第30話 楽園からの脱出

 アメリカ海軍特殊部隊ネイビー・シールズ。


 第二次大戦で活躍した水中破壊工作部隊をルーツとする、彼らシールズ(SEALs)は、海(SEA)のSE、空(AIR)のA、陸(LAND)のL、それぞれの頭文字で作られた部隊名どおり、陸海空の極秘任務をこなす万能部隊として知られている。


 十七~二十八歳の高卒以上で、二分間に腕立て伏せ、腹筋五十回、懸垂十回、十分に一.五マイル(二.四キロ)完走、十二.五分で五○○ヤード(四五七メートル)を泳ぎきることが求められ、それに合格しても「シールズ」の記章を手にするためは約六ヶ月間の訓練課程を耐え抜かなければならない。


 最も過酷なトレーニングの一つとして「ヘルウィーク」が挙げられる。五日間の訓練中、合計睡眠時間四時間という不眠不休の中、教官たちに罵声を浴びせられながら低体温症ぎりぎりの状態で、腰まである冷たい泥の中をチーム一丸となって進み、ボートを数マイル運ぶというものだ。


 志願制であるため、脱落したい者は設置された吊り上げ式ベルを三回鳴らせば終了。簡単に地獄から解放される。この地獄週間の意味するもの―、魂が肉体を凌駕できるか否か―、過酷さにあっても自らの苦痛よりも仲間との任務を遂行できるかの篩い分けである。


 他にも手足を縛られたまま深いプールに突き落とされ、底からゴーグルを取りに行かされるなど地獄のようなトレーニングが山ほど課せられ、志願者が一割強となったところで、彼らは愛国心溢れる戦士へと成長し、戦場へ旅立つ。


「俺たちは戦友じゃない。兄弟なんだ」


 特殊任務を請け負う彼らは口を揃えて、そう言う。


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 アーロン・ボネットはごく平凡な青年だった。


 生まれはニュージャージー州。その中でもスカイランズと呼ばれる北西部―、山と田園に囲まれたのどかな地域で彼は育った。


 父親から借りたシボレー・シルバラードの助手席に、ハイスクール時代からの恋人―、リタ乗せて、蒸し暑い夏はパセーイク川のグレートフォールズを眺めて愛し合ったり、凍えるような冬はジャージーショアのメイ岬の夕日に、リタの長い金髪に指を絡ませながら未来を誓い合ったりした。


 しかし、ある秋の日―、アーロンの人生は暗転した。


 工場勤務のアーロンは、夜勤明けの朝と出勤前の時間を使い、車を持たないリタのために毎日、彼女の送迎をしていたが、些細な喧嘩をしたせいで、リタは「あの日」別の友人に出勤の送りを頼むことになってしまった。


 夕方になり、出勤の身支度をするアーロンに、彼女の両親から届いた悲報。


 リタが、友人の運転する帰りの車で居眠り運転のトラックと十字路で接触、即死したというものだった。過失の大半はトラックドライバーにあるものの、運転していた友人は免許を取立ての初心者であり、不注意も手伝い緊急回避に間に合わなかったのではないか、というのが州警察の見解だった。


 来る日も来る日も、彼は自分を責め続けた。


「なぜ事故の前夜に、車内であんな口論をしてしまったんだ」


 実際、喧嘩の理由はくだらないものだった。アーロンの車のキーにぶら下がったマスコットの名前は「ジャッキー」だったか「ジェイムズ」だったか。


 たったそれだけのことだった。


「ジャッキーよ。正式にはファニー・ジャッキー。アーロンに笑った顔が似てるからって、初デートの日に私があげたのに。覚えてないの?」


 膨(ふく)れて何も言わないリタに対し、あの夜のアーロンはなぜか、いつもの「ナイスガイ」を気取ることができなかった。


 連日の夜勤が辛く、彼女を家に送り届けた後、この夜も出勤しなければいけないことに対してナーバスになっていたのかもしれない。もしくは、昨日の休憩時間に同僚にポーカーで数十ドル負けたのがまだ後を引いていたのかもしれない。


 いずれにせよ、あの夜の彼はいつもと違っていた。


「うるさい!こんなもの、どうでもいいじゃないか!」


 簡単な取り外し式のキーホルダーだった。車を走らせながら、どこぞの住宅の植え込みに向かって、怒鳴りながらアーロンはそれを投げ捨てた。


「ひどい」


 リタは泣いていた。


 キーホルダーを捨てられたことや、怒鳴られたことを悲しんでいたのではなかった。二人の些細な思い出を蔑ろにされたことに傷ついていたのだ。罪悪感に胸の痛みを感じながらも、「明日、謝ればいいだろう」と結局、謝ることなく彼女を自宅前で降ろした。


 リタは去り際「明日は、キャロルに送ってもらうからいいわ」とだけ言って扉を閉めた。


「なぜ、俺はあんなことを」


 アーロンは、狂ったように落ち葉に足をつっこみ、泥に塗れながら、あの夜に捨てたキーホルダーを毎日探した。


 住民に聞き込みをして、張り紙も貼った。事情を知った友人たちからまったく同じキーホルダーをプレゼントされた。しかし、悲しみは癒えなかった。


 アーロンが探しているのは「あの夜、彼女の前で捨て去ってしまったかけがえのない時間」だったからだ。


 結局、リタからもらったファニー・ジャッキーのキーホルダーが見つかることはなかった。


 工場を退職し、毎日塞ぎ込むアーロンに州兵の叔父から手渡された広告記事―。そこには「君もネイビーシールズで働かないか?地獄の特訓開催中!」と仰々しく書かれていた。


 叔父にしてみれば落ち込む彼を励ますための「男らしく前を向いてみろ!」といったある種の励ましだったのかもしれない。しかし、アーロンにはこれが神からの啓示に思えた。


 自分を痛めつけたかった。自分を誰かに必要とされたかった。広告には、さらにこう書いてあった。「生まれ変わりたければ、すぐに電話を」


 この日から半年後―、アーロン・ボネットは最強部隊の勇敢な戦士へと変貌した。


 そして、二十四歳を迎えた初夏、新米シールズ隊員の彼に下された人生初の指令―。


 それは「君は高校時代に水泳部に所属し、大会で何度か優勝の経験があるらしいね。君を担当した教官からアーロン・ボネットは、物事の本質を見抜く能力、身体能力、潜水能力共に長けているという報告を受けている。それはベテランでさえ舌を巻く程とのことだが…」と前置きがされたあとで、


 「コリン・エイミス大尉を含む五名で、日本海に浮かぶ梅島の研究所に拘留されたある男―、キム・ビョンドク、通称アダムを奪取せよ―」というものだった。


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 7月7日(火)

 14時00分―。


 梅島付近の領海、海中―。


 そこには、アメリカ合衆国原子力潜水艦ダラスのドライデッキシェルター後部ドアから静かに吐き出された「SEAL輸送潜水艇」が回遊していた。立ち入り区域での任務遂行を目的とし開発されたその潜水艇には、五名の隊員が搭乗している。


 やがてその海水に満たされた船室内から、循環型水中呼吸装置(リブリーザー)を装着した、アーロンを含む四名の隊員が開口部より順番に散って海中を駆け上っていった。


 水色の世界で屈折した太陽光が天への導きのように筋を照らす。


 デュアルスライドキャノピーを開いた状態で操縦席に残った一名ネイサン・クームズが海上―、煌く天国へと駆け上がる仲間たちを見送りながら「幸運(グッドラック)を」と誰にともなく呟いた。


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 梅島―。

 北緯三十七度十四分三十秒―、東経百三十一度五十二分00秒―。


 表面積は0.二一平方キロメートル(東京ドーム五つ分)―、日本海南西部に位置する、急峻な岩山が折り重なるようにしてできた、二島、三十七の岩礁からなる島の総称である。現在、鳥類、昆虫、海生無脊椎動物など七百弱の生物が生息している―。


 シールズ四名は、巡回する韓国海洋警備艦から死角になる波が緩やかにぶつかる崖の割れ目へと身を隠し、無事に梅島への上陸を果たした。頂上では風に煽られ韓国旗がはためいていた。


 そこは島というよりも巨大な岩場だった。緑色の苔に彩られた断崖を器用によじ登り、一息ついたところで岩場の窪みに皆が集まる。各々が防水ザックを背中から降ろし装備の点検を始めた。


「準備が出来たら、皆さんが眠ってる間にアダムの奪還といくか。猶予はたっぷりあれど急ぐに越したことはない。頂上まで岩場の間をすり抜け、海洋警備艦の連中に見つからないよう影のように動くんだ。いいな?ニンジャだ、ニンジャ」


 指揮統制のコリン・エイミス大尉が、M4A1カービンを傾け、ウェットスーツの襟をパタパタさせながら冗談ぽく言った。


「了解。まぁ思ったよりすんなりいけそうだな。他国を欺くため入念な警備を敢えて敷かなかったんだろうが、それが裏目に出たと見える」


 潜水艇に残ったネイサンとコリンの次に年長者の、マシュー・エリクソンが防水ザックから取り出した最低限の装備を身につけながら、海水の混じった痰を吐きそれに答える。


「さぁ、お楽しみはこれからだ」


 アーロンの次に若いアトランタ出身の二十九歳、ジェフ・アーミテイジがアーロンの肩を小突く。アーロンは緊張で胸焼けがしたが愛嬌で頷いた。


 あちら側の、岩の斜面を削って作った道筋には手すりつきの階段が設けられていたが、黒い影が堂々とその道を進む事はできない。やはりネイビーシールズの四名は、折り重なった苔だらけの岩の隙間をするり、するりと自力でよじ登り、低い姿勢のまま頂上を目指すしかなかった。


 やがて、銀色の電波塔や宿舎施設、こじんまりとした研究所らしき真新しい白い建物が見えてきた。


 断崖を登り終え、整備された頂上のあちらこちらでは、見張りの―、いわゆる「卓島警備隊」に配属された韓国の警備隊員たちが、飲料水のタンク―、いわゆる海水淡水化設備に仕込ませた「睡眠薬」がばっちり効いてるのだろう、自動小銃を握り締めたまま眠りこけていた。


「しっかり寝てるぜ。まさに昼飯後のお休みタイムだ。昨日の勤務明け前に、しこたま眠り薬を仕込んだ警備隊員は、今ごろ大金を掴んでアメリカ国民になってるだろうよ」


 コリン大尉が前方で言った。


 アーロンは、自分の右足元でだらしなく眠りこけた韓国警備隊員の、少しずれたヘルメットの間から覗く顔を見た。その表情はまだあどけない。

 二十歳そこそこだろうか。自分がリタと遊び呆けてた頃の年齢に近いはずだった。しかし彼は、享楽に身を投じず立派に兵役を終え、こうして何もない孤島で任務に就いている。


 アーロンは国は違えど彼らに心の中で敬礼すると、コリン大尉の後についていった。


「分かってるとは思うが、念には念を入れろ」


 マシューがアーロンとジェフ、二人の若者に注意を促す。


「クリア」


 四名は、M4A1カービンの銃口を構えながら、白く塗り固められた壁を突き進む。通路を進みながら小部屋の扉を次々に開けていく。


 研究者も皆、眠りこけていた。しかし彼らの場合、隊員のように無防備な寝顔ではなかった。きちんとデスクの上に腕を折り重ねながら寝ていた。強烈な睡魔に襲われながらも必死に自制心を保ち、人間らしい格好で寝ているのが研究者らしいなと思い、アーロンは薄く笑った。


「そんなヤバイ研究やってるなら、すべてを爆破すりゃ済むのによ」


 ジェフが軽口を言う。それは先輩二人にではなく、アーロンに向けた愚痴だった。


「今回のアダム奪取でさえ政府は苦渋の決断をしたんだ。今はまだ事を大きく出来ない。分かってくれ」


 コリン大尉が丁寧にジェフを諭した。ジェフには何も返す言葉が見つからなかったのか黙り込んでいた。四名は三階建ての研究室のすべての部屋を探索し、最後の部屋―、地下室へと向かった。


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 地下室―。

 扉を開けると、饐えた血と体液の匂いが、四名の鼻腔を刺激した。


「すげぇ臭いだな」


 誰かが言う。室内は闇に包まれていた。

 コリン大尉が電気を点ける。スムーズに室内は蛍光灯の光に満たされた。


 光景―。

 さほど広くはない無機質な白い部屋が広がる。


 棚には、カラフルなラベルが貼られた薬品の小瓶がびっしりと並べてあった。壁と同化したような漂白済みのデスクの上には、計測機器、培養、分離、分析に使われるであろう顕微鏡、フラスコが等間隔に置かれていた。

 密閉されたホルムアルデヒド水溶液の小瓶には、血に染まった、肉片のようなものが浮かんでいる。


 突き当たりの壁にくっつけるようにして、これまた白い小型冷蔵庫のようなものが設置されていて、アーロンが好奇心に負けてそれを開けてみると、蓋のない水色のプラスチックケースに、輸血パックが入れられた状態で丁寧に折り重ねられていた。ラベルにはマジックペンで大きく「ADAM」と書かれている。


「余計なことはするな」


 マシューの叱責にアーロンはびっくりして冷蔵庫のドアを乱暴に閉めた。


 険しい表情のマシューは、先ほど若い女研究員から失敬したIDカードを、隣室に繋がる扉の端に設置されたカードリーダーに通す。警報のような電子音が室内に鳴り響いた。


「おい!なぜ開かない」


 マシューは何度も、何度もカードを通す。


「逆だ」


 コリン大尉の言葉にマシューが、はっとしてカードを裏返し、扉が解錠される金属音がした。饐えた血と体液の匂いがさらに濃密になる。


「慌て屋め。本国に帰ったらお前はクビだ」


 コリン大尉の軽口を最後に、四名は十数秒間言葉を失った。

 扉の向こう―、大きな一枚の強化ガラスに仕切られた部屋で、肉ダルマのように血まみれになった男が鎖につながれ倒れているのを確認したからだ。静寂の中、緊張感が皆の中に走る。


 備え付けの実験台や、解剖用の流し台からは夥しい量の血液が滴り落ちている。その先の排水溝にはいくつかの肉片―、断裂した皮膚や皮下脂肪、筋組織の破片が詰まり、毛とともに、血と水の混じった泡立つ渦を巻いていた。


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 間違いなくこの男だろう。「楽園への帰還」の被験者「アダム」―、ことキム・ビョンドクは、腰に布を巻いただけの姿で血に濡れた床のタイルに伏せていた。


「このオッサンか。ひでぇ姿だ。見ろよこの肉片と血の池を…かわいそうに」


 ガラスの向こうを指差して、ジェフが悲鳴を上げる。アフガンで数え切れない死体を見てきた彼だが、長きにわたる残酷な仕打ちを連想させる「生きた人間」を見るのは直視に耐えられなかったのかもしれない。視覚的に、というよりも倫理的に。


 マシューが強化ガラスの脇に設置された白い扉の前に立ち、最後の砦―、赤い拷問部屋のカードリーダーにIDカードを通す。


「これらの肉片は彼のものなのか。しかし、身体中どこにも傷一つない…」


 想像以上の異臭に耐えつつ、コリン大尉がキム―、アダムに駆け寄り、唸るように呟いた。血と汗と水の混じったものを拭いながら、アダムの伸びた黒髪と髭を掻き分ける。人の顔が出てきた。東洋人特有の平べったい顔に糸のような細い目だった。


「彼は生きてる」


 コリン大尉はペンライトで瞳孔を確認しながら、アダムの四肢はきちんとついているか、内臓に損傷はないか、などを再度きちんと確認した。


「なんだこのキリンのキーホルダー。紐にぶらさげて」


 アダムから離れた場所に転がる、黄色いキリンのキーホルダーを拾い上げて、ジェフがいたずら小僧のように、不思議そうに見つめた。


「ほらよ。お前の彼女にでもやりな」


 ジェフはフンと笑いながら、紐がぶら下がったままのキリンのキーホルダーをアーロンに渡すと、今度は三脚で設置されたビデオカメラに興味を移した。


「ビデオを再生してみましょうよ」


 皆がビデオカメラの前に集まる。無論、操作係はジェフが任命された。アーロンはキリンのキーホルダーをポケットに仕舞うと、少し遅れる形で並び、他の者と同じ姿勢でその四角いモニターを凝視した。


「悪夢を見ているようだ。CGか何かじゃないのか?」


 マシューが言った。他の三名は何も言えなかった。ジェフはコリン大尉に命じられたとおり、防水ザックにビデオカメラを入れ、鼻を啜った。


「これも任務の一つだ。真偽を確かめる。我々が連れて帰るのは、彼が本物の場合のみだ」


 コリン大尉が、左足のレッグホルスターから静かに抜き取ったダブルアクションのオートピストルを、向かって右側、つまりアダムの左こめかみに静かに向けた。


 意識が多少戻ったのか、アダムは呆けたように横たわったまま、されるがまま成り行きに無関心な目つきで銃口の闇を覗き込んでいる。


「マジでやるんですか、大尉」


 ジェフの泣きそうな声。アーロンは耐え切れず「待って下さい」と言おうとした。その時だった。


「お嬢ちゃんは目を閉じてな。いくぞ」


 パァン、という乾いた音と共に、アダムの左側頭部が見事に吹っ飛んだ。


 幾重もの血で染まった真っ赤な壁に向かい、飛散する髪の毛―、頭皮―、褐色の脂肪―、多量の鮮血―、桃色の脳漿―、白濁した体液―、脂肪―、白骨の破片―。

 ゼラチン質の眼球が、血まみれの神経の束と共に吹っ飛び、勢いよくガラスにぶつかり、アーロンの足元まで弾みながら転がってきた。


 惨劇のあとの光景―。


 数秒のちに損傷箇所―、消失したアダムの左頭蓋の空洞部から、まるで意思を持つ生物の如く血液が噴き出し、泡を立ててボコボコと盛り上がり始めた。

 そして、左即頭部をバカ正直に撃たれたアダムは、せわしなく痙攣しながら首を前後に揺らし、残った右半分の顔をがくがくと俯かせ「うぇっ、うぇっ」と、しゃっくりのような、喘息発作のような声を漏らし喘ぎはじめた。


 四名からすれば、それが死に向かう反応なのか、死に抗う現象なのか判別がつかない。ただ、ひたすら成り行きを見守るだけだった。


 銃口から漂う硝煙と、アダムの流す濃密な血の臭いが室内に充満する中、さらに事態は進行する。


「おいおいおい」


 コリン大尉は証拠隠滅のマナー、空薬莢を拾う行為すら忘れて、異常事態に只ひたすら見入っていた。それはビデオカメラが再生したのと同じ状況、悪夢だった。


 ボコボコと盛り上がった血の泡は、損失箇所を埋め合わせるように何度も何度も膨張を繰り返し、その粒の細かい泡の中で、骨、筋組織、皮下脂肪、そしておそらく神経や血管と思しき細やかな繊維、新しい左眼球、眼窩、脳細胞、骨格が順当に創り上げられ―、果ては皮膚、頭皮、毛髪までもが、逆再生される映像のように正確に復元されていった。


 左右対称の男前に戻ったアダムは、まだ惰性で「うぇっく、うぇっく…」といった奇妙な唸り声を漏らし続けていたが、しだいにそれは弱まり、やがて静かになった。


「ジェフ。どれくらいかかった」


 コリン大尉の言葉に対し、ジェフは無反応のまま立ち尽くしていた。呆然とする彼に「おい」と喝を入れて「およそ五十秒です」と防水性の腕時計を凝視しながら代返したのは、マシューだった。


 アダムは混濁した意識の中、男たちを見つめ返した。長く伸びきった前髪の隙間から、驚愕するシールズのメンバーを呆然と見つめる、その真新しく再生した左の黒い瞳は、地の底へと無限に続く陥穽のような不気味さがあった。


「どうやら最悪な現実が存在するようだ。この鎖をバーナーで焼き切ったら、アダムに呼吸装置を装着させ、潜水艇に乗せる準備をしておけ。俺は監視カメラの録画を削除するために管制室をチェックしてくる」


 地下から地上に出る階段を四名は駆け上がった。アダムを担ぎ上げるのはアーロンの役割だった。やせ細ったこの男がどれほどの体重かは知らないが、恐らく自分の半分ほどだろうとアーロンは感じた。


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「隕石の写真は撮れたか」


 飲みかけのクリームソーダのような空の下、風に乗ってマシューの声が追いかけてきた。


 コリン大尉らがアダムを輸送潜水艇に乗せるため水中に潜っている間、アーロンは研究所からさほど遠くない岩場に埋もれた「隕石」を様々な角度からデジタルカメラで記録していた。


 巡回する韓国海洋警備艦に気づかれないよう、岩場の影に隠れるようにして低い姿勢のままカメラを回しながら、アーロンはマシューの方を振り向いた。


「見てください。鼓動を感じますよ」


 同じように体勢を低くしたままのマシューが一歩ずつにじり寄り、やがてアーロンの左隣にしゃがんだ。


 二人して「それ」を見つめた。


 それ―「深紅の隕石」は、突き刺さる形で土と同化していた。地面から顔を出している一角だけで二メートル弱。落下した際に殆どが地中に埋もれてしまったと想定して、おそらくは直径五、六メートルほどの大きさだったかもしれない。形状は、乱暴に評せば、凹凸の激しい歪な楕円形をしていた。


 少し広範囲に目をやってみると、隕石の周囲数メートル圏内の岩に生えた苔は、不自然なほど本来の緑から濃厚な黄色へ変色し、地を這う昆虫は、その苔に向かいぞろぞろと行進を続けているのが分かる。


 話によると「不死細胞」発見のきっかけは「韓国警備隊員が勤務中、暇つぶしに昆虫を踏み潰したところ、それが死なずに脅威の再生能力を見せたから」という単純なものだった。とすれば、昆虫が引き寄せられるこの変色した苔に何か秘密があるのだろう。


「まるでガーネット…いや水晶のようだ」


 左隣でマシューが言うとおり、透明度の高い「深紅の隕石」越しには、向こうの水平線が赤く染まりながらも明瞭に見える。


 その彩りは「深紅の」と表現するに過不足ない、熱き血潮を想起させるものだが、よくよく観察すると、隕石は太陽光線の反射により時折、オレンジや紫へと豊かな変容を見せ「虹色の」とも形容できそうに思えた。


 また、その起伏に富んだ滑らかな表面の凹凸に向かい、深層内部より伸びた繊細な幾条もの内部亀裂は、生物の体内に張り巡らされた無数の神経や毛細血管を連想させる。


「美しい」


 マシューの声に反応するように亀裂のいくつかが長く、短く、伸縮を見せた。


 上から下にかけて舐め回すように見ていたため、マシューはそれに気づかなかったようだが、アーロンは隕石からの反応に動揺し、危うくカメラを崖の下に落としそうになりストラップを握り締めた。


「もう時間だ。サンプルの採取を済ませたら行くぞ」


 名残惜しそうにしながらの、にべもない言葉だった。マシューは後進し崖を降りながらアーロンに「早くしろよ」と声をかけていった。


「固いですよ」


「撃てばいい」


 マシューの声はだいぶ遠くなっていた。


 アーロンはカメラを切ると、ハンドガンを二、三発撃ちこみ、跳ね返った「緋色の隕石」の欠片をいくつかと、変色した苔、行列をつくっていた小さな「不死の昆虫」数匹を、防水ザックの中の内ポケットから取り出した瓶に詰め、マシューと同じようにして崖を降りた。


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 SEAL輸送潜水艇は、無事「アメリカ合衆国原子力潜水艦ダラス」に回収され、任務に当たったシールズのメンバー五名は「特別室」と呼ばれる小部屋―、いわゆる捕虜を詰め込んでおく「ある意味で特別なゲストルーム」で寛(くつろ)ぎながら、熱いコーヒーに口をつけていた。


 ダラスは潜行深度290メートルの海中を最大速度、水中30+kt(56km/h)で走行中。沖縄の米軍基地に到着するまでが任務といえど、極度の緊張感から解放され皆の顔はほころんでいた。


「これより、予定通り中継地点の沖縄米軍基地に向かう。アダムの体内に追跡装置の類が埋められてる可能性を考え、それを調べ取り除くためだ。今この場でそれができないのは、起爆する可能性を捨てきれないためであり、帰国はその後になる」


 コリン大尉は、談笑中の皆に念を押すようにそう言ってから、コーヒーカップを置いて時計を見た。そして、あと一時間もすれば、沖縄に到着すると分かると、椅子に座ったまま腕組みをして軽く目を閉じた。


「君らは…米軍か。私を…どうするつもりだ…彼らと同じことを、この私にするつもりなのか」


 特別室の簡易ベッドに寝かされ、毛布にくるまり、洞窟から生還したイエスキリストのようにくたびれた男―、アダムが蚊の鳴くような声で言った。韓国特有の訛りが強い英語だったが、その言葉選びは正確であり多少の教養を伺わせた。


「やっと起きたか、おっさん。具合はどうだ」


 お調子者のジェフが、彼に話しかけた。アダムは眩しそうに彼を見つめ返すものの、何も答えなかった。


「君を保護したんだ。ある一党独裁国家が暴走しないようにね」


 仮眠をやめたコリン大尉が言った。


「私を奪ったところで彼らをとめることはできない…」


「なに?どういう意味だ」


 アダムの呟きにコリン大尉が反応する。腕組みは解かれ椅子から身を乗り出し「よければ詳しく聞かせてくれ」と言葉を続けた。


「劉が笑いながら言っていた。中国のどこかで、私の細胞を培養し…人民解放軍の兵士に移植する…プロジェクトイブが進行中だと」


 アダムは震えながらそう言った。

 旧約聖書の一説によると、創造神ヤハウェは「アダム」の肋骨から「イブ」を創造し「産めよ増えよ地に満ちよ、そしてそれを征服せよ。また、海の魚を、空の鳥を、地の上を這っている生き物を支配せよ」と彼らを祝福したという。


 アダムの遺伝子からつくられた「イブ」たち―。いったいどれくらいの人民解放軍の兵士に移植が施されるのだろうか。中国共産党を守るべくして育て上げられた人民解放軍の兵士は、約二百三十万人―。


 その一パーセントだけが「イブ」に転化したとしても、二万人の「不死身の共産国兵士」が誕生する。アーロンは想像して怖気(おぞけ)をふるった。


「嘘だろ」


 ジェフがうな垂れる。

 アダムの再生能力を見せられた今となっては「そんなの絵空事だろうよ」と一笑に付すことはできない。「そんな奴らと、どうやって戦えばいいんだ」と悲観して俯くだけだった。


「君たち米国が今から研究を始めたって追いつけるはずがない。世界は不死身の中華人民共和国によって支配され…じき、暗黒の時代がやってくるだろう…すまない…」


 アダムはそう言って、ガタガタと震え始めた。


「…すまない…すまない」


 誰に対してのものか、壊れたテープのように繰り返される、祈るような謝罪の声。しかし、アダムに表情といったものはなかった。


「司令部に報告だ」


 コリン大尉は部屋を出て行った。扉が閉まったあと「クソ!」という罵声が艦内に響き渡る。


 簡易ベッドで膝を抱えながら何かをぶつぶつ言いながら塞ぎ込むアダムを見て、アーロンは先ほどの研究室の地下で、ジェフから受け取ったものの存在を思い出した。左ポケットをまさぐると、それは確かにあった。


「あの、すいません。これ…大事なものではないですか?」


 アーロンは、元はおそらく黒で、汗によって茶色く変色したであろう革紐をぶら下げ、ヒゲの生えた黄色いキリンのキーホルダーを揺らした。それは塗装がところどころ剥げて傷だらけのものだったが、アダムに渡す前に、こびりついた血液だけはきちんと拭っておいた。


 アダムは震えながら両手を差し出し、お椀のように丸めた。

 アーロンは「どうぞ」と言いながら静かにゆっくりと、慎重に彼の薄い手の平へとキリンのキーホルダーを落とす。


「これは…娘からもらった、パパキリンだ。ありがとう…ありがとう」


 アダムはそれを受け取ると、彼らと出会ってから初めて人間らしい感情を見せた。鼻水と涎を垂らしながら子供のように泣きはじめたのだ。

 おそらく、これは今の彼における、唯一の家族との絆だろうとアーロンは理解した。


「もう二度と、無くしたらいけませんよ」


 アダム―、キム・ビョンドクは何度も何度も頷いた。

 キムは不死身の怪物などではなかった。自分たちと同じ人間だった。あの日、アーロンが植え込みに投げて無くしてしまったものを、どんな凄惨な仕打ちをされようが、彼は未だに無くさずに大切に持っていたのだろう―。


「ありがとう」


 そう言いながらキムは、微笑を浮かべ、両手でしっかりとキーホルダーを握っていた。


「家族に…家族に会いたい…妻と娘に…会いたい…」


 再びの嗚咽。

 出て行ったコリンを除く皆が成り行きを見守り静寂が包む特別室で、キムは母国語で、おそらく彼の家族の名前であろう単語を、泣きながら何度も何度も、呟いていた。


「彼を…キムを、米合衆国(ホワイトハウス)はどうするつもりだろう…家族のもとへ帰れるのだろうか」


 アーロンは顎に手を充て考えたものの、他のメンバーにその疑問を投げかけることはできない。「愛国者として任務遂行だけを考えろ」と言われるのがオチだった。


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 梅島―。


「劉さま、申し訳ありません。本国にいた我々が異常事態に気づき、やって来たときには、すでに…」


 頂上に据えられた四角いヘリポートのコンクリートの上で、劉水―、チェルシースマイルに、梅島警備隊の最高責任者が跪く姿勢で謝罪していた。


 傍には、チェルシースマイルが連れてきた愛犬のドーベルマンが腹を地面につけ寝そべって欠伸をする。空は茜色に染まり夜の訪れを待っていた。


「本当に申し訳ありません…ま、まさか!まさか水に眠り薬が仕込んであるとは…スパイがいたとは…部下は悪くありません!私ひとりの責任です」


 梅雨明け特有の、裏寂しい白南風が吹いた。責任者の薄い毛髪が無様になびいた。それでも彼は髪を整えることもせずにひたすら赦しを乞うしかできない。


 この責任者は、チェルシースマイルから多大な金を受け取り、韓国側もそれを容認しているという、いわゆるズブズブの立場だった。


(今回の何者かによるアダム拉致事件の全面的な責任は私にある―。だが、公にできない研究である以上、この場でこうして謝罪するだけで済むはずだ―。責任の所在について正式な追及はおろか、訴訟などできるはずがない。すでに受け取った金は、海外の銀行へすでに移してある―。クビにするならすればいい。あれだけの金があれば人生をやり直せる―)


 必死の形相をしながらも、芝居がかった謝罪を繰り返す責任者は、狡猾な光を瞳に宿し、目の前の男の本性すら想像できず、赦しの言葉を待っていた。


「その通りだ。死んでもらうのは君だけにしよう。ここは私の独壇場で君たちは私の部下だ。私がやることに対して、君の国の大統領すらも口を出せない。分かるね?」


 チェルシースマイルは、斜め上に傷の走った口唇の左端を醜く歪め笑いながら、手の平サイズの小型なオートマチックピストル―、オーストラリア産のグロック20を、責任者の薄くなった頭頂部に向けた。


「は?」


 目を丸くした責任者。彼に向けられたピストルの引鉄に力がこもる。取り巻きの警備員たちは目を逸らした。


「お、おね、おね、お願いします…ここここ、殺さないで下さい」


 パン!と乾いた音が風に消された。飛び散った血飛沫は少量だった。


 責任者は右腕を撃たれていた。

 それはちょうど右肘の下あたりで、どくどくと血が噴き出し、警備隊が着用する紺色の制服の袖が黒く染まっていた。


 彼の利き腕である「右腕」をわざと射抜いたのは「梅島において、私の絶対的パートナーである君は、その信頼を傷つけた」「信頼関係に穴が開いた」といった皮肉だろう。


 チェルシースマイルは、自分に撃たれ苦しむ男を見て、嗜虐的な笑みを浮かべ何度か満足そうに頷く。鎮座していたドーベルマンが血の匂いを嗅ぎ忙しなく吼えていた。


「君の血液型は?」


「お、お…O型です」


 どうやら自分が怒らせてしまった相手の本性に気づいたのか、責任者は苦しみながらもチェルシースマイルの問いに素直に答えた。理不尽に撃たれたにも関わらず、彼はますます目の前の中国人に媚びへつらうようにして、汗をかきながらも笑ってみせた。


「私の愛犬だ。可愛いだろう?」


 チェルシースマイルが興奮気味のドーベルマンの頭を撫でながら言った。責任者は「ええ」とおべんちゃらを言いながらも蛇口のように血が噴き出す右腕を押さえて、波のように押し寄せる苦痛に顔を歪めていた。


「彼は高級ドッグフードか、人肉しか食べないんだ…。彼を満足させることができれば、今回は多目に見よう」


 ドーベルマンが吼えた。責任者は文字通り目を丸くして、中国からやって来た狂人を再び見上げた。狂人は笑っている。


「ま、待ってくださいよ」


「O型の輸血パックなら研究室に充分備えてある」


 そう言いながら、チェルシースマイルがコンクリートに投げつけたのは、大振りな黒いアーミーナイフだった。


「これは?」


 血の気を失いつつも、責任者は自分の前に投げつけられた獰猛な刃を見つめた。

 それは戦場で兵士が使うタイプのもので、太陽光を反射して敵に居場所を知られないように、本格的に黒燻し加工が施されたものだった。


「そのアーミーナイフを上手に使って、正気を保ちながら…その、もう使い物にならなくなった右腕の肘から下の筋肉を削って…少しずつ私の犬に与えなさい…。きちんと肘から下が骨だけになるまでね。いいね」


 チェルシースマイルは優しく言いながらドーベルマンの尻を叩く。ドーベルマンは立ち上がり、灰色のコンクリートの上に責任者が流した血の匂いを嗅ぎ始めた。


「なぜ…こんなことを」


「分からないかね。私が君に求めてるのは心からの謝罪、そして…信頼の回復だ。君は私を納得させ君を再び信頼できるように…文字通り、身を削って落とし前をつけなければいけない」


 チェルシースマイルは、嗚咽する責任者に対し「分かるね?」と微笑み、彼の右肩をわざと叩く。痛みのあまり責任者は涙を流しながら跳ね上がった。


「これが無事に済めば、君は利き腕である右腕こそ失えど、新しい人間に生まれ変われるだろう。苦痛を乗り越えながら誠心誠意、謝罪し、私の信頼を再び獲得できた誠実な人間へと…」


「そ、そんな…」


「もう理由の説明としては充分だろう。優しい顔をするのはここまでだ」


「なぜ…」


「さっさとやれ!」


 低くドスの利いた恫喝の声。再び銃口が責任者へと向けられた。


 目に冷たい狂気が宿り、口唇の左端から頬にかけて走る刃物傷は、神経質に痙攣している。チェルシースマイルは殺害衝動に耐えつつ、最後のチャンスを与えているのだ。数秒のうちに決断しなければ、間違いなくこの男は引鉄をひくだろう。


 責任者は絶望しながらも生存の道を選択し、震える左手にアーミナイフを取った。


 彼は若き日―、兵役中に簡単な人体の構造を学んでいたし、ゲリラ戦での食糧難を想定した野生動物の解体方法も学んでいた。


 あとはそれらを応用するだけだった。


 大粒の涙を流しながら意を決した責任者はハンカチを噛みしめ、血に濡れた右腕の袖を捲くりあげ、持っていたタオルを肘の上で縛り、血の流れを止めると左手でナイフを逆手に持ち、右前腕の二本の尺骨の間に沿って、刃をズブっと、一思いに突き立てた。


「んぐぐぐ、ぬぬぬ…」


 トマトジュースのような血が、瑞々しい音を立てて元気に飛び散る。噛みしめたハンカチの隙間から情けない呻き声が漏れる。


「ぐんぬぬぬぬ、ぬ…んぬ~」


 要領を得た責任者は、そのまま自らの右前腕の総指伸筋、尺側手根伸筋の筋組織の流れに沿って、ズブ、ズブと刃を下ろしていった。


「んんんんんんんんんんんんんん!ん!ん!ん!」


 血ぬめりも手伝い、手根骨でいったん止まっていた刃先も、ゴリゴリと骨を粉砕し、やがて無事に中指と薬指の間をすり抜け終えた。音を立てて血液が滝のように落下する。


「んぁあああああああああああああぁあぁぁ!!!!!」


 噛みしめていた唾液まみれのハンカチが落ちて、責任者の苦痛の叫びが、梅島にこだました。


「はっ、はっ、はっ、ふっ、ふっ、はあっ…」


 責任者は泣きながら、自らの右腕を見つめた。


 その視線の先では、右肘から下の前腕から指先にかけて、冗談のように左右がパックリと割れ、切断面からは赤と白の筋組織の束や神経、血管がびくんびくんと痙攣した状態ではっきりと見えた。


 噎せかえるような血なまぐさい光景に、ドーベルマンが吼える。狂人が腹を抱えて笑う。


「さ、…さ、さぁ、お食べ…あは…あはは…あは…お食べ~…」


 荒い息を吐きふらふらになった責任者は、脂汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま踏ん張り、筋肉繊維の束を一口サイズに切り分け、血に飢えた獣に与えた。ズボンは糞尿で濡れていた。「あは、あは、あははは」と責任者は自分の肉を食うドーベルマンを見て、痛みと恐怖のあまり愉快そうに笑った。


「よくやったぞ。偉いぞ」


 喜劇を観賞し終えたチェルシースマイルが、拍手しながら笑う。


「あはは…はぁ、はぁ、よ、喜んでもらえましたか、か、か…か」


 いつの間にか狂人は二人に増えていた。


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 右腕を失った責任者は治療のため別室へ運ばれていった。ドーベルマンはゲップを鳴らしながらヘリの中で眠りこけている。


 チェルシースマイルは何もすることがなく、アダム―、キムが連れ去られたあとの、がらんどうな地下研究室で立ち尽くしていた。


 一面ガラス張りの向こう側―、濃厚な血の匂い。肉片、体液…。

 数ヶ月に及ぶあれだけの「行為」を、よく耐えられたものだと思いを馳せながら、壁の血痕をなぞる。


 キムの人格は数週間で崩壊したが、人間性は最後まで保っていた。


 ある日、戯れにチェルシースマイルはこう言ったことがあった。


「実験が辛ければ、別の誰かを代わりにやらせようか」と。


「こんな思いをするのは私だけで充分だ」彼は迷いもなくそう答えた。


「それは残念だ。我が国、中華人民共和国では、君の細胞を培養し、人民解放軍の兵士に移植する…プロジェクトイブが進行中だ」


 その言葉にキムは「なんということを」と叫び声をあげて泣いていた。彼は自分の痛みよりも誰かを憐れみ涙を流せる人間だった。


 チェルシースマイルはそれが羨ましくもあり、疎ましくもあった。


 そして「いつかはキムが苦痛と絶望に敗北し、他人の犠牲を願う日が来るはずだ」と彼のような存在を認めることができない自分に言い聞かせ、この地下室を去るのが日課となっていた。


-------------------------


 しばらくすると、地下室に警備隊員のペクが降りてきて、ガラス越しに一礼するのが背中越しに分かった。だがチェルシースマイルは振り返ることなく、壁にこびりついた脳や皮膚の破片ををいじくり回す。


「劉さまへご報告です。追跡装置によると、現在アダムは、沖縄方面へ連れ去られているもようです」


 ペクは緊張に語尾を張り上げ、畏まったように言った。二十歳そこそこの隊員だったが、部下としては礼儀正しく好感が持てる青年だった。チェルシースマイルは「ご苦労」と労いの言葉をかける。


「ふむ。ついに米軍が動き出したか。我々に残された時間はもうないということだろう」


 そう呟きながら、チェルシースマイルは壁に飛び散った脳の破片と、数時間前に発砲されたであろうハンドガンの空薬莢を拾いながら鼻に近づけると、硝煙の残り香を探った。


「上官からの伝言ですが…、どうやって彼を取り戻すのですか?」


「キム…いやアダムはもう取り戻せない。というよりも必要がない。彼らが沖縄の米軍基地に到着した頃、アダムの身体に仕込んでおいた爆破装置を起動させなさい。ぬか喜びしている米軍も一緒に吹っ飛ぶだろう」


「しかし」


「やむをえん。我々に研究の後押しをしてくれたダニエル・ゴッドスピードさまが未だ意識不明の状態とはいえ…プロジェクトをここで終わらせるわけにはいかんのだ。我が国のためにも…私自身の野望のためにも…」


 チェルシースマイルは、アダムが遺していった脳の破片や肉片、眼球を拾い上げ、右の手の平で思い切り、潰した。液体が指の隙間から地面に落ちる。手の平を広げてみても、肉片は肉片だった。再生はしない。


「分かりました。上官に伝えておきます」


 ペクはそう言って去っていった。


 一人取り残された地下室でチェルシースマイルは、呆然と床に散らばった血液を見つめながら、言いようのない喪失感に襲われていた。


 研究の合間の戯れとはいえ、執拗な暴力を以ってしても、遂には善意の男、キムを屈服させることができなかった。


「私に屈しない存在など…粉々になって消えればいい。さらばだ…アダム」


 不死身といえど、粉砕されれば元には戻らぬだろう。細胞レベルで生き続けようと、アダムは二度と人の形を成さないはずだ。


 秘かに胸に広がる、敗北の疼き。


 孤独な狂人は、自分に欠いたものを持っていた男―、キムの顔をもう一度思い出し、左端の口唇を醜く歪め、薄く笑うだけだった。

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