第53話 新バベルの塔

 米合衆国・アリゾナ州ココニーノ郡グランドキャニオン――。

 新バベルの塔・一階「石造の間」――。


 針先ほどの光が二つ差し込む闇の中で独特な石膏の匂いが至近距離で鼻腔を刺激する。


(侵入するためあれやこれやと手を尽くしたはいいが…)


 有働は直立不動のまま、縦二メートル横八十センチほどの空間の中に潜んでいた。身体中の間接が固まり、悲鳴を上げている。


(当分ここから出られそうにないな)


 ため息を殺しながら有働は針穴から外を伺う。


 鏡面仕上げの壁と床に囲まれたその大広間には、ドールアイズの母親と恋人を模した石像や銅像が所狭しと並べられていた。


 どれもこれも先ほどトラックより運ばれてきたものだ。


(まさか先客がいるとは…)


 有働はその中央に固まった集団を凝視する。


「銃を下ろせ!」

「そっちが先に銃をおろせ!」

「何者だ」

「名乗ることはできん」

「私も名乗ることはできない。だがお互いにその所作や戦い方を見れば所属は分かる」

「だったらアンタから名乗ったらどうだ」

「…私の所属部隊から明かそう。イタリアのRIAMだ」

「イギリスのS.A.S.」

「フランスのGIGN」

「米国のDEVGRUだ」

「同じく」

「私は米国CIAだ」

「ロシアの空挺スペツナズ」

「ドイツのGSG9」

「中国から来たスノーウルフ所属だ」

「KNP-SWAT。韓国だ」

「イスラエル。サイェレト・マトカル」


 流暢な英語。訛りのある英語。


 彼らは罵倒に引き続き、互いに意志疎通を図るため世界言語である英語を用いて所属部隊を明かしあった。


「一斉に銃を下ろさないか?恐らくここに集まった全員の目的は一つ。ドールアイズの義眼をえぐり取り、奴の動きを封じ込んっだあと神の杖のリモコンであるスマホを奪う…そうだろう?」


 緊張した面もちのまま、RIAMの隊員が言った。

 沈黙。

 数秒、数十秒が経過したかもしれない。


 やがてS.A.S.の隊員が「彼の言うとおりだ。今は力を合わせこのゲームを阻止すべきだ」と言った。


「俺はゲートを開けるため特殊な機械を用いてここのシステムと監視カメラに侵入した。だがそのほかの手口でこの塔に侵入を成功させたアンタたちは怪しさ満載だ」


 米国CIAが言った。

 この集団で最も背が高く肩幅の広い男だ。


(トンプソンからの差し金か)


 有働は針の穴から男たちの成り行きを見守る。


「僕は通気口から侵入した。建物の設備工を買収したんだ。僕はドールアイズが凶行に走るだいぶ前から埃臭い場所に潜んでいた。そして今が頃合いだとすぐそこの通気口から降りてきた。長きにわたる埃まみれの生活を想像したことがあるかい?とんでもなく苦痛だよ。ははは」


 ロシア訛りの英語で空挺スペツナズ隊員が答えた。


「俺はそこの石像を運送する業者に扮装して建物の外にいた見張りどもに案内させた。監視カメラの死角になる場所ですでにそいつらは殺してある。当分はこちらが優位に動けるだろう。アンタらは俺に感謝すべきだ」


 ドイツ訛りの英語でそう言うのはGSG9隊員。


「なるほど。アンタたちはどうなんだ」


「俺はこの建物の下水道を通ってここまでやってきた」

「私は…」

「俺は…」

「私は」

「俺は」


 CIAに促され残りの国のエージェントたちも各々、ここにたどり着いたルートを語る。


「これで互いの嫌疑は一応は晴れただろう。いったん、銃は下ろそう」

「そうだな」

「じゃあ下ろすぞ、スリー、ツー、ワン…」


 RIAM隊員の声かけにより全員が一斉に銃をおろす。


 有働は瞬時に思案した。


 今ここで出て行くべきか。

 彼らが去った後にここを出てドールアイズの元へと向かうべきなのか。


(仲間は多いほうがいいだろう)


 有働は覚悟を決め、その場で計画を変更した。

 おそらく有働とともにここへ潜んでいる誉田と太田もそれに同意してくれるはずだ。


「待て!追加で三人ここにいる!!!」


 有働は声を張り上げた。


「銃は下ろしたままにしておいてくれ!姿を見せる!」


「どこにいやがる?!」

「天井か?」

「いや違う!壁の向こうだ!」


 男たちが再び銃を構える。有働はなおも声を張り上げた。


「銃をおろしてくれ!」


 有働は声を荒げながらも、空洞の中の僅かな隙間の中で右手に握りしめた小型の電動カッターのスイッチを手探りで入れた。


 鼓膜をつんざく音が鳴り響く。

 石膏を内側から切り裂く感触。

 亀裂から差し込む光。


 やがて有働は自らの全身を拘束している大きな殻を破り始めた。


「せ…石像だ!!そこと、そこと、そこの三体だ!!!」


 男たちが騒ぎ出す。同時に複数の金属音。男たちはこちらに向かって銃口を向けている。


「待て待て!俺たちは味方だ!撃つな!」


 有働とほぼ同時に石像から出てきた誉田が不慣れな英語で叫んだ。


 幸いにして男たちの銃声は聞こえない。

 跳弾を恐れたためか、誉田の言葉を素直に聞き入れたためかは分からない。


「えっと…僕らは世界を救いに来た日本人です」


 誉田に続き石像の殻を破った「午前肥満児」こと太田がぐっしょり汗で濡れたTシャツをぱたつかせながら両手を挙げた。


 太田はスーサイド5Angelsの全世界中継ライブを間近で感じるため、戦いには参加しないものの成り行きで新バベルの塔に侵入した経緯がある。


「なるほど。君ら三人が石像に隠れて侵入に成功したという事は理解したが…」


 RIAM隊員が有働を指さして、表情を失ったまま言葉を続けた。


「君のその格好は何だ…?特撮ヒーローのコスプレか?」


 新バベルの塔一階の鏡面仕上げの壁に映り込んだ自らの姿を、有働は見た。


 銀色に輝くフルフェイスタイプの仮面と鎧。

 アルファベットU字型のシールドの奥では二つの目が金色に発光している。


「私の名はウチキング!天才科学者・岩清水徳三郎博士に認められ超強化金属製のパワードスーツを着用し、世界平和のために戦っている!」


 有働は今から二十三時間前より、生前の内木がデザインした漫画のヒーロー「ウチキング」の仮面とプロテクターを着用した状態で石像の中に隠れていた。


 これは今より一週間前にアニメ会社社長にして特撮スタジオの経営にも携わる遠柴に頼み込み急場でこしらえたものだった。


 動き易さを重視した防弾機能のあるポリカーボネートにメタリック加工をしたものだが、その見た目は本物の金属に遜色劣らない。


 事実、男たちの何人かは、これが本物の金属製パワードスーツだと騙されているかもしれない。遠柴の用意してくれたプロテクターはそれほどにリアルなものだった。


「私は世界を恐怖に陥れた巨悪ドールアイズを許さない!」


 仮面のヒーロー・ウチキングに扮した有働はポーズを決めた。


「顔も素性も明かせないヒーローごっこの精神異常者とオデブちゃん。実戦で使えそうなのはそこの兄ちゃんくらいか」


 GSG9隊員が鼻で笑う。


「私は世界を救うためにここへ来た!ヒーローごっこなどではない!」


 仮面をつけた有働は平静を装った口調で返すが、実際のところ丸一日同じ体勢で石像の中で過ごしていたのに加え、脱水症状と空腹、何よりパワードスーツの下半身に仕込んである大人用オムツの股間が尿でパンパンにはちきれそうになっている始末で、心身の消耗はピークに達する寸前だった。


 どこか彼らが見ていない場所で一度これを脱ぎ、石像の隅に仕込んでいた食料を補給したいという欲求が鎌首をもたげる。


「ヒーローなら俺を倒してみろよ」


 ドイツの対テロ部隊であるGSG9の隊員がレッグホルスターに標準装備のハンドガンH&K USPを収納するとこちらへ寄ってきた。


「無益な戦いは好まない!だが君が望むなら数秒で終わらせてやろう」


 有働は仮面のヒーローとしての台詞を吐いた後ため息を漏らす。


「待て待て」


 誰かが間に入ってきた。


「お遊びが目的なら帰れ。足手まといだ」


 この不毛な喧嘩の仲裁に入ったのはCIAだった。


(トンプソンの犬か)


 有働はとっさにCIAの鼻柱を叩き潰したい衝動に駆られたがそれを必死に押さえ込む。


「とりあえず俺たちはメシを食いたい。そしてこの部屋の隅でしょんべんがしたい」


 石像の中に隠していたチョコレートバーを数本掲げ、誉田が言った。


「時間はないぞ。一階の監視カメラ映像がフェイクだと勘づかれるまで時間の問題だ。エレベーターは使用できない。監視カメラのない非常階段で百五十階まで一気に駆け上がり、カタをつける」


 CIAが新バベルの塔一階大広間の四方に備え付けられたドーム型の監視カメラを指さして言った。


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 男たちは百五十階をめざし、非常階段を昇りはじめた。


 そこにはやはり監視カメラはついておらず真っ白な壁と銀色の手すりだけが延々と続いている。


「どうやって石像の中に身を隠した」


 CIAが訊ねてきた。


「ええっと…、ドールアイズが大量の像を外部に注文していることに気づいた僕らは…」


 汗だくの太田がつたない英語で彼らにこれまでの経緯を話する。


 とある米国人のツテを使い小型潜水艦で米国へ上陸し、ドールアイズに脅されながら石像を大量に作らされていた西海岸の美術職人に頼みこみ、完成済みの石像の中に空洞を削り身を隠したということ。


 ドールアイズは母親と恋人の石像や銅像にエックス線を当てて調査するようなことはしないと前情報で聞いていた通り、すんなり侵入に成功したという事実――。


「この手段がもっとも安全で確実だと判断しました」


 最後尾の太田は息切れしながら言った。


「とある米国人のツテ?潜水艦を用意できる人物などそうそういないはずだが」


 CIAの眼光が鋭くなった。


「まぁ、俺たちにも守秘義務があるってことで」


 誉田に馴れ馴れしく肩を叩かれたCIAは眉を潜める。


「話は戻るが、俺がトラックに乗せて運び出した石像のうち三体がアンタたちだったってことだよな?してやられた気分だぜ」


 GSG9隊員がため息をついた。


「ここまで来れたことは賞賛するが、これからは私たちプロに任せた方がいい」


 CIAは有働ら三人を諭すように言った。


「ドールアイズを倒したとして神の杖はどうするつもりだ?貴方たちの真の狙いはそこにあるはずだ」


 ウチキングに扮した有働の問いかけに対し、男たちは無言になった。


「神の杖を所持した国は世界を牛耳れる。危険な国がそれを持てば現在の状況と同様の恐怖と混沌が待ち受けるだろう」


 CIAの声は一段と低くなった。


「だからこそ神の杖は世界一の強国である米国が保持すべきなのだ」


 米国DEVGRUの隊員がそれに続いた。


「米国からの刺客は三名。俺たちには分が悪いな」


 GSG9隊員は愉快そうだった。


「…ドールアイズとの決着がついたあと誰か一人が神の杖のリモコンを右手に、その他の者の屍を踏み越える。僕らはそれまでの関係だ」


 ロシア訛りの英語で空挺スペツナズ隊員はそう言葉を放った。


「ところで、えっと…」


 太田は言いにくそうにもじもじしはじめた。


「皆さんが百五十階を目指す中、恐縮ですが僕は地下スタジアムへ進みます」


「どういうことだ」


 CIAは階段を昇りながら最後尾の太田を見下ろす。


「僕の目的はただ一つ。スーサイド5Angelsのコンサートを唯一の観客として見守ること」


「デスゲームの最中に歌ってるふざけたジャパニーズガールたちのことか」


 GSG9隊員の言葉に太田はむっとした表情で続ける。


「彼女たちは世界七十億を世界終焉の恐怖から救おうとしてるんです。おそらくたどり着いてすぐにドールアイズの手下に殺されるかもしれませんが僕は彼女たちを最前列で応援しながら死にたい」


「言ってる意味はイマイチ分からん…だが、アンタの目は覚悟をもっている。行ってこいよ」


 GSG9隊員は笑いながら右手親指を立てると、その指先を地下へ向けた。


「行ってきます。幸運を」


 太田は即座に踵を返す。


「お互いにな」


 GSG9隊員に後押しされ太田は地下へ駆け下りていった。


「有働くんもがんばって!!!!」


 太田の声が地下から響く。


(勘弁してくれ)


 ウチキングの仮面を被った有働はそれに応えることはせず、気まずい空気を察した誉田が「太田さん、ガッツだぜ!」と声をかけた。


「ウドウ?それがお前の本名か」


 GSG9隊員に突っ込まれ、有働は肝が冷えた。


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 太田は地下へと続く非常階段をただひたすらに駆け下りた。


 鼓動が高鳴り心臓が喉を突き破りそうになるが、おかまいなしに駆け下りる。


「もうじき天使たちに会える。貸し切り状態の会場で」


 太田は息切れしながらもスーサイド5Angelsに出会った頃のことを思い出す。


 あれは忘れもしない、新卒で入社した会社を三ヶ月で辞めて実家で引きこもり生活を始めた頃だった。


 たまたまネットサーフィンで見つけたライブ動画「親のスネかじり虫」の歌詞に太田は強く心を打たれた。


 親のスネかじっていいじゃない。

 親がその分働けばいいじゃない。

 家の穀潰しでいいじゃない。

 親が納税すればいいじゃない。

 実家がなくなれば、いつか貴方は働くでしょう?

 親がくたばれば、いつか貴方も大人になるでしょう?

 だからその日まで親のスネを大根みたいにかじりましょう

 親のスネは出血多量中♪


 そのライブ会場にはマネージャーと思しき男と事務所社長が客のふりをして突っ立っているだけで、ほぼ無観客の状態でスーサイド5Angelsnoメンバーたちは一生懸命にパフォーマンスを繰り広げていた。


「美しい…」


 太田は五人の天使たちの背中に小さな翼を見た。


 彼女たちは地上に舞い降りた天使として、世界の片隅で世間の厳しい目に怯えながら肩を竦めている自分のような者にエールを送っているのだ。


 彼女たちはもっと世間に知られるべきだし、その存在を多くの人たちに広めるのは自分に与えられた天命かもしれない。


 太田はそう確信し、その日の内にスーサイド5Angelsの非公式ファンサイトを立ち上げた。


「君たちは無観客じゃ輝けない。たった一人でも…僕のようなデブオタ大食いニートであろうとも、ファンが見守っていてあげないと輝けないはずさ…だから、今いくよ」


 使命感に燃える太田は不注意から足を滑らせ、階段を転げ落ちた。


「いてて…」


 太田は顔をしかめながら巨体を起きあがらせた。打撲によりしこたま膝小僧が痛んだが、幸いなことに骨折や捻挫などはしていなかった。


「あ、携帯…」


 太田はジーンズの後ろポケットにしまったスマホを取り出した。


 ドールアイズによってネットワークが遮断され圏外になっているスマホだが、太田にとってこれは重要な意味を持つものだった。


「よかった…壊れてない」


 これを有働から受け取ったのは石像に身を隠す直前のことだった。


 有働はこう言った。


 いつかこのスマホが使えるようになった時、とあるアメリカ人男性からこの携帯に着信がくるので、その際にこう答えてください――、と。


『目の前の男こそが貴方の探している男だ。今からその男の指示に従え』


 意味は正直、理解できなかったが、世界七十億人を救うために大切な台詞なのだと有働は言っていた。


 太田はこれまでの世間に知られざる有働の功績をすべて知っていた。


 さすがの有働とて今回のドールアイズの凶行を止めることは絶望に等しいと理解しているものの、有働の頼みごとを断る理由はなかった。


「さっきはあんなことを言っちゃったけど、僕はまだ死ねない。有働くんから預かったこのスマホに出るまで」


 天使たちのコンサートを最前列で見ながらもドールアイズの手下に見つからぬよう、細心の注意を払いながらこの巨体を客席の間と間に潜り込ませてその時が来るまで待とう、と太田は思い直した。


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「いつまで続くんだ…この地獄は」


 照りつける太陽が岩山を灼熱に焦がし続けている。


 岩場に背を預けたいが、ドールアイズによって強制的に着用させられたダイビングスーツは熱をダイレクトに伝えてくるため、レーザー銃を構えながらトンプソン米合衆国大統領は地面にへこたれた。


「中国はどう動くつもりだ。すでに一時間は経過しているぞ」


 敵は岩場に姿を隠したまま一向に動こうとしない。ゲームは停止状態のまま刻一刻と時間だけが流れていた。


「大統領。彼らは我々が体力を失うのを待っているのではないでしょうか」


 副大統領のミッチ・ニューマンが近くの岩山から小声で囁く。


「傲慢で姑息な汚い奴らめ」


 ドールアイズから与えられた時間は六時間。


 それまでにどちらかの国の政治家十二人が全員死ななければ引き分けとみなされ両国ともに核爆弾を落とされるが、逆に言えば五時間五十九分までに決着がつけば問題はない。


 中国チームの政治家たちに比べ米国チームのメンバーはトンプソンを筆頭に肥満体が多く、この灼熱地獄では立っているだけで体力を失うだけだった。


 熱射病のせいですでにトンプソンの視界は霞みはじめ、すでに滝のような汗がダイビングスーツの中でタプンタプンと波打っているような状態である。


「あちらもこちらも年齢層は似たようなものですが、いかんせん我々の殆どが持病を持っている。持久戦にもちこまれたら分が悪いですぞ大統領」


 トンプソンは周囲の岩山に隠れた議員たちを見回す。若いの数名を除いて殆どが肥満体の老人ばかりだ。


「このままでは奴らの思うつぼだ」


 トンプソンは副大統領の進言をかき消すようにしてレーザーガンを構え、向こう側の岩山に発砲した。


「大統領」


「乱心しているわけじゃない。奴らにプレッシャーを与えているんだ」


 トンプソンは中国チームの陣地めがけて出鱈目に発砲を繰り返した。


 だがその甲斐もむなしくそこいらの岩が砕ける音と砂煙が舞い上がるだけで、中国人たちは一切沈黙を守りつけたまま姿を見せようとはしない。


「食えない奴らめ」


 トンプソンは苦虫を潰したような顔で手元のレーザーガンを見つめた。おそらくこの五分間でやたらめったらに百発は撃っただろう。これが弾薬数の限られている銃器でなくレーザーガンでよかったと冷静になって思った。


 とは言えいくら無制限に撃ち続けようとも相手に反応がなければただの徒労に終わるし、自らの腕の筋肉にも疲労が蓄積されていくのは明白だった。


「万事休すか」


 ドールアイズという狂人により全世界が核爆弾を突きつけられている状況で、本気の米中戦争が始まろうとしている。


 これまでの中国といえば米国からの経済制裁を回避すべく対立寸前で引き際を心得ていたし、夏の天安門クーデター事件以来おとなしくなったはずだった。


 しかし今の状況はどうだろう。


 中国チームは米国と対等に立ち回り、勝利まで狙って戦略を練っている。これは本気の戦争、本気の殺し合いをしかけてきているということだ。


 それもこれも互いに祖国をドールアイズに人質に取られ殺し合いをしなければならないという大前提があるからで、ある意味で平等、対等な立場に立たされた中国としては米国に気を遣う必要性が一切なくなったというところが大きい。


 これはこのデスゲームに参加している他の国々においても言えることだった。向こうにそびえる巨大モニターを見ると、不死隕石をめぐり戦争を繰り広げていた国々ならいざ知らず、同盟を結んだ国同士、主従関係のはっきりしていた国同士の政治家までもが銃を互いに向けている状態が見て取れる。


「丸裸にされた私たちが慌てふためくのを見て楽しんでいるのか。ドールアイズ」


 一人の兵士として戦争の最前線に立たされたトンプソンは怒りの矛先を中国からドールアイズへと向けた。


「こうなったら肉の盾作戦しかない」


 トンプソンは周辺の岩場に隠れた若手下院議員二名の名を呼び、手招きした。


「今すぐそちらへ参ります」


 二人はレーザーガンを握りしめたままトンプソンのいる岩場まで走ってきた。


 こちらに動きがあっても中国チームは撃ってこなかった。おそらく自分たちのいる位置がばれるのを防ぐためだろう。


「君と君。家族はいるか」


「嫁と子供が」


 顎のたくましいハンサム下院議員が答える。


「僕は未婚ですが病気の母がいます」


 ギリシア彫刻を思わせる美貌の下院議員も答えた。彼はゲイだという噂を耳にしたことがあるが真偽は不明である。


「君たちの家族の生活は私が面倒を見る。だから盾になりなさい」


「はぁ?」


 二人は同時に同じ反応を示した。まるで双子のように。


「中国人どもを殺すためには前に進まなければならない。だがこんな場所では、弾除けに使える資源は君たちの肉体くらいしかないのだよ。勝利をつかむには英雄の死が不可欠だ。どうか祖国のために死んでくれ」


 トンプソンは若手政治家二人の肩を叩く。


 二人とも大学時代スポーツをやっていたのだろう、ダイビングスーツ越しにしっかりとした筋肉を確認することができた。


「で、でも」


「私の断りを拒否すれば大声で叫ぶぞ。あそこに全世界中継用のドローンが飛んでいるのが見えるだろう。あれは音声も拾ってくれる」


「そ…それはどういう意味でしょうか?」


 トンプソンが指さす先、数十メートル上空のドローンを見上げながら妻子持ちの若手議員が尋ねた。


「…戦うことを放棄した政治家が二人いると。そうすれば君たちの家族がどういう目に遭うか想像できるね?」


 トンプソンは小声でそう語りかけた。


「そんな…」


 若手議員二人の表情は凍り付いていた。


 副大統領のミッチ・ニューマンはその様子を見て言葉を失っているが関係ない。


「さぁ、行こうか」


 若手議員二人は天を仰いだ後、泣きそうな表情でゆっくりと頷いた。


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「米国チームがこっちに来たぞ!」


 中国共産党政治局常務委員の薄仁川が慌てふためく。


「トンプソンめ!二人の仲間を盾にしている…姑息な豚めが」


 同じく常務委員である姜浩然も岩山から首を引っ込めうなり声をあげた。


「いや、よく見てください。こちらに向かっているのはトンプソンじゃない」


 彼らよりワンランク下の立場にある政治局員の袁は、冷静に遠くを注視する。


「…誰だ」


 事実上のナンバーワン――、つまり総書記として周遠源の後釜についた男、黄大景も眉を潜め岩場から身を乗り出す。


「おそらく副大統領のミッチ・ニューマンです」


 二人の男の陰に隠れた人物の体型はトンプソンよりいくらかスリムだった。そして白髪の頭頂部は禿げ上がっている。


 袁の言うように副大統領のミッチ・ニューマンその人の特徴と確かに一致する。


「危険に身を曝さず他人を駒のように扱う…トンプソンらしいやり方だ」


 黄は剛胆な笑い声を上げた。十一名の男たちもそれに倣って笑った。


 この中国チームは、デスゲームのルールが発表されてすぐに選定された十二名から編成されていた。


 他の国々がジャンケンやらくじ引きやら多数決やらで決めている中、揉め事も恨み事もないままメンバーは決まっていった。


 その決断をしたのは国家元首たる総書記――、黄大景であった。


 国家の一大事を決める戦いには、自らを含む与党のトップ十二人で臨むべきであるというのが黄の主張であり、彼を除く中国共産党中央委員二百四名と、与党のお飾りにすぎない野党の党員たちもそれに頷いた。


 今から二ヶ月前に周遠源が死んだ際、本来なら総書記の座につくのはナンバー2であった孫清明のはずだったのだが、孫はその決定を待たずして米国へと亡命してしまった。


 国民の怒りが爆発し、中国共産党解体の危機にある中で再び政治体制を立て直したのがナンバー3の黄であったため、彼の意見に逆らうものなど誰もいなかった。


 勿論、黄がこの選択をしたのは責任感や義務感からではない。


 この世で一番信頼できるのは自分自身であり、二番目に信用できるのが中国国内に多くの利権を持ち、どんな手を遣ってでもこのゲームに勝利したいと心から願っているであろう党幹部たちだからである。


 黄は党の幹部上位十二名で編成されたチームでなければ、活路は見いだせないと結論を出したのだ。


「攻撃を仕掛けますか。こちら十二人に対してあちらは三人です」


「こちらの居場所を報せるようなものだ。たった三人を潰すために我々十二人がリスクを背負う必要はない」


 袁からの問いに黄は腕組みをしたまま瞑目する。


 この炎天下でのダイビングスーツ着用は、普段から高級烏龍茶を愛飲し健康に気を遣っている彼からも着実に体力を奪っていた。


「こちらも散りますか」


「それはならん。君らを信用していないわけではないが、人間の本質として単独になれば心に弱さが生まれ、命惜しさに逃亡や敵に寝返ろうという考えに行き着く危険性がある。人間は死という恐怖に囚われた瞬間に最大の利益ですら用意に手放す生き物だ。だから私を含め我々は全員で行動を供にし互いを監視し合うべきだ」


「では、どう動きますか」


「彼ら三人に交渉を持ちかけよう。彼らのメンツを潰さないやり方でな」


 黄は笑った。糸のように細い目だが奥深くでは巨大な暗黒が渦を巻いていた。


 かつて中国共産党内部ではこんな陰口が流行していた。


 周遠源は知恵はあるが注意力がない。


 孫清明は勇敢だが思慮が深すぎて消極的だ。


 彼らの長所を併せ持ち短所を克服した人物こそ黄大景だが、彼には地位が少しだけ足りない。


 時流が状況を作り、運命がナンバー3だった黄をこの立場まで押し上げた。


 毛沢東以来の強力な指導者になり得る男、黄大景は世界終焉の危機的な状況においてその底力を覚醒させようとしていた。


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 米合衆国与党の若手下院議員――、エドガー・レジャーは、同期の議員であるトム・スペンサーと肩を並べながら歩みを進めていった。


 炎天下の峡谷で分厚いダイビングスーツを着用させられながら、ゲームと称した殺し合いに参加させられている今の状況を冷静に考えてみたが、質の悪いジョークか悪夢にしか思えなかった。


 汗が額から滝のように流れ出る。補給すべき水分など手に入らない状況に置いて一歩ずつ足を前に出すという単純な動作ですら自殺行為に等しい。


 エドガーは右隣のトムを見た。


 トムは地元に残した最愛の彼氏の名前を何度も呟いていた。彼はカミングアウトこそしなかったが、ゲイであることをエドガーや他の議員の前で隠すことはなく振る舞っていたため、次回の選挙ではセクシャルマイノリティであることを売りにして戦略を立てたらどうだと周囲からよく提案されていたものだ。


「なぁ、トム…」


「なんだいエドガー?…もしかして二年前の答えを今くれるのかい?僕はいつだってイエスと答えるつもりだ。許されるならそこの岩場の影で唇を貪り合い舌を絡めないか」


 トムは死の恐怖と肉体的な疲弊と許容をとっくに越えてしまった不安からか、淫乱な娼婦のように熱のこもった視線をエドガーに投げかけてきた。


「僕には妻子がいる。そして男性は恋愛対象にはならないし、信仰がある。というかこの状況でよくそんなことが言えるな」


「最後の瞬間まで釣れないね。でも自分の心に素直になることを咎められる筋合いはないぜ」


「君には愛する彼氏がいるだろう」


「彼氏…?…ああ…ケヴィンのことか…」


 トムは再びスイッチが入ったように、彼氏の名前を呟きながら歩みを進める。


「こりゃあ参ったな…」


 死は刻一刻とすぐそこまで迫っている。それを知りながらも歩みを止めることは許されない。


 まるで自分たちは十字架を背負わされてゴルゴタの丘を登らされる罪人のようだと夢想しエドガーは失笑した。


「君たち…すまない…本当にすまない…」


 背後では副大統領のミッチ・ニューマンが腰を屈めるようにして自分たち二人の背後をついてきていた。


「副大統領。あなたは悪くない…」


 では誰が悪いのか。エドガーはその答えをすでに持っていたが、今のこの状況でトンプソンへの恨み事を吐き出したところで意味がなかった。


 自分たちに国のために死ねと命じた大統領への怒りはさておき、米国を破滅に至らせる脅威がすぐそこに潜んでいるという事実と立ち向かわなければならなかった。


 死ぬのは怖い。死に至る傷を負うのはさらに怖い。だが今は歩みを進めるしかないとエドガーは絶望の中で自分を納得させた。


 少しでも中国チームの陣地に近づき、彼らに何らかのプレッシャーを与えるのだ。


 銃を握ったこともないであろう中国共産党幹部たちは出鱈目に自分たちを狙撃するだろう。


 願わくばそれが自分たちに被弾しないように身を屈めながら、背後に潜むミッチ・ニューマンに中国チームを殲滅してもらおうという戦法だ。


 はるか後方でその指示を出したトンプソンは、心の中で笑っているかもしれないが祖国に残した妻子のことを考えれば、ここで彼に逆らうことは得策ではないと了承するしかなかった。


「さぁ、来てやったぞ!」


 エドガーは威勢良く中国チームのテリトリーに向かって声を飛ばした。足下はガクガクと震えている。


「我々は、君を歓迎するわけには行かない!」


 中国チームの誰かが叫んだ。


 先ほどからちらちらと顔を見せるものの、攻撃すらしてこない得体の知れない東洋人たち――、中国チームは、すぐそこで自分たちの出方を観察しているのか、大きく動こうとする気配がない。


「どんどん進むぞ!」


 エドガーはその言葉通り歩みを進めた。自我の崩壊したトムと共に。頼みの綱は自分たちの背後に隠れている射撃の名手だという七十代の老人だけだ。


「ストップ!それ以上こちらへ来るな。その場で少しだけ話をしないか?」


 中国訛りの強い英語が、乾いた峡谷の隙間で響いた。


「黙れ!」


 エドガーは叫んだ。


「十二対三で我々の勝ちだ!我々の誰一人傷つけることもできないまま一方的に君たちは命を失う!文字通り無駄死にをするだけだ!残念だったな」


 その中国チームの警告にエドガーは心を折られそうになったが、大学時代にアメフトで培った精神――、すなわち、苦しいときこそ強がり自分を大きく見せなければならないとエドガーは向こうの岩山を睨み据えた。


「やってみろ!半数の六人は殺してやる!そうすれば前方の俺たち二人が死のうとも十対六になるぜ!我々の背後にいるミッチ・ニューマンは元ロサンゼルス市警から副大統領まで成り上がった人物だ!両手で数え切れないほどの凶悪犯を射殺してきた!スマホが使えないのが残念だな!ネットで彼の経歴を検索すればあんたらは震え上がるだろうよ!我々二人の屍を盾にして彼の射撃の腕前はここぞとばかりに発揮される!僕らはそのために死んでもいい!さぁ撃ってこい!!」


 不本意な発言。死ぬなどまっぴらごめんだった。我ながら臭い芝居だと思った。だがエドガーはなおも中国チームに警告を発し続けた。


「発砲すればその弾道で居場所が分かる!死にたい奴から撃ってこい!さぁ!さぁ!」


 中国チームからの返答がないのを良いことにエドガーはさらに二歩、三歩と中国チームの方へと歩みを進めていく。


 隣でトムは相変わらず恋人の名を呟き続けていた。彼が頼りにならない以上、エドガーはさらにプレッシャーを与え続けなければならなかった。


「そんなことをわざわざ言う時点で余裕がないことは明白なのだよ」


 野太い男の声が鳴り響く。声を張り上げるわけでもないのに通る声。おそらく軍人上がり。他人に指示を出す立場が長い人間だと言うことが体育会系出身のエドガーには肌感覚で理解できた。


「あんたは国家主席の黄か?周遠源のいなくなった椅子の上は生温かいだろうな!そうだ、あんたはあいつのクソを食ったのか?答えろよ」


 中国の元国家主席・周遠源がスカトロマ二アであった事は米合衆国の全議員の周知するところであった。反共産主義者への尋問、部下の忠誠心のテストとして周は自らの大便を大いに活用していたらしい。


「残念だがそれはないな」


 高笑いが峡谷に響く。


「やつのクソを食うはめになるのは、いつだって無能な連中だけだった」


 黄はなおも馬鹿笑いをしていた。おそらく上空のドローンはこの音声を拾い上げ、その内容を全世界に翻訳していることだろう。


 エドガーは向こう側の巨大モニターを見た。案の定、世界中の人々の顔がそこに映し出されており、今の黄の発言に顔を手で覆う者も何人かいた。


「そうか。ならば俺のクソを食らえ!」


 エドガーはレーザーガンを構え引き金を引く。


 大学時代に射撃練習場に通い詰めた実績が功を成して国家主席が隠れてあるであろう岩山の一角を砕くことができた。


 一瞬、射撃と着弾のタイムラグが大きいなという考えが頭をよぎったが、実弾とレーザーガンの違いなのかもしれないと思い直す。


「クソ食らえ!クソ食らえ!」


 禁止キーワードを叫びつつ二度、三度の発砲。全世界にどう通訳されているのか気になるところだが、命を懸けて戦っているエドガーとしてはそこまで気を遣うことができなくなっていた。


「交渉決裂か…残念だ」


 前方のあらゆる角度からレーザーがこちらへ発射される。


「うわ」


 エドガーは避ける間も与えられず足下の岩が飛び散るのを見た。


「次は身体を撃つ。しかし我々とて今ここで君たちの皮膚が破けて肉が飛び散り、骨と神経が剥き出しになるのを見たくない」


 中国の新しい国家主席――、黄は穏やかな口調で続ける。


「ここからは声のボリュームを抑える。ドローンでもとらえられないほどの声量で話す」


「なにが言いたいんだ」


 エドガーは不安と緊張と死の恐怖で目が霞むのを感じながら見えない敵に向かって叫んだ。


「君の家族はどこに住んでいる」


「言うつもりなどない!」


「言わずとも米国の議員の情報は大体この頭に入っている。失礼だが…君の家族の住まいは大都市ではなかったはずだ。ならば米国が負けても神の杖による核攻撃の直接的な対象にはならないな」


「どういう意味だ?」


「うまく立ち回れと言いたいのだよ。今からある交換条件を出そう」


「…ふざけたことを言うな…」


「このままゲームを進めれば間違いなく勇猛果敢な君たち三人は間違いなく命を落とす。我々が一斉に君たちに攻撃をしかけるからだ」


「その覚悟はできている…」


「ならば君たち三人が死ぬのは良しとしよう。だが君ら三人に前方を歩かせ背後で縮みあがっている残り九名の議員たちに我々十二名を殺せると思うのか。残り時間は五時間あるが長期戦に及ぶほど人というのは戦意を喪失してゆく。あらゆるネガティブな感情が心を浸食するからだ。君だってここに来るまでの短い道のりの中で死の淵にたたされ色々なことを考えただろう?」


 その問いにエドガーが応えることはなかった。冷や汗が顎を滴り落ちてゆく。


「君の国が敗北しようとも君の家族が核の炎で直接的に死ぬことはない。そしてさらに言えばここで君が英雄的敗者として振る舞えば国民の負の感情や危害が君の家族に向けられることもない…」


 黄は少し間をおいてから、こう結論を述べた。


「…君たち三人に捕虜になってもらいたい。もちろん見せかけの戦いの後でだ」


「なにを言っている」


「私たちは、あと約五時間以内に君たち米国チーム十二名を皆殺しにする予定で動いている。そうしなければ我が国が核の炎で焼き尽くされるからだ。だが君は今ここで死ぬべきではないと思う。君とて今すぐ殺されるより五時間の残りの寿命を楽しみたいだろう?さらにここで一つ大きな約束をしよう。中国チームがこのゲームの勝者に上り詰めた暁には君の妻子を亡命させ中国国内で安住の地を与えよう。だが今ここで君が勇敢な死を迎えて我々が米国に勝った場合、その約束はしない。君が捕虜になり米国チーム残り九名の戦意を失わせ、中国の勝利に貢献してくれた場合のみこの約束は効力を発揮する。この契約はそこのゲイの彼と副大統領にも適用するつもりだから、後ろめたさを感じる必要はないよ。どうせ米国は我々に敗北するのだ。だったらどう立ち回るべきか分かるね?スタンフォード大出身のエドガー・レジャーくん」


 中国の国家主席である黄は、トンプソンですら呼んではくれなかった自分のフルネームと最終学歴をその場で言い当てた。


「そんなこと…」


 闘争心が自分の心の中で萎れてゆくのをエドガーは感じた。


「お…おい、君…」


 副大統領のミッチ・ニューマンが背後からエドガーの肩を揺すってきたがエドガーはそれを無視した。


「任せてくれ。私の言うとおりに動いてくれれば映像的には問題ない」


 黄は薄ら笑いを浮かべた。


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 米合衆国・ニューヨーク市――。


 三十七歳、独身のリッキー・ヒルは摩天楼の雑踏の中で立ち尽くし、他の人々がそうしているように自らも巨大モニターを眺めていた。


 画面の向こうではトンプソン大統領をはじめとした米国チームが岩山に隠れながら中国チームの様子を伺ってる状況が映し出されている。


 一時間も膠着状態だったが、誰もなにも言わず野次すら飛んでいない。デスゲーム開始当初のざわめきは嘘のようだった。

 世界の終わりに余計な体力を遣いたくないのか、それとも絶望しているだけなのかは分からない。


 リッキーは缶コーヒーを飲みながら映画でも見るようにして成り行きを見守り続ける。


 大画面の向こう側では米国チームから副大統領を含む三人の議員が中国チームの陣地へと歩みを進めていたが、街は嘘のように静まりかえっていた。


 とある心理学者が言っていた。


 もしもこの現代に大規模な疫病が流行し、人々の濃厚接触を阻止することが唯一の解決策だったとしてもそれが適うことはないだろう――、と。

 人は想像を絶する恐怖や不安にさらされたときこそ、集団で身を寄せ合う生き物なのだ――、と。


 確かにその学説を裏付けるような光景が今、リッキーの眼前で繰り広げられている。


 今から五時間もしないうちに自国のみならず各国に地獄に核の炎が広がり、世界が終焉を迎えようとしているにも関わらず、自分を含め人々が最期に選択した行動とは、逃避でも諦観でもなく、ただただ大勢で集まり成り行きを見届けることだった。


 スマホやネットが使えない環境にも関わらず人々は示し合わせたように決まった場所に固まっている。


「この状況で暴動も略奪も暴行もさほど起きていない。俺たちの仕事は簡単な交通整理だけだ」


 雑踏で立ち尽くすリッキーの傍らでそう語ってきたのは友人でもあるニューヨーク市警のロバートだった。


「非番じゃないのか」


 リッキーは私服姿のロバートを一瞥した。


「非番もクソもない。今回の騒動で警察署はまったく機能していない。リッキー、お前の勤め先もそうだろう」


 リッキーは頷いた。仕事の日でもないのにネクタイにワイシャツ姿の自分を我ながら可笑しく思うがこの服装の方が落ち着くというのが本音だった。


 この騒動が勃発してから数日後にリッキーの勤める証券取引所は閉鎖された。


 今思えば最も忙しかったのはマイケル・ホワイトが全世界に向けて動画をアップした日だった。


 世界の終焉を前に会社を辞職するもの、無断欠勤をするものに加えて株式、債券市場の急激な暴落――。


 当初は海外のどこの国の口座が安全なのか、不動産がいいのかと情報を集める人々がごった返し、やがて彼らは資産をプラチナや金へ換金しようと走り回るようになっていた。


 やがて国内外で見られた各銀行の預金封鎖――。


 それらを解除しようにも決定権を握る議員たちはマイケル・ホワイトにより名指しで徴集され、辞職することも逃亡することも許されず、政府は本来の機能を全く失っていた。


「俺たちが忙しかったのはあの動画があがって数日間だけだ。米ドルがかみ切れ同然になって人々は物資を求め暴れ回った」


 ロバートは煙草に火をつける。


 非番のため彼を咎める者は誰もいない。ロバートの煙草の箱はシワクチャだった。きっとこの数日間、最期の煙草を大事に吸い続けていたのだろう。


「だがしかし、運命の日がやってきて一転、人々は穏やかになった」


 リッキーはロバートが差し出してくれたヨレヨレの煙草を受け取ると二十年来の親友の穂先から火種をもらった。


 しかし、我ながら情けない話だがむせてしまった。無理もない。ハイスクール時代に「割に合わない。非合理的だ」と禁煙してからまったく吸っていなかったためである。


「誰が言い出すまでもなく、署の奴らはこうして私服で動き回っている。しかも職務じゃないからと銃は携帯していない。学生時代のお前なら今の俺たちを見て非合理的だというだろうな」


 ロバートは吸い殻を踏みにじり笑った。リッキーは周囲を見渡す。


 確かにロバートの言うとおり街のあちこちに私服姿の警官が立ち、不安で座り込んだものの介抱や、渋滞するイエローキャブの交通整理に精を出していた。


「最後に残るのは正義だけ。お前は立派だよ、ロバート。お前を友人にもてて僕は誇りに思う」


 リッキーは無給で働くロバートたちを見て自分には到底まねできないな、と素直に思った。


「なぁリッキー。もし我々の国が中国の政治家十二人を皆殺しにしてゲームに勝ったとして、それは正しいことなんだろうか」


 巨大スクリーンの画面の向こうではエドガー・レジャー議員と中国共産党の幹部がレーザーガンを使わず殴り合いをしていた。


「さぁな。中国には核が落ちる。僕らは助かる。それだけだ」


 リッキーは勝っても負けても後味の悪いこのゲームの結末を想像して背筋が凍る思いがした。


「生き延びれば幸せなんだろうか」


 ロバートは遠くの空を見上げた。


 秋晴れの青空のさらに向こう側の宇宙空間では、最先端の技術を駆使した神の化身が死神の鎌を振り上げている。


「戦争とはそんなものだろう」


 リッキーは煙草を根元まで吸うと飲みかけの缶コーヒーの中にそれを落とした。火が飲み込まれるジュッという音がしたあと、煙草が缶の底まで沈んでいくのが分かった。


「愚かだったな」


「愚かだった。だが僕らは気づくのが遅すぎた」


 リッキーは俯いたままそう返した。


 つい最近まで不死隕石の所有を巡り世界は争い続け、本格的な第三次世界大戦の幕開けとまで囁かれるようになっていた。


 おかしな話ではあるが人々は自らの手で終焉の扉を開けるときは、その足許に深い沼が潜んでいることに気づかないものなのだ。


 リッキー自身、世界情勢が不死隕石の不安に揺れているとき戦争に反対でも賛成でもなかったものの、どの株価があがるのか不死隕石を有した国がどれくらいの利益を得るのか、そういった経済の動きしか追ってこなかった。


 愚かな行いを正すべく時を戻せるとしたら、人々はいったいどのような選択をするだろうか。考えるまでもなかった。


 だが、時は戻らない。

 冷然とした事実だけが変わらない事実と後悔をより深いものにしてゆく。


「ミッチ・ニューマン副大統領とエドガー・レジャー下院議員、トム・スペンサー下院議員が中国チームの捕虜にされたみたいだぞ」


 ロバートに肩を揺すられたリッキーは顔を上げると、羽交い締めにされたエドガー・レジャー下院議員の顔がアップで映し出された大画面を凝視した。


「かつて僕はエドガーに一票を入れた…彼の金融政策に賛同したからだ…」


 かつてない重圧が肩にのしかかってきた。


 これをきっかけにして米国が負ければ、過去における自分自身の判断が大量の米国人を死に至らしめたという事になる。


 リッキーは足許のコンクリートが形のない沼へと変わっていくのを感じた。


「気にするな。やつが捕虜にされたのはお前のせいじゃない」


 ロバートの慰めの言葉はもはやリッキーの耳には届かなかった。


「もう遅い」


 震える手で顔を覆う。リッキーは嗚咽した。


 先週別れた恋人や実家の両親に今から会いに行き、何という言葉で別れの挨拶を告げるべきか考え始めた。


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 中華人民共和国――。

 北京市――。


 空を穿つような超高層マンション最上階の一室――。

 十代後半の若者たちがそこかしこで死体のように折り重なっていた。


 鏡面のようなフローリングにはアルコールの海が広がり、グラスが転がり落ちている。


 大手外資系商社社長であるこのマンションの主の息子である謝偉卓は、今から数時間前までは同級生たちの乱痴気騒ぎにつきあっていたものの、彼らが慣れない酒で気を失った後は、白い革張りのソファの上で食い入るように大型テレビに見入っていた。


 画面の向こうでは中国共産党幹部からなる中国チームが米国チームの三名を捕虜にすることに成功していた。


「やった…敵の戦力を四分の三に減らした」


 まだ勝敗が決したわけではないが偉卓は自分の頬が弛むのを感じた。


「でも六時間以内に米国チーム十二人を皆殺しにしなければ双方の国に核爆弾が落とされるのよ。その場で殺せるのに捕虜にする意味が分からないわ」


「小鈴」


 甘い香りと共にやってきたのは、葉香鈴だった。


 彼女とは幼なじみだったが、こんな至近距離で会話するのは数年ぶりかもしれない。

 名前の一文字に「小」をつけた小鈴――、という愛称を呼ぶのも久し振りすぎて、我ながらイントネーションがおかしいと思った。


「いま彼ら三人を殺せば、逆上した九名が突進してくるかもしれない。まずは敵の戦意を喪失させること。そのためにはああやって生け捕りするのが最善なんだよ」


 偉卓の隣に座った小鈴は「でも…もし米国に勝ったとしても次の対戦国に負けるかもしれないじゃない。私たちいつか死ぬ運命なのよ」と不機嫌そうにワイングラスを傾けた。


 胸元が大きく開いたチャイナドレスは彼女の母親が若い頃に着ていたものらしい。偉卓は唾を飲み込みながら目のやり場に困った。


「君は家族と一緒に行かなくてよかったのかい」


「言ってたじゃない。人口の流れが移動すればそこに核を落とすって」


「中国は広大だ。どこかの山に散らばれば生き延びられる」


「黒い雨を受けて汚染された大地、川、海…生きながら死んでいくようなものよ。被爆して病気しても薬も病院もないのよ。なら今ここで死んだ方がマシ…」


 にべもない言葉。胸や腰元は大人のようでも、あどけなさが残るその横顔を見て、偉卓は彼女をこの「終末パーティー」に誘ったことを後悔した。


「…それより貴方のご両親は?」


「中国が敗けるとは思っていない。父は母と肩を寄せ合いながらすぐそこの仕事場で金塊を並べて成り行きを見守っている」


 偉卓は愚かなほどに強欲で、愚かなほどに中国共産党信者である父の顔を思い浮かべ肩を落とした。


「この国が勝とうともヨーロッパとは大陸が繋がっているのよ。いずれ風に乗って死の灰がやってくる」


 小鈴は笑った。


「今からでも間に合う。君は両親に嘘をついてここにいるんだろ?」


「両親が親戚の家についてもう十時間よ。もしも私を心配しているなら引き返してきてもおかしくない頃合いだわ。でもあの人たちは北京には戻ってこない。今、私を連れ戻して親戚の家に向かっても核の爆風から逃れられるかどうか保証がないし」


 タイムアップで核が落ちるとしてもあと五時間の猶予があった。しかし中国チームが十二名すべて米国チームによって殺されればその瞬間に敗北が確定され、この北京は消滅してしまう。中国の勝利を盲信している偉卓の父のような人間ならまだしも、いつ核爆弾が投下されるか分からない北京は危険エリアであり小鈴の両親がここへ戻ってくることに躊躇しているという理屈にも納得できる。しかし人の親として自覚があるならば実の娘を置いてどこかの田舎の山で身を潜めていることなどできるだろうか。


「なんで僕の誘いに乗ったんだい」


 偉卓はそこらで死んだように寝息をたてている同級生の姿を見た。有名大学の受験を控えていた優等生の彼らだが、その聡明さ故に世界の終焉を理解し、大人たちの手をふりほどいてこの場に集まったのだ。ある者は親に睡眠薬を飲ませ、ある者は親戚のいる田舎へ自分も向かうからと嘘をつき、そしてある者は何も告げずに家族の前から姿を消した。


 彼らは生まれて初めての酒を飲み、死ぬ前に童貞と処女を捨てようとしたがそれはうまくいかず眠りこけてしまった。


「さぁね」


 小鈴は煙草に火をつけた。煙を吸い込むふりをしているのは偉卓にも分かる。だが彼女の振る舞いを黙って見届けることが、小鈴の心の中にある何かを満たすことに繋がるような、そんな気がした。


「小夢には電話したかい」


 ここに来るはずだった同級生の娘の名を言った。


 小鈴の親友――、黄果夢は、中国共産党国家主席の一人娘だった。


「今、スマホは使えないのよ。何を言ってるの」


「それは分かってる。でもデスゲームが開始される直前までは使えただろう」


「繋がらなかった」


 小鈴は微かに不機嫌な色をにじませた。


「小夢が君と一度も顔を合わせずどこかへ逃げるなんて考えられない」


「連れ去られたのかも」


 小鈴の煙草をもつ指が震え始める。


「どうしてそう思うのさ」


「この騒動の少し前、白人の男たちが学校の周囲をうろうろしてたでしょ。デスゲーム直前に党員の家族まるごといなくなったという話も聞いたわ」


「まさか…米国…いや、ヨーロッパのどこかの国が?」


 あり得る――、と偉卓は思った。


 世界の終焉に中国の国家主席の娘を人質に取るいかれた連中がいてもおかしくはない。目的は分からないが、巨大な権力者の泣き所を押さえれば生き残る活路が見いだせると踏んでいるのだろう。


「誘拐されたのかもな」


「…分からないわ。でも、すべては憶測だし世界が終わることに変わりはない。事実なんてどうでもいい」


「じゃあ君は、世界が終わってしまうかもしれないのに…なぜここに?」


 偉卓は同じ質問をもう一度してみた。


「覚えてる?小学校のとき、貴方が私にかけてくれた言葉」


「覚えていない…」


 偉卓は嘘を言った。思い出すだけで顔が熱くなる。小鈴はそんな偉卓を見てくすりと笑った。


「私は昔から両親とそりが合わなかった。彼らは自分の地位を守るためにいつか私を共産党の幹部と結婚させようと、そういった教育をしてきたわ。私は高校を出たら両親を捨てると決めてた」


 あれは十年くらい前――。


 茜色に染まる空を眺めながら公園のベンチで泣いていた小鈴を思い出す。「私には家族がいないわ」と泣いていた。


「ならば僕が家族になるよ」


 偉卓は記憶の中の自分と同じ台詞を、数年越しに小鈴に言った。白い革張りのソファの上で二人は肩が触れるほど近くに座っていた。


「ありがとう。やっぱり覚えていてくれてたんだね」


 小鈴は唇を偉卓にそっと重ねてきた。微かなアルコールの香り。その柔らかな唇は震えていた。


「家族になろう。平和な世界で」


 その言葉にどんな意味があるのか意識していなかった。それは幻想に等しい妄言でもあった。そんなもの訪れるはずはないのに、ただただ有りもしない希望を偉卓は口にした。


 どこかの誰かがこの絶望的状況を救ってくれるかもしれない。


 それは中国共産党幹部ではない。このデスゲーム自体を帳消しにしてくれるようなヒーロー。


 そんなものは子供の頃に見たアニメや映画の中にだけしか存在しないと分かっているのに、それでも偉卓はそんな妄想にすがりつくしかできなかった。


「大好き…」


 小鈴は舌をねじ入れてきた。絡み合う唇の隙間から彼女の塩辛い涙が入り込んでくる。


 その時だった。マンションの呼び鈴が鳴った。


 世界が崩壊してからエレベーターは停止し、エントランスの自動ドアのロックも解除されたままになっているので来訪者は直接、この最上階まで階段を使って昇ってきたのだろう。何度も何度も呼び鈴を鳴らし続けた。


「ちょっと待ってて」


 父か母が忘れ物を取りに来たのだろうか。


 偉卓は猛った股間を隠すようにして前屈みの姿勢のまま玄関へ向かいドアを開けた。


「謝くん、急にすまない。小鈴はここにいるか」


 そこに現れたのは息切れした小鈴の両親だった。


「お父さん、お母さん」


 偉卓の後を追うようにして玄関にやってきた小鈴はその場に立ち尽くした。


「すまなかった…本当にすまなかった…小鈴…」


 小鈴の父は土足のまま駆け上がり娘を抱きしめた。


「私…偉卓と結婚するの。もうお父さんやお母さんの言う事なんて聞かないわ。私は自分の意志で好きな人と一緒になる…」


 予想外な娘の言葉に二人は目を丸くしたが、優しく微笑んだ。


「最期の瞬間を一緒に過ごしたいと思った相手が彼だったのなら、止めることはしないよ」


 小鈴の父は言った。


「私たち、最期の最後で…大事なものが何か分かったわ。だからあなたの気持ちも理解できる。偉卓くんはあなたにとって大切な人なのね」


 小鈴の母は泣いていた。


「お父さん…お母さん…私…死にたくない」


 小鈴はただの少女に戻っていた。


 偉卓は彼ら親子三人だけでも救われてほしいと願った。


 いや――。


 そこらで寝転がっている同級生たちにも同じように家族があったはずだ。そして愚かではあるが自分の両親でさえも今すぐこの悪夢から抜け出させてやりたいとさえ思った。


 もう少し深く考えれば、対戦相手である米国にも自分たちのような若者たちがいるはずだった。


 世界には七十億の人間がいるという。国家や政治家の一存によって死んでいい人間など、誰一人いないのだ。


 偉卓は目が醒めたように画面の向こうのデスゲームを凝視した。


「神様…」


 そんなものはいないことは知っている。いたとしても神が望んでいるのは人類の滅亡に違いなかった。この状況が雄弁にそれを物語っている。


「誰か…」


 ヒーローはいないのだろうか。


 どこの国にも尊い命があって、それぞれの幸せがある。


 この残酷なゲームを帳消しにしてくれるヒーローがいたならば、人類は過去の過ちを反省するに違いなかった。


 今繰り広げられている地獄絵図は七十億の人類が自ら進んで足を踏み入れたものと言える。ドールアイズは世界七十億の負の側面が生み出した悪魔なのだ。


 だが、もしも全ての罪を償えるチャンスがあったならば――。


 不死隕石を巡って対立する国々をニュースで見ながら武力で解決しろと浅はかなことを考えた自分を深く恥じているように、世界七十億は自らの考えを深く反省するだろう。


 だが時は戻せない――。


 ヒーロー。


 もしも存在するのならば、この悪夢を終わらせてください。


 何も考えず、愚かな政治家たちに未来を委ねてしまった僕らにもう一度チャンスを下さい――。


 偉卓はテレビ画面の向こう側で中国チームと米国チームが膠着状態で互いに睨み合っている様子を見ながら、なぜ自分たちの未来を彼らのような人間が握ってしまっているのか考え、絶望した。


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 永遠に続くと思えそうな長く険しい非常階段が続く。未だ新バベルの塔最上階は見えてこないが、十二名の男たちは先を急いだ。


 ウチキングのプロテクターを装着した有働はその重量のせいで足腰に負担がかかったが、恨み事など言えるはずもなく無言で殿(しんがり)をつとめる。


 一緒にやってきた誉田は有働よりも五メートルほど前方で階段を駆け上がっている。背格好といい世界の特殊部隊隊員に混ざっても遜色劣らない。その点、中肉中背の有働は一番小柄といえた。


「ヒーロー・ウチキングさんよ。外は大変みたいだぜ」


 有働は自分のすぐ前方をゆくドイツGSG9隊員が渡してきたポータブルテレビを受け取った。


 そこでは米合衆国と中華人民共和国の戦いが中継されていた。


 音量ボタンを最大限にすると中国の国家主席・黄大景がトンプソン大統領に向けて大声で叫んでいるところだった。


「副大統領ミッチ・ニューマン!下院議員エドガー・レジャー!同じく下院議員ム・スペンサー!我々はこの三名を殺さず捕虜とする!勝利するためにいつかは彼らを殺す事となるが、米国チーム諸君に彼らを救出するチャンスをやろう!まさか世界七十億が見守る中で、自国の勇敢な三人を見捨てるなどできるはずがないよな?くくく…そちら側からこちらへ進める兵士は一人までとする!それを破れば彼らを一人ずつ殺す…さぁ来るがいい!」


「汚いぞ!人質をとって我々を一人ずつ返り討ちにするつもりだろう」


 そう返したトンプソンの表情がアップになる。ダイビングスーツを纏った額からは汗が流れ落ち、ゴーグルは白く曇っていた。


「戦争とは策略だ!誰も私を責められはしない」


 黄は高笑いをした。


「くそっ」


 トンプソンは焦っているようだった。


「まずいな。トンプソン大統領は他人を追いつめることは得意だが追いつめられる事には慣れていない」


 有働の三メートル前方、CIAは祖国のピンチを音声を通じて知ることとなり舌打ちした。


「悪いが先を急がせてもらうぞ」


 CIAは自分よりもさらに前を駆け上がる各国の特殊部隊隊員を追い抜いていった。同じく米国人であるシールズ二人もそれに続く。


「おい、そのテレビ俺にも貸してくれ」


 GSG9隊員のすぐ前を駆け上がっていたイタリアのRIAM隊員が手を伸ばす。


 分割された画面の幾つかにはイタリアの政治家チームも無論含まれていた。米国と中国の対決だけに限らず、彼らの戦いの様子は均等に中継されているため、自国の運命を見逃すまいと彼は動いたのだ。


「誰か一人が代表でそれを観て、各国の様子を口頭で伝えればいいんじゃないのか」


 冷静な指摘をしたのは中国の部隊スノーウルフの隊員だった。


 位置関係で言えばRIAM隊員のすぐ前、誉田の後方にいる彼は、自国の政治家チームが優位的な状況にあるからなのか狼狽一つせず、テレビにかじり付こうとも政治家同士のデスゲームに自分たちが一切干渉できないと言うことを付け加えて主張した。


「そいつに同意だ。まず俺たちは最上階のドールアイズをしとめることを優先する。それができればそんなクソゲームさっさと終わらせられるからな」


 GSG9隊員は走りながら非常階段の隅に唾を吐いた。有働は汚いものを避けるように身体を横に傾けて階段を駆け上る。


 言うまでもなくこのGSG9隊員の祖国ドイツも只今デスゲームの真っ最中だった。先ほどポータブルテレビにメンゲルベルク首相が女だてらにレーザーガンを構えているところが中継で映し出されたばかりである。


「では私が中継された内容を口頭で伝える。音声は最大のボリュームにするから君たちの方でも音の情報を聞き逃すな」


 有働は仮面のヒーロー・ウチキングに扮している手前、紳士的な口調で前方の男たちにそう促した。


 そして次の瞬間――、非常階段もおよそ五十階に差し掛かろうと言うときだった。


 一瞬にして明かりが消え暗闇が男たちを包み込んだ。


「何事だ」


 韓国のKNRSWAT隊員が叫ぶ。


「今は動かない方がいい。暗視ゴーグルを持っている者はいるか?」


 フランスGIGN隊員は冷静沈着だった。


「ようこそ諸君」


 非常階段に鳴り響く男の声。


「その声は…ドールアイズ!やはり僕たちは罠にはめられていたのか」


 ロシア空挺スペツナズ隊員が暗闇の中で吼える。


「お前ら十二名のヒーローもどきの様子は、これから全世界に中継してやる。面が割れて不都合だろうが世界の終わりにそんなことを気にしている場合じゃなかろうよ。くくく」


「どうりでセキュリティが笊だと思ったぜ」


 GSG9隊員は悔しがった。


「君がこうして僕らに問いかけているという事は君はゲームがしたいんだろう?君はいつだってそうだった。自分が不利になるような要素を混ぜて緊張感を持ちながら勝利したい男だからね…」


 ロシア空挺スペツナズ隊員はなぜかこの状況にありながらも愉快だった。


「おいお前…ドールアイズのことをよく知っているようだな…」


「そりゃ当たり前さ…僕は過去に一度、ジョギング中に彼に殺されかけたこともある…」


 GSG9隊員の問いかけに、ロシア男は鼻で笑って返す。


「もう電気をつけろよ。この非常階段にだって実は小型監視カメラがついているんだろう?」


 ロシア男は暗闇の中のドールアイズに向かって、挑発的な口調で言った。


「ああ、その通りだ…ノーフェイス。貴様は特殊部隊隊員としての顔も持っているんだったな。ファイブフィクサーの生き残りも俺とお前だけだ。その決着も今日つけようじゃないか」


 その言葉とともに非常階段の電気が一斉についた。


 眩しさに目を細めながらも男たちはすぐ前方――、五十階の非常扉が開け放たれているのを見た。


 そして次の瞬間――。


 一足先に階段を駆け上がっていた米国人三人――、CIAとシールズ隊員二人の遺体がそこから転がり落ちてきた。


「頸椎が折られている…」


 自らの足許にまで転がってきた遺体を見て、誉田が言った。


 三人ともおかしな方向に首が折れ曲がっている。医学の知識がない誉田とて彼ら三人の遺体の状況を見てすぐさま死因を特定できるほどだった。


「これから先の非常階段の扉はロックする。最上階へ進みたいならばその五十階の扉から入り、堂々と正面エレベーターに乗って俺に会いに来い」


「ただじゃあ行かせてくれないよね」


 ロシア空挺スペツナズ隊員――、こと、ノーフェイスと呼ばれた男はドールアイズに問いかけた。


「無論だ。五十階で待機する十二人の刺客を倒さなければエレベーターには乗れない」


 ドールアイズは笑った。


「世界各国の格闘技の猛者たちを洗脳して凶暴化させてるとは聞いてたけど、こんな風に使うなんて君らしいやり方だ」


 ノーフェイスは笑いながら、いの一番に五十階の扉へと足を踏み入れた。


 有働や誉田を含む残り九名の男たちもそれに続いた。


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 暗闇に慣れ始めていた矢先の瞳に、目映い光が射し込む。


 広大な一室――、その脇にはリングやらトレーニングマシーンやらサンドバッグやらが置いてあり、奥の方にはドールアイズの言うように最上階まで行けるエレベーターが置かれていた。


 そして真っ白い光を浴びて立ちふさがる筋骨隆々な十二人の男たちの姿を有働たちは見た。


 彼らの背後には巨大モニターがあり政治家たちのデスゲームを中継していたがそれらはいったん中断され、目の前の十二名の男たちの名前と経歴を大きく表示しはじめる。


 ボクシング・ヘヴィ級世界チャンピオン――、マーカス・キャメロン。

 空手世界大会準優勝――、神倉護。

 ヨーロピアン柔術の達人――、ゲオルク・ヨナツ。

 シュートボクシング王者――、ヘンリー・オールドマン。

 ムエタイ王者――、パチャラ・メーキンタイ。

 テコンドー王者――、ユン・トコン。

 柔道オリンピック金メダル候補――、ラヴィル・シュルチャノフ。

 プロレス――、ダニエル・エッカート。

 カポエラの新星――、エドゥ・パッポエ。

 モンゴル相撲の元王者――、カーン・ホトクト。

 中国拳法の達人――、王洋。


「見てみろよ、あいつらの目を…正気じゃない。これならさっきの無残な死体を見ても頷ける」


 GSG9隊員が言うように男たちの目は血走り涎が垂れている。それはまるで狂犬のようだった。


 度重なる洗脳によるものか――、薬物投与による人格破壊によるものか――、はたまたその両方なのか。


 有働は男たちの中に見覚えのある顔を見つけた。


 その男は他の十一名の男たちに比べて知名度のない一般人であり「地下格闘技チャンピオン」とだけ称されていた。


「権堂、お前…」


 立ちはだかる男たちの中に盟友――、権堂辰哉の姿を見た誉田は、言葉を失っていた。


 有働は権堂がノアの救世会にスカウトされて新バベルの塔に滞在していることを誉田に言っていなかった。


 誉田が信じられないと言う顔で有働の方を見た。


 有働は誉田に黙っていたことを後ろめたく思ったが、幸いにしてウチキングの仮面をつけているので誉田にその動揺が伝わることはない。


 権堂と誉田がこうして向き合うのはいつぶりだろうか。


 タンクトップ姿の権堂は高校時代よりも筋肉が膨れ上がっていた。

 一方の誉田は太っていた。


 誉田はアロハシャツがはちれそうなくらい脂肪を蓄えていた。

 角界に弟子入りした一年目の若者と称しても違和感はない。だがしかし誉田は相撲の稽古を積んでいるわけではなく、ただただ肥満化しただけの体たらくである。


 両者の体つきに差があるのは一目瞭然だった。


「誉田…なぜお前がここにいるのかは分からないし内心、驚いている。だがお前が俺の前にいるという現実だけは変えられない。実はな、お袋がバベルの地下施設にいる。キリスト教のお袋を騙してここへ連れてきたんだ。俺はお袋を生かすためお前と戦わなければならない」


 権堂の目は洗脳されたそれではない――。覚悟を秘めた目だった。有働が権堂にかける言葉はなかった。


「ここは闘技場じゃない。ルールもない。一対一で戦う必要もない。侵入者はエレベーターを目指す。俺の駒はそれを阻止する。乱戦になるが見物だろう。さぁ中継スタートだ」


 ドールアイズの言葉と同時に画面が切り替わる。


 政治家たちのデスゲームの様子に差し込まれるようにして、この新バベルの塔五十階の様子が全世界に中継され始めた。


「ルールはないと言ったが俺はお前らに命令できる立場にあるのは分かるな?こいつら刺客にはお前らを素手で殺すように命令してある。お前らも最初は素手で戦え。場合によっては武器を使用してもいいがそれは戦いが白熱してからだ」


 武装していた七名の特殊部隊隊員たちは渋々、銃やナイフを床に放り投げた。


「俺が一番乗りでゴールしたら、お前らを差し置いてエレベーターのボタンは閉じさせてもらうぜ」


 先頭に立ったGSG9隊員が握り拳を作り、手前にいたテコンドーに殴りかかった。


 おそらく部隊の体術の他にボクシングをかじっているのだろう。

 ドイツ仕込みの右フック。

 テコンドーはそれを軽々と避けた。

 そしてテコンドーによる反撃――、華麗な足裁きが空を切る。


 テコンドーは正気を失っているが技と間合いの取り方は理性的だった。

 GSG9隊員の鼻先から鮮血が散った。


「痛てぇな、こら」


 すかさずGSG9はテコンドーの右顎にフックを当てた。

 テコンドーの王者ユン・トコンは後方へ吹っ飛び泡を吹いて気絶した。


 その矢先――、プロレスラーとモンゴル相撲の巨漢がGSG9に襲いかかった。

 GSG9は寸前でそれをかわす。

 二人の巨漢――、ダニエル・エッカートとカーン・ホトクトは正面衝突し宙に舞った。


 残りの特殊部隊隊員たちも各々、手短な相手と間合いを取り始めた。

 空手の達人――、柔道家――、シュートボクシングの天才――、中国拳法の達人――。ヨーロピアン柔術――。カポエラ――。ムエタイ――。


 ヘヴィ級ボクサーのマーカス・キャメロンだけがぽつんと残された。

 体育の授業でペアをつくれない虐められっこのように。

 お見合いパーティーで誰にも話しかけられない女子のように。


 命知らずの特殊部隊の隊員たちとて一際体格が大きく、厄介な相手とは交戦したくないらしい。


 情けない連中め――、と有働は思った。

 ヘヴィ級ボクサーと正面からやり合って勝てる勝算はないのは有働とて同じだった。

 だが、これはリング上のボクシングではない。

 ただの喧嘩だ。

 高校生活の中で、春日や久住、権堂たちとやり合ったようにやればいいだけの話だった。


「私が相手だ!正義のヒーロー、ウチキングだ!かかってこい!」


 ウチキングに扮した有働が名乗りを上げて、マーカスに突進する。

 中継されている全世界に自分がどのように映っているか想像もしたくなかったが、有働はウチキングを演じ続ける覚悟を決めていた。


「がるぐつんごるぐぁああああ!!!!」


 巨人を思わせる黒人ボクサーは頭上から拳を振り下ろした。

 まるで雷鳴のような一撃。

 有働はそれを紙一重でかわすと腰を落とし、ヘヴィ級ボクサーの股間に渾身の右アッパーをお見舞いした。


 常人なら悶え苦しむだろう。

 手応えもあったし睾丸の片方を粉砕したかもしれない。

 だが黒人ボクサーは意にも介さず、なおも獣のように拳を振り下ろす。


 体勢を整える前の有働は頭部を護るため、やむを得ず左腕でそれをガードした。鉄球を落下させられたような重さと衝撃が左腕に走る。


「ぐおぉう…っ…」


 激痛。有働は声を上げた。強化素材でできた鎧とはいえ、チェルシースマイルに痛めつけられた左腕に耐え難き痛みが広がった。


 傷口が再び開いたかもしれない。おそらく籠手の中は血で真っ赤に染まっているはずだと有働は感じた。


 ボクサーの右拳も勿論、無事じゃ済まなかった。拳の皮がめくれて骨が露出していた。


 だが、ボクサーはなおも呻きながらその拳を何度も振り下ろす。


「ぐるがるがぁあ」


 涎を煌めかせながらヘヴィ級ボクサーは大振りな一撃、二撃を有働に向かって振りかぶっった。


 まるで小さな竜巻がそこかしこで発生しているようだった。


 有働はボクサーの追撃をひょいひょいとかわすが、もしこれをまともに食らえば一撃で失神するだろうと確信した。


 そこいらの不良少年じゃ比較にならない速さと重量。

 空気をえぐり取る拳大の弾丸を有働はこれでもか、と避け続けた。


 そして後退した先、誉田と肩がぶつかった。正確に言えば身長差があるため誉田の腋のあたりに有働の肩がぶつかった。


「権堂め。手加減しやがらねぇ」


 誉田は目を腫れ上がらせ、鼻血を流している。


「この際、お袋がどうのこうのと大義名分はどうでもいい。メンツのためにお前を倒す。なぁ高校時代の決着をつけようぜ」


 権堂は粗野な風貌に似つかわしくない完璧な歯並びを見せて笑った。


「そうか。それなら納得だ」


 誉田もまた笑った。


「おい、お前。有働だろ」


 権堂は仮面をつけた有働に向かって言った。


 有働はそれに答えなかった。


「有働だよな?なるほどな…」


 権堂は再び、歯を剥いて笑う。


「誉田をノックアウトしたら次はお前だ。いつか決着をつける約束をしてたよな」


「なんだと」


 誉田が自尊心を刺激されたのか、怒りを滲ませた大振りな右拳を権堂に向けて繰り出す。権堂はそれを難なく避けた。


 同時にヘヴィ級ボクサーのマーカス・キャメロンの一撃が有働の額をかすめる。


 幸いにして脳震盪は起こさなかった。


 だが交戦中であるにも関わらず油断していた有働の――、ウチキングの仮面には亀裂が入ってしまった。


(こりゃ遠柴さんに合わせる顔がないな)


 有働の身につけている仮面とプロテクターは生前の内木が遺したウチキングのカラー原稿によるデザインと着彩を忠実に再現した一点ものだった。

 世界が大変な時期だというのに、アニメ会社の社長である遠柴は志の高いスタッフを集めてこれを制作してくれたのだ。


「ぐるがぁああ」


 白目を剥いたヘヴィ級ボクサーが有働の頭上に拳を振り下ろす。何度も、何度も。


 有働はそれを避けるが、これではキリがなかった。


 相手は薬物投与か何かで疲労も痛みも感じないらしい。リミッターが壊れてしまっているのだ。


 それならば機能的に肉体を破壊するしかないと有働は判断した。


 何度も何度も大振りな拳を振り回すボクサー。小柄ですばしっこいネズミを相手にするのは慣れていないのだろう。


 避ける。避けながら、有働はボクサーをある場所へと誘導した。


「こっちだ」


 有働は先ほど特殊部隊の隊員たちが放り投げた武器のうち、アーミーナイフを拾い上げた。


「がるがるあああああ」


 一撃。


 重い一撃が振り下ろされた。

 そして、鮮血。


 噴水のような血と共にヘヴィ級ボクサーの数億ドルの価値を有する右拳が真っ二つに裂けていた。


「すまない」


 仮面のヒーロー・ウチキングは呟く。


 天才ボクサー、マーカス・キャメロンは自らの腕力によって下方から突き上げられたナイフの刃先に向かって拳を振り下ろしていた。


 当然、ナイフは筋組織を縦に切り裂いて骨に深く食い込んでいた。腱が切れて黄金の右拳はぴくりとも動かなくなっている。


 恐怖を感じなくなった格闘家ほど脆弱なものはない。


 ブレーキを失った身体能力によって自らの肉体を損傷させてしまう結果がそこに待ち受けているからだ。


 マーカスはその場に倒れ込んだ。一度吹き飛んだはずの理性が戻ってくるほどの激痛だったに違いない。


 有働はすぐそこで気絶していたテコンドーの達人、ユン・トコン胴着をまさぐると、彼が下に着ていた白シャツを破き、マーカスの真っ二つに裂けた右手を思い切り縛り止血した。


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 全世界に政治家たちのデスゲームと並行して有働たちの戦いは中継され続けていた。


「ウチキングとかいうコスプレ野郎がマーカス・キャメロンを倒した!」


「しかも手当てまでしてるし。いいヤツっぽいな」


「彼らがドールアイズを倒してくれれば世界は救われるぞ」


 戦場となったこのフロアに置かれた大スクリーン越しに一進一退の様子を見ながら七十億人が息を呑んでいるのが伝わってくる。


 権堂と誉田は殴り合いを続けていた。


 誉田はかつての勘を取り戻したらしく、権堂に多少の傷を負わせており権堂自身の表情にも余裕がなくなっていた。


 そして頸椎を折られて死んでしまった米国の刺客三名を除く七名の特殊部隊隊員たちも、気絶してしまったボクサー、テコンドー、プロレスラー、モンゴル相撲を除く七名とちょうど一対一の形に収まり、各々戦いを繰り広げていた。


(今のうちに俺だけでもエレベーターに乗るべきか)


 がら空きの正面エレベーターをじっと見つめ有働は考え込む。


「おい、そこの仮面ヤロウ。暇ならモニターを見てみな」


 モニター越しにドールアイズが話しかけてきた。


 画面いっぱいに映し出された政治家たちのデスゲーム。見る限り、まだ誰一人死んでいる者はいないようだった。膠着状態というべきか。彼らは銃を互いに向けあいながらも交渉に次ぐ交渉でお茶を濁しているようだった。


 ドイツ首相のメンゲルベルクは韓国のペク・ウニョン大統領と岩山越しに英語で互いを罵倒しあっているようだった。


 ロシアのプチョールキン大統領はイギリスの首相と舌戦を繰り広げつつも互いのチームに死者を一人も出していなかった。


 他の国々も罵倒しあうならいざ知らず、互いに怯えて一歩も動けずにいる政治家たちが殆どであった。


「覚悟を持って殺し合いもできないような連中が自国の兵士を束ねていたわけだ」


 ドールアイズは皮肉めいた口調で言うが、結果として全世界七十億の思うところを代弁していているに違いなかった。


 続いて全世界の主要都市――。小規模都市をモニターは俯瞰で映し出す。


 唖然とした七十億の人々は空に向かって祈りを捧げるでもなく、目の前の出来事を受け止めるに精一杯と言った感じだった。


「過ちに気づいても、もう遅い」


 笑い声とともにドールアイズの顔が再びモニターに映り込む。


「そっちの七人とこちらの七人…差がついてきたようだな」


 特殊部隊隊員たちはファイティングポーズをとりながらも息切れし、誰も彼もが流血していた。


 一方の格闘家たちと言えば、白目をむいて獣のような声を発しながら技を繰り出している。


「奴らには特殊な薬物を与えている。夜が明けるまであの調子だ。そろそろ勝敗も決するだろう」


 男たちの肉と肉がぶつかり合う音がそこかしこでこだまする。


 次の瞬間――、イタリアのRIAMがムエタイ王者の蹴りをまともに食らって倒れた。鼻はひしゃげ、歯が床に散らばり流血が広がっていた。


 それに続くようにしてイギリスのS.A.S.隊員――、フランスのGIGN隊員――、中国のスノーウルフに韓国のKNRSWAT、イスラエルのサイェレトマトカル隊員までもが次々に膝をつき、とどめを刺されていた。


 残されたドイツのGSG9隊員もロシアの柔道重量級金メダリスト候補に捕まり全身の骨を砕かれ倒れた。


 彼ら全員死んではいないだろうが立てるようになるまでには相当のリハビリを要するだろう。


「さぁ、残るのは――」


 ドールアイズはモニター越しに人形のような青い目を光らせていた。


「ふふふ。僕を嘗めないことだな、ドールアイズ」


 ロシアの空挺スペツナズ隊員であり――、ファイブフィクサー・ノーフェイスであると先ほど正体をばらされた男が血を流しながらも笑って見せる。


「幼少期から特殊訓練を受けていた僕はこの新バベルの塔の空調設備にだいぶ前から侵入していた。それがどういうことか分かるか?ドールアイズ…」


 ノーフェイスは懐から小型リモコンを取り出す。


「…これを押せばこの建物は爆破される。君の愛する信者も財産も、君自身の命すらも一瞬にして瓦礫の中で押しつぶされる」


 有働は肝を冷やした。


 ノーフェイスと呼ばれる男がどこまで本気なのかは分からない。だが自ら絶望的状況の中で死ぬくらいならば全てを道連れにするという考えは理解できた。


「このスイッチを押されたくなければ、神の杖を僕に渡せ」


「ふざけるな。ロシアが世界を征服するのと今の状況とじゃ大差はないだろう」


 ドールアイズは画面越しに大笑いする。


「デスゲームも終了し七十億人も救われる。それだけでも差はあるだろう。僕にとっちゃ他人の命など関係ないんだが…愚かであろうとも人間がたくさんいてくれなくちゃお金儲けをできなくなるもんでね…へへへ…」


 勝利を確信した男の顔だった。


 やがて人質にされているゴッドスピード家、シュミットバウワー家の当主が映し出され――、ノーフェイスに資金援助をしていたシュミットバウワー家当主が下品な笑みを浮かべて「よくやったぞ」と言った。


「さぁ。脅しじゃないぞ。まずは一階から爆破してやろうか」


 ノーフェイスは滝のような汗に濡れながら笑う。おそらく出血量が多く目が霞んでいるのだろう。残された時間が少ない以上ノーフェイスが必要以上にドールアイズにプレッシャーをかけるのも頷けた。


(一瞬だ。一瞬の隙があれば…リモコンを奪えるんだが)


 有働は仮面の中で額から汗がしたたり落ちるのを感じた。


 距離にして四メートル。


 しかし有働とノーフェイスとの間には数名の気絶した特殊部隊隊員たちが転がっているため、足場は悪かった。


「やってみろよ。そんなもんとっくに取り除いてある」


 ドールアイズはにべもなく答えた。


「え?」


 ノーフェイスは目を丸くした。


「そんなわけ…えいっ、えいっ……えいっ…あれっ?…あれ~?」


 ノーフェイスはスイッチを何度も押したが、この建物のどこからも爆発音は聞こえてこない。


「そ、そんな…」


「侵入に成功したと思いこんでるようだがお前は俺が招いたんだ。他の奴らも同じだ」


「さすが千の目を持つ男…僕の負けだよ…」


 ロシアのフィクサーこと、ノーフェイスは早々に白旗を揚げた。


「そこのロシア野郎を殺せ」


 七人の格闘家たちはノーフェイスに一斉に取り囲む。ノーフェイスは震えながら両手を挙げた。


「こ…殺さないでくれ…僕はプチョールキンに命じられてここに来ただけなんだ…」


「趣味でやる諜報員ごっこの域を越えてしまったのが仇となったな…ノーフェイス」


 涙顔のノーフェイスをドールアイズは容赦しない。狂犬じみた七人の男たちはノーフェイスの四方からゆっくり距離を縮めてゆく。


「待て。彼はすでに戦意喪失しているだろう」


 有働は言った。


「これは殺し合いだ。そこで気絶してる特殊部隊隊員どもも殺す」


 ドールアイズは画面越しに冷酷な笑みを浮かべた。


 有働は仕方なく構えを見せる。


(一人で七人相手はきついな)


 そう思った瞬間――。


「やめだ!やめだ!」


 誉田と交戦中の権堂が大声を上げた。


「俺は今からこちら側につくことにした!」


「どういう意味だ?権堂」


 誉田は困惑顔で握り拳の構えを崩さない。


「うちの母はクリスチャンだ。ドールアイズ!お前の神には従えねぇ」


「権堂…」


 誉田は目を丸くして構えの姿勢を解いた。


「こんな機会がなきゃこいつとも遊べないからとふざけてたが、ハナっからお前の手下になったつもりはない!」


 権堂は血の固まりを床に吐くと首の骨を鳴らした。


「ユダめ」


 さすがに腹心による裏切りは予想になかったのか。モニターの画面越しにドールアイズの表情が歪む。


「こんな豚になった誉田すらノックアウトできない…有働…お前と遊ぶのもだいぶ先になりそうだ」


 権堂は仮面の有働に向かって小声で言った。


「お前らグルだったんか」


 誉田がしてやられた、という風に頭を抱える。


「この新バベルの塔の手引きをしてくれたのは誰でもない、権堂さんです」


「それにしても有働、どうしてそんな仮面を」


 権堂は不思議そうに有働の方を見た。


「内木が生み出したヒーローの姿で戦うことに決めたんです」


 モニターの向こう側――。


 都市部に集まった世界中の人々は、政治家のデスゲームの様子と平行して有働らの戦いぶりを固唾を飲んで見ていた。


「ウチキングー!」


「ウチキングがんばれー!!」


「ウチキングかっこいい!!!」


 有働が何度も名乗ったおかげで「ウチキング」の名前は世界中に浸透したらしく、慣れない発音で世界中の子供たちが叫んでいる映像がモニターで流れている。 


 やれやれ、と思いながらも有働はそれに応えるように生前の内木がデザインしたウチキングのヒーローポーズをとった。


「権堂、そして…誉田と言ったか、それと他に仮面をつけたチビ…ウチキングとやら。そっちは三人。対してこちらの駒は七人。一番強かったマーカス・キャメロンが戦力外になったといえ、そこの七人は薬物で実力以上の戦闘力を有していることを忘れるなよ」


 画面越しに青い目がこちらを凝視している。


 有働はドールアイズの纏う空気が明らかに変質したのを見逃さなかった。


「お前ら。正気を失ってるとは言え俺の声は聞こえているだろう。そこの三人を殺せ。いいか?倒すのではなく、殺せ。これは命令だ」


 七人の野獣が吠えた。


 そして有働、権堂、誉田の三人に向かって一斉に飛びかかってきた――。


「やれやれ」


 権堂の目つきが変わる。


「こうして三人で喧嘩するのは久しぶりだ。半グレ相手に中野のコンサート会場で暴れた以来か」


 誉田は四股を踏んだ。


「全員で生きて帰りましょう」


「もちろんだ。お前は必ずドールアイズを倒せ。いいな」


 権堂は有働の肩をたたく。


 三人は、四方から飛びかかってきた七人に向かってそれぞれ拳を繰り出す。


 かつて格闘家だった七人だが、時間の経過と薬物の影響からか各々のルーツである体技からはかけ離れた、獣じみた攻撃へと変わっていた。


「これじゃあ、却って攻撃を読めねぇ」


 拳を避けられた誉田が恨み言を漏らす。


 路上で格闘技の有段者がズブの素人相手に不覚をとることがあるという。


 どこから飛んでくるか分からないパンチ――、非合理的なデタラメな蹴り――、不規則な呼吸に乱れた間合いの取り方――。


 皮肉なことにエリート級の格闘センスと肉体をもった七人が、それぞれのテクニックを身につける以前の――、原始的な所作に戻ってしまった今、有働たちが野生の狼たちを相手に戦うような苦労を強いられたことになるのは必至だった。


「痛みも感じない。恐れも感じない。だからと言って俺たちはこいつらを殺すことはできんからな」


 権堂は手前にいた空手の黒帯に右ストレートをお見舞いしたが、そいつはそれを避けもせず顔面で受け止めて権堂の右腕にからみついた。


 焦る権堂――。


 空手の達人――、神倉は権堂の懐に潜ると、まさかの背負い投げをした。


「こいつ…本能だけで!」


 権堂の叫び。神倉は右足を高く振り上げ権堂のわき腹の骨を踏み砕いた。


「ぐぉっ!!!!」


 鈍い音。固いものが粉砕される音が、この広大な一室に鳴り響く。


「権堂っ!!!」


 誉田が神倉の背後から襲いかかり、バックドロップをお見舞いした。


 神倉護が脳震盪をおこして泡をふく。


 すかさずカポエラマスターの細身の黒人が誉田の方へ飛びつき、それに重なるようにしてムエタイ王者のタイ人も飛びかかっていた。


「てめぇら」


 権堂は脇腹の痛みに耐えつつ起きあがろうとするが、四人の獣が権堂の方へ一斉に飛びかかった。


 有働の正面にいた連中は権堂と誉田の方へ飛びかかっていたので、有働は対戦相手を失い、権堂か誉田のどちらに加勢すべきか一瞬、迷った。


「権堂の方へ行け!」


 やつは怪我をしているから――、という誉田の声とほぼ同時に有働は権堂の方へ向かっていた。


 四人の獣が投げ飛ばされる。権堂は力を振り絞って彼らをはねのけたのだ。


 権堂は血を吐いていた。折れた肋骨が内蔵を傷つけたに違いない。


「私が相手だ!!!」


 ウチキングのポーズを大きくとり、有働は起きあがろうとする四人の気を引いた。


「さぁ来い!!」


 有働は一斉に飛びかかる四人の動きを読んだ。

 コインが地面に落下するとき、その軌道を読むようなものだった。


 神経を集中する――。


 四人はこちらへ向かっている。中心にいるのは俺だ。

 全員の顔はこちらへ向いている。


 有働は跳躍し、まずは一人目――、ロシアの柔道家ラヴィル・シュルチャコフの膝に乗っかりその顔面を拳で砕く。


 そしてバック転の要領で軽やかに自分の背後から襲いかかる中国拳法の達人王洋の細い鼻柱を上から膝を落下させ砕いた。


 そして三人目――、地面に着地した有働はシュートボクシングのヘンリー・オールドマンの膝をねらって低い姿勢の状態で蹴りを繰り出した。ヘンリーは自重でバランスを崩す。


 そこから床に倒れ込むヘンリーの顎を膝で蹴り上げ――、

 残る一人――、ヨーロピアン柔術の達人ゲオルク・ヨナツの分厚い筋肉の鎧で固められた鳩尾を渾身の右ストレートで打ち抜いた。


 時間にして二秒弱――。


 最後に倒したゲオルクの胃液が宙を舞う。

 薬物ばかりでろくな食事も与えられていなかったのだろう。血の混じった胃液が床にこぼれ落ちるのを見た有働はそれを俊敏な動きでかわした。


 そして有働は誉田の方を見た。

 誉田は自らに覆い被さってきた二人のうち一人――、ムエタイのパチャラ・メーキンタイを殴り倒していた。


 残った一人――、カポエラマスターのエドゥ・パッポエが誉田の背後から襲いかかろうとしていたとき、権堂がそいつの背後から両腕をその首に絡めチョークスリーパーで落とした。


「やったな…これで…十一人…全員だ…」


 ぜぇぜぇと息を切らす誉田。脇腹の痛みに耐える権堂。


 有働に関しては二ヶ月前にチェルシースマイルにやられた左手が動かなくなっていたが、なんとか大きなダメージは負っていなかった。


 ウチキングの強化プロテクターで武装したグローブを用いて素手の連中を倒したことになるが、この不自由な左腕を鑑みてそこは大目に見てもらいたいところだ。


「時間の経過とともに奴らの動きは鈍くなっていた…それが俺たちに幸いした…ドーピングは諸刃の刃だな…」


 権堂はモニターの向こうのドールアイズを睨む。


「見ての通り手下は殲滅した!!最上階へゆくぞ!!ドールアイズ!!」


 有働――、もといウチキングは叫んだ。


「そうこなくちゃ面白味がねぇ。いいだろう。上ってこい」


 正面エレベーターが自動で開く。


「あんたもいくか」


 権堂の呼びかけに、膝をついて震えたままのノーフェイスは首を振った。すでに戦意を喪失しており先ほどまでの不敵な笑みはどこかへ消え去ってしまっていた。


「ドールアイズを侮らない方がいい。奴は君たちの姿を見せて世界七十億につかの間の希望を見せているのさ。それは何故かって…?これから七十億人を絶望させるための前振りだからだよ」


 ロシアのフィクサーと呼ばれた男――、ノーフェイスは震えながらそう忠告してきた。


 彼の言うようにモニターの向こう、世界の主要都市では有働ら三人の奮闘を見ていた人々が拍手喝采しているのが映し出されていた。


「君はウドウ…ウドウツトムくんだね。実は最初の方ですでに気づいてたよ」


 消え入りそうな声の問いかけに仮面の有働は否定も肯定もしなかった。


「中国共産党クーデターに一枚噛んでいた日本の高校生…君はそれ以前にもいくつかの小さな事件に首をつっこんでは解決していたらしいね。チェルシースマイルを倒した少年とやらに興味があって、僕なりに色々と調べた」


「なにが言いたい」


 有働の仮面のシールド越しの冷たい視線をノーフェイスは物ともせずにこう続けた。


「君が今から向かう先には、これまでと比べものにならない敵が待ちかまえている…それを忘れるな。なにせ彼は全世界を太陽にしてしまうほどの核兵器を所持しているんだからね。さらに言えば彼は世界七十億の滅亡を望んでいる…君たちは狂人ドールアイズによる破滅のシナリオの脇役でしかないのさ」


「ひとついいか。私は有働ではない…ウチキングだ。ウチキングは世界を救う…負けないヒーローだ」


 有働はそう言うとエレベーターの開かれっぱなしの扉に向かって歩き出した。


 権堂と誉田もそれに続く。


 三人が足を踏み入れると、エレベーターの扉は静かに閉まった。


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 エレベーターの中はひんやりと冷えていた。戦いを終えた三人の体温と汗を冷ますにはちょうどいい空調だった。


 機会音声が最上階である百五十階到着までに要する時間を告げ「それでは天空のひとときをお楽しみください。神は人類を再び束ねる」と言ってから沈黙した。


「本当にこれでよかったんですか権堂さん」


 仮面の有働は小声で訊ねる。


 備え付けのモニターでは政治家たちが微動だにしないデスゲームの様子が映し出されており、エレベーター内の様子は中継されていないようだが念には念を入れて声のボリュームを抑えた。


「元からそっちにつくつもりだった。演技なんてガラじゃねぇからよ。ただこんな機会じゃなきゃ、お前らと遊ぶこともねぇし」


 脇腹の痛みに耐えつつ、脂汗を流しながら権堂が答える。


「あれは絶対、俺が勝ってたぜ」


 誉田が二人の会話に割って入った。


「なんだと」


 呆れたように権堂が返す。


「ブランクを差し引いても俺が押してたぜ、権堂よ」


「はっ、よく言うぜ。お前の腐りきった生活は噂に聞いてたし今回ここにお前がやってくるとは思わなかったほどだ」


 得意そうな誉田の出っ張った腹を、権堂は拳で軽く叩いた。


 かつては阿吽のように、風神と雷神のように並び合った二人は等しく筋骨隆々な肉体をしていたが、渡米後に過酷なトレーニングを積んだ権堂と、高校卒業後、就職もせずに怠惰な生活を続けていた誉田では一年もしないうちに差がついてしまったことが体型の差に如実に現れていた。


「もう一回やるか?」


「いや。いい。お前は脇腹いってんだろ」


「じゃあ帰国してからだな。有働、お前もだぞ」


 権堂は脇腹を押さえつつ屈んだ姿勢で笑いながら言った。


「お母さんのこと心配ですか」


 権堂は元より有働に協力する前提で新バベルの塔に滞在することを決意していた。そしてドールアイズにスパイだと気づかれぬよう自分の母親を新バベルの塔に呼んだという経緯がある。


 ドールアイズの味方にならないまでも自分が新バベルの塔に侵入成功した際、敵のふりをしたままでいてもらっていいと有働は言っていたのだが、権堂は世界中継の最中で堂々と反旗を翻した。


「いくら奴でも今すぐうちの母親をどうこうすることもねぇだろう」


 権堂はにべもなく言った。


「でも」


「お前なら信じられる、有働」


「権堂さん」


 権堂の突き出した拳に、有働も軽く拳をぶつける。


「世界七十億を救ってくれ…そしてあの馬鹿のことも…計画がうまくいくといいな」


 権堂は笑った。


「計画…?ドールアイズをぶっ倒す計画のことか…?」


「まぁな、有働に聞け」


「俺だけ蚊帳の外かよ?…まぁ、小難しいことを聞いても頭がパンクするしお楽しみは後にとっておくタイプだから不満はねぇがよ」


 何のことか分からないままの誉田も、二人の突き合わせた拳に、自らの拳を当てる。


 これは権堂と誉田の和解以来、何度かやりとりされた光景であったが、三人の誰一人欠けることなくここを出るという覚悟と誓いがそこにはあった。


「やろうぜ。メンツにかけてよ」


「やるか…終わったらリポリンに会いてぇな。もうじき俺のガキも産まれるし就職もしないとなぁ」


「まぁ…とにかくやりましょう」


 必ず世界七十億人は救ってみせる――。

 ノアの救世会などという巨大犯罪組織は今日限り壊滅させてやる――。


 そんな思いが最上階に到着するまでの間、三人の拳を突き合わさせていた。


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 新バベルの塔・最上階――。


 エレベーターの扉が開くと同時に、白を基調とした無機質な空間がそこに広がっていた。


「これが神の部屋か」


 誉田は苦笑する。


 天井の中央にはノアの箱舟をイメージさせる巨大なステンドグラス。チェスの盤面を思わせる大理石でできた幾何学模様の床。四方の壁にはドールアイズの母親と恋人を模した銅像が様々なポーズで立ち並び、異様な空間を醸し出していた。


「ようこそ諸君」


 ヴェルサイユ宮殿の列柱回廊を思わせる荘厳な造りのこのフロアの突き当り――、NASA顔負けの巨大衛星モニターをバックにドールアイズはソファに腰かけていた。


「戦う前に言わせてもらう。今すぐゲームを中止しろ」


 有働は遥か五十メートル離れた敵に向かって説得を試みた。


「これは世界の仕組みだ。止められない」


 ドールアイズはにべもなく返す。


「こいつは言ったって無理な人種だ。拳で分からせないとな」


 誉田が一歩前に出た。


「おい待て」


 権堂は誉田を止めるが先ほど神倉に踏み抜かれた脇腹の痛みに耐え、立っているのがやっとだった。


「権堂、お前は寝てろ」


「三人同時でもいい。かかってこい」


 愉快そうに笑う青い目。誉田がさらに一歩前に出ようとすると権堂は誉田の襟首を掴んだ。


「三人で囲むなんてだせぇマネはできない。俺から行かせてもらうぜ。こいつをここまで野放しにした俺にも落ち度はある」


 誉田が止めようとする中、権堂は口元の血を拭いドールアイズのほうへ近づいた。


「思い上がるなよ権堂。お前ごときには何もできない。お前は英雄でも悪役でもない。中途半端な野郎だ」


「口喧嘩が趣味か?拳で説き伏せてみろや…」


 権堂は脂汗をかきながらドールアイズのほうへ突進する。


「権堂!!」


「権堂さん」


 誉田と有働が叫ぶ。


 ドールアイズはソファからゆっくりと立ち上がると構えを見せた。特定の流派はなさそうだが隙のない構えだった。


「くらえ」


 権堂が大ぶりなナックルをお見舞いをする。ドールアイズは軽々とそれを避けた。


「愚かだな」


 ドールアイズは右の拳を権堂の脇腹に当てる。容赦ない攻撃。権堂が血を吐く。


「母親も見てるぞ」


 巨大モニターが切り替わる。ノアの救世会信者に交じり東洋人女性の顔がクローズアップされた。祈りを捧げる権堂の母の顔だ。


「おふくろ…」


 権堂はそれを見て床に沈むのを踏みとどまった。


「以前の俺とは違うぞ、権堂。覚悟が違う」


 ドールアイズは左肘で権堂の顎を射抜いた。


「ぶっ」


 舞う血飛沫――。


 権堂辰哉は白目をむいて卒倒した。


「くそっ!次は俺だ」


 誉田が飛び出す。解き放たれた獣のように。


「攻撃が雑だ」


 ドールアイズは誉田のアッパーと膝蹴りをのらりくらりとかわし続ける。疲労しているせいか誉田の攻撃は精彩を欠いていた。誉田はなおも食らいついた。


「くだらん」


 ドールアイズは右拳を誉田の鳩尾にめり込ませる。


 誉田が胃液を吐く。


「権堂よ…お前がさっき手を抜いてたのは知っていた。俺も同じように殺す気ではやれていなかったしな…だがドールアイズ…お前に対しては殺意がわくぜ」


 気絶した権堂の隣に仰向けに倒れこんだ誉田は両手を床につけて立ち上がろうとした。


「誉田虎文…地元の奴らの顔を映してやろうか」


 ドールアイズが義眼をグルリと動かすと小喜田内市の様子が映し出された――。大きなモニターが据え置かれた駅前のショッピングモール。


「頑張れ!誉田さーん!!」


 十時間以上の時差――。真夜中の小喜田内市には地元住民のほか、権堂組、誉田組の連中が大きなカタマリになっていた。


「おめぇら…」


 誉田は後輩たちの顔を見て力強く立ち上がる。


「無駄だ」


 ドールアイズはよろよろと立ち上がった誉田の後ろ髪をつかむと、右膝をその顔面にめり込ませた。


 誉田虎文が顔を歪ませて仰向けに倒れる。


「誉田さん」


 有働は誉田のもとへ駆け寄った。


「…あとは頼むぞ…」


 誉田の鼻はひしゃげていた。前歯も折れていた。誉田は有働の手を握ると気絶した。


「私が相手だ!悪党!」


 有働はヒーローポーズをとった。生前の内木がデザインしたイラストのままの恥ずかしいポーズだった。


「そうか、お前が…」


 ドールアイズは有働――、ウチキングの姿を見ると数秒間、凝視した後で笑った。


「その二人は遊びで相手したが、お前だけは殴り殺す…殴り殺さなければならん」


 ドールアイズはソファに戻り、傍らに置かれていた鉄球のようなものを持ち上げ、片方ずつそれに手を突っ込んだ。


「こいつは攻撃、防御共に優れている。通常なら棍棒の先端につけるんだが、俺は拳で戦うタチなんでな」


 ドールアイズの両手には――、複数の棘が突き出した鉄球式グローブがはめこまれていた。


 正式名称――、モーニングスター。


 その大型鉄球に配置された放射状の棘は、攻撃された者の鎧を突き破って内臓に突き刺さり、顔面に大きな穴を開ける。


 モーニングスター古代から使用される原始的な殴打武器であり、刀剣や槍よりも致命的な打撃を与えられることで知られており、古くは西アジア、中国、中央アジアおよび中世西ヨーロッパの戦争、近代においては第一次世界大戦の塹壕戦において無音武器として重宝されていた。


「ウチキング。お前はプロテクターを身に着けている。これで平等だよな?くくっく」


 ドールアイズの両手にはめられた武器の殺傷能力は絶大だった。鍛え抜かれた腕力も相まって、ひとたび当たればウチキングの仮面を粉砕し、鎧をも突き破るに違いない。攻撃してもあれでブロックされれば拳や足が砕けるだろう。


 有働は唾を飲み込んだ。


「さっきから会話で出てきてる名前と権堂との因果関係で、ネットワークにアクセスしたらお前のことがよく分かった。ツトム・ウドウ…」


 ドールアイズは囁くような低い声で言った。


「何が言いたい」


「戦いの書――、光の子と闇の子を読んだことはあるか」


「知らない」


 有働はにべもなく答えた。ドールアイズは興を削がれたのかそれ以上それについて言わなかった。


「お前と最終対決を始める前に…政治家どものデスゲームを最後の段階まで進めなければならない…地元に核を落とされなくなきゃ、そこを動くな」


 ドールアイズは棘つき鉄球のついたままの右手で有働を制し、青い義眼を動かした。


「ゲームが始まって二時間…少し動きはあれども、死人は一人も出ていないようだな。膠着したゲームは退屈だ」


 両目の機械音と共に、大型モニターの画面が世界七十億の人々の様子からデスゲーム続行中の政治家たちへと切り替わる。


 分割された各ブロックのエリアが映し出されるが、確かにどの政治家たちも岩場に隠れたまま動こうとしていないのが見て取れた。


「きちんとルールは理解しているか?あと四時間後にどちらかの国の政治家十二名全員が死ななければ引き分けと解釈し、俺は両国ともに核爆弾を落とす」


 各国の政治家たちは無言で声のする方――、宙を見上げていた。ようやく全員がドローンの存在に気付いたようだった。


「まず一つ。お前らに新しい事実を伝えよう」


 ドールアイズは画面を切り替える。そこに映し出されたのは新バベルの塔の地下シェルターであり、信者たちと離れた場所で黒服に囲まれるようにして怯えている豪華な身なりの老若男女だった。


「ここに参加している全世界の政治家の家族、恋人たちは少し前から、ここ新バベルの塔で保護している。少し前から彼らと連絡がとれなかったはずだ。…全世界に俺の協力者がいる。難しいことじゃない」


 全世界の政治家たちは驚愕した。


 国に残してきたとばかり思っていた愛する家族がドールアイズに人質にされている事実を知って凍り付いていた。


「さて、これでデスゲームで決着がつかずとも、お前ら自身と家族らの命の危険は及ばなくなった…人質は各国の国民だけだ…」


 青い目をした狂人のドアップ――。


「この状況を伝えた上で、ルールの追加だ」


 モニターは再び、岩山で膠着状態のデスゲームの様子を映し出した。


「もちろんこのまま六時間後のタイムアップまで各国、殺し合いを続けるのもいい…」


 画面は中国と米国の様子にクローズアップする。二分割で映り込むダイビングスーツ姿の米合衆国大統領と中国国家主席。双方ともに冷や汗を流していた。


「…だがそれができず膠着状態が続くようなら…埒があかねぇから、ギブアップすることを許す」


「なにを言ってる!!!」


 中国の国家主席――、黄大景が叫んだ。


「私たちに何をさせたい…」


 米合衆国――、トンプソン大統領は苦虫を噛みつぶしたような顔で虚空を睨み据える。


「殺し合いをしている双方の国の政治家同士で話し合いをした結果、両国の合計で八割の政治家がギブアップを宣言すれば、そこでゲーム終了だ」


 青い目の悪魔が大画面いっぱいに映り込み、次にそれを見て嘔吐する政治家たちの姿が映し出された。


「…勿論、お前ら政治家とその家族を殺したりはしない。安心しろ」


 青い目――。


「だがうまい話には裏がある…」


 大画面いっぱいの青い瞳――。


「…ギブアップ宣言をした瞬間ゲームオーバーは確定し、即座に両国の都市部、人工密集地域、インフラ要所に核爆弾が落とされる」


 人形のような青い義眼――。


「無論…お前らの家族が核の炎から生き延びた国民から吊るし上げに合うことはないし、ここ新バベルの塔シェルターで生涯、放射能汚染から守られた安全な暮らしが約束される」


 義眼は機械音を立てて静かに動いた。政治家たちの表情やサーモグラフィを読み取ってドールアイズの脳に情報として送り込んでいるのだろう。


「おいおい、そんな顔をするな…」


 青い双眸は涙を流さないくせに泣いたような色を見せた。


「あと四時間以内に敵国の奴ら十二人を皆殺しにする自信があるなら戦いを続行してもいいぞ。もちろん自分が命を落とすこともあるがな」


 画面からドールアイズが消えた。


-----------------------


 画面は世界各国の都市部を映し出す。


 人々は表情を失いながら成り行きを見守っていた。神に祈る者、ただただ泣きじゃくる者、ウチキングの名を連呼して応援する者。


 そういった様子を俯瞰で映し終えた後しばらくしてペク・ウニョン率いる韓国と交戦中のドイツ――、メンゲルベルク首相が画面いっぱいに映し出された。


「このまま私たちが殺し合いをせず、膠着状態のまま何もしないならば、今すぐギブアップすることと結果に違いはないわね…」


 自らが画面に映し出されてることを承知しながらもメンゲルベルは言った。


「どうしますか。あと四時間…国民を守るために韓国チーム十二名を殺すべくゲームを続けますか、首相」


 若手議員は上空のドローンカメラを気にしながらもメンゲルベルクに訊ねる。


「韓国の男性政治家は若い頃に兵役を終えている手練れたちよ。殺すのに一苦労するわ。たどり着くまでに私たちの誰かが必ず死ぬ」


 メンゲルベルクの言葉に他の十一名が項垂れた。


「ギブアップしますか?」


「あなたの家族は大丈夫?」


 メンゲルベルクは若手議員に聞いた。


「さっきの中継で妻と息子。両親から叔父、伯母に至るまで確認できました」


「そう。私の家族も確認できたわ」


 メンゲルベルクは静かにほほ笑んだ。


「ギブアップは双方の国で行わなければできない。韓国側の気持ちを確認しなければ」


 メンゲルベルクは全世界に自らの言動が中継されているにも関わらずお構いなしに本音を吐露する。


 この中継を通して遠くで構えている韓国チームに交渉を持ち掛けているのだ。


「おいおい…俺たちを見捨てるつもりかよ…」


「やめて…今ギブアップされたら逃げられないわ」


「信じていたのに」


「ウチキング…助けてくれ…」


 モニターは切り替わり、ドイツのミュンヘンに集まった人々が凍り付いている様子が中継された。

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