第26話 オーステルベーク会議

 5月31日(日)

 13時00分―。


 欧州にある某高級リゾートホテル。建物まるごとが貸切にされ、周辺はもちろん、ロビーを含め数百人体制の警護が配置されていた。資本主義に憎悪を燃やす中東の過激派の台頭によってこの十年で警護の人数は倍に増えた。これより三日間、その状態が続く。


 特別大広間は、異様な空気に包まれていた。百人を超す米国、カナダ、欧州の政治家、財界人、外交官、経済学者、マスコミ幹部が、冗談のような巨大な長方形のテーブルを囲み、向き合っている。


 これからここで行われるのは「オーステルベーク会議」と呼ばれる欧米各国を中心とした非公式―、いわゆる裏の首脳会議である。


 本会議の趣旨は一九五四年から変わっていない。世界統一政府の樹立と欧米諸国の繁栄を目的とし、世界における問題を彼らにとって有利に動かすにはどうすればよいかを話し合うのだ。


 上座にあたる会議議長席にゆったりと鎮座するのは、上等なスーツに身を包み、一般の会社員が数十年かけて稼ぎ出すに等しい額の高級腕時計を光らせた、豊かな白髪のふっくらした好々爺だった。彼こそが、齢百歳にして、今も巨大な石油の利権を持ち続けながら、欧州シュミットバウワー家を僅差で押しのけ、世界皇帝の名を欲しいままにしているゴッドスピード家三代当主ダニエル・ゴッドスピードその人である。


 ダニエルのすぐ傍には、甥っ子の第四代当主ジェイムズ・ゴッドスピードが、ダニエル同様にリッチな身なりで飾り立て、うら寂しくなった頭髪を手で整えながら、議長に次ぐ位置に据え置かれた茶色い上等な革張りの椅子に、痩躯を深く沈め込んでいる。


 この日、まだ二人は挨拶以外の会話をしていない。ダニエルは隣に座る自分の半分ほどしか生きていないジェイムズを苦々しい目つきで睨んだ。彼はこの甥っ子を憎んでいる。


 あれは忘れもしない七年前。ジェイムズは、ダニエルがオーナーである金融企業持株会社メトロポリタングループ傘下にあったリーグルブラザーズが倒産するように、当時の大統領および財務長官に公的資金注入にストップをかけ、世界皇帝の座を大きく揺るがした。さらにダニエルの独壇場である石油による火力発電に対し「石油は地球温暖化の諸悪の根源」とのプロパガンダを撒き散らし、原発へとシフトチェンジさせ追い詰める周到さも忘れてはいない。


 いつの時代もそうであったように、名家には骨肉の争いというものが存在する。世界皇帝は常に一人だけでいい。甥っ子は叔父を引き摺り下ろすのに、あの手この手を用いた。


 また、ダニエルとしても一番近くて最悪の敵、目の上のたんこぶとも言える、この甥っ子ジェイムズを追い払い、あと何年か、いや永遠にこの王座に君臨しなければならないと、心を滾らせていた。


(いまに見ていろ。ひよっこめ)


 ダニエルは憎悪をものともしないジェイムズから視線を引き剥がすと、少し離れた右側へ目をやった。


 やがてアジア人と目が合った。微笑み合う。我々は友好関係であると、口にこそしないが視線で交し合う。アジア人の名は劉水(りゅう すい)と言った。中国共産党の上海閥に強いパイプラインを持つ実業家にして、世界の忌避に触れる研究を水面下で行う裏社会の実力者でもあった。裏の通り名はチェルシースマイルと言うらしい。だが、ダニエルは心の中ではともかく、実際には下品なその愛称で彼を呼ばなかった。とはいえ、ミスター劉に連絡をするときはいつも、研究結果を急かすばかりだったが。


 残された時間はもうない。ダニエルは老人特有の気管支を痛めつけるような強い咳き込みをしながら、前屈みになった。「大丈夫ですか、叔父様」とお節介なふりをしたジェイムズが背中をさする。ダニエルはその手を振りほどきはしないものの、嫌悪の表情を一瞬だけ浮かべた。ジェイムズが手を引っ込める。周囲の手前、偽善者でなければならない義務から解放された彼は静かに笑顔を浮かべ、手元の書類に没頭しはじめた。


 会議の内容は、ロシアが米ドルを崩壊させ欧米とNATOの権力構造を弱体化させようとしているのではないかとして議論から始まった。ロシア連邦財務省の第一財務次官がロシア政府の意向をやんわり代弁したのち、出席者からいくつかの質疑応答を求められた。ロシア首相からも信頼が厚い彼は笑顔を絶やさず、のらりくらりとそれに答える。他にもユーロ圏の国債危機についてや、人民元の自由化についてなど経済を論点とした流れが続いていた。それについては百人中、たった二人だけ参加したアジア人―、中国の外務次官が自国の主張を印象が悪くない程度に述べた。その隣ではミスター劉が、瞑想のように目を閉じている。


 著名な経済学者や財界人が唾を飛ばし合う。議長を務めるダニエルは必死に眠気と戦っていた。百年間の宿敵にして、加齢によってここ最近は敗北続きの二番目に最悪の仇敵だ。いつも眠るたび、二度と目覚めないのではないかという恐怖も心にいつも、つきまとうばかりだった。


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「カネの話はもういいだろ。くだらねぇ。さっさと本題に入ろうぜ。白人の会議にも関わらず、今回アジア人のお友達が参加してる理由説明も兼ねてな」


 粗野な風貌の持ち主マイケル・ホワイトがテーブルに泥に汚れたコンバットブーツを乗せながら怒鳴った。金と黒のツートーンの短髪を逆立て、両眼はガラス玉で出来ていて、全身を上等な黒いスーツで固めていた。ダイヤの指輪が五本の指に嵌め込まれ、いつでも人を殴り殺せるようになっている。一見すると不気味なチンピラに過ぎないが、この無法者は親から受け継いだ資産と米国最大手軍事企業CEOの肩書きを持っていた。ちなみに彼が言ったアジア人とは中国からやって来たミスター劉―、チェルシースマイルを指している。


「け、ボンボンが」


 参加者百人のうちの誰かが毒づく。マイケルが毒づいた犯人を探し出そうと舌打ちをする。ボンボンと呼ばれて腹を立ててるのだ。あながち間違いではなかった。脳梗塞が発症し意識不明で入院中の父親から兄を差し置いて何の苦労もなく巨大軍事企業を受け継ぎ、故人ではあるがマイケルの母親もまたゴッドスピード家の近縁に当たるという境遇。それを羨む者は少なくない。実際ダニエルは親戚として少年時代のマイケルに何度か会ったことがある。まだ彼の母親が生きていて、マイケルの両眼がガラス玉になる前のことだった。ダニエルはかつて彼を「マイク」という愛称で呼んでいたのを思い出した。


「ここは話し合いの場だ。テーブルの下の物騒なオモチャを片付けてからでなければ、怖くて怖くて仕方がない。相手から本音を聞きだそうという態度ではないな。アメリカ人らしいといえば、らしいが」


 ミスター劉が、刃物傷のある左端の口を歪めながら笑った。身体を揺すりながら笑うたび顔中に皺が浮かび上がる。頬が高いせいか髑髏を思わせる瞬間があった。チェルシースマイルという愛称にも納得がいく。


 椅子に座ったマイクの右側から黒い銃床部(ストック)はチラと見えていたものの、ダニエルは議長らしく二人を制したあと「マイク、そこに何があるのだね」と言わんばかりにわざとらしくテーブルの下のマイクの足元を見た。そこにはU.S.M16A2ライフルが銃口を下にして立てかけてあった。全長1000mm、重量にして3500gの獰猛な痩躯は、ベトナム戦争に適応すべく貫通力と使い勝手を追求した殺人狂アメリカの合理性を物語っている。5.56mm×45SS109弾薬は弾倉に装填済みと考えていいだろう。


「これまた物騒なオモチャを持ってきたな、マイク。警護連中は敢えて、マッチョな某ハリウッドヒーローよろしくライフルを抱えた君を引き止めなかった。我々は暗黙の了解で、持ち物に制限をかけず敢えて双方の信頼を担保しているんだ。マイク、君がそれを肌身離さずにいるのは恫喝目的でなく、ただのブランケット症候群だからという体裁で多目に見てるんだぞ。君を欧米の重要人物たちを殺戮しに来たテロリストだとは思いたくはない。せめて、もう少しはすまなそうにしてもらえないかね」


 ダニエルは痰の絡んだような声でぼそっと言った。そこには憎悪の感情はない。正直、甥っ子のジェイムズよりも遠縁のマイクに対しては少しばかりの愛着があった。マイクはガラス玉の義眼をこちらに、きょとんと向け、押し黙った。粗暴な彼にも年寄りを敬う礼儀はあるのだと悟った。マイクの裏の通り名はドールアイズ。そう、まさに人形の目は、じっとダニエルを見つめていた。


「じいさん。あんた長くないな。チェルシースマイルの野郎を炊きつける意味がようやく分かったぜ」


 ここ数年で弱まった心臓と肺病を見抜かれたのか、と合点がいき、あの義眼の機械構造はどうなっているのだ、まさかエックス線仕様のレンズを眼窩に埋め込んでいる、なんてことはあるまい。おそらくあの義眼が映したものすべてがどこかしらのサーバーに転送され処理された情報が彼の脳裏に送られてくるのではないか?などとダニエルは思いながら咳を二、三度して俯き黙り込んだ。


「それによ。チェルシースマイル、あんたスーツの右袖にフランス製のプロテクター・パーム・ピストルを隠してるじゃねぇか。骨董市でも開くつもりかオイ。もちろん弾は七発きっかり装填されてんだろ」


 名指しされたミスター劉―、チェルシースマイルは不敵な笑みを浮かべそれをテーブルにゴトリと出した。大きな円盤の先端から銃口が突き出したそれは、19世紀末のアメリカ西部の荒くれ者たちが護身用に隠し持っていたとされる小型の変造銃だった。「ついでに言うと、そうだな。骨董品好きなアンタのベルトはナチスが開発したバックル型ピストルじゃねぇのか。勘だけどよ」とマイク―、ドールアイズは腹を抱えて笑った。チェルシースマイルはそれについては何も答えなかった。


 あと三人、大笑いする者がいた。

 ユダヤ系ロシア人にして、新興財閥(オリガルヒ)の大富豪、通称ノーフェイス。

 ヨーロッパとアフリカの実力者を父母に持つ女傑カラーレス。

 そしてインドからやって来た実業家シャカの三者だった。


 ドールアイズやチェルシースマイルを含むこの五名は、裏社会のえげつない実力者として悪名高く、また世界の覇権を二分する、ゴッドスピード一族、シュミットバウワー一族の両名家のいずれかの遠縁にあたるという共通項があった。チェルシースマイルに至っては彼の妻がアメリカ人で、やはりゴッドスピード家と血縁関係にあった。


 談笑タイムは終わり、議題は「梅島問題」へと突入した。日本や韓国の代表は敢えてここに呼ばなかった。本音で言うとダニエルとしてはチェルシースマイルも呼びたくはなかったが、後ろめたい腹を探られるくらいなら、この場でもうすでに噂として渦中の人である彼に「梅島に眠る永遠の命」を完全否定してもらうことで、やっかいごとから遠ざかりたい気持ちもあり、直前で呼ぶ事にした経緯がある。それに、この会議出席者たちの反応を見れば、世界でどれだけの人間が自分とチェルシースマイルの関係や計画に気づいているのかを知ることもできるだろう、という目論みもあった。


(余計なことは言うな。うまく切り抜けろ。そして、私のためにはやく永遠の命の研究を完成させるんだ。いいな)


 そういう思いのこめられたダニエルの黄色く濁った年老いた眼球が、自分の方をじっと見ているのに気づき、チェルシースマイルは笑顔で頷く。どうやら問題はなさそうだった。


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「梅島の所有権については国際法廷で争うとして、問題になるならば国連が動いて、実効支配している韓国の警察隊を退去させればいいだけじゃないのかね」


 フランスの著名な経済評論家が言った。彼はつい数年前、自国の大統領に働きかけ石油から原発へのエネルギー源のシフトチェンジを進言し政策に組み込ませ、石油王たるダニエルの地位を脅かした裏切り者だった。すなわち、甥っ子ジェイムズの飼い犬であり、ダニエルは彼を苦々しく睨んだ。


「ちょっと、ちょっと待って下さいな。国連を動かすには、国際連合安全保障理事会常任理事国の五カ国のすべてが賛成しなければ動けないのをご存知ですわね?アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国のうちどの国が反対するかは分からないけど…。う~ん、なにやらキムチの香りがするわ。韓国帰りの御仁が一名、この部屋にいるようですけど、その方が五カ国の誰かでないのを祈るだけね」


 お忍びで会議に出席したドイツ連邦共和国の女首相メンゲルベルクがいった。五十を過ぎても女を捨てていない彼女は、訛りのある英語でそう言いながら、老婆のようで少女のような金髪ショートボブに、皺だらけでたるんだ顔を向け艶っぽくダニエルを見つめた。もちろん、ジェイムズの方は一切見なかった。彼女は飼い主が誰なのかを心得ている。


「この私をそんな目で見ないでください。衛星写真を何枚か撮られていたようだが、たしかに私はあの島に何度か足を踏み入れた。それは認めますよ。だが、あくまでお忍びで友人を訪ねていっただけのこと。キムと言ったかな?彼があの島で環境問題についての研究員として雇われたのを知って会いにいっただけです。改めて否定しますが、これは個人的な問題であって梅島の研究施設と我が中国、及び企業は何の関係もない。そもそも、あの島に何があるんですかね?石油ですか。天然ガスですか。バカらしい」


「おい、おっさん。バカらしいのはその発言だ。あの島での研究内容はすでに漏れちまってんだよ」


 ドールアイズが唾を飛ばす。右隣に座ったアメリカ合衆国大統領が、真っ白なハンカチで自らの顔にふりかかったその残滓を拭いた。彼はドールアイズを恨めしそうに睨むこともできず、下を向いている。


「ほう。何だね?この私がニューヨークのどこかの地下ファイトでパンチドランカーになった君のアタマをまともに戻すクスリでも開発してるとでも言うのかね。妄想や推測仮定はけっこうだがね。皆さんもそうだが、事実にない幻想に振り回されて、大事な会議のお茶を濁すのはどうかと思いますよ」


 皮肉まじりのチェルシースマイルの挑発。会場内はしんと静まり返った。


「しゃらくせぇ!ここでぶっ放すぞ」


 ドールアイズは立てかけてあったU.S.M16A2ライフルの銃床部を右肩にかけ、左手で銃身部(ハンドガード)を握り、右手でグリップを握った。すべて一瞬の出来事だった。誰ひとり悲鳴をあげることもできない。すでにセレクターはフルオートに切り替わっている。ただのポースではない。それは明確な殺意だった。ドールアイズがヒキガネさえひけば、弾倉に詰め込まれた三十発の弾丸がゼロになるまで飛び出し、周囲の人間数十名の頭蓋を粉砕し、脳みそを飛び散らせ一瞬のうちに惨殺できるだろう。


「私は怖がりなんだ。そんな物騒なものは、さっさと下ろしたまえ」


 紳士的な口調でチェルシースマイルが両手を上げて降参のポーズを取った。その右隣に座った中国共産党の外務次官はライフルの銃口を見つめたまま、ぎくりと固まっている。

 冷えた時間が流れた。数秒の沈黙が永遠のように思えるほど百名それぞれが氷付けになっていた。ノーフェイスやシャカは必死に笑いを堪え、女傑カラーレスはキリンのように長い睫毛を上下させながら退屈そうに成り行きを見守っている。


「撃っても死なないんじゃないか?あんた」


 ドールアイズの青い義眼が室内灯を反射し煌く。その目に映るものは、怯えたふりをしながら何かを腹に決めたアジアの英傑だった。


「ならば撃って見たまえ。ドールアイズくん。さぁ、やるんだ。そして私の亡骸に謝罪してくれたまえ」


 ドールアイズの義眼から機械音が鳴った。その二つのガラス玉はチェルシースマイルの全身をしばらくじっと見つめている。


「見たところハッタリじゃなさそうだな。よくよく考えてみれば、あんなもんが完成したら、まず最初にそこに座ってるパトロンの爺さんに試してるはずだな。つまり、まだアレは完成してない」


 落としどころを見つけたのか、ドールアイズが銃床部(ストック)を肩からおろし、ライフルの銃口を床に向けた。パトロンの爺さん、という言葉に反応して、大勢がダニエルを見た。ダニエルは溜息をついた。この場に居合わせてようやく確信が持てた。やはりほとんどの人間が自分とチェルシースマイルの関係性や「あの計画」について認知しているようだ。


「あの…さっきから君たちは何の話をしてるんだい?僕に理解できるように噛み砕いて説明してくれよ」


 ノーフェイスが無精ひげを撫でながら言った。誰もが口にしようとしない言葉を、誰かが口にするのを期待しているようだった。だが、自分がその一人目になることだけは頑なに拒んでいる。


「ロシアの顔なし野郎。てめぇマジで言ってんのか?わざとらしいカマ野郎が。てめぇも虎視眈々と狙ってるらしいじゃねぇか」


 ドールアイズが獣のような声で怒鳴り散らす。ノーフェイスは苦笑いを浮かべ手を振った。今度はノーフェイスに向けてライフルを担ごうとするドールアイズをやんわりと制止して、次に口を開いたのはアメリカ合衆国大統領エイブラハム・オブライアンだった。


「その辺で口を慎みたまえホワイトくん。…とは言え彼が苛立つ気持ちが理解できなくもない。もう回りくどいのはやめよう。私たち全員が分かってるはずだ。あの島には何があるかを」


 オブライアンは米国初の黒人大統領だった。「改革を!そう!私たちがやるんだ!」がキャッチコピーの彼は、この重苦しい空気の中で閉ざされた禁句の鍵を開ける役割を買って出た。本来であれば、与党の資金源であり、彼の飼い主の一人でもあるドールアイズに「口を慎みたまえ」などとは言えない立場だったが、彼は世界超大国のリーダーらしくそれをやってみせた。この場面ではそれが必要だと理解しているドールアイズは気を悪くするようでもなく、にやりと笑い着席した。


「永遠の命の源、でしょ?」


 にべもなく口を開いたのは女傑カラーレスだった。この場内において、ただ一人、下着のような薄手の白いワンピースで身を包み、褐色の豊満な体を見せつけていた彼女は、目立ちたがり屋らしく禁句を口にした。

 彼女の出自は特殊で、ヨーロッパと南アフリカに強いパイプラインを持っていた。彼女は、ゴッドスピードと世界の覇権を二分する、欧州帝王シュミットバウワー家代表、イギリス貴族ヤコブ・シュミットバウワーを父に持ち、金やダイヤモンド、レアメタルといった地下資源を牛耳る南アフリカの権力者の娘を母に持つ、いわゆるムラート(白人と黒人の混血)の女傑だった。

 今回、本会議には父であるヤコブ・シュミットバウワーの代わりに出席という体裁ではあるが、各国要人への初お披露目の意図もあっただろう。有色人種を嫌悪する欧州メンバーですら、元を辿ればイギリス王室にも血筋が繋がるとされる彼女には頭があがらなかった。


「死なない人間をつくってるんでしょ?梅島で」


 カラーレスはネイルを塗りたくりながら言った。白のワンピースからは尖った乳首が浮き上がっている。沢山の視線が集まり性的興奮を覚えているのかもしれない。


「相変わらずだな。下着の中は大洪水じゃないのか?てめぇは一体、どこの国とファックするんだ」


 彼女に軽口を叩く男は一人しかいなかった。ドールアイズだ。下品なジョークに顔をしかめる欧州の上流階級層を尻目に、多数が渦中の人間であるチェルシースマイルが何を語るのかに注目した。


(余計なことは言うな。否定はし続けるんだ。いつぞ、永遠の命が実用化されても、梅島とは無関係と言い張る為にも、牙城は崩すな)


 ダニエルは、端正なチェルシースマイルの横顔をじっと見つめた。だが、彼からは何の反応も無かった。


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「仮にもそんなものが完成したらどうなるかを言わせてくれ!世界はめちゃくちゃになる!」


 赤ら顔で巨大ウィンナーのような鼻に汗を滲ませ口を開いたのはイギリスの経済学者だった。そして先ほどの発言だけでは言い足りないのか、再び口を開いた。


「君ら強欲な蛮人が行っている研究は、神を愚弄し世界を破壊する行為だ!」


 信仰心の厚いイギリスの経済学者は中国人―、チェルシースマイルを大声で罵倒した。かすかに握りこぶしが震えている。彼は争いごとには慣れていないのかもしれない。議長であるダニエルは「その辺にしたまえ」と制しつつも罵倒されたチェルシースマイルを見た。彼の方には動じた様子はない。


「では私も仮定の話に付き合いましょうか。あの梅島は関係ないとしても、どこかの製薬会社が生命の神秘を研究して、いずれ解明される時代が来るかもしれない。いずれにせよあの島は関係ないとしての仮定、持論ですが」


 チェルシースマイルは左端の口唇を歪め、薄く笑うと、テーブルに左右の手を組みなおし、居住まいを正しながら言葉を続けた。


「人類の起源はアウストラロピテクスに始まり、何度も何度も目まぐるしい進化を重ねてきた。…だが今から30万年前、増えすぎた旧人類は大きな選択を迫られることになる…いわゆる棲み分けです。そこで彼らの選択こそが滅び行く旧人類と新人類の大きな分岐となった」


 チェルシースマイルは百名余の参加者を見渡した。ここに信仰を持つ者がどれほどいるかは分からないが進化論に水を差すものはいなかった。


「ある大陸に渡ったものたちはネアンデルタール人へと進化するものの、旧人類の劣悪な遺伝子を受け継いだまま環境に適応できず絶滅した。そして別の大陸に渡ったものたちはヘルト人へと進化し、知性…いわゆる知恵の実を手にし、災害や気候の変化、病といった困難を乗り越え、新人類として環境に適応し今の我々へと命を繋いでいった。つまり人類とは進化の歴史です。永遠の命が手に入ったならば、それは神に赦された新しい進化と言えましょう。自然な成り行きです。あくまでそんなものが存在すれば、の話ですがね。進化できず滅びるか。新しい進化を手に入れるか。あなた達はどちら側につきますか?間違いなく言えるのは、神に背く者は淘汰されるということです」


 言い終えると、バン!とテーブルを思い切り叩きチェルシースマイルは笑った。一同はその破裂音に固まる。誰しもが目の前の不気味な中国人の言葉の裏を考えていた。


(余計な事を…少なくとも全否定とは言えないような危うい挑発をしおって)


 そんなダニエルの苦々しい思いをよそに、沈黙の時間がひたすら無為に流れた。


「国連は動かせない!日本も憲法九条があるから対処すらできない!うまく韓国を飼いならして利権に預かったなクソ中国め!」


 怒鳴り声が聞こえた。声の主はドールアイズだった。彼の言葉は正しい。誰一人として梅島には手出しをできない。ひとりとして言葉を発せなかった。

 そしてこのチェルシースマイルの発言は、中華人民共和国の国家主席―、周遠源(しゅうえんげん)の意向をそのまま反映したものと考えていい。誰もがこれは中国から世界に対する宣戦布告なのだと理解し、これまでの各々の価値観、倫理観、宗教観を心の中で反芻し、この恐るべき問題に対しどう対処すべきかを思案していた。

 やがて会議終了の定時を知らせる議長席のタイマーが鳴った。ダニエルは時計の分針が沈黙の間に十六ほど進んでいるのに気づいた。


「では、明日も早いので失敬。皆さん御機嫌よう」


 チェルシースマイルは、裂けた左端の口唇に冷えた笑みを浮かべ、胸元で十字を切ると、席を一番最初に立った。次に席を立つ者はいなかった。だが、渦中の人物がいない会場で、問題について談合しようとする者は不思議と現れなかった。あのアメリカ合衆国大統領オブライアンですら、げっそり落ち窪んだ目をコーヒーカップの中に注ぐだけだった。


(何はともあれ、私の勝ちだ)


 議長席で噎せかえるふりをしながら、ダニエルは笑いを堪え手で顔を覆いながら二度か三度、身体を揺らした。皆の怯えた視線が集中する。研究が完成すればじきにこのやっかいな咳ともおさらばできるだろう。皆から畏怖を得た世界皇帝は「私は大丈夫だ」といわんばかりに手をパタパタと振る。


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「グランパ、あんな中国人より私たちドイツに便宜を図ってよ!永遠の命なんて一国が独占したらダメよ。地図さえ読めないあんな侵略国家ならなおさらダメ…」


 会議を終えたダニエルの部屋のベッドで、そう叫びながらドイツの女首相メンゲルベルクが跨っていた。女体の面影を残した岩のような脂肪の固まり。グランパと呼ばれたダニエルがそっと見上げると、暖色の薄明かりの中で女史の顔は皺だらけの弛んだ顎が怪奇映画を思わせたが、何も恨み言を漏らさず目を瞑り、軟体生物のような腰使いに百年選手の股間の鋼鉄ジョニーを委ねた。先端から高貴な血族の雫が滲み出ているもののパージには程遠い。


「カッチンカッチンね?たっぷり中にパージして」


 しゃがれた声で高貴な売女は言った。彼女はこの百歳の老人の愛人も同然だった。こうして自ら悦びつつも、濃厚なベッドでのサービスをする義務は余りあるほどあった。

 なにせ、州首相や連邦議会議員団長の経験もなく党内権力基盤が脆弱だったメンゲルベルクを、キリスト教民主主義・保守の大政党の党首へと押し上げたのはダニエルであり、そのおかげで彼女は前首相から四議席差で議会第一党をもぎとり、遂にはドイツ一の権力者に成り上がることができたのだ。また一方ダニエルとしてもシュミットバウワーの息のかかった前首相を追い出す事ができて、相互の利害一致の目的は果たされたというオチもつく。


「ああ、すごい!私の方が先に来ちゃうかも」


 メンゲルベルクの「カミング」という単語に力がこもる。ダニエルは薄く笑みを浮かべるが突如、ベッドの脇に置いてあった黒いボックスの一部分のランプが、赤く点滅した。


「そのまま動いていなさい。私はちょっとイヤホンをさせてもらうよ」


 ダニエルはボックスから伸びるイヤホンを左右の耳の穴にねじ入れた。赤い点滅の意味するもの―、全室にしかけておいた盗聴器のうち、ロシアのオリガルヒであるノーフェイスの部屋から会話の反応があったのだ。部屋番号のスイッチを押して、ダニエルは会話内容に聞き入ることにした。

 メンゲルベルクはそんなのはお構いなしに、自らの快楽の為に腰を振る。シーツが水浸しになって冷たい。だが、メンゲルベルクが腰使いを強め、雌の鳴き声を強める中、ダニエルは盗聴器から流れ出る音声に集中した。


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 盗聴により解明した事実。


 ノーフェイスの部屋には、ヨーロッパとアフリカを牛耳る女傑カラーレスが招かれていた。ダニエルとしては会議中に乳首を尖らせていた跳ね返り娘が何を言うのか興味があった。事実、彼らの会話がロシアと欧州の未来のを暗示する材料と成り得るのも承知している。

 彼ら若い男女は「何か」をしながら、会話していた。ダニエルは苦笑するしかなかった。それでも彼らの会話に意識を集中する。時折、粘膜の擦れ合うような粘着質な音声が混ざっていたし、会話をしている男女の声色も変則的に震えていたが、会話の内容は以下のものだった。


「これからどうするつもり?北朝鮮側にロシアがついてるのは分かるけど、梅島からは遠いわ」


「それなら大丈夫。ロシア政府は北朝鮮に指示して、韓国に南北統一の交渉を水面下で進めさせている。もちろん南に向かって核ミサイルをチラつかせた状態でね。固く口止めしてあるから中国にはまだ漏れていないはずだ。彼らの耳に入るのは全てがまとまってからさ」


「核ミサイルなんか突きつけて…そんなの脅しじゃない」


「もちろんこのまま追い詰めすぎればすぐに中国に泣きつくだろう。だから韓国を恐怖のみで交渉するつもりはない。そしたらね、誠意をもって僕らがきちんと交渉を進めるうちに、彼ら韓国にとっても悪いことばかりじゃないと気づき始めたようだよ」


「何を条件に出したのよ?」


「まず、梅島をアメリカから守るには中国とロシアが軍事同盟(て)を結ばねばならないと説得した。そしてもう一つ。彼ら南が北との統一を渋る要因として移民大量発生のリスクや社会インフラストラクチュア整備による巨大コストの発生といったものがある。かつてのベトナムやドイツのように統一後の混乱を怖れてるのさ。そこで僕らは南北統一後も、一国二制度の北朝鮮と韓国それぞれに特別行政区基本法委員会を設けて、国家連合制の色合いを残しつつ、梅島の共同管理を提案したんだ」


「もっと詳しく聞かせて」


「貧しい北朝鮮との統一なんて自国に何の旨みも無いじゃないか、という韓国側の主張に譲歩して、ロシア政府介入の移民政策に加え、立法、司法、財政など国家主権の多くを留保した状態で、唯一梅島だけは双方で管理しようという連合制の色合いの強い提案をしたのさ。当初やはりというべきか韓国の旨みに与りたい北朝鮮としては連邦制を主張していたが、梅島利権の分割を条件に連合制で妥協してもらった。中国には事後承諾的に容認させることになるけど、北朝鮮と韓国それぞれの主権は以前と変わらないままに、梅島に関しては、ロシア、中国、新朝鮮国の三カ国軍事同盟で鉄壁を固め、各国あわせて一万三千二百五十発の核弾頭を楯にしてアメリカや日本が手出しできないようにするつもりさ」


「アメリカ一国による世界の覇権が終わろうとしているのかしら?」


「まぁ我々が利権を貪り尽くした後に彼らにも骨くらいは与えてやるさ。君たちヨーロッパ勢は一枚岩とは言えないまでも、シュミットバウワー家の息がかかった政治家も多いよね。アメリカを孤立させるためにも、NATO軍の要となる核保有国のイギリスとフランスだけは抑えておきたい。父上に口を利いておいてくれないか」


「梅島での利権をきちんと均等にするというなら…パパに頼んでみてもいいわ」


「その辺は協議していこう。そろそろ僕の天然エネルギーが噴出しそうだ!」


 やがてグポという何かが穴から溢れ出すような湿った音がしたあと無音になった。若い二人の荒い息遣いだけが時折聞こえてくるだけで、接吻を貪る二人の男女にそれ以上の会話は無かった。


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「えらいことだ。南北統一などあってはならん!梅島を守る軍事同盟だと?ふざけるな!永遠の命は私だけのものだ…!ミスター劉に連絡を取らねば!くそ!さっさと、そこをどけドイツ女め!」


 そう搾り出すように怒鳴ったが、皮肉にも百歳にして現役選手であるダニエルの分身―、鋼鉄ジョニーが気に入ったのか、メンゲルベルクは我を忘れ上下運動に勤しんでいて結合部から湿った粘膜の音がうるさかった。「この石のように重い女をどけねば」そう思い上半身を起き上がらせようとした瞬間、ダニエルの心臓に鋭い痛みが走った。


(胸が苦しい…、た、助けてくれ)


 痛みに抗いながら再びメンゲルベルクを見た。だが彼女は白目を剥いたまま、ぎっちぎっちと音を立ててロデオを愉しんでいる。その不恰好な肥満体の身体が揺れるたび、二人の結合部から粘着質な音が部屋に響き渡るのを忌々しく思いながらダニエルの意識は遠のいた。


(くそ…誰にも永遠の命は渡さんぞ…私だけのものだ)


 思考に霞がかかったままダニエルは、自らの野望を邪魔する連中に、声にならない声で呪詛を吐いた。

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