第43話 父の教え、息子の選択

 北京市の中国人民解放軍総医院で左腕の治療を受け終わった有働は、麻酔によって薄れゆく意識の中「ある人物」に会いにゆくため、軍のジープ助手席で揺られていた。


「左手、使えるようになるといいですね」


 人民解放軍、北京軍区の若い兵士が運転席から声をかけてくる。


 今から一時間ほど前、瓦解したチェルシースマイルのアジトへ他軍区の装甲車とともに遅れて駆けつけた彼は、仲間の爆死を知らされたあと、ダルマ女に噛み殺され、死にゆくチェルシースマイルを確認し「私にできることがあれば、あなたと協力関係にあった除暁明上将の遺志を継ぎたい。劉水(このおとこ)の命を奪えど野望が潰えなければ除暁明上将とて無念でしょうから」と、病院へ運ばれる前の有働に協力の意を示してくれた。


「僕は右利きですから」


 快くジープを出してくれた兵士の気遣いに有働は答えにならぬ言葉を発し、頷く。


 左腕の包帯からは今も鮮血が滲む。


 たった十数分の簡易的な治療を済ませたあと、軍医からは「本来なら入院を必要とする傷だよ。近々手術を受けなおしなさい」と言われた。事実、神経の一部と筋肉はズタズタで機能の半分を失い、切断を免れただけでも幸いだった。


「僕のことよりも、急いでください。僕の地元で大量虐殺が起きる前に…彼に会わないと、いけません」


 重症の左腕を庇い、つらそうな有働を横目で見ると、兵士は何か言葉を飲み込み再び前を向く。


 闇は深く北京の夜を包み込んでいる。ヘッドライトが照らす先々では霧のような雨が降り注いでいた。


「それはそうと。妙なマネしたらその場で射殺するぞ。彼と会うまではお前らにも着いて来てもらう」


 兵士はハンドルを握りながら、一変して冷たい視線を後ろに投げかける。


 ジープの後部座席には、拘束されたチェルシースマイルの部下二名が、別の北京軍区の兵士たちに挟まれる形で座り、うなだれていた。


 ボスがいつまでもやって来ないからと、アジトまで引き返した運の悪い連中だった。


 最初は銃を構え抵抗の意志を見せた彼らだが、ダルマ女たちによって、あっという間にそこかしこを食い千切られ肉と骨だけになったチェルシースマイルの遺体を見せられるなり観念し、すべてを洗いざらい吐いた。


 チェルシースマイルの部下から語られた情報――。


 実は「不死研究(プロジェクト・イブ)」の被験者の殆どが戸籍を持たぬ闇の子供たち「黒孩子(ヘイハイズ)」であること。小喜田内市に向かった黒孩子(ヘイハイズ)二十名のうち半数は、ある孤児院出身であること。また、その孤児院はチェルシースマイルから受け取った大金を元手に、衡水市からつい先日、都会であるこの北京市へ移設したということ――。


「奴らがぜんぶ吐きました。その孤児院はここから二十分の距離です」


 中国人民解放軍総医院で左腕の治療を受けていた有働に、駆けつけた北京軍区の兵士はすべてを報告した。これもつい先ほどの話。


(オブライアン大統領経由で在日米軍を動かす準備もできていて、なおかつ現地の誉田さんともつい数分前に連絡がついた。やれることは全てやったが、ここは保険をもう一つかけておこう)


 有働は麻酔に意識を乗っ取られまいと立ち上がり、その孤児院の院長、楊克徳に会いに行くことにした。


「こんな簡単な治療で済ませた挙句、何を急いでいるのだね」


 医師は呆れた顔で有働を見送った。


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 ジープは未舗装の道路に揺れながら、楊の孤児院までの最短ルートを疾走している。


 チェルシースマイルとの決着から、まだ一時間しか経過していない。


「劉さん。他の十名と合流しました。計二十名で小喜田内市に向かいます。リストにあるやつらの寝込みを襲って皆殺しにしますから、懸賞金のほう、ちゃんと払ってくださいよ」


 チェルシースマイル宛にこのメールが送られてきた時間と新宿(ばしょ)から計算してみた。


(渋滞していればいざ知らず、お盆のピークを過ぎた深夜の高速道路はスカスカだろう)


 黒孩子(ヘイハイズ)たちがすでに小喜田内市に到着していてもおかしくない頃合だ、と有働は唇を噛み締める。


 在日米軍は小喜田内市に到着しただろうか。まだ連絡はない。

 誉田たちはきちんと対策を立てているだろうか。任せろ、とだけメッセージが入っていた。


(あの誉田さんが任せろと言ってくれたんだ。信じるしかない)


 有働は、家族や友人たちに迫る脅威の影に心を押しつぶされぬよう、努めた。


「もうじき到着です。すぐそこ、あの白い建物ですよ」


 運転席の兵士の言葉に反応できないほど、有働の意識は混濁していた。熱にうなされ息も荒い。


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 白くぼやけた記憶。


「いいか、努――」


 有働努の父――、保の声がこだまする。その姿は今よりも十年は若かった。おぼろげながらも有働には理解できた――、これは遠い、遠い過去の記憶。


「武は戈を止める、と書く。正義なき腕力は暴力だが、正義のためのそれは武力、武道と呼べる」


 父は武道場で、小学校にあがったばかりの有働に諭した。


「ぼくをいじめてくる奴らをやっつけられたら、それでいい」


 有働は畳の上で正座しながら口を尖らせる。同じく正座をしながら有働に向き合った道着姿の父は、襟を正しながら幼い我が子の頭を撫でる。


「いじめてくる友達は、なぜ努をいじめてくるのか分かるか」


「わからないよ」


「腕力で相手を打ち負かしても、相手の心まで読めなければ意味がない。相手を観察しろ。そして原因を探るんだ」


「原因を知ってどうするのさ」


「お前に原因があったら、それを謝って、また友達になればいい」


 父はそう言って立ち上がる。有働もそれに倣った。幼い有働には身長百七十五ほどの父が巨人のように見えた。


「まずは相手を知ること。人は成長していつか恋を知り、はじめて他人の気持ちというものに興味を持つようになる。だがな、どんな場面においても他人の心を察知し、読み解く行為は大事なんだ」


「ケンカでも?」


「そうかもしれないな。スポーツでもゲームでも、なんでもそうだ。相手以上に相手のことに詳しくなれば、必ず勝てる。そして仲良くなることもできる。世界中が他人の気持ちを考えるようになれば世界は平和になるのになぁ」


「ケンカのやり方を教えてよ」


 有働が手足をばたつかせ、空手ごっこのようなマネ事をはじめると、父はそれを戒めるように腰を屈め、有働の両肩を抱いた。


「いいか、努。今からお前に教えるのはケンカじゃない。自分の身を守り、相手を傷つけずに、相手からの暴力行為を無力化させる技術――、逮捕術というやつだ」


 逮捕術――。


 司法警察職員、又は司法警察職員に準じた職務を行う公務員が、被疑者や現行犯人などを制圧、逮捕、拘束、連行するために用いる術技をいう。


 日本拳法や柔道を基礎とした徒手術技――、剣道を進化させた警棒術技――、神道夢想流杖術を源流とする警杖術技――。


 昭和四十二年、日本警察が威信をかけ、完成まで実に十年の歳月を要した、実践的格闘技の集大成である。


 技法は「突き」「蹴り」「逆(さか)」「投げ」「締め」「固め」「警棒」「警杖」「施錠」など多岐にわたり、年に一度の全国大会を目標とし、腕に自信のある警察官は日々、その術技に磨きをかけている。


「こう構えてみなさい、努(つとむ)」


 父は左腕を上段に、左腕を中段に構える。


「こうかな?」


 有働もそれに倣って同じ仕草で構えた。


「そうだ、それでいい。これが基本だ」


 稽古は厳しかった。


 幼かった有働に対して父なりに加減はしていたのだろうが、子供のひ弱な身体にはそれが、かなり堪えた。


 今思えば、有働の精神と肉体を鍛えると同時に、暴力とは苦痛を伴うものだと教育するため父は一切の手を抜かず、何度も何度も幼いわが子を畳に組み伏せたのだと思う。


 有働が小学校高学年になる頃には「もう教えることはない」と言い、父との稽古の時間は減ってしまった。


 その頃、有働は腕っ節も強く誰からもいじめられなくなっていたが、以前よりも周囲の子供たちを注意深く観察するようになっていたため、表で笑い、裏で互いを牽制し合う「くだらない友達ごっこ」を厭うようになり、クラスでも孤立するようになっていた。


「そんなつもりで、お前に色々教えたわけじゃないぞ」


 たまに学校で問題を起こすたび、父は有働の襟首をつかまえ道場で諭した。


「俺が余計なことをしなきゃ、お前はまっすぐ育ったのか?」


 悲しそうな父の顔から目を背け、変わらぬ性格のまま有働は中学、高校とあがっていった。


 そんな中――。


 去年の秋、会話の時間も減っていた父が、久しぶりに嬉しそうな顔を見せた出来事があった。


 当時、いじめられっ子だった内木を自宅に招待した時である。夕食を一緒にした内木からすべての事情を聞いた父は、有働の肩を叩きながら嬉しそうにビールを飲み干し、笑った。


「お前にも友達ができてよかったな」


(何も知らないくせに、暢気なオヤジだ。俺の心の中すら分かっていないじゃないか)


 有働は父を軽く見た。すべては吉岡莉那の気を引くための手段、打算的行動だった。そのときの有働に、友情なんてものは一切、理解ができなかった。


 だがそれから一年もせずして、失ってはじめて気づく大切なものがこの世にあると有働は学んだ。


「お前にも友達ができてよかったな」


 この言葉の重みがようやく理解できた。


 内木はもう戻らない。仇をとった今でも、二度と亡き親友と言葉を交わすことは叶わないのだ。


「時を戻せたら」


 有働は思った。


 宇宙から飛来した未知の隕石により、死なない人間がこの世に誕生してしまう世の中にあっても、時空を戻す術はなかった。


「ああ。いい友達だったよ」


 朦朧とする意識の中で、記憶の中の父に今更ながら有働はそう答えた。


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「到着しましたよ、有働さん」


 兵士が有働を強引に揺り起こす。前もって頼んだ通り、有働の頬をはたき、目的地の到着を報せてくれた。


 その真新しい五階建ての孤児院は、静まり返った住宅街の片隅で眠りに就いている。


 路上にジープを停車させ、色とりどりな花や植物の蔦が絡まる小洒落たアーチ状の門構えを潜った。


 子供たちが野球をできるほどの広大な庭は綺麗に整えられていて、花壇や植え込み、小動物の飼育ゲージなど、どこか有働の通う学校を思わせる造りだった。


 意識の朦朧とした有働に肩を貸してくれたのはジープを運転していた兵士で、他の兵士たちはチェルシースマイルの部下二人に手錠をかけ引き連れて、有働たちを追い越し、玄関のベルを鳴らす。


 一階の灯りがついていることから、孤児院の職員がまだ起きていることを伺わせ、兵士は何度もベルを鳴らした。


 やがて扉が開き、有働たちを出迎えてくれたのは、右腕のないアロハシャツを着た老人だった。


 白髪に小麦色の肌をした老人は兵士に連行される二人の男を見て、残念そうに視線を落とす。彼らはお互いの顔を知っているようだった。


「劉になにかあったか。中に入りな」


 拒む様子はないものの、老人は「来(きた)るべき時」を静かに受け入れるような、そんな仄暗い瞳をしていた。


 間違いなく、彼が楊克徳だと有働は確信した。


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「事情はなんとなく察しがついていた。だが俺は何も聞こえず、考えないふりをしていた。とんでもない研究に大事な息子たちを引き渡し、対価として得たものがこれだ」


 楊は両手を広げ天井を仰ぐ。


 新築特有のリビングの香りが有働の鼻腔をくすぐった。ゆったりとした黒い革張りのソファの他に長テーブルと無数の椅子。それだけでは足りないのか、折りたたみ式の椅子とテーブルが幾つか、家具と家具の隙間に立てかけてある。


 真新しい壁にかけられた写真の数々は、楊がこれまで私財を投じ育ててきた子供たち全員の、各年代ごとの集合写真だという。


 戸籍を与えられず親に売り飛ばされる寸前だった子供たちは、どの写真でも満面の笑みを湛えていた。


 だが資金には限界があった。年々、国内で増加する黒孩子(ヘイハイズ)たちを救うには楊ひとりでは無理があったという。


 楊はこの笑顔を次世代の子供たちにも引き継ぐため、幾らかの支援金と引き換えに、施設にいた子供――、黒孩子(ヘイハイズ)たちを劉水――、チェルシースマイルに預けた。


「誰かの不幸をなくすために、誰かが犠牲になっちゃいけない。そう教えてきた俺こそが、あいつらに残酷な運命を選ばせちまった」


 楊は嗚咽する。


「親友として劉を止められなかった俺が悪い」


「あの男を止められるものは、死、だけでした。背負い込まないでください」


 有働の言葉も虚しく、楊の慟哭は止まなかった。


 リビングに通された有働たちは突っ立ったまま、視線のやり場を探す。深夜の放送では天安門の喧騒と周遠源の死を報道するニュースが、かかっていた。


 有働は楊の肩に手を置き、懇願の表情を浮かべた。


「僕の生まれた町が彼らに狙われています。これは賭けですが、あなたに電話をしていただき、彼らの凶行を阻止していただきたい。泣くのはそのあとでも遅くはない。僕の家族を、友人を、生まれた町を守ってください」


 楊は頷き、洟を啜りながらスマホのタッチパネルを左手で操作しはじめる。


 中国語で「家族」を意味する「家人(ジァレン)」と付けられたグループの中から「可楽(コーラ)」という名前をタッチした。


 あとは発信ボタンを押すだけ。楊の皺だらけの左手は震えていた。


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 コーラはハンドルを握りながら小喜田内市殷画の隘路を運転する。


 ヘッドライトが照らす田舎道。これから自分たちが進む先を暗示しているかのような漆黒の闇。


(どうして、こうなった)


 コーラはフロントガラスに薄く映りこんだ自分の顔を覗き込む。


 ウナギ、ラーメン、ピザ、ハンバーガー、イクラ、メロン、モモ、ヤキニク、フライドチキン。同じマイクロバスに乗車している弟たちは、これから起こす日本人の大量虐殺について、どう思っているだろうか。


 考えるまでもなかった。


(どうすることもできなかったんだ。全てが抗いようのない流れだった)


 数十年にわたり孤児院を細々とやっている楊の懐事情は察していたし、小さな弟や妹たちにまっとうな戸籍と教育を与えてやりたかった。


 だからこそ、どんな非人道的な人体実験にも耐えられたし、劉――、チェルシースマイルが送った金で、施設の家族たちが幸せに過ごしていると知ってからは、もう何かに疑問をもったり、考えるのはよそうと諦めがついた。


 なによりも、大好きな父親である楊克徳の右腕を、非人道的な仕打ちで奪った悪鬼の国を滅ぼすのなら――、それは正義ではないか。そう思った。


 だが、さきほどピンクの凶弾にたおれた日本の警察官――、有働保巡査長を見たとき、考えが揺らいだ。


 もちろん、死神に見放された者同士の打ち合いは、河北省の河北平原でいやというほど経験した。


 最初は自分の頭を撃ち抜いた。何度も、何度も。やがて死と再生に慣れると、今度は仲間内で、あるいは知らない黒孩子(ヘイハイズ)たちと撃ち合うようになり、人を撃つことに、人を殺すことに覚悟ができたような気がした。


 だが、それは死なない世界――、シューティングゲームでの撃ち合いと同じ感覚なのだと今更ながら気づいてしまった。


 有限の命をもつ者――、ニンゲンの命を奪う行為の恐ろしさに背筋の凍る思いがしたのだ。


(俺は――、俺たちはどうすれば――)


 額に滲む汗が目に入りそうになり、コーラは右手でそれを拭う。


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「んじゃあ、このお巡りさんの眼球に爪楊枝を突き立てるよ。そのあと全身を撃ちまくるよ」


 合流した奇抜な髪色の黒孩子(ヘイハイズ)チームのうち、金髪で知恵の足りないやつ――、ゴールドが言った。


 先ほどまでやつを窘めていたリーダー格のピンクや、レッドとやらはもう何も言わなくなっていた。


 マイクロバスがガタガタと揺れる。


 有働保巡査長は一命を取り留めた。傷の深さの度合いは分からないが命ある者が自分の目の届く場所で殺されようとしている。


 運転席から後ろを振り返り「やめろ、殺すのは待て」そういいかけた時――。


 コーラのショルダーバッグの中から、スマホが鳴り響いた。


 車内のすべての者がこちらを向く。ゴールドもピンクも、レッドもこちらを凝視している。


 無理はない。先ほどキムなる人物の妨害があったばかりで、一度は落ち着いたものの、この中の誰かが外部の誰かと繋がっているのではないかという疑念がうっすらグループ間に漂っている。


「電話に出ろよ、スピーカーにしてな」


 ピンクの言葉がコーラの背筋に突き刺さった。この男が発したこの数時間で一番、冷たい、氷のような声だった。


「ぜんぶ、俺たちに聞こえるようにしろって言ってんだよ」


 互いに、それが意味などないことを分かっていながらも、ピンクのグループの何人かによって無数の銃口が突きつけられているのが分かった。


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 スマホのスピーカーボタンを操作し、通話を押す。


 同時に発信者の名前を見た。


 父亲(フーチン)――、オヤジ――、楊だった。


(くそオヤジめ。このタイミングでかけやがって)


 コーラは目に涙がたまるのを感じながら、「喂(ウェイ)?」と話しかけた。


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「俺だ。今、なにやってる」


 久しぶりの楊の声だった。


「と、突然どうしたんだよ、オヤジ…」


 天安門での大規模デモ。


 大会議場内での七大軍区幹部らによるクーデター。


 周遠源中央軍事委員会主席の失墜、死亡報道。


 チェルシースマイルは逃走中。


(俺たちが今、なにやってるだなんて――)


 国家のためでもなくチェルシースマイル個人の復讐のため、有働努の地元――、小喜田内市で大量殺戮の準備をしているなど言えるはずもない。


(とは言え…久しぶりの電話で、元気か――、ではなく、なにやってる、か)


 何かが変だった。楊にイタズラが見つかり、説教された子供の頃を思い出す。


(こんな時間に、何の用事もなくかけてくることなどないはずだ)


 心臓が早鐘を打つ。背後の視線は突き刺さったまま。


「ど、どういう意味だよ、オヤジ」


 コーラは自分の声が震えているのが分かった。平静を装うとしても、状況がそれを許してはくれない。不死身の肉体と銃の扱いを覚えても、嘘の訓練など受けてはいなかった。


「何やってるなんて聞き方、卑怯だったな。俺は今まで、何も知らないふりをしてきた…」


 楊の声が暗く、沈みこんでいるのが分かった。


(こんな時に何を言うつもりだ。あんたはどこまで何を知ってしまったんだ)


 コーラの中で何かが瓦解する。楊には隠し事ができなかった。


 皆で右手首に入れた「黒いドラゴン」の刺青(タトゥー)だって、いつか奇跡的に楊と再会してそれが見つかったら、どやされるだろうと思い、ひやひやしてたほどだ。


「オヤジ、何をいってる、何のことだ」


 コーラは、息を呑んだ。


「コーラ、もういい。もういいんだ。他の九人もそこにいるんだろう。今から俺の言うことを伝えてくれ」


 確信――。


 楊は全てを知っている。自分たちがチェルシースマイルに何をされてきたか――。そして何をしようとしているのかも。


 おそらく電話の向こうには警察、政府、または軍の関係者がいるのだろう。自分たちの凶行を知り、阻止すべく、こうして電話をかけてきたのだ。


 背後に刺さる無数の殺意――、そして仲間たちの視線。


「お前らが、あの劉によって不死研究(プロジェクト・イブ)の被験者にされ、不死の身体とやらになっちまったのは知っている。また、やつの描いた日本人絶滅計画に参加していることも…。俺はお前たちに、憎しみまで背負わせていたのか。すまない…すまなかった」


 楊は鼻を啜りながら諭すようにいった。


 コーラには、それが何を指すのかが分かった。


 いつかウナギがいっていた。


 ある日のこと。抗日ドラマ――、中国兵に対して、残虐非道の限りを尽くす日本兵が、正義の中国兵たちによって華麗に成敗される内容のドラマを観ていたら、楊にこっぴどく叱られた――、と。


「そんなものを観るより、外国語を勉強しろ。海外の本をたくさん読め」


 楊は過去ではなく未来を見ていたのかもしれない。暗い歴史ではなく、世界の未来に希望を見出していたのだ。


 楊とて、かつて右手を奪った日本兵が憎くて憎くてしょうがなかったに違いない。


 だが息子たちの未来のため、親や大人たちを恨むことしかできなかった自分たちに前向きに生きてほしいがため、憎しみを捨て去り、すべてを受け入れる選択をしたのだ。


 楊が食べさせてくれたご馳走の中には、日本の特産品もたくさんあった。


 子供は大人の背中で育つ。毎日、誰よりも早起きして、つらい野良仕事は率先してやってきた楊らしい矜持だった。


 オヤジの右腕を奪った悪鬼の国――、日本を滅ぼしてやる。そう息巻いていた自分たち――。


「いいや、オヤジ…。なにも分かってなかったのは…」


 ハンドルを握る力がこもる。


「…俺たちのほうだ」


 すべてを理解したコーラは、仲間の気持ちを代弁する。


 すすり泣きはじめる者もいた。おそらくイクラやモモ。一方、ウナギやラーメン、そのほかの連中もじっと耐えているに違いない。


 全員がコーラを介して楊の存在を近くに感じているはずだ。各々の心にいる、あの短気でよく笑う、豪快なオヤジ。


 振り返らずとも、九人の弟たちの気持ちは痛いほど伝わる。皆、大量虐殺などしたくはないのだ。


 両国の歴史に暗い影があれど、言葉が違えど、民族がなんであろうと、人は人だ。その人にも家族があり、死を悲しむ人たちがいる。


「もう終わったんだ。お前も聞いてるはずだ。中央政府は不死研究(プロジェクト・イブ)の過ちを認め、国際社会に向かって研究の全面廃止を発表するはずだ。周遠源も、もうこの世にはいない」


「オヤジ…」


「劉…お前らはやつをチェルシースマイルと呼んでいたか。やつも、もうこの世にいない」


 コーラは息を呑む。


(もう、日本人を殺す理由は一切なくなった)


「ここに有働という少年がいる。クーデターを画策しこの国の凶行を止めた彼は、日本人絶滅計画も阻止するため、自分の家族や友人を守るためチェルシースマイルの部下と共に俺の元へとやってきたんだ」


 楊の話は止まらなかった。


「ちょっと待てよ!」


 背後から怒号が飛ぶ。ピンクだ。


「誰だ?弟たち以外に、そこに誰かいるのか」


「あんた孤児院の院長だろ?俺らは別のグループだ。あんたんトコの出来損ないと、一緒に虐殺(しごと)を任されたんだよ」


 楊の問いに、ピンクが怒鳴り散らす。


「チェルシースマイルが死んだだと?カネはどうする!」


 パララララ…と乾いた音と同時に、激しい金属音。眩い光、衝撃、焦げ臭い、硝煙の香り。


 ピンクは自動小銃をマイクロバスの天井にぶち開けた。バスが揺れる。鼓膜を劈く金属音。


「――だ、――なさい」


 鼓膜がいかれて、楊の言葉が聞き取れない。


「ならいい!ゲームを楽しむまでだ」


 ピンクの声は明瞭に聞き取れた。


「世界の破滅の危機を救った救世主とやらのオヤジをこの場で殺してやる!!なぁ、有働よ、てめぇ、そこにいやがるんだろ?お前のオヤジを今からぶっ殺してやる!!!!手も足も出ねぇそこから存分に聞きやがれ!!!」


 叫び声を聞け!ピンクがそういった瞬間。


「事情はすべて聞いた。君らを逮捕する」


 日本語が聞こえた。


 コーラはハンドルを握りながら背後を見た。


 身体を硬直させ怯える九人の弟たちに、銃を構えるピンクら十名の黒孩子(ヘイハイズ)たち――。


 全員が各々の席に座りこちらに銃口を向けたまま、声の主を見ていた。


「君らを行かせるわけにはいかない」


 狭いマイクロバス車内――、その後部座席に立っていたのは左肩を押さえた血まみれの有働保巡査長だった。


 スピーカーにしたスマホから「父さん、父さん」と少年の声が響いている。


「努。俺は――、父さんはもう終わりかもしれない。実は薄々、お前がなにをしようとしているのか気づいていた。血は争えないな」


 そう言ったと同時に、有働保巡査長は、一番近くにいた、席を立った状態で中腰のゴールドを勢い良く蹴り飛ばした。


 運転席まで吹っ飛ぶ小柄なゴールド。


 狭い車内。運転席のコーラはその衝撃を左肘に受けハンドルをとられ、バスは急回転をはじめる。


「ざけんじゃねぇぞ!」


 怒号と、銃声。


 どこかしこから、てんでデタラメな銃声が聞こえる。破壊音。マイクロバスがそこかしこに穴を開ける。


 流れ弾を食らった誰かのうめき声。おそらくピンクチームの誰か。飛び出す銃弾を前に仲間も敵もありはしない。


 銃声。


 背後よりフトントガラスに蜘蛛の巣状の、無数の弾痕。


 マイクロバス前方の天井に血と肉片が飛び散る。前を向いてハンドル操作に勤しむコーラには、それが誰のものか分かりはしない。


 銃声。


「君らを、いかせるわけには、いか、ない」


 有働保巡査長の声。少し様子がおかしい。


 彼の無線から「応答してください」とひび割れた音声。気絶したふりをして、会話の内容を同僚に流していたのだ。


「警察が駆けつけ、きみらを、取り押さえる、だろう」


 銃声。


 フロントガラスに飛び散る血飛沫。誰がどれを撃ってるかなんて分からない。蛇行するマイクロバスのハンドルを握り前を見る。左手に山林、右側に暗黒――、崖が広がる。


 銃声。


 怪物の体内じみたマイクロバスが暴れ出し、崖側にあるガードレールに車体をぶつける。衝撃のたびに何度もバウンドする。


 銃声。


 コーラは瞬間的に、自分が何をすべきか考えた。


 ひとりの男が命を賭けてなし得ようとしていること。自分はそれの手伝いをすればいいのだ。


 この男――、有働保巡査長は死ぬかもしれない。


 だが、誰かの夫であり、父親であるこの男が命を捨ててまで守ろうとしているもの――。


 それは――。


 銃声。


 コーラはハンドルを意図的に右に、大きく切った。


 車体が右側に傾き、何度もバウンドし、回転。


 はじめて背後を振り返る。


 有働保巡査長が、そこかしこに銃弾をうけながらも、ピンクチームの何名かから銃を取り上げ、やつらに馬乗りになり掌底打ちを食らわしていた。


 ウナギやラーメン、ピザなどコーラの弟たち何人かも銃を構えたやつらに掴みかかり、動きを制している。


 血まみれの有働保巡査長と目が合った。彼は運転席のコーラに対し、ゆっくりと頷く。


「私はもう助からない。やってくれ」


 血を吐き出す彼の口が、こう動いた。コーラとて日本語は分かる。


 坂道の急斜面に差し掛かった。コーラは頷き返し、意図的にアクセルをベタ踏みする。


「おい、なにを」


 ピンクチームの誰かの声。


 銃声。


 重力が失われる。時間差で、重力によってマイクロバスが吸い寄せられる。


 瞬間。


 天地が引っ繰り返り、マイクロバスは崖の下へと落ちてゆく。


 銃声。


「――だ、――なさい」


 さっき、鼓膜がいかれて聞こえなかった楊の言葉。


「お前は俺の息子だ。彼らを止めなさい」


 恐らくこう言ったに違いない。


 衝撃、衝撃。衝撃…。崖の斜面にぶつかり、マイクロバスは何度も跳ね上がった。


「このクソ野郎が!ふざけやがって!」


 銃声。


 ピンクの放った銃弾が、コーラの後頭部から額を通り抜ける。


 ハンドルを握りながら、数秒後に訪れる死を想像し、目を瞑った。


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 覚醒する意識。


 気絶していた時間はどれほどか。

 鼓膜がおかしい。


 身体中に激痛が走る。


 ピンクに撃ち抜かれた額や、落下によって損傷した身体中のそこかしこから血潮の泡があふれ出し、飛び出た肉片や骨折箇所を修復しはじめていた。


 通常の人間の細胞が数日、数週間、数ヶ月かけて成し遂げる治癒が、超スピードで行われている。


 コーラはようやく身体の自由が利くようになり、鬱蒼と草が生い茂る地面に手をつき、ズタボロの姿で立ち上がった。


 眼前に立ちはだかる、三十メートルはある山道の崖。


 遥か上で真っ白なガードレールが湾曲し、崖の斜面に茂るへし折れた木々がマイクロバスの転落の軌跡をそのまま物語っている。


 マイクロバスはコーラから十メートルほど離れた場所、ちょうど崖の真下で、巨木の何本かを粉砕し、横転。自重によって無残な形に歪んでいた。


 運転席の自分だけが、ひしゃげる前のドアの隙間から外に放り投げられたのだろう。


 コーラは仲間たち、そして有働保巡査長の安否を確認するためマイクロバスに近づく。


 異臭。夥しいオイルが雑草に飛び散り土に染み込んでいた。


 マイクロバスからうめき声が聞こえる。


 さらに近づくと、マイクロバスの窓ガラスの数箇所が割られ、誰かが自力で外へ脱出したことを示していた。


「たすけて…」


「誰か」


「みんな座席に押しつぶされて、ここから出れない。誰か外にいるか」


 声の主はウナギやハンバーガー、ピザたち。


 背筋に冷たいナイフを押し当てられたような怖気(おぞけ)。


 あの窓から脱出したのが弟たちの誰かならば、仲間を救うためにこの辺をウロウロしているはずだ。


「あそこから出たのはまさか」


 コーラの予想は的中。


 マイクロバスから少し離れた林の向こうで、下品な笑い声と銃声が聞こえ始めた。


 地面――、草むらにはマイクロバスから何かを引きずっていったような、濡れた血の筋ができている。


「ぎゃははは、首が変な方向に折れ曲がってやがんの」


 小走りに声の方へ向かう。


 そこではピンクのグループ連中が勢ぞろいし、木に寄りかかった状態にある有働保巡査の腹部に向け、何度も何度も発砲しているのが見えた。


「撃て、撃て、撃てぇい!」


 パァン、パァンと乾いた音。


 何度も何度も銃弾を食らい、奇妙な体勢のまま操り人形のように跳ね返る有働保巡査。打たれた箇所が集中しているためか、千切れた大腸や小腸、胃が真っ赤に染まった状態で飛び出してきた。


「こいつのスマホが壊れてなきゃ息子に実況中継できたのによ、残念だぜ」


「見てみろよ、犬死(いぬじに)したこのブザマな英雄を。俺らを食い止めようとハッスルしてくたばってちゃ世話ないな」


「しかもよ、こいつ。父さんはもう終わりかもしれない、って通話で息子に言ってやがったよな。かもしれない、ってことは生き残る望みも持ってやがったのか、ははは」


「汚ぇ腸をはみ出しやがって。もっと撃て、撃てぇ!」


 それからも蹂躙は続いた。何をされてもされるがままの有働保巡査長。たしかに顔がおかしな方向へ傾いていた。


 本人の右耳が、本人の右肩にぴったりとくっつくような角度で、折れ曲がった左首からは頚椎が飛び出し、血飛沫を上げている。


 そして格闘技の構えだろうか。左腕を上段に、左腕を中段に構える仕草のまま硬直している。


 内臓を溢れ出させながら、有働保巡査長は幸せそうな表情で死んでいた。


 目は穏やかで、両端の口角はあがり、なにか楽しい考え事をしている最中に絶命したように思えた。


「う~ん、今日は息子の誕生日だ。プレゼントは何にしようかなぁ」


「よし。父さんと格闘ごっこでもするか」


 そう言いたげな顔。


「有働ってやつが、葬式でこいつの顔を拝めないようにしてやろうぜぇい」


 眉のない赤髪の男――、レッドがハンドガンを操作。


 パァンと乾いた音と共に有働保巡査長の左目に大きな穴が開き、次にもう一つ乾いた音がすると、今度は右目に大きな穴が開いた。ドロリと脳漿やら視神経の破片やらが溢れ出す。


 それからもレッド以外のメンバーらが一斉にパァン、パァン、と何度も何度も発砲。有働保巡査長だったものの顔が跡形なく粉砕され、頭蓋骨と肉片と脳漿がその辺に飛び散った。


「ユッケみたいだぜ、気持ち悪い。このクズが」


 ピンクはコンバットブーツで形の崩れた有働保巡査長の頭部を蹴り上げた。


 瑞々しい音と共に最後の脳漿がぶちまけられ、有働保巡査長の遺体は背もたれにしていた木からずり落ちた。


「死体蹴りか」


 コーラは忌々しく、吐き捨てるように言った。


「おうおう、もうお目覚めか。お前のお仲間はあっちで苦しんでるぜ」


 そう言いながらピンクが近づいてくる。右手には自動小銃があるが、構える様子はない。


 コーラには手持ちの武器がない。身長はこちらの方が高いが、殴り合いに勝てる自信もなかった。


「そうビビるなよ」


 ピンクはコーラを嘲笑し、横を通り抜け、ポケットから銀細工でできた高価そうなジッポを取り出す。


「やめ…」


「死なないって便利だな」


 薄笑いを浮かべたピンクは、オイルまみれの横転したマイクロバスに向かい、それを投げ入れた。


「やめろ!!!」


 凄まじい炎がマイクロバスを包み込む。断末魔の悲鳴は弟たちのものだった。


「これから手分けして、リスト通りに殺し、犯しにいく」


 ピンクは呆然とするコーラの肩をポンポン、と叩いた。


「特に、有働の母親と吉岡莉那…」


 ピンクは笑いをこらえている。


「こいつらに限っては、立ったまま後ろから犯し…」


 後ろでゴールドがはしゃぎ回る。


「そいつの子宮、膣を生きたまま縦に切り裂き、前からその傷口に手を伸ばし…勃起した自分自身のナニを握ってみせるぜ」


 ピンクの仲間たちが腹を抱えて笑った。


「もちろん動画つきでな。死んだあとも、ネット上で何度も何度もグロ好きな異常者どもの慰み者になればいい。俺はやると言ったら必ずやる。お前ら役立たずはそこで寝てろ」


 九名の邪悪な笑い声は去っていった。


 眼前では貪欲な炎が黒い煙を巻き上げ、ひしゃげたマイクロバスを喰らい尽くしている。この世のものとは思えない叫び。巨大な炎を前にしてコーラはどうすることもできなかった。


「お前は俺の息子だ。彼らを止めなさい」


 脳みその中で、楊が何度も何度も言い続ける。


「やめてくれ!」


 コーラは己の無力さを嘆いた。


 向こうの木陰では、顔のない有働保巡査長の遺体が大の字に寝そべったまま、この世界のすべてと無関係な状態になっている。


「助けてくれえええ!!!!」


 弟たちが炎の中で叫ぶ。死んでは蘇生し、蘇生しては焼かれ続けているのだ。煉獄。これはきっと神の贈り物を掠め取った人類への罰なのだ。


「熱いよぉ!!!」


「殺してくれぇええ」


 コーラは耳を塞ぐ。自分も弟たちも、このまま死んでしまったほうが、どれだけ幸せだろうと嗚咽した。

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