第31話 お前らに出会えて、よかった

 沖縄県宜野湾市―。


 陸地面積19.80km²にして総人口95,300人。沖縄本島中南部の中央に位置し、米軍普天間基地を擁する市。


 K県小喜田内市と、沖縄県の宜野湾市は「教育、文化、スポーツ、芸術、経済など多方面にわたる交流」を行う、三十年来の「姉妹都市」の関係にあった。


 東京から那覇まで、飛行機で三時間。


 欠伸を噛みころす有働ら殷画高等学校の二年生、百二十六名を対象とした特別活動旅行、集団宿泊的学校行事―、いわゆる「臨海学校」が、これより四日間に渡りこの地で行われる。


-------------------------


 7月7日(火)

 正午過ぎ―。


 有働らは、宜野湾海浜公園内にある人工海浜にて、照りつける太陽の中、遠泳を行っていた。


 その内容は、百二十六名の生徒を六つの隊に分け、それぞれ二十名、二十名の横二列のブロックをつくり、泳力の弱い者は前方に、強い者は潮の流れが大きい後尾に配置し、平泳ぎで三キロメートルを二時間半かけて泳ぎきるというものだった。


 学校側は市の協力を得て、周囲に数隻の監視船、最後尾には地元漁師が運転する機動船を配備し、そこに養護教諭、地元看護師らを乗せ、隊から外れる生徒や体調不良の生徒が出ないか注意深く見守っている。


 生徒たちはそれを横目で見ながら「きついな、体調不良のふりしてギブアップすっかな」「どうせならよ、もっと風景とか楽しみたいぜ」などと愚痴を漏らす。


 体育の成績が抜群に良い有働は、水泳部の連中と共に最後尾につかされた。遥か前方には、内木や戸倉、そして病弱ながらも今回は参加に問題なしとされた莉那らが泳いでいるのが見える。


「不満そうだな~、有働。きついか?」


 水泳部の男子生徒が、涼やかな顔で平泳ぎしながら軽口を聞いてきた。

 短髪に前歯が二本突き出ている少年だった。有働は、クラスメイトであるはずのこの生徒の名を思い出せなかった。


「当たり前だ。俺は水泳部じゃないんだぞ」


 普段、口を利いたこともない相手に、有働は無愛想に答えた。

 生徒たちの動きに合わせ、水面からざぶん、ざぶんという音が聞こえる。


「ネイビーシールズはもっとキツい練習してるんだぜ」


「そんなん比較にならないだろうが」


「なんだよ~、お前って冗談の通じないやつなんだな。いい噂を聞いてたから話しかけてみたんだが…ちょっとガッカリだぜ」


(うるせぇなぁ、お前が話しかけてきたんだろうがよ)


 舌打ちを堪え、それ以降、有働は無言を貫いた。


-------------------------


 16時00分―。

 尾中教諭の号令で、百二十六名がビーチに集合した。


「今日はご苦労だった~、陽が落ちる前に本日最後のお楽しみタイムだぞ」


 ビーチでスイカ割り。


 目隠しをした状態でグルグルと五回転させられ、木刀をひとり一振りずつ。「割れた隊から、スイカにありつける」というルールらしい。有働の所属する隊は、ひとり目の有働で、一刀両断、見事にぱっくりスイカが割れた。波の音がする方向と、スイカの置かれた位置を覚えていれば問題のないことだった。


「さっきは、くだらん冗談を言ってすまん。お前のおかげで、早めにスイカを食えて良かったわ」


 さきほどの男子生徒が、機嫌良くそう言う。有働は、やはり名前を思い出せなかったが「つ」のつく名前だというのは、なんとか思い出した。


-------------------------


 宿泊ホテルは、十一階建ての白いビルで、三百人を収容できるものだった。一般客もいる中「お前ら、迷惑かけるなよ」と尾中教諭が釘を刺す。


 臨海学校という性質上、各個人の部屋が割り当てられることもなく、男子と女子それぞれ、大広間で寝かされるという。


「最上階からの景色は最高なんだろうなぁ」と誰かが悔しそうに言った。「鼾のうるさいやつがいたら、たまらんぜ」という声もあった。


 高校生ともなれば、枕投げや怪談話など興味がない、といういい見本だった。


「風呂は順番どおりグループで行けよ。きっちり時間を守れ」という尾中教諭の指示に、旅行気分だった生徒たちは、うんざりした顔で肩を落とした。


-------------------------


 20時―。


 大浴場から出た有働は、宿泊ホテルの一階ロビーに置かれた五つのテーブルのうち、一席に見覚えのある先客を見つけた。


 ピンクのパジャマ姿の莉那だった。ペットボトルのお茶を飲みながらハードカバーの小説を読んでいた。他の席は一般客で埋まっている。有働は莉那に声をかけた。


「よう、おつかれ」


「おつかれさま」


 緊張したような口調で、莉那が答える。


 ドライヤーを使うのが面倒な有働は、タオルで髪を拭きながら、アンティーク調のテーブルを囲み、莉那に向き合うように椅子に座った。座面が温かい。おそらく数分前まで犬養真知子がここに座っていたのだろう。


「遠泳はきつかったな」


「そうだね」


 莉那は、乾かしたばかりの長い髪を手櫛で整えると、睫毛を上下させながら、肩にかけていたピンクのタオルの端を指でいじりはじめる。閉じられた文庫本のタイトルは、今年のベストセラー恋愛小説だった。


「この前はありがとう」


 莉那は視線を泳がせながら、なぜかタオルで口元を隠して言った。そのせいで声がこもっていたが、言葉はきちんと聞こえた。


「悪いのは俺だ。原因は俺にある」


「でも、二度も助けられたんだよ…?」


 口元をタオルで隠したまま、怯えたような大きな瞳がこちらを見ていた。有働は「人が何か話しにくいことを喋るとき、鼻や口元を隠すものだ」と警察官の父が言っていたのを思い出した。


「なんていうか…なりゆきだ」


 莉那のシャンプーの香りが有働の鼻腔をくすぐる。毎朝、バスの中で楽しみにしていた芳香だった。記憶の襞が疼く。ときめきではなかったが、戻らない過去を思い出し、一抹の寂しさをどこかで感じていた。


 莉那の視線が泳ぐ。「うん…なりゆきかぁ」と呟きながら。


「あのね…えっと、そう…お礼とは別に、有働くんに言おうと思ったことがあるの…これは…えっと、前に進むための…意味っていうか…なんていうか…言って、すっきりしたいっていうか…」


 タオルを口元から離し、目を泳がせながら莉那が鼻をこすった。


「言おうと思ったこと?」


「笑い話として聞いてほしいの…あのね…えっと…あのね」


 そう前置きしたあと、神経質に瞬きをしながら、莉那は桜色の唇の口角をあげた。リスのように少しだけ主張のある前歯がチラと見えた。


「あのね…えっと、私…、ずっと有働くんが好きだったの…。あ!ご、ごめんね。いきなりで驚いたよね?」


「え?」


 有働は仰天して、声を荒げた。


「急にごめん!で、でも…私たち、友達だよね?友達になるためには…隠していた気持ちだけは言っておかないと、やっぱりギクシャクしちゃうし…後悔しそうだったから。だからといって、彼女さんがいるのも知ってるし…どうこうってわけじゃないの。変に思わないで…でも…自分の気持ちに整理をつけるため、どういう風に言おうかずっと迷ってたけど…こういうのは、そのまま言う方がいいって、真知子も言ってくれたし…変に遠まわしに言うよりも…なんていうか…あの…」


 しどろもどろになりながら、少女は言った。隠す必要はない。傷つくこともない。ただ、単純に笑い話として打ち明ければいい。二人は友人なのだから。そういうことなのだろうと有働は理解した。たしかに、こんな話にしどろもどろしていたのでは、友情など築けるはずがない。友人になるには、男女という意識を捨てなければいけない。そう思い、有働も過去の思いを「笑い話」として打ち明けることにした。


「そうか…えっとじゃあ、俺も言うよ。俺も、実は吉岡をいいなと思ってた、去年くらいまでね」


 有働はおちゃらけた感じで言い放ち、苦笑いを浮かべたものの、莉那の眼差しは真剣そのものだった。


「え、本当?」


 莉那は、文字通り目を丸くした。アイラインを引いてるわけでもないのに、目の形がくっきりしているのは、エミ同様に睫毛がしっかりしているからだろうと思った。


「ああ」


「知ってた。ふふふ」


 有働は鼻を鳴らす。吉岡莉那はこういう反応をする娘だったのか、と初めて知り苦笑した。


 出会った頃のエミを思い出す。もしかしたらこの二人は遠からず、似た部分があるのかもしれない。エミに惹かれたのも、潜在的に莉那の面影をみていたからかもしれない…と、有働がそこまで考えたとき「俺はなにを考えているんだ」とエミに対する罪悪感がこみ上げた。


(俺って最低の男だな)


 そう思った。


「でも、こうして過去形で堂々と言われたってことは、もうそれが過ぎてしまったってことだよね。複雑な気持ち」


 莉那は寂しそうに言った。寂しそうな顔をしないでくれ、と有働は唇を噛みしめた。


「過去も未来も、友達だろ」


「友達関係に、終わりはないしね」


 二人は見つめ合った。こうしてお互いの瞳を覗き込めるようになるまで、どれほどの時間と勇気と、道のりを要しただろう。莉那の瞳は潤んでいて、室内灯の光をきらきらと反射していた。


「ああ、そうだな」


 有働は頷く。鼻の奥につんとするものがあった。少し思案して、それが何なのか理解できた気がした。


「吉岡…お前がきっかけで、色んな人に出会えて…俺の人生も、少しだけ変わった」


 本音だった。それ以上でも、それ以下でもない本音。


「なんの話?」


「こっちの話だ」


 長い睫毛をしばしばさせ、桜色の唇を尖らせたあと、莉那は笑った。


-------------------------


 その時だった。


「あ…、ああ、あ、あの、おじゃ、お邪魔だったかな」


 有働の背後で内木の声がした。漫画の原稿用紙を入れたクリアファイルと、筆箱を右腕に抱えていた。


「そんなことないぜ。漫画を描くのか」


「さ、さ、最後の手直しだよ。できたら、明日、ポポ、ポストに投函しようと思ってる」


「あっちに戻ってから直接、渡せばいいじゃないか」


「で、で、できあがったら、その場で僕の手を離れた方が、い、い、いいと思うんだ。作品って、そ、そういうものだと思うから」


 風呂上りに髪も乾かさず、内木の前髪は額にへばりついていた。莉那は興味津々な様子で内木を見ていた。


「そうなのか」


「うん」


 内木の右手はインクで汚れていた。中指はペンダコで膨れ上がっていた。


「頑張れよ」


「うん、が、が、がんばるよ」


 笑いながら内木は言った。


「じゃあ、もう俺は戻って寝るわ」


 ロビーの椅子は限られていて、他のテーブル席は一般客で埋まっていた。大柄な内木には少しでも広くテーブルを使ってほしかった。有働が立ち上がると、莉那が「私がいくよ」と言ったが、有働はそれを制した。


「内木の描いたものを見て、アドバイスやってくれ」


 有働は言った。莉那が大変な読書家であることを知っていた。


「え…私が?」


 目を丸くする莉那に、内木は「よ、よ、よかったらお願い」と笑いながら頭を下げた。


「内木…吉岡…」


 有働は、去る前に二人を見つめた。


「な、な、なに」


「なに?」


 二人とも、風呂上りのつやつやな顔で、有働を見つめた。


「お前らに出会えてよかった」


 本音を言った。


「じゃあな。おやすみ」


 二人とも、きょとんと顔を見合わせたが「おやすみ」と笑顔で手を振ってくれた。


-------------------------


 21時過ぎ―。


 六十名ほどの男子が、布団を並べる大広間。


 メッセージの受信を知らせるサウンドとともに、スマホが振動した。

 まどろみはじめた有働は、飛び起きた。


 まだ起きている連中は、あちらこちらで布団の上に立膝をついて話し込んでいた。


 有働はメッセージを開く。


「つとむぅ~、莉那ちゃんと仲良くしたりしてないよね?エミ、不安だよう」というインスタントメッセージ。汗や泣き顔のマークが多用されていた。


 目をこすりながら、文字を打ち込む。


「仲良くしてるよ。だが、お前の考えるような仲の良さではない」と有働は返した。


「うふふ~、分かってるよう」というメッセージとともに、画像が添付されていた。


 いつものように、エミの自撮り画像かと思い、見たあと、どういう褒め方をすればいいか思案しつつ数秒待った。


 だが取得された画像は、この前、有働とエミ、内木とリカの四人で一緒に撮った画像だった。


「最高の四人だな」そう、メッセージを返した。


 そして有働は、布団に潜りながら、消灯ぎりぎりまでロビーで漫画を執筆しているであろう内木に、その画像を転送した。


「ありがとう!待ち受けにするよ!」という内木からの返信メッセージに気づいたのは、翌日の朝だった。


-------------------------


 7月8日(水)

 正午過ぎ―。


 水難救助訓練が行われた。


 それは船舶の転覆事故や、遊泳中の水難事故に巻き込まれた者を救助することを想定し、ダミー人形を使って心配蘇生法を学ぶというものだった。


「え~、人間の脳は二分以内に心配蘇生が開始されれば救命率が九十パーセントですが、四分で五十パーセント、五分で二十五パーセントと、どんどん下がっていきます。いわゆるカーラーの救命曲線ってやつですね~。救急隊が到着するまでの五分が大事といえます。なので、みなさん、ご自分の腕時計を見ながら~、ダミー人形に心肺蘇生を施す練習をしてみましょう」


 地元ライフセイバーの指導のもと、男子と女子に別れ、ダミー人形に人工呼吸や心臓マッサージを施す。


「くそ!俺、腕時計してないや」


 有働が呟いた。


「ぼ、ぼ、ぼ、ぼくの貸してあげるよ」


 同じチームの内木が言った。


「悪いな」


「う、う、う、腕時計するのが、嫌いな性格なの?」


「ほしいんだけど、買おうとすると、なかなか自分で選べなくてさ」


 有働は苦笑した。


「じゃ、じゃあ…誕生日プレゼントは腕時計が、い、い、いいかな」


 内木がぼそっと言った。


 水難救助訓練のあと、ビーチバレーなどを行い、あっという間に夕方になった。


「よし、今日の授業はこれで終わりだ。各自、着替えてバスで待機するように」


 尾中教諭の号令で、生徒たちは散っていった。


「さすがに二日連続、スイカ割りはなかったかぁ…期待してたんだが」


「いやいや…夜のレクリエーション…肝試しが宿泊ホテルの庭園であるだろ。女子とペアでよ…男らしさ見せるチャンスじゃね?」


 バスに戻るまでの間、方々からそんな声が聞こえてきた。


-------------------------


 17時00分―。


 送迎のバスに乗った。

 有働は、決められたとおり、左列の中央あたり、窓側の席に座る。右隣には戸倉が座った。


(通学バスだったら、あの席なんだがな)


 有働は、右列の最前列、窓側の座席を見た。

 自宅から、老婆が乗車してくる横嶋団地前までの間、座る席だった。


 そこには、内木が座っていた。丸い肩を揺らし、スマホに何かを打ち込んでいるようだった。


 はっきりとした理由はないものの、有働は子供の頃から、バスに乗る際は運転手の真後ろの席が好きだった。「もし今回のバスの座席が自由だったら、内木に席を変わってもらって、あそこに座っていたかもしれないな」と思った。


 バスは宜野湾海浜公園の駐車場を出ると、宜野湾バイパス経由で国道五十八号線に入った。


 人数が揃い次第の発車なので、他クラスのバスと散り散りになっていたが、このタイミングの僥倖に鼻を鳴らす者がいた。


「ラッキー!米軍ジープだ!あれ!普天間基地に向かってんだろうな!」


「後ろにもいるぜ!このバス、ジープに挟まれてるぜ!すげぇ!自衛隊のとは違うんだな」


「当たり前だろ!」


 生徒たちが方々に、車内で騒ぎ出す。

 興味があるわけではなかったが、有働も前後のジープを視認した。


「写メ撮ろうぜ」


 立ち上がる生徒を、尾中が「立つな」と注意するが、あちらこちらでカシャカシャ音が鳴り響いた。


「俺も写メ撮ろうかなぁ」


 有働の右隣、通路側に座っていた戸倉が身を乗り出す。


「かっこいいな、おい。あ~、車線変更しちまう」


 誰かの残念そうな声が言うとおり、バスの前を走行する米軍ジープが、ウィンカーを出しながら右車線へと移った。


 その時だった。


 右前方の窓が、眩く光り、世界が白く染まった。

 ボッ、という大音響と共に、重力が奪われた。


 無音。


 身体が宙を舞い、熱風と共に凄まじい圧力が襲い掛かる。

 ガラスの破片が砕ける音、車体がぶつかり、ひしゃげる音は後から聞こえてきた。


-------------------------


 覚醒する意識。


 気絶していた時間は数分か、数十分か、数時間か。

 鼓膜がおかしくなっていた。


「いてて…くそ…」


 有働は呻いた。


 無意識のまま衝撃に備え、胎児のような体勢で受身を取り、頭を守る形で転がっていたようだ。


「いてぇな…なんだってんだ、いったい…」


 有働は、自分の頭や腕に降りかかったガラスの破片を振り払い、身体中に広がる痛みの中で目を見開く。


 見上げる頭上には、割れた窓があった。


 それは、バスの右列座席に配置されていた窓だった。ざくざくに割れたガラスの隙間からは、眩い太陽光が射していた。


 下を向くと亀裂の入った窓ごしにねずみ色のアスファルトが見えた。自分が地面にしていたのは、左列座席の窓だった。


 よく見れば、自分が挟まっていた座席も横になっている。有働は朦朧とした意識の中で、ようやくここが横転したバスの中であることを理解した。


 自分の右隣、つまり通路側に座っていた戸倉が消えていることに気づいた。有働は、横になった座席シートに手をかけ、窓ガラスを踏みながら前方に通路、後方に天井という奇妙な車内状況の中でなんとか立ち上がり、とりあえず戸倉の姿を求めた。


 全貌が見えた。


 生徒たちの大半は自分が座っていたであろう席からだいぶ後方へ吹っ飛ばされ、地面―、つまり左列座席だった場所に折り重なっていた。


「内木、戸倉…吉岡に犬養…白橋…」


 有働は意味もなく、同じグループの五人の名を呟いた。あちらこちらで折り重なった生徒たち。車内で埃が巻き上がり、誰が誰なのか分からなかった。時折聞こえる、男女の呻き声。


「これは夢なのか、なぜこんな状況に…」


 呆然とした状態で、さきほどの光景―、前方から迫ってきた大きな光が原因だろうと、有働は思った。


「爆発したのか」


 バスの前方を走っていた米軍ジープ。


 兵器かなにか分からないが、爆発物を積載していたのだろう。おそらくはあのジープが原因だ。米軍ジープが右へ車線変更をしようとした際、それがちょうど爆発し、バスの車体は右前方から大きな衝撃を加えられ、左側へ横転したのだ。


「これは現実か」


 オイルの臭いが充満していた。状況が有働に覚醒を促した。


「おい、みんな起きろ!爆発するぞ」


 その叫びに反応する者はいなかった。


「くそったれが」


 有働は、その辺に散らばる旅行バッグを横になった座席の側面に積み上げ、その上に乗ると大きく割れた窓から、大急ぎで這い出し、車内から出た。


「くそ、どうすれば」


 どうすれば、気絶した二十数名のクラスメイトを車外に避難させられるんだ―、と有働は考えた。


 鼓膜に響く、金属音。

 照りつく太陽に一瞬、眩暈がしたが、横転したバス右側の車体に立ち、状況を確認する。


 バスの右前方は爆発による破損が激しく、冗談のように波打ち、歪んでいた。おそらく直撃を受けたであろう運転手のものか―、血と肉片のようなものがこびりついていた。


「くそ」


 車線の向こう側の道路では案の定、爆発し煙を巻き上げるジープの残骸と、爆風で煽られ、横転した車の何台かが転がっていた。


「お前ら!起きろ!ここから出るんだ!」


 有働は、足元の割れたガラス窓に向かい、叫んだ。


 もしもバスが右に横転していたならば、もう一度車内に戻り、運転席のありとあらゆるボタンを押してドアを開口し、そこから生徒たちを救助することができたかもしれない。しかし左に横転している今の状況では、割れた窓から一人ずつ引っ張り出すしか方法がなかった。


「起きろ!早くここから出るんだ!」


 窓ごしに、男子生徒が立ち上がるのが見えた。彼は内木や戸倉ではなかった。彼は、遠泳のときに有働に話しかけてきた「つ」がつく名前の、水泳部の生徒だった。名前を呼ぼうとしても、やはり完璧に名前を思い出せなかった。


「水泳部のお前!こっちの窓から出ろ!」


 有働はそう叫びながら、彼の方へと走り「バッグを積み上げて、この割れた窓から出ろ!」と叫んだ。男子生徒はよろめきながらも、その指示通り、割れた窓から脱出するべく、座席にバッグを積み上げ踏み台にして這い上がろうとする。


「ガラスの破片に気をつけろ。つかまれ」


 有働は、頭から血を流しながら這い上がってきた男子生徒に手を貸し、彼を引き上げるなり叫んだ。


「他のやつらは?」


「みんな気絶してる」


 有働は、ようやくこの男子生徒の名前を思い出した。

 土屋だ。


「くそ」


「おい、有働!お前、怪我してるぞ」


 土屋が叫ぶ。


「なんだと」


 ふいに、胸や脇腹に痛みが走る。


 どうやら割れた窓から出る際に、ガラスの先端で裂いてしまったらしい。白いシャツの胸から下が鮮血で染まっていた。だいぶ出血したのか今ごろになって、視界が霞みはじめた。


「大丈夫だ…それよりも、土屋。俺とお前で、皆をこの窓から引き上げなければならない…俺が下に降りるから…」


「有働…顔が青ざめてるぞ…休んでろ。誰かに協力してもらうからよ」と土屋は言った。


 裂けたシャツの中で、ぱっくり裂けた皮膚から黄褐色の脂肪が見えた。傷口はだいぶ深かった。出血もひどい。「今さっき土屋に気をつけろといったばかりなのに…、俺はマヌケだ」そう思いながら、有働は膝から崩れ落ちた。


 血が足りない。寒気がする。いつぞやの不破勇太に刺されたときと同じ状態になっていた。混濁する意識の中、有働は自分の情けなさをこれ以上、嘆く暇がなかった。傷口を手で押さえるも滝のように血が流れる。「今度こそダメかもな」そう思った。


「誰か!誰か来てください!手を貸してください!」


 叫ぶ土屋。


 立ち往生したあちらこちらの車から、ぞろぞろと人が出てくるものの、爆発を怖れ、土屋の呼びかけに誰ひとり応じる者はいなかった。


「消防車を呼んでおいたぞ!」という声が、遠くから聞こえた。「危険だからそこから離れろ!」と誰かが言った。


 だが、汗だくになりながらも土屋はそこから離れず、どうにかバスの中で気絶するクラスメイトの救済方法を思案していた。


 有働は、気を失う寸前だった。「土屋…。危険を顧みず、皆を救おうってか…」汗だくになり、助けを求める土屋を眺めながら、有働はひとり笑った。そして「情けない…もうこれ以上、動けない…」と忌々しく天を睨んだ。


-------------------------


 その時だった。


「そこの君!俺も手伝う!」


 英語で誰かが、こちらへ呼びかけてきた。


 霞みゆく意識の中、耳鳴りがしても、有働の聴覚は問題なく機能した。


 幼少時代、アメリカに住んでいたという新渡戸教諭の「ヒアリング」「オーラルコミュニケーション」が、ここで役立った。「私の発音は、アメリカ人にも褒められる。電話だけなら日本人だと気づかれないほどだ」新渡戸教諭は、得意げに言っていた。


「お、おい、あの外人…なんて言ったんだろう」


 軍服を着た白人青年が、バスの前に立っていた。近くの普天間基地の軍人だろうか。有働には分からなかったが、彼は協力的な人物らしい。


「手伝ってくれるってよ」


 戸惑う土屋に、有働は言ってやった。


「アーロン!アダムが先だ!元に戻るかもしれない!」


 有働は、声の方を見た。


 そこにいたのは、同様の軍服を着た白人青年だった。彼はあからさまに顔をしかめていた。傍には爆発したジープと同じタイプのジープが停車している。やがて、それはバスの後ろを走っていた二台目の米軍ジープだと理解した。


 有働は舌打ちを堪えた。


 彼ら二人組が、事故原因を作った連中の仲間だと分かった。だが、ここで彼らに手を貸してもらえなければ絶体絶命だ。有働は毒づきたくなるのを必死に堪えた。


 白人たちは、まだなにかを話し込んでいた。「さっさとしろよ」と有働は思った。血の足りなくなった有働には、数秒間が、数分、数十分、数時間に感じられるほど長く感じていた。


「ジェフ!君もジープの残骸をみて確認しただろう!アダムは、コリン大尉やマシュー、ネイサンと共に、ほとんど粉々になってしまった。起爆装置が、アダムの体内に埋められていたんだろう…任務(ミッション)は失敗に終わってしまったんだ。それよりあの少年たちを助けよう!俺たちを必要としている!」


 二人組のうち、救助に協力的な青年―、たしか先程、アーロンと名を呼ばれていたか。アーロンは、強い口調でもう一人の青年―、ジェフを説得していた。「起爆装置…?アダム?ふざけやがって」と有働は思ったが、彼らの話し合いがさっさと纏まることを祈るだけだった。胸や脇腹からの傷口から血が止まらない。失禁したわけでもないのに、有働のズボンはびしょびしょになっていた。


「でもよ…」


 ジェフは何か言いたそうだった。


「助けられる命を見殺しにするのか!俺たちの責任だぞ!」


 アーロンが声を張り上げた。


「それは、そうだが…」


 爆発したジープを一瞥し、ジェフが渋々、頷いた。「遅いよ…バカ野郎」有働は心の中で、ジェフを罵った。二人はバスに近づき、アーロンだけが車体によじのぼり、ジェフはその下に留まった。


「怪我してる彼を脇道に運ぶぞ」


 有働の体から重力が消える。アーロンによって抱きかかえられ、ジェフが下で有働を受け止めた。


「いいか。君は休んでるんだ…あ、いや、英語は分からないかな?…」


 有働を道路脇の街路樹の木陰に横たわらせ、ジェフが言った。「分かります」と有働が英語で答えようとしたその時、ジェフは首を振り、独り言を繰り出し始めた。「彼に英語が理解できるはずはないな。日本の高校生の英語力は世界でも最低レベルだって聞いたことがある。よし!久しぶりに日本語でも使ってみるか。昔、日本の女を口説くために、少しだけ練習したのが役立つぜ」


「キミ、ソコデ、ヤスンデテ。ケガ、ヒドイ」


 得意げな顔のジェフは、カタコトの日本語で言った。有働は「さっさといけよ、クソ野郎が」と言おうとしたが、血が足りなくて声が出なかった。


「俺がバスの中へ降りる!ジェフは、その少年と一緒に引っ張り上げてくれ!…引き上げる際に窓ガラスの破片が刺さるとまずいから、砕いておいてくれ!いいな!」


 バスの車体の上に乗っかった状態でアーロンが叫ぶ。ジェフは、有働に「グッドラック」とウィンクして、バスへ駆け寄っていった。


 ひとり、またひとりと割れたガラス窓から生徒たちが救出されてゆく。アーロン、ジェフ、土屋の三人が汗だくになり救助してるのを見て、地元の人たちも徐々にバスに近づき協力してくれるようになっていた。血の気は失せても、有働の視力は健在だった。救助される中に、戸倉や、莉那、犬養真知子、白橋美紀らも含まれてるのが、この場所からでも、分かった。屈強な白人青年たちとはいえ、太った尾中教諭を、窓枠から引っ張り出すのは多少大変そうだったが、何とか車外に出していた。


「生きてる者は…これで全員だ…あとは、もう…。いつ爆発するか分からない。俺たちも離れなければ。ジープへ戻ろう」


 バスの中を一周したであろうアーロンが、ジェフに言っているのが聞こえた。


「おい…待ってくれよ」


 有働は、救出された人数をすべて数えていた。


 生徒が一人足りなかった。内木だった。運転席の後ろに座っていたはずだった。爆発の衝撃で運転手が即死していたのは、さっき見て知っていた。


「まさか内木も…」


 有働は震え始めた。


-------------------------


 サイレンとともに、救助隊が駆けつけた。


「そこの君!大丈夫か!」


 道路脇の街路樹の木陰に横たわった有働に向かって、救助隊が駆け寄ってきた。


「今そっちへ行く」


 救助隊員が叫ぶ。


「内木…、俺の友達がバスに取り残されてるんです…そっちを先に救助してください」


 弱々しく、有働が言葉をしぼり出した、その時だった。


-------------------------


「なんだよ!あれ!」


「おい!あの状態で立ってられるのか?」


「やだ!どうなってるの」


「生きてるのか?」


 事故現場に集まってきた連中の悲鳴が聞こえ、有働に駆け寄ってきた救助隊員も、一瞬うしろを振り返った。


 それは、爆発し歪んだ米軍ジープの方向だった。

 そこに立っていたのは、おそらく人間…だった。


 その人物は、なぜか右腕を隠した状態のまま、滑稽な表現ではあるが、理科室の人体模型のような姿…剥き出しの筋肉に、剥き出しの眼球や歯…、皮膚が一切ない状態で、立ち尽くしていた。


「うぇっ、うぇっ、うえっく、うえっく…」


 その人物は、奇妙な呻り声をあげていた。


 やがて胸や下半身など、剥き出しの筋肉を覆うようにしてボコボコと白い何かが泡立ちはじめ、泡が消えた箇所から皮膚が現れた。下半身には男性の生殖器があらわれ、その人物が男性であることが分かった。顔面の筋組織もブクブクと泡立っているものの、人相の判別がつかない状態で、彼が何を考えているのか一切分からない状態だった。


「うえっくぅ…、うぇっくっ、うぇっく…」


 呻り声は止まなかった。瞼のない眼球は周囲の様子を伺っている。


「なんだよ、あれは」有働と救助隊員は声を揃えて言った。誰かがムービーを撮影していた。現実にはあり得ない状況だった。有働は「良かった。これではっきりした。俺は夢を見てるんだ」と思い直し、救われた気持ちになった。


-------------------------


「アダム!」


 ジェフが叫んだ。


 アダムと呼ばれた奇妙な人物の身体の皮膚は、だいぶ元通りになっていた。そして呻り声を止めると、隠していた右手を、スっとジェフの方へ向けた。


 アダムの右手には、銃が握られていた。

 その顔は相変わらず泡にまみれ、表情は分からない。


「生きてたのか!」


 一足先にジープの中へ戻っていたアーロンが出てきて、二人の元へ駆けつけたが、後の祭りだった。彼も両手を上にあげるはめになった。


「コリン大尉の遺体の残骸から奪った銃か?そんなもの向けるなよ…俺たちは、あの中国人のように危害は加えない…安全な場所へ行くだけだ…俺たち友達だろ?艦内で二十四時間以上も共に過ごして、ポーカーをしたじゃないか…はは」


 ジェフが笑みを浮かべた。


「だからこそ撃たせないでくれ…私は…戻らなければならない」


 アダムは、銃口を向けたまま言った。

 有働にも分かる、少し訛りのある英語だった。


「家族がいるんだ…君たちに危害を加えたくない。頼むから…追わないでくれ…すまない…本当にすまない」


 アダムは彼らに背を向けた。

 その瞬間、ジェフがレッグホルスターから、さっと銃を抜く。


「逃がすわけにはいかない。頭をふっ飛ばしてでも、連れていくぞ」


 ジェフから、笑みが消える。

 右手に持った銃を、アダムの後頭部に向けていた。


「アダム…逃げろ…」


 蚊の鳴くような、アーロンの呟き。


「何を言ってるんだ?」


 隣のジェフが目を丸くする。


 アーロンの銃はレッグホルスターに収められたままだった。両手をだらんと下を向け、滝のように汗をかいていた。


「ミスター・キム…。逃げ切れ…、我々からも…他国からも…」


 その握りこぶしは震えていた。何かと葛藤しているようだった。


「行け!」


 アーロンは大きく目を見開き、声を張り上げた。


「おい!」


 ジェフの怒号。


「すまない!」


 アダムは叫びながら、空に向けて何度か発砲すると、素っ裸のまま、国道五十八号線を、普天間基地の逆方向へ走って逃げていった。


「アーロンてめぇ、なんのつもりだ!シールズの恥さらしが!」


 とっさに身を伏せていたジェフが叫び、アダムを追いかけた。

 アーロンは立ち尽くしたままだった。


「夢だ」


 有働は呟いた。


-------------------------


 有働は、救助隊に担がれストレッチャーに乗せられた。驚愕の光景を目の当たりにしたせいか、彼らの表情は固かった。


「みなさん、下がってください」


 横転したバスから「残された二人」が運び出されるのが見えた。


「ひどい…」


 誰かが言った。


 窓枠の中から引っ張り出された一人目は、運転手だった。シャツにベスト。白手袋の姿はそのままだが、首から上が消失していた。


 そして二人目は内木だった。


 救助隊が三人がかりで大柄な内木をひっぱりあげる。内木は左向きの状態で現れた。運転手と違い、気絶してるだけのように見えた。ストレッチャーに乗せられる際、内木の右半身が見えた。


「おい、ウソだろ…内木」


 内木の右半分の顔が、そっくりそのまま消滅していた。空洞になった頭蓋からは、血まみれの脳漿があふれ出し、無事だった左半分の顔は呆然と空を見つめている。


「…内木…死んでないよな」


 左半分だけの顔になった内木は、ストレッチャーに乗せられたあと、呻くことさえせず「痛い」とも漏らさなかった。時が止まったまま、人形のようにされるがままになっていた。


 有働の目頭が熱くなる。

 内木の右手は、いつものようにインクで汚れていた。


「内木が死ぬはずがない。これは夢だ。さっさと覚めてくれ」有働は祈るようにして空を見つめた。雲ひとつない人工的な青。現実感のない晴天に「やはり、これは夢だよな」と有働は呟いた。


「とは言え、最悪だぜ」


 遠くでパトカーのサイレンが聞こえてきた。有働はそのまま意識を失った。


-------------------------


 残念ながら、夢でないことが証明された。

 有働は、救急病院のベッドの上で激しい痛みと共に数時間後、覚醒した。


「今夜は入院してもらうけど、さほど傷は深くなかったよ。傷の経過を診るため、帰ったあとも向こうの病院に通ったほうがいい」と医師は言った。


「あの、皆は…」


 どこからどこまでが、現実なのか理解できなかった。

 縋りつくような有働の問いかけに、医師は戸惑う素振りを見せながらも状況を丁寧に教えてくれた。


 横転したバスに乗車していたのは、運転手含み二十七名。

 殷画高等学校二年B組の学級担任、および生徒二十五名のうち、重傷六名、軽傷十九名―。


 死者は、運転手の男性と内木だけだった。


-------------------------


 7月9日(木)


 臨海学校は切り上げられ、重傷者を除く殷画高等学校二年生は、この日の午前、帰宅した。内木の遺体も、彼の母が待つ殷画のマンションへと無言の帰宅をした。


 有働は傷がひどく痛み、父母に止められ内木の通夜には参加できなかった。明日の葬儀、告別式にはムリにでも参加するという条件で、有働もこの日は安静にした。


「沖縄での米軍ジープ爆破事件について、テロの可能性などあらゆる可能性を見越し、原因を解明中である。被害に遭われた日本の方に深く哀悼の意を示す」と米国政府は発表した。


 また事故現場で撮影された「珍事」がインターネット上でアップされ、物議を醸し出したが、それについて政府が発言するようなことはなかった。


「なんだこれ。合成だろ」と鼻で笑う者がいた。


「同時期に別の人間によって、さまざまな角度から撮影された映像を合成できるわけがないだろう!証言だって揃ってるんだ!あれは米軍の人体実験かなにかだ!色んな意味で普天間基地に反対だ!」と誰かが反論した。


 しかし、当然のことではあるが、あまりにも現実離れした「アダム」の動画を、大方の者は現実と認めなかった。


 地元住民を名乗る人物から「ちょうどその時間帯に裸の不審な男を那覇港で見たよ」という真偽不明の書き込みが一件だけあったが、それ以降の目撃情報はなかった。


-------------------------


 7月10日(金)

 11時00分―。


 内木孝弘の葬儀、告別式が殷画にある葬祭ホールで行われた。全校生徒が弔問に訪れる中、涙ながらにお辞儀する中年女性がいた。


 内木の母だろう、と有働は思った。

 ふっくらした体型、そして何より顔が似ていた。東京で会社を経営していると聞いたことがある。事実上、内木は殷画のマンションで一人暮らしをしている状態だったので、これが初対面だというのが皮肉に思えた。


 リカとエミ、遠柴も参加していた。

 リカは「いやだよ…いやだよ」と絶えず泣き続け、棺の傍を離れなかった。遠柴とエミに抱きかかえられ、席に戻る彼女に、誰もが涙した。


「これは現実か」


 有働は他人事のように思える自分が不思議だった。


 権堂の弔電が読まれた。

 読み上げたのは権堂の母、景子だった。


「遠い空の下にいるが、お前を思い、俺も頑張っている。帰国したらいろいろと墓前に報告するからよ」というものだった。


 春日と久住は、人目を憚らず泣いていた。

 駆けつけた権堂組の面々も、洟を啜っている。


 誉田は、色の濃いサングラスをかけ、ずっと顔を伏せていた。もう学生ではない誉田は、おそらく親父から借りたのだろう、ぶかぶかではあるが上等な礼服で参加していた。


 バスの衝撃のせいで、鼻に絆創膏を貼った莉那や、眼帯をした犬養真知子、前歯が折れてマスク着用の白橋美紀らも泣いていた。戸倉に関していえば、肋骨にヒビが入っていたが、それでも病院から駆けつけた。


 やはり、現実感がなかった。


「なぜ、みんな泣いているんだ。内木は死んでないだろ。どこかに隠れてるんじゃないのか」


 有働は葬祭ホールの隅から隅を見た。だが、どこにもあの丸っこい姿を見つけることはできなかった。


「みなさんのようなお友達に恵まれて、息子はたいへん幸せでした」


 内木の母は言った。


 出棺の際、右半分の顔を包帯で巻かれた内木の姿を見て「はやく起きろよ、焼かれちまうぞ」と有働は語りかけた。


 何かがこみ上げてくる。

 世界が変わってしまったのだと、有働は理解した。


 有働の肩をそっと叩く男がいた。

 誉田だった。


 有働の傍に寄り添う甘い香りがした。

 エミだった。


「これは現実だ」


 有働は唸るように呟いた。


-------------------------


 同日

 18時00分―。


 内木の葬儀は滞りなく終わった。

 有働は、刈間市にある遠柴のアニメスタジオ応接室にいた。


「昨日、郵便でこれが届いていた。内木くんが亡くなる前日に書き終えた、新しい原稿だ」


 遠柴は分厚い手の平で大判の封筒を、有働に差し出した。


「そうですか」


 中身を確認しようとしない有働を見て、遠柴自らが封筒から漫画の原稿用紙を取り出す。


「彼が亡くなったから言うわけでもなく、本音だが…」


 並べられた「ウチキング」の勇姿。そういえばここ最近、内木の手はいつもインクで汚れていた。


「最高の出来だ。いつの日か、我が社で映像化することが弔いになるだろうと、コピーはとってある。原本は君にあげよう」


 原稿用紙を分厚い手の平で示し、遠柴は言った。


「ありがとうございます」


「これからどうするつもりだね」


 有働は何も答えなかった。


(起爆装置が、アダムの体内に埋められていたんだろう…任務(ミッション)は失敗に終わってしまったんだ)


 有働の脳裏に、アーロンとジェフが交わしていた一連の会話内容が蘇った。現実のものと思えない光景も繰り広げられていたが、世界のどこかで「何か」が起きているのだ。


「あれは事故なんかじゃなかった…」


 内木はとばっちりを受けて死んだ。

 それは紛うことなき事実だった。


「あの爆破を…、どこの誰がやったか…つきとめて…」


 握りこぶしに血が滲み始める。腹の傷がズキンと痛む。


「復讐する、つもりなんだね」


 遠柴は言った。


「できるかどうかは別にして、放ってはおけないんです」


「有働くん。君がやるというなら…できる限りの助力はする」


「遠柴さん」


「もっとも…例え私が手を貸さなくても、君はひとりでやり遂げるだろう。ならば私は、君にいつぞやの借りを返したい」


「ありがとうございます」


「しかし…」


 遠柴はテーブルを見つめた。手をつけられていない二つのアイスコーヒーの中で、氷が溺れ、音を立てて沈んでゆく。


「娘を、エミを傷つけることだけは…しないでほしい」


 有働は遠柴を見た。遠柴の顔は父親になっていた。


「私の言いたいことは、分かってくれているね」


 無言の時間。

 それを口にするのは、死ぬほどに辛かった。


「…はい…エミとは、別れます」


 有働は、なにかの義務のように言葉を紡ぐ。それを聞いた遠柴が深い溜息をついた。


「誤解しないでほしい。君は私たちを救ってくれた…とても感謝しているんだ」


「分かっています。俺は、ただ…」


(復讐なんて…結局は虚しいだけだな。気が晴れるのは一瞬だけっていうかさ)


 いつかの久住の言葉が、脳裏に蘇る。

 愛する者を奪った、石黒への復讐を「虚しい」と嘆いていた。


 冷や汗が流れ出る。


「久住さん…」


 その場にいない男の名を呟く。


 遠柴が不思議そうな顔で「有働くん」と声をかけてきた。


(お前は俺の弟の大事なものをぶっ壊した。覚悟しておけ!いつかお前を潰してやる)


 長峰。

 弟の復讐をしようと、有働に吠えかかってきた男。


(銃を放てば人が死ぬ。人が死ねば遺恨が残る。国や人種が違えばなおさらだよ)


 バスで見かける老婆。

 いつかの言葉。


(あんたの友達はそれを望むのかい?)


 老婆は、有働に語りかける。

 皺だらけの温かい手を乗せ、悲しそうに。


 内木の笑顔。


(ゆ、ゆ、夢はきっと叶う。ぼ、ぼ、僕は諦めたくないんだ)


 やがて、右半分の顔を失った無残な遺体へ。

 永遠に訪れない明日を見つめ、闇の中を彷徨う。


 有働の心の中から、老婆と久住が消えた。


 爆発の瞬間が何度も蘇る。

 テーブルの上、内木の遺稿「ウチキング」の原稿に、涙の粒。


 滲んだページ。

 ウチキングのセリフ。

「人を傷つけ、悲しませるものは悪だ!」


(お前は俺の弟の大事なものをぶっ壊した!覚悟しておけ!)


 長峰が吼え続ける。


「内木を殺しやがって…」


 有働も唸り声をあげる。


(お前は俺の弟の大事なものをぶっ壊した!覚悟しておけ!)


 長峰の声。


「内木を殺しやがって!」


 有働の声。


 あ…


「お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!お前をぶっ殺してやる!!!」


 あ…


 やがて「おい、有働くん」と遠柴に身体を揺さぶられ我に返った。


「大丈夫か。本音を言えば、君に復讐の鬼にはなってほしくはない」


「俺は」


 あ…


(お前の大事な親友が殺されたんだろ?そいつが明日を生きる権利はないだろ?)


 長峰。


「うるさい…」


 視界に赤。


(有働くん…君のしたいことは、僕が一番わかっているよ。やりなよ)


 不破勇太。


「黙れ…」


 視界に黒。


(暴れて壊しちまえよ。なぁ?あの日お前は二千人を扇動しただろ。憎しみを世界にぶつけろ―。やっちまえよ)


 冬貝久臣が、ガムを噛みながら耳元で囁く。


「うるさい!!!!!!」


 赤黒い渦。


(復讐なんて…結局は虚しいだけだな。気が晴れるのは一瞬だけっていうかさ)


 久住が憐れむように言った。


「どうしろって言うんですか…」


 白の困惑。


(あんたの友達はそれを望むのかい?)


 老婆が、有働を悲しそうに見つめている。


「そんなこと、俺だって分からない…あいつは、もうこの世にいないから…」


 答えは灰色を彷徨う。


「どうすればいい…」


 内木の母は泣いていた。春日や久住も泣いていた。普段は強面な誉田や権堂組ですら洟を啜っていた。


 リカは「いやだよ…いやだよ」と愛する人を失い、泣いていた。


「なぜみんな泣いてる」


 記憶の住人へ問いかけた。


「内木とは、もう二度と会えないからだろ」


 誰かが答えた。

 悲しみに暮れた全員の答え。


 内木孝弘。

 世界七十億のうちの、たった一人に過ぎなかった。


 しかし、内木孝弘は、この世界に二人と存在しない。

 だから皆、世界から内木を失った痛みに耐えられないのだ。


「一番の友達だった」


 あ…


 有働は震えた。

 血が流れ、死を招く。

 赤黒い渦。

 何もかも赤黒く染められる。

 これまでにない憎悪。


 あ…


「…殺す…」


 その時。


(十年もすれば犯人が出所してくるけど、もう恨む気持ちなんてないよ。つとむのおかげだよ)


 いないはずのエミの声が一瞬、聞こえた。

 エミは、自らの人生を破壊した犯人を赦(ゆる)した。


 傾く。


「エミ…」


 赤が薄れる。


(つとむ、エミと離れないで。エミがついているよ)


 エミは、有働に語り続けていた。


「エミ…俺はどうすればいいんだ…」


 黒が薄れる。


(そんなの気にせず、やっちまえよ)


 誰か。


「黙れ」


 暗転に、暗転を重ねる思考に、狂気が宿る。

 俺はどこへ向かえばいい。


 あ…


(つとむにはエミのようになってほしくないよ)


 エミは泣いていた。


「すまない…エミ」


 消滅。

 遠柴はなにも言わなかった。


「あの席に座っていたのは俺かもしれない」


 あ…


 運命の誤差。

 内木の無念を晴らす。

 政府は当てにはならない。

 俺だ。


「さようなら、エミ」


 あ…


 音、色彩が失われた。

 有働の双眸から、熱い血潮が噴き出す。

 やがてそれは静かに頬を伝い、地上に落下し、世界と同化した。


 落涙を受けた世界は渦巻く。


 有働から「心」そのもの―、愛、喜び、怒り、哀しみ、過去、未来、善意、憎悪、喪失感を、引きずり出し、押し流す。


 心が収められていた場所に、仄暗い空洞ができた。

 それは冷たい風を巻き上げ、地の底へと続いている。


 空洞の淵に、残されたものがあった。

 タールのような粘つく液状の姿をしたそれは。


 あ…


 頭は冷えている。

 涙は乾いた。

 脳裏には「目的」だけ。

 有働努の姿をした、別の生物。


 あ…


「内木が生きられなかった明日を、そいつが生きることは許さない」


 あ…


「この俺にできる限りのすべてを尽くして、つきとめ…」


 あ…


「処刑してやる。思いつく限り、残忍、残虐な方法で苦しめて、殺す」


 悪意。


 遠柴はうな垂れ「そうか」とだけ、言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る