第13話 頭を下げて頼むのはこれが最初で最後です

「やっちまった!」


 莉那と別れてから、帰宅した有働努は、泣き出しそうな表情で自室にこもっていた。


 時計の針は22時49分を指していた。


 父母は2時間ドラマに夢中になっている。母は、遅くなった帰りを少し心配する声をかけてきたが、父は「たまにはいいじゃないか、な」と母に言った。


「やっちまった!!」


 有働努は、泣き声のような、奇妙な唸り声をあげた。


 有働のデスクの上には、塩酸プロプラノロールが含まれる錠剤のケースが置かれている。


「やっちまったじゃねぇか!クソ」


 塩酸プロプラノロールには、緊張時に分泌されるアドレナリンがβ受容体と結合するのを阻止する機能があり、心拍数や脈拍が急上昇するのを抑え、緊張の抑制に繋げる効果がある。


 インデラル―。


 これは有働が、吉岡莉那を前に緊張して喋れなくなるのを防ぐための「あがり症防止」の薬だった。


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「お前さ、吉岡と二人きりになった時、何も喋れないんじゃ話しにならんだろ。兄貴が去年、弁論大会に出るときこっそり飲んでたヤツ。もう必要ないらしいから、やるよ」


 戸倉が渡してきたインデラル。


 有働はこれを飲むため、不破勇太に刺された傷口の痛み止めや化膿止めを数日間飲むのをガマンし、期末テストが終わる1時間前に服用した。


(吉岡とカラオケ…吉岡とカラオケ…どど、どうしよう。恥ずかしい)


 服用して30分ほどで効果が顕れた。


 テストの最中、有働はある種の"賢者モード"になっていた。


(恥ずかしい気持ちは変わらない。だが、この心の落ち着きは何だ。これが薬の効果か、おまけにテストの問題も冷静に頭に入ってくるぜ!)


 すでに心の平静を通り越して、余裕さえ生まれつつあった。問題を解く。問題を解く。さらに問題を解く。落ち着き払った頭で、分からなかった問題が、分かったような気にさえなる。


 有働は余裕をもって問題をすべて解き終えた。徹夜して勉強した部分は完璧だった。あとの部分は、薬の影響か何となくうまく正解してるような錯覚に陥っていたし「ダメだったら次頑張ればいいじゃないか」という境地にまで達していた。


(これで慌てふためかないですむ)


 莉那の笑顔が記憶から反芻される。


(吉岡…お前が俺をどう思ってるのか知らないが)


「俺は告白(コク)るぜ」


 有働は下校前、トイレの鏡の前で声を出して言った。八重歯が光る。


「う、う、う、有働くん。もう行こうよ。みんな先にお店についたみたいだよ」


 にやつく有働に内木が声をかける。


「なぁ、内木。色んな意味ですまんな。俺は先のステージにいってるぜ」


 有働は、内木の肩を叩いて言った。


「え?え?い。今から一緒に行くんじゃないの?」


 意味も分からず目を丸くする内木に、有働は「こっちの話だ」と付け加えた。


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「やっちまった!!!」


 涙目で有働はそう口走りながら、某巨大掲示板にスレッドを立てた。


 誰かに聞いて欲しい。


 だが、内木や春日たちに相談するのは躊躇われる。


 いずれ彼らにも話すことになるだろうが、あまりにも彼らとの距離は近すぎた。


 話してるうちに感情がこみ上げてしまい、自分を見失ってしまうかもしれない。


 有働はまず、匿名の掲示板住人の巣窟へ飛び込んだ。


「本気で偽善者はじめた俺が好きな子とどうなったか聞いてくれ」


 平日だが時間帯もあってか、レスはすぐについた。


 都合、57件。


「どうでもいいよ」


「消えろリア充」


「>>0 氏ね」


「興味ねぇよ」


「>>0 お前さ、数ヶ月か前も似たようなスレ立ててなかった?偽善者始めるとかさ」


 有働は、冷ややかな反応にため息をもらし、スレッドを即効削除した。


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「匿名過ぎる連中じゃ話にならない。彼らに連絡してみよう」


 有働は涙を拭いながら、そう呟き「スーサイド5Angels」の非公式ファンサイトのチャットメンバー達にメッセージを送った。


 数十分もしないうちに、6人全員がグループチャットに集まった。


(挨拶代わりにこの話題から入るか)


「今朝のニュース観ましたか?スーサイド5Angelsがメジャーデビューだそうですね」


 有働が切り出した話題は、全員の共通の話題。


 このビッグニュースだった。


 震える手で有働は、更新ボタンを押す。


 そこには各々の反応が書き込まれていた。


「遅いくらいだよ。彼女たちならすでに同レーベルの先輩たちを越えたパフォーマンスを身につけているもん」


 "午前肥満児"は言った。


「ショックだわ。もう、ファン辞めようかな」


 自殺未遂を繰り返す大学生"車内恋痰(しゃないれんたん)"が言った。


「今度うちの会社のCMタイアップつくみたい。俺は嬉しいけどな」


 横領サラリーマン"反撃の阪神"が言った。


「あたしは彼女たちの当初からの目標である、全米デビューまで応援するわ」


 "完熟りん子"が言った。


「パンチラ写真、高値になりそう」


 "盗撮ルパン"が言った。


「ところでさ、有働くんからチャットやるって言うなんて珍しいし、何か報告でもあるんじゃないの?」


 "栞"が言った。


(さすが栞は勘が鋭い。本題に入るか)


 有働は、涙を堪えながらキーボードを打つ。


「では、例の好きな子との中間報告です。話…きいてもらえますか?」


 6人全員が「うん」と答えた。


 有働は「やっちまった」概要を、赤裸々に書き込んだ。


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 翌日―木曜日。


 朝、制服に着替え、準備していると財布がないことに気づいた。


「落としたか?」


 有働は、昨日、莉那とレストランを出た後のことをもう一度思い出してみた。


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 それから数時間後。


 ホームルームが始まる前、莉那と目が合った。


 莉那の表情は固まったままだった。有働はぎこちなく視線を莉那から引き剥がす。


「な、なぁ…吉岡。あのさ。昨日の夜のことだけど」


 莉那は不自然に窓の外を見つめていた。有働も、冷や汗を流しながらパクパクと口を動かすだけで、言葉の続きを失っていた。


 不自然な状態で二人は別々の方向を眺め、それ以降、会話はかわされなかった。


 戸倉がその様子を見かねて「何かあったのか」と聞いてきたが、もはや有働の耳にその声は届いていなかった。


 胸ポケットのスマホが振動する。


 メールだった。


 差出人―権堂辰哉


「すまねぇ、有働。昼休みにちょっと話せるか」


 それどころじゃないと思いつつも、いらだつ指先で「いいですよ」と有働は返信した。


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「卒業できない???」


 有働は叫んだ。


「今回の騒動でよ、新しいセンセイが何人か入ってきただろう。そのうちの一人、新渡戸センセイがな、出席日数と成績が満たない生徒は留年すべきだと主張しやがった」


「権堂さんは、その留年組に分類されたわけですね」


「ああ、留年組というか、3年で唯一、俺だけが留年だとよ。くそっ、こんな事ならサボるんじゃなかった…。権堂組でも、俺だけつっぱって3年間、ほとんどテストを受けなかったのもあるんだろうな。昔はそれがワルのメンツの守り方だと思ってたんだ。つっても、もう遅いけどよ」


 有働は何も言葉を返せずにいた。権堂はこぶしを握り締め、震えている。


「お前と出会うのがもっと早ければな…お前のおかげで、卒業したいと思えるようになったんだが、人生ってやつは皮肉なもんだな」


「どうするんですか」


「俺にだってメンツがある。退学するしかないだろ…くそ。お袋泣くだろうな。俺のせいだから仕方ないけどよ」


「しかし他にも出席日数や、成績不振な生徒はいたでしょうに。その新渡戸とかいう教師は、なぜ権堂さんだけを生贄にするつもりなんでしょうかね」


「知らねぇよ…。いかにもエリートって感じだったぜ。あのオッサン。お袋なんて、まだ何ヶ月も先なのに卒業式のあとの打ち上げの予定立てて喜んでやがってよ…くそ涙が出てくらぁ。お袋にすまなくて、すまなくてよぉ」


 メンツを重んじるこの男が屋上でひとり、下級生を前にして震えていた。


(最大限、協力するからよ。なんて言ったって…俺たちは有働アーミーだからよ)


 病室で不破勇太の幻影に怯えていた自分に、権堂がかけてくれた言葉が、有働の胸で蘇る。


「権堂さん、新渡戸先生と話してきます」


 有働は言った。


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 この日の放課後。


 有働は「殷画高校を立て直すため」に赴任してきた新渡戸勉(にとべつとむ)教諭と、生徒指導室にいた。


 新渡戸教諭は、180を越える長身痩躯で、間隔が少し開いた双眸と面長の顔が、引退した老サラブレッドを思わせた。


 頭髪は薄い。しかし植毛もカツラもせずに自然のままに任せたその薄毛に、新渡戸という一人の男としての揺ぎ無い自信が伺えるように思えた。


 アンティーク調のロイド型眼鏡の奥で知的な目が光る。


 有働を値踏みするように一瞥したあと、分厚い教育の資料の束を段ボールから取り出す作業に取り掛かった。


「新渡戸先生のいう事はご尤もだと思います。出席日数や成績が満たない生徒は、学校から社会に出してはいけない。そういった厳しい判断も、本来、学校や教師のあるべき姿だと思いますし」


「ふん。それが分かっているならなぜ私に抗議する?あんなクズ生徒がひとり落第するくらいで、君がわざわざ騒ぎ立てる必要はないと思うがね?」


 新渡戸教諭は鼻炎なのか、生徒指導室備え付けのティッシュを2枚ほどつまみ上げ、洟をかみながら言った。


「しかし、権堂さんのサボり癖は今になって始まった事じゃありません。1年、2年の時点で留年させるべきだったんです。散々甘やかして3年生まで進級させた学校の責任はどうなるのでしょう」


「学校は勉強を教える場所だ。一人ひとりの人格矯正まですることはできない。1年、2年で何かの手違いで進級できたとしても、3年で同じように甘い審査がなされるとは限らない。それは…見る者によって評価が変わるわけだからね。誰もが見て問題ない素行で学生生活を過ごしていれば権堂くんも卒業できたのではないかね?」


「しかし生徒だけが断罪されて、教師だけ今まで通りと言うのは納得いきません。生徒を3年間甘やかし、あげくに留年させてしまった3年担当の教師陣にも問題があります。それが手違いで片付けられる事でしょうかね?新渡戸先生のいう学校の体質改善には賛成しますが、それを3年生に適用するなら、同時に…敢えて新渡戸先生の言葉を借りますが、その手違いとやらをおこした学校側も責任を取るべきだと言っているんです。新渡戸先生は3年担当の教師陣に責任を取らせられますか?」


「クズ生徒一人のために、そこまでする必要があると思えんがね。…要するに、教師にも問題があったわけだし権堂くんを何事もなく卒業させろ、と私に言いたいのかね?」


「いいえ。甘やかしてきた権堂さんを問題なく、このまま卒業させるというのは間違ってると思います。そんな事はすべきではない…。しかし、学校側にも責任がある以上、ここは権堂さんに対して"血の通った"特例措置をとるべきではないでしょうか?」


「特例措置?」


「チャンスを与える」


「何を言ってるのだね。3年間、無限にチャンスは与えられてきた。その結果がこれだろう。彼を追い詰めたのは彼自身じゃないのかね。それとも何だね、チャンスをふいにしたのも教師の甘やかしが原因と言うのかね」


「無限にチャンスが与えられてきたなら、今更もう一つチャンスを与えてもいいんじゃないですか?最後のチャンスです。権堂さんに、卒業見極めテストをするんです。クリアの基準、半分の50点でどうでしょうか。もしクリアできれば…気持ちよく卒業をさせてあげる。いかがですか」


「クズ生徒ひとりに特例措置を設けろと?ルールとは厳然として存在すべきで、特例などあるべきではない」


「どうしても留年させたいようですね。新渡戸先生。教師とは本来…生徒に卒業してほしいものなんじゃないですか?誰も喜んで生徒を留年させたい教師なんていない…そう思いたいです」


 有働は頭を深く下げ言った。


「権堂さんに最後のチャンスをあげてください」


「ふざけるな」


「僕が、新渡戸先生に頭をさげて頼むのはこれが最初で最後です」


「君の懇願など不要だ。私の意向は変わらない」


「立派な教育方針ですね。情では揺るがない。実に立派です、新渡戸先生。この後、決してそれを覆さないでいてくださいね。教育者として」


「君は言ってる事が二転、三転してるじゃないか。何が言いたいのだ」


「信念があるなら、決して曲げないでください。あなたが何をされても曲げなければ、僕はあなたの信念に敬服しますし、素直に引き下がります」


「私を脅しているのかね?君は血の気の多い生徒だそうだな。おまけに英雄願望の強い、自己顕示欲のカタマリだ。生徒会長になって余計なことに口を挟む。それは権力志向の顕れかね?」


「権力志向…それは新渡戸先生の方ではないですか?今回の権堂さんへの処分は表面上の"学校体質改善計画"だったりしませんよね」


「どういう意味だ」


 新渡戸教諭が鼻水を啜りながら、眉間にシワを寄せる。


「この学校は数十年間、どんな素行不良の生徒であろうが留年は出さなかった。しかし、ここでインパクトの強い不良生徒…権堂さんに厳しい処分を下す事で、これまでとは一転した教育方針を打ち出し、見事に学校が生まれ変わったように世間に映れば、あなたの功績になる」


「それが何だと言うのだね。クズ一人を弾く事で改革が少しでも進められるなら実に合理的じゃないかね」


 新渡戸教諭はティッシュで洟をかもうと備え付けのティッシュ箱に手を伸ばしたが中身は空になっていたのだろう。


 新渡戸教諭はポケットから、往訪の風俗店―デリヘルの広告が印刷されたポケットティッシュを取り出し、洟をかんだ。それをゴミ箱に投げ入れたが的がはずれ、有働に背を向けてティッシュをつまんだ。


「あなたとはこれ以上話でもムダなようですね。一つ決めたことがあります。権堂さんが学校を辞めるなら、俺も生徒会長としての公約を果たせないわけですから、自主退学します」


 有働は、新渡戸教諭が背を向けている間、デスクの上に放置された新渡戸のスマホを操作し、自分の番号へかけた。


「それは君の勝手だ。私には関係ない」


 今までどれくらいの鼻水を流してきたのだろう。ものすごい量のティッシュがゴミ箱で山盛りになっていた。新渡戸教諭は、そのゴミ箱に右足を突っ込み圧縮し始めた。


「在校生や卒業生はあなたを生涯"先生"と呼ぶでしょうけど、学校を辞めたら俺や権堂さんは、町で出くわしたとしても、あなたのことを"先生"とは呼ばないでしょうね」


「勝手にしなさい」


 新渡戸教諭は有働への関心を失ったようだった。


 ブレザーの胸ポケットの振動を確認する。たった今、有働のスマホに表示されたのは、新渡戸教諭の電話番号だ。


 有働は新渡戸教諭のスマホの履歴から、自分の番号を削除して、元の場所へ置いた。


「もう新渡戸先生とはお話する事はありません。そちらから呼ばれない以上は」


 有働が「失礼します」と生徒指導室を出る際も、新渡戸教諭は、無反応で背を向けたまま、ゴミ箱の圧縮に精を出していた。


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 金曜日。


 放課後のバスを待つ間、スマホが振動した。


 差出人は"りん子"


「つとむくん、大好きな彼女とダメになっちゃったんでしょ?これ観て元気になってね」


 スマホの再生ボタンを押す。

 一糸纏わぬ姿の"りん子"が大きく足を開き、自らを慰める動画が飛び出した。


 有働は驚き、停留所で待つ誰かに見られていないか確認した。


「つとむ…つとむ…はぁ、はぁ」


 スマホに繋がったままのイヤホンが伝える音声。"りん子"は有働の下の名前を連呼していた。荒い吐息、湿った喘ぎ声に混じり、電動式玩具の回転、振動するモーター音が響いていた。


「勘弁しろよ、ババァ」


 有働は、ため息を漏らし動画を閉じると、誉田に電話をかけた。


「昨日、お前に頼まれた件だけどよ。お前の財布をスったっていう3人組?俺の舎弟たちに自宅マンションを張り込ませてるけど、ずっと帰ってないようだぞ」


 誉田からそう言われ、有働はさらにため息をついた。


 水曜の夜、莉那といるところに絡んできた連中は、それぞれ個性的な髪型をしていた。あれではマトモな就職先もないだろう。しかし3人とも高級シルバーブランドのネックレスや高級腕時計を着用していた。


(実家暮らしか犯罪集団か、どちらかだな)


 そう推理した有働は、誉田に電話をかけ、殷画、往訪、その他周辺地域のアウトローたちから、3人の特徴から情報を集めてもらった。


 牧田稜一(まきたりょういち)。沖島勝弥(おきしまかつや)。砂川武彦(すなかわたけひこ)。


 3人は同じ賃貸マンションに同居しているオレオレ詐欺グループだという事が、その日―木曜のうちに分かった。


「なんか、昼間からシャブくって暴れまわるようなジャンキーどもでよ、なに考えてんのか分からねぇヤツらだし、周囲から孤立していたらしいぞ」


 誉田は言った。


 財布はいい。カードも再発行してもらえばいい。数万円の現金も、もういらない。しかし、あの3人は有働の学生証を手に入れてしまった。有働の家まで直接に報復に来る可能性も充分あった。


 こちらから話をつけねばならない。有働はそう考えていたのだが行方がつかめないとなっては、どうにも動きようが無い。


「それなら仕方ないですね。続けてやつらのマンション見張っててもらえると有難いです。あと、もうひとつ頼んでた件は?」


 有働は訊ねた。


「お前が言ってた"電話番号"でウチのオヤジの組が経営してるデリヘルの顧客名簿しらべたら、あったわ。その"新渡戸"とか言うオッサン、週に1回、土曜にウチのデリヘルで抜いてやがる。リスト覗き見したら、やつは明日の13時に予約入れてやがったぜ。まぁ、小喜田内市の風俗ったら往訪くらいしかないし、ムリもないだろうな」


「明日の13時ですね。証拠写真ばっちりお願いします。お金はこの前、預けた分から引いといてください」


「ああ。任せとけ」


「ところで誉田さん。性病はなおりましたか?」


「まだ治療中だわ。リポリンも治療中らしい。お互いに治ったらまた会う約束してんだけどよ。お前さ、抜かずに4発って知ってるか?」


 まだ話を続けたそうな誉田の言葉を遮り、有働は言った。


「もしよかったら、明日、一緒に病院いきませんか?性病の診断書を書いてもらうんです」


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 土曜日。


 18時すぎ。


 有働は誉田と、性病科の病院前で合流した。


「恥ずかしいな、今日のセンセイ、綺麗な女医さんだったぜ」


 照れ笑いする誉田から、書類用クリアファイルに挟まれた、性病の診断書を受け取る。


「すいません、わざわざ協力してもらって」


「いや、いいって事よ。あ、あとこれ、写真な。3枚ある。確認してくれ」


 有働は封筒の中身の写真を確認し、誉田に礼を言った。


「んじゃ、またな。こんなのが権堂の卒業の手助けになるのか知らんが。お前が悪知恵の働く野郎だってのは知ってるからよ。任せたぜ」


「精一杯頑張ってみます。協力ありがとうございます。また今度権堂さんたちとメシ行きましょう」


「おう!つーか、ナニがすっげぇ痒いし、膿が出て死にそうだから、もう帰って薬を飲んで寝るわ。例のお前の財布パクった3人も張り込みさせてるから、動きがあったら連絡すんぜ。またな」


 そう言いながら手を振る誉田と別れ、そのアシで有働は郵便局へ向かった。平日の夕方だが、小喜田内市役所ちかくの大型郵便局はまだやっていた。


 100円ショップで購入した安物の財布から5万を取り出し、局員に見えないように「謝罪」と印字された封筒に入れた。


「すいません。このDVD-Rと、この手紙と、このクリアファイルの書類、あとこの封筒を、ここまで送りたいんですが」


 窓口の係員は笑顔で対応してくれた。


「殷画高等学校宛てですか…それなら月曜の午前中までには到着しますよ」


 有働は嗤った。


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 権堂に電話をする。

 最終確認の連絡だった。


「俺はきちんとメンツを守って卒業したい。それが叶わないなら自主退学を選ぶ」


 権堂は言った。有働の予想通りの言葉だった。


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 月曜日の放課後。


「どういうことだ。今朝、学校に私宛で、コレが送られてきた。君かね?」


 新渡戸教諭は有働を生徒指導室に呼び出し、小声で問いただした。


「つとむ…つ、つとむ…はぁ…はぁ…つとむ…はぁ!あ!」


 デスクに置かれたDVD-Rから"りん子"の湿った声が絶え間なく流れている。


「このDVDの女性は誰だ。この手紙は何だ」


 そこに書かれた印刷文字の文章。


 それは、有働が女のふりをして"つとむ"に充てて書いたものだった。


 手紙の内容。それは―。


≪つとむさん、ごめんなさい。ごめんなさい。私は性病でした。つとむさんも性病の検査をしてください。これから、慰謝料として、毎週5万円を送金します。今回は職場に、来週からはご自宅に送金の方がいいですか?≫


「つとむ…うっ」


 "りん子"が絶頂に達した声の後、沈黙になった。ブブブブブ…ズヒュンズヒュンズヒュン…というモーター音と粘着質かつ湿ったノイズが混ざり合いながら虚しく流れている。


 新渡戸教諭は鼻水を垂らしながら有働に問いただす。


「これは君かね?と聞いてるんだ。有働努(うどうつとむ)くん」


「知りませんよ。新渡戸勉(にとべつとむ)先生。どこかのヒマ人が送ってきたんじゃないんですか?」


「さらにこの動画と手紙を補足するような、この性病の診断書と現金は何だね」


 新渡戸教諭は、誉田が病院でもらってきた診断書と、封筒から取り出された5万円をヒラヒラさせた。


「ちょっと分からないですね。あ、なんか僕の机にコレが入ってましたが…これ、新渡戸先生じゃないですか」


 有働の手元には、新渡戸教諭と若い女がラブホテルに入っていく写真、ホテル内で絡み合う写真、ホテルから出てくる写真の計3枚があった。


 これは、誉田の父親の組が経営するデリヘルで、昨日の土曜日に、新渡戸が楽しんだ時に撮影したもので、絡み合う写真は、有働が誉田経由で前もってデリヘル嬢に小遣いを渡し、隠し撮りしてもらったものだった。


「動画撮影はイヤだけど、あたしの顔が分からないようにしてもらえるなら写真撮影くらいはいいよ」


 そう快諾してくれたデリヘル嬢の顔は、わざと不鮮明に加工してあり、髪型や体型だけを見ればDVD-Rの"りん子"と同一人物に見えなくも無い。


「これは違う!これは」


 新渡戸の左の鼻の穴から透明な鼻水が垂れていた。


「ティッシュ使ってください」


 有働が差し出したポケットティッシュを無視して、新渡戸教諭は怒りの表情で声を荒げた。


「君が権堂くんを留年させる事に反対してるのは知っている!だからと言ってこんな…どうやったのかは知らないが、こんな事をして赦されると思うな!」


「"3年生を留年させる"ことに教師としての矜持があるなら、こんな動画や手紙やお金が送られてきても、自分を曲げずにやればいいんじゃないですか?」


「君は自分が何をしてるのか分かるのか?脅迫、強要罪だぞ。この手紙には"来週からはご自宅に送金の方がいいですか?"と書かれているが、この女性に、自宅への送金は止めてくれと選択して伝える術はない。これは一方的な脅迫、いやがらせだ」


「だったら、警察に通報すればいいじゃないですか。思いつめた女性が、性病の謝罪文と共に、毎週5万ずつ送ってくる…これが本当にいやがらせかどうなのか警察は判断しかねて、あれこれ根掘り葉掘り聞いてくるでしょうね。それに女性は自宅に送ります、とは言っていませんよね。脅迫の定義はよく分かりませんが、新渡戸先生はその女性と連絡する術をもっているのではないですか?この写真を見る限り。これは明らかに新渡戸先生と深い関係にある、性病を患った女性からの謝罪文としか思えません」


 有働は3枚の写真を新渡戸教諭の鼻水にくっつけるように突き出しながら言った。


「君は頭がおかしいのか?」


「この写真は差し上げますよ。先生のほうで破棄してくださいな」


 有働は、新渡戸教諭の鼻水が付着した1枚目にあたる、ホテル前の写真をめくり、新渡戸教諭と若い女が結合してる痴態の写真をわざと一番上にして再び差し出した。


「権堂を卒業させればいいんだな」


 新渡戸教諭は写真を受け取りながら、憤りか、恐怖か、屈辱のためかは分からないが、震え声で言った。


「あなたにクズ呼ばわりされたので、権堂さんはメンツにかけても、卒業試験を受けた上で卒業したいと言ってます。もし各教科50点以下なら、卒業はおろか留年するつもりもないそうですよ」


「卒業させてやると言ってるんだ。何を余計な意地を張ってるんだ」


「あなたは生徒をクズ呼ばわりしてプライドを引き裂いた。生徒はそのプライドを取り戻した上で気持ちよく卒業したいと言ってるんです。分かってあげてください」


「勝手に話を進めるな!私はこの学校に招かれたんだ。権限は私にある」


 新渡戸教諭は憤懣やるかたないといった表情で、眉間にシワを寄せ戦慄く。


「もう他の先生には頼んであります。卒業試験は新渡戸先生以外の教師陣に作成してもらいます。新渡戸先生の都合で、めちゃくちゃ簡単な問題を作られても困りますからね」


「権堂は50点も取れないだろう。卒業はできないことに変わりない。どうするつもりだ」


「教師の仕事は、生徒にチャンスを与えるだけでなく、勉強を教える事でしょ?今日から毎日、権堂さんに補習授業をしてあげてください。いいですね」


「あのバカに付きっきりになれと言うのか」


「これはあなたのためでもあります。あなたの教え方が悪ければ、僕も権堂さんも学校を辞めるはめになる、それだけは忘れないでください」


「権堂と君が学校を辞めたらどうなると言うんだね」


「あなたの想像してる以上の事が起きますね。確実に」


 有働は、新渡戸教諭が握り締めた3枚の写真に視線を落として言った。


「もういい。分かった。権堂に明日から放課後、ここに来るように伝えておきなさい」


「おい、待てよ。おっさん」


 有働は新渡戸教諭のシャツの袖を引っ張り、言った。


「なんだね、無礼な」


「話の途中で席を立つんじゃねぇよ。無礼なのはてめぇだろうが。生徒がいなきゃ、てめぇら家族は食いっぱぐれんだぞ」


「き、君は」


 わななく新渡戸を前に、有働は満足そうに頷いた。イニシアチブは有働にあった。


 DVD-Rから、再び"りん子"の湿った声と、粘膜のかき混ざるようなモーター音が聞こえてきた。絶頂に達してなお、貪欲な女神は二度目の歓喜の歌声を奏でる。


 2回戦突入だ。


「この俺の偏差値をあげろ」


 有働は嗤いながら言った。


「何を言ってるんだ君は」


 新渡戸教諭は鼻水を垂らしながら、震え声で言った。


「権堂さんの補習とは別に、あんたがここで教師として働いてる間、週に5回。俺の全教科の補習授業をしてもらう。俺の学力は中学1年生の2学期で止まったままだ。どうあがいても分からないことだらけで、なかなか勉強が進まない」


 有働は新渡戸教諭のネクタイを直す仕草をしながら、実のところ絞殺しているような禍々しいポーズで挑発的に嗤っていた。


「な…何を言ってるんだ。私は生徒指導担当だぞ…この私を君の家庭教師にするつもりか」


 新渡戸教諭の薄くなった頭頂部に室内灯の光が反射する。脂汗をかいてるせいだろう。反射は一層、増していた。


「なぁ。調べたけどよ。あんた最難関国立大学出身のエリートで、大学生時代は全教科オールマイティの大学受験のカリスマ講師だったそうじゃないか。女性問題で身を持ち崩し、公立の教師に成り下がったとは言え…生活指導の教師にしとくのは、もったいないね」


「だから、な、なんだ」


「俺の中学1年生レベルの学力を最難関国立大学合格レベルまで引き上げろ。理系は今からじゃムリだとしても法学部合格レベルまでは目指したい」


「な、何を言ってるんだ。ここは最底辺の公立高校だぞ。国立合格者は10年に1人…東大ともなれば…、まだ1人しか出ていない。その1人と言うのは…」


「こればかりは俺自身の努力も不可欠だ。最大限の努力はする」


 有働はデスクに置かれたノートパソコンの画面―"りん子"の痴態を眺めつつ言葉を続けた。


「もしこの学校設立以来、2人目の東大合格者になったら、見返りとしてあんたの名前をちゃんと公で出してやる。あんた、いつかは公立高校の校長の座を狙ってんだろ?俺が東大に入れば、あんたは伝説の教師になれる。ちなみにこの学校の1人目の東大合格者は…たしか、現・市議会議員だったよな。元総理の外孫かなんかだったっけ…まぁ、それはいい。俺の偏差値がそこまで上がるように全面的にバックアップしろ。いいな?」


「本気で言ってるのか?」


 マウスを操作し、りん子の喘ぎ声のボリュームをあげる。もう少しで隣の職員室まで聞こえてしまうほどのギリギリの音量だった。


「これは命令だ。やるよな?おっさん」


 新渡戸教諭は何も言わぬまま、ゆっくりと下を向いた。これが了承の頷きであると理解し、有働は頭をさげた。


「ありがとうございます。これから宜しくお願いします。新渡戸先生」


 有働は屈託のない微笑で新渡戸教諭に礼を言った。有働が今回、自腹を切った"5万円"はこれからの新渡戸教諭による特別"授業料"だと思えば安かった。


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 その後。

 帰りのバスを待つ、停留所。


「権堂さんの努力次第で卒業できるように話をつけておきました」


 有働は顛末を書いたメールを権堂に送信すると、有働はスマホを再操作した。


 吉岡莉那。画面にそう表示されたところで手を止める。


「解決すべきは…吉岡だよな」


 あの日の夜の記憶は曖昧だった。


 あがり症対策の薬―「インデラル」を服用し、カラオケルームでは普通に会話できたのは思い出せた。


「大丈夫。俺はすごく楽しいよ。吉岡、お前とこうして一緒にいられて」


 レストランで酔いも手伝って告白めいた発言もしたのは覚えてる。


「刺されたくなきゃ、隣の女だけ置いて消えな」


 莉那を乱暴しようとしたナイフを持った男を含む3人をボコボコにしたのも覚えている。


「怖くなんかないよ」


 莉那は走りながら、そう言ってくれた…気がする。


「疲れた。30分だけ公園で休もう」


 あがり症対策の薬と、アルコールが体内で混ざり合い浮遊した意識の中、公園のベンチに二人で腰かけたまでは覚えていた。


 そして、時間にして10分か20分かしてからの覚醒後。


 莉那は泣いていた。


「ごめんね…もう二人きりには、なれないね」


 莉那は有働を公園のベンチに残し、ひとりで帰っていった。


「やっちまった!」


 有働は眩暈がする思いで、そのままフラフラと帰宅したのだった。


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 バスを待つ間、莉那が校門から出てくるのが見えた。


 有働が新渡戸教諭と話してる間、莉那もまた、犬飼真知子と談笑して放課後を過ごしていたのかもしれない。


 有働は、自らの暴れだしそうな心臓を押さえつけ、莉那に近寄った。


 あがり症対策の薬が無い状態でマトモに会話するのはとても苦しかったが、有働はあの日の夜の真相を確かめずにいられなかったのだ。


「なぁ、あの日俺…何かしたのか?」


 有働に気づき、莉那は不自然に視線を泳がせ進路を変えようとした。


「なぁ!待てって!何かしたのか俺?なんでもう二人きりで会えないんだよ」


 有働は大声で叫んでいた。


 莉那が振り返る。二人の距離は10メートルほどだった。


「あの夜、公園のベンチで眠ったとき…寝言で女の子の名前いってたよ」


 目頭を潤ませ、莉那が言った。


「女の子の名前?」


「まなみちゃん、って」


(スーサイド5AngelsのMANAMIの事か!)


 有働は合点がいった。


 あの日、酔っ払った自分はMANAMIの名を呟いたのだ。恐らくスーサイド5Angelsがメジャーデビューするニュースを見て、多少意識したのかもしれない。寝言でMANAMIの名を言いっても不思議ではなかった。


(違うんだ。それは好きなアイドルの名前で)


 説明するよりも先に、莉那にMANAMIの写真を見せようと、スマホ操作をした。


 二人の距離は5メートル。3メートル。1メートル。


 心臓の音が聞こえそうな距離にまで縮まっていた。


「メジャーデビュー報道で最近ニュースに出てるし、写真を見れば分かるだろ」


 有働は莉那にそう言った。

 睫の長い大きな瞳。

 有働のスマホの画面に釘付けになる莉那。


「な?」


 有働は言った。

 車の往来が消えた。静寂。


「つとむ…つ、つとむ…はぁ…はぁ…つとむ…観て!観てぇ!はぁっ、はぁっ」


 聞こえてきたのは"りん子"の荒い息遣い。暴れまわるモーター音だった。


「なにこれ」


 莉那は走り去っていった。

 頭の中が真っ白になる。瞬間、有働から世界の全てが消滅した。


-------------------------


 バスを降りて無表情のまま、自宅へ帰る。


 誰かに尾行(つけ)られてるのに気づいた有働は自宅とは逆方向へ歩いていった。


 路地裏。


 ブロック塀―袋小路。


 行き止まり。


「あの3人の仲間か」


 有働が立ち止まると、5メートルほど距離を置いて"人物"も立ち止まった。


「ねぇ。この距離から撃たれたら、どうする?」


 背中越しの、限られた情報。


 有働の背後に立つ声の主―若い女だった。

 声の位置からして、身長は160前後といったところか。

 気配で右手をこちらに突き出しているのが分かる。


「バァン」


 濃密な甘い香りを漂わせ、女は嗤いながら…。

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