第4章

第32話 ドールアイズVS権堂辰哉

 ドールアイズことマイケル・ホワイトの母は、彼が五才のときに自殺した。


 思い出されるのは、寝る前に新約聖書を聞かせてくれた優しい声と、父に折檻され泣き喚く声。


 母の手によって両眼を奪われ四十年が経った今も、恨む気持ちなどなかった。むしろ時間を巻き戻せるならば、あの日の母を救いたいとマイケルは思う。


「時を戻したい」


 世界中の誰もが、叶えられない望みだった。


「神とやら。この俺を救ってくれるのか」


 天に話しかけたが、返事などない。

 神の正体。それは人を惑わす偶像、ペテン、集団狂気に過ぎなかった。


「ならば壊してしまえ」


 ヨハネの黙示録第九章十三節、第六のラッパ吹きの再現。

 人類を剪定し、世界を救済する。


「世界と相容れないならば、自らが神として世界を再構築すればいい。俺は世界一の悪役(ヴィラン)となり、恐怖、破壊、創造…、神の座に君臨してやる」


 ここは米国、ワシントンD.C.近くにある米国最大手軍事企業のアウグスティン本社ビルの最上階。


 そのCEO、ドールアイズの義眼が見つめるのは、社長室(プレジデントオフィス)の三方に広がるガラスケースの中に所狭しと並べられた、古今東西の悪役(ヴィラン)フィギュアたち。


「もうすぐ俺は、こいつらを越える―。世界一の悪役(ヴィラン)になれる」


 いつもの口癖を言い放ち、唇を歪める。


 やがてガラス玉のような青い義眼は、機械音を立て上下に動き始めた。


「偵察衛星で、覗き見でもさせてもらうか。中東、東南アジア…南アジア…東アジア…順に映し出せ」


 音声指示でマルチプレクサを操作する。はるか上空、米政府と共同で打ち上げた偵察衛星のモニターと義眼レンズは繋がっていた。


 ズームを指示すると、中東某国で、覆面をした兵士の足元に死体が転がっているのが見えた。


「神の名のもとに虐殺。ご立派だ」


 彼は今、神の目を持ち、宇宙から世界を俯瞰している。


 リアルタイムで脳裏に映し出される、世界の真実。


 絶えず世界は争い、殺し合う。平和を享受する国の街の片隅でさえ、おぞましい犯罪が行われていた。


「ふん、ロクなもんじゃねぇな」


 ドールアイズは愉快そうに口を歪めつつ、吐き棄てるように言った。


「梅島でも覗いてみるか」


 韓国の警備隊が増員されていた。以前は意図して厳重な警備を敷いていなかったが、米軍に研究所を荒らされてからというもの、ヒステリックなほど念入りに警備を強化している。これじゃ、個人的にこっそり遊びに行くことすら適わない。


「オブライアンが勝手なマネをしたせいで、各国首脳が一気に動き出しやがった」


 衛星軌道上には、無数の小型核爆弾を搭載した宇宙兵器「神の杖」が、彼の指令を待っている。


「予定より早まりそうだな」


 永遠の命なんてものが、見つかっちまった今となっては―。言葉にせずして、呻った。


「母さん…、アリシア、もうすぐだ」


 まだ充分な設備とはいえないが、世界各地に秘密裏で造った、選民だけの避難シェルター…宗教団体「ノアの救世会」の聖堂には、二人の銅像を聖母マリア、マグダラのマリアの如く、聖女として配置してある。


「母さん」


 涙腺を失った今も、彼の両眼には、形にならない涙が溢れ続けている。


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 四十年前―。


「白が先手、黒が後手…交互に駒を一回ずつ動かすのよ」


 幼少時、母はマイケルに、たびたびチェスを教えてくれた。


「動かせる範囲に敵の駒があれば、それを取れる…取った駒のあったマスへ移動できるの。キングは敵の駒が利いてる場所には移動できないわ…キングが絶対に逃げられないよう追い詰めたチェックのことを、こう言うの」


 母が駒を動かす。


「チェックメイト」


 マイケルは目を大きく輝かせ、これまでの母の駒の動かし方を反芻した。


「ふふふ。コツを掴めば大丈夫よ」


 ひまわりのような笑顔。母は高校生の時、全米のチェス大会で三位に入賞した凄腕の持ち主だった。マイケルは幼心に母を尊敬し、情景の眼差しで追っていた。


 チェスは「戦略」「戦術」の二つの面で考えられる。


 戦略―。

 局面を正しく評価し、長期的視野に立ち、計画を立てて戦うこと。


 戦術―。

 手筋とも言う。短期的な数手程度の作戦を示す。


 戦略的目標は、戦術の積み重ねにより達成される。また、戦術的チャンスは、それまでの戦略的結果として齎されることが多い。


 両者をうまく組み合わせて「勝利」をもぎとる。今、思えば巨大宗教団体設立に成功したのも、戦争を引き起こし莫大な利益を手にできたのも、母のチェスの手ほどきの賜物かもしれない。


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「パパ!あのね…ぼく、ママに言って、これ買ってもらったよ」


 ある日、帰宅した父にマイケルは駆け寄った。

 その手には二体のフィギュア。


 上等なコートをメイドに持たせ、父は息子に一瞥をくれる。


「それは、ドクター・ファウストと…メカニカル・アルマジロか」


「うん!」


「悪役(ヴィラン)フィギュアじゃないか!そんなもの捨てなさい」


 父は顔を歪めた。


「これがあれば…パパの持ってるハイパーマンやスパイダーガイと対決ごっこできると思って…」


 父の書斎には、一体数万ドルもする、古今東西のレアな正義(ヒーロー)フィギュアが飾られている。


「世界に必要なのは正義。それだけだ」


 返ってきたのは、にべもない言葉だった。


 巨大軍事企業のCEOとしての父は、正義を主張し米合衆国に大量の殺人兵器を提供してきた。祖父もそうだった。


 太平洋戦争、朝鮮戦争、レバノン派兵、キューバ侵攻、ベトナム戦争、ドミニカ共和国派兵、カンボジア侵攻。

 米国の血塗られた歴史のすべては、正義の為だったと父は言う。


「でも…」


 幼子に過ぎないマイケルは、ただ悪役(ヴィラン)フィギュアで父と遊びたかっただけだった。


「もう寝なさい。明日あたりハイパーマンとスパイダーガイのフィギュアを、部下に買ってこさせる」


 ドアは冷たく閉ざされた。


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「ママ…パパに怒られちゃったよ」


「ママもパパに叱られたわ…ママの行動全てが気に入らないんだって…」


 リビングの母は髪を乱し、頬に痣をつくっていた。

 マイケルのいない場所で、また父に手を上げられていたのだろう。

 唇の端には血が滲んでいた。


「愛しい私のマイケル…あなたは何も悪くないわ。ママと一緒に…神様のもとへ行く?」


 母は虚ろな瞳で言った。

 時折、見せる母のもう一つの顔だった。


「ママ…」


 テーブルには、空のコップと錠剤のブリスターが散乱している。


「なんでもないわ。さぁ、チェスでもやりましょう」


 母の瞳に輝きが戻った。

 マイケルは最近、憶えた「あの手」や「この手」を母に披露しようと思った。


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 眠れない夜。

 獣のような母の呻り声を聞いた。


 苦しそうに呻く。

 また父親に折檻をされてるのだろうか。


 幼い自分では何もできない、だが、耳を塞ぐだけではいられなかった。


 マイケルは、両親の寝室のドアをゆっくり開けた。


「なに見てるの!」


 悲鳴。

 母は全裸で、見知らぬ若い男に跨っていた。

 男は母の豊満な乳房に吸い付いていた。


「ご…ごめんなさい」


 マイケルの眼前で扉は閉ざされた。


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 旧約、新約聖書で不貞は固く禁じられている。

 配偶者以外との肉体的契りは、神により罪と見做される。


 不貞の現場を目撃された母は、まだその意味すら理解できないマイケルの視線を畏れるようになった。


「神よ…神よ、お赦しください」


 胸元に下げられた十字架を握り締め、懺悔の言葉が毎日のように漏れ聞こえた。


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 ある日、母は虚ろな目で、寝室にマイケルを呼んだ。

 

「マイケル…いい子だから、こっちに来なさい」


「ママ…?」


 母は、左手で強くマイケルを抱き寄せた。


「マイケル…あなたの目が…あなたの目が…神の裁きに見えるの…その青い目が…」


 右手には、枝切りバサミが握られている。


「ママ…」


 母の手首からぱっくりと血の筋が流れていた。


「神よ…不貞を、淫らな私をお許しください」


 ハサミの先端が震えている。

 マイケルの青い瞳は、母の頬を伝う涙を捉えていた。


「そんな目で見ないで!」


 次の瞬間、左目から右目にかけて横一文字の激痛が走った。


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 それからどれほどの時間が経過したかは分からない。


 何度も何度も、振り下ろされた枝切りバサミ。

 両眼の眼窩に火鉢を突っ込まれたような痛み。


 遠のく意識。

 暗闇に包まれながら狼狽する父の声が、鼓膜を震わせた。


「おい!どういうことだ!」


「ごめんなさい…ごめんなさい」


 仰向けで倒れるマイケルの傍で、母は泣いていた。


「救急車を呼べ!くそ!両眼とも…」


「ごめんなさい…」


 マイケルは父に抱きかかえられた。

 ムスクの香水が鼻腔を刺激する。マイケルの一番、苦手な香りだった。


「何をしたか分かっているのか!この子は病弱な兄に代わりホワイト家の全てを担う大切な役目があるんだ!」


 暗闇の中での、父の罵声。


「ごめんなさい…」


 暗闇の中での、母の嗚咽。


「お前が教会で知り合った若い男を連れ込もうが、私は何も言わなかった…」


 父は呻るように言った。


「…だが、これは…取り返しがつかないことだ…」


「ごめんなさい…」


「…救急車と警察が来るまで五分はある」


 父はトーンを変え、静かに言った。


「はい…」


「寝室に戻り、五分で終わりにしなさい。ジュディス」


 諭すような響き。


「ごめんなさい…分かりました」


 母は部屋を出て行った。「待って」とマイケルが言おうとも、それは永遠に届かぬ言葉だった。


 警察が駆けつけた頃には、母は天井からぶら下がった状態で発見された。


 神は自殺を赦さない。


 マイケルの母ジュディス・ホワイトは、神の目を畏れ、神によって裁かれ、救われることもなく地獄に堕ちていった。


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 数年後―。


「最先端の技術だ。前より視力が良くなってるはずだ」


 苺ヨーグルトのようにズタズタになった両眼球は摘出され、マイケルは人形瞳(ドールアイズ)を手に入れた。


 父は軍事企業を営む一方、身体欠損をした退役軍人のための神経信号を検知する筋電義手や義足など、最先端の医療研究機関を支援していた。


「みんなが見えるよ…赤…黄色、緑、水色…」


 実用化まで半世紀はかかると言われていた特殊義眼は、人々の体組成を丸裸に映し出す。


「ママ…」


 マイケルは声を張り上げベッドから起き上がった。


「おい、何を言ってる」


 父はうろたえ、研究者たちを振り返った。


「ママがそこに見えるよ…ママ…ママ…地獄から戻ってきたの…?」


 それが魂と呼ばれるものなのか、マイケルの願望が生み出した幻影なのか定かではない。


 だが、微笑む母の姿が、確かにサーモグラフィに青く映し出されていた。


 その日以降、母が姿を現すことはなかった。


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 ドールアイズが次に思い出すのは、アリシア・ディズリーのこと。


「俺はこの世界を壊してやる―。アリシアを殺した世界を呪ってやる。俺からすべてを奪った神とやらに、復讐してやる。この俺が神ではなく世界一の悪役(ヴィラン)として、人類の剪定と救済をするんだ―」


 アリシアとの日々に思いを巡らせようとしたとき、スマホが振動した。


「サム・クレイマーか」


 ドールアイズは舌打ちと共に通話ボタンを押す。


「ホワイト様ですか。ノアの救済会の会員数が五千万人を突破しました」


 ドールアイズが作り上げた宗教団体「ノアの救済会」広告塔である、トップ・ハリウッドスターのサム・クレイマーは、歌うように言った。


「少ない。もっと働け」


「でも、この半年でけっこう増えましたよ?」


 受話口から不満の色が滲み出る。


 事実、サムは、今夏に公開される「ディフィカルト・ミッション5」の宣伝に忙しいながらも、広告塔としての役割は忘れておらず「ノアの救済会」の会員数は右肩上がりに増加していた。


「人類の三分の二を救済するんだ。七十億の三分の二は何人だ?」


 サムが黙り込む。


「また連絡しろ」


 ドールアイズは電話を切った。


 シナリオ通り、世界を焦がす核の炎から「ノアの救済会」が四十七億を救う。なにがなんでもやり遂げなければならない。


 教祖はマイケル・ホワイトの兄ガブリエル・ホワイト―。


 そして人類を剪定する神にして、大量死を与える悪役(ヴィラン)がドールアイズことマイケル・ホワイトの役目だ。


「死にゆく数十億の愚民どもが、恐れおののきながら最後に見るのは、この俺の顔―」


 じわじわと嬲り殺すように時間をゆっくりかけて、世界各地に核爆弾を落としてやりたい。考えるだけで背筋がぞくぞくした。


「久々に兄貴に電話でもするか」


 ドールアイズはニヤつきながら、形ばかりの教祖の座に胡坐をかき、ヘロイン漬けになった愚兄ガブリエルの電話番号を押した。


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 7月11日(土)

 16時00分―。


「ホワイト様。車の準備ができました」


 秘書のシャーロットが、社長室に現れた。


「ご苦労」


 ドールアイズは、今夜の地下ファイトに思いを巡らせた。

 自分が不在の間に新チャンピオンが誕生し、数ヶ月間、王座を防衛しているという。


「記録が破られないといいですね」


 シャーロットのはち切れんばかりの乳房と尻を眺めつつ、ドールアイズは葉巻を灰皿に押し付ける。


「対戦相手はどんなヤツだ」


「権堂辰哉…日本人だそうです」


「ふん。日本人(ジャップ)か」


 破棄捨てるように言いながら、ジッパーを降ろす。

 シャーロットは溜息を堪え、日課のようにその上に跨った。


「きちんと避妊薬は服用してるな?」


 シャーロットは答える代わりに、形容しがたい甘美な声を上げた。


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 同日。

 20時半―。


 サウスブロンクスの雑居ビル地下一階「ワルキューレ」の控え室。


 ドールアイズは、黒字に龍の刺繍をあしらったボクシングトランクスに履き替え、空中に左右の拳を繰り出していた。


「これから俺に半殺しにされる気分はどうだ」


 数メートル離れた場所で、ボロボロの据え置きサンドバッグを叩き続ける東洋人に声をかけた。


「俺のダチがひとり、先日あの世にいっちまった」


 東洋人―、権堂辰哉は訛りのある英語で呟いた。


「あ?」


「今日の勝利はそいつに捧げるつもりだ」


 権堂は、ドールアイズに向き合う形になり、剥がれかかった拳のテーピングを直していた。


「勝利宣言か、舐められたもんだな」


「あんたは強い。だからこそ…ダチに捧げるのさ」


「何があったか知らんが、感傷をリングに持ち込むんじゃねぇ、日本人(ジャップ)」


 ドールアイズはガラス玉の義眼で権堂を見つめる。体組成、身体能力、ともに自分とほぼ互角であることを悟った。


「アンタは、ただ殴りあいたくてここにいるのか?」


「何が言いたい」


「メンツを守るためにいるのは、俺もアンタも同じだ。俺は負けられないし、アンタも同じ気持ちだろう」


 権堂の、東洋人特有の切れ長な目がドールアイズを射抜く。


「それがどうした」


 ドールアイズは唇の端を歪めた。


「だが、メンツ以外に…俺には、負けられない事情ってやつができちまった。間違いなく、リングに倒れるのはアンタだ。だが、それはアンタが弱いからじゃない…それだけを伝えたかった」


 ドールアイズの義眼は、権堂の体温を捉えた。

 大勝負を前にして体温は上がり続けていた。鼓動も早い。しかし、声色に恐怖や、怒り、興奮は感じられなかった。


 機械がモニターに示す音声波形。

 そこから読み取れる感情は「悲しみ」だった。


 自分を前にして、権堂は何か違うものを見つめている。「ふざけやがって」という気持ちのほかに、この男を黙らせるには拳しかない。ドールアイズは思った。


「面白い。権堂、一分だ、一分でお前を倒してやる」


「期待してるぞ」


 権堂は粗野な風貌に似つかわしくない、美しい歯並びを見せ笑った。


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「ファイト!」


 怒号と歓声の中、甲高いゴングが鳴り響く。

 二匹の野獣は、身体を揺らしながら間合いを詰める。


 権堂の右ストレート。

 ドールアイズはそれを左肘でブロック、即座に反撃の右フックを繰り出す。


 権堂の脇腹を抉る。


 堅牢な鎧。

 権堂は、再び右ストレートを繰り出す。


 ドールアイズの左顔面を捉えた。


 血を撒き散らしつつ、ドールアイズは態勢を整える。


 左右のジャブを繰り出し、フェイント。

 権堂の顔面に右膝蹴りを叩き込む。


 バカ正直に入った。

 ぐらつく権堂。リングに鮮血の水玉をつくる。


「さっさと沈め」


 身長百九十、体重百二十キロの巨体が駒のように舞う。

 回し蹴りを、権堂の即頭部に叩き込んだ。


 白目を剥いて膝を折る権堂。


 ドールアイズは追い詰めなかった。薄笑いを浮かべ東洋人が沈むのを見守る。


 権堂は堪えた。

 次の瞬間、敵の気まぐれを好機に変えた。


「舐めんな」


 ドールアイズの顎を、右アッパーで突き上げる。


 即座に右腕でブロック。

 だが衝撃は生きていた。

 後ろに二歩、三歩さがるドールアイズ。


「日本人(ジャップ)が」


 権堂の追撃、ランニング・アッパーカット。


「舐めんな!」


 権堂の血走った目が光った。

 顔面を両手で押さえ、ふらつくドールアイズ。


 その後頭部めがけて、権堂は左拳を大きく振り降ろし、鉄槌打ち。


 ドールアイズは脳震盪を起こし、白目を剥いたまま、お辞儀をはじめる。

 権堂はすかさず右膝蹴り。


 上から下から、打撃によるサンドウィッチ。

 さすがのドールアイズも、糸の切れた操り人形のように重力を失った。

 

「くそ」


 ドールアイズは呪詛を呟く。

 何年ぶりだろうか。

 余裕のないファイトはドールアイズの頬を紅潮させた。


「喰らえ」


 権堂による二発目の右膝蹴りを、交差させた両腕でブロック。

 骨が軋む。

 だが、関係ない。


 右膝を突き出した権堂に、ヘッドバット。


 思わぬ攻撃にぐらつく権堂。

 して、やったり。

 歯を剥きドールアイズは笑う。


 その視界を染めた鮮血は誰のものか。

 今はどうでもいい。


 権堂の鼻柱めがけて右ストレート。


 の、はずが右拳に衝撃。

 権堂も右ストレートを無意識に繰り出していた。


 両者の拳がぶつかり合った瞬間、ドールアイズの右肩が外れた。


 権堂も同様の衝撃を受けているらしく、二歩ほど下がったのち右腕をだらしなくぶら下げていた。


 ドールアイズが宣言した「勝利まで一分間」は、とうに過ぎていた。


「くそが」


 残った左腕を振り上げる。

 権堂は紙一重で避けた。


 空を切るドールアイズの左腕。

 ガラ空きの鳩尾に、権堂からの贈り物。


 権堂の左腕によるストマックブローが、バカ正直に決まった。

 身体から自由が奪われた。

 ドールアイズの意思に反して、身体はリングに沈もうとしている。


 反撃したいが、右腕は動かない。左腕は伸びたままだった。

 ドールアイズは、ガラス玉の義眼を動かす。


 機械音と共に、権堂のサーモグラフィが凄まじい速度で脳裏に届く。

 情報処理に要する時間は三秒程度。


「あと、三分てとこか」


 権堂は見た目以上にダメージを受けている。

 各部位の亀裂骨折。内臓のダメージ。


 ドールアイズは耐えた。

 リングに膝をつけず、踏みとどまった。

 あと三分耐えれば、何もせずとも権堂は卒倒する。


「面白い」


 ドールアイズの心の声。

 同時に、それは権堂が放った言葉だった。


「お前の義眼を抉るなんざ、どうでもいい。お前に勝ちたい」


 権堂は言った。

 口から血を流しながら、笑っていた。


「お前まさか」


 CIAの手先か―。

 一瞬の隙ができた。

 ドールアイズの言葉は、権堂のリングシューズによって塞がれた。


 倒れてはならない。

 だが、視界に移るのは無数のライト、天井だった。


 重力が見えざる手へと変化し、しがみつき、背中から引き倒す。


 ほんの一瞬の心の隙が生み出した、衝撃。

 まだ、戦えるのに。

 まだ、やりたいのに。


 ドールアイズは後頭部をリングに打ちつけ、昏倒した。


「権堂。お前を殺すのは惜しい」


 そう言ったつもりだった。

 だが、ヤツにこの言葉は届いちゃいないだろう。

 ドールアイズは思った。


 テンカウントと共に忌々しいゴングが鳴った。


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「何でせっかくのチャンスを台無しにしたのよ!」


 アップタウンにあるバーのテーブル席で、シンシア・ディズリーの罵声が飛んだ。


 店内にいる客の視線が一斉に突き刺さった。

 カントリーミュージックのBGMが白々しく流れる。


「理由は三つある。まず、一つめ」


 権堂の顔は腫れ上がっていた。


「…逝っちまったダチ…内木に捧げる試合を、反則で汚したくはなかった」


 血のこびり付いた唇を動かし、日本語で言った。


「もっと多くの友人が死ぬかもしれないのよ」


 シンシアも日本語に切り替える。

 すでに客たちの興味は、二人から失せていた。


「まだ理由はある」


「なによ」


 権堂は鼻に詰めたティッシュを引っこ抜くと、深く息を吐いた。


「二つめ。ドールアイズの義眼が、発信する心拍モニターと、神の杖が完全に連動してるならば、やつの義眼を抉った瞬間、心拍数モニターが断絶するということ…神の杖が誤作動する可能性について考えた」


「それはないわ。神の杖は、義眼の故障や、機械トラブルも想定して設計されている。起動するのは事実上、死に至り心拍数がゼロになった場合のみよ…ねぇ、そんな杞憂のために依頼を反故にしたっていうの?」


「あんたの説明不足だ…そんな話、聞いちゃいないぜ」


 困った顔をシンシアに向けながら、権堂はウォッカを煽る。


「もういい。残り最後の理由は?」


 権堂は、空のウォッカグラスをテーブルに置いた。


「三つめ。…これは、試合開始直前に出た疑問だ。あんたら米合衆国に協力できない、最大の理由…」


 げっぷをしながら、権堂はつまみのフライドポテトを、右手人差し指と親指で挟んだ。


「何よ」


「あんたら米合衆国の目的は、神の杖を宇宙ゴミにすることなんかじゃなく…回収することじゃないのか」


 権堂はフライドポテトを食べるわけでもなく、ただ、振り回した。


「どういう意味?」


 権堂はフライドポテトを左右に振り回し、溜息をついた。


「ドールアイズが、神の杖を政府に無断で開発し、打ち上げた時点で、あんたら合衆国は大きなリスクを背負わされた。例え、今さら神の杖を宇宙ゴミにしようと、そんなものを打ち上げてしまった事実を変えることはできない。バレちまえば、国際社会における米国の信用は、間違いなく失墜する。ならば、いっそのこと大胆に、神の杖を政府のものにしちまえば、どうだろう。文字どおり弱点を武器に変えることができるよな?例えば、神の杖を奪われ、逆上したドールアイズによって、その経緯を世界中に暴露されたとしよう。むしろ、政府はそれを利用し、外交カードとして利用しはじめるんじゃないか?恐るべき宇宙兵器の実態を聞かされてしまえば誰も逆らえない。米国に続けと宇宙条約を破ろうとする先進国が現れれば、見せしめにひとつ落とすだけで、その破壊力、完璧さを披露することができる…もちろん、大義名分として、我々は、正義のためドールアイズから神の杖を取り上げたのだ、と主張した上で、第二の神の杖は悲劇を呼ぶ。それを阻止する為の攻撃だ、とか何とか言うんだろうがな」


「ずいぶん穿った見方ね」


 権堂によって乱暴に扱われたフライドポテトは、中間部分からへし折れ始めた。


「単純な話だろう。神の杖…それを手にした国は、全世界の生殺与奪を手にし…事実上の神になれる。そんな完璧な宇宙兵器を、米合衆国政府がみすみす宇宙ゴミにするか?しないだろう。残念ながら、建国以降の歴史がそれを証明している。俺はこの国に憧れてやってきたが…あんたらがしてきた事も一応、勉強してきた。あんたらは強欲だ。あらゆる不安を除くために、常に力を求め、脅威と見做せば他国の政治をかき回し、正義とほざく…」


「まさに日本人らしい意見ね。警察は必要なのよ。治安が悪ければ特に…」


 シンシアは、頭を両手で抱えるようにして言った。


「ほう」


 へし折れた部分から、白いポテトが覗き始めた。


「何よ」


「その言葉で、確信できたぜ。こんなものが必要な理由がな」


 弄ばれたフライドポテトが、権堂の口に放り込まれた瞬間だった。


「どういう意味よ?」


「米合衆国は、何らかの新しい脅威に対抗すべく、ひとつの軍事的解決方法として、神の杖を必要としている…違うか?」


「飛躍しすぎてるわ」


「沖縄で米軍ジープが吹っ飛んだ事件あったよな。あれに巻き込まれたのが俺のダチなんだ。あの場にいた連中が、おかしな動画をアップしてるのはアンタも知ってるはずだ」


 権堂が二本目のフライドポテトをつまむ。今度は口の中に直行だった。


「分かった。もう何も言わせないで。あなたとはこれきり…」


「まぁ待てよ…痛てて…」


 口内の傷口が傷むのか、権堂は咀嚼しながら顔をしかめる。


「そうね。お金を返してもらわないと」


「違う。そうじゃない」


 権堂は立ち上がろうとしたシンシアの左腕を強く握りながら、言葉を続けた。


「いろいろ腹を割って話してくれるなら…ドールアイズの馬鹿げた野望を阻止するべく、動いてやってもいいぜ」


「チャンスを逃したのよ?二度と近づけないわ」


「それが、そうでもないらしい」


 権堂は、ジーンズの尻ポケットをまさぐり始めた。


「どういうこと?」


「俺はやつに…ドールアイズに気に入られたらしい。ノアの箱舟に乗せてもらえるそうだ」


 権堂は、ドールアイズから受け取ったという「ノアの救済会」の名刺をヒラヒラさせながら笑った。


 汗で湿っているものの、正真正銘、ドールアイズから生存を許可された証だった。


「まさか」


「どうする?俺はアンタに金を返すべきか」


 シンシアは太い息を吐いた。


「バカなこと言わないで。契約続行よ」


 権堂は鼻を鳴らすと、ウォッカをもう一杯、カウンターに注文した。

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