」


「もちろんです。おやすみなさい」


 有働は通話終了のボタンを切ろうとした。


「あ!有働!来月、沖縄へ臨海学校だろ?土産買ってきてくれよな!」


 切る寸前、誉田は叫んでいた。

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