第2章

第11話 子供のように

 有働努の世界。

 渦巻く闇が意識を包み込む。


 時は歩みを止め、空気は柔らかなゼリーのように有働を包み込んだ。地面から重力が失われる。上下逆さまで世界が回る。しかし視界は闇の中。


 心地よい、母の胎内。

 鼓動が聞こえる。意識の発芽。


 初めて見る光。微笑む母、父、遅れてやってきた祖父母、叔父、叔母。祝福の声。


 名前を呼ばれる「つとむ」と。


 回廊―。

 時の理(ことわり)に囚われず、浮遊したまま"思考"を許された有働は、記憶中枢―扁桃体―海馬を総動員し、記憶をかき集めた。


 幼き日―そして今。

 切り貼りされた…継はぎの過去の断片。


 ぼやけた記憶。

 フィルムは音を立てて回りだす。

 映写機が映し出したのは幼き日の有働の姿だ。


 幼稚園―「ぼくのクレヨンだぞかえせ」友達を殴って泣かせた。「友達を傷つけるんじゃない」父に怒られた。自分も泣いた。小学校―「わざとボールぶつけたな」抑え切れない怒りに任せて友達を殴った。血まみれ「また、やったのか」父の鬼の形相「心を鍛えてやる」道場での稽古「なんでやらなきゃいけないの、なんで」何も分からないまま道場に通う日々「おい。有働が来たぞ。あっち行こうぜ」小学校で同級生、上級生も僕を避けていった。孤独「お前は普通の子より感情の皮が薄いんだ。耐える事を覚えろ」中学校―「すまねぇな有働、ぶつかっちまった。ははは」血まみれ。血まみれ「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」血まみれ「また、やったのか」父の鬼の形相「心を鍛えてやる」道場での稽古「暴力はダメだ!他人を暴力で支配するために、お前を鍛えたんじゃないぞ!」父の言葉「理由があれば…あいつらをぶっ飛ばしてもいいのかな」血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ「女をいじめて楽しいか?やめとけよな」血まみれ血まみれ「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」飛び散る血。怯える顔、恐怖「俺に構うな!」血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ。高校―「このクソ野郎」血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ「ぶっ殺してやる権堂!これは正義なんだ」血まみれ血まみれ「暴力はダメだ!他人を暴力で支配するために、お前を鍛えたんじゃないぞ!」血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ「ぶっ殺してやる」血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ血まみれ「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」


 鏡―そこに映るもの。

 影はナイフをギラつかせ血を滴らせる。笑う。笑っている。愛を求めている。愛を…吉岡莉那の愛を。自分を愛する事もできず、理由を求めている。


「お前は…誰だ」


 鏡―光によって暴かれた影。自分じゃない。だけど、これ鏡だろ。お前は俺じゃない。俺じゃない。俺じゃない。


「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」


 鏡―不破勇太が立っていた。笑う不破勇太。ナイフを振り回す。


 曖昧だった輪郭が、記憶としての体裁を保ち始める。


(不破勇太。こいつは危険人物だ。俺の世界から、学校から排除しなければならない)


 有働は思った。


「刺してみろよ」


 有働は鏡に映った不破勇太に、言った。


「この学校は、僕のものだ」


 不破勇太は言った。


「この学校は、俺のものだ」


 有働は反論した。


「僕たち双子みたいだね」


 そう言いながら、不破勇太の顔が歪む。まるでアメーバのようにゆっくりと崩壊していき、やがて再構築された。


 鏡―それは有働の顔だった。鏡から、不破勇太の姿が消えた。


「なんだ、これ…血が流れてるじゃないか」


 自らの腹部をナイフで刺している自分に気づいた。ナイフを抜かなきゃ。ナイフを握った左腕が動かない。これは自分の腕じゃない。有働は自由の利かなくなった左腕を凝視した。


 左腕から影が膨れ上がる。むくむくと膨れ上がる。人の形を成す。形の正体は、不破勇太だった。笑っている。嗤っている。不破勇太は笑い続けながら有働の瞳を覗き込んでいる。


 不破勇太は言った―。


「有働くん。君も僕と同じさ」


「有働くん。君は心地いいんだろ?」


「有働くん。かつて君は無関心を装いながらも、誰かに求められる事を望んでいた」


「有働くん。今の君はなりたかった自分なんだろ?」


「有働くん。夢が叶って良かったね」


「有働くん。でも、君は聖者にはなれない」


「有働くん。君は独裁者だ」


「有働くん。僕に代わって世界を滅ぼしてほしいんだ」


「有働くん。……」


(今、何て言ったんだ?)


 不破勇太の"最後の言葉"だけが耳に届かなかった。


 不破勇太に何かを言い返そうとする。言葉が出ない。声を失っていた。もがく、深海の中でもがく。反転し、空に向かい墜ちた。もがく、苦しい。


 重力を失う。大きな渦に落ちる。堕ちる。墜ちる。

 誰かが手を差し伸べてくれた。

 掴んだ。


 拡散した意識が収束し、感覚が戻る。

 左脇腹に疼痛。


 涙…。泣きじゃくる声。

 それは聞き覚えのある、世界一大好きな声。


 瞼を開く。細い世界が視界に入る。

 光。天井。

 吉岡莉那の顔。しっかりと両手を握りながら、有働の目覚めを喜んでいた。


 父と母もいた。気恥ずかしい。吉岡莉那の手を握っているじゃないか。有働は照れた。


-------------------------


 時計の針は午前11時23分を指していた―。

 学園祭初日のあの事件から丸2日が経っていた。回診にやってきた医師からそう聞かされた。


 有働は贅沢にも病院の個室にいた。なぜかは想像すれば分かる。外には数人の刑事が張り付いてるはずだ。彼らと話し合ってるのだろう。父母はいつの間にか消えていた。


 個室には莉那と有働だけ。一連の騒動で臨時休校となっているらしく、いろいろな事を聞かされた。


 莉那が語った事は、すでに日本中に知れ渡っている内容だ。


 殷画高等学校の学園祭で殺人未遂事件、発生―。

 被疑者、生徒。

 被害者、生徒。

 殷画高等学校は連日、報道陣で埋め尽くされてる。

 学校から数十キロ離れた病院からも、時たまヘリの音が聞こえてくる。


「そりゃ、そうだよな」


 有働は呟く。


 さらに、校内視聴覚室から発見された毒入り饅頭。

 検出された毒物―ウクカトキシン。

 2週間前の野良猫毒殺事件に使われたものと一致した。


 不破勇太の自宅で毒殺された母親の遺体が発見されたという。死因は毒物摂取による心停止。死亡推定時刻は学園祭の前日にあたる11月22日深夜。

 不破勇太は殺人容疑で再逮捕された。


「そうだったのか」


 有働は愕然とした。学園祭の前日に摩り替えた毒入り饅頭が1つ欠けている事に気づかなかった。不破勇太は1つ持ち帰り、母親で毒を試していたのだ。


(もし俺があの時、饅頭の欠けに気づいていたら―)


 悔しい。自らを呪った。左脇腹の傷が痛む。


(…あの時は、そんな余裕なんて無かったんだ…)


 そう思いながら、顔を歪める有働を莉那が案じた。やがて父と一緒に殷画署の刑事2人組がやってきた。父は彼らと面識があるのだろう。何かを小声で話すと、父だけが再び病室を出て行った。


「私も…出て行った方がよさそうだね。しばらく休校だし…また明日来るね」


 莉那が言う。出て行くときにさりげなく手のひらを重ねていった。だが、状況は、有働が照れる時間を与えてくれなかった。


「やぁ具合はどうだね。生徒会長くん」


 莉那とすれ違いに、柔和な笑みを浮かべた初老の刑事が入ってきた。その歪められた薄い唇とは裏腹に目は一切、笑っていなかった。ヤニの臭いが彼の存在を濃密に主張している。その隣にいる細面の若手刑事。敢えて有働に興味を示さないかのような表情で天井を眺めていた。目玉はガラス玉のようだ。


 初老の刑事はくたびれたグレーのスーツの胸元から警察手帳を出した。そこには警部補と階級が書かれていた。


「私は納谷(なや)、こっちの若いのは飯田(いいだ)巡査だ。突然ごめんね。傷の具合はどうかな?」


「まだ痛みますが、大丈夫です」


 初老の刑事―納谷警部補は満足そうに頷く。若手刑事―飯田巡査はマネキンのように手を後ろで組み、直立したまま天井を眺め続けていた。


「内木くんから、だいたいの事は聞いてるけど、君のおかげで500人…いや、間違えたかな。499人が救われたよ」


 言葉に棘がある。有働の反応を伺っている。有働に疑いの目を向けている。


「何でも答えますよ。何でも聞いてください、納谷警部補」


 有働はわざと「警部補」という階級にアクセントをつけて呼んだ。臨戦態勢は整っている。刺された腹は痛むが、別の意味で、痛くない腹を探られる覚悟は充分できていた。


 納谷警部補から笑みが消えた。その深海魚のように丸く小さな目が有働の瞳を覗き込む。「君は不破くんとは交友関係があったのかな?」「なぜ君は事前に不破くんの計画を察知したんだい?」「饅頭を作り直すの手間がかかるよね。不破君の饅頭に毒が入ってる確信がよほどあったのかな?」「なぜ警察に知らせなかったの?」「屋上に行ったのはなぜだい?」なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?納谷は執拗に有働に「なぜ?」をぶつけてきた。有働はありのままを答えた。


 納谷警部補は「信任投票の用紙から不破勇太に興味を持ったんです」という有働の証言に眉を潜めた。すでに内木から聞いてるはずだが、改めて聞かされ実にできすぎた話だと思ったに違いない。丸い目を天井に逸らし、右人差し指を唇に押し当て、しばらく考え込む仕草をしていた。


「君は頭がいいんだねぇ。不破くんとどっちが成績良かったのかな」


(そんなの答えなくとも分かってるだろうが)


 有働は舌打ちを堪えた。納谷警部補の粘つく視線が無遠慮に降り注がれる。その浅黒い顔色は足で場数を踏んだ長年の刑事生活を思わせた。


「吉岡さんとは、さっき何を話したのかな」


 納谷警部補からしてみれば、本来なら、莉那に個室にはいてほしくなかっただろう。有働に余計な情報を与えてほしくないからだ。しかし、有働は重要参考人というレベルの嫌疑をかけられてるわけではないらしく莉那と有働を引き離す権限は警察になかったようだ。


 有働は莉那と話した内容、事件の概要を聞いた旨を伝えた。


 納谷警部補の顔が歪む。鼻息なのかため息なのか分からぬ空気を漏らした。マネキン―飯田巡査はそのまま固まっていた。この若手刑事は何のために、ここにいるのだろう。有働は飯田巡査に無遠慮な視線を送った。飯田巡査は天井を見つめたまま目を合わせようとはしない。


「不破くんは、どこから毒物を手に入れたと思う?」


 警察は、すでに押収した不破勇太のスマートフォン、パソコンから毒物購入ルートの足取りを追っているだろうが、何もつかめていないのだ。納谷警部補の語気から焦りや苛立ちが伝わってくる。有働は「いい気味だ」と思いつつも笑いを堪えた。今ここで笑って誤解されてはならない。歪みそうになる口を手で隠し有働は答えた。


「知りませんよ。警察ですら知らない情報を知ってたら、僕が共犯者じゃないですか」


 真顔だった納谷警部補は笑いながら肉厚な手のひらで有働の肩を叩いた。愛想笑いをしつつも、有働はわざとらしくため息をついた。「すまん、すまん」そう言いながらも納谷警部補は、あれこれと同じような質問を、ちがう角度から何度も、何度もしてきた。有働の発言に矛盾が無いか裏を取っているのだ。


 しかし何度聞いても、有働から得られる情報は限られている。納谷警部補は一つ大きなため息をつくと、薄くなった頭髪をかきあげ「また話をきかせてね」と言い、直立のまま言葉を失ったマネキン―飯田巡査を連れて病室を出ていった。


「もう来るなバカ」


 有働の讒謗の言葉は、静まり返った病室で虚しく響いた。


 しばらくの時間が流れた。誰かが持ってきてくれた見舞いの花束の甘い香りが、納谷警部補の忌まわしいタバコ臭い残り香を消してくれた。


 有働は涙を堪えた。なぜ涙が出るのだろう。


(君のおかげで500人…いや、間違えたかな。499人が救われたよ)


 納谷警部補の言葉が、有働の中で残響していた。


「うるさい!!!…俺にどうしろって言うんだよ!」


 有働は枕を病室の壁に投げつけた。


-------------------------


 有働の一人だけの時間は、一時間も与えられなかった。来客。内木。マスクをした内木はずんぐりとした身体に黒のダウンジャケットを着込み、滝のような汗をかくという滑稽な出で立ちで登場した。


「外、そこまで寒くないだろ。それにマスク…風邪か?」


 有働の言葉に、内木は右手をひらひらさせて否定のジェスチャーを取る。


「か、風邪じゃないよ。そ、そ、そ、外がマスコミでいっぱいでしょ?い、色々めんどくさいから、こういう格好になっちゃった。ダ、ダウンジャケットは、体型を隠すため…僕だって、ば、ばれちゃうでしょ?」


 内木がダウンジャケットを脱ぐ。ピンクのトレーナーはぐっしょりと濡れた汗で濃厚な赤へと変色している。ダウンジャケットで隠れるような体型ではなかったが有働は何も言わなかった。内木は屈託のない笑顔を向けると、リュックサックから数枚の色紙の束を取り出した。


「なんだ、それ」


「い、い、1年から3年までの、み、みんなから、寄せ書き…って言ってもあの事件以来、全校生徒が集まる機会はなかったから…その、あ、あの…、一部の生徒たちが集まって、か、書いたものを、僕の家まで送り届けてくれたんだ」


「寄せ書きか」


 有働は、色紙に書かれた内容を見た。励ましの言葉。各々の署名。学年やクラスはバラバラではあったが、きっと発起人が何人か現れて、横のつながりを使って、地域ごとに書き込みを募ったのだろう。


「別に感謝されるような事はしてない。俺は感謝されるような人間じゃないんだ」


(君のおかげで500人…いや、間違えたかな。499人が救われたよ)


 納谷警部補の言葉が蘇る。


 不破勇太の母親が毒入り饅頭を食したのは深夜頃だという。その頃、有働は、床に置かれた"手違いの饅頭"こと"毒入り饅頭"を店主夫妻が手をつけないように目配せをしながら内木と共に新しい饅頭作りを手伝っていた。


 有働の当初の計画では、新しく饅頭を作り終えたのち、店主から回収した"毒入り饅頭"は学校で保管。その後、「計画を実行し終えたつもり」の不破勇太を泳がせ、彼が何かしらの行動に出た時、「毒入り饅頭は視聴覚室にある」と、ポケットのボイスレコーダーをオンにした状態で証拠をつきつけるつもりだったのだ。


(君のおかげで500人…いや、間違えたかな。499人が救われたよ)


 計画に気づいた時点で、不破の凶行を全て阻止できたのだと慢心していた。不破勇太は異常者だ。母親を殺そうとしても不思議ではなかった。


(君のおかげで500人…いや、間違えたかな。499人が救われたよ)


 納谷警部補の声は耳を離れなかった。


 有働は、両手を握り締めた。爪が食い込む。左脇腹が痛む。それでも痛みに耐えた。一人の命が消えたのだ。自分の責任で。自分の思慮の浅さで。不破勇太の母親とは面識がなかった。人となりも分からない。だが、人が一人、死んだのだ。数を確かめなかったという自分のミスで、命が失われた。失った命は戻らない。


 自分のせいで…。


「うるさい!うるさい!俺は悪くない。仕方ないじゃないか」


 有働は拳を握り締めた。脂汗が滲む。


 内木の「どうしたの?」と言う声が聞こえる。


 有働の視界から内木が消えた。室内灯が不規則に点滅する。壁がガタガタと音を立てて揺れ始めた。


(君のおかげで500人…いや、間違えたかな。499人が救われたよ)


 納谷警部補の声は、だんだん変化し不破勇太の声になっていった。


「うるさい!俺は正義の味方じゃない!ただの偽善者なんだ!俺の責任じゃない!」


「君のおかげで500人…いや、間違えたかな。499人が救われたよ」


 僕の勝ちだよ。不破勇太が言った。激しい揺れに耐え切れず、壁に幾条もの亀裂が走る。


 二つの影。灯りに照らされた不破勇太。その傍には、見知らぬ中年女性が立ち尽くしていた。青ざめた顔。白く剥いた両眼。不破勇太の母親に違いない。


「あなたが私を殺したのよ」


 不破勇太の母親は言った。病室の揺れが収まる気配はなかった。有働はベッドにしがみつき、成り行きを見守るしかできなかった。額に脂汗が滲む。


「もっと生きたかった…もっと生きたかったのに…死にたくなんかなかったのに」


 不破勇太の母親は青ざめた顔のまま、白く反転した双眸から涙を流していた。彼女の言葉に反応するように、揺れがさらに大きくなった。


 ベッドの下に現れた蜘蛛の巣のような亀裂。今にも床が抜けそうだった。


「生きたかった…いっぱい、まだやりたい事もあったのに」


 不破勇太の母親は朽ちていく。青白き顔や手足は瞬く間に肉を失い白骨と化していった。しかしその眼窩から溢れ出す涙は止まる事がなかった。


「死にたくなかった…死にたくなんかなかったのに」


「うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!」


 白骨の傍で、にやけていた不破勇太の幻影が歪む。歪み始めてドロドロに融解してから、それは完全に有働自身の姿に変わった。有働は現れた自分自身の幻影を睨んだ。


 お前がバカなせいで。お前がミスをしたせいで。お前が数を確認しなかったせいで。お前が慎重にならなかったせいで。お前が不破勇太の母親を殺したんだ。お前が命を奪ったんだ。お前のせいだ。お前が殺したんだ。お前のせいで死んだんだ。お前がみすみす死なせたんだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。自らの左手で傷口を押しつぶす。左脇腹が痛む。血が滲み出す。それでも有働は自分を責める事を止めなかった。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。


「うわ!う、う、有働くん!血が出てるよ」


 内木の声は有働には届かなかった。窓ガラスに亀裂が走る。砕け散る音。破片。


「どうしたの!有働くん」


 内木が叫んだ。だが、内木の姿はここにはない。天井が崩れ落ちる。床がでたらめに波打つ。壁は形を失い有働に襲いかかった。


(お前のせいで、お前のせいで…俺のせいで…俺のせいだ)


 有働は自分を許せなかった。赦せなかった。赦す事ができなかった。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も…


 有働は自らの左手の凄まじい握力で、呻り声をあげながら左脇腹の傷口を握りつぶし、裂け目をこじ開けていた。温かい。有働の左手は血で染まっていた。シーツは真っ赤に染まっていた。


 病室の窓の外、天変地異が起きた。空がうねりを上げて地面へと叩きつけられる。落雷。洪水。崩壊する世界。轟音と共に濁流は全てを呑み込み、有働の世界を破壊していった。


「お前のせいで、お前のせいで…俺のせいで…俺のせいだ」


 有働は叫ぶ。何一つ残らぬ世界で有働は叫んでいる。


 しばらくして、内木のナースコールで駆けつけた看護師らによって、有働は取り押さえられた。


「すごい力だ」


 誰も、左傷口に深く突き刺さった有働の左手を引き剥がす事はできなかった。さらに呼び出されて駆けつけた増援の看護師ら4名の力が加わり、ようやく有働の自傷行為を止める事ができた。


(死人を出したくないと真剣に考えていたら…毒入り饅頭を抑えたという事実だけで満足せず…数をちゃんと数えていたはずだよね…有働くん)


 病室の隅で不破勇太の幻影が笑っている。崩壊した世界で、たった一人生き残った有働を嘲り嗤っている。病室の隅に悪魔の幻影は嬉しそうに哂っていた。


-------------------------


「もう暴れないと約束できるかね。次に同じようなことがあれば…身体抑制…つまり拘束衣を着用させなければならない。今、私と話している君は至って正常だ。だから有無を言わさずそれをする必要はないと思ってる。私の言っていること…分かるね?」


 担当医師はそう言った。眼鏡の底で冷徹な瞳が有働を射抜く。背後でその様子を見守りながら有働が暴れだした時のために看護師たちが整列している。


「もう…大丈夫です。父と母には言わないでください」


「心の不安定が続くならばこちらも対処しなければならない」


 担当医師はそう言うと、病室を出ていった。


-------------------------


 翌日。午前11時すぎ。

 病室の窓の外には、雲ひとつない青空が広がる。


 報道から数日が経過し、ヘリは来なくなったが、学校や関係者宅の周囲は大勢の報道陣に埋め尽くされている事が予想された。


 この日、一番目の来客。

 内木が、昨日と同じ出で立ちでやって来た。


「だ、だいじょうぶ?」


 だいじょうぶ?の意味をきちんと踏まえて、有働は頷いた。内木の顔が明るくなる。


 そして、また部屋をノックする音。


 病室を訪れたのは、権堂、誉田、春日、久住らだった。


「おう、有働。調子はどうだ」


 権堂は言った。


「だいぶ良くなりました」


 嘘だった。傷口がまた開き、左脇腹は、まだ痛んでいた。だが昨日、暴れた事は内木と自分だけの秘密だった。


「そうか、よかった。傷口が塞がったのに、その傷口がまた開くんじゃねぇかって思える笑い話があるんだぜ」


「おい、やめろよ」


 権堂の言葉を、誉田は遮る。権堂はそれでも話を続けようとする。後ろで春日と久住が笑いを堪える。内木はその成り行きをきょとんと見ていた。


「笑い話…なんですか?聞かせてくださいよ」


「それがな…」


 権堂の口を、誉田の分厚い手のひらが塞ぐ。春日と久住が大笑いをはじめ、内木までもが、それを見て何が何だか分からないにも関わらず、つられて笑った。


 しかし、有働は無表情で、彼らの成り行きを見守るだけだった。そんな有働を見て、皆の笑いはいつの間にか止んでいた。


 権堂の口から誉田の手が退けられる。


「いいよ、話せよ」


 誉田は言った。何かを惜しむように、しかし何かを覚悟したような響きがある。誉田の許可を得た権堂は、咳払いをし、話を続けた。


「実は誉田な。リポリンに性病を移されたんだとよ。きちんとゴムつけろって言ったのによ」


 春日と久住が再び笑い出した。だが、さきほどの笑い声に比べてわざとらしかった。権堂もわざとらしく笑い始める。内木も控えめに笑う。誉田も苦笑いを浮かべる。何かがぎこちない。不自然だった。


 皆、有働に笑ってほしかったのだ。


「ははは」


 有働は笑った。別におかしくて笑ったのではない。この場で自分が、誉田の恥を冗談として笑えば、皆が救われると思ったのだ。


 皆が笑った。笑顔になった。渦中の誉田は頭を掻き毟りながら、何かの合図のように権堂の肩を叩いた。


「権堂、お前もヒトのことばかりじゃなく、自分のことも有働に報告しろや」


「今ここで言うことか?」


「じゃあ、笑いのネタでも持ってるのかよ」


 誉田の言葉に頷き、権堂は視線を天井に移した。


「まぁ、それもそうだな。有働…お前にぶっ倒されてよ、誉田との件が終わった時…ふと思ったんだ…」


 権堂は天井を見上げたままそう言った。少しの無言。静寂。


「卒業したら海を越えて、世界を見てみようってな」


 若干の照れがあったのだろう。「海を越えて」の言葉の抑揚が、妙に芝居がかっていた。有働はただ権堂を見つめるしかできなかった。


「日本を出るんですか」


「おう。まだどこに行くかは決めてねぇがな。お山の大将のまま極道目指しても、親父を越えられない気がするんだ…進路指導の…小暮センセイに言ったらよ。お前は単純だ、と言われた。でも、頑張れとも言われた」


「そこが権堂さんらしくていいと思います」


「そうか?なぁ、有働…お前がいなかったら俺にこんな考えは浮かばなかったと思う。それどころか、卒業すらできなかったかもしれない」


 権堂は誉田の胸に拳を叩きつけるふりをしながら言った。「有働、お前がいなかったら誉田と、ここで並ぶ事もなかった」そう言いたかったのだろう。


「俺はそんな大そうな人間じゃないです」


 有働は権堂の目をまっすぐ見ることができず、伏目のまま言った。


「お前、もしかして不破の母親が死んだ事、気に病んでるんじゃねぇよな」


 権堂は言った。有働は何も語らなかった。


「内木とたった2人で動いてたんだってな。おまけに刺されてよ。大勢が命を救われたんだ。その事実は変わらない」


 権堂は、内木の肩に手を乗せそう言った。


 有働は目頭が熱くなるのを感じた。権堂らを信じていなかったわけではない。しかし…不破勇太の計画を完全に阻止するには、自分と内木だけで動いた方がいいだろうと判断したのだ。


 結果として権堂らを蚊帳の外に置くことになってしまったが、有働を責める言葉が投げつけられる事はなかった。


「だがな、今度からは俺たちにも話してくれ。最大限、協力するからよ。なんて言ったって…俺たちは」


「有働アーミーか。このヤロウ」


 誉田が先ほどの暴露話の仕返し、という体で権堂にヘッドロックをかけながら言葉を繋げた。権堂は本気で苦しがってた。誉田はヘッドロックをしながら、真剣な表情になった。


「俺も協力するぜ。学校は違うがな」


 誉田はヘッドロックを解除し、有働に言った。権堂が真っ赤な顔で咳き込む。春日が権堂を案じた。久住は内木と共に、成り行きを見守るだけだった。


 有働から笑顔が消えていた。有働は声を殺して哭(な)いていた。


-------------------------


 事件発生から2週間後。

 もう12月になっていた。


 有働は父と母に支えられながら退院した。


 一部マスコミによって有働はマークされていたため裏口からこっそり退院という形になったが、そこには、病院関係者の他に、権堂、春日、久住、内木、そして莉那、戸倉、白橋らの姿があった。


「よう。救世主」


 戸倉の第一声。入院中もメールなどで連絡は取っていたため、戸倉は多くを語らなかった。


「学校もいつも通りに戻ったよ。まだマスコミはウロウロしてるけどね。今月の15日から期末試験はじまるけど、よかったらこれ使って」


 白橋はノートのコピーを有働に渡してきた。目が赤く腫れあがり潤んでいた。連日、有働の事で人知れず泣いていたのかもしれない。


「みんな有働くんが戻ってくるの待ってる。ここ2週間いろいろあったけど、お帰りなさい」


 莉那が言った。「またメールするね」そう聞こえたが有働は曖昧に頷くだけだった。


 彼らに見送られながら父母とタクシーに乗り込む。振り返る事はなかった。しかし、皆がずっと手を振ってくれているのを有働はバックミラーで眺めていた。


 なぜだろう、涙が溢れ出すのを堪え切れなかった。父は後部座席で有働の背中を撫でてくれた。直接的な父の優しさに触れるのは、小学校の時以来だった。


「泣いていいんだぞ。お前はまだ子供なんだ」


 父の言葉で有働は泣いた。声を出して、子供のように泣きじゃくった。

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